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「古事記」中之「黃泉國」的性格與角色

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Academic year: 2021

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(1)『古事記』における「黄泉国」の性格と役割. 鄭家瑜*. 要. 旨. 伊邪那美命は火神を生むために死んでしまい、「黄泉国」へ赴いた。伊邪那 岐命は妻を連れ戻そうとして「黄泉国」に向かった。しかし、彼は待ちきれな くて、覗き見禁止のタブーを破り、腐っている妻の姿を覗いてしまう。そのた めに、追跡される羽目になった。最後に彼は巨石で黄泉比良坂を塞ぐことによ って、無事に地上世界に逃げ帰った。 以上は『古事記』における黄泉国神話のあらすじであり、日本ではよく知られ ているものである。にもかかわらず、記紀と併称されるもう一つの『日本書紀』 には黄泉国説話が述べられておらず、「黄泉国」という用語も存在しない。書 紀には「一書曰」として伊奘冉尊の死にまつわる話が記されているが、やはり 「黄泉国」という用語が認められない。すなわち、「黄泉国」とは『古事記』 独自の用語であり、この用語が象徴する世界は『古事記』独自のものだと考え られるのである。 ならば、このような『古事記』にしか認められない「黄泉国」が、果たして どういう性格を持っているのか、この世界を通して、『古事記』が何を語ろう としているのかなどの問題を追究することは、『古事記』の特性と構造を解明 するのに重要な手掛かりとなろう。したがって、本稿では『古事記』の構造を 解明する作業の一環として、「黄泉国」の問題を取り上げ、「黄泉国」の性格 と『古事記』においての役割を追究してみたい。 キーワード:黄泉国、対照関係、役割、性格、独自の用語. *. 明道管理学院応用日本語学科助教授.

(2) 第二期(2007 年 3 月). 一、 始めに 『古事記』神代巻には次のような記事がある。 伊邪那岐命と伊邪那美命は地上世界で国々・神々を生んでいたが、国生み・ 神生みの事業がまだ終わっていないうちに、火の神を生んだために伊耶那美命 は死んでしまい、「黄泉国」に赴く。伊耶那岐命は妻を連れ戻すために、「黄 泉国」に向かったが、妻は既に「黄泉国」の食べ物を口にして地上世界に戻れ ない。だが、せっかく夫が尋ねにきたので、妻は黄泉神と相談することになっ た。そのうちに、伊耶那岐命は待ちきれなくて、妻を覗いてしまう。そのため に、黄泉軍、黄泉醜女と伊耶那美命に追いかけられることとなった。最後に千 引石で黄泉比良坂を塞ぎ、妻の伊耶那美命と別れの言葉を交わして、地上世界 に逃げ帰ったという。 これは『古事記』に述べられている黄泉国神話であり、日本ではよく知られ ている話である。この話は日本神話に関する書籍は勿論のこと、絵本の中にも 散見する。さらに、今の世で流行っているコンピューターのゲーム等にもこの 話を素材としたものが多く見られる。しかし、「黄泉国」という用語は、実に 記紀と併称されるもう一つの『日本書紀』にさえ見えないものであり、『古事 記』にのみ存在している。この点を明らかにするために、記紀における黄泉国 説話を次のようにまとめてみた。 ①『古事記』. 該当説話あり。(関連用語:「黄泉国」「黄泉戸喫」「黄 泉神」「予母都志許売」「黄泉軍」「黄泉比良坂」「黄泉 津大神」「黄泉戸大神」). ②書紀本文. 該当説話なし。. ③書紀一書 第一~五の一書. 該当説話なし。. 第六の一書. 該当説話あり。(関連用語:「黄泉」「飡泉之竈」「泉津 平坂」「泉津醜女」「泉門塞之大神」). 第七の一書. 該当説話あり。(関連用語:「飡泉之竈(譽母都俳遇比)」 「泉津平坂(余母都比羅佐可)」「醜女(志許賣)」). 第八の一書. 該当説話なし。. 第九の一書. 「殯斂之處」。黄泉の関連用語なし。. 第十の一書. 該当説話あり。(関連用語:「泉国」「泉平坂」「泉津事. 解之男」) 第十一の一書. 該当説話なし。. ここにおいて、いくつか注目すべき点がある。 204.

(3) 『古事記』における「黄泉国」の性格と役割. まず『日本書紀』において、編集の態度を示す本文には、該当の説話が述べ られていないことである。この点で記と紀とは対照的である。ここで、なぜ『古 事記』が黄泉国説話を大きく取り上げているのかが問題となる。 そして、 『日本書紀』の一書には該当説話が認められるが、用語としては「黄 泉」か「泉国」(ヨモツクニ)が用いられ、「黄泉国」という呼称は存在しな い。すなわち、『日本書紀』の本文にも一書にも「黄泉国」という用語が認め られないのである。ここからも、「黄泉国」とは、『古事記』独自の用語であ り、この用語が象徴する世界は『古事記』独自の世界であると理解しなければ ならない。 また、書紀の用語の不統一に対して、『古事記』で記される用語には、予母 都志許売を除いて、すべて「黄泉+名詞(国、戸喫、神、軍など)」という形 を取っている。このことからも、『古事記』には用語の統一性を認めることが できるのである。これは『古事記』における黄泉国説話の高い完成度を示唆し ていよう。このように考えると、黄泉国説話には意図的に作られた部分があり、 そこに用いられた用語は単純なものではなく、何かの意義を持っていると見て よかろう。 であるならば、果たして「黄泉国」という呼称が何を意味しているのか、 『古 事記』にしか認められない「黄泉国」がどういう性格を持っているのか、この 世界を通して、『古事記』が何を語ろうとしているのか、などの問題を追究す ることは、『古事記』の特性と構造を解明するのに重要な手掛かりとなろう。 したがって、本稿では『古事記』の構造を解明する作業の一環として、「黄泉 国」の問題を取り上げ、「黄泉国」の性格と『古事記』においての役割を追究 してみたい。. 二、『古事記』における「黄泉国」の性格 さて、伊耶那岐命と伊耶那美命は、神世七代の最後の一代として天上世界の 「高天原」に現れた。 「高天原」の諸天神の命令で国々と神々を生み出したが、 火神を生むために伊耶那美命が死んでしまい、「黄泉国」に入った。 この話で描かれている「黄泉国」は伊邪那美命が死後赴いた世界であること が明らかである。死んだ女神の行く場所として存在しており、それ自体が「死 の世界」であるに違いない。「黄泉国」の「死の国」としての性格は他に「事 戸を度す」(離別の言葉を言い渡す)の場面からも伺える。「事戸を度す」の 場面では、伊耶那美命は「愛しき我がなせ命、如此為ば、汝の国の人草、一日 に千頭絞り殺さむ」と言う。これに対して、伊耶那岐命は「愛しき我がなに妹 の命、汝然為ば、吾一日千五百の産屋立てむ」と返事をした。ここにおいて、 生の呪術は「葦原中国」にいる伊耶那岐命が司るものであるのに対して、死の 呪術は「黄泉国」にいる伊耶那美命が司るものだと語られている。「黄泉国」 205.

(4) 第二期(2007 年 3 月). の住人である伊邪那美命が「死」の呪術を司る以上、伊邪那美命の居場所であ る「黄泉国」は「死」のイメージが充満している世界であるに違いない。すな わち、「黄泉国」自体が一つの「死の国」として見ることができよう。 このように、『古事記』における「黄泉国」について、まず「死の世界」と いう性格を取り上げることができよう。 続いて、伊邪那岐命は死んだ妻を連れ戻そうとして、 「黄泉国」に到ったが、 好奇心で「黄泉殿」で火を付けて伊耶那美命を覗いた。この段は、「黄泉国」 の暗黒さを物語っている。それは伊耶那岐命が火をつけなければ、伊耶那美命 の行動が見えなかったことから明らかである。以上のように、「黄泉国」は死 者の世界だけではなく、それ自体が一つの闇の空間として存在しているのであ る。 しかし、『古事記』において、「黄泉国」は単なる漠然とした死後の世界ま たは闇の空間として描かれているのではない。 伊邪那美命は当初伊邪那岐命と天神の命令を受け、地上世界を固め整え、 国々と神々を生んだ。だが、地上世界(後の「葦原中国」)で日本の諸島と大 自然の諸神を生み出した大母神の伊邪那美命は死後、「黄泉国」に行ってしま った。ここでは「葦原中国」が死の世界ではなく、「黄泉国」こそが、死の世 界であることが示されていよう。さらに、「黄泉国―葦原中国」という対照関 係がここにあったことが指摘できよう。 なお、伊邪那岐命は「黄泉国」から逃げ出そうとしていたとき、「爾伊耶那 岐命告桃子、汝如助吾、於葦原中国所有宇都志伎青人草之、落苦瀬而患惚時可 助告、賜名号意富加牟豆美命 。」と桃に言った。この段において、「葦原中 国」が青人草の世界、現実の人間の国として描かれているのである。さらに、 伊邪那美命の発言は死者の世界としての「黄泉国」を意識した上でのことだと 考えられるが、ここからも、「葦原中国」と「黄泉国」との対照関係が伺われ る。 これだけではなく、「事戸を度す」の場面では、「黄泉国」にいる伊耶那美 命が死の呪術を司るのに対して、「葦原中国」にいる伊耶那岐命が生の呪術を 司ることが記されている。ここにもまた「黄泉国対葦原中国」という関係が存 在しているのである。 このように、黄泉国説話には「葦原中国―黄泉国」という対照関係が認めら れる。 ただし、ここで一つ留意する必要があるのは、「葦原中国―黄泉国」が成し ている対照関係の性質は必ずしも単純ではないという点である。なぜなら、伊 耶那美命・伊耶那岐命はともに「高天原」の「天津神」であり、この二柱の「天 津神」の出現がなければ、「葦原中国―黄泉国」の二者対置の関係は無論存在 しないからである。すなわち、「葦原中国―黄泉国」の二者対置の関係におい て、「高天原」という第三者が内包されていると言える。大林太良氏はかつて 206.

(5) 『古事記』における「黄泉国」の性格と役割. 「高天原の天津神は、幽・死に対する顕・生の対置において媒介者的な役割を 演じているのだ」1と指摘したことがあるが、氏の指摘は首肯できよう。 それに、伊耶那美命は「高天原」の天津神であるにもかかわらず、死後故里 の「高天原」に戻らなかった。この点からも、「黄泉国」と「葦原中国・高天 原」という対照関係を窺うことができよう。さらに、伊耶那美命は「黄泉国」 に入り、「黄泉津大神」となり、伊耶那岐命は「黄泉国」から地上世界に戻っ てきた後、「伊耶那岐大神」または「伊耶那岐大御神」(三貴子誕生の条と分 治の条にて)となった。そして、「天照大御神」を生んだのだが、ここにおい ても「黄泉津大神」対「伊耶那岐大神」「天照大御神」、つまり、「黄泉国対 葦原中国・高天原」の関係を見出すことができよう。 以上のことから、「高天原」は「葦原中国」と「黄泉国」の間に介在し、重 要な働きをしていることが分かるだろう。逆に言えば、「葦原中国―黄泉国」 とは、 「高天原」という第三者を内包するという二項対立の関係とみなせよう。 要するに、『古事記』における「黄泉国」は、「高天原・葦原中国―黄泉国」 という構図の中にある、「高天原・葦原中国」と対照的な存在としての「死者 の国」と捉えることができる。 ここで、「高天原」と「葦原中国」との関係について少し触れる必要があろ う。『古事記』は次のような書き出しから始まる。 天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神、次高御産巣日神、次神産 巣日神。此三柱神者並獨神成坐而、隱身也。次国稚如浮脂而、久羅下那州 多陀用弊流之時、中略、於是天神諸命以、詔伊耶那岐命・伊耶那美命二柱 神、修理固成是多陀用弊流之国、賜天沼矛而、言依賜也」(下線筆者) ここにおいて、『古事記』における「国」(「葦原中国」)という世界は、 天地の始まったときに、「天」(「高天原」)と対照的に存在しているにもか かわらず、天神(「高天原」)の命令及び伊耶那岐命・伊耶那美命二神の実質 の「働き」によって、その形が完成されたと認められるのである。要するに、 『古事記』の冒頭には「高天原」の「葦原中国」に対する「統治権」について 語ろうという意図があったと言えるのである。このような「統治権」は後に天 孫降臨によって実現される。つまり、「高天原」と「葦原中国」とは対照的な 存在でありながら、天孫統治という原理に収束されると言える。この二つの世 界は二つの次元だったが、天孫降臨によって、一つの次元に変わったと考えら れる。要するに、天孫降臨というプロセスを通じて、「高天原」と「葦原中国」 が一元化とされたと見られる。本稿で「高天原・葦原中国」と表現したのは、 この理由に基づいている。. 1. 大林太良(1975)『日本神話の構造』弘文堂 207.

(6) 第二期(2007 年 3 月). このような「高天原」と「葦原中国」の関係を理解した後、「黄泉国」に関 する性格の検討に戻るが、「黄泉国」の性格は決して前述した「暗黒の世界」 と「死者の国」というイメージに止まらない。物語の中で、火をつけた伊耶那 岐命は、腐敗し、蛆にたかられている妻の姿を見て恐れをなし、逃げ帰ってお り、さらに、無事に逃げ帰った後も、 「吾者至於志許米志許米岐穢国而在祁理。 故吾者為御身之禊而」 (私は何といやな、汚らしい国に行っていたことだろう。 その穢れを清めるため私は身体の禊をしよう)と言って、日向に赴いて禊祓い を行っているが、「黄泉国」が穢れの多い国でなければ、禊祓いは行われない だろう。ここからも、「黄泉国」が汚れた穢れの多いという性格を持っている ことは、物語自体から明確に示されていると言えよう。つまり、「黄泉国」は 「暗黒の世界」および「死者の国」だけではなく、また汚れた穢れの多い国な のである。 一方、「生」があれば、必ず「死」がある。「死」があったからこそ、「生」 があり得る。これは死生観における普遍の原理である。言い換えれば、「生」 と「死」は一つのものが持つ二つの側面であったに過ぎないと言える。この原 理に従えば、「死者の国」は同時に「生」のエネルギーを孕む所でもあり得る のである。 にもかかわらず、黄泉国説話における「黄泉国」は、完全な死の国として描 かれている。たとえば、伊耶那美命は生の呪術を司っておらず、死の呪術のみ 司っている。それに、地上世界と「黄泉国」の間の通路としている黄泉比良坂 は、千引石によって塞がれてもいる。そのために、黄泉醜女などの「黄泉国」 の住人は、現世に来ることができない。同時に、地上世界の人々が伊耶那岐命 のように生きたままで「黄泉国」に行くこともできなくなる。すなわち、死者 の再生の道は断たれてしまうのである。これらの状況の記述からも、 『古事記』 の「黄泉国」が完全な死の国で、再生の機会の存在しない国と規定することが できよう。 ただし、暗黒の完全な死の国であるとしても、「黄泉国」には、空間(黄泉 国)があり、食べ物(黄泉戸喫)もあり、主宰者(黄泉神)と外の構成員(黄 泉醜女、黄泉軍など)もいる。土地、食物、統治者、住民と、一つの国を作る のに揃えるべき要素は全て揃っている。いわば、「死者の世界」は現実の世界 を髣髴させる空間と言えるのである。黄泉国説話における土地、食物、統治者、 住民に関わる描写は、あの世がこの世の延長線上に存在していたという古来の 信仰の反映と見なせよう。 なお、『古事記』には『日本書紀』のように「黄泉」か「泉国」という用語 が認められず、黄泉国説話には終始一貫して、「黄泉国」という呼称が用いら れている。ここからも、『古事記』における「黄泉」の世界は、黄泉「国」と 規定されており、「葦原中国」「根之堅州国」「常世国」と同じく「国」の次 元に属していると捉えられよう。それと同時に、この世界は既に「闇の世界」 208.

(7) 『古事記』における「黄泉国」の性格と役割. や「死者の世界」などの意義を超え、『古事記』の空間の構造に深く関わって いる「国」の次元として受け取るべきではないか。 以上の考察から、『古事記』における「黄泉国」の性格について、次の三点 が指摘できよう。 (一)「高天原・葦原中国」と対照的に登場する「国」の次元としての国。 (二)暗黒の汚れた穢れの多い国。 (三)再生を拒否する完全な死者の国。. 三、『古事記』における「黄泉国」の役割 さて、以上に述べた性格を持つ「黄泉国」は、果たして『古事記』では如何 なる働きを有しているだろうか。この問題について、まず「高天原」の至高性 を浮き彫りにする点が挙げられよう。 前述したように、「黄泉国」は、「葦原中国」のみならず、「高天原」との 間にも対照関係を成している。「高天原」の性格については、既に論じた2よ うに、万物を超越し、無条件に存在する天上の世界および万物の源であり、太 陽神の存在する神聖かつ光明な世界である。さらに、天地の秩序を定める至高 の世界で、地上王権の由来としての世界なのである。 このような「高天原」の性格を念頭において、再び「黄泉国―高天原」とい う関係を見てみれば、「黄泉国」が持つ絶対的な死という性格は、まさに「高 天原」が持つ絶対的な生、つまり万物の根源としての「生」の性格を強調する ものとなろう。言い換えれば、「黄泉国」という絶対的な死の国が存在するこ とによって、「高天原」という絶対的な生の世界の存在が確認されると言える のではあるまいか。 これだけではない。「黄泉国」の「暗黒」「汚れ」「穢れ」という性格もま た、「高天原」の「光明さ」「神聖さ」「清浄さ」を強調することになる。「絶 対的な暗黒」があったからこそ、「絶対的な光明」が存在しうるのである。こ の原理もまた伊耶那岐命の禊祓いに繋がっていよう。 禊祓いの場所は、日向の橘の小門にある阿波岐原に選定されたが、その理由 は、「日向」が「日に向かう地」だからに他ならない。伊耶那岐命は、絶対的 な暗黒の世界から逃げ帰って、日向に赴き天照大御神を始めとした三貴子を生 み出した。ここにおいて、「絶対的な暗黒」及び「絶対的な穢れ」があったか らこそ、「絶対的な光明」及び「絶対的な清浄」という性格をもつ天照大御神 が現れうると理解できまいか。要するに、黄泉国説話の深層には、「絶対的な 暗黒」と「絶対的な光明」、「絶対的な悪」と「絶対的な善」という二元対立 2. 「高天原」の性格について、詳細は拙論(2005)「『古事記』における高天原」(『日. 本語日本文学』第三十輯. 台湾私立輔仁大学)をご参照ください。. 209.

(8) 第二期(2007 年 3 月). の関係が存在しているのである。この二元対立は、天照大御神と「高天原」を 強調する『古事記』の主旨に繋がっており、重要な意義を持っていよう。 一方、三貴子の誕生については、伊耶那美命の死をきっかけとし、伊耶那岐 命が「黄泉国」を尋ね、それによって三貴子を生んだとある。すなわち、黄泉 国説話は三貴子の誕生の契機として捉えられるのである。その上、至高神とし ての天照大御神の「神聖さ」「清浄さ」「光明さ」も、伊耶那岐命の「黄泉国」 訪問や禊祓いによって保証されている。このことからも、黄泉国説話は天照大 御神の「異常誕生」の条件を「提供」したものと言えよう。 これに対して、『日本書紀』本文における三貴子は冉尊・諾尊の子として生 まれた子であり、『古事記』のような「異常誕生」の要素が認められない。さ らに、天照大神の誕生においては、この神は日神として登場しており、名は「大 日孁貴」であると記されている。すなわち、「天照大御神」という呼称は書紀 本文には存在しない。割注に「一書云、天照大神。一書云、天照大日孁貴」と あるが、ここでも「天照大神」であり、「天照大御神」ではない。「御」とい う字の使用と異常誕生の要素は、天照大御神を重要視する態度を示しており、 『古事記』が天照大神重視の傾向を有していたことは明らかだと言えよう。さ らに、それは天照大御神を天地の至高神として立てようとする『古事記』の原 理にも繋がるのである。 また、書紀には、冉尊・諾尊両神が当初に「天下の主」を生もうとするため に、日神・月神・素箋鳴尊を生んだとある。結果として日神と月神は天上に送 られ、素箋鳴尊は根国に送られたので、実際には「天下の主」はいないことに なるが、当初三貴子が、冉尊・諾尊が「天下の主」を生もうと意図した上で生 まれた存在であることが確認できよう。これに対して、『古事記』では、伊耶 那岐命が「天下の主」を生むために三人の子を生んだとは記されていない。ま た、三貴子の分治の条でも、須佐之男命が「海原」、天照大御神が「高天原」、 月読命が「夜の食国」と、三人の子は「海」と「天」の世界の統治者として現 れており、明らかに「天下の主」ではない。これら三貴子の誕生及び分治説話 を通して、はじめから「天下の主」が『古事記』に設定されていなかったこと が窺えよう。ここにおいて、『古事記』には、「天下の主」に該当する地上世 界を統治する存在に、天照大御神の子孫、つまり天孫を当てようとする意図が あったのではないだろうか。この点は現世天皇の正統性の強調と密接な関わり があろう。以上のことから、『古事記』の黄泉国説話は、三貴子の異常誕生の ほかに、至高神の出現、さらに天下の主の不在、天照大御神の子孫が天下の主 として登場することなどにも繋がっており、大変重要な意義及び働きを持って いると認められるのである。 なお、伊耶那美命は伊耶那岐命とともに、地上世界を固め整え、国々と神々 を生んでいくという重要な「生産」の役割を果たしていたが、火神を生むこと によって、「黄泉国」に行ってしまえば、神々を生むという事業を中止せざる 210.

(9) 『古事記』における「黄泉国」の性格と役割. をえない。すなわち、伊耶那美命の死は、この女神が「生産」という役割から 離れたことを意味するに他ならない。のちに、女神に死なれた男神は、一人で 「生産」の仕事を続けるが、男神の一人仕事は長く続かない。三貴子の誕生や 分治物語の後、伊耶那岐命も隠れてしまう。伊耶那美命に引き続き、伊耶那岐 命もまた「生産」の場から離れたために、天父地母のような存在であった両神 は、ともに「権力の中心」から遠ざかっていく。その代わりに、新しく「権力 の中心」に入り込むのは、天照大御神と須佐之男命である。要するに、黄泉国 説話の深層には、「権力の交替」が語られているのである。 そして、まもなく国譲りと天孫降臨の話が登場する。すなわち、天照大御神 と須佐之男命、「高天原」と「根之堅州国」という対立関係は、長く続かない のである。最終的に、「高天原」と天照大御神の方が絶対的な勝利を得ること で、「権力」の中心には、天照大御神が一人残るようになった。このように考 えると、黄泉国説話は、実に責任と権力の交替の物語と言えまいか。つまり、 黄泉国説話は『神代記』での重要な分岐点と言えよう。 また、伊耶那美命の黄泉国行きの説話から、三貴子の誕生までの一連の物語 は、一つのまとまった説話のように見なされているが、実際にその中で「場の 転換」が三回行われている点に留意したい。まず、伊耶那美命の死によって、 話の舞台は「地上世界」から「黄泉国」に移った。次に、伊耶那岐命の遁走に よって、舞台は「黄泉国」から「地上世界」に戻る。それから、三貴子の誕生 によって、「根之堅州国」と「高天原」にまつわる話が展開される。黄泉国説 話を通して、話の舞台は「黄泉国」から「高天原」、「根之堅州国」へと転換 するのである。ここにおいて、黄泉国説話は、三貴子の誕生の契機であるとと もに、「場の転換」という重要な役割も持っていると見なせよう。 以上、黄泉国説話における「黄泉国」には、次のような役割があると指摘で きよう。 (一)「高天原」及び天照大御神の至高性を強調する。 (二)三貴子の誕生を保障する。 (三)至高神の出現の契機となる。 (四)天下の主の不在と、天孫を地上世界の統治者にする伏線である。 (五)責任の完了と交替を物語る。 (六)権力の交替を物語る。 (七)場を転換する。. 四、結びのかわりに 以上の考察を総括すれば、すなわち、「黄泉国」とは、『日本書紀』にはな い、『古事記』独自の呼称であり、この独自の呼称が象徴する世界は『古事記』 独自の世界であるということとなる。この世界は、「闇の空間」「死者の世界」 211.

(10) 第二期(2007 年 3 月). 「穢れの多い世界」という性格を有しているが、これらの性格は単純なもので はなく、「黄泉国対高天原・葦原中国」という内質を持っている。いわば、「黄 泉国」は「高天原・葦原中国」と対照関係にある「闇の空間」「死者の世界」 「穢れの多い世界」なのである。 ところが、このような死者の世界ならびに闇の空間として存在する「黄泉国」 は、単なるマイナスの意義ではなく、前述したような対照関係を通じて、「高 天原」及び天照大御神の至高性を浮き彫りにする。のみならず、「三貴子の異 常誕生」や「権力の交替」などの役割も果たしており、『神代記』における重 要な分岐点もなしているのである。それに、『古事記』の黄泉国説話には用語 の統一性も認められる。それだけではなく、『古事記』の「黄泉国」には一貫 して「黄泉国」と称され、「葦原中国」「根之堅州国」「常世国」と同じく、 『古事記』の「国」の次元に置かれているのである。これらのことを考え合わ せれば、『古事記』における黄泉国説話は天孫統治の原理と密接に繋がってい ることがわかるだろう。それと同時に、「黄泉国」という世界は『古事記』の 主旨を貫こうとする意図の上で作り上げられた世界なのだと言えまいか。要す るに、「黄泉国」が『古事記』を構成する、不可欠な空間であり、「黄泉国」 を考察することは『古事記』研究の一環として重要な意義を持っていることが 認められよう。 一方、「黄泉国」という世界が作り上げられた世界であるならば、それの原 型は何物なのか、それは如何に今問題とされた「黄泉国」に変形したのか、 『古 事記』における黄泉国説話の成立の経緯はどうなるのかなどが、新たな問題と して浮上してこよう。今回は紙幅の関係で、これらの問題の検討を行うことが できなかったが、次回で検討することとする。. ※原文の引用は下記の文献による。 1、荻原浅男・鴻巣隼雄校注・訳(1973)『日本古典文学全集Ⅰ―古事記・上 代歌謡』小学館 2、井上光貞監訳(1987)『日本書紀』中央公論社. ※参考文献: 1、大林太良(1975)『日本神話の構造』弘文堂 2、鄭家瑜(2005)「『古事記』における高天原」『日本語日本文学』第三十 輯 台湾私立輔仁大学. 212.

(11) 『古事記』における「黄泉国」の性格と役割. 《古事記》中之「黃泉國」的性格與角色. 鄭家瑜*1. 摘. 要. 黃泉國的故事是日本人眾所周知的神話故事,不過「黃泉國」一詞,其實只 存在於《古事記》之中。《日本書紀》裡雖有「黃泉」或是「泉國」等說法,但 是並無「黃泉國」這般的稱呼。 《日本書紀》的正文甚至沒有敘述黃泉國的故事, 其相關故事僅存於正文之後的數個一書*2 之中而已。 從這個事實我們可以知道:所謂的「黃泉國」,其實是《古事記》特有的稱 呼,同時,此稱呼背後所象徵的世界亦是《古事記》特有的世界。 然而,這個僅存在於《古事記》的「黃泉國」,究竟是一個怎樣的世界呢? 它在《古事記》之中又具有何種的性格呢?《古事記》究竟要透過這個世界來傳 達什麼訊息呢?這些問題的釐清,當然有助於我們更加深層地掌握《古事記》之 構造。因此本論文以黃泉國的故事為分析對象,探討「黃泉國」在《古事記》中 的性格以及其所扮演的角色。 關鍵詞:黃泉國、性格、角色、對照關係、天孫統治的原理. *1. 明道管理學院應用日語系助理教授。 《日本書紀》的內容分為「正文」以及「一書」 ,所謂的「一書」就是異於「正文」的其 他版本。通常一則故事會有幾個不同的說法,《日本書紀》的編者將「正文」之外的說法歸 納成數個「一書」。 *2. 213.

(12) 第二期(2007 年 3 月). The Characteristic and Role of Yominokuni in Kojiki. Cheng, Chia-Yu*1. Abstract The Yominokuni story is a popular fairy tale for Japanese, but the term, Yominokuni, in fact exists in Kojiki only. In Nihonshoki there are similar wordings like Yomi or Yomotsukuni and so on, but no the term of Yominokuni. Even in ‘the text’ of Nihonshoki. *2. there is not any description about the Yominokuni story. Its. relevant narrations are recorded in the reference versions behind the text. What we can find from this fact is: the so-called Yominokuni is actually a special term in Kojiki and a special world in Kojiki behind its symbolization. However, what kind of world is Yominokuni that is recorded in Kojiki only? What kind of characteristic is it in Kojiki? What message does Kojiki want to convey in it? To clarify these questions is definitely helpful for us to know well the structure of Kojiki in depth. For this reason, this thesis targets the Yominokuni story to study the characteristic and role of Yominokuni in Kojiki.. Key Words: Yominokuni, characteristic, role, relation of contrast, ruling principles of God’s grandson.. *1. Assistant Professor in the Department of Applied Japanese Studies at MingDao University The contents of Nihonshoki are divided into ‘the text’ and ‘the reference version’ which means other descriptions different from the text. Usually a story will be recorded in different kinds of descriptions. The editors of Nihonshoki sums up the descriptions different from ‘the text’ into many a “the reference version”. *2. 214.

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參考文獻

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