桑原を中心とする「大陸問題」研究会議参加者の学者は、日台断
35 桑原寿二、前掲「呉俊才先生を追思する」、450 ページ。
36 「大陸問題」研究会議発足当時、国際関係研究所顧問。表 1 参照。
37 桑原寿二「開会の言葉」『問題と研究』1983 年 4 月、第 12 巻 7 号、126 ページ。
交後、事実上の「トラック 2」38の役割を果たした。その具体例が、
「江崎ミッションの派遣」であった。断交後、日台双方は亜東関係 協会と交流協会を設立して民間組織の形で日台関係の問題を処理し てきた。しかし、日台間で長期的に存在していた貿易のアンバラン ス状態は改善されないのみならず、益々悪化の一途を辿っていた。
1982 年 2 月 12 日、台湾は対日貿易格差是正の措置として、1533 品目にのぼる日本製品の輸入禁止を決め、翌2 月 13 日から実施した。
経済部国際貿易局が明らかにしたところでは、1981 年の対日貿易赤 字が34 億 4700 万ドルに達しており、この格差是正のために輸入禁 止が行われた。規制の対象品目には、化粧品、プラスチック、ガラ ス製品、繊維、大型トラック、バスなどが含まれていた39。
翌 3 月初旬、日本側はこの対日輸入制限の即時撤廃を申し入れ、
日台経済摩擦は一挙に深刻化した。3 月 4 日、交流協会台北事務所の 人見宏・所長は亜東関係協会の張研田・理事長に対し、文書で輸入 禁止の解除を申し入れた。この申し入れは日本政府の訓令に基き日 本 側 見 解 を 伝 達 し た も の で あ っ た が 、「 台 湾 が こ の 措 置 を 継 続 す る 場合は関税上の便益供与の停止などなんらかの措置をとらざるを得 ない事態に立ちいたることを懸念している」として、特恵関税の停
38 「トラック 2」、または「第 2 トラック外交」というタームは、アメリカの元外交官 モントヴィレ(Joseph V. Montville)が 1982 年に初めて使用した。彼は、「第 2 トラ ック外交」を「紛争解決に向けて、心理的諸要因への対応を行いながら、敵対する 集団ないしは国家間の成員による非公式かつ構造化されていない相互交流の推進」
と定義した。その後このタームは、他の研究者によってより精緻化されていくが、
最大公約数的に「各国の市民ないし市民から構成される集団による、非政府、非公 式、そして“un-official”な接触および活動」として理解されるようになった(佐々木 豊「太平洋問題調査会と第2 トラック外交」『相愛大学研究論集』第 22 巻、2006 年、
111 ページ)。
39 『産経新聞(夕刊)』(1982 年 2 月 13 日)。
止が示唆されるほど強硬な内容であったと伝えられている40。 このような状況を打開すべく、7 月 20 日、江崎ミッションは台湾 を訪問した。団長は江崎真澄(元通産相)、団員には村山達男(元蔵 相)をはじめ、各分野のエキスパートを自認する議員が加わり、田 中派幹部の金丸信も顧問格として同行していた。ミッションは 7 月 12 日から 23 日にかけてタイ、フィリピン、香港、台湾を順次訪問し たが、総裁の「特使」という肩書を外すために一旦香港で解散し、
政府随員を帰国させた上で台湾を訪問している。江崎団長は、終始、
訪台の目的は自由貿易を守るためであり、純粋に経済関係上の目的 であることを強調している。しかし、訪台の直接の目的が経済問題 であったとしても、その台湾訪問自体が政治的意味を持つことは否 定できない。1972 年の外交関係断絶以来、自民党の正式機関が台湾 を訪問したのは初めてのことであったからである。7 月 21 日、江崎 ミッションは趙耀東・経済部長、徐立徳・財政部長と会談し、日台 間の意思疎通をよりよくするため、①交流協会の強化充実、②経済 人会議の充実、③自民党議員と台湾側との交流を活発化する、との 点で合意した。席上、ミッション側は台湾による禁輸措置の解除を 公式に要請した41。
その後、8 月 21 日、台湾は対日輸入制限解除の第 1 段階として 842 品目の制限解除を発表した。これは、江崎ミッションの台湾訪問に 際して、孫運璿・行政院長、趙耀東が8 月中に第 1 回の解除を行う と約束したことを実行したものであった42。11 月 19 日、台湾の国際 貿易審議委員会は 689 品目にのぼる日本側消費物資の禁止を翌日か
40 『産経新聞』(1982 年 3 月 5 日)。
41 森山昭郎「江崎ミッションの台湾訪問―日台経済摩擦ノート―」『東京女子大学紀要 論集』第34 巻 1 号、1983 年 9 月、162-163 ページ。
42 同上、164 ページ。
ら解くことを決定し、王昭明・経済次長の談話と共に公表した43。ミ ッションの結果、規制は解除された。
以上が日台貿易摩擦に端を発する「江崎ミッション」のプロセス であるが、同ミッションを成功させたのは、水面下における親台湾 派国会議員の活躍であった。1982 年 4 月、田中派の大番頭である二 階堂進・幹事長が台湾の銭復・外交部次長と東京で秘密裏に会談し、
自民党の正式機関派遣を決断しているが、この会談は、台湾側の意 向を受けた日華懇の有力メンバーである金丸信と佐藤信二が下工作 をして実現したといわれている44。そして、その金丸や佐藤等の親台 湾派国会議員と台湾政府のパイプ役をしたのが、桑原を中心とする 人脈であった。当時、桑原らは日華議員懇談会及び政財界の人脈と 密接に連絡を取り、その解決策を模索し、7 月に「江崎ミッション」
の訪台へと導いた。このように桑原を中心とする「大陸問題」研究 会議の人脈は政治的側面で日華懇と表裏一体となり、日台断交後の
「トラック2」の役割を果たし、断交後の日台関係の改善と強化に努 めたのである45。
この桑原の人脈による「トラック2」は、上述した日台間における 経済摩擦のような問題が起こったときにのみ、それを解決するとい うものではなく、常日頃から日台間における相互の意思疎通や、新 しい政策、重要な政策の相互理解を行うものであった。たとえば、
1991 年にも、国家統一綱領を考案する上で、当時総統府参議であり、
43 『中央日報』(1982 年 11 月 20 日)。
44 田崎史郎「“自民党外交”の時代を告げる 江崎ミッションの ASEAN・台湾歴訪」『世 界週報』第63 巻 31 号、(1982 年 8 月 10 日)、32-33 ページ;土井正行「田中派の台湾 接近にいらだつ「中国」」『朝日ジャーナル』第24 巻 34 号、1982 年 8 月 13 日・20 日合併号、9 ページ。
45 曾永賢、前掲論文、98-99 ページ。
国家統一委員会研究委員であった曾永賢46氏は、2, 3 名の同僚を連れ て、意見の調整のために日本を訪れている。そして、桑原の紹介に より中国問題を研究している人たち、政治家、言論人などと会見し、
同綱領に関する情報を説明した。このような会合には、随時日本の 課長クラスの外務省職員などが参加している。曾氏が日本へ行く度 に、桑原の人脈を通して、会議を開き、その座談会などに、日本政 府の関係者が参加し、意見交換を行っていた。いわば、台湾の外交 部は、桑原の人脈を介して、日台間における重要な政治課題に関す る「根回し」を常に行える環境があったのである。曾氏は、1971 年 の「大陸問題」研究会議開催から 2000 年までの間に、年平均 3、4 回、多い時には 6 回日本を訪問しており、友人に「曾氏は日本に住 んでいるのではないか」と思われるほど日本と台湾の間を往来して いたという47。
五 結論
桑原の基本思想は「反共」である。桑原は、自由を否定する共産 主義を警戒し、徹底的に批判した。それゆえに、共産主義国家であ る中国を信頼せず、自由主義陣営の台湾を支持した。桑原は台湾を、
自由を守るための砦と考えていた。かつ、急速な経済発展を遂げた 台湾の経済力を信じ、台湾を中心とする文明圏が確立されるのを期 待していた。70 年代、80 年代と低迷を続ける中国とは対照的に、経 済的に成長していく台湾に光明を見ていた。
現在、国際政治経済の両面から見ても大国となった中国は、90 年
46 元総統府資政、元中華欧亜基金会副董事長。第 1 回「大陸問題」研究会議参加時期 は、法務部調査局勤務。
47 曾永賢氏インタビュー(2008 年 10 月 13 日)。
代以降、「中国」文化の見直しを図り、新政策を打ち出している。こ れは見方を変えれば、中国の「中国」化であり、いずれ「中共は『中 国』に飲み込まれる」と指摘した桑原の見解が正しかったというこ ができる。また桑原が中国分析のために使用した資料は『人民日報』
と『紅旗』であり、資料は限られていたが、資料が制限されている からこそ、その資料を徹底的に読み込み、深い分析が可能であった48。 かつ桑原は自身の北京留学経験を通し、「中国」民族の考え方の複雑 さ、深遠さを理解し、そこで得た経験と知識は桑原が中国を分析す る上でのレンズとなった49。桑原にとって、中国の政策は「矛盾」と
「二面性」を多分に含んだものであり、その本質を「破壊」と説い た。その中国に対し、「中国」文化を維持しようとしている台湾に大 きな価値を見顕したのである。
ただし、桑原は台湾を日本の安全保障の観点あるいは「中国」文
ただし、桑原は台湾を日本の安全保障の観点あるいは「中国」文