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1 チャネル再構築の模索

1988 年の蒋経国総統の死去に伴い、副総統であった李登輝が総統 に 就任すると 、国内の民 主化と対外 活動、そし て対中活動 が連動 し な がら大きく 変容してい く。台湾の 展開する国 際空間での 活動に 対 し て、国際社 会がそれを どのように 認識し対応 するが重要 な問題 と なった。そうしたなかで、72 年から外交部長、国家安全会議秘書長、

総統府秘書長として外交での発言力をもっていた沈昌煥が、88 年の ソ連貿易訪問団をめぐって解任され、総統府資政となり、90 年には 対 日外交では やはり無視 することが できなかっ た張群が死 去する 。 さ らにシンガ ポール大使 から駐日代 表処に赴任 していた蒋 経国の 次 男・蒋孝武が病気療養のため離任することになった。

このタイミングに李登輝は、91 年 4 月、内政部長であった許水徳 か ら形式的に は降格とな る駐日代表 へ赴任する 承諾を得て 、日本 語 に よって直接 日本各界と のチャネル を構築しう る人物を駐 日代表 と して日本に送り込むことができた59。許水徳は 6 月 29 日、本省人は

57 張超英口述、陳柔縉執筆、坂井臣之助監訳『国際広報官 張超英』(まどか出版、2008 年)、145~146 ページ。

58 同上。

59 許水德『全力以赴;許水德喜壽之回憶録』(台北:商周出版、2008 年)、頁006~007。

じめての代表として期待されながら東京に赴任することとなる60。そ の後、林金茎(1993-96)、荘銘耀(1996-2000)と日本語堪能な人物 が 駐日代表に 任命される ようになり 、基本的に は総統のも とで対 日 政 策は展開さ れていく。 特に、許水 徳の時期は 、それまで 国民党 と 自 民党の間に 築かれてい たチャネル 以外に、新 たなチャネ ルの開 拓 が必要とされていた。

日 華懇と の間 に生じ た隙 間を埋 めな がら、 一方 では社 会党 土井た か 子、渡邊美 智雄(当時 外相)はじ め、宮澤派 の議員らと の関係 を 構 築して、水 面下および 公式・非公 式な日本と のチャネル を更新 し ていく61。93 年 2 月には、銭復外交部長の訪日が実現、福田赳夫元 首相はじめ要人との会談が実現したほか、94 年末までに王金平立法 院副院長(93.6)、蒋彦士総統府秘書長、邱創煥考試院長、劉松藩立 法 院長、劉兆 玄交通部長 、徐立徳行 政院副院長 、江丙坤経 済部長 ら の訪日が次々と実現した。93 年夏に日本の「五五年体制」が崩れ連 立政権が成立すると、「ハイレベル接触」が増加し、日台関係の実質 に変化が見え始める62

91 年の李登輝訪日をめぐる藤尾正行や佐藤信二ら日華懇の「老関 係」との確執は63、従来の蒋介石への「以德報怨」とは異なるつなが り への変容を 表していた 。その後も 日華懇は、 超党派の「 日華議 員

60 許水德、前掲書、頁 157。

61 同上書、頁 165、および川島真他、前掲『日台関係史』、161~162 ページ参照。

62 川島真他、前掲『日台関係史』161~164 ページ参照。

63 許水德の回憶録によれば、蒋孝武と麻生太郎、許勝発立法委員らが「親睦会」を設 立準備する動きをとったことが日華懇メンバーの不興を買い李登輝訪日を阻止する 結果となったという(前掲書、頁158~163)。また、それは全国工業総会理事長・許 勝発が蒋孝武と連携して、辜振甫がリードしてきた東亜経済人会議への挑戦という 意味も有していたという〔申子佳・張覚明『辜振甫傳』(新店:書華出版事業、1994 年)、頁107〕。

懇 談会」に改 組された後 も、定期的 に訪台する 活動を継続 し、単 に 日 華関係を象 徴するチャ ネルからは 変容し、日 本及び台湾 の政権 交 代を経ても継続的チャネルとして機能していくことになる。

2 李登輝の対日工作

李登輝政権では、国際空間での活動と中国との関係の発展は、「車 の 両 輪 」 の よ う に 同 時 に 動 か す 必 要 が あ る と と ら え た64。 実 務 外 交

(Pragmatic Diplomacy、「務実外交」)の展開と中台関係の状態を二 つ の軸として 考えると、 実務外交の 展開によっ て台湾及び 台湾問 題 へ の国際的な 関心を確保 し、それを 担保に中国 と対等に「 対話」 す る ことは、台 湾にとって 理想的な状 態である。 しかし、台 湾が国 際 的 に 孤 立 し 、 台 湾 問 題 は 中 国 の 国 内 問 題 と し て 認 識 さ れ る 状 態 で は 、一方的に 中国ペース での「統一 」プロセス へと展開す ること に な る。こうし た観点から 、台湾の国 際空間にお ける活動が 必要と 位 置 付けたのが 李登輝時代 の戦略であ った。日本 との関係も 、その な かの重要な一部であった。

李 登 輝 の も と で 日 本 と 台 湾 と の 関 係 に 大 き な 変 化 が 生 ま れ る の は、おおよそ 1991 年以降であったという65。許水徳が駐日代表とし て東京に赴任するのと時期を同じくして、91 年 7 月、形式上は外交 部 に属する対 日工作小組 が設立され 、外交部長 銭復を招集 人とし て 対日工作の課題などを検討し始めている66。総統府参議(後に国策顧 問 )として参 加していた 曾永賢によ れば、この 対日工作小 組は、 実 質 的には李登 輝総統主導 で進められ 直接総統に 報告をあげ 、人事 や

64 井尻秀憲編著『中台危機の構造』(勁草書房、1997 年)、109~112 ページ。

65 李登輝『李登輝実録』中嶋嶺雄監訳、(産経新聞社、2006 年)、63~64 ページ。

66 曾永賢口述『従左到右六十年 ―曾永賢先生放談錄』(台北:國史館、2009 年)、頁 233。

人 材養成、情 報の安全面 などさまざ まな改革案 も提起され たが、 次 第に形式的なものとなっていったという67。そして、80 年代の「江 崎ミッション」訪台に際しても積極的に関係改善に動いた銭復が96 年に外交部長を離れるとともに、この小組は役割を終えた。

李 登輝は 、そ の一方 で中 嶋嶺雄 や戴 國煇、 彭栄 次ら自 らの チャネ ルを活用しながら、対日工作を主導していく。94 年、空席となって い た駐日代表 処新聞組長 にいったん 退職をして いた張超英 を再度 起 用 し、張超英 は日本の大 手新聞はじ め各メディ アを通じて 日本に お け る台湾およ び李登輝へ の認知を拡 大させるこ とを自らの 課題と し た68。アジア大会への徐立徳訪日、翌95 年李登輝訪米から総統選挙、

大阪 APEC などの出来事を通して、日本の紙面での台湾情報を拡大 し 、李登輝や 辜振甫らの 知名度を格 段に高めた 。そうした メディ ア 工 作等によっ て、蒋介石 カードに代 わりうる新 しい日台の 象徴が 形 成されていくことになる。

94 年頃から日本の雑誌や新聞記事に「李登輝」の文字が氾濫し始 め 、民主化の 過程で政治 改革や「憲 政改革」な ど変革を推 し進め る アジアの「強いリーダー」としてのイメージが創られていく。また、

これとともに、94 年の司馬遼太郎との対談によって、「台湾に生まれ た悲哀」「場所の悲哀」を掲げて台湾人のおかれてきた歴史状況や現 状 に対し、日 本人の共感 を強く喚起 しつつ、そ れに対して 長く無 関 心を装ってきた日本人の責任を強く想起させた69。そして、日本語教 育 を受け、軍 隊経験をも ち、日本語 を母語とし て操るとい う植民 統 治の影響が刻まれる自らの経歴、個性、立場をフルに活用しながら、

67 同上書、頁 234~236。

68 張超英、前掲書、230~276 ページ。

69 李登輝・司馬遼太郎「場所の苦しみ、台湾人に生まれた悲哀―台湾紀行 街道をゆ く」『週刊朝日』99(1994 年 5 月 6 日)。

親 近感を作り 出し、自ら 率いる国民 党政権さえ も「外来政 権」と 説 明 して、民主 化し、台湾 化していく 「台湾の中 華民国」へ の新し い つながりを日本側に提示したのであった。「李登輝」と、それによっ て 形成された 「親日台湾 」のイメー ジが、蒋介 石カードに とって か わ り、日台関 係を結びつ ける効果的 なカードと して活用さ れてい く ことになる。

五 おわりに

蒋経国時期 の対外政策 は、台湾の 経済を発展 させ、台湾 の存在 を 継 続させるこ とを重視し ているとい う意味でよ り現実的な 面をも っ て いたが、長 期的な展望 および国内 的な説明に おいては、 国共内 戦 の 延長として の外交とい う姿勢が捨 てられたわ けではなか った。 断 交後の日台関係の前半20 年には、前者と後者の両方が作用しつつ、

二重構造が温存されてきた面がある。

準 公式な チャ ネルに よっ て実務 関係 を維持 して きた日 台関 係は、

政 権交代など の国内的な 変動によっ て、大きく 影響を受け ざるを 得 な い構造であ るものの、 当事者たち が指摘する ように、ま さに人 脈 が その活動を 支えること で成り立っ ていた。蒋 介石から蒋 経国へ の 権 力移行に伴 う対日チャ ネル再編で は、日華懇 メンバーを 軸に蒋 介 石 カードの活 用によるチ ャネルの構 築をせざる をえなかっ た。こ の 日 華レベルの 関係が、外 交関係のな いなかで日 台間の実務 関係を 維 持 し、発生し た問題を実 務的に処理 しうる環境 づくりをし たとい う 意味では、「日台」を支えるものであった。

ま た、対 日工 作と対 日政 策が李 登輝 総統主 導に 切り替 えら れてい く 過程で、こ の二重構造 は決定的に 「日台」が 重きをなし ていく こ

ま た、対 日工 作と対 日政 策が李 登輝 総統主 導に 切り替 えら れてい く 過程で、こ の二重構造 は決定的に 「日台」が 重きをなし ていく こ

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