土地と人民の把握は統治の基礎である。土地調査は清代の重層す る土地所属関係を解消して、1905 年 5 月施行の土地登記規則によっ て、地租負担者つまり「旧小租戸」現地主階層の形成をなした。一 方で街庄名称や土地事情が明確化した法治区「平地」と法の適応範 囲から外す旧慣区「蕃地」を明確に区分した65。そこで日露戦後には 台湾島内に蓄積した対外戦争武器を転じて、対内の「蕃地」征服に 活用できる条件が揃う。漢民族抗日運動を壊滅した後は、植民地人 民の掌握が要となる。1903 年 9 月以来戸口調査の準備に着手し、05 年10 月 1 日から 3 日全島臨時戸口調査および人口動態調査を実施し た。日本同様の戸籍法によらないのは、台湾では人民管理は警察の
62 『理蕃誌稿』第 2 編、404-406 ページ。
63 傅琪貽『大嵙崁事件研究』、47-53 ページ。
64 『後藤新平』第 1 巻(勁草書房、1985 年)351-366 ページ。
65 『理蕃誌稿』第 2 編、422 ページ。
戸口調査簿の登記に依拠するからである。しかし全島の戸口調査と はいっても基本的にアミ族、卑南族を除く「蕃地蕃人」を除外した。
原住民に対する支配は蕃社台帳、蕃地事務報告など、平地漢民族と は違った様式で「理蕃」警察が掌握していたからである。日露戦争 に戦勝した日本は、植民地漢系人民に日本統治からの離脱が不可能 であることを誇示してみせた。「平地」の明朗化に比して、暗黒の「蕃 地」「蕃人」は次に総督府が目指す武装征伐の課題となる。
後藤新平にとって植民地統治課題は「台湾を一つの国家的企業地 と看做」して、総督府の意思のままになる「統制経済の妙味」を発 揮させ、「植民地母国に年々利益をもたらす無限の宝庫」に変えるこ とであった。ここでは母国の経済圏に台湾経済をリンクさせて、日 本の「近代化」に隷属させた植民地経済を台湾近代化の成功と高く 評価する観点が明らかである。植民地に寄生し植民地人を犠牲にし て、日本帝国の利益を最優先させる論理を正当化させようとしてい る。例えば煙草専売は実施の当初から「内台統一」であり、樟脳専 売も日本内地産樟脳と台湾産が国際市場で競争関係になった時、や はり「内台統一」を実施して台湾産樟脳を粗製に限り日本精脳の国 際競争力を守った。後藤が誇る台湾財政の独立とその貢献とは、ま さに日本が台湾という植民地経済の大動脈を手中に収め、隷属化を 決定づけることを意味する。
清代の台湾は政府よりも民間に活力が満ちていて、対外的にも開 放された社会経済下にあった。五港口通商以来、英仏独などの外商 資本が台湾の漢民族移民土着勢力と結合して、台湾を世界商業植民 地に位置付けしていた。ところが日本の総督府は、台湾における利 源の国家的回収と日本資本による植民地「殖産興業」の成長に重点 を置いた。そのために、島内の既成外商勢力を駆逐することがこれ まで外商と一体となって土着漢民族資本を形成してきた島内勢力に
対抗する形となって抗日運動を巻き起こした。だが樟脳専売制度の 実施は、今度は漢民族土着勢力を日本側に抱き込んで、外商から離 反させる結果をもたらし、総督府の商権の回収に有効に働いた66。国 力の誇示を象徴する東アジアの海運権の回収に関しては、日露戦争 当時、総督府は戦時非常権を行使して外国船であるダグラス汽船会 社に対して、船舶貨物に対する厳しい検査と貨物差押および乗客船 員の上陸禁止、はては停船処分などを行い、ついに香港、アモイ、
汕頭、淡水、安平等の台湾回航路線から駆逐してしまった。大阪商 船会社は台湾総督府の補助を受けて1899 年以来国策航路の意を受け てダグラス汽船会社と競争してきたが、ここで始めて対外貿易輸出 入権を一手に掌握した67。
総督府にとっては、外商の商業資本がまだ産業資本に発達しない うちに台湾島内から駆逐すべきであった。日本国内では1900 年に金 本位制を実施したが、当時の台湾は様々な銀貨が流通する銀元の世 界であった。そこで1899 年台湾銀行設立にも 200 万円相当の銀貨を 準備し、銀貨と銀行券を両用させた。日露戦争時、民情の動揺は銀 の死蔵現象を招いた。当局は1904 年 6 月律令第 9 号を発して、1 元 銀貨は台湾総督府の告示する公定相場により公納の時のみ使用し、
一般には通用禁止するとした。そして7月1日台湾に金本位制を導 入し、金融面での内台一致を図った68。1905 年 9 月 15 日の台湾日日
66 1904 年度の製脳特許人には土倉龍次郎、賀田金三郎、山下秀実、台湾製脳合名会社 の日本資本以外は、陳燈煌、陳國治、徐泰新、黃南球、林烈堂、林月汀、林季商、
黃春航等土着資本。松下芳三郎『台湾樟脳専売志』製脳許可表(台湾総督府史料編 纂委員会、1924 年)、17-19 ページ。
67 井出季和太『台湾治績誌』(台湾日日新報社、1937 年)、183 ページ。『日本国政事典』
第4 巻(丸善、1955 年)483 ページ。
68 『台湾銀行二十年志』、58-60 ページ。
新報は、台湾銀行券の発行高 805 万円にして流通高は 621 万円と発 表した。完全に元から円に切り替わったのは、三年後の08 年のこと である。度量衡も日露戦の最中に規定され、台湾の社会経済の尺度 は旧時代から離脱して植民地母国日本内地に統一されていった。買 弁として外国商業資本に癒着して成長し、対外貿易の担い手として 次第に頭角を現してきた台湾土着勢力は、ここで日本が準備した植 民地経済体制の中でしか方向を求められなくなった。当局が設定し た寄生地主、専売特許人等体制の保護と飼い馴らし政策の中で企業 家としての発展を阻止され、台湾下層社会と台湾総督府の中間に位 置して、大多数の「本島人」への直接搾取を担う役割を果たすはめ になった。
台湾総督の独裁性は日露戦争の過程で、一層、確定した。委任立 法権を総督に付随させる六三法は違憲論を乗り越えて、戦中の1905 年 3 月 6 日平和回復までの 1 年期限との条件をつけて再度延期され た。しかし戦後06 年に法律第 31 号によって、また 5 ヶ年の延長を みた。委任立法権は総督の権威を植民地人民に誇示する必要から再 度延期されたのだった。06 年 4 月第五代総督に就任した佐久間左馬 太が掲げる「生蕃」討伐 5 ヶ年「理蕃」政策を順調に推進するため に、随時命令を下せる立法権が必要とされたからである。後藤新平 は日露戦の勲功で男爵の栄誉を得て、9 月満鉄総裁に転進するが、民 政長官の後釜に腹心の専売局長祝辰巳を据え、自分を総督府顧問の 地位に置いて、満州で「台湾経験」を大いに展開しようと謀った。
一方、日露戦で「脱植民地」の念頭を放棄せざるを得なかった島民 は、戦後、裕福な地主階層では師弟を日本内地の学校に送って勉強 させ、大多数の漢人「本島人」も体制側が準備した公学校に子供を 送って「国語」日本語を勉強させた。
1904-1905 年日露戦争という台湾にとっての歴史的偶然が、非常時
体制の下、植民地台湾をして僅か10 年にして日本帝国の統治系列の 中にしっかりと統制組み込む契機をなした。以後、台湾は活力をも った民族資本の発展期だった過去と断絶して、日本的価値以外は許 されない閉鎖的植民地社会を形成し、日本の国民国家の「統合」の 枠組みに組み込まれていったのである。
〈参考文献〉
鶴見裕輔『後藤新平』第2 巻(勁草書房、1990 年)。
鶴見裕輔『後藤新平』第1 巻(勁草書房、1985 年)。
傅琪貽「日露戦争と台湾総督府の原住民政策」(2005 年 5 月 19-22 日、日露戦争
・ポ ー ツ マ ス 条 約 締 結 百 周 年 記 念 国 際 シ ン ポ ジ ウ ム 、 宮 崎 、 日 露 戦 争 研 究 会 )。
杉山茂丸『児玉大将伝』(中央公論社、1989 年)。
アウイヘッパハ『霧社事件』(東京、草風館、1985 年)。
『日本国政事典』第4 巻(丸善、1955 年)。
陳文添「 日俄戦争時台湾総督府扮演的角色」(第三屆台湾総督府公文類纂学術研 討会論文集、台湾省文献委員会、2001 年 12 月)。
傅琪貽『大 嵙崁事件研究』(台北、行政院原住民意委員会、2003 年)。
藤井志津枝『台湾原住民史;政策篇』(台湾省文献委員会、2001 年)。
松 下 芳 三 郎 『 台 湾 樟 脳 専 売 志 』 製 脳 許 可 表 ( 台 湾 総 督 府 史 料 編 纂 委 員 会 、1924 年 )。
井出季和太『台湾治績誌』(台湾日日新報社、1937 年)。
台湾総督府陸軍幕僚編『陸軍幕僚歴史草案』(手書き本)第9 巻。
台湾総督府『台湾総督府警察沿革誌』第2 巻(東京、緑蔭書房復刻版、1986 年)。
『台湾総督府警察沿革誌』第2 巻。
『陸軍幕僚歴史草案』第10 巻。
『台湾総督府警察沿革誌』第1 巻。
『理蕃誌稿』第2 編(台湾総督府警務本署、1918 年)。
『辜顕栄伝』(台湾日日新報、1939 年)。
『台湾銀行二十年誌』(台湾銀行、1919 年)。
『台湾総督府統計書(明治38 年度)』。
『台湾日日新報』。