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一方、日本では1922 年 6 月 22 日に印度支那協会(東京)が設立された。外交 上の交渉団体として、1924 年 5 月 8 日から 20 日までインドシナ総督メルランの 訪日に向け、招待機関として「経済通商関係の増進発展」を名目に設立されたの が、印度支那協会である。メルラン総督訪日の返礼として、1925 年 2 月 5 日から 27 日にかけて、山縣伊三郎一行が仏領インドシナを訪問した73。これに嘱託調査 員として随行したのが木村修三教授である。もう一人、この視察団に香港から合 流し、単独で現地調査を行ったのが鈴木商店香港出張所の瀬戸口又である。

木村修三は、農学者として使節団に参加したときは宇都宮高等農林学校に勤務 し、後に九州帝国大学に移っている。九州帝国大学時代には、仏領インドシナの

「安南漆」について報告書を発表した74。使節団に同行した直後に発表したのが、

『佛領印度支那の農業に関する調査報告書』印度支那協会(1925 年 10 月)であ り、これが日本側から調査した最初の農業関連の報告書に当たる。一方、瀬戸口 又は、『佛領印度支那視察報告書』(1925 年 3 月)をまとめた。内容は、貿易、農 林業、工業全般だけでなく、糖業と日仏製糖、無煙炭、塩などの産品について詳 しく報告されている。

このように、視察団には外交交渉の目的以外にも木村修三のように農業分野の 研究者、商業界から瀬戸口又のような人材が加わり、調査を実施した。また、印 度支那協会はこの時期に次のような報告書を発行するなど、積極的にその存在を 示した。

・『佛領印度支那の農業に關する調査報告書』印度支那協會、1925 年。

71 前掲、湯山英子「仏領インドシナにおける日本人社会」、783-788 頁。

72 「故真室氏葬儀」『臺灣日日新報』1929 年 4 月 15 日。

73 海野芳郎「日本とインドシナの貿易摩擦」細谷千博『太平洋・アジア圏の国際経済 紛争史』東京大学出版会、1983 年。

74 木村修三の経歴については、奥田弘『宮沢賢治研究資料探索』(蒼丘書林、2001 年)

の「木村修三教授のこと」に詳しい。『木村修三「仏領印度支那産漆及び本邦産漆 に就いての考察」吉川教授在職二十五年記念會編纂(九州帝国大学)『作物学論集』

1935 年 12 月。実際に現地調査を行ったのは 1928 年。

・『日本品ニ最低税率ヲ與フルコトニ反對スル意見並ニ外國人ノ土地所有權其他ノ 權利ニ關スル佛領印度支那商工會ノ意見及ヒ其評論 』印度支那協會、1924 年。

・『メルラン總督の来朝と印度支那協會』印度支那協會、 1924 年。

印度支那協会の調査は1924 年と 1925 年に集中して実施されていた。1920 年代 後半になると、日本の経済団体が商機を見出そうと、積極的に仏領インドシナに 接触してくることになる。例えば、商工会議所が1927 年のハノイ見本市に参加、

同年サイゴン・チョロンでの展示会開催、サイゴン見本市の視察など、商品販路 を探るようになった75。また、この時期に日本の商工省から貿易通信員の加藤俊 雄を駐在させ、市場調査を実施していた。加藤の報告は、『内外商工時報』(農商 務省)に随時、発表されていた76。このように、1920 年代後半になると、日本側 から積極的なアプローチがあった。しかしながら、その後の恐慌、仏領インドシ ナの関税障壁などの理由によって、実際の企業進出には結びついていない。

10、まとめ

これまで臺灣および日本からの仏領インドシナ調査と進出の形態を見てきた。

本稿では、初期段階を1906 年から 1920 年代半ばまでとし、その特徴を明らかに した。現地調査については、臺灣総督府の南支及南洋施設費を資金源にした調査 が積極的に行われた。一つは三五公司によるもの、二つ目は総督府嘱託員の任命 であり、当初は高月一郎、横山正脩の民間人が担い、領事館開設と共に領事もそ の一端を担うようになった。三つめは印度支那産業組合の農業調査であり、これ も南方施設費によって賄われた。この一連の調査は、1906 年から 1920 年の間に 行われた。また、市場調査は『臺灣商工月報』(臺灣総督府殖産局)に見られるよ うに、1910 年代は香港領事による調査が主流であった。また、日本側による初期 の調査は、外務省が先鞭をつけたものの継続はせず、その後も単発的に行われた

75 『第二回旅商第一班報告書』日本商工会議所、1928 年。ハノイ見本市は、1927 年 12 月 18、19 日、サイゴンは 1928 年 1 月 18、19 日に開催している。また、サイゴ ン見本市(1927 年 12 月 17 日〜1928 年 1 月 17 日)を日本商工会が視察。加藤俊 雄によると、日本の出品もあり商工会議所連合会ほか4 軒が参加していた。

76 加藤俊雄の調査には次のような報告書がある。加藤俊雄(在西貢貿易通信員)「印 度支那の陶業」第15 巻第 2 号、1928 年 3 月。「西貢見本市の与えた教訓」第15 巻 第10 号、1928 年 10 月。「西貢見本市の与えた教訓」第 15 巻第 12 号、1928 年 12 月。「西貢見本市の与えた教訓」第16 巻第1号、1929 年1月。「仏領印度支那に於 ける本邦品取引の前途」第16 巻第 3 号、1929 年 3 月。「仏領印度支那に於ける本 邦品取引の前途(二)」第 16 巻第 4 号、1929 年 4 月。いずれも『内外商工時報』

(農商務省)。

だけで、臺灣のように継続はしなかった。

調査後の進出については、臺灣を拠点にしていた高月一郎と真室幸教の2人が 調査を足がかりに仏領インドシナ進出を試みたものの、農園経営は短期間で終わ った。両者に見られるように、組織だったものというよりも、一旦組織を離れ、

総督府時代に培った人脈を背景に投資家の資金を集めた農園経営の進出と言える。

第一次世界大戦以降の南洋進出ブームに乗った事業展開を仏領インドシナで実践 したものと考えられる。

一方、1920 年代半ばになると、日本の外務省が 1924 年から 1925 年にかけて外 交交渉を積極的に推進した。交渉団体として印度支那協会が東京に設立され、返 答使節団が仏領インドシナを訪問し、これに随行した研究者や民間企業が仏領イ ンドシナの農業や商業について調査報告書をまとめている。しかしながら、実際 はこの時期の日本から仏領インドシナへの企業進出には結びついていない。但し、

1927 年になると日本の経済団体が見本市に出展するなど、仏領インドシナでの商 機を求めて自ら市場調査をするようになった。

このように臺灣、香港、日本からの関与があったものの、初期段階においては とりわけ臺灣が積極的に調査を進めていた。それらを担った元総督府関係者が、

現地調査を元に自ら起業して仏領インドシナに進出したのがこの時期の特徴であ る。次段階へどう繋がっていったのかは、稿を改めて論じたい。

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