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臺灣の仏領インドシナ調査と事業経営:南亜公司と日仏製糖会社を中心に

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臺灣の仏領インドシナ調査と事業経営:

南亜公司と日仏製糖会社を中心に

湯山英子

論文要旨

本研究の目的は、1900 年代はじめから 1920 年代半ばまでの期間を中心に、臺 灣と仏領インドシナの関係を、臺灣からの資源・市場調査及びその後の事業経営 を通して明らかにすることにある。それによって、該当時期の臺灣および日本の 東南アジア進出における臺灣と仏領インドシナの関係の一側面を示す。史・資料 は、臺灣所蔵の総督府文書、日本の外交資料、関係機関発行の報告書、関係者へ の聞取り調査及び提供資料などを使って検討を試みた。

検討の結果、仏領インドシナ調査については、臺灣総督府の南支及南洋施設費 を資金源にした調査が積極的に行われたことを明らかにした。一つは三五公司に よるもの、二つ目は総督府嘱託員の任命であり、当初は高月一郎らの民間人が担 い、領事館開設と共に領事もその一端を担うようになった。三つめは印度支那産 業組合の農業調査であり、これも臺灣総督府の南支及南洋施設費によって賄われ た。この一連の調査は、1906 年から 1920 年の間に行われた。一方、日本側によ る初期の調査は、外務省が先鞭をつけたものの継続はせず、その後も単発的に行 われただけで、臺灣のように継続はしなかった。

調査後の進出については、臺灣を拠点にしていた高月一郎と真室幸教の2人が 現地調査を足がかりに仏領インドシナ進出を試みたものの、農園経営は短期間で 終わった。両者は、総督府勤務時代に培った人脈を背景に、投資家の資金を集め た農業進出と言える。第一次世界大戦以降の南洋進出ブームに乗った事業展開を 仏領インドシナで実践したものと考えられる。

キ—ワ—ド:三五公司、高月一郎、真室幸教、南亜公司、日仏製糖会社

北海道大学大学院経済学研究科・地域経済経営ネットワーク研究センター研究員 本研究は、科学研究費助成事業、基盤研究(A)一般「第二次世界大戦期日本・仏

印・ベトナム関係研究の集大成と新たな地平」(研究代表者:白石昌也)による中 央研究院臺灣史研究所訪問研究員として資料調査を行った成果の一部である。

國立臺灣圖書館

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1、問題関心 2、時期区分

3、三五公司と仏領インドシナ 4、高月一郎と南亜公司 5、臺灣総督府の調査嘱託員 6、農林調査と商業調査 7、高月一郎の漆園経営計画 8、真室幸教と日仏製糖会社 9、印度支那協会の視察 10、まとめ

1、問題関心

本研究では、1900 年代はじめから 1920 年代半ばまでの期間を中心に、臺灣と 仏領インドシナの関係を、臺灣からの資源・市場調査及びその後の事業経営を通 して明らかにすることを目的とする。

日本の臺灣領有以降、臺灣は常に日本の東南アジア進出拠点として位置づけら れてきた。日本の「南進」と関連づけた臺灣史研究では、周婉窈、鍾淑敏らの先 駆的な研究があるが、近年では張靜宜や洪紹洋らによって農業分野での仏領イン ドシナ関与についての実証研究がなされるようになってきている1。しかし、いず れも1930 年半ば以降の臺灣拓殖会社を中心とした臺灣農業、技術及び人材がいか に仏領インドシナへ移植されたかに関心が集中している。1900 年はじめから 1920 年代にかけて蓄積されてきた臺灣の仏領インドシナ調査との連続性が等閑視され ている。

一方、日本の代表的な研究としては、中村孝志が日本領有時代の臺灣の南方政 策を明らかにし、後藤乾一が原口竹次郎の個人史を通して南方調査の展開過程を 示した。さらに、横井香織によって臺灣における調査機関の全体像が明らかにさ れた。しかし、いずれも南支、南洋全般を対象としており、個別地域の検討が必 要であろう2

1 周婉窈「從「南支南洋」調查到南方共榮圈-以臺灣拓殖株式會社在法屬中南半島的 開發為例」『臺灣拓殖株式會社檔案論文集』國史館臺灣文獻館、2008 年。鍾淑敏「臺 灣總督府與南進-以臺拓在海南島為中心」『臺灣拓殖株式會社檔案論文集』國史館 臺灣文獻館、2008 年。張靜宜「台灣總督府農業試驗所之研究-以「戰爭協力」爲中 心」『人文集刊』第5 期、2007 年 7 月。洪紹洋「帝國擴張與產業南進-試論二戰期 間臺灣的角色」『日本帝國與殖民地 人流與跨・境 會議資料』中央研究院臺灣史研 究所、2014 年 10 月。

2 中村孝志『日本の南方関与と臺灣』天理教道友会、1988 年。後藤乾一『原口竹次郎

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また、これらの進出に当たっては常に現地調査が先行した。臺灣総督府をはじ め、産官学が協力して実施することもあった。調査は段階的に行われ、日本の南 進ブームに大きく影響されていた。筆者はこれまで、戦前の仏領インドシナの日 本商の活動を対日漆貿易の展開過程を通して明らかにした。その中で、臺灣と仏 領インドシナとの関係を検討してきた3

仏領インドシナ研究においても、臺灣との関係は常に認識されていたものの、

1930 年代半ば以降の臺灣拓殖会社の仏領インドシナ進出に力点が置かれている ため、日本の臺灣領有以降からの連続性は明らかにされていない。前述した張靜 宜、洪紹洋らも扱う時期は同じであるが、農林業における仏領インドシナ進出、

物資供給について言及した点では、これまでの研究を前進させた。

これらを踏まえて、本稿では特に臺灣の仏領インドシナ調査とその後の事業経 営に注目する。そして、段階的に実施されてきた臺灣の仏領インドシナ調査の初 期の特徴を示し、それに関係した三五公司(愛久澤直哉)と南亜公司(高月一郎)、

日仏製糖株式会社(真室幸教)がどう反応し、現地での事業経営にどう結びつけ たのかを検討する。それによって、該当時期の東南アジア進出における臺灣と仏 領インドシナ関係の一側面を示したい。

2、時期区分

臺灣の仏領インドシナ調査および進出は、いったいいつからどのように進めら れてきたのだろうか。中村孝志は、日本の「南進」は臺灣領有そのものであると 位置づけ、臺灣を拠点にした東南アジア進出を次の4つの時期に区分した。第一 期は領台1895 年~1914 年までで華南重点化の時期、第二期を 1923 年までの隆盛 期、第三期は1924~1936 年までで、この時期を停滞期としながらも、臺灣におい て南方研究や人材育成が蓄積された時期であるとした。第四期は1938 年頃~終戦 までで、特に1941 年の「南方政策に於ける臺灣の地位に関する件」では日本政府 による中央監督下での「南進」に変化したという見解を示している4

一方、横井香織は、臺灣の南洋調査活動について、第一期の1895~1919 年まで を準備段階とし、第二期は1920~1935 年で、総督府官房調査課の全盛期であり、

独自の調査・研究成果を発表した時期と特徴づけた。第三期は1936~1945 年で、

総督府独自の調査活動の衰退期であり、日本政府色の強い時期とした5

両者の時期区分の範囲は微妙に異なるが、1920 年代~1930 年代半ばまでは、臺

の生涯-南方調査の先駆』早稲田大学出版部、1987 年。横井香織「日本植民地期臺 灣における『南洋』調査活動の展開」『現代臺灣研究』第17 号、1999 年 3 月。

3 「仏領インドシナにおける対日漆貿易の展開過程-1910 年代〜1940 年代初めの現 地日本人商店からの考察」『社會經濟史學』 第 77 巻第 3 号、2011 年 11 月。

4 前掲、中村孝志『日本の南方関与と臺灣』、5-6 頁。

5 前掲、横井香織「日本植民地期臺灣における『南洋』調査活動の展開」、22 頁。

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灣の南方研究が蓄積された時期であることは一致している。そこで本稿では、対 仏領インドシナに関する調査開始時期がいつであったのか、誰によってなされた のかを検討することで、第一段階を1906 年から 1920 年半ばまでとした。日本の 外務省が、仏領インドシナへ現地視察を実施したのは1908 年の東亜同文会員・山 口昇が最初で、次は1910 年に小林敬一郎(外務省翻訳局書記官)が現地調査を行 った6。いずれも報告書として発表されている。一方、臺灣側からの視察・調査は、

1906 年に三五公司に勤務する高月一郎が担当した7

いずれも最初は、産官が協力して視察・調査を実施したことになる。山口昇は 外務省から嘱託された民間団体職員であり、高月は臺灣総督府と深く繋がった三 五公司の社員として、調査を担った。民間会社では、1907 年 9 月から三井物産香 港支店から人員を派遣し、米の調査や取引きを行っていたが、1909 年 2 月には一 旦撤退している8

日本や臺灣の仏領インドシナへの関心は、日本の臺灣領有後10 年を経てからに なる。いずれも現地調査不足や情報不足による関心の希薄さ、それによる日本人 進出の少なさが影響していた。さらに、通商条約という外交上の制約もあった。

これについては、後述する。

本稿では、1906 年からの初期段階の特徴を示し、臺灣からの仏領インドシナ進 出がどう変化したのか、そして次段階の進出にどう結びついたのかを検討する。

これは、中村や横井が指摘する「臺灣独自の南方施策」から「中央監督下での南 方施策」への移行において、仏領インドシナがいったいどのような段階を踏んで、

その後の調査活動に至り、それがどう中央監督下に置かれていったのか、その連 続性を明らかにする上でもこの初期段階は重要と考える。

6 1908 年調査:山口昇(外務省派遣)「清国運南省広西省及仏領印度支那地方事情調 査ノ爲東亜同文会員山口昇派遣」(外務省外交資料館文書1-6-1-30)、1910 年調 査:小林敬一郎(外務省翻訳局書記官)「安南に於て予が視たる成功者と日本人発 展策」『商工世界太平洋』第9 巻第 8 号、1910 年 4 月。JACAR(アジア歴史資料セン ター)Ref.A04010187600、外務省翻訳官補小林敬一郎仏領印度支那ヘ出張ノ件/1909 年(国立公文書館)、JACAR.Ref.B10070470900、移民調査報告第四「仏領印度支那視 察報告書」/1910 年(通_12)(外務省外交史料館)。

7 臺灣総督府公文類纂目録査詢系統「高月一郎南靖及南洋貿易調査事務ヲ嘱託ス」(冊 号2066、文号 34)に記載の経歴によると 1906 年から仏領インドシナ視察を行って いた。報告書の存在は不明。

8 湯山英子「仏領インドシナにおける日本商の活動-1910 年代から 1940 年代はじめ の三井物産と三菱商事の人員配置からの考察」『経済学研究』(北海道大学)第 62 巻第3 号、2013 年 2 月、110 頁。

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3、三五公司と仏領インドシナ

前述したように中村は、第一期を「華南の重点化」と位置づけており、その役 割を担った重要な人物に三五公司を興した愛久澤直哉の存在を挙げている。愛久 澤直哉が1902 年に創設した三五公司は、創設時から 1910 年まで臺灣総督府の「南 支・南方施設費」の補助を受け、臺灣の南方関与と密接な関係があることは、中 村孝志、鍾淑敏らによって明らかにされている9。南支・南方施設費は、表1に示 すように、第一次世界大戦以降に急増し、1930 年代は 60 万円前後を維持し続け た。それが再び増額したのは1930 年代後半からの南進政策によるものである。

中村によると、初期の三五公司は「事務所を廈門に置き、業務を事業部、教育 部、調査部の三つに分けておこなった。総督府は 1906 年以降 1910 年まで毎年 5 万5 千ないし 6 万 5 千円の補助をおこなったが、これは他の事業に対する補助に 比べると圧倒的に多い」と指摘している10

表1 南支及南洋施設費予算総額 (単位:円)

年 額 年 額

1914 67,152 1930 688,079 1915 115,950 1931 566,088 1916 115,495 1932 582,263 1917 292,310 1933 582,565 1918 296,277 1934 582,682 1919 565,685 1935 582,821 1920 737,695 1936 617,718 1921 828,390 1937 1,061,995 1922 848,390 1938 1,552,729 1923 896,951 1939 4,073,587 1924 899,723 1940 5,387,445 1925 760,923 1941 8,182,948 1926 753,273 1942 7,618,861 1927 762,621 1943 ― 1928 662,698 1944 7,281,603 1929 762,955

(出所)『日本人の海外活動に関する歴史的調査(6)臺灣編(下)』高麗書林、

1985 年、551-552 頁。(大蔵省管理局、1947 年による復刻版)

9 前掲、中村孝志『日本の南方関与と臺灣』。鍾淑敏「明治末期臺灣総督府の対岸経 営-「三五公司」の福建樟脳専売問題を中心に」『臺灣史研究』第 14 号、1997 年 10 月。

10 前掲、中村孝志『日本の南方関与と臺灣』、10 頁。

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愛久澤直哉の事業は、華南での樟脳の専売から始まり、後に南洋へも進出する ようになった。1906 年からマラヤでゴム栽培を開始している。以降、ゴム相場の 急騰により事業を拡大していった11。但し、三五公司の営業母体が臺灣、マラヤ の農園経営など地域によって機能が異なっていた上に、現地登記のため資料の制 約があり、営業実態を把握するのが難しいことが中村や鍾によって指摘されてい る。

この三五公司に高月一郎が総督府から転職したのは1903 年 11 月で、勤務地は 廈門だった12。1906 年 9 月の新聞記事によると、廈門の東亜書院に設立される実 業学校募集に法学士として関わっていた13。この東亜書院は、前述した教育部事 業に当たる。

高月一郎は、長崎県西彼杵郡大串村(現:長崎県西海市西彼杵町)出身、熊本 の第五高等中学校を経て1902 年に東大法科を卒業、同年臺灣総督府専売局書記と して就職したものの、翌年の 1903 年 11 月に退職し、三五公司に転職した14。こ れは、愛久澤直哉と東大法科の同窓生、あるいはかつて愛久澤が勤務した専売局 時代の関係に依るものかは不明であるが、いずれにしても何らかの接点があって のことと推測できる15

高月が三五公司で働いていた期間は、1908 年 3 月までの約 4 年間と短い。その うち1905 年 11 月から 1908 年 3 月までは仏領インドシナに出張し、現地調査を行 っている。そして、実際に仏領インドシナで真珠貝の採取に取り組んだ16。これ は、高月の故郷である長崎県の大串村に面した大村湾では古くから真珠の採取が 行われていたことに依るものと推測できる17。しかしながら、この三五公司の真

11 前掲、中村孝志『日本の南方関与と臺灣』、13-14 頁。

12 臺灣総督府公文類纂目録査詢系統「高月一郎南靖及南洋貿易調査事務ヲ嘱託ス」(冊 号2066、文号 34)に記載の経歴。

13『臺灣日日新報』1906 年 9 月 21 日(漢文)。

14 「明治三十六・三十七年元在官者履歴(丁)専売局」中央研究院臺灣史檔案資源系 統(TMB_10_01_018)。臺灣総督府公文類纂目録査詢系統「高月一郎南靖及南洋貿 易調査事務ヲ嘱託ス」(冊号2066、文号 34)に記載の経歴による。

15 愛久澤直哉は臺灣総督府臨時臺灣旧慣調査会第二部部長と専売局を兼務していた 時期がある。

16 「仏領印度支那ニ於ケル日本人」清国雲南省広西省及仏領印度支那地方事情調査ノ 爲メ東亜同文書員山口昇派遣一件 明治四十二年二月十五日(1909 年 2 月 15 日)

によると、三五公司に勤務していたときに真珠貝の採取に取り組んでいたとある。

柴田善雅『南洋日系栽培会社の時代』(43-47 頁)によると「仏印トンキン湾で貝 の採取業務を試みた」とある。

17 大島襄二「大村湾の真珠養殖業:採貝採藻漁村と浅海養殖漁村」『歴史地理学紀要』

(日本歴史地理学研究会)第13 号、1971 年 3 月、39-60 頁。大村湾の真珠貝養殖

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珠貝採取は、事業として失敗に終わった。

このように臺灣から仏領インドシナに目が向けられるようになったのは、三五 公司に勤務した高月一郎の存在が大きい。三五公司そのものが南方進出への布石 であり、その後も三五公司はゴム栽培を軸に南方進出のビジネスモデルとなり、

後続の会社が続出した18。高月は、この三五公司を通して仏領インドシナの資源 や市場調査を実施・報告するうちに、仏領インドシナの専門家として当地の事情 に精通するようになっていった。後に、自ら仏領インドシナでの事業展開を試み ることになる。

4、高月一郎と南亜公司

臺灣が仏領インドシナに注目した産業は、農業だった19。南洋各地では、三五 公司の成功に追随した農園経営が展開され、愛久澤直哉との関係によって設立さ れた会社もある。一つは、愛久澤の助言によって設立されたマラヤの南亜公司(森 村組系・後の代表は井上雅二)であり、もう一つは三五公司関係者によるゴム園 事業参入で、シンガポールの元・三五公司社員の後藤吉武がその代表例であるこ とを柴田が指摘している20

同時期、高月一郎もまたこうした影響を受けて、農園経営を試みた。まず、仏 領インドシナへ渡り、1908 年頃からフランス人のエル・ジルベールとの共同経営 で、ハノイ北東部のフートー省バットリウ(ママ)において、サイザル麻の栽培 を始めた21。仏領インドシナで高月は、南亜公司という名称を使っていた。南亜 公司の名称は、前述したようにマラヤで井上雅二が興した会社と同名であるが、

は明治末から大正初期に始まった。

18 柴田善雅『南洋日系栽培会社の時代』日本経済評論社、2005 年。

19 「仏領東京近況」『臺灣日日新報』(1915 年 3 月 20 日)によると、仏領インドシナ ンは商業地よりもむしろ農業地にして邦人には前途有望であると高月一郎の農業 経営と横山正脩の珈琲栽培を事例に紹介している。

20 前掲、柴田善雅『南洋日系栽培会社の時代』51-55 頁。

21 山口昇報告「仏領印度支那ニ於ケル日本人」(前掲、外務省資料「清国雲南省広西 省及仏領印度支那地方事情調査ノ爲メ東亜同文書員山口昇派遣一件」)にはハノイ から百キロ離れたバトリウと書かれているが、現在のフートー省 Viet Tri と思われ る。これには、アガーブ、マニオク、ガルシヤ、米などを耕作しているとある。

サイザル麻園の経営については、1908 年からサイザル麻栽培事業に出資し共同事 業経営者であること(前掲、臺灣総督府公文類纂目録査詢系統「高月一郎南靖及 南洋貿易調査事務ヲ嘱託ス」)、自ら新聞紙上で「フランス人と共同でサイザル麻 の栽培を営みつつある」と述べている(『臺灣日日新報』1913 年 4 月 16 日)。これ らから、各種農産物の栽培を試みていたようである。

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この時点では資金関係は見られない22。しかし、高月が愛久澤直哉や井上雅二と 懇意にしていたことから、両者のネットワークを共有していたことが推測できる

23。高月の事業資金は、荒井泰治(塩水港製糖拓殖社長)や金子直吉(鈴木商店)

らが出資していたものの24、故郷の親(高月徳治・大串村名誉村長)に金の無心 をしていたことから、資金集めに窮していた25

そこで高月は、仏領インドシナに世間の注目が集まるように、ひいては資金集 めを有利にするために1912 年、日本の関係官庁に対して調査団派遣の要請を行っ た。表2は、「仏領東京事業調査団設立旨意書」に名を連ねたメンバーである。臺 灣の企業役員では、荒井泰治(塩水港製糖拓殖社長)、村田一郎(サミユル・マミ ユル商会臺灣支店長)、山本悌二郎(臺灣製糖会長)のほかに、臺灣の製糖業に深 く関わった安部幸兵衛(安部幸商店店主)、金子直吉(鈴木商店)、日本から中野 武営、浅野總一郎、中島久萬吉など南洋出資に積極的な日本の企業家の名前もあ った。趣意書には、農業専門家の派遣を希望し、特に砂糖、サイザル麻、棉など の栽培事業を調査し、資本提供を促したい旨が記述されていた。サイザル麻の栽 培は、すでに仏領インドシナで高月一郎が手掛けていた事業である。

実際に調査団が派遣された公的記録は見当たらないが、臺灣新聞の梶原保人が 1912 年に仏領インドシナを訪問した際に「目下東京資本家団より派遣された野澤 武之助と青柳新次郎両氏は、高月氏と共に或る事業に就いて周到緻密調査中なる が、聞けば何等かの好題目を捉えたり」26と紹介していることから、調査が実施 されたことが分かる。また、井上雅二も高月の死後に「国際法学者、技師を伴い 仏印に渡り膨大な調査報告書を作成した」と『南洋協会雑誌』に記述している27

その後、高月の農園経営は資金及び人材不足によって中断したようで、ハノイ で貿易商に専念した。そして、仏領インドシナで採取される漆(液)の輸出と漆 器製造を手掛けるようになった。一方で、日本雑貨の輸入販売も行っていた。南

22 芹川醒『株式会社南亜公司沿革』(1938 年)によると、他企業に出資するほどの経 営状態ではなかったようである。

23 井上雅二「高月一郎君を悼む」『南洋協会雑誌』第9 巻第 3 号、1923 年 3 月。また、

東亜同文書院生の調査旅行で、書院生が井上と船上で出会い、ハノイの高月一郎 を紹介する(湯山英子「東亜同文書院生の仏領インドシナ調査旅行」『植民地文化 研究』第5 号、2006 年 7 月)など、資金関係の資料は無いが、愛久澤との関係を 鑑みると、井上の経営する南亜公司のネットワークに結びついていたのではない かと推測できる。

24 「南洋発展の有望(国家補助の急務)」読売新聞、1912 年 1 月 15 日によると「早 川、荒井、中村、金子諸子により出資」とあり、早川については、早川千吉郎(三 井銀行)と推測できる。

25 甥の高月照道氏、2014 年 12 月 1 日聞取り。

26 梶原保人『図南遊記』民友社、1913 年、332 頁。

27 前掲、井上雅二「高月一郎君を悼む」。

(9)

亜公司で働いていた筒井纏によると「鈴木商店のサクラビールをハノイで取り扱 っていた」と証言している28。柏木卓司によると「第一次世界大戦時には、ヨー ロッパ戦線に派遣されるベトナム兵士用の軍服を鈴木商店の代理人として一括納 品したこともあった」29と指摘している。前述したように、1912 年の調査団設立 の賛同者に鈴木直吉(鈴木商店)がいることから、南亜公司は鈴木商店の仏領イ ンドシナでの販路としての役割も担っていたのではないかと推測できる(表2参 照)。

表2 仏領東京調査団賛同者名簿

名前 備考

荒井泰治 塩水港製糖拓殖社長

金子直吉 鈴木商店

久保田勝義

安藤達二 塩水港製糖拓殖役員、安藤商会会主 柳生一義 臺灣銀行頭取

村田一郎 サミユル・マミユル商会臺灣支店長

槙武 神奈川銀行取締役

齊藤三郎助

浅野總一郎 セメント会社、臺灣地所建物会社など創立 中野武営 日清生命保険株式会社社長

佐藤政五郎 神奈川県会議長、銅鉄商 山本悌二郎 臺灣製糖会長

安部幸兵衛 安部幸商店店主

中島久萬吉 横浜電線製造株式会社社長 野澤源次郎

藤澤武之助

28 筒井纏の回想録、1985 年 4 月(私家版)。1918 年当時の南亜公司の様子が書かれて いる。同回想録によると「神戸鈴木商店の取り扱いもしていたので、この荷物が 到着すると倉庫に搬入する苦力を傭い入れて運んだが、箱は2ダース入りの木箱 だった」と記している。

29 柏木卓司「戦前期フランス領インドシナにおける邦人進出の形態」『アジア経済』

第31 巻第 3 号、1990 年 3 月、90 頁。

(10)

(出所)JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B11090749000「仏領東京事業調査団設 立ニ関スル件 明治四十五年六月」(外務省外交資料館)。

柴田善雅『南洋日系栽培会社の時代』日本経済評論社、2005 年、河野信治『日本糖業発 達史(人物編)』日本糖業発達史編纂所、1931 年、

『日本人文情報体系(第72 巻)』皓星社、2001 年、などより作成。

このように、三五公司の南方進出に乗じて高月一郎が先鞭をつけた仏領インド シナ調査、続く仏領インドシナでの起業後に組織した調査団、さらに高月自らの 農園経営と南亜公司の貿易商は、臺灣及び日本財界人との人脈を背景に進められ ていった。これらのことから、愛久澤直哉がマラヤで展開した農園(ゴム園)、井 上雅二(ゴム園)の仏領インドシナ版を高月が目指していたと考えられる。資金 と同時に、農業移民の入植も促すよう働きかけていた30。しかしながら、農園経 営の方は、資金と人材不足に陥り、長くは続かなかった31

この時期、フランスの植民地銀行であるインドシナ銀行は、小規模な商業や農 業などには投資や貸付を行っていない32。土地所有についても外国人には難しく、

単独出資は出来ないことを高月一郎自身も指摘している33

次に高月一郎が再起をかけて農園経営に乗り出すのは、1920 年代になってから である。

5、臺灣総督府の調査嘱託員

日本における仏領インドシナ調査は、前述したように外務省が先鞭をつけたも のの、むしろ臺灣が積極的に調査活動を進めることになった。その先駆的な役割 を担ったのは三五公司であり、その後、自ら起業した高月一郎であることは前述 した。三五公司の背景には、臺灣総督府の南支及南洋調査費が関係していたこと は中村孝志によって明らかにされている34

30 高月一郎「印度支那仏領植民地情勢(三)」『臺灣時報』第8 号、1910 年 2 月。

31 柏木卓司によると、この頃の高月一郎の農園経営は、「日露戦争直後のため軍事探 偵と疑がわれたり、病虫害に遭うなどの不運が重なった」ということで、思うよう に事業が進まず、そのため、調査団要請に至ったと指摘している。

32 権上康男『フランス帝国主義とアジア-インドシナ銀行史研究』東京大学出版会、

1985 年、274 頁。

33 『法学士高月一郎講演 仏領東京事情』大日本国防義会、1915 年。

34 前掲、中村孝志『日本の南方関与と臺灣』10-14 頁。

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表3 臺灣総督府調査嘱託員(1912 年~1925 年)

年月日 名前 内容

1912 年 3 月 1 日 高月一郎 南清及南洋貿易調査事務嘱託(月手当五十円)

1920 年 1 月 19 日 横山正脩 地方調査事務嘱託

1921 年 2 月 18 日 古谷榮一 仏領印度支那地方調査事務嘱託 1923 年 5 月 11 日 中村修(海防領

事) 嘱託を解く(海防領事更迭)

1923 年 5 月 11 日 森新一 仏領印度支那地方調査事務嘱託(1ヵ月年400 円賞与金「南支那及南洋施設費」より支出」)

1925 年 3 月 26 日 菅和三郎 仏領印度支那地方調査事務嘱託 森新一解く 1925 年 1 月 22 日 堀幸壽 仏領印度支那に於ける制度及民族調査事務嘱

託(一時手当金200 円「南支那及南洋施設費」)

(出所)臺灣総督府及所属機構公文書/「高月一郎南清及南洋貿易調査事務ヲ嘱託 ス」(冊号2066)、「横山正脩仏領印度支那地方調査事務職ヲ嘱託ス」(冊号3097)、

「古谷栄一仏領印度支那地方調査事務職ヲ嘱託ス」(冊号3203)、「森新一仏領 印度支那地方調査事務職嘱託」(冊号3750)、「堀幸壽仏領印度支那ニ於ケル制 度及民族ニ干スル調査事務嘱託ス」(冊号4007)、「菅和三郎仏領印度支那地方 調査事務職ヲ嘱託ス」(冊号4008)、「古谷栄一解嘱託」(冊号 4052)、「菅和 三郎御用済ニ付嘱託ヲ解ク・賞与」(冊号10214)、より作成。

表4 横山正脩の報告一覧

雑誌名 発行 掲載年 月 項目 タイトル 肩書

『南洋 協会雑 誌』

南洋

協会 1919 年 3 月 「印度支那を認識せよ」

1919 年 3 月 論説 「仏領印度支那論」 久原鉱業会社嘱託 1919 年 7 月 説苑 「印度支那の現在及将

来(1)」

1919 年 8 月 説苑 「印度支那の現在及将 来(2)」

1923 年 2 月 資料 「仏領印度支那の近状」

1923 年 3 月 論説 「熱帯国に於ける我移 民の方針」

1923 年 3 月 資料 「仏領印度支那近状」

1923 年 4 月 資料 「驚くべき印度支那米 仏領印度支那調査嘱託

(12)

産の将来」

1924 年 5 月 資料 「印度支那外国貿易」

1924 年 5 月 「仏領印度印度支那の 革命運動」

1924 年 6 月 資料 「印度支那外国貿易

(2)」 仏領印度支那調査嘱託 1924 年 7 月 資料 「仏領印度支那の外国

貿易」 仏領印度支那調査嘱託

1924 年 8 月 資料 「仏領印度支那の外国

貿易」 仏領印度支那調査嘱託

1924 年 9 月 資料 「仏領印度支那の外国

貿易」 仏領印度支那調査嘱託

1924 年 9 月 説苑 「仏領印度支那の現在 及将来」

仏領印度支那地方調査 嘱託

1924 年 10 月 資料 「仏領印度支那の外国

貿易(4)」 仏領印度支那調査嘱託 1924 年 11 月 資料 「仏領印度支那の外国

貿易(5)」 仏領印度支那調査嘱託 1924 年 12 月 資料 「仏領印度支那外国貿

易(6)」 仏領印度支那調査嘱託 1924 年 12 月 「仏領印度支那時事」 仏領印度支那調査嘱託 1925 年 1 月 「仏領印度支那時事

(2)」 仏領印度支那調査嘱託 1925 年 2 月 「仏領印度支那時事

(3)」 仏領印度支那調査嘱託 1925 年 7 月 「仏領印度支那の財政」

1925 年 7 月 資料 「1924 年の印度支那貿

易」

1925 年 7 月 資料 「印度支那の外国貿易」

1925 年 8 月 資料 「印度支那の外国貿易」

1925 年 9 月 資料 「印度支那の外国貿易」

1930 年 5 月 「我国と仏領印度品と の経済関係」

本会仏領印度支那地方 調査嘱託

1930 年 11 月 「我国の好発展地仏領 老かい」

本会仏領印度支那地方 調査嘱託

1931 年 8 月 資料 「仏領印度支那米の将

来」 仏領印度支那調査嘱託

1931 年 9 月 資料 「仏領印度支那米の将 仏領印度支那調査嘱託

(13)

来」

1931 年 10 月 資料 「仏領印度支那米の将

来」 仏領印度支那調査嘱託

(出所)『南洋協会雑誌』(1919~1931 年)まで各号、より作成。

臺灣総督府官房調査課は、この南支及南洋施設費から、仏領インドシナに嘱託 調査員を任命した。任命されたのが、仏領インドシナ在住の高月一郎である。こ のときの高月は、仏領インドシナで一回目の農園経営を始めていた。臺灣総督府 は、彼を通して仏領インドシナの情報収集を行っていた。表3 にあるように、任 命時期は、1912 年から高月一郎、1920 年からは横山正脩で35、いずれも仏領イン ドシナ在住の民間人としてである。

続いて、1921 年になると領事も情報収集の役を担うことになった。これは、1920 年のハイフォン領事館開設によるものである。しかし、一方では現地に精通した 専門家として高月も講演会を通じて仏領インドシナ事情を紹介し、横山正脩もま た臺灣発行の雑誌に寄稿し続けた(表 4 参照)。1920 年の領事館開設以降も臺灣 と仏領インドシナとは、在留日本人(民間人)をパイプに繋がっていくことにな る。

6、農林調査と商業調査

仏領インドシナの森林調査については、1914 年から調査が始められた。一回目 は、臺灣総督府営林局の川原勘次郎技師が、森林経営の基本調査と称して 1914 年に仏領インドシナとタイの森林調査を実施した。冒険色の強い調査だったよう で、これが初の森林調査と推測できる。続いて1917 年に、川原勘次郎技師、河合 鈰太郎林学博士(嘱託)、斉藤参吉らが2回目の仏印森林調査を実施した36。3 回 目は、1918 年に印度支那企業組合(代表:斉藤参吉)が組織され、「仏領印度東 京地方調査、雲南東京国境に於ける森林調査及カンボジアの綿花、米作、製糖事 業調査」という内容が盛り込まれた。調査は、横山正脩(ハノイ在住)、岡本要八、

岡新六、辻勝次郎、山下新二、網野壽一、増田五郎が担当し、この費用は南支及 南洋施設費からの事業補助による。印度支那企業組合として1918 年と 1919 年に

35 柏木卓司(1990)によると、仏領インドシナ在住の横山正脩は、ハノイで大阪毎日 新聞通信員、鉱山請負人、農園管理者、鉱山の経営などに携わる。この時期は通信 員と思われる。横山正脩も臺灣との人脈を持ち、臺灣発行の雑誌に寄稿を続け、1920 年頃までは臺灣に行き来していたようである(「横山正脩氏講演会と其歓迎会」『臺 灣日日新報』1920 年 12 月 28 日)。

36 『臺灣日日新報』1919 年 5 月 7 日。

(14)

助成を受けていた37。調査員のほとんどは臺灣総督府技師が占め、横山正脩が現 地在住者として加わった。この時、組織された印度支那企業組合は、期間限定で その後に継続していないことから、補助金を得るためだけに結成された組織と推 測できる。

表5 『商工月報』『臺灣商工月報』の仏領インドシナ関連報告

内容 報告者 号数 年 月

「佛領東京に於けるパルプ製造会社の設立」 在香港総領事報

告 14 1910 5

「風俗嗜好並に慣習の変遷に依る新需要品に

関する調査/佛領東京」 在香港領事報告 21 1910 12

「佛領印度支那に於ける産米の状況」 在香港領事報告 30 1911 11

「西貢に於ける米穀輸出禁止」 30 1911 11

「佛領印度支那の商工業」 在港領事報告 47 1913 3

「佛領印度支那に於ける輸出入貿易概況」 在河内嘱託員報

告 48 1913 4

「海防セメント会社現況」 在香港領事報告 48 1913 4

「佛領東京パルプ製造成績」 在香港嘱託員報

告 56 1913 12

「交趾支那と馬尼刺間直通新線路会社設立」 57 1914 1

「佛印東京に於ける黄麻栽培概況」 高月一郎調査 73 1915 5

「東京に於ける帽子販路調査」 高月一郎調査 74 1915 6

「東京に於ける綿栽培状況」 高月一郎調査 75 1915 7

「印度支那汽船航運会社営業成績」 香港高橋総領事

代理報告 98 1917 5

「佛領印度支那と米国貿易」 香港総領事報告 103 1917 10

「佛領印度支那に於ける米況に就いて(サイゴ

ン商務局発表)」 118 1919 1

「蘭貢米及西貢米に関する調査(本調査は香港

鈴木商店調査に因る)」 119 1919 2

(出所)『商工月報』(~1914)~61 号、『臺灣商工月報』(1914-1919)62~

121 号、より作成。

37 「南支南洋ニ於ケル邦人企業ノ助成」臺灣総督府殖産局商工課編『熱帯産業調査書』

殖産局商工課、1935 年。中村孝志(1988)によると 1919 年には企業関係費用とし て4 万 8 千円が計上され、仏領印度支那企業組合は 7500 円の補助金を得ている(265 頁)。

(15)

一方、商業調査は、表5 の『臺灣商工月報』に見られるように、1910 年代は香 港総領事報告として市場調査が紹介されており、香港との関係が強かったことが 分かる38。また、第一次世界大戦以降、銀行による調査が行われるようになった。

臺灣銀行の調査が1918 年、日本からは横浜正金銀行が 1919 年に仏領インドシナ 調査を実施し、市場・金融に関する報告書を発行している39。その翌年 4 月に横 浜正金銀行のサイゴン支店が開設され(1930 年まで)、臺灣銀行と深く関係のあ る華南銀行40 が 1920 年 5 月にサイゴン、1921 年 7 月ハノイに支店を開設してい る。サイゴンに日本と臺灣から2つの銀行が出揃ったことになる。

こうした背景には、1915 年 1 月に南洋協会、臺灣支部が同時に設立されたこと が影響したものと考えられる。南洋協会には総督府の南支及南洋施設費から事業 補助が出ていた41。ここから、多くの南洋調査が始められた。主な報告書・文献 などを挙げると、次のようである。

臺灣総督府

・『佛領印度支那事情』1916 年。(南支那及南洋調査6)

・『南支那佛領印度支那之水産業』1923 年。(南支那及南洋調査73/水産局水産課 19)

臺灣総督府官房調査課(1919 年に調査課設立)

・横山正脩訳『仏領印度支那大観』1921 年。(南支那及南洋調査 50)

南洋協会臺灣支部

・遠藤静二訳『佛領印度支那』1923 年。

・田名瀬勝吉『佛領印度支那金融事情』1929 年。(南洋叢書 50)

・有久清安訳『佛領植民地の関税政策』1931 年。

38 清水元「外務省『海外在留邦人職業別人口調査一件』の史料的性格」『アジア経済』

第26 巻第 3 号、80-84 頁。1920 年の領事館開設までは香港領事が一部業務を担っ ていたようである。三井物産は香港から出張員を派遣していた。19 世紀半ばから 20 世紀前半における香港と東南アジアとの経済関係は、仏領インドシナを含め密 接な繋がりがあったと言える(久末亮一『香港「帝国時代」のゲートウェイ』名古 屋大学出版会、2012 年に詳しい)。

39 『仏領印度支那出張調査概要』臺灣銀行、1918 年。清水義英『仏領印度支那視察 復命書』横浜正金銀行、1919 年。

40 臺灣銀行と華南銀行との関係は、「別働隊」(衛藤俊彦 1978)「支配下」(久末亮一 2010)あるいは「日華合弁」(中村孝志1988)という表現で示され、深く関係して いることは確かである。

41 前掲、中村孝志『日本の南方関与と臺灣』、265 頁。

(16)

仏領インドシナの資源調査は、前述したように農林調査を中心に活発に行われ ていた。この頃の調査は、種子や苗を臺灣に持ち帰り、研究機関で栽培実験が蓄 積されていった時期でもある42

一方で、銀行調査を含む商業調査は、日本の中央政府進出の足掛かりとなって いった。1920 年にハイフォン領事館(日本外務省)が開設され、翌年 1921 年 5 月には、基隆/ハイフォン間の航路が開設された(1928 年廃止)。航路開設によ り、臺灣からの人や物の移動にも影響を与えたと考えられる。1920 年代になると、

在仏領インドシナの日本人社会の構成員が変化し、日本人社会の転換期でもあっ た。それまでの日本人社会は、主に娼館経営や小規模な商店経営が主流であった43

前述したように、高月一郎の死後は、仏領インドシナ在住の横山正脩が南洋協 会雑誌に調査報告を提供し続けた。横山正脩は、愛媛県松山市出身、1906 年に日 本から仏領インドシナに渡り、現地で大阪毎日新聞の通信員、鉱山請負人、農園 管理者、日本軍の諜報員、1938 年には鉱山業を営むなど、終戦まで数々の仕事に 就いていた44。臺灣への行き来は、1920 年頃までは一時期あったが、あとは表 4 にあるように1919 年から 1931 年までは『南洋協会雑誌』の報告が主である。臺 灣資本と結びついて仏領インドシナで事業経営をした記録は見当たらない。

7、高月一郎の漆園経営計画

1920 年代になると、高月は再び農園経営を画策するようになった。折しも日本 では漆(液)の需要が増え始めていたが、ほとんどが外国産漆の輸入で賄う状態 が続いていた。主要は中国産漆だったものの、他の輸入先を求めて仏領インドシ ナ産である「安南漆」の調査が始まっていた。臺灣から派遣された森林調査員が 臺灣に持ち帰った「安南漆」の試験栽培が始まったのは、1910 年代末からである

45。高月一郎は仏領インドシナの漆に商機を見出し、漆園開設を画策し始めるよ うになり、資金集めに日本に向かった46。しかしながら、仏領インドシナへ戻る

42 「外国蔗苗輸入 佛領印度支那産五種」『臺灣日日新報』1918 年 12 月 14 日。「総督 府の吉田技師が仏領インドシナ調査に赴き、蔗苗5 種 31 本を購入し、苗圃で検査 したところ23 本合格した」という記事が掲載されている。同様に「安南漆」も臺 灣に持ち帰り試験栽培が行われていた(湯山2011)。

43 湯山英子「仏領インドシナにおける日本人社会」蘭信三編著『日本帝国をめぐる人 口移動の国際社会学』不二出版、2008 年、788 頁。

44 外交資料「外国在留本邦人ノ罪籍調査関係一件 仏領印度支那ノ部 K-3-7-0-1-1」。

柏木卓司「戦前期フランス領インドシナにおける邦人進出の形態」『アジア経済』

第31 巻 3 号、1990 年 3 月、93 頁。

45 「戦前アジア域内における漆の貿易・生産過程-植民地臺灣を中心に」『アジア デザイン文化学会論文集』第7号、2013年3月、678頁。

46 柏木卓司(1990)によると「南洋協会の肝いりで、農商務省や東洋拓殖などの賛同

(17)

直前に日本で病に倒れ、志半ばにして亡くなってしまった。ハノイに残された高 月一郎の妻・三千代と息子・東一は帰国することになった。しかし、高月一郎の 生前から妻・三千代は、出身地である山形県米沢市の兄弟を呼びよせて南亜公司 を手伝わせていたことから、残された兄弟が後に「宮崎商店」をハノイで開業し た。宮崎商店は、一時期漆を扱っていたものの、漆から手を引いている47

高月一郎の死後、漆の取引きは、在仏領インドシナ日本商の下村洋行、渡部洋 行、菊地漆行、大南公司、斎藤漆店(本店・大阪)らが引継ぐ形で終戦まで続い た。臺灣では総督府中央研究所林部が試験栽培を重ね(試験栽培報告:1928 年、

1931 年、1934 年)、民間企業が参入して臺灣での栽培が始められるに至った48。 臺灣での漆栽培について、高月一郎が直接関与した資料はないものの、斎藤漆店 が後に臺灣での漆栽培事業を展開していくことになる。

8、真室幸教と日仏製糖会社

高月一郎の仏領インドシナでの漆園経営計画と同時期、臺灣総督府を退職した ばかりの真室幸教は、仏領インドシナの糖業調査を実施した。真室は、1919 年 10 月に総督府殖産局糖務課を辞職し、一時期は大和製糖(辜顯榮)の専務取締役と なったものの、間もなく仏領インドシナで甘蔗農園の経営に乗り出した。日仏製 糖株式会社の取締役となったのは、真室が56 歳のときだった49

真室の経歴は、香川県出身、京都西本願寺普通教校(現、龍谷大学)を 1890 年に卒業、1902 年から臺灣総督府勤務となり、1910 年 4 月に砂糖及び茶に関する 技師として任命された50。1912 年にジャワの糖業について総督府殖産局で報告書51 をまとめるなど、臺灣の糖業畑を経てきた糖業の専門家である。その真室が殖産 局在職中の1918 年に、三菱商事から「サイゴン西北部での糖業開始の可否」につ いて調査を求められたことがあった。真室は、総督府辞職後の1921 年 4 月から6 月にかけて適地確認のために現地調査を実施した。幾つか土壌調査を施し、その 結果、栽培地として「良好」と判断したのが南部仏領インドシナだった52。その 時の調査結果は、次のように報告されている。

を得て25 万円ほどの拠出に成功した」とある。

47 前掲、湯山英子「仏領インドシナにおける対日漆貿易の展開過程」、64 頁。

48 前掲、湯山英子「仏領インドシナにおける対日漆貿易の展開過程」、67-68 頁。

49 『臺灣日日新報』1929 年 4 月 14 日。

50 中央研究院臺灣史研究所 臺灣總督府職員錄系統および、「明治四十三年元在官職者 履歴書」<TMB_13_01_030>。

51 『爪哇之糖業』臺灣総督府民政部殖産局、1912 年。

52 真室幸教「交趾支那の糖業的価値」『臺灣時報』第32 号、1922 年 3 月、97 頁。真 室幸教「交趾支那の糖業的価値補遺」『臺灣時報』第33 号、1922 年 4 月、87-91 頁。

(18)

・真室幸教『交趾支那の糖業的価値』、1921 年53

・真室幸教「交趾支那の糖業的価値」『臺灣時報』第32 号(1922 年 3 月)。

・真室幸教「交趾支那の糖業的価値補遺」『臺灣時報』第33 号(1922 年 4 月)。

1 と 2、3 は同内容であり、これまで培ってきた臺灣やジャワ糖業との比較がな され、仏領インドシナの有望性が説かれている。労力については仏領印インドシ ナ北部と中部から移民を招致して開墾させ、製糖場の設立資金としては65 万円か ら70 万円の資本金を要するが、操業から 3 年以降には利益を生むと試算していた

54。

この調査をもとに真室幸教が日仏製糖株式会社を設立したのが1923 年 2 月で、

農場と工場はサイゴンの東にあるバリア州ミション(美春)55、資本金 200 万円

(払込50 万円)からのスタートだった56

表6 日仏製糖会社主要株主(1923 年)

株主 株数 備考

熊取谷商店 5000

熊取谷七松 5000 東京砂糖貿易取締役、スマトラ農林㈱1922 年社長 日蘭貿易会社 5000

丹澤喜利 5000 日蘭貿易株式会社(1917 年 11 月設立)東京・専務取締 役

仲尾仲三郎 3000 新山実太郎 3000 真室幸教 2000 船津貞三 2000 長谷川英三 2000

53 所蔵機関(東京大学経済学部図書館)の書誌データによると発行が「日仏製糖株式 会社」となっているが、裏表紙に同社のスタンプが押印されているだけであり、

発行は不明。

54 前掲、真室幸教「交趾支那の糖業的価値補遺」、87-91 頁。

55 バリア州ミション(美春)は、現在のブンタウ省ミースワン村(My Xuan)と思わ れる。新聞記事には「サイゴンから50 里」(『臺灣日日新報』1924 年 12 月 6 日)、

「サイゴンから東へ77 キロ」(瀬戸口1925)とあるが、現在の地図によると 60 キ ロ程度の位置にある。

56 瀬戸口又『仏領印度支那視察報告書』鈴木商店香港出張所、1925 年 3 月、66 頁。「注 目される日仏製糖の業績」『時事新報』1923 年 3 月 20 日。

(19)

藤方光三 1000

(出所)瀬戸口又『佛領印度支那視察報告書』1925 年 3 月、より作成。

会社名は日仏製糖株式会社となっているものの、株主中フランス人の M.Brakkel と M.Mayor が土地所有者として若干の株を所有する程度で、実質は日本人経営の 糖業会社である57。表6は、主要株主を示したものである。砂糖業界の重鎮であ る丹澤善利、熊取谷七松など、いずれも南洋投資に積極的な会社・人物が出資し た。その状況は、当時の新聞が次のように伝えている58

日仏製糖会社が邦人に拠って交趾支那(仏領安南)に設立された事は 既報の如くであるが今其内情を聴くに同社は日蘭貿易会社の丹沢喜利 氏をはじめとする一派が最近瓜哇に於ける砂糖転売に拠って得たる利 益の一部を以て設立を計画したものであって資本金は二百万円で既に 五十万円の払込みを終り本店を東京に置き専務取締役に臺灣総督の前 糖務課長真室孝氏を推して居る。而して工場は安南の首都サイゴンか ら約二百五十料の距離にあるメーコン河の三角州に設置し機械を明治 製糖会社から譲り受け能力四百噸の設備に着手し早速付近の開墾を開 始する由である。尚交趾支那に於ける邦人の製糖事業は是れを以て嚆 矢とするが而も我製糖会社が従来何れも目をつけて居た計画であるだ けに同社の業績如何は目下内地同業者に拠って頗る注目されて居ると

(1923 年 3 月 30 日)。

最初、真室が丹沢らに担ぎ出されて取締役に就任するように書かれているが、

実際には真室自身が臺灣総督府の退職金を事業資金に充て、自ら鍬を持って開墾 にあたった。前述したように真室の背景には臺灣製糖業界との強い関係があり、

現地で使用する製糖機械を明治製糖株式会社から譲り受け、甘蔗は総督府農事試 験所の苗を船便で取り寄せるなど59、業界から便宜を図ってもらっていた。事業 開始時は臺灣でも注目され1923 年から 1924 年には、頻繁に臺灣の新聞紙上でそ の様子が紹介されていた。中でも、1924 年 6 月には、華南銀行の副総理・山中義 信が南方視察の際に現地を訪問するほど、関心の高い事業だった。現地では、800 ヘクタールの土地を開墾し、日本人11 人、仏人事務員若干名が働いていたことが 報告されている。これらの運転資金は、出資金とサイゴン華南銀行からの借り入 れによって賄われ、華南銀行から約6万3 千円の借入金があった60

57 前掲、瀬戸口又『仏領印度支那視察報告書』、67 頁。

58 「注目される日仏製糖の業績 安南最初の試み」『時事新報』1923 年 3 月 30 日。

59 「西貢へ蔗苗積出」『臺灣日日新報』1923 年 12 月 29 日。

60 前掲、瀬戸口又『仏領印度支那視察報告書』、88 頁。

(20)

1925 年に現地を訪問した鈴木商店香港支店の瀬戸口又によると、最初に臺灣か ら仕入れた甘蔗の苗に手違いが起こり、全苗を焼却したことが報告されている61。 新聞紙上で紹介された好調な出だしと若干異なる。瀬戸口によると1925 年 2 月時 点では、使用人内訳は、日本人16 人(農業7、事務2、工場4、商事務3)、別々 雇1、中国人職工5、苦力平均 300 人見当となっていた62。当時、仏領インドシ ナにおける日本人の事業規模としては、大きい。

種苗については、真室の調査段階から在来種は好適ではないと判断しており、

最初から臺灣総督府種苗場の種苗を使う予定であった63。実際の栽培地が砂土質 だったため、ジャワ種36 号、161 号、234 号、臺灣種 19 号を試作していたことが 報告されている64。これらは、臺灣総督府中央研究所の試験所で「砂質土」用の 優良品種として奨励されていたものである65

表7は、創設時からの支出額を示したもので、「苗輸入に関する手違い上の損害」

とあるのは、前述した苗の焼却事件である。これは、臺灣から種苗を輸入する際、

仏領インドシナの蔗病防止に関する法規に抵触し、臺灣からの苗数万本を焼却す ることになってしまった。これによって、植え付け時期が遅延してしまったこと になる。真室の入植前の調査によると、植え付け時期は、12 月から 3 月まで、収 穫時期は12 月から 4 月までが普通であるが、5、6月まで収穫することがあり、

さらに植え付けも10 月から2月まで可能であると予測していた66。新聞によると、

1923 年 12 月末に初回の苗が臺灣から輸送されていた67。法規の問題を解決するた めに、臺灣糖業界から交渉があったようで、その問題が解消されるまで植え付け が出来なかったものと考えられる。

日仏製糖会社は1925 年 2 月時点ですでに資金不足が顕在化していた。開墾栽培 費、工場完成費、金利予備費などを見積もっても約20 万円が必要だと瀬戸口又が 試算している68

61 前掲、瀬戸口又『仏領印度支那視察報告書』、49 頁、88 頁。

62 前掲、瀬戸口又『仏領印度支那視察報告書』、75 頁。

63 「西貢の山中で開墾」『臺灣日日新報』1924 年 6 月 6 日。

64 前掲、瀬戸口又『仏領印度支那視察報告書』、81 頁。

65 池原一磨「日本統治時代中期の臺灣糖業-品種改良を中心に」松田吉郎『日本統治 時代臺灣の経済と社会』晃洋書房、2012 年、44 頁。

66 真室幸教「交趾支那の糖業的価値補遺」『臺灣時報』第33 号、1922 年 4 月、79 頁。

67 「西貢へ蔗苗積出」『臺灣日日新報』1923 年 12 月 29 日。

68 前掲、瀬戸口又『仏領印度支那視察報告書』、89 頁。

(21)

表7 日仏製糖株式会社支出額(1923 年~1924 年)

項目 金額(円)

工場機械費代金(明治製糖へ) 70,000

上記 輸入税 39,000

建設費・組立費 19,500

苦力費 1923 年中 19,500

苦力費 1924 年中 62,400

農園及工場員給料その他 26,000

創立費・事務所費・給料その他 52,000

苗輸入に関する手違上の損失 13,000

輸送設備費 13,000

土地買入代金 19,500

合計 333,900

(出所)瀬戸口又『仏領印度支那視察報告書』鈴木商店(香港)、1925 年 3 月、

より作成。

こうしたことから、次第に経営が行き詰まっていった。最終的にはフランス人 に事業譲渡をして撤退に至った。前述したように、臺灣糖業界から期待されてい たものの、1925 年に入ると新聞紙上には一切、取り上げられることは無くなった。

正確な撤退時期は不明であるが1927 年頃と推測できる。柏木によると「関東大震 災による影響で、投資家からの支援が得られなかった」69 との見解を示している が、そのほかにも苗入手の問題などが重なり、資金繰りが追いつかなかったと考 えられる。真室の農園経営の顛末は新聞紙上でも詳しくは語られず、次のような 記事があるだけである70

真室君は仏領印度に日仏製糖を起こして役人時代に貯めた資材を棒 に振った人である。之を日本人の手で引き続き経営すれば邦人視察者 の足だまりとなり万事調査の爲にも好都合であるのに不幸資金が続か ず此の事業を佛人の手に渡すの余儀なきに至ったのは返す返すも残念 だと悔やんでいる(1928 年 4 月 13 日)。

このように真室の場合、1923 年から 1927 頃までと短期だったが、高月と同じ ように業界および財界から資金を集め、農業投資を試みたところは共通している。

69 前掲、柏木卓司「戦前期フランス領インドシナにおける邦人進出の形態」、91 頁。

70 「北南西東」『臺灣日日新報』1928 年 4 月 13 日。

(22)

特に臺灣を中心とする人脈だけでなく、日本の財界人にも出資を働きかけていた。

また、1920 年代の仏領インドシナの在留日本人は、商業関係者で占められ、小規 模な商店のほかに商社や銀行の駐在員が加わり、ハイフォン、ハノイ、サイゴン の都市を中心に日本人社会が形成されていた71。その中で、農業経営を試みよう としたのが臺灣からの高月一郎や真室幸教らであった。真室は、臺灣に戻って数 年を過ごした後、1929 年 4 月に病死した72

9、印度支那協会の視察

一方、日本では1922 年 6 月 22 日に印度支那協会(東京)が設立された。外交 上の交渉団体として、1924 年 5 月 8 日から 20 日までインドシナ総督メルランの 訪日に向け、招待機関として「経済通商関係の増進発展」を名目に設立されたの が、印度支那協会である。メルラン総督訪日の返礼として、1925 年 2 月 5 日から 27 日にかけて、山縣伊三郎一行が仏領インドシナを訪問した73。これに嘱託調査 員として随行したのが木村修三教授である。もう一人、この視察団に香港から合 流し、単独で現地調査を行ったのが鈴木商店香港出張所の瀬戸口又である。

木村修三は、農学者として使節団に参加したときは宇都宮高等農林学校に勤務 し、後に九州帝国大学に移っている。九州帝国大学時代には、仏領インドシナの

「安南漆」について報告書を発表した74。使節団に同行した直後に発表したのが、

『佛領印度支那の農業に関する調査報告書』印度支那協会(1925 年 10 月)であ り、これが日本側から調査した最初の農業関連の報告書に当たる。一方、瀬戸口 又は、『佛領印度支那視察報告書』(1925 年 3 月)をまとめた。内容は、貿易、農 林業、工業全般だけでなく、糖業と日仏製糖、無煙炭、塩などの産品について詳 しく報告されている。

このように、視察団には外交交渉の目的以外にも木村修三のように農業分野の 研究者、商業界から瀬戸口又のような人材が加わり、調査を実施した。また、印 度支那協会はこの時期に次のような報告書を発行するなど、積極的にその存在を 示した。

・『佛領印度支那の農業に關する調査報告書』印度支那協會、1925 年。

71 前掲、湯山英子「仏領インドシナにおける日本人社会」、783-788 頁。

72 「故真室氏葬儀」『臺灣日日新報』1929 年 4 月 15 日。

73 海野芳郎「日本とインドシナの貿易摩擦」細谷千博『太平洋・アジア圏の国際経済 紛争史』東京大学出版会、1983 年。

74 木村修三の経歴については、奥田弘『宮沢賢治研究資料探索』(蒼丘書林、2001 年)

の「木村修三教授のこと」に詳しい。『木村修三「仏領印度支那産漆及び本邦産漆 に就いての考察」吉川教授在職二十五年記念會編纂(九州帝国大学)『作物学論集』

1935 年 12 月。実際に現地調査を行ったのは 1928 年。

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・『日本品ニ最低税率ヲ與フルコトニ反對スル意見並ニ外國人ノ土地所有權其他ノ 權利ニ關スル佛領印度支那商工會ノ意見及ヒ其評論 』印度支那協會、1924 年。

・『メルラン總督の来朝と印度支那協會』印度支那協會、 1924 年。

印度支那協会の調査は1924 年と 1925 年に集中して実施されていた。1920 年代 後半になると、日本の経済団体が商機を見出そうと、積極的に仏領インドシナに 接触してくることになる。例えば、商工会議所が1927 年のハノイ見本市に参加、

同年サイゴン・チョロンでの展示会開催、サイゴン見本市の視察など、商品販路 を探るようになった75。また、この時期に日本の商工省から貿易通信員の加藤俊 雄を駐在させ、市場調査を実施していた。加藤の報告は、『内外商工時報』(農商 務省)に随時、発表されていた76。このように、1920 年代後半になると、日本側 から積極的なアプローチがあった。しかしながら、その後の恐慌、仏領インドシ ナの関税障壁などの理由によって、実際の企業進出には結びついていない。

10、まとめ

これまで臺灣および日本からの仏領インドシナ調査と進出の形態を見てきた。

本稿では、初期段階を1906 年から 1920 年代半ばまでとし、その特徴を明らかに した。現地調査については、臺灣総督府の南支及南洋施設費を資金源にした調査 が積極的に行われた。一つは三五公司によるもの、二つ目は総督府嘱託員の任命 であり、当初は高月一郎、横山正脩の民間人が担い、領事館開設と共に領事もそ の一端を担うようになった。三つめは印度支那産業組合の農業調査であり、これ も南方施設費によって賄われた。この一連の調査は、1906 年から 1920 年の間に 行われた。また、市場調査は『臺灣商工月報』(臺灣総督府殖産局)に見られるよ うに、1910 年代は香港領事による調査が主流であった。また、日本側による初期 の調査は、外務省が先鞭をつけたものの継続はせず、その後も単発的に行われた

75 『第二回旅商第一班報告書』日本商工会議所、1928 年。ハノイ見本市は、1927 年 12 月 18、19 日、サイゴンは 1928 年 1 月 18、19 日に開催している。また、サイゴ ン見本市(1927 年 12 月 17 日〜1928 年 1 月 17 日)を日本商工会が視察。加藤俊 雄によると、日本の出品もあり商工会議所連合会ほか4 軒が参加していた。

76 加藤俊雄の調査には次のような報告書がある。加藤俊雄(在西貢貿易通信員)「印 度支那の陶業」第15 巻第 2 号、1928 年 3 月。「西貢見本市の与えた教訓」第15 巻 第10 号、1928 年 10 月。「西貢見本市の与えた教訓」第 15 巻第 12 号、1928 年 12 月。「西貢見本市の与えた教訓」第16 巻第1号、1929 年1月。「仏領印度支那に於 ける本邦品取引の前途」第16 巻第 3 号、1929 年 3 月。「仏領印度支那に於ける本 邦品取引の前途(二)」第 16 巻第 4 号、1929 年 4 月。いずれも『内外商工時報』

(農商務省)。

(24)

だけで、臺灣のように継続はしなかった。

調査後の進出については、臺灣を拠点にしていた高月一郎と真室幸教の2人が 調査を足がかりに仏領インドシナ進出を試みたものの、農園経営は短期間で終わ った。両者に見られるように、組織だったものというよりも、一旦組織を離れ、

総督府時代に培った人脈を背景に投資家の資金を集めた農園経営の進出と言える。

第一次世界大戦以降の南洋進出ブームに乗った事業展開を仏領インドシナで実践 したものと考えられる。

一方、1920 年代半ばになると、日本の外務省が 1924 年から 1925 年にかけて外 交交渉を積極的に推進した。交渉団体として印度支那協会が東京に設立され、返 答使節団が仏領インドシナを訪問し、これに随行した研究者や民間企業が仏領イ ンドシナの農業や商業について調査報告書をまとめている。しかしながら、実際 はこの時期の日本から仏領インドシナへの企業進出には結びついていない。但し、

1927 年になると日本の経済団体が見本市に出展するなど、仏領インドシナでの商 機を求めて自ら市場調査をするようになった。

このように臺灣、香港、日本からの関与があったものの、初期段階においては とりわけ臺灣が積極的に調査を進めていた。それらを担った元総督府関係者が、

現地調査を元に自ら起業して仏領インドシナに進出したのがこの時期の特徴であ る。次段階へどう繋がっていったのかは、稿を改めて論じたい。

(25)

徵引書目

「注目される日仏製糖の業績 安南最初の試み」『時事新報』,1923 年 3 月 30 日。

「注目される日仏製糖の業績」『時事新報』,1923 年 3 月 20 日。

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加藤俊雄,「仏領印度支那に於ける本邦品取引の前途」『内外商工時報』,第16 巻 第3 号,1929 年 3 月。

加藤俊雄,「印度支那の陶業」『内外商工時報』,第15 巻第 2 号,1928 年 3 月 加藤俊雄,「西貢見本市の与えた教訓」『内外商工時報』,第 15 巻第 10 号,1928

年10 月。

加藤俊雄,「西貢見本市の与えた教訓」『内外商工時報』,第 15 巻第 12 号,1928 年12 月。

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數據

表 3  臺灣総督府調査嘱託員(1912 年~1925 年)  年月日  名前  内容  1912 年 3 月 1 日  高月一郎  南清及南洋貿易調査事務嘱託(月手当五十円)  1920 年 1 月 19 日 横山正脩  地方調査事務嘱託  1921 年 2 月 18 日 古谷榮一  仏領印度支那地方調査事務嘱託  1923 年 5 月 11 日  中村修(海防領 事)  嘱託を解く(海防領事更迭)  1923 年 5 月 11 日 森新一  仏領印度支那地方調査事務嘱託(1ヵ月年 400 円賞与金「南支

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