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1959 年 12 月 3 日に国際協力局局長代理のサッチオ(Leonard J.

Saccio)が台湾で陳誠らと会談し、国府の経済面での努力を賞賛し、

国 府が経済発 展推進のた めの新たな 計画を策定 し、米援を 獲得す る よ う促した。 サッチオ訪 台の目的は 、数年内に 台湾経済を 米援依 存 から脱却させるための特別援助計画を主導することであった76

陳 誠はこ の提 案に応 じ、 会談後 に米 援会の 会議 を招集 して アメリ カ側に提出する計画を第 3 期 4 ヵ年経済建設計画に合致させること を決定した77。在台米援機関との経済建設計画についての折衝は、尹 仲容と李国鼎米援会秘書長が中心となって12 月 14 日から 16 日かけ て行った。16 日の会談において、アメリカ側は投資への障害の除去、

資 本形成促進 のための国 内資本の動 員、工業発 展に関する 組織の 強 化 と行政手続 きの簡素化 を求めた。 このうち、 国内資本の 動員は 軍 事支出をも見直し対象としていた78

76 Ibid, Sup., no.415.

77 「財經首長於總統官邸會談記録(經濟發展、加速經濟發展計畫―十九點財經改革措 施内容及執行情行(第三期四年經濟建設計畫))」『李國鼎檔案』b00081028(台北:

中央研究院近代史研究所檔案館所蔵)、1960 年 1 月 7 日。

78 「與 Harldson(郝樂遜)等會談紀録(經濟發展、加速經濟發展計畫)」『李國鼎檔案』

軍事支出問題は、部長級の厳家淦や楊継曽らも参加した17 日の会 談 で議論され た。ハラー ドソンが要 求したのは 、成長分の 国民総 生 産 に対する軍 事目的利用 額に規定を 設けること であった。 国府側 も 軍 事支出の制 限に反対し ていなかっ た。楊継曽 はハラード ソンの 提 案 に賛成した し、外貿会 副主任委員 の銭昌祚も 「軍事費用 の支出 に は 一定の限度 があるべき 」と述べた 。ただし、 その具体的 方法は 決 められなかった79

アメリカ側との一連の協議を経た後、米援会は12 月 24 日に再度 4 ヵ 年経済建設 計画をハラ ードソンに 提出した。 しかし、ハ ラード ソ ン はこの計画 を不十分な ものと見な し、尹仲容 の求めに応 じて、 要 求 の概要を文 書にて米援 会に提示し た。ハラー ドソンは、 台湾が 将 来的に経済援助なしに経済成長できる条件を獲得するため、4~5 年 間 以内に健全 な経済成長 を最大限達 成すること を目標に掲 げた。 具 体 的政策とし て挙げられ たのは、軍 事部門への 資源配分の 制限、 反 イ ンフレ財政 ・信用政策 の採用、税 制の改革、 為替レート の実勢 レ ートへの単一化、為替管理の緩和、公共事業費用徴収委員会の設立、

証券市場の設立、民間企業と競合する公営企業の売却の 8 項目であ った80

陳誠は 30 日にハラードソンとイェガーと会談し、8 項目の提案に 原 則的に同意 し、投資環 境の整備と 民間セクタ ー拡大に向 けた経 済 改 革を推進す る決意を表 明した。さ らには「提 案された計 画は、 蔣 介 石・ダレス 共同コミュ ニケの自然 な帰結であ る」と述べ 、計画 に おいてコミュニケに言及するよう提案した81

b00081032、1959 年 12 月 17 日。FR, 1958-1960, vol. 19, pp. 643-646.

79 同上。

80 FR, 1958-1960, vol. 19, pp. 643-646.

81 「副總統陳誠等與 Yager(葉格爾)會談紀録(經濟發展、加速經濟發展計畫)」『李國

陳 誠がハ ラー ドソン の提 言に合 意し たこと で、 経済部 、財 政部と 米援会がハラードソンの 8 項目の提案を基礎にして「経済発展加速 計 画」の策定 を始めた。 この協議に おいて最も 重視された のは、 軍 事支出の制限と公共事業費用徴収委員会の設置であった82。殊に軍事 支 出 の 制 限 を 蔣 介 石 に 受 け 入 れ さ せ る こ と は 至 難 と 思 わ れ た も の の、協議では軍事支出の総額を削減することが決定された83

陳誠は翌年 1 月 4 日に蔣介石に書簡を送り、米援の増額と「経済 発展加速計画」が可能になったのは、「蔣介石・ダレス共同コミュニ ケ」で示された、「政治的手段により大陸を回復する有効な方法の一 種を執行したこと」によると述べた84。陳誠は財政・経済改革を「大 陸 反攻」の「 政治的手段 」に擬して 、コミュニ ケを蔣介石に軍事支 出制限の受け入れさせる説得材料にしたのである。

蔣介石は1960 年 1 月 7 日に陳誠、張群総統府秘書長、厳家淦、尹 仲容、李国鼎らを招集し、「経済発展加速計画」についての報告を受 け た。この際 、厳家淦は 軍事支出に 関して原案 を覆し、軍 事支出 を 現 状に固定し 物価上昇分 のみ上昇さ せ、国防費 用が国民総 生産に 占 め る比率を減 少させると いう新たな 提案をした 。この提案 に対し 、 蔣 介石は国民 総生産に占 める軍事支 出の比率を 尋ねたのみ あり、 特 に反対しなかった85。なぜなら、蔣介石は「大陸反攻」の達成にはよ り多くの米援の獲得が必要と考えていたからであった86

鼎檔案』b00081030、1959 年 12 月 30 日;FR, 1958-1960, vol. 19, pp. 643-646.

82 注 77、前掲資料。

83 康緑島、前掲書、頁 141。

84 「美援改以對實施良好之國家加以補助案(經濟發展、加速經濟發展計畫)」『李國鼎 檔案』b00081029、1960 年 1 月 4 日。

85 康緑島、前掲書、頁 141;前掲「財経首長於總統官邸會談紀録」。

86 蔣介石は「対外的な」「時宜的な」共同コミュニケの発表により、「軍事援助が大幅 に増加し、経済援助も割に充実した」のであり「米華協力の基礎」はここに始まる

蔣 介石は 軍事 支出に 関す る項目 を含 めて、 計画 を原案 通り 執行す るよう指示した87。こうして民間セクターの拡大、投資環境の整備、

均 衡財政、貿 易の拡大に より経済発 展の促進を 狙う「経済 発展加 速 計 画」が制定 され、具体 的措置は付 属する「十 九項目財政 ・経済 改 革措置」に列挙された。軍事支出に関しては、第 9 項目で「政府は 精 兵政策の執 行を継続し 、現在の退 除役辦法を推進するとともに、

国 防費用(不 変価格によ り計算)を 暫時現在の 額に維持す る」こ と が定められた88

「経済発展加速計画」は1 月 14 日の行政院院会にて正式に承認さ れた。尹仲容は即日国際協力局に書簡を送り、「経済発展加速計画」

の内容を通知するとともに、1961 年度における 6,000 万元の防衛支 援および投資用の9,000 万元から 1 万元の借款を求めた89

ワシントンでは、ディロンがアイゼンハワーに対して、「台湾に他 地域の「モデル」としての役割を果たさせる」ために、「新興工業の 発 展へのイン センティヴ となる資金 」を提供す るよう提言 し、そ の 支持を得た90。アイゼンハワー自身も 1960 年 2 月 16 日の議会宛て教 書 において、 台湾は「自 由の制度の 下における [経済発展 の]達 成 の 速さと度合 いは、最終 的に全体主 義の下にお ける経済発 展の結 果 を 上って得ら れることの 有力な実証 」を提供す ると述べて 、対華 援 助 の増額への 理解を求め 、国府の「 経済発展加 速計画」へ の支持 を

のであり、アメリカが「復国」に助力するか否かの鍵はここにある、と日記に記し ている。「本年總反省録之網要」December 1959, Chiang Kai-shek Diaries, Box 67, Folder 16, Hoover Institution, Stanford University, CA.

87 「加速經濟發展計畫案之說明(經濟發展、加速經濟發展計畫)」『李國鼎檔案』

b000810003、1960 年 3 月 9 日。

88 沈雲龍編著『尹仲容先生年譜初稿』(台北:傳記文學出版社、1988 年)、頁508~514。

89 前掲「加速經濟發展計畫案之說明」。

90 FR, 1958-1960, vol. 4, p. 484.

明確にした91

1960 年 11 月にワシントンの国務省と国際協力局は 1961 年度の援 助額について検討し、「経済発展加速」計画に対する国府の努力を最 大限にするために、6,000 万ドルの防衛支援による援助を決定した92。 こ の過程で、 国務省や国 際協力局は 国府の軍事 支出を問題 視しな か っ た。こうし てアイゼン ハワー政権 末期には、 国府の軍事 支出は 米 華間の争点にはならなくなったのである。

八 おわりに

国 府は台 湾移 転直後 から 膨大な 兵員 の維持 によ る財政 負担 を認識 し 、余剰兵員 の削減を試 みたが、逼 迫した財政 と「大陸反 攻」へ の 志 向はこれを 阻んだ。一 方、アメリ カも国府の 「大陸反攻 」の希 望 を否定できず、軍事支出削減を強いられなかった。

「 蔣介石・ダレス共同コミュニケ」が軍事を「大陸反攻」の副次 的 手段に位置 づけたこと は、アメリ カが国府に 兵員削減と 軍事支 出 の 抑制を迫り 中国との発 展競争に専 念させる外 部条件を整 えた。 一 方 、陳誠内閣 が財政・経 済改革の一 環として取 り組んでい た兵員 削 減 と軍事支出 抑制の試み は、財政や 外省人将兵 の処遇の問 題によ り 一 旦は頓挫し たが、削減 傾向にある 米援獲得の ために、再 度復活 し た。

1959 年末にアメリカ側が提示した特別援助に陳誠内閣が応じたこ とにより、「十九項目財経措置」において軍事支出は不変価格計算に より固定された。これにより、「中国」規模であった軍事組織は国府 の 実際支配地 域に基づく 台湾規模の 財政に拘束 されること が明文 化

91 Department of State Bulletin, March 7, 1960, p. 374.

92 FR, 1958-1960, vol. 19, Sup., no. 486.

されたのである。

た だし、 国府 は「大 陸反 攻」を 放棄 したわ けで はなか った 。蔣介 石は中国の大躍進後の社会・経済的混乱に乗じ、1962 年に中国大陸 への軍事反攻を試みた。その際に、「十九項目財経措置」はアメリカ が 国府の軍事 反攻を阻止 する手段の 1つとして 機能した。 アメリ カ

た だし、 国府 は「大 陸反 攻」を 放棄 したわ けで はなか った 。蔣介 石は中国の大躍進後の社会・経済的混乱に乗じ、1962 年に中国大陸 への軍事反攻を試みた。その際に、「十九項目財経措置」はアメリカ が 国府の軍事 反攻を阻止 する手段の 1つとして 機能した。 アメリ カ

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