「中国」規模の軍隊組織と台湾規模の
財政の相克
―国府の「十九項目財政・経済改革措置」での
軍事支出制限の明文化に至る米華関係
1―
石 川 誠 人
(立教大学アジア地域研究所研究員)【要約】
本稿は、国府が1960 年 1 月に制定した「十九項目財政・経済改革 措置」において、軍事支出に上限を設けるに至るまでの米華関係を、 実証的歴史学の手法により考察する。 台 湾移転 後の 国府は 過大 な軍事 組織 を有し てお り、兵 員削 減も試 み られたもの の、財政運 営や「大陸 反攻」の構 想や外省人 兵士の 生 活保障等の問題により、遅々として進まなかった。 膨 大な援 助を 国府に 供与 してい たア メリカ も国 府に軍 事支 出の制 限を強いられないでいたが、1958 年 10 月の「蔣介石・ダレス共同コ1 本稿では便宜的に、台湾移転以降の「中華民国」政府を「国府」と記してその略称 を「華」とし、「中華人民共和国」政府を「中国」と記してその略称を「中」とする。 ただし、当時の国府も「中国」の正統政府を主張していたことに留意されたい。政 府また、1945 年の太平洋戦争終結以前からの台湾居住者を「本省人」、終戦以降中国 大陸から台湾に渡った人々を「外省人」と記して、便宜的に区別する。
ミ ュニケ」が 軍事を「大 陸反攻」の 副次的手段 と言明した ことで 、 兵 員削減と軍 事支出抑制 を国府に強 く求め始め た。これは 、一旦 は 頓挫した陳誠内閣の兵員削減と軍事支出抑制の試みを復活させ、「十 九 項 目 財 政 ・ 経 済 改 革 措 置 」 で の 軍 事 支 出 の 制 限 の 設 定 に 繋 が っ た。こうして、「大陸反攻」を想定した国府の「中国」規模の軍事組 織 は、制度的 にも台湾規 模の財政に 拘束される ことになっ たので あ る。 キ ーワ ード: 米華関係、台 湾、米援、 軍事支出、 十九項目財 政・ 経 済改革措置
一 はじめに
国府は1960 年 1 月に、貿易・投資の自由化と財政の健全化に向け た 「十九項目 財政・経済 改革措置( 以下「十九 項目財経措 置」と 略 記)」を制定し、その中で「国防費用(不変価格により計算)を暫時 現在の額に維持する」と定め、中央政府歳出の約80%を充当してい た 軍事支出に 上限を設定 した。これ には、対中 国大陸軍事 反攻の た め に保持して いた「中国 」規模の軍 事組織が台 湾規模の財 政規模 に 拘束されることを明文化したという含蓄がある。 従 来の研 究は 、国府 が「 十九項 目財 経措置 」に おいて 軍事 支出上 限を設定した動機を、アメリカの圧力にのみ帰してきた2。だが、国 府にも1950 年代を通じて兵員削減と軍事支出の抑制を図る政治勢力 が常に存在していた。 本稿は、「十九項目財経措置」での軍事支出上限の設定に至る過程 を 、アメリカ の対華政策 の変遷に加 え、兵員削 減問題を中 心に、 国 府 の軍事支出 抑制の取り 組みを視野 に入れつつ 実証的に考 察し、 軍 事 支出削減問 題をめぐる 米華関係を 再検討する 。その際に 、兵員 削 減 問題が国府 の「大陸反 攻」の構想 や財政運営 、外省人兵 士の生 活 保 障 と 台 湾 社 会 へ の 定 着 な ど の 問 題 に 関 わ っ て い た こ と に 留 意 す2 前田直樹「台湾・輸出主導型経済政策の胎動とアメリカ援助政策の転換」『広島東洋 学報』no.5(2000 年 11 月);文馨瑩『經済奇蹟的背後 台湾美援經驗的政經分析(1951 ~1965)』(台北:自立晩報、1990 年)、頁 240~241;Neil H. Jacoby, U.S. Aid to Taiwan:
A Study of Foreign Aid, Self-Help, and Development (New York: Frederick A. Praeger
Publishers, 1966), pp. 134~135; Pang Chien-Kuo(龐建国), The State and Economic
Transformation: The Taiwan Case (New York: Garland Publishing, 1992), pp.177~178. アメ
リカに数多くある「十九項目財経措置」に言及する文献は、概ね龐建国の研究に基 づく。著者も同様に論じたことがある。石川誠人「『ダレス・蒋共同コミュニケ』再 考」『日本台湾学会報』第3 号(2001 年 5 月)。
る。
二 国府の軍事支出の台湾経済への負担と国府による
兵員削減計画
1950 年初頭、アメリカは台湾に撤退した国府を見限っており、対 華 経済援助を 大幅に減額 し、軍事援 助を停止し ていた(以 下、ア メ リカの対華援助を、経済と軍事を包括して「米援」と記す)。しかし 朝鮮戦争が発生すると、トルーマン(Harry S. Truman)政権は即座 に第 7 艦隊を台湾海峡へ派遣して中国軍の対台湾進攻を牽制すると ともに、米援を本格的に再開した。これ以降1965 年までの対華経済 援助は毎年約1 億ドルに上り、台湾の GNP の 5~10%と資本形成の 42%を占め、資本不足に悩む国府の不可欠な資本供給源となった3。 この 国府財政の 米援依存体 質は、経済 安定委員会 (「経安会 」)や 米 援運用委員会(「米援会」)、農村復興委員会等の国府の援助運用機関 を 通じて、ア メリカが国 府の財政・ 経済政策に 対して多大 な影響 を 及ぼす原因となった4。 1953 年に登場したアイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)政権は 対華援助政策の目的に国府の政治経済的発展を掲げた。これは、「中 国 」唯一の正 統政府を自 称する国府 が政治・経 済的にも発 展し、 東 ア ジア安全保 障上の主要 な脅威であ る中国の非 軍事的脅威 を減殺 す ることを期待したためである。この目標を阻害したのは「大陸反攻」3 隅谷三喜男・劉進慶・涂照彦『台湾の経済 典型 NIES の光と影』(東京大学出版会、 1992 年)、36~37 ページ。 4 経安会は物価安定のために貿易・金融・財政政策を調整する機関で、在台米援機関 の人員は会議に出席していた。米援会は在台米援機関と連携しつつ援助を運用す る。運営資金は一般財政と区別され、立法院の制約を受けない。農村復興委員会は 地域発展促進のために米援を運用米華合同の委員会である。Jacoby, op. cit., pp. 59~63.
で あった。当 時のアメリ カの情報評 価書は、国 府が「大陸 反攻」 を 掲 げ軍事に傾 注している 限り、台湾 経済の将来 の見通しは 暗いと 断 定していた。だがアイゼンハワーやダレス(John Foster Dulles)国務 長官は、台湾防衛に必須な国府軍の士気の維持のためには、「大陸反 攻 」の目標が 必須と考え ていた。ア イゼンハワ ー政権は経 済発展 に よ る国府の米 援依存から の脱却を望 みつつも、 国府の「大 陸反攻 」 用 の巨大な軍 事組織を支 えるために 大規模な援 助を継続せ ざるを 得 ないという矛盾を抱えていたのである5。 も っとも 軍事 支出の 過度 さは国 府で も認識 され ており 、そ の抑制 が試みられていた。台湾移転直後の国府には約80 万名の膨大な兵員 を 維持する財 政能力は無 かったから である。戦 闘で損耗し た各部 隊 には欠員が多かったたこともあり、国防部は1950 年 3 月に「精兵主 義」を掲げて部隊数の縮小と再編成(「整編」)を試み、陸軍を18 個 軍59 個師団から 12 個軍 38 個師団へと再編し、陸海空三軍総兵員を 70 万名に削減する方針を打ち出した6。 米援の再開に伴い、1951 年 5 月に台湾への駐留を開始したアメリ カ軍事援助顧問団も、「弱者淘汰、強者留任」を原則に国府陸軍の「整 編 」を求めた 。これによ り、国府陸 軍の規模は 軍事援助の 規模に 合 わせて12 個軍 28 個師団に「整編」され、三軍総兵員の目標数は 59 万名弱に設定された7。 台湾移転直後の国府軍には、部隊に属さない 5 万名強の剰余将校
5 石川誠人「『ダレス・蒋共同コミュニケ』再考」、141~143 ページ。 6 國防部史政編譯局編『國民革命建軍史 第四部:復興基地整軍備戰(二)』(台北: 國防部史政編訳局、1987 年、中央研究院近代史研究所郭廷以圖書館所蔵)、頁 923~ 924。 7 同上、頁 924、926;陸軍總司令部編『美軍在華工作紀實(陸軍顧問組)』(台北:陸 軍總司令部、1981 年、國史館圖書館所蔵)、頁 148。
が「整編」時に存在した8。そこで国府は 1952 年 5 月に「陸海空軍 将官台湾時期仮退役実施規則」を公布し、将級131 名、校級 623 名、 尉級 5,306 名を当年末までに仮退除役させた9。この規則は、仮退除 役後の将校の身分を予備役と同等に扱い、現役将校の給料の80%に 相当する生活維持費と主食、副食費、眷属補助費を 3 年間供与し続 け 、 そ の 間 に 就 業 を 促 す も の で あ っ た10。 仮 除 退 役 が 促 進 さ れ た の は 、外省人将 校には台湾 社会に生活 拠点がなく 就業機会も 僅かで あ る ものの、国 府も正式な 退除役に伴 う退職金や 年金を支払 う財政 能 力を欠いていたためである11。 ま た、老 年兵 や傷病 兵な どの戦 闘能 力を欠 く兵 員も多 かっ た。国 府はこれらの者のうち1 万 5,314 名を、学校、砂糖工場や農場での労 働に従事させたり、「栄誉国民之家」や軍病院で療養生活を送らせた りすることで(「安置」)、1953 年度までに停除役させた12。さらに、 1954 年 11 月に「国軍退除役官兵就業輔導委員会(「退輔会」)」が設 立 され、米援 の支援を受 けつつ、停 除役・退除 役した外省 人将兵 の 就業支援が図られた13。ただし就業機会の不足により、1955 年 6 月
8 鄭為元「組織改革的權力、實力與情感因素:撤台前後的陸軍整編(1949-1958)」『軍 事史評論』第12 期(2005 年 6 月)、頁 69、86。 9 國防部史政處編『中華民國四十・四十一年度國防部年鑑』(台北:國防部史政處、出 版年不明、國史館圖書館所蔵)、頁14。 10 曾祥麟「我國退除役官兵輔導就業制度史之研究-以榮民工程事業管理處為例 1956 年 -1997 年)」(台北:國立台灣師範大學歷史研究所碩士論文、1997 年)、頁 27。 11 松田康博『台湾における一党独裁体制の成立』(慶応義塾出版会、2006 年)、282 ペ ージ;國防部史政處編『中華民國四十・四十一年度國防部年鑑』、6 頁。 12 國防部史政處編『中華民國四十二年度國防部年鑑』(台北:國防部史政処、出版年不 明、國史館圖書館所蔵)、頁15~16。 13 國防部史政處編『國民革命建軍史 第四部(二)』、頁 1365;趙既昌『美援的運用』 (台北:聯経出版事業公司、1986 年)、第 10 章。
時点で必要とされた4 万 9,705 名の停除役は実行されなかった14。 だが、こうした試みは兵員削減に繋がらず、1954 年の兵員は前年 の59 万 878 名から 61 万 9,798 名へと増加した15。これは、1953 年か ら翌年にかけて、ベトナムからの2 万 6,018 名、ビルマからの 5,678 名 など、離散 していた国 府軍将兵の 台湾への撤 退が相次い だため で ある。さらに1954 年 3 月には、韓国が釈放した中国の「志願軍」捕 虜1 万 4,342 名が台湾に移送された。これらの将兵の大部分は国府軍 各部隊に充当された16。加えて 1951 年 12 月に修正兵役法が公布さ れ、台湾でも20 歳から 45 歳までを対象とした徴兵制度が始まった17。 国 府が撤 退将 兵を各 部隊 に再配 属し 、台湾 での 徴兵制 度を 確立し たのは、「大陸反攻」に必要な兵員を確保するためであった。だが、 国 府財政には 大規模兵員 を常備する 余裕がなか ったため、 元日本 軍 将 校団「白団 」の計画に 基づき、予 備役制度の 拡充による 非常時 の 動員体制の整備も同時に図られた18。1952 年 8 月に国防部に設けら れ た軍事動員 設計委員会 は、動員法 令の修正と 動員機関の 設置を 行 い、中学卒業以上の男子に訓練を義務付けた。その結果1954 年には 1 個師団で 2 倍の動員を図れるようになった19。 国 府 は 動 員 体 制 を 確 立 す る と 、 こ れ に 合 わ せ て 軍 の 再 編 を 試 み た。例えば、1953 年 5 月には蔣介石はアメリカに対して陸軍師団の
14 國防部史政處編『中華民國四十三年 國防部年鑑』(台北:國防部史政処、出版年不 明、國史館圖書館所蔵)、頁22。 15 同上、頁 151。 16 國防部史政處編『中華民國四十二年 國防部年鑑』、頁253~254;國防部史政處編『中 華民國四十三年 國防部年鑑』、頁133~134。 17 國防部史政處編『中華民國四十・四十一年 國防部年鑑』、頁 237~238、299~300。 18 同上、頁 235。 19 周至柔『國防部参謀総長職期調任主要政績(事業)交代報告』(出版地・出版者不明、 1954 年、台北:國史館圖書館所蔵)、頁 266~269。
60 個師団への拡張を提案したし、翌年にも 41 個師団への拡張を提案 した20。これは、東アジア各地域の紛争に呼応して随時反攻軍事作戦 を 発動するこ とを目的と していた。 だが、アメ リカ軍事援 助顧問 団 はむしろ非援助対象の余剰師団の削減を求めた21。その結果、国府陸 軍12 個軍 28 個師団は 1954 年 6 月には 2 個軍団 8 個軍 25 師団に、 1955 年から 1956 年かけては 2 個軍団 6 個軍 21 個師団へと「整編」 された22。 し かし、 師団 削減は 兵員 削減に は繋 がらな かっ た。師 団の 構成の 変 化に加え、 欠員の多さ から、師団 削減により 生じた余剰 兵員は 残 りの師団に補充された。そのため、1955 年の総兵員は前年の 61 万 9,798 名から 62 万 7,711 名に増加し、予定総兵員はさらにこれを上回 る 65 万 7,337 名であり、なおも兵員不足と判断されていた23。1950 年代半ばまで、巨大な軍事組織維持による財政負担は、「大陸反攻」 の 目標を放棄 してまでも 克服しなけ ればならな い課題とは 考えら れ ていなかったのである。
三 輸出指向型工業化への転換と陳誠内閣による兵員
削減の方向性の確立
国府は経済発展に無関心であったわけではない。蔣介石は1950 年 8 月に、台湾を「大陸反攻の基地」として、さらに「大陸反攻」成功後の20 「『開案』有限度反攻華南作戰研究([開案]有限度反攻華南作戰研究案)」『國軍檔 案』00041951(台北、國防部史政編譯室所蔵)、1954 年 4 月。 21 陸軍総司令部編、前掲書、頁 151~152。 22 國防部史政編譯局編『國民革命建軍史 第四部(一)』、頁 332~333。ただし、国府は 余剰師団の撤廃の代わりに動員用の9 個予備師団の設立をアメリカに認めさせた。 國防部史政處編『中華民國四十四年 國防部年鑑』(台北:國防部史政処、出版年不 明、中央研究院近代史研究所郭廷以圖書館所蔵)、頁138。 23 同上、頁 148。
「 三民主義の 模範省」と するために 、経済建設 を促進すべ きと演 説 している24。経済発展と「大陸反攻」構想は矛盾するとは認識されて いなかったのである。 第 二次世 界大 戦後に ハイ パー・ イン フレー ショ ンにみ まわ れた台 湾 経済は、通 貨改革、中 国大陸との 経済関係の 収縮、農地 改革、 米 援の復活により復興を果たした25。1954 年には第 1 期経済建設 4 カ 年計画が作成され、公企業主導の下での輸入代替工業化が図られた26。 だが、輸入代替工業化は1958 年ごろには台湾市場が飽和したことか ら行き詰まり、輸出指向型工業化に向けた改革の必要性が高まった。 輸出指向型工業化への転換の方向性は、1957 年末から中国国民党 内 で行われた 論争を経て 、単一為替 レートの導 入が決定さ れたに よ り定まった27。これに伴い人事面でも、1958 年 3 月に介入主義的な 金 融 ・ 財 政 政 策 を 志 向 し て い た 徐 柏 園 財 政 部 長 の 後 任 に は 厳 家 淦 が 、経済部長 には楊継曽 が、徐柏園 が兼任して いた外国為 替貿易 審 議委員会主任(「外貿会」)には単一為替レート導入論者の尹仲容が、 それぞれ就任した28。さらに徐柏園を支持していた兪鴻鈞行政院長も 監察院に弾劾されて 6 月に辞任し、その後任には 7 月に陳誠が副総
24 張其昀主編『先總統蔣公全集 第三冊』(台北:中國文化大學出版部、1984 年)、頁 2049。 25 隅谷三喜男・劉進慶・涂照彦『台湾の経済』、30~37 ページ。 26 劉進慶「産業組織と産業政策」劉進慶・朝元照雄編著『台湾の産業政策』(勁草書房、 2003 年)、6 ページ。 27 単一為替レートは 1958 年から 63 年までに段階的に導入された。劉文甫「産業政策 と経済発展」朝元照雄・劉文甫編著『台湾の経済開発政策 経済発展と政府の役割』 (勁草書房、2001 年)、7 ページ。 28 松本充豊『中国国民党「党営事業」の研究』(アジア政経学会、2002 年)、109~111 ページ;康綠島『李國鼎口述歴史』(台北:卓越文化出版社、1993 年)、頁 123~126; 李國鼎口述、劉素芬編著、陳怡如整理『李國鼎:我的台灣經驗 李國鼎談台灣財經 決策的制定與思考』(台北:遠流出版公司、2005 年)、頁 314。
統兼任のまま当たることになった。 陳 誠内閣 の財 政部長 と経 済部長 には 、厳家 淦と 楊継曽 がそ れぞれ 留 任した。ま た、尹仲容 は外貿会主 任のほかに 米援会副主 任委員 、 台 湾銀行会長 を兼任し、 経済・財政 政策を立案 、執行する 過程で 大 幅な権限を有することになった29。協調的であった厳家淦、楊継曽と 尹仲容の 3 名に代表される技術官僚たちは、得られた十分な権限を 利 用し、陳誠 内閣の下で 投資環境の 改善と輸出 促進を図り 、一連 の 経済改革を推進した30。 も っとも 、発 足当初 の陳 誠内閣 は財 政均衡 や軍 事支出 抑制 に対し て否定的であった。7 月 17 日の行政院座談会において、陳誠は「今 後 全ての生産 と建設に必 要な金銭は 、通貨膨張 でも、債券 発行で も 構わない」と述べ、兵員削減に関しても、「三軍の削減は……絶対に 考慮してはならない」と説いていた31。しかし8 月 21 日の行政院院 会において陳誠は、1 万 5,000 名の将兵の仮退除役の正式化に関連 し 、現状の兵 員数を維持 すれば、退 除役の経費 に加え将兵 の補充 ・ 維持費という「二重の負担」が掛かるため、「これらの人員を退役さ せ た後も総員 数は減らす べきである 」と述べて 、国防部に 兵員総 数 を見直し報告するよう指示した32。 陳 誠 の 姿 勢 の 変 化 の 背 景 に は 、 在 台 米 援 機 関 の 圧 力 が あ っ た 。7 月 19 日に陳誠と会談した相互安全保障局台北所長のハラードソン
29 董安琪「経済計畫機構と政府の役割」朝元照雄・劉文甫編著『台湾の経済開発政策 経済発展と政府の役割』(勁草書房、2001 年)、26~27 ページ。 30 劉文甫、前掲論文、7~8 ページ。 31 「一、行政院座談會 院長之指示(續編、行政院院會院長指示摘要)」『石叟叢書』(台 北:國史館所蔵)、1958 年 7 月 17 日。 32 「院長在第五八〇次院會中之指示四(續編、行政院院會院長指示摘要)」『石叟叢 書』、1958 年 8 月 21 日。
(Wesley C. Haraldson)は、支出抑制と財政均衡の重要性を強調し、 軍 事予算に関 して「国防 部が誠実に 費用の優先 順位を示し 、優先 項 目から配分できるようにする」ことを求めた。陳誠は、「予算が確定 し た後には、 軍事行動や 天災を除き 、予算の増 加を認めな い」と 述 べ、さらに「軍事は第一であるが、唯一の出費ではない」と応えた33。 実際に、陳誠は 7 月 24 日の行政院院会において、「本年度の総予算 は 、本当に軍 事行動があ り、台風や 災害、地震 などの不測 の事態 が ない限り、絶対に追加予算を扱わない」上に、「今後はたとえ軍事行 動 や不測の災 害が発生し たとしても 、院会に提 出し通過さ せなけ れ ばならず、必ず財源の有無を考慮して、財源がなければ処理しない」 と述べて、財政支出の不拡大を指示した34。 陳 誠が兵 員削 減の方 針を 打ち出 せた のは、 仮退 除役正 式化 がすで に決定されていたためである。1956 年末に 2 万 3,565 名存在した仮 退 除役将兵は 、各部隊に 所属し新兵 の補充枠を 占めていた ものの 戦 力 には数えら れないため 、部隊編成 に常時欠員 を生じさせ ており 、 国府軍の新陳代謝と編成の完成を阻害していた35。蔣介石は 1956 年 11 月 24 日の軍事会談において将校の退除役を次年度の重要工作に 取り上げ、仮退除役の正式化に向けた準備を指示した36。仮退除役正 式化の計画は翌年 6 月までに国防部が完成させ、同年 8 月より米華
33 「接見美国安全文署署長郝楽遜談話紀要(續編、談話録)」『石叟叢書』、1958 年 7 月 19 日。 34 「院長在第五七六次院會中之指示二(續編、行政院院會院長指示摘要)」『石叟叢 書』、1958 年 8 月 21 日。 35 彭孟緝『國防部参謀總長職期調任主要政績(事業)交代報告』(出版地・出版者不明、 1957 年、國史館圖書館所蔵)、頁 61。 36 「總統府四十五年第三十三次軍事會談紀錄(總統府軍事會談案(四十五年))」『國軍 檔案』00001284、1956 年 11 月 24 日。
双方の資金により開始された37。 ま た、こ のこ ろ陸軍 の近 代化を 図る 「前瞻 師計 画」も 始ま ってい た。「前瞻師計画」とは、少数精鋭の概念により陸軍の近代化と再編 成 を図る もの であり 、ア メリカ 軍事 援助顧 問団 の支援 によ り、1958 年1 月から 2 個軍団 5 個軍部 14 個師団に適用された。その際、アメ リ カ軍事援助 顧問団は兵 員数の再考 を求め予算 増加を認め ず、蔣介 石にこれを承諾させた38。実際に「前瞻師計画」が終了した 1961 年 6 月には、兵員数は当初より 6%減少した39。軍の近代化は自ずと兵 員削減に繋がったのである。 こ の よ う に ア メ リ カ か ら の 圧 力 と 国 府 自 ら の 環 境 整 備 に 支 え ら れ 、陳誠内閣 は兵員削減 と軍事支出 抑制の方針 を打ち出せ た。し か し 、この政策 は第二次台 湾海峡危機 が発生し、 まさに陳誠 が例外 的 に追加予算を認めるとした「軍事行動」を伴う事態が生じたことで、 一時棚上げにされる。
四 第二次台湾海峡危機後のアメリカの国府に対する
軍事費抑制圧力
1958 年 8 月 23 日に中国軍が金門島に大規模砲撃を開始したことに よ り、第二次 台湾海峡危 機は始まっ た。金門島 は中国軍の 集中砲 撃 に より補給が 断たれ、一 時は陥落の 危機に瀕し た。しかし 、国府 は37 彭孟緝、前掲書、頁 62;「總統府四十五年第三十五次軍事會談紀録(總統府軍事會談 案(四十五年))」『國軍檔案』00001284、1956 年 12 月 31 日;「總統府四十六年第十 六次軍事會談紀録(總統府軍事會談案(四十六年))」『國軍檔案』00001287、1957 年 6 月 1 日。 38 國防部史政編譯局編『國軍建軍備戰工作紀要』(台北:國防部史政編譯局編、1980 年、 國史館圖書館所蔵)、頁2、7;陸軍總司令部編、前掲書、頁 154。 39 國防部史政編譯局編『國軍建軍備戰工作紀要』、頁 7。
米 軍の兵站協 力と海空軍 の圧倒的優 位により補 給線を回復 し、金 門 島 の防衛に成 功した。目 的を達せら れなかった 中国軍は、 最終的 に は 金門島を隔 日砲撃して 形式的に戦 闘を継続さ せることで 、危機 を 終結させた。 第 二次台 湾海 峡危機 の末 期に、 金門 島の放 棄を 迫るべ くダ レスが 訪台して蔣介石と会談して共同コミュニケを発表し、「大陸反攻」の 「 主要な手段 」は「三民 主義の適用 」であり「 武力ではな い」と 表 明した40。この「蔣介石・ダレス共同コミュニケ」において、国府が 「 大陸反攻」 の戦略にお ける軍事力 の必要性を 副次的なも のと発 表 し たことは、 アメリカが 国府に対し て軍事支出 抑制を迫る 格好の 口 実になる。 第二次台湾海峡危機により、国府の 1958 年度予算の赤字が増大し たため、12 月 19 日に葉公超駐米大使と王蓬駐米大使館経済参事はロ バートソン(Walter S. Robertson)極東担当国務次官補に面会し、1959 年度の経済援助7,000 万ドルに 2,000 万ドルの借款を追加するよう要 請した41。 し かし、 追加 借款の 妥当 性を検 討し た国際 協力 局台北 支所 と駐華 大 使館は、む しろ「全体 的に非現実 的で、破滅 的なインフ レーシ ョ ン を招く」よ うな財政運 営を支出削 減と税収増 加により改 善する よ う求めた42。国府が見積もった9 億 5,200 万元の財政赤字額は不必要
40 石川誠人「第二次台湾海峡危機へのアメリカの対応-『大陸反攻放棄声明』に至る まで-」『法学研究』第29 号(2002 年 12 月)。 41 「尹仲容簽呈争取増加美援洽商情形(續篇、友聲集上冊)」『石叟叢書』、1958 年 12 月20 日;「葉公超致外交部第 7050 号収電(洽增美援三千萬美元補助 1959 會計年度 予算差額)」『外交部檔案』474.1/0031(台北:中央研究院近代史研究所檔案館所蔵)、 1958 年 12 月 22 日;Foreign Relations of the United States (hereafter FR), 1958-1960, vol. 19,
Supplement, no. 298.
な「軍事支出を抑制することにより」、約6 億 2,500 万元にまで削減 できると判断されたため、ドラムライト(Everett E. Drumright)駐華 大使がワシントンに勧告した追加経済援助額は 900 万ドルのみであ った43。 ワシントンの国務省と国際協力局はその額をさらに 630 万 ドルにまで削減した。その理由は、1958 年度の国府の国際収支が予 想 よりも良好 であったこ と、金門危 機による財 政赤字は僅 かであ る こ と、さらに ドラムライ トが説いた 「相対的に 抑制されて いない 軍 事支出に対して速やかに歯止めをかける必要性」に基づいていた44。 より明確に軍事支出の抑制と経済改革を求めたのは、1959 年 2 月 に訪台したドレーパー(William H. Draper, Jr.)委員会であった45。2 月13 日の蔣介石との会談において、ドレーパー委員会は老年兵およ び 傷病兵の退 除役と兵力 の全般的な 削減を求め た。蔣介石は、アメ リカの援助によりすでに8 万名の老年・傷病兵が退除役し、2 万 4000 名の将校の退除役が進行中である上に、今後 18 ヶ月間に兵員の 12 %に相当する計 7 万名の削減を計画中であると応えた。さらに、ド レ ーパー委員 会が求めた インフレー ション抑制 、貿易拡大 、産児 制 限 、民間企業 の発展促進 等の全般的 な経済改革 に対しても 、蔣介石 は、「最も深刻な問題は経済的なもの」であり、巨大な軍事力維持に よる通貨供給量の増大を問題視し、「インフレーションの危険性を制 御するために可能なあらゆることを行う」と応じた。 ただし蔣介石は、7 万名の兵員削減計画の実行可否は「資金がこの 目的に供給可能かどうかによる」と述べ、「極東の主要な被援助国に
43 Ibid, Sup., no. 306, 319.
44 Ibid, Sup., no. 329.
45 ドレーパー委員会は、経済・軍事援助の比率の問題を検討するために 1958 年 11 月に
設けられた。川口融『アメリカの対外援助政策 その理念と政策形成』(アジア経済 研究所、1980 年)、48~49 ページ。
与えられる額のうち、国府はより多くの比率を受け取るべきである」 と も強調した 。蔣介石の狙いは、ドレーパー委員会の意向に沿う姿 勢 を見せるこ とにより、 全般的に減 少傾向にあ るアメリカ の対外 援 助の獲得競争に勝つことにあった46。 陳 誠も同 様に 多額の 米援 獲得を 目指 す姿勢 を顕 にした 。こ の前日 にドレーパー委員会と会談した陳誠は、冒頭で、「大陸反攻」の方針 は政治を主とし軍事を従として達成することを、この旨を述べた「蔣 介石・ダレス共同コミュニケ」と1959 年元旦の蔣介石のメッセージ に 触れつつ強 調した後に 、軍の近代 化により中 国軍に対す る部分 的 優 位性を保持 することと 、経済発展 により軍事 力を支え、 人口増 加 の 圧 力 を 相 殺 し 、 台 湾 を 自 由 世 界 の 模 範 と す る こ と の 必 要 性 を 説 き 、軍の近代 化と兵員削 減のための 援助の供与 を求めた。 会談の 締 め くくりには 、アメリカ が援助すべ きは援助活 用の結果が 良好で 、 自 力で共産主 義の地域的 侵略に対処 できる戦闘 能力がある 国であ る と、率直に国府への重点的な援助を求めた47。 た だ し 、 陳 誠 の 訴 え は 援 助 獲 得 の た め の 単 な る 修 辞 で は な か っ た 。米援の削 減ないし停 止が見込ま れる中で、 国府はでき る限り の 援 助を獲得し て台湾経済 の発展と国 府財政の再 建を促進す る必要 が あったからである。
五 陳誠内閣の兵力削減への取り組み―「鵬程計画」
と「木蘭計画」
1958 年の末に、陳誠は蔣介石に対して兵員を 67 万名から 60 万名46 FR, 1958-60, vol. 19, pp. 528-530.
47 Ibid, Sup., no. 324;「與美國戴禮博委員會會談紀錄(續編、談話類)」『石叟叢書』、1959
に削減する提案を行った。蔣介石は翌年になりこれに同意した48。 具体的な兵力削減の方法は参謀総長の王叔銘がまとめ、1 月 6 日に 削 減計画を陳 誠に提出し た。王叔銘 も兵員削減 の必要性を 認識し て いた。1959 年当初、編成人数で 67 万名 3,624 名に達していた兵員の うち、4 万名強を占める仮退除役将校、現役不適合の将兵、囚人、老 兵 や傷病兵な どの「非戦 力人員」は 、軍財政の 最大の負担 になっ て いたからである49。 陳 誠 は 王 叔 銘 が 提 出 し た 計 画 に 時 間 的 目 標 を 設 け 、 第 1 段 階 の 1959 年 1 月から 6 月末に兵員を 64 万名に削減し、1959 年 7 月から 翌年6 月末までの第 2 段階でさらに兵員を 60 万名に削減するよう指 示した。これに基づき国防部が修正した兵員削減計画は、1 月 17 日 の 軍 事 会 談 に お い て 蔣介 石 の 裁 可を 得 ら れ た50。 後 に こ の 計 画 の 第 一段階は「鵬程計画一号」、第二段階は「鵬程計画二号」と命名され た51。 「 鵬程計 画」 が承認 され たのは 、赤 字財政 への 憂慮に よる もので あった。国防部は、編成上の兵員を3 万 4,701 名減少させれば「人力 と 財力を節約 できる」の であり、特 に仮退役の 正式化は「 予算を 節 約 する主要な 道筋であり 、早く行う ほど国家の 将来の財力 は大き く なる」と評価していた52。
48 『王叔銘將軍日記 22』(台北:中央研究院近代史研究所檔案館所蔵)、1959 年 1 月 4 日、5 日。 49 王叔銘「國防部参謀總長職期調任主要政續(事業)交代報告(國防部参謀總長職期 調任主要政績(事業)交代報告)」『國軍檔案』00003715、1959 年 6 月、頁 62。 50 同上、頁 62~63。「呈 總統 四十七年度國軍員額緊縮計畫簡報(國防設施計畫)」『蔣 總統中正檔案特交檔案(以下、「特交檔案」)』08A-00334(台北:国史館所蔵)、日期 不明(1959 年 1 月 17 日?)。 51 前掲『王叔銘將軍日記 22』、1959 年 1 月 20 日。 52 前掲「呈 總統 四十七年度國軍員額緊縮計畫簡報」。
「 鵬程計 画第 一号」 の達 成は、 現役 不適合 将兵 および 仮退 除役将 官 の 正 式 な 退 除 役 に 加 え て 、 徴 兵 人 数 の 削 減 に よ り 見 込 ま れ て い た 。しかし、 台湾社会に 縁を持たな い貧窮な外 省人兵士の 退除役 は 治 安上の懸念 材料であっ た。また、 徴兵人数削 減のための 徴兵年 齢 の引き上げは軍の高年齢化による戦力低下に繋がると危惧された53。 一方、兵員の 67.4%を占める戦闘経験のある外省人兵士の退役も、 兵 員補充の困 難と戦力低 下をもたら す恐れがあ り、さらに 「その 政 治上の影響は、実に予測しがたい」のであった54。つまり、本省人兵 士 の比率が増 大して軍の 「大陸反攻 」への志向 が弱まるこ とが恐 れ られたのである。 こ れらの 問題 に対処 する ために 策定 された のが 「木蘭 計画 」であ る。「志願服役」とされていた外省人の士卒は、1959 年 8 月に依願退 役が可能であった。「木蘭計画」は、その「志願服役」士卒の待遇を 改 善すること で、有能な 者を軍内に 残留させる ことを狙っ たもの で ある。その内容には、「精神面」では退役「志願服役」士卒への褒章 の授与、「生活面」では年功序列による将兵の年給増加、結婚制限の 緩 和、家族手 当の適用範 囲拡大、眷 属の就業支 援、政府に よる子 女 の教 育費負担、「発展面」で は優先的な 昇進、「保障 面」では退 除 役 金 の改善、保 険制度の導 入、就業支 援や医療、 療養支援の 強化が 盛 り込まれた55。 「木蘭計画」に基づき、1959 年 7 月 31 日に「兵役法」の改定が行 わ れ、服役期 限満了後に 「志願服役 」士卒を「 国防の必要 または 志
53 同上;木蘭小組「木蘭計畫進度檢討報告(木蘭計畫)」『國軍檔案』00039188、1959 年8 月 8 日。 54 「「木蘭計畫」簡報(木蘭計畫)」『國軍檔案』0039188、1959 年 7 月 2 日。 55 「志願服役士官士兵繼續留營服務計畫簡報―木蘭計畫(國防設施計畫)」『特交檔案』 08A-00333、日期不明(1958 年?)。
願 により、留 営服役を継 続させるか 段階的に隊 伍させる」 ことに な った56。 こうして、「木蘭計画」の補完により「鵬程計画一号」は進められ、 兵員は7 月時点において目標の 63 万 8,923 名を下回る 63 万 4,127 名 にまで兵員が削減された57。しかし、将官は定員を8,003 名超過して いたものの、なお1 万 4,394 名の仮退除役将官が残留しており、編成 外人員は1 万 7,268 名に達していたため、9,265 名が欠員となってい た。士卒も、現役不適合士卒が1 万 3,401 名残存し、さらに「木蘭計 画」により5,000 名が軍を離れるため、欠員が 1 万 8,401 名に上るこ と が予測され た。定員を 超過する将 兵が軍に残 留しつつも 、軍の 編 成将兵数は満たされないままであったのである58。 「 木蘭計 画」 は将兵 の不 評を買 って いた。 退除 役後の 生活 保障が 不 十分なため に、生活手 段を持たな い「志願服 役」兵卒は 服役を 継 続 せざるを得 なかった。 そのため、 若く生活能 力のある兵 士が「 鵬 程 計画」を口 実に退役を 望み、老年 兵や家計負 担の重い者 が「木 蘭 計画」を口実に服役の継続を望むことになった59。外省人の老年兵と 傷病兵は軍外での生活を送る前途を失い、軍内には動揺が広がった60。 加えて、政治工作人員や国民党の党務工作人員が「自分の利害関係」
56 「志願士官士兵留營服務計畫(木蘭計畫)簡報(國防設施計畫)」『特交檔案』 08A-00335、日期不明(1959 年 7 月 4 日?)。 57 「總統府四十八年第十五次軍事會談紀錄(總統府軍事會談案(四十八年))」『國軍檔 案』0000129、1959 年 7 月 18 日;「鵬程計畫一號執行狀況簡報(國防設施計畫)」『特 交檔案』08A-00333、日付不明(1959 年 7 月 18 日?)。 58 同上。 59 「貫徹推行『木蘭計畫』專案報告(木蘭計畫)」『國軍檔案』0039195、1959 年 5 月 30 日。 60 「軍中老戰士現狀分析(木蘭計畫)」『國軍檔案』0039189、1959 年 5 月 25 日。
を守るために、「鵬程計画」を妨害した61。また、「鵬程計画」と「木 蘭計画」を主導していた王叔銘が 6 月に失脚した。さらに同年 8 月 に発生した「八七水害」は34 億元の損害をもたらし、国府財政を逼 迫させた。 こうして兵力削減の機運は失われていった。10 月までに将兵退除 役の処理能力の限界と戦力および士気への影響を理由として、60 万 名までの兵員削減の見込みはないと判断された62。また、新たに参謀 総長に就任した彭孟緝は「鵬程計画」の継続に消極的であった63。蔣 介 石も「大陸 反攻」達成 のための軍 備拡張を常 に考慮し、 一貫し て 兵力削減を支持していたわけではなかった64。そのため「鵬程計画二 号」は 10 月に中断された65。この結果、1959 年 12 月の兵員数は 7 月よりも増加した 63 万 7,817 名となり、現役不適合の兵員も 4 万 4,762 名残存していた66。
六 ディロンの訪台と国府の軍事支出抑制路線の復活
国府の経済・財政改革の進捗度に不満であったハラードソンは、6 月11 日に演説し、台湾経済は人口増加の圧力により投資額が実質的61 『王叔銘將軍日記 21』、1959 年 3 月 19 日;『王叔銘將軍日記 22』、1959 年 3 月 23 日。 62 「國軍五十年度員額運用計劃簡報(國防設施計畫)」『特交檔案』08A-00336、日期不 明(1960 年 2 月?);『王叔銘將軍日記 22』、1959 年 10 月 6 日。 63 同上;『王叔銘將軍日記 21』、1959 年 10 月 14 日。 64 葉公超は、陳誠が 1960 年度の兵力削減案について蔣介石の承認を得るのに難儀して いると語っている。FR, 1958-60, vol. 19, pp. 550~552. 王叔銘は、蔣介石は 1959 年に も36 個師団の創設の検討を命令し、彭孟緝もこれを支持していたと紀録している。 『王叔銘將軍日記 22』、1959 年 11 月 13 日。 65 『王叔銘將軍日記 21』、1959 年 10 月 14 日。 66 前掲「國軍五十年度員額運用計畫簡報」。
に 零に等しい 反面、消費 率が極めて 高いため、 危機に陥る 蓋然性 が あ ると指摘し 、消費の抑 制と投資額 の増加、経 済活動の刺 激によ る 生 産の増大、 より多くの 米援の獲得 を訴えた。 この演説は 台湾社 会 の 広範な賛同 を呼んだ。 米援会も具 体的な数値 や現状の政 策には 反 駁 したものの 、台湾経済 の現状につ いては大筋 で見解を共 にして い た 。ハラード ソンの演説 は陳誠内閣 の経済・財 政改革を促 進する 機 運を高めたのである67。 しかし、「八七水害」により国府には財政難が生じ、公務員および 教職員の待遇改善や兵員削減が行き詰まっていた。そこで 10 月 21 日 に 訪 台 中 の デ ィ ロ ン (C. Douglas Dillon)国務次官と会談した際 に 、新型武器 の供与とと もに、経済 援助の増額 と国際機関 からの 借 款 へ の ア メ リ カ の 助 力 を 要 請 し た 。 デ ィ ロ ン は 国 府 の 兵 員 削 減 計 画 、世界銀行 との調整、 剰余農産物 供与の増加 に関して協 力する 意 向を表し、「台湾の一般的な技術水準は比較的高く……台湾は大量の 借 款基金を獲 得するのに 理想的な地 区である」 として、と りわけ ア メ リカの対外 援助の中心 になってい る開発借款 への申請を 勧めた 。 さ らに、完備 された計画 に則り、開 発借款を利 用して投資 環境を 整 備し、海外投資を吸収すれば「台湾が極東の 1 つの模範地区になる のは難しくない」のであった68。 陳誠はディロンの提案に応じ、10 月 29 日の行政院院会において、 米 援減少が「 必然の趨勢 」である状 況下で財政 を補う方法 として 、 海外投資の増加と開発借款資金の獲得を挙げた69。開発借款基金は投 資 と貿易の障 害を排除し て民間企業 の活動の促 進を図るも のであ る
67 趙既昌、前掲書、頁 17~21。 68 「與美國副國務卿狄倫會談記録(續編、談話類)」『石叟叢書』、1959 年 10 月 21 日。 69 「院長在第六四○次院会中之指示(續編、行政院院會院長指示適鈔)」『石叟叢書』、 1959 年 10 月 29 日。
も のの、提出 される経済 計画の健全 性を審査し て貸与され るもの で あ るため、そ の獲得には やはり国府 の経済・財 政改革が必 須であ っ た70。 米 援 の 支 援 の 見 込 み が 得 ら れ た た め 、 兵 員 削 減 計 画 も 再 開 さ れ た71。陳誠は前記の行政院院会で、行政院の各主管部門に対して兵員 削 減と退除役 の計画を策 定し、アメ リカ側援助 機関とディ ロンに 送 るように指示した72。こうして 1960 年に再度策定された兵員削減計 画は、「有効戦力の維持、三軍発展の要求、人員処理能力、軍の士気 の安定」などを考慮しつつ、削減後の目標兵員数を62 万名に設定し た73。このように、兵員削減と軍事支出の抑制により財政収支を改善 することが、1959 年中に再度国府の政策として定まりつつあった。 と ころで 、デ ィロン が陳 誠に開 発借 款の申 請と 投資環 境の 整備を 促した背景には、「米華両国の協力の下で、台湾は必ずや目下発展に 従 事している その他の国 家の模範と なるであろ う」という 期待も あ った74。ディロンは蔣介石に対しても、中国大陸での「人民公社」運 動がインドの関心を引き付けていることに触れ、「アメリカは、台湾 で 米 華 が 緊 密 に 協 力 す る こ と に よ っ て 、 大 陸 の 奴 隷 制 の 下 で よ り も 、自由の下 でより速く より大きな 発展ができ ることを示 したい と 切に願う」と述べている75。 これは、1958 年から中国が「大躍進」および「人民公社」運動を
70 趙既昌、前掲書、頁 30~32。 71 前掲「與美國副國務卿狄倫會談記録」。 72 前掲「院長在第六四○次院會中之指示」。 73 「總統府四十九年第五次軍事會談記録(總統府軍事會談案(四十九年))」『國軍檔案』 00001298、1960 年 2 月 26 日;前掲「國軍五十年度員額運用計畫簡報」。 74 前掲「與美國副國務卿狄倫會談記錄」。 75 FR, 1958-60, vol. 19, pp. 613-621.
展 開し、急速 な経済発展 を遂げたと 喧伝してい たためであ る。ア メ リ カは、第三 世界が中国 の経済発展 を自身の経 済開発のモ デルと し て 受容し、中 国の影響力 を増大させ ることを防 ぐ必要に迫 られて い た 。中国と正 統性を争う 国府が台湾 で経済発展 することに は、米 援 の 有効性と自 由主義陣営 の優位性を 示すという 期待が込め られつ つ あったのである。
七 「十九項目財政・経済改革措置」の策定による国
府軍事支出固定の同意
1959 年 12 月 3 日に国際協力局局長代理のサッチオ(Leonard J. Saccio)が台湾で陳誠らと会談し、国府の経済面での努力を賞賛し、 国 府が経済発 展推進のた めの新たな 計画を策定 し、米援を 獲得す る よ う促した。 サッチオ訪 台の目的は 、数年内に 台湾経済を 米援依 存 から脱却させるための特別援助計画を主導することであった76。 陳 誠はこ の提 案に応 じ、 会談後 に米 援会の 会議 を招集 して アメリ カ側に提出する計画を第 3 期 4 ヵ年経済建設計画に合致させること を決定した77。在台米援機関との経済建設計画についての折衝は、尹 仲容と李国鼎米援会秘書長が中心となって12 月 14 日から 16 日かけ て行った。16 日の会談において、アメリカ側は投資への障害の除去、 資 本形成促進 のための国 内資本の動 員、工業発 展に関する 組織の 強 化 と行政手続 きの簡素化 を求めた。 このうち、 国内資本の 動員は 軍 事支出をも見直し対象としていた78。76 Ibid, Sup., no.415.
77 「財經首長於總統官邸會談記録(經濟發展、加速經濟發展計畫―十九點財經改革措
施内容及執行情行(第三期四年經濟建設計畫))」『李國鼎檔案』b00081028(台北: 中央研究院近代史研究所檔案館所蔵)、1960 年 1 月 7 日。
軍事支出問題は、部長級の厳家淦や楊継曽らも参加した17 日の会 談 で議論され た。ハラー ドソンが要 求したのは 、成長分の 国民総 生 産 に対する軍 事目的利用 額に規定を 設けること であった。 国府側 も 軍 事支出の制 限に反対し ていなかっ た。楊継曽 はハラード ソンの 提 案 に賛成した し、外貿会 副主任委員 の銭昌祚も 「軍事費用 の支出 に は 一定の限度 があるべき 」と述べた 。ただし、 その具体的 方法は 決 められなかった79。 アメリカ側との一連の協議を経た後、米援会は12 月 24 日に再度 4 ヵ 年経済建設 計画をハラ ードソンに 提出した。 しかし、ハ ラード ソ ン はこの計画 を不十分な ものと見な し、尹仲容 の求めに応 じて、 要 求 の概要を文 書にて米援 会に提示し た。ハラー ドソンは、 台湾が 将 来的に経済援助なしに経済成長できる条件を獲得するため、4~5 年 間 以内に健全 な経済成長 を最大限達 成すること を目標に掲 げた。 具 体 的政策とし て挙げられ たのは、軍 事部門への 資源配分の 制限、 反 イ ンフレ財政 ・信用政策 の採用、税 制の改革、 為替レート の実勢 レ ートへの単一化、為替管理の緩和、公共事業費用徴収委員会の設立、 証券市場の設立、民間企業と競合する公営企業の売却の 8 項目であ った80。 陳誠は 30 日にハラードソンとイェガーと会談し、8 項目の提案に 原 則的に同意 し、投資環 境の整備と 民間セクタ ー拡大に向 けた経 済 改 革を推進す る決意を表 明した。さ らには「提 案された計 画は、 蔣 介 石・ダレス 共同コミュ ニケの自然 な帰結であ る」と述べ 、計画 に おいてコミュニケに言及するよう提案した81。
b00081032、1959 年 12 月 17 日。FR, 1958-1960, vol. 19, pp. 643-646. 79 同上。 80 FR, 1958-1960, vol. 19, pp. 643-646. 81 「副總統陳誠等與 Yager(葉格爾)會談紀録(經濟發展、加速經濟發展計畫)」『李國
陳 誠がハ ラー ドソン の提 言に合 意し たこと で、 経済部 、財 政部と 米援会がハラードソンの 8 項目の提案を基礎にして「経済発展加速 計 画」の策定 を始めた。 この協議に おいて最も 重視された のは、 軍 事支出の制限と公共事業費用徴収委員会の設置であった82。殊に軍事 支 出 の 制 限 を 蔣 介 石 に 受 け 入 れ さ せ る こ と は 至 難 と 思 わ れ た も の の、協議では軍事支出の総額を削減することが決定された83。 陳誠は翌年 1 月 4 日に蔣介石に書簡を送り、米援の増額と「経済 発展加速計画」が可能になったのは、「蔣介石・ダレス共同コミュニ ケ」で示された、「政治的手段により大陸を回復する有効な方法の一 種を執行したこと」によると述べた84。陳誠は財政・経済改革を「大 陸 反攻」の「 政治的手段 」に擬して 、コミュニ ケを蔣介石に軍事支 出制限の受け入れさせる説得材料にしたのである。 蔣介石は1960 年 1 月 7 日に陳誠、張群総統府秘書長、厳家淦、尹 仲容、李国鼎らを招集し、「経済発展加速計画」についての報告を受 け た。この際 、厳家淦は 軍事支出に 関して原案 を覆し、軍 事支出 を 現 状に固定し 物価上昇分 のみ上昇さ せ、国防費 用が国民総 生産に 占 め る比率を減 少させると いう新たな 提案をした 。この提案 に対し 、 蔣 介石は国民 総生産に占 める軍事支 出の比率を 尋ねたのみ あり、 特 に反対しなかった85。なぜなら、蔣介石は「大陸反攻」の達成にはよ り多くの米援の獲得が必要と考えていたからであった86。
鼎檔案』b00081030、1959 年 12 月 30 日;FR, 1958-1960, vol. 19, pp. 643-646. 82 注 77、前掲資料。 83 康緑島、前掲書、頁 141。 84 「美援改以對實施良好之國家加以補助案(經濟發展、加速經濟發展計畫)」『李國鼎 檔案』b00081029、1960 年 1 月 4 日。 85 康緑島、前掲書、頁 141;前掲「財経首長於總統官邸會談紀録」。 86 蔣介石は「対外的な」「時宜的な」共同コミュニケの発表により、「軍事援助が大幅 に増加し、経済援助も割に充実した」のであり「米華協力の基礎」はここに始まる
蔣 介石は 軍事 支出に 関す る項目 を含 めて、 計画 を原案 通り 執行す るよう指示した87。こうして民間セクターの拡大、投資環境の整備、 均 衡財政、貿 易の拡大に より経済発 展の促進を 狙う「経済 発展加 速 計 画」が制定 され、具体 的措置は付 属する「十 九項目財政 ・経済 改 革措置」に列挙された。軍事支出に関しては、第 9 項目で「政府は 精 兵政策の執 行を継続し 、現在の退 除役辦法を推進するとともに、 国 防費用(不 変価格によ り計算)を 暫時現在の 額に維持す る」こ と が定められた88。 「経済発展加速計画」は1 月 14 日の行政院院会にて正式に承認さ れた。尹仲容は即日国際協力局に書簡を送り、「経済発展加速計画」 の内容を通知するとともに、1961 年度における 6,000 万元の防衛支 援および投資用の9,000 万元から 1 万元の借款を求めた89。 ワシントンでは、ディロンがアイゼンハワーに対して、「台湾に他 地域の「モデル」としての役割を果たさせる」ために、「新興工業の 発 展へのイン センティヴ となる資金 」を提供す るよう提言 し、そ の 支持を得た90。アイゼンハワー自身も 1960 年 2 月 16 日の議会宛て教 書 において、 台湾は「自 由の制度の 下における [経済発展 の]達 成 の 速さと度合 いは、最終 的に全体主 義の下にお ける経済発 展の結 果 を 上って得ら れることの 有力な実証 」を提供す ると述べて 、対華 援 助 の増額への 理解を求め 、国府の「 経済発展加 速計画」へ の支持 を
のであり、アメリカが「復国」に助力するか否かの鍵はここにある、と日記に記し ている。「本年總反省録之網要」、December 1959, Chiang Kai-shek Diaries, Box 67, Folder 16, Hoover Institution, Stanford University, CA.
87 「加速經濟發展計畫案之說明(經濟發展、加速經濟發展計畫)」『李國鼎檔案』
b000810003、1960 年 3 月 9 日。
88 沈雲龍編著『尹仲容先生年譜初稿』(台北:傳記文學出版社、1988 年)、頁508~514。 89 前掲「加速經濟發展計畫案之說明」。
明確にした91。 1960 年 11 月にワシントンの国務省と国際協力局は 1961 年度の援 助額について検討し、「経済発展加速」計画に対する国府の努力を最 大限にするために、6,000 万ドルの防衛支援による援助を決定した92。 こ の過程で、 国務省や国 際協力局は 国府の軍事 支出を問題 視しな か っ た。こうし てアイゼン ハワー政権 末期には、 国府の軍事 支出は 米 華間の争点にはならなくなったのである。
八 おわりに
国 府は台 湾移 転直後 から 膨大な 兵員 の維持 によ る財政 負担 を認識 し 、余剰兵員 の削減を試 みたが、逼 迫した財政 と「大陸反 攻」へ の 志 向はこれを 阻んだ。一 方、アメリ カも国府の 「大陸反攻 」の希 望 を否定できず、軍事支出削減を強いられなかった。 「 蔣介石・ダレス共同コミュニケ」が軍事を「大陸反攻」の副次 的 手段に位置 づけたこと は、アメリ カが国府に 兵員削減と 軍事支 出 の 抑制を迫り 中国との発 展競争に専 念させる外 部条件を整 えた。 一 方 、陳誠内閣 が財政・経 済改革の一 環として取 り組んでい た兵員 削 減 と軍事支出 抑制の試み は、財政や 外省人将兵 の処遇の問 題によ り 一 旦は頓挫し たが、削減 傾向にある 米援獲得の ために、再 度復活 し た。 1959 年末にアメリカ側が提示した特別援助に陳誠内閣が応じたこ とにより、「十九項目財経措置」において軍事支出は不変価格計算に より固定された。これにより、「中国」規模であった軍事組織は国府 の 実際支配地 域に基づく 台湾規模の 財政に拘束 されること が明文 化91 Department of State Bulletin, March 7, 1960, p. 374. 92 FR, 1958-1960, vol. 19, Sup., no. 486.
されたのである。 た だし、 国府 は「大 陸反 攻」を 放棄 したわ けで はなか った 。蔣介 石は中国の大躍進後の社会・経済的混乱に乗じ、1962 年に中国大陸 への軍事反攻を試みた。その際に、「十九項目財経措置」はアメリカ が 国府の軍事 反攻を阻止 する手段の 1つとして 機能した。 アメリ カ は 米華間の合 意事項であ る「十九項 目財経措置 」を根拠に 国府の 軍 事支出を抑制し、反攻作戦発動を牽制したのである93。「十九項目財 経措置」は、いわばアメリカが国府の軍事組織を台湾規模へと封じ、 さ らに国府の 存在自体を 台湾規模へ と封じ込め る役割を果 たした の である。 [付記] 本稿は平成 23 年度科学研究費補助金(若手研究(B))「国府の「大陸反 攻 」 構 想 と 冷 戦 期 米 華 関 係 の 形 成 」 お よ び サ ン ト リ ー 文 化 財 団 鳥 井 フ ェ ロ ー の 研究 成果 の 一 部で ある 。 ( 寄 稿 :2011 年 10 月 18 日、採用:2012 年 3 月 18 日)
93 石川誠人「国府の『大陸反攻』とケネディ政権の対応」『国際政治』第 148 号(2007 年3 月)。
「中國」規模的軍隊組織與台灣規模的
財經之相對關係
—中美關係之中有關國府於「十九點財經改革措施」
明文限制軍事支出之經過—
石 川 誠 人
(立教大學亞洲地域研究所研究員)【摘要】
本文透過歷史研究途徑探討中美關係之中有關1960 年 1 月國民政 府於「十九點財經改革措施」明文限制軍費支出之經過。 國 民政 府遷到 台灣 之後, 由於 仍保有 龐大 的軍事 組織 ,因此 企圖 裁減 兵力。但因 為財政規劃 、「反攻大陸 」、有關外省 籍士兵的生 活 保 障等問題而遲遲無法推動相關政策。 提 供龐 大援助 給國 民政府 的美 國當初 並無 法限制 國民 政府刪 減軍 費。不過1958 年 10 月發表的「蔣介石‧杜勒斯共同聲明」宣布將軍 事 作為「反攻 大陸」的次 要手段後, 美國因此開 始以此施壓 國民政 府 裁 減兵力與軍 費,這使得 陳誠內閣重 新推動了相 關政策,於 「十九 點 財 經改革措施 」明文限制 了軍費支出 。也就是說 ,因應「反 攻大陸 」 的 「中國」規 模軍事組織 因為台灣規 模財政規劃 的制度性限 制而無 法 持續發展。 關鍵字:中美關係、台灣、美援、軍費支出、19 點財經改革措施Dissension in Taiwan over a ‘China-scale’ or
a ‘Taiwan-scale’ Military Budget:
Relations between the United States and
the Republic of China That Led to
the Establishment of a Ceiling on
Military Expenditure under
the ‘Nineteen Point Reform Program’
Makoto Ishikawa
Research Fellow, Rikkyo University Centre for Asian Area Studies
【Abstract】
This paper examines relations between U.S. and the Republic of China (Taiwan or ROC) up to the establishment of the ‘Nineteen Point Reform Program’ in January 1960.
Following its defeat in the Chinese Civil War and retreat to Taiwan Island, the Republic of China maintained an excessively large military. Attempts made to reduce military spending were stifled given the continuing policies of ‘re-conquering the mainland’ and maintaining the living standards of those soldiers who had fled to Taiwan.
Despite having provided a huge amount of aid to ROC, U.S. was unable to have the regime reduce military expenditure. However, following the release of the Chiang-Dulles Communiqué in 1958 which publicly announced military action as a secondary means of re-conquering the mainland, pressure from the U.S. to cut military spending grew.
These demands resurrected the project of cutting troop numbers and reducing military expenditure which had been planned by Ch’en Ch’eng’s
cabinet and led to a ceiling being placed on ROC’s military budget under the ‘Nineteen Point Program’. As a result, the ‘China-scale’ military organization, which had been established so as to ‘re-conquer the mainland’, was constrained to a ’Taiwan- scale’ budget.
Keywords: United States-Republic of China relations, Taiwan, U.S. Aid,
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