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日本は明治 維新の改革 の成功を機 に脱亜入欧 を果たし、 徐々に 琉 球 や台湾、南 洋などの各 地で「領土 拡大」運動 を繰り広げ た。ま た 日 清 戦 争 で 世 の 注 目 を 集 め た 黄 海 と 渤 海 の 海 戦 が 戦 わ れ た 際 、「 ひ そ かに」東シ ナ海の釣魚 台列島の領 有権を大日 本帝国の国 土に組 み 入 れ、ここか ら世紀を跨 ぐ釣魚台列 島の領有権 争議が幕を 開けた 。 依 田憙家はか つて著書で 、明治維新 の成功後の 日本の、台 湾と澎 湖 に対する侵略の「強奪」の始まりは琉球問題に端を発しており43、ま た 戦後の釣魚 台の領有権 の「強奪」 もまた琉球 と密接な関 係があ る と 指摘した。 米国が戦後 琉球諸島を 接収した合 法性は、早 くから 国 際 社会で大き な非難を浴 び、石井明 など多くの 日本の研究 者すら 、 米国が釣魚台を占領した行為に疑問を呈しており、米国が1972 年に 釣 魚台列島の 行政管轄権 を日本政府 に移管した ことの合法 性がさ ん

日、http://catalog.digitalarchives.tw/item/00/31/a7/4f.html。

42 李明峻、前掲「從國際法角度看琉球群島主權歸屬」、頁 75~79。

43 雷慧英等譯、依田憙家著『近代日本的歷史問題』(上海:世紀出版、2004 年)、頁147。

ざん争議を引き起こしたことは言うまでもない。1947 年 10 月、張群 行 政院長が、 閣議で米国 への抗議を 表明、米軍 が琉球に極 東司令 部 を 設置し、か つ正式に琉 球諸島の信 託統治に着 手した行為 に強い 不 満 を示した。 張群は国民 参政会常置 委員会で、 琉球は古く より中 国 に 隣接すると し、米国に 直ちに琉球 を中華民国 に返還する よう要 求 し た。しかし 、当時の国 民党と共産 党の緊迫し た戦いの情 勢の中 、 政府 は米国に琉 球での米軍 駐留の争議 にかたむけ る余力はな かった 。 ま た当時の国 際情勢は安 定しておら ず、張群の 米国に対す る中華 民 国政府への琉球返還の要求は実を結ばずに終わった44

1949 年 4 月 、 ト ル ー マ ン は 琉 球 を 長 期 保 有 す る 方 針 を 策 定 し 、

「KeyStone of the Pacific(太平洋の要石)」戦略を制定、琉球に永続 性を要する要塞を構築しようとした。翌1950 年 11 月には前後して、

沖 縄本島、奄 美大島、宮 古島、八重 山などに列 島政府を設 立し、 琉 球を計画的に管理・建設する行為に着手した45。その後 1972 年まで 琉 球は米軍の 管理下にあ り、極東地 区の軍事戦 略の重要な プレゼ ン ス となった。 米国が琉球 に駐留し兵 を置いた戦 略を超えた 心理的 な 要 素は、許金 彦がかつて 分析した琉 球が長期に わたって米 軍の「 要 塞 化」に置か れたことの 由来に原因 があると論 述している 。第二 次 世 界大戦の間 、琉球は唯 一連合国軍 が上陸戦を 行い砲火に 見舞わ れ た 日本に近い 土地であり 、日本軍が 本土決戦の 前哨戦とみ なし、 焦 土 作戦での死 守をもいと わない中、 連合国軍が 琉球の戦場 で直面 し た のは想像し がたいほど の血みどろ の悲惨な戦 況であった 。米国 は こ のときただ ちに琉球諸 島の太平洋 防衛戦略に おける価値 を悟っ た

44 石井明、前掲「中国の琉球・沖縄政策-琉球・沖縄の帰属問題を中心に-」、頁 82。

45 松本英樹「沖縄における米軍基地問題-その歴史的経緯と現状-」『レファレンス』

総期第643 期(2004 年 06 月)、39~60 ページ。

のである。戦後は、琉球は完全に米国のコントロール下にあったが、

第 二次世界大 戦の間に受 けた傷はぬ ぐえず、日 米双方が沖 縄返還 の 問 題で交渉す る際、米国 は沖縄基地 に配備した 施設と人員 を一切 引 き上げないとし、1972 年に沖縄が返還された後も、駐沖縄米軍は減 る どころか増 えている。 ここからも 米軍が沖縄 の地理的な 戦略的 重 要 性を認めて いることが うかがえる ほか、感情 的にも、沖 縄には 特 殊 な印象を持 っているこ とがわかる 。これによ って、米軍 は長期 に 渡 って極東地 域の主要な 基地のひと つとして占 拠を続け、 琉球は こ の バックグラ ウンドのも と米軍に「 基地化され る琉球」と して組 み 入れられた46。しかし、沖縄の多くの人は故郷が長年米軍の「基地化」

に 苛まれた現 状に多くの 不満を持っ ており、米 軍の沖縄基 地開設 か ら 半世紀が経 っても、沖 縄の人々の くらしは改 善せず、島 は米軍 基 地 の需要によ って現地の 工業の発展 が妨げられ るという不 当な目 に 遭 い、沖縄の 失業問題と 青年人口の 深刻な流失 を引き起こ す主な 原 因 となってい る。米軍の 要塞化する という琉球 政策は、同 地にお い て戦争の影と経済問題を残した47。日本政府が 1997 年 4 月に「沖縄 米 軍基地借用 に関する特 別措置法」 を可決して から、幾度 となく 沖 縄 住民の抗議 活動を引き 起こした。 現地の政治 リーダーは 、全米 軍 の 数撤退を求 めたほか、 沖縄独立で 、同地を「 琉球人の琉 球」に す る ということ まで公言し 、反対の声 は絶えず続 いたが、米 国が長 期 に 渡って駐留 するという 現況を変え るのは依然 として困難 な状況 に ある48

46 許金彦「琉球地位的分析與展望」『問題與研究』第 48 巻第 2 期(2009 年 06 月)、頁 94~97。

47 林呈蓉「從台、美、日的聯合防衛機制檢討台灣社會的『沖繩認識」-以教科書的歷 史書寫為例」『台灣國際學研究季刊』第3 卷第 1 期(2007 年 03 月)、頁 12。

48 許金彦、前掲「琉球地位的分析與展望」、頁 96~97。

前述の吉田 ドクトリン のもとでの 日本の外交 戦略は、経 済の安 定 成 長という効 果を上げた が、米国の 強権に依存 する外交と 防衛の 体 制 がさまざま な懸念と争 議をはらむ こととなっ た。したが って、 い か にして米軍 から琉球諸 島の統治を 取り戻すか が日本政府 の重要 な 課題であった。日本国内では60 年代から沖縄返還の声があちこちで 沸き起こり49、当時の佐藤栄作首相は、日本国内の圧力を巧妙に利用 し 米国に転嫁 、交渉のカ ードとする ことに成功 し、最終的 に沖縄 返 還のキーパーソンとなった。佐藤首相は1965 年 1 月、当時の米国リ ン ドン・ジョ ンソン大統 領との首脳 会談の際、 正式に米国 に対し 琉 球 の「行政管 轄権」を返 還する要求 を提示した 。当時、経 済が飛 躍 し はじめた日 本は徐々に 敗戦国の影 から抜け出 し、国際舞 台で頭 角 を 現そうとし ていた。佐 藤栄作の絶 え間ない各 方面の具体 的な交 渉 努力を通じ、ついに 1969 年 11 月にニクソンとの首脳会談で、日米 双方が共同で沖縄返還を宣言、米国は1972 年に琉球諸島を沖縄に返 還 するとした 。佐藤が経 済的な条件 と国内の世 論を圧力と して交 渉 を 行っていた とき、日本 の米国に対 する沖縄返 還要求は日 米の問 題 を 招かなかっ たばかりで なく、逆に 日米軍事同 盟の協力関 係をよ り 一歩深めたのである50。外交的な面からみると、戦後の日本は長期に

49 尚会鵬と徐晨陽はかつて、日本と最強国との同盟について、戦略的な目的を達成す ることが近代日本の外交上の特質となっていると指摘した。要約すると、「日本の文 化が想像する国際秩序とは、等級の序列である。つまり、すべての国がそれ相応の 地位を有する。“自分の上にいるか、下にいるか”という行動モデルのもとで、日本の 外交がある種強権的で、道義を欠いた印象を与えるのも自然である。最大国家との 同盟で戦略的な目的を果たす、というのは近代以降の日本外交の重要な特徴である」。

尚會鵬・徐晨陽『中日文化衝突與理解的事例研究』(北京:中國國際、2004 年)、頁 9~10。

50 井上清は佐藤が沖縄返還を求めたことが、日米の衝突を招くどころか、日米の同盟 関係を強化したと指摘する。原文を要約すると、「佐藤首相が米国に提示した“沖縄行

渡 る吉田ドク トリンの外 交戦略の実 行が成功し 、これが沖 縄返還 を 促す主な原因となった51。しかし、軍の駐留という面からみると、沖 縄 返還は「日 米同盟の内 部の矛盾」 を浮き彫り にした。米 国は日 本 と 琉球など各 界の圧力に 迫られ、沖 縄返還を決 定したが、 その一 方 で 沖縄の基地 を守らなけ ればならず 、プロセス はいかにも 複雑な も の となった。 日米間の政 治、外交、 経済、法律 に関わるほ か、日 米 同 盟という協 力の暗黙の 了解といっ た感情的な 要素も考慮 しなけ れ ば ならず、し かも交渉の 過程で米国 側は琉球の 基地として の戦略 的 な地位の重要性を思い知らされたのである52

沖縄返還が 決まり、米 国はいかに して沖縄に 駐留する軍 事力が 影 響 を受けない かを画策し 始めた。す でに琉球諸 島で長い間 行われ て い た行政、立 法、司法の 三権を日本 に返還する ことを主な 戦略方 針 と した。当時 の日本の中 島敏次郎駐 中国大使が 外務省の条 約局条 約 課 課長を担当 し、米国の 日本への沖 縄返還作業 のプロセス に最初 か ら最後まで関わった。1967 年に日本の佐藤栄作首相とジョンソン米 大統領が共同声明を発表してから、正式に返還されるまで、4 つの段

沖縄返還が 決まり、米 国はいかに して沖縄に 駐留する軍 事力が 影 響 を受けない かを画策し 始めた。す でに琉球諸 島で長い間 行われ て い た行政、立 法、司法の 三権を日本 に返還する ことを主な 戦略方 針 と した。当時 の日本の中 島敏次郎駐 中国大使が 外務省の条 約局条 約 課 課長を担当 し、米国の 日本への沖 縄返還作業 のプロセス に最初 か ら最後まで関わった。1967 年に日本の佐藤栄作首相とジョンソン米 大統領が共同声明を発表してから、正式に返還されるまで、4 つの段

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