沖繩返還を巡る釣魚台諸島主権
に関する一考
李
易 璁
(台湾・東呉大学日本語文学学科兼任助理教授)何
思 慎
(台湾・輔仁大学日本語文学学科教授兼日本研究センター主任)【要約】
日本の石原慎太郎東京都前知事が2012 年 4 月、米ワシントンで「東京 都が尖閣諸島を購入する」と主張し、あらためて釣魚台列島(日本名・ 尖閣諸島)の領有権争議が巻き起こるとともに、東シナ海の緊張が高ま った。第二次世界大戦後の釣魚台の領有権をめぐる問題の歴史を振り返 ると、米国が同島の領有権に影響する鍵となる要素を握っている。朝鮮 戦争が勃発してから、米国の主導のもとで台、米、日の三者の間には緊 密な協力パートナー関係が存在しているが、釣魚台などの領有権問題は 米国が台湾に軍を駐留させたために一時的に棚上げされた。米国のリチ ャード・ニクソン元大統領が70 年代に「グアム・ドクトリン」で採用し た新アジア政策では、前後して釣魚台の「行政管轄権」を日本に移譲す るとともに台湾から米軍を撤退させ、台日間の釣魚台をめぐる領有権争 議が表面化した。今日、台、日、中国大陸の三者の釣魚台の領有権をめ ぐった問題が、日増しに白熱化する中でも、依然として米国の干渉の足 跡を見て取ることができる。釣魚台の領有権争いの移り変わりには、複 雑な時代背景と国際的な要素がある。本論文はその要素と時間的・空間 的な背景を読み解くことで、今日、釣魚台の領有権争いにもたらされた 道すじとポイントとなる要素を見極める。 キーワード:釣魚台、沖縄返還、グアム・ドクトリン、吉田ドクトリン、 米華相互防衛条約一 はじめに
釣魚台列島 (日本名・ 尖閣諸島) 海域の領有 権をめぐる 争議が 絶 え 間なく続い ている。こ れに関連す る議論は、 学術界でい ままさ に 研究テーマとして盛んに取り上げられ始めたばかりで、台湾、中国、 日 本の学者が それぞれ、 国際法や史 書・文献、 海洋地理研 究など あ ら ゆる証拠や 論述をつぎ つぎと用い て、領有権 の帰属を特 定しよ う と しているが 、これまで 一致をみな いままとな っている。 第二次 世 界 大戦が終結 し、米国は 琉球諸島を 接収すると 同時に、ア ジア太 平 洋 の各地に軍 を大量に駐 屯させた。 外交と軍事 のいずれも がこの 地 域 の情勢に影 響を及ぼし 、特に釣魚 台の行政管 轄権が沖縄 ととも に 日本に返還されたことに関しては、幾度となく台湾と中国大陸の1強 い 不満を引き 起こし、今 に至るまで 各自が理論 を展開し同 島の領 有 権 を争ってい る。台、日 、中国大陸 それぞれの 研究者の理 論の組 み 立 ての違いを 眺めてみる と、釣魚台 の領有権に 関する研究 の結論 に 大きな差異が際立つ。しかし、多くの研究は、1972 年に沖縄返還に 伴 い、釣魚台 の「行政管 轄権」を日 本に移譲し た米国の、 その後 の 東 アジア事務 における立 場と態度が 、長年にわ たって釣魚 台の領 有 権をめぐる争議の鍵となる要素となったと指摘している。 台、日、中 国大陸の三 者とも、他 者が主張す る釣魚台の 領有権 に 対 する認識の 差異は大き い。それぞ れの理論の 組み立ては 自身の 利 益 に立脚し、 共通の認識 と言えるも のが交わる ことは全く なく、 領 有 権をめぐる 争議を招く のも無理は ない。日本 の防衛大学 校の村 井 友秀教授は、台湾と中国は1970 年代に釣魚台の周辺海域に埋蔵する 原 油が発見さ れてから、 領有権を主 張しだした と公然と批 判し、 日1 本稿の「中国大陸」は、「中華人民共和国」を指す。
本 は、戦前か ら既に釣魚 台の領有権 を主張して おり、台湾 と中国 大 陸が釣魚台の領有権を宣言するのは、「禁反言の法理(自己の言動に 矛盾する主張はできない)」に明らかに違反していると論じた2。しか し、村井教授が「禁反言の法理」の論理を元に、「台湾の上層部は早 く から日本の 釣魚台の領 有権の主張 を黙認して いた」と批 判した 論 理 の組み立て は全く実情 に合わぬも のであり、 関連事実や 証拠が 台 湾 が釣魚台列 島と琉球諸 島の領有権 を放棄した ことはない ことを 証 明 している。 ひいては日 本が釣魚台 の領有権を 保有してい ると黙 認 し たことはな く、米国が 琉球諸島を 「接収」し たことに抗 議する 台 湾の「保琉運動」から既に65 年以上が経過しており、その間の釣魚 台 の領有権を 宣言した活 動について は言うまで もない。戦 後、各 界 が 厳しい言葉 で米国によ る沖縄の接 収を批判し たが、米国 はこれ を 顧みず軍を駐留させた。これについて行政院の張群・元院長が1947 年 10 月 18 日にも国民参政会の会議で表立って米国を譴責し、米軍 に よる琉球諸 島の信託統 治は根拠の ないもので あり、琉球 に米極 東 軍 司令部を設 置するとい った軍事行 動は合法性 も正当性も 全くな い と 指摘した。 また琉球は 古来より中 国に属して おり、即刻 返還す べ きと強調した。10 月 24 日に琉球の民間紙「うるま新報」に掲載され た 張群の公開 発言は、琉 球が米国の 信託統治を 受けるのに 反対し 即 刻中華民国に返還されるべきとあらためて申し述べた3。張群はさら に台湾視察の際、10 月 25 日に台北で記者会見を行い、中華民国は米 国が直ちに琉球諸島を返還することを求めると公に呼び掛けた4。そ
2 村井友秀「尖閣で中国は法的に勝ち目なし」『産経ニュ-ス』2012 年 7 月 23 日、 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120723/plc12072303200005-n1.htm。 3 石井明「中国の琉球・沖縄政策―琉球・沖縄の帰属問題を中心に―」『境界研究』総 期第1 期(2010 年 10 月)、82~83 ページ。 4 陳占彪「國民黨反對日本重店琉球之依據」『中華讀書報』2012 年 9 月 5 日、5 版。
の後、外交部は 1970 年 6 月 11 日の外交声明で、カイロ宣言とポツ ダ ム宣言、サ ンフランシ スコ講和条 約で、日本 の領土は本 州な ど 4 つ の 島 嶼 を 本 土 と す る ほ か 、 そ の 他 周 辺 の 小 島 の 領 有 権 の 帰 属 は 、 「 主要同盟国 」が共同で 決定するべ きであると 明文規定し ており 、 わ が国は主要 同盟国の中 華民国とし て琉球と釣 魚台が日本 の領土 に 属 することに いまだかつ て同意した ことはなく 、日米が琉 球と釣 魚 台 の領有権帰 属について ひそかに談 判すること に断固とし て抗議 す ると表明した5。長年にわたり、日米はわが国の抗議の意思表明を無 視し、米軍は戦後琉球諸島を27 年にわたり統治したのち、無断で釣 魚台に伴う「行政管轄権」を日本に移譲したのである。 台湾が一時 的に釣魚台 の領有権を めぐる争議 を棚上げし たのに は 原因がある。朝鮮戦争が勃発してから、米軍の主導のもと、台、米、 日 の三者間に は密接な軍 事パートナ ー関係が存 在し、釣魚 台など 領 有 権争議を含 む問題は、 米国が台湾 に軍を駐留 させること で一時 的 に棚上げされた。70 年代の沖縄返還と米軍の台湾撤退に伴い、台日 間 の釣魚台の 領有権をめ ぐる争議は 再び表面化 した。米国 が沖縄 を 占 領する合法 性について はすでにさ んざん疑問 が呈された が、沖 縄 返 還の際には 、同時に釣 魚台の管轄 権を日本に 移譲するこ とが法 的 な 根拠のある ことかどう かには言及 されなかっ た。さらに 米国が 日 本 に移譲した のは釣魚台 の「行政管 轄権」のみ で、その「 領有権 」 の 帰属につい ては明言し なかった。 こういった 行為は隠そ うとす る ほ ど馬脚を露 呈し、台、 日、中国大 陸の領有権 をめぐる衝 突に発 展 す る導火線を はらんでい たのである 。前述した 釣魚台の領 有権争 い
5 この部分に関しては、李明峻「從國際法角度看琉球群島主權歸屬」『台灣國際研究季 刊』第1 卷第 2 期(2005 年 06 月)、頁 75~79 を参照の他、その添付資料である外交 部声明原稿を引用。
の 変遷の歩み には、極め て複雑な時 代背景と国 際的な要素 が存在 す る 。本論文で は、その関 連要素と時 間的・空間 的な背景を 分析す る こ とによって 、今日の釣 魚台の領有 権をめぐる 争いの道す じと鍵 と なる要素を読み解きたい。
二 釣魚台の領有権に関する米国の対応のあいまいさ
米国務省のビクトリア・ヌランド報道官は、2012 年 8 月 28 日の定 例記者会見で、米国は1972 年に釣魚台の「行政管轄権」を沖縄返還 に 伴い日本に 移譲し、日 本がこれま で釣魚台の 「行政管轄 権」を 有 し ていること は事実であ るとあらた めて述べた 。また、釣 魚台に は 日米が1960 年に締結した「日米安保条約」の「日本国の施政の下に あ る領域にお ける武力攻 撃が、双方 の平和と安 全を危うく するも の で あれば、双 方は共通の 危険に対処 するように 行動する」 という 規 定 が適用され るが、米国 は日本が釣 魚台の領有 権を保有し ている か どうかは「特定の立場を採らない」などとした6。最近、台、日、中 国大陸の 3 者が、石原慎太郎前都知事の「東京都が尖閣諸島を購入 す る」との主 張により、 緊張情勢に あることに ついて日本 は、慣 例 に 基づき、米 国に対し日 本が釣魚台 の「行政管 轄権」を有 すると い う 事実を公に 述べるよう 求めたが、 これは米国 が日本が領 有権の 保 有 国であるこ とを支持す ると明らか にするのを 求めたこと に他な ら ない。一方で、ヌランド報道官が2012 年 8 月に米国を代表して行っ た 釣魚台の領 有権をめぐ る争議に対 する発言を みると、米 国の前 例 に従い、米国が1972 年に行政管轄権を移譲したという事実を述べる の みで、同列 島の「領有 権」が日本 に帰属する かどうかを 具体的 に は 明示しなか った。これ はあたかも 、台湾と中 国大陸に争 議の可 能6 「釣魚台爭議─美:日本有行政管轄權」『聯合報』2012 年 8 月 30 日、A13 版。
性 を提供して いるようで あり、米国 が釣魚台事 務において 一貫し て あ いまいな非 中立的な態 度を取って いることを あらためて 明らか に した。 米国が釣魚台を1960 年版の新「日米安保条約」5 条が規定する日 米 の共同防衛 範囲に適用 するという 認識を示し たのはこれ が初め て ではない。2010 年 9 月 23 日、当時の前原誠司外相が米ワシントンで ヒ ラリー・ク リントン国 務長官と会 見した際、 双方は当時 中国大 陸 籍の漁船が釣魚台の海域で、日本側と衝突した事件について約50 分 間 意見を交わ した。その 後クリント ン国務長官 は、釣魚台 は日本 の 管轄する海域にあり、釣魚台問題は「日米安保条約」5 条の規定が適 用 され、この 海域で武力 攻撃を受け れば、米国 は日本と共 同で侵 入 した武力の脅威に立ち向かうと述べた7。外務省アジア大洋州局の杉 山晋輔局長は 2012 年 8 月 22 日、米ワシントンを訪れ、ホワイトハ ウ ス の 国 家安 全 保 障 会議 (NSC)のダニエル・ラッセル・アジア部 長 、カート・ キャンベル 国務次官補 (東アジア ・太平洋担 当)と 会 見 し、双方は 、先ごろ香 港の活動家 が釣魚台で 抗議活動を 行った こ と と、日韓の 竹島(独島 )をめぐる 問題で意見 を交わした 。その 後 の 記者会見で 杉山局長は 、先ごろか ら日本の周 辺海域で頻 繁に起 き て いる事件に ついて、日 本の立場は 「国際紛争 は平和的な 方法で 処 理 し、国際法 廷で解決す べきである 」と主張す るものであ り、米 国 の これら海域 をめぐって の争議に対 する立場は 日本と一致 し、釣 魚 台は「日米安保条約」5 条の適用範囲内であると強調した8。 杉山局長は 米高官との 会談で、日 韓の竹島( 独島)をめ ぐる争 議
7 「クリントン米国務長官 尖閣は日米安保適用対象」『読売新聞』2010 年 9 月 24 日、 http://b.hatena.ne.jp/entry/www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100924-OYT1T00086.htm 8 「尖閣諸島の領有権問題を国際司法裁判所に提訴せよ」『JB PRESS』2012 年 8 月 28 日、http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35965?page=4。
に ついて言及 したが、記 者会見では 「日米安保 条約」をこ れに適 用 す るかどうか は述べなか った。ラッ セル・アジ ア部長らと 米国上 層 部 は、日韓の 竹島(独島 )争議には これまで触 れていない 。これ に 対 し、米国上 層部が明ら かに「特に 厚遇する」 釣魚台争議 につい て は 、釣魚台は 「日米安保 条約」の適 用範囲であ ると幾度と なく述 べ て いるが、日 本が釣魚台 の「領有権 」を保有す るかどうか は明言 し て いない。釣 魚台であろ うと竹島で あろうと、 アジア太平 洋地域 に お ける問題に ついて、米 上層部の発 言には、現 状を変えな いこと を 軸 とする立場 を採る傾向 がみてとれ る。クリン トン、ラッ セル、 キ ャ ンベル、ヌ ランドまで 、近年の米 上層部の釣 魚台争議に 関する 言 論をみると、1960 年に締結された新「日米安保条約」は現在、日本 が 釣魚台の領 有権を保有 することに ついて米国 に後ろ盾を 求める 重 要 な依拠であ る。さらに 一歩進めれ ば、米国が 沖縄返還に 伴い釣 魚 台の「行政管轄権」を日本に移譲した1972 年が、今日の釣魚台「主 権 」争議を引 き起こして いる鍵とな る時であっ たことが際 立って い る。
三 台米同盟下の釣魚台爭議の棚上げ
米国が台湾 周辺海域の 領土認識を 「あいまい 化」する傾 向は、 台 米が「米華相互防衛条約」締結に向け協議した50 年代に遡ることが できる。1950 年 6 月 25 日に朝鮮戦争が勃発したことで、当時のハリ ー ・トルーマ ン米大統領 は、アジア が共産党に よって赤化 される こ と に危機感を 持った。こ れを受け直 ちに、有名 な「台湾海 峡の中 立 化 」政策を宣 言し、ダグ ラス・マッ カーサー極 東軍司令官 に第七 艦 隊 を率いさせ 台湾の防衛 に派遣、共 産勢力の東 アジアにお ける全 面的な拡大の阻止を試み9、これが戦後の米軍による台湾の周辺海域へ の 介入の発端 となった。 台湾は米国 の「台湾海 峡の中立化 」政策 の 庇護のもと、マッカーサーがいう「不沈空母」10となったが、米国が 当 時台湾を防 衛する目的 は共産勢力 の拡大を阻 止すること にあり 、 ト ルーマンが 提示した「 中立化」政 策は中国大 陸の封鎖に 過ぎず 、 実 質的には「 中立」と言 えるもので はまったく なかった。 さらに 、 当 時の台湾の 蒋介石総統 はより積極 的に軍事行 動を起こし たかっ た た め、米軍に よる台湾海 峡の防衛協 力の流れを 利用し、軍 備を整 え 失 われた国土 を取り戻す 大陸反攻と いう大業を 目論んでお り、台 米 双 方の軍事協 力の目的に は相違があ った。全体 をみると、 当時の 台 米 の力の差に は大きく隔 たりがあり 、米国はた とえこの不 沈空母 の 操舵手ではなくとも、その後の舵取りの羅針盤に影響を及ぼした。 米国の第七 艦隊が台湾 の防衛を始 めた当初、 トルーマン の「台 湾 海 峡の中立化 」政策の正 当性と合法 性には、米 国会で幾度 となく 疑 問 が呈された 。また左派 のオピニオ ンリーダー に先見を失 したも の と批判され、その後必然的に米中関係正常化の重大な障害となった。 当 時のディー ン・アチソ ン国務長官 は、朝鮮戦 争の期間中 に中国 共 産 党との交渉 を試み、米 中関係の亀 裂修復の可 能性を模索 した。 ま た 当時のジョ ージ・マー シャル米国 防長官は、 米国は台湾 防衛の た め に出兵する 必要性はな いとの疑念 を呈し、台 湾を中国共 産党と 交 渉するときの政治カードとするよう主張した11。資料によると、米国
9 林正義「韓戰對中美關係的影響」『美國研究』第 19 巻第 4 期(1989 年 12 月)、頁81~ 112。 10 阿部純一「米台『非公式』同盟―崩れつつある前提と台湾の行方」『平成 22 年度外 務省国際問題調査研究・提言事業報告書「日米関係の今後の展開と日本の外交」』(日 本国際問題研究所、2011 年)、93~95 ページ。 11 張淑雅「美國對臺政策轉變的考察(1950 年 12 月-1951 年 5 月)」『中央研究院近代
の 一部の左派 政治リーダ ーは、トル ーマンの「 台湾海峡中 立化」 の 戦 略に対し絶 え間なく反 対の声を上 げ、当時の 第七艦隊が 実際に 台 湾 防衛の任務 についてい たにも関わ らず、台米 間には関係 の基礎 を 安 定化させる 長期協力の 経験がなか ったばかり か、台米軍 事同盟 の 基 礎を形成す る法的な依 拠を欠いて いた。台湾 は当時、常 に米軍 の 保護の傘を失う可能性があるという焦りに揺れていた。1954 年にか け、台米双方は 9 回の交渉を経て共同防衛に当たる内容の条約に合 意し、1954 年 12 月 3 日、当時の葉公超外交部長とジョン・ダレス米 国務長官が、米首都ワシントンで「米華相互防衛条約」を締結12、こ こ に正式に米 国が台湾に 軍を駐在さ せ台湾防衛 に当たる正 当性と 合 法 性が与えら れた。同条 約は台湾海 峡の防衛に 相当程度貢 献した 。 1958 年 8 月 23 日、台湾海峡で「金門砲戦」が勃発した際には、米国 は 台湾支持を 表明し、実 質的な軍事 支援を提供 、台湾海峡 両岸の 情 勢 には重大な 変化が起こ らず、軍事 支援や戦略 的・心理的 な側面 と を 問わず、台 湾に防衛協 力した米軍 は、まぎれ もなく時局 の安定 に 貢 献し、台湾 海峡周辺に 対する第七 艦隊の影響 力が極めて 深かっ た ことがわかる13。第七艦隊の司令部は横須賀港に置かれ、米国の極東 地 域の海軍総 司令部とし て、第二次 世界大戦後 で世界最強 の海上 艦 隊 の一つと評 された。武 器装備、人 員の素質、 後方支援、 情報系 統 と い っ た 総 合 的 な 戦 闘 力 は 当 時 ア ジ ア 地 域 を 制 覇 す る も の で あ り 、 「 米華相互防 衛条約」に 基づいて合 法的に台湾 の「防衛協 力」を 行
史研究』總期第19 期(1990 年 6 月)、頁 469~470。 12 当条約の正式名称は『美利堅合衆國中華民國共同防禦條約』、英語名は『Mutual Defense
Treaty between the United States of America and the Republic of China』であり、本稿では、 略称『米華相互防衛条約』とする。
13 淺野和生「一九七二年體制下日台關係之再檢討」『台灣國際研究季刊』第 3 巻第 1 期
う 第七艦隊は 、台湾周辺 海域の支配 力の面で、 恐らく台湾 海軍を 下 回るものではなかったであろう14。米軍が合法的に台湾の防衛に協力 し たというこ とは、横浜 から南下す る共産党封 じ込め戦略 の配備 が 完 成し、日本 と沖縄、台 湾を結ぶ防 衛体系をつ なぐ第一列 島線の 構 築に成功したことを意味した15。 「米華相互 防衛条約」 は米国が軍 事力を台湾 周辺海域に 伸ばす に あ たっての合 法性を提供 し、米国が 合法的に軍 事力を台湾 海峡の 周 辺 海域に配備 することに 台湾政府が 同意したこ とを意味し ていた 。 し かし同条約 では台湾の 境界域と海 域を曖昧に する手法を 採り、 以 降 の台日双方 が釣魚台の 「領有権」 争議を引き 起こす間接 的な要 素 を 用意するこ とになった のである。 同条約で米 軍が台湾領 土に軍 を 駐在させることができると規定した条文は 6 条の「第 2 条と第 5 条 の 目的に適用 する、すべ ての『領土 』などの文 言は、中華 民国に と っ て、台湾と 澎湖を指す ものであり 、アメリカ 合衆国にと っては 、 西太平洋地域内で管轄する各島嶼の領土を指す。第 2 条と第 5 条の 規 定 は 、 共 同 の 協 議 で 決 定 し た そ の 他 の 領 土 に も 適 用 す る 」 と 、7 条 の「中華民 国政府が与 え、アメリ カ合衆国政 府が受ける のは、 共
14 趙輝「亞太地區的“國際警察”-美國海軍第七艦隊實力與軍事活動掃描」『國際展望』 (北京)總期第391 號(2000 年 4 月)、頁 71~75。 15 米国が冷戦期に構築した共産圏を封じ込める列島線の論述は研究者によって多少の 違いがあるがほぼ同様で、代表的なものとして王崑義が示した定義を借用する。原 文を要約すると「いわゆる『列島線』の言葉の由来は冷戦期に米国を主とする西側 諸国が掲げた「封じ込め政策(Containment Policy)」である。西太平洋諸島に軍事力 を配備し、ソ連や中国など中央集権国家が外に拡張するのを封じ込める最前線の拠 点とした。第一列島線は、北は日本列島、琉球諸島、中ほどに台湾、南はフィリピ ン諸島までを結ぶラインで、東アジアの大陸を取り巻く弧を描いた島々から成る」。 王崑義「『反分裂法』與台灣的國家安全」『新世紀智庫論壇』總期第47 期(2009 年 9 月)、頁58~62。
同 協議の決定 に基づき、 台湾澎湖お よびその付 近で、防衛 の必要 に より米国が陸海空軍を配備する権利である」16である。条約の内容は、 台 湾澎湖と明 文規定して いるほか、 その他離島 の規定は曖 昧で、 当 時 戦雲が濃く 垂れ込めデ リケートで あった金門 や馬祖のほ か、釣 魚 台 や彭佳嶼、 花瓶島、緑 島といった 離島地域は 故意に回避 して一 文 字 も提示せず 、当時の釣 魚台がいっ たい米国の 西太平洋地 域の「 そ の 管轄する各 島嶼の領土 」なのか、 または「台 湾澎湖およ びその 付 近 で、防衛の 必要におい て配置する 」場所であ ったのかを 判断す る ことはできない。 しかし条約 の実質的な 内容からみ ると、もし 釣魚台を台 湾本島 の 発展部分とみると、7 条の規定に基づき台湾、澎湖「それとその付近」 に 位置する島 嶼は、米軍 駐留の使用 に提供すべ き範囲とし て同条 項 が 適用できる ことは間違 いない。台 米の「米華 相互防衛条 約」の 軍 事 協力メカニ ズムのもと 、台湾が釣 魚台列島の 主権を保有 すると 主 張することとは関係なく、米軍沖縄基地が1956 年から同島周辺の大 正 島を射爆撃 場として使 用する行為 は、すべて この防衛条 約の規 定 内容に入っており、台湾が疑問を呈する「使用権」や「行政管轄権」 の 合法性いか んの影響を 受けない。 さらに、米 国の軍事協 力のも と で 日本経済は 急速に復活 し、日本は 米国の仲介 のもとで、 台湾の 上 層 部との間に 良好な相互 交流関係を 維持してい た。米国は 吉田茂 や 岸 信介など歴 代日本首相 の退任後の 訪台を促し たが、これ は日本 政 府 と蒋介石の 間で、意思 疎通と対話 が行われて いたことを 示すと 同 時に、日本が米国の圧力のもと経済面で台湾に協力し17、米国主導の
16 「中美互防條約」『中華百科全書』2012 年 8 月 24 日、http://ap6.pccu.edu.tw/Ency clopedia/data.asp?id=523。 17 井上清は、日本は米国が間に入る形で、台湾に必要な資金援助を提供、相当の割合 で台湾の重要な防衛を分担したと指摘している。原文を要約すると「1964 年、……。
台 米日軍事同 盟関係は日 増しに安定 していった 。このほか 、台湾 は 60 年代以降、フランスなど欧州の列強が相次いで中国大陸を承認し 台 湾の中華民 国政府と断 交するなど 、国際の外 交舞台で徐 々に勢 力 を失った。それに比べ、70 年代に入るまで米国が中国共産党を列島 線 で封じ込め る外交政策 は変わらず 、台米日の 中国大陸事 務にお け る 利害関係は 依然一致し ていた。中 国大陸の台 頭で国交樹 立国を 相 次 いで失って いた台湾か らすると、 米国と日本 はまぎれも なく当 時 の 外交上で最 も重要な盟 友であり、 この複雑で 変化の多い 時期・ 空 間 のもと、蒋 介石が率い る台湾政府 は、米軍の コントロー ル下に あ っ た釣魚台に は疑問や要 求を提示す ることなく 、沖縄返還 の前夜 ま で 釣魚台の領 有権問題は 一貫して棚 上げされ、 その後の領 有権の 帰 属問題が混沌とする主な原因の一つとなった。
四 日米安保体制下の釣魚台の賃借
50 年代の日本はまだ完全に太平洋戦争の敗戦国という影から抜け 切れずにいた。「日米安保条約」に基づく米国の軍事協力は、日本へこの年1 月、フランスが中華人民共和国を承認、台湾の蒋政権はフランスと断交し、 地位はより不安定となった。2 月、池田内閣は吉田茂元首相を『個人』の身分で台湾 訪問に派遣し、日台関係を「改善」、日本は蒋政権を支持するとの態度を表明した。 続いて 5 月、吉田は首相の了承を得て、個人名義で蒋介石に書簡を送り、日本は日 本輸出入銀行の融資を使って中国の支払い延期を認める輸出は行わないことを保証 した。池田内閣はこれまで緩和されていた対中貿易をあらためて引き締めた。これ は米国が背後で圧力をかけていたからに他ならない。そして日本政府と蒋政権の関 係は急速に改善した。……日本は岸信介前首相を団長として、独占資本の代表が参 加する形で、台湾が日本に1 億 5,000 万米ドルの融資を要求している件で交渉を行っ た。政府は1965 年 4 月に融資を提供する内容で協定を締結した。米国は米ドル保護 を理由に、この年から台湾に対する『経済援助』を停止したため、日本がこれに取 って代わった」。盛繼勤譯、井上清著『日本軍國主義第四冊』(北京:商務印書、1985 年)、頁33~34。
経 済発展に専 念できる安 全な環境を 提供すると 同時に、戦 後の日 米 同盟関係をより安定的なものとした。吉田茂が1949 年に首相に就任 してからの日本の政治経済環境を評してみると、「吉田ドクトリン」 を 経済の主軸 に据え、国 防・軍事の 上で自身は 米国の核の 保護の 傘 の もとで経済 を全力で発 展させ、政 策の核心は 「敗戦国の 地位か ら 抜け 出す」、「経 済繁栄を追 及し、非軍 事的な手段 を基礎とし た対 外 関係 を築く」、「相対的な手段 で共産主義 イデオロギ ーの脅威を 封 鎖 する」といった目標を主軸に掲げた18。このため、戦後すぐの日本は 軍 事的にはほ ぼ完全に米 国の防衛に 依存し、戦 後に軍事体 制を発 展 さ せる際には 、部隊編成 や訓練方式 、装備・武 器などすべ ての面 で 米軍の「指導」を仰いだ19。蒋介石が米国と結んだ「米華相互防衛条 約 」は実質、 二国間の軍 事協力的な 性質を比較 的備えてい たが、 日 本の吉田ドクトリンのもとでの1951 年版の旧「日米安保条約」は米 国 主導の軍事 協定に偏っ ており、米 国は合法的 に日本で軍 事基地 を 維 持し、日本 の周辺で再 び地域の安 全を脅かす 事態を防ぐ ことが で き た。しかし 、過度に米 国の防衛に 依存した日 本には実質 的な軍 事 主 導権はなく 、米国は「 一方的に」 日本防衛と その周辺に おける 軍
18 「吉田ドクトリン」は日米同盟体制の構築の要であり、これは当時の日本が軍事面 で米軍の防衛協力に極めて依存していたことに起因する。また日本は米国の核の保 護の傘のもと、経済の発展に全力を注ぐことができた。続いて鳩山一郎(1883-1959)、 岸信介(1896-1987)、池田勇人(1899-1965)ら 50 年代から 60 年代にかけての歴代 3 人の日本首相は、その後も吉田茂の外交政策方針を受け継ぎ、日本を世界経済にお ける強者に押し上げた。中西寛「敗戦国の外交戦略―吉田茂の外交とその継承者」 石津・マーレー編『日米戦略思想史』(彩流社、2005 年)、162~165 ページ。 19 井上清はかつて、日本の軍事力構築の過程は米国の従属国のようであると批判した。 「日本の再軍備の基礎は、米国の要求と指導、および事実上の指揮により行われた。 その部隊編成や訓練は米軍をまねたもので、装備も完全に米国に依存し、これが自 衛隊を軍事技術面(政治と戦略面では言うまでもなく)でも完全に米国に従属する ものとした」。盛繼勤譯、井上清著、前掲『日本軍國主義第四冊』頁97~98。
事 活動を行い 、これを機 に極東の平 和を脅かす いかなる事 態の発 生 をも排除することができた20。吉田ドクトリンは確実に強固な日米同 盟 関係を構築 した。例え ば吉田ドク トリンにあ る「共産主 義イデ オ ロ ギーの封鎖 」はあたか も、当時の 米国のアジ アにおける 共産主 義 拡 大に対する 戦略に呼応 するようで あり、吉田 ドクトリン のもと で の 日本は米国 に極東地域 の軍事基地 を構築する 絶好の環境 を提供 し た 。戦後に軍 事戦略で米 国に過度に 歩調を合わ せた戦後の 日本は 、 米国の極東地域における軍事力の拡張とまで言われた21。しかし日米 双 方は長期的 な軍事協力 を経て、軍 事面での同 盟を超えた 協力関 係 を構築したかは断言できない。米国が極東情勢を主導した50 年代に お いて、日本 は吉田ドク トリンの外 交戦略に取 り組み、蒋 介石は 積 極 的に大陸反 攻で祖国を 復興すると いう大業を 画策し、台 日とも に 軍 事・外交上 で米国の第 七艦隊の防 衛に依存、 完全な自主 性を保 つ こ とができな かった。こ こに至るま で、台日間 の釣魚台の 領有権 を めぐる問題は白熱化することはなかったのである。 1960 年になって、日米は「日米安保条約」の一部条文の改正を協 議し、第 5 条で「日本国の施政下にある領域における、いずれか一 方 に対する武 力攻撃が、 自国の平和 及び安全を 危うくする もので あ る ことを認め たとき、自 国の憲法上 の規定及び 手続に従つ て共通 の
20 淺野和生「一九七二年體制下日台關係之再檢討」『台灣國際研究季刊』、第 3 巻第 1 期(2007 年 03 月)、頁 41。 21 ブレジンスキーは、自衛隊は実質上、米国の軍事力のアジアにおける拡張部分であ ると指摘している。要約すると「日本の軍事力も増大している。日本の軍備の質を みると、この地域で日本の敵となる国はない。しかし、日本の武装部隊は外交の政 治道具ではなく、比較的大きな割合で、米国のこの地域における軍事的存在の拡張 部分だとみられている」。中國國際問題研究所譯、布熱津斯基(Brzezinski, Zbigniew) 著『大棋局-美國的首要地位及其地緣戰略』(上海:上海商務、2007 年)、頁 208。
危険に対処するように行動する」22と明文化し、同条がその後釣魚台 海 域で問題が 発生するた び、日本が 米国に釣魚 台の「行政 管轄権 」 が 日本に帰属 することの 支持表明を 求める依拠 となる主要 な条項 と なったのである。「米華相互防衛条約」と同様、1951 年版の旧「日米 安保条約」第 6 条の極東条項ではすでに、米国に日本の領土内の陸 海空軍施設を使用する権利についての合法性を与えた23。米軍は1956 年 から、釣魚 台列島海域 の久場島と 大正島につ いて、海軍 航空機 に よ る 空 か ら 地 上 に 対 す る 射 爆 撃 訓 練 場 と し て の 使 用 を 開 始 し た24。 1971 年に米軍が釣魚台の行政管轄権を沖縄返還に伴い日本に移譲し てからも、米軍は依然として 6 条の極東条項を発展させた「日米地 位協定」25を根拠として、日本政府からの上記2 島の射爆撃場として の賃借使用を継続した。米軍が 2 島を継続して賃借使用することに お ける問題は 、久場島は 日本政府が 栗原家から 「借り受け ている 」 用 地であり、 沖縄返還の 前には米軍 が直接その 「登記上の 持ち主 」 で ある栗原和 子氏から借 り受ける使 用契約を結 び、賃料を 定期的 に
22 蔡明彦「日美同盟之發展與抉擇:兼論台灣因應策略」『全球政治評論』總期第 4 期 (2003 年 10 月)、頁 101。 23 蔡明彦「日美同盟之發展與抉擇:兼論台灣因應策略」、頁 101~102。 24 黄尾嶼と赤尾嶼は釣魚台列島の主要な島で、日本は黄尾嶼を「久場島」、赤尾嶼を「大 正島」と呼んでいる。しかし、日本が1972 年 5 月 15 日から、「久場島」と「大正島」 を米海軍の射爆撃場として貸し出す際、中国語式に、久場島の射爆撃場を「黄尾嶼 射爆撃場」、大正島のそれを「赤尾嶼射爆撃場」と命名した。新垣良光『沖縄の米軍 基地』(沖繩県基地対策室、2003 年)、328~329 ページ。 25 『日美地位協定』は『日米安保条約』の第六条の内容に基づく規定であり、防衛施 設と区域などの冠する具体的な内容を補充している。詳細は外務省ウェブサイトの 内容を参照:「日米地位協定:日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保 障条約第 6 条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関す る協定」。「日米地位協定」『外務省』2012 年 08 月 30 日、http://www.mofa.go.jp/mofaj/ area/usa/sfa/kyoutei/pdfs/02.pdf。
払い、1972 年の沖縄返還後は、米国は「日米地位協定」の規定に基 づ き、日本側 に久場島を 沖縄米軍の 射爆撃場と して賃借し 、日本 政 府 の「代理」 を通じ賃料 を栗原和子 氏に払って いるという ことに あ る 。これは日 本政府が釣 魚台の領有 権を主張す る重要な論 理の組 み 立 ての一つで あり、もし 日本が同島 の領有権を 持っていな ければ 、 米国政府は長期にわたって日本政府から上記 2 島をどのように借り 受けていられたかというのである26。法理的な側面から見ると、米側 は これまで日 本が釣魚台 の「領有権 」を保有す ると明言し たこと は 一切なく、「行政管轄権」を持つ者と土地の「又貸し」の問題は根本 的 に領有権と は無関係で 、日本がこ れを依拠と してその領 有権の 帰 属を証明しようとする論法はそもそも成立しないのである。さらに、 前 述のように 、米国がこ れまで日本 が同島の領 有権を持つ と実証 し た ことはなく 、かつ台湾 の漁民が同 島で漁獲作 業を行って おり、 栗 原家が早くから釣魚台を開発・使用していた事実はなく、政府が「借 り 受けていた 」釣魚台の 賃借契約も 単に書面の 形式上残っ ていた も のに過ぎず、そもそも証拠能力は一切ないのである。
五 グアム・ドクトリン後の釣魚台の返還要求
ニクソン米 大統領とそ の最も主要 な国家安全 保障問題担 当大統 領 補 佐官であっ たヘンリー ・キッシン ジャーは、 冷戦後期に 台、米 、 日 、中などの 多国間関係 に影響を与 えた重要な 人物である 。特に ニ ク ソンの任期 内に実行さ れたグアム ・ドクトリ ンと沖縄返 還は、 東 ア ジアの情勢 に強い影響 を及ぼすと 同時に、台 、日、中国 大陸に と っ て三者間の 釣魚台の領 有権の帰属 に関し重大 な争議を引 き起こ し26 中村勝範「日米安保条約と尖閣諸島」程家瑞主編『釣魚台列嶼之法律地位』(台北: 東呉大學、1998 年 8 月)、頁 303~304。
た。1967 年、当時ニクソンは副大統領の身分で訪台し、当時の蒋介 石総統を訪問した。2 人が正式に会見を行った際、蒋介石は 20 年近 く 繰り広げて いる「大陸 反攻」の主 張と具体的 な行為につ いて何 度 も 言及し、ニ クソンは蒋 の言行に言 葉を失い、 このときの 蒋介石 と の 交流が、そ の後ニクソ ンが大統領 になった際 の対台湾政 策にも 直 接影響を与えた27。ニクソンが米国大統領に就任してすぐ、直ちにベ トナム戦争の終結を求め、約半年後の1969 年 7 月にグアム訪問を利 用 し、有名な グアム・ド クトリンを 発表、米国 は今後アジ ア太平 洋 地 域における 常備軍を縮 小し、同地 域の各国に よる自己防 衛力の 強 化 を期待する と明言した 。この論述 がニクソン のその後の アジア 事 務の処理方針となったグアム・ドクトリンである28。グアム・ドクト リ ンは、米国 が徐々にア ジア太平洋 での軍駐留 を削減する とした ほ か 、同時に日 本が自己防 衛に足る軍 事力を構築 することへ の米国 の 期 待を暗示し ていた。グ アム・ドク トリンは米 国と日本が 徐々に 軍 事 一 体 化 の 防 衛 協 力 へ と 発 展 す る こ と を 促 し た29。 し か し 、 米 国 が 徐 々にアジア の軍駐留を 削減し、日 本にアジア の安全防衛 の負担 を 求めるにあたり、駐日米軍問題も注目を浴び始めた。 ニクソン政 権下の米国 は、中国と の連携でソ 連を牽制す る新た な 戦 略を試み始 めた。当初 、米国民主 党の中国戦 略批判から 名を上 げ た ニクソンは 、米大統領 に当選して からは逆に 、米中協力 の扉を 開
27 石井修「ニクソン訪中」『法学研究』総期第 90 号(2011 年 1 月)、485 ページ。 28 瀬川高央「日米防衛協力の歴史的背景-ニクソン政権期の対日政策を中心に-」『公 共政策學年報』総期第1 巻(2007 年 03 月)、103 ページ。 29 ニクソン主義に関する「ヘッジ戦略」(hedging strategy)を提言した背景、基本的考 えについては、神谷不二『戦後史の中の日米関係』に述べられている。神谷不二『戦 後史の中の日米関係』(新潮社、1989 年)、138~141 ページ。
くキーパーソンとなった30。グアム・ドクトリンは当時、真っ向から 対 立する国民 党と共産党 を震撼させ るほどの衝 撃を投げか け、ニ ク ソ ンはアジア における戦 略に構造的 変化を引き 起こした。 台湾は こ こ から外交と 国際政治上 で新たな試 練に直面し た。この戦 略モデ ル は 1970 年代に入り、中国と連携しソ連に対抗する米国の 1970 年代 初期の東アジア諸国に対する既定戦略方針へと発展した31。1971 年、 キ ッシンジャ ーが秘密裏 に中国を訪 問したのち 、米国の対 華政策 は よ り中国大陸 に傾斜し、 戦後初期に おける共産 党勢力包囲 という ア ジ ア太平洋安 全保障戦略 の環境はも はや存在し なくなった 。沖縄 返 還と1972 年のニクソン訪中に引き続き、台湾は米国の中国傾倒政策 のもとで、国際社会での孤立を加速させた32。米軍はベトナム戦争で ア ジアに対す る軍事の影 響力を失い 、さらに中 国と連携し ソ連を 押 さ え込む戦略 を採ったこ とで、外交 面では中国 共産党への 歩み寄 り を 進めた。そ の後、米国 は中国共産 党に長期に 渡る台湾問 題での 要 求を迫られ、第七艦隊による台湾海峡の防衛は終結した33。
30 記録を要約すると「1969 年、ソ連大使はホワイトハウスでキッシンジャーと会見、 『中国が起こした“血なまぐさい暴行”を際限なく私に話した』。キッシンジャーはニ クソンに状況を報告し、2 人はじっと考え込み、ここでようやくチャンスが到来した ことを意識した。対華政策を変更するなら、国際社会でチャンスがあるという以外 に、国内政治でも勝算が必要だ。これはどうも泣くに泣けない状態である。ニクソ ンは民主党の中国政策をコテンパンに批判することで名を上げたのに、今や彼こそ “文革”中の赤い中国を抱きしめるのに絶好の人なのだ」。胡利平・楊韵琴譯、羅伯特 (Robert A. Pastor)著『世紀之旅-世界七大國百年外交風雲』(上海:上海人民、2001 年)、頁246。 31 李文志「海陸爭霸下亞太戰略形勢發展與台灣的安全戰略」『東呉政治學報』總期第 13 期(2001 年 5 月)、頁 138。 32 阿部純一、前掲「米台『非公式』同盟-崩れつつある前提と台湾の行方」93~95 ペー ジ。 33 羅伯特(Robert A. Pastor)著、前揭『世紀之旅-世界七大國百年外交風雲』、頁 333~ 334。
一方、米軍 がベトナム 戦争で挫折 し、日本は 自身の防衛 力と外 交 を 強化しなけ ればならな いとの危機 感を覚え、 戦後の軍拡 と外交 舞 台 での存在感 を拡大する 重要なきっ かけとなっ た。ニクソ ンは「 グ アム・ドクトリン」で、日米軍事同盟の協力関係は変わらないほか、 日 本に米国と 共同でアジ ア地域の平 和安定を維 持する責任 を負う よ う 求めた。こ れに対し、 日本は米国 の圧力のも と、積極的 に日米 同 盟 の枠外にあ る外交と経 済貿易協力 や交流に取 り組んだ。 例えば 、 日本は1977 年に和平外交に着手、東南アジアの国の日本観を改善し、 戦 前の侵略国 としてのマ イナスイメ ージの修復 を図り、外 交と経 済 貿易協力で大きな進展がみられた34。一方で、米国はグアム・ドクト リ ン以降に台 湾と疎遠に なり親中を 進めた。さ らに、中華 民国政 府 は1971 年に国連で「中国代表権」を中華人民共和国に取って代わら れ 、台湾はつ ぎつぎと国 交国を失い 、国際社会 での孤立が さらに 深 ま り、釣魚台 の領有権の 奪取につい てはまった く国際的な 支援を 受 け られなくな った。これ 以降、領有 権争議のた びに、強固 な日米 軍 事同盟に直面した。米国の台湾と日本に対する立場の大きな違いは、 乗 り越えられ ない障害の ようであり 、台湾は、 日本と釣魚 台の領 有 権 をめぐって 争う過程に おいて、こ れまで米国 から有利な 態度表 明 を引き出せないでいる。 上 述の内 容を 総合す ると 、グア ム・ ドクト リン は米国 の台 、日、 中 国大陸の三 者に対する 戦略の重要 な分水嶺と なったとみ ること が で きる。米国 はグアム・ ドクトリン ののち、日 本との安保 同盟関 係 を より緊密化 させ、極東 地域から軍 を撤退させ たのち、沖 縄の基 地 が 米軍にとっ てより重要 になった。 また一方で 、米国は中 国と連 携
34 李瓊莉「日本與亞太多邊機制的形成」『遠景基金會季刊』第 11 卷第 2 期(2010 年 4 月)、頁99。
し ソ連を牽制 する外交・ 軍事戦略を 取ってから 、米国は中 国共産 党 の 圧力のもと 、戦後初期 の台湾に対 する支援戦 略を変える よう迫 ら れ た。台湾は ニクソンが 主導するア ジア戦略の 中で、徐々 に大国 の 外交の交渉カードになり下がり35、中国共産党の圧力で「米華相互防 衛 条約」は無 効化された 。このほか 、前述のニ クソンが副 大統領 時 代に、「大陸反攻」の野心を持つ蒋親子に抱いた不信が加わり、米国 の 台、日、中 国大陸に対 する態度は 一方が弱ま れば、一方 が強ま る よ うに、その 後、台湾と 日本が釣魚 台の領有権 をめぐって 争議と な っ た場合、米 国が特定の 一方を支持 するという 立場は自然 に明言 す る までもなく なった。グ アム・ドク トリン以降 の日本は確 かに、 米 国 のアジアに おける軍事 防衛、つま りアジアの 警察の役割 を分担 す る ようになっ た。同時に 積極的に東 アジア各国 と友好関係 を確立 す る 外交を繰り 広げ、東シ ナ海の釣魚 台の領有権 の帰属や境 界線の 問 題 では、背後 には常に米 国が日本に 対して持っ ている特定 の立場 が 存 在し、日本 がかつて見 せたごくわ ずかの妥協 の可能性も みられ な くなった。 また、沖縄 返還の方針 策定とグア ム・ドクト リン以降、 釣魚台 の 領 有 権 問 題 は 台 湾 当 局 に と っ て 重 大 な 難 題 と な っ た 。 佐 藤 栄 作 は 1967 年 9 月 8 日に訪台し、蒋介石と会見、台湾当局に琉球諸島の返 還 と釣魚台問 題について 話した。蒋 介石はその 場ではこの 問題に つ い ての意見を あまり表明 しなかった が、その後 台湾内部で は、日 米 双 方が一方的 に琉球諸島 と釣魚台の 領有権を処 理すること に合意 し た ことについ て強い不満 が沸き起こ り、抗議活 動は日増し に激し さ
35 大国の政治は必然的に他国の権益を侵すため、大国の政治は勝ちか負けかの「ゼロ サムゲーム」という本質を持っている。王義桅・唐小松譯、約翰・米爾斯海默(John J. Mearsheimer)著『大國政治的悲劇』(上海:上海人民、2008 年)、頁 10。
を増した。1969 年 3 月 14 日、当時の魏道明外交部長は立法院で、中 華 民国政府は 琉球諸島と 釣魚台問題 を「慎重に 処理」する 必要が あ ると表明した36。魏道明は琉球諸島の問題と指摘したが、実は釣魚台 の 領有権の帰 属の問題に ついての立 場を表明し たものであ り、米 国 政 府に釣魚台 の「領有権 」を台湾政 府に返還す るよう主張 したの で あ った。この 発言は、台 湾政府の、 釣魚台の「 行政管轄権 」を日 本 に 移譲したこ とに反対す る公的な声 明であり、 当時、台湾 が極め て 不利な国際情勢のもと、いかに盟友の日米の問題を引き起こさずに、 あ らためて領 有権を奪回 するかは、 当時の政権 にとって実 に重大 な 難題であった。 1967 年、佐藤と米国は釣魚台を併せて返還することで暗黙裡に了 解し、その後1970 年に米国の当時のアーミン・マイヤー駐日大使と 愛 知揆一外相 が沖縄返還 の詳細を協 議し、米国 は釣魚台の 行政管 轄 権を併せて日本に移譲すると確定した37。1967 年から、日米はひそ か に釣魚台の 行政管轄権 に関連する 事項を処理 していたこ とが明 る み に出たのち 、釣魚台の 領有権をめ ぐる争議は 白熱化した 。前述 の 「 米華相互防 衛条約」と 「日米安保 同盟」の枠 組みのもと 、台米 日 の 軍事同盟は 一時的に釣 魚台問題を 棚上げする と暗黙裡に 了解し 、 台 湾の漁民は 何の障害も なく米国が 占領し定期 的に射爆撃 場で軍 事 演 習が行われ ている海域 を漁場とし て、操業し ていたので ある。 し か し日米が釣 魚台を沖縄 返還に伴い 移譲する方 針が固まっ てから 、 米 国が沖縄に 置いていた 琉球諸島米 国民政府は 、台湾と中 国によ る 釣 魚台の領有 権を主張す る活動に関 する情報を 受け取り、 沖縄の 米
36 石井明、前掲「中国の琉球・沖縄政策-琉球・沖縄の帰属問題を中心に-」、95 ペー ジ。 37 田鶴年『台海歷史縱橫』(上海:華文出版、2007 年)、頁 241。
海軍が 1968 年以降、「違法に」釣魚台海域に侵入した船舶の取締り を 始めた。平 時には巡洋 艦が海上を 巡航し、軍 用飛行機が 巡航し 空 から警告した。1970 年に台湾の外交部などの機関が、釣魚台の領有 権に関する宣言を発表してから、ジェームズ・ランパート第 6 代琉 球 諸島高等弁 務官は、よ り積極的に 釣魚台防衛 戦略を採り 、正式 に 釣魚台に警告看板を立てた。看板には中、英、日の 3 種の言語で、 琉 球諸島の住 民以外の「 この島を含 む」琉球諸 島の関連海 域への 立 ち 入りを禁止 し、従わな ければ法に のっとり処 罰するが、 琉球諸 島 高等弁務官の許可を受けたものは例外とすると但し書きした38。当時 の釣魚台列島上の看板の署名はすべて、「琉球諸島米軍高等弁務官」 と 書かれ、琉 球住民「の み」立ち入 ることを許 すとし、台 湾漁民 が こ の海域で漁 獲作業を行 う既存の権 利はもはや 存在しなく なった 。 当 時、ジェー ムズ・ラン パートが看 板を立てて ほどなくし て、台 湾 籍 の漁船が釣 魚台の周辺 海域に侵入 した際に、 米軍が海域 から出 る よう排除した39。この告知は米軍が台湾政府にこの島の「行政管轄権」 と「絶対的な統制権」を持っていることを宣言しているかのようで、 米 国が『行政 管轄権』を 日本に移譲 したのちに 台湾の領海 の主権 に もたらす衝撃について、台湾は明確に認識することになった。 前述の魏道明が 1969 年 3 月 14 日に発表した琉球の領有権につい て、日米双方の回答は得られていない。1970 年 8 月 12 日、マイヤー は 米国駐日大 使の身分で 、釣魚台は 琉球諸島の 一部分であ り、米 国 政府は 1 年後にこの島の「行政管轄権」を併せて日本に移譲すると 明 言した。米 国が態度を 明らかにし たのに続き 、愛知揆一 は同 年 9
38 大浜信泉等『沖繩季刊-特集尖閣列島第 2 集』総集 63 号(1971 年 3 月)、14~15 ペ ージ。 39 原文は「球琉列島米国高等弁務官の命による」、その「高等弁務官」意味は最高指導 官である。
月10 日、日本が釣魚台の領有権を有し、日本政府は今後いかなる国 家とも釣魚台の領有権をめぐって交渉しないと表明した。1971 年 6 月 17 日、日米は台、「中」の強烈な反対のもと、沖縄返還協定を締 結し、1972 年 5 月 15 日に正式に釣魚台の「行政管轄権」を日本に移 譲40、その後の釣魚台の領有権をめぐる争いの幕が開いた。愛知揆一 と マイヤーの 発表で、日 本は最初か ら最後まで すべて「一 方的に 」 領 有権を有し 、いかなる 国とも交渉 しないと表 明、米国側 は「領 有 権 」の帰属に 言及したこ とはない。 米国が釣魚 台を沖縄に 伴い日 本 に返還すると発言したのち、外交部は 1970 年 6 月 11 日に外交声明 で、カイロ宣言、ポツダム宣言、サンフランシスコ講和条約の中で、 日 本の領有権 は本州、北 海道、九州 、四国、お よび主要な 同盟国 が 決 定したその 他の島に限 られ、琉球 の地位は主 要同盟国が 共同で 決 め るべきであ り、中華民 国は主要な 同盟国であ るからして 、日米 の 間 だけでひそ かに琉球を 返還するこ とは絶対に 受け入れら れず、 釣 魚 台をひそか に移譲する ことの合法 性について は言を待た ずして 、 中 華民国は大 いに不満を 表明すると した。釣魚 台列島は台 湾省に 付 属し、中華民国の領土を構成する一部である。「地理的な地位、地質 構造、歴史のつながり、台湾省の住民の長期に渡る使用」を理由に、 同 列島は古く から中華民 国と緊密な つながりが あり、米国 と日本 政 府に厳正に抗議する云々とした。魏道明と外交部の公開声明のほか、 当時の副総統を兼務していた行政院の厳家淦院長は 1970 年 9 月 25 日に立法院第46 期第 1 次会議の施政報告の中で、釣魚台列島問題に つ いて、台湾 政府は絶対 に見過ごす ことはでき ず、全力を 挙げて 主 権の権益を守り、理論に則って日本と争うとの方針を示した41。外交
40 田鶴年、前掲『台海歷史縱橫』、頁 241。 41 「立法院第四十六期第一次會議」『數位典藏與數位學習』影音資料、2012 年 8 月 28
部はその後、1971 年 5 月 9 日に再び声明を発表、米国政府が同年 5 月15 日に琉球諸島を日本に返還するにあたって、協議を経ず「一方 的 に」中華民 国の固有の 領土である 釣魚台列島 を含むとし たため 、 中華 民国はこれ に断固とし て反対する とともに深 い遺憾の意 を表明 、 釣魚台列島の領有権を絶対に放棄しない云々とした42。魏道明や厳家 淦 、外交部な ど一連の抗 議声明につ いて、日米 が受け入れ ること は ま ったくなか ったが、釣 魚台の領有 権をめぐる もめ事が白 熱化す る の ろしが上が ったかのよ うに、その 後の台、日 、中国大陸 の三方 に よる釣魚台の領有権をめぐっての論戦が始まったのである。
六 米国の琉球政策のもとでの釣魚台紛争
日本は明治 維新の改革 の成功を機 に脱亜入欧 を果たし、 徐々に 琉 球 や台湾、南 洋などの各 地で「領土 拡大」運動 を繰り広げ た。ま た 日 清 戦 争 で 世 の 注 目 を 集 め た 黄 海 と 渤 海 の 海 戦 が 戦 わ れ た 際 、「 ひ そ かに」東シ ナ海の釣魚 台列島の領 有権を大日 本帝国の国 土に組 み 入 れ、ここか ら世紀を跨 ぐ釣魚台列 島の領有権 争議が幕を 開けた 。 依 田憙家はか つて著書で 、明治維新 の成功後の 日本の、台 湾と澎 湖 に対する侵略の「強奪」の始まりは琉球問題に端を発しており43、ま た 戦後の釣魚 台の領有権 の「強奪」 もまた琉球 と密接な関 係があ る と 指摘した。 米国が戦後 琉球諸島を 接収した合 法性は、早 くから 国 際 社会で大き な非難を浴 び、石井明 など多くの 日本の研究 者すら 、 米国が釣魚台を占領した行為に疑問を呈しており、米国が1972 年に 釣 魚台列島の 行政管轄権 を日本政府 に移管した ことの合法 性がさ ん日、http://catalog.digitalarchives.tw/item/00/31/a7/4f.html。 42 李明峻、前掲「從國際法角度看琉球群島主權歸屬」、頁 75~79。 43 雷慧英等譯、依田憙家著『近代日本的歷史問題』(上海:世紀出版、2004 年)、頁147。
ざん争議を引き起こしたことは言うまでもない。1947 年 10 月、張群 行 政院長が、 閣議で米国 への抗議を 表明、米軍 が琉球に極 東司令 部 を 設置し、か つ正式に琉 球諸島の信 託統治に着 手した行為 に強い 不 満 を示した。 張群は国民 参政会常置 委員会で、 琉球は古く より中 国 に 隣接すると し、米国に 直ちに琉球 を中華民国 に返還する よう要 求 し た。しかし 、当時の国 民党と共産 党の緊迫し た戦いの情 勢の中 、 政府 は米国に琉 球での米軍 駐留の争議 にかたむけ る余力はな かった 。 ま た当時の国 際情勢は安 定しておら ず、張群の 米国に対す る中華 民 国政府への琉球返還の要求は実を結ばずに終わった44。 1949 年 4 月 、 ト ル ー マ ン は 琉 球 を 長 期 保 有 す る 方 針 を 策 定 し 、
「KeyStone of the Pacific(太平洋の要石)」戦略を制定、琉球に永続
性を要する要塞を構築しようとした。翌1950 年 11 月には前後して、 沖 縄本島、奄 美大島、宮 古島、八重 山などに列 島政府を設 立し、 琉 球を計画的に管理・建設する行為に着手した45。その後 1972 年まで 琉 球は米軍の 管理下にあ り、極東地 区の軍事戦 略の重要な プレゼ ン ス となった。 米国が琉球 に駐留し兵 を置いた戦 略を超えた 心理的 な 要 素は、許金 彦がかつて 分析した琉 球が長期に わたって米 軍の「 要 塞 化」に置か れたことの 由来に原因 があると論 述している 。第二 次 世 界大戦の間 、琉球は唯 一連合国軍 が上陸戦を 行い砲火に 見舞わ れ た 日本に近い 土地であり 、日本軍が 本土決戦の 前哨戦とみ なし、 焦 土 作戦での死 守をもいと わない中、 連合国軍が 琉球の戦場 で直面 し た のは想像し がたいほど の血みどろ の悲惨な戦 況であった 。米国 は こ のときただ ちに琉球諸 島の太平洋 防衛戦略に おける価値 を悟っ た
44 石井明、前掲「中国の琉球・沖縄政策-琉球・沖縄の帰属問題を中心に-」、頁 82。 45 松本英樹「沖縄における米軍基地問題-その歴史的経緯と現状-」『レファレンス』 総期第643 期(2004 年 06 月)、39~60 ページ。
のである。戦後は、琉球は完全に米国のコントロール下にあったが、 第 二次世界大 戦の間に受 けた傷はぬ ぐえず、日 米双方が沖 縄返還 の 問 題で交渉す る際、米国 は沖縄基地 に配備した 施設と人員 を一切 引 き上げないとし、1972 年に沖縄が返還された後も、駐沖縄米軍は減 る どころか増 えている。 ここからも 米軍が沖縄 の地理的な 戦略的 重 要 性を認めて いることが うかがえる ほか、感情 的にも、沖 縄には 特 殊 な印象を持 っているこ とがわかる 。これによ って、米軍 は長期 に 渡 って極東地 域の主要な 基地のひと つとして占 拠を続け、 琉球は こ の バックグラ ウンドのも と米軍に「 基地化され る琉球」と して組 み 入れられた46。しかし、沖縄の多くの人は故郷が長年米軍の「基地化」 に 苛まれた現 状に多くの 不満を持っ ており、米 軍の沖縄基 地開設 か ら 半世紀が経 っても、沖 縄の人々の くらしは改 善せず、島 は米軍 基 地 の需要によ って現地の 工業の発展 が妨げられ るという不 当な目 に 遭 い、沖縄の 失業問題と 青年人口の 深刻な流失 を引き起こ す主な 原 因 となってい る。米軍の 要塞化する という琉球 政策は、同 地にお い て戦争の影と経済問題を残した47。日本政府が 1997 年 4 月に「沖縄 米 軍基地借用 に関する特 別措置法」 を可決して から、幾度 となく 沖 縄 住民の抗議 活動を引き 起こした。 現地の政治 リーダーは 、全米 軍 の 数撤退を求 めたほか、 沖縄独立で 、同地を「 琉球人の琉 球」に す る ということ まで公言し 、反対の声 は絶えず続 いたが、米 国が長 期 に 渡って駐留 するという 現況を変え るのは依然 として困難 な状況 に ある48。
46 許金彦「琉球地位的分析與展望」『問題與研究』第 48 巻第 2 期(2009 年 06 月)、頁 94~97。 47 林呈蓉「從台、美、日的聯合防衛機制檢討台灣社會的『沖繩認識」-以教科書的歷 史書寫為例」『台灣國際學研究季刊』第3 卷第 1 期(2007 年 03 月)、頁 12。 48 許金彦、前掲「琉球地位的分析與展望」、頁 96~97。
前述の吉田 ドクトリン のもとでの 日本の外交 戦略は、経 済の安 定 成 長という効 果を上げた が、米国の 強権に依存 する外交と 防衛の 体 制 がさまざま な懸念と争 議をはらむ こととなっ た。したが って、 い か にして米軍 から琉球諸 島の統治を 取り戻すか が日本政府 の重要 な 課題であった。日本国内では60 年代から沖縄返還の声があちこちで 沸き起こり49、当時の佐藤栄作首相は、日本国内の圧力を巧妙に利用 し 米国に転嫁 、交渉のカ ードとする ことに成功 し、最終的 に沖縄 返 還のキーパーソンとなった。佐藤首相は1965 年 1 月、当時の米国リ ン ドン・ジョ ンソン大統 領との首脳 会談の際、 正式に米国 に対し 琉 球 の「行政管 轄権」を返 還する要求 を提示した 。当時、経 済が飛 躍 し はじめた日 本は徐々に 敗戦国の影 から抜け出 し、国際舞 台で頭 角 を 現そうとし ていた。佐 藤栄作の絶 え間ない各 方面の具体 的な交 渉 努力を通じ、ついに 1969 年 11 月にニクソンとの首脳会談で、日米 双方が共同で沖縄返還を宣言、米国は1972 年に琉球諸島を沖縄に返 還 するとした 。佐藤が経 済的な条件 と国内の世 論を圧力と して交 渉 を 行っていた とき、日本 の米国に対 する沖縄返 還要求は日 米の問 題 を 招かなかっ たばかりで なく、逆に 日米軍事同 盟の協力関 係をよ り 一歩深めたのである50。外交的な面からみると、戦後の日本は長期に
49 尚会鵬と徐晨陽はかつて、日本と最強国との同盟について、戦略的な目的を達成す ることが近代日本の外交上の特質となっていると指摘した。要約すると、「日本の文 化が想像する国際秩序とは、等級の序列である。つまり、すべての国がそれ相応の 地位を有する。“自分の上にいるか、下にいるか”という行動モデルのもとで、日本の 外交がある種強権的で、道義を欠いた印象を与えるのも自然である。最大国家との 同盟で戦略的な目的を果たす、というのは近代以降の日本外交の重要な特徴である」。 尚會鵬・徐晨陽『中日文化衝突與理解的事例研究』(北京:中國國際、2004 年)、頁 9~10。 50 井上清は佐藤が沖縄返還を求めたことが、日米の衝突を招くどころか、日米の同盟 関係を強化したと指摘する。原文を要約すると、「佐藤首相が米国に提示した“沖縄行
渡 る吉田ドク トリンの外 交戦略の実 行が成功し 、これが沖 縄返還 を 促す主な原因となった51。しかし、軍の駐留という面からみると、沖 縄 返還は「日 米同盟の内 部の矛盾」 を浮き彫り にした。米 国は日 本 と 琉球など各 界の圧力に 迫られ、沖 縄返還を決 定したが、 その一 方 で 沖縄の基地 を守らなけ ればならず 、プロセス はいかにも 複雑な も の となった。 日米間の政 治、外交、 経済、法律 に関わるほ か、日 米 同 盟という協 力の暗黙の 了解といっ た感情的な 要素も考慮 しなけ れ ば ならず、し かも交渉の 過程で米国 側は琉球の 基地として の戦略 的 な地位の重要性を思い知らされたのである52。 沖縄返還が 決まり、米 国はいかに して沖縄に 駐留する軍 事力が 影 響 を受けない かを画策し 始めた。す でに琉球諸 島で長い間 行われ て い た行政、立 法、司法の 三権を日本 に返還する ことを主な 戦略方 針 と した。当時 の日本の中 島敏次郎駐 中国大使が 外務省の条 約局条 約 課 課長を担当 し、米国の 日本への沖 縄返還作業 のプロセス に最初 か ら最後まで関わった。1967 年に日本の佐藤栄作首相とジョンソン米 大統領が共同声明を発表してから、正式に返還されるまで、4 つの段 階に分けることができる。最初に1967 年の「沖縄返還共同声明」の
政権返還”要求は、沖縄県民と本土の人の沖縄解放闘争に迫られたものでなく、“沖縄 行政権返還”と言葉をにごし、やむを得ず採った態度である。……、軍事的・地理的 に極めて重要な位置にあり、米国が一方的に統治する米軍基地にある沖縄を、日米 共同の基地としたという切迫した需要にかられたのである。このとき、日米共同声 明の中で米軍基地で核兵器を装備するか解除するかをいかに処理するかではなく、 日本の指導部が“返還”という国民の民族主義の切迫した心理を利用し、この機に乗じ て“安保条約”の事前協議事項を、米国が朝鮮半島や中国、ベトナムに侵略した際の積 極的な同意に拡大し、より積極的に米国との軍事同盟を強化しようとしたものであ る。」井上清、前掲『日本軍國主義第四冊』、頁66。 51 中西寛、前掲「敗戦国の外交戦略―吉田茂の外交とその継承者」、167 ページ。 52 野添文彬「1967 年沖縄返還問題と佐藤外交:国内世論と安全保障をめぐって」『一橋 法学』第10 巻第 1 號(2011 年 03 月)、325~372 ページ。
時期を第一期、1969 年に佐藤とニクソンが沖縄の返還の形式につい て交渉した時期を第二期、その後1971 年末に日本の国会で関連の条 約が可決された時期を第三期、最後は1972 年 5 月に正式に返還、移 譲 が行われる までである 。すべての プロセスの うち、第二 期の首 脳 交 渉から第三 期の法制化 に入るまで が最も困難 であった。 佐藤が 米 国 と、沖縄の 米軍基地の 自由な使用 の提供をい かに交渉す るかな ど の 問題は極め て複雑で、 法制化が難 しく、米国 はいかに最 も経済 的 な方法で極東地域の主な戦略を確保するかを相当意に介していた53。 ま た一方で、 佐藤栄作に とって、米 国が琉球に 核兵器を置 きたい と 考 えているこ とをどう解 決するかと いう難題の ほか、どの ように 沖 縄 の返還を受 け入れると 同時に、併 せて周辺の 島々を受け 入れる こ と を最大の利 益とし、米 国が釣魚台 列島の管轄 権を併せて 移譲す る こ とは、まる で自国の軍 事力を日本 に発展させ ることであ り、琉 球 の 基地使用モ デルを継続 して照らし 合わせ、駐 沖縄米軍に 軍事演 習 の利用に提供することが日米双方ののちの決議となったの で あ る54。 日米が進め た沖縄返還 のプロセス において、 米国は終始 一貫し て 「行政管轄権」を日本に移譲するとし、「領有権」について言及しな か った。ゆえ に愛知揆一 元外相が釣 魚台の領有 権は日本に 帰属す る と 宣言したの は一方的な 言論に過ぎ ない。さら に掘り下げ て、米 国 側 が「領有権 」の言及を 留保した目 的は何かと 探ってみる と、米 軍 の アジア戦略 からみて、 意図的に釣 魚台の領有 権で曖昧な 空間を 留 保 するのが最 高の戦略で あり、釣魚 台によって 引き起こさ れる日 本 と 中国大陸と の問題は、 日「中」の 境界の場で 勃発する領 有権争 議