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台灣出兵的考察-從國際關係的視點 - 政大學術集成

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(1)國立政治大學日本語文學系碩士論文. 指導教授:于乃明 博士. 立. 政 治 大. ‧ 國. 學. ‧. 台湾出兵の考察 n. al. er. io. sit. y. Nat. アジアにおける国際関係を中心に. Ch. engchi. i n U. 研究生 洪偉翔 撰 中華民國 102 年 1 月. v.

(2) 論文の構成. 第一章. 序章. 第一節. 研究動機と目的―――――――――――――――――――――-4. 第二節. 研究方法――――――――――――――――――――――――-7. 第三節. 先行研究――――――――――――――――――――――――-9. 第二章. 政 治 大. 日本の「台湾出兵論」形成の背景. 立. 第二節. 日清修好条規の締結における日清関係の変化. 日清修好条規締結――――――――――――――――-15. 2-2-2. 条約に対する解釈の異同――――――――――――――18. io. y. al. er. 琉球と中日との関係――――――――――――――――20 琉球藩の設置―――――――――――――――――――21. n. 2-3-2. Ch. engchi. i n U. v. アメリカの建言による副島の台湾出兵論の形成 2-4-1. 台湾遠征計画の発端―――――――――――――――- 23. 2-4-2. アメリカ人の煽動――――――――――――――――- 24. 第三章. 第一節. sit. 琉球藩の設置と中日琉関係の変容 2-3-1. 第四節. ‧. 2-2-1. Nat. 第三節. ‧ 國. 当時の国際関係の中の日本――――――――――――――――-- 13. 學. 第一節. 台湾出兵の具体化と日本の国内情勢. 副島が主導する対清外交 3-1-1. リゼンドル覚書の提出――――――――――――――-27. 3-1-2. 副島の渡清―――――――――――――――――――-28 2.

(3) 第二節. 第三節. 3-1-3. 渡清の経過―――――――――――――――――――-30. 3-1-4. 副島対清外交の検討―――――――――――――――-32. 征韓論の浮上 3-2-1. 征韓論の出現――――――――――――――――――-35. 3-2-2. 征韓論の再起――――――――――――――――――-36. 政府内の大変動 3-3-1 岩倉使節団の帰朝――――――――――――――――-38 3-3-2. 論争と政変―――――――――――――――――――-40. 第四章. 立. 大久保政権による台湾出兵方針の決定. 學. ‧ 國. 第一節. 治 政 台湾出兵とその意義 大. 4-1-2. 台湾出兵方針の決定―――――――――――――――45. 4-1-3. 台湾への領有意図――――――――――――――――47. y er. 外国公使の干渉と西郷の暴走―――――――――――50. io. 柳原公使の対清交渉―――――――――――――――53. al. n. 4-2-2. sit. 台湾出兵の実行 4-2-1. 第三節. ‧. 反征韓論から台湾出兵へ―――――――――――――43. Nat. 第二節. 4-1-1. Ch. i n U. v. 4-2-3. 大久保の渡清――――――――――――――――――56. 4-2-4. イギリスの調停による紛争の解決―――――――――59. engchi. 日本の台湾出兵の意義とその影響 4-3-1 明治政府初の対外出兵――――――――――――――62 4-3-2. アジアにおける万国公法秩序への算入―――――――64. 4-3-3. 出兵における領台意図と植民地的側面―――――――66 第五章. 結章――――――――――――――-71. 3.

(4) 第一章. 第一節. 序章. 研究動機と目的. 近代日本の最初の対外出兵は、その名にも出兵とある「台湾出兵」である。 日本語では別に「台湾の役」と呼び、中国語では「牡丹社事件」と呼んでいる。 明治政府が発足してからわずか七年足らず、一八七四(明治 7 年)年 5 月のこ とであった。明治新政府によるこの出兵の矛先は、一八七一(明治 4 年)年 11 月、当時の琉球王国に年貢を納めた後、首里から宮古島へ帰る途中の一艘 69 人が乗っている船が暴風に遭遇し、台湾の最南端-恒春半島に漂着して、. 政 治 大 この明治四年に起きた琉球漁民の台湾遭難事件を発端とし、 明治五年の琉球 立. 上陸後しばらくして発生した原住民による殺害事件への報復行為である。. 藩が設置された後、政府内で台湾出兵はひとつの重要な議題となっていた。た. ‧ 國. 學. だ、当時の国内情勢は留守政府による征韓論が盛んになっていたので、台湾出 兵は一時的棚上げとなった。明治六年の政変によって大久保利通が政権を握っ. ‧. た後、台湾出兵は再び政府内の議論の中心となって、遂に実行された。では、. y. Nat. 「なぜ日本政府はこの軍事行動を敢行したのか」この問いの回答を探すととも. sit. に、その延長にして当時の政府の政策と国際背景も考えざるを得ない。. er. io. 一般的に、大久保政権が台湾への出兵を起ったのは、「佐賀の乱勃発を契機. al. n. v i n Ch 発の危険のある鹿児島士族を、規模の小さい対外侵略に参加せしめ、暴発を外 engchi U らす」 ためであった。だが、それについては、毛利敏彦氏が指摘したように、 とした全国的な士族暴動拡大機運の高まりの中で、特に最も士族勢力の強く暴 1. 従来の研究では、「国内矛盾から対外放出」という図式で踏襲してきたので、 あくまでも主観的推測に偏ってきたので、信頼性が欠如している、とされてい る。2それゆえ、もし不平旧士族の鬱憤を晴らすためという動機をとるのであ れば、より学問的な検証に堪えられるものを提示しなければなるまい。 そして、もうひとつの理由は、領土問題である。一八六八(明治元年)3 月 14 日天皇の名義で明治政府が発表した『宸翰』(天皇の勅筆書簡)において、 「万里の波涛を拓開し、国威を四方に宣布し」と言明した。当時の日本政府は. 1. 丹羽邦男『明治維新と土地改革』(御茶ノ水書房、1962 年)P191. 2. 毛利敏彦『台湾出兵―大日本帝国の開幕劇』(中公新書 1996 年). 4.

(5) 近代国家の仲間入りを目指しており、それには国境の画定が必要であった。つ まり国境を確定してどこからどこまでが「日本であるか」を決める=「日本に 住んでいる日本人」が決まる、というステップが絶対条件になっていた。具体 的にはロシアとの間で一八七五(明治 8 年)年樺太千島交換条約を結んで北の 国境を確定し、南の国境線は「台湾出兵」がきっかけになって一八七九(明治 12 年)年「琉球処分」を行い、沖縄までを日本の中にくみ込んでいた。3 ただ当時、琉球の位置は極めて矛盾したものであった。もともと中日二重的 に従属していた琉球が、新日本政府の「廃藩置県」のもとで一八七二年に鹿児 島県の下におく琉球藩となっていた。これはあくまでも日本の一方的な措置で あって、清朝側は琉球との宗属関係を放棄したわけではなかった。こうした錯 綜した関係の中で起きた台湾事件は、問題にならないはずがあるまい。. 政 治 大 公使デロングが、台湾は「清の管轄だが、その政令は行われていないから、 『即 立 ち浮きものにて、取る者の所有物と相成り申すべく』と指摘したのである」。 一方、「台湾無主論」がアメリカ人の扇動による議題になっていた。米駐日. ‧ 國. 學. ここの「浮きもの」とは、国際法上はどこの国家にも所属していない無主の地 の意味である。4ここに提起された国際法は、日本の出兵とその後の日本の遣. ‧. 使が中国側と繰り広げた論争の根拠になるものである。つまり、日本政府はこ の国際法の運用による台湾出兵を発動し、また国際法を楯とすることで、大久. y. Nat. sit. 保が北京にて堂々と今回の出兵の正当性を弁護していたのだ。. al. er. io. このデロングの指摘同様、日本政府の方向性は「台湾土蕃ノ部落ハ清国政府 政権逮ハサルノ地ニシテ....無主ノ地ト見做スヘキノ道理備レリ」5というも. n. v i n のであって、台湾出兵は単に台湾に住む原住民の問罪を目的として行われたわ Ch U i e h n c g けではなく、実に侵略かつ占領的な意味をも潜めている。デロングに招かれた 元駐アモイ領事アメリカ国籍のリゼンドル(Charles W. LeGendre)が日本政 府に提出した第一覚書には、「もし支那政府にて此地を有ずるを好まずば、西 人の手に落さんよりは、むしろ我国より此地を領すべし」と記している。6 更 に、藤村道生氏の論文に紹介された第四覚書はこう書いている。「各国之内ニ 権威ヲ東方ニ逞フセント欲スルアラバ、必ズヤ北ニ於テハ朝鮮、南ニ在リテハ 彭湖及台湾ノ両島ニ居留ヲ占ムルニ勝ル処アルベカラズ。(略)若支那政府ニ テ牡丹人ノ日本従民ヲ害セシ一件ニ付十分満足ノ所置ヲ為サズンバ日本ヨリ 3. 栗原純「台湾事件(1871-1874 年) :琉球政策の転機としての台湾出兵」 (史学雑誌、1978). 4. 毛利敏彦『台湾出兵―大日本帝国の開幕劇』(中公新書 1996 年)p26. 5 6. 「台湾蕃地処分要略」大日本外交文書第七巻収録 同上 5.

(6) 速ヤカニ台湾彭湖ノ両島ヲ拠有スベシ」7このリゼンドルの意見は決してアメ リカ政府としての見解なのではなく、あくまでも彼自分の都合と日本の台湾領 有意図がたまたま合致していたからである。(台湾を管理及び領有する意図) さらに、. 四月五日には西郷へ、台湾蕃地での征討に必要となる「全権」が委任されるとともに、台湾出兵の方針 を記した「特諭」が下された。 「特諭」には、 「鎮定後ハ漸次ニ土人ヲ誘導開化セシメ竟ニ其土人ト日本 政府トノ間ニ有益ノ事業ヲ興起セシムルヲ以テ目的トスへシ」(第二款)とあるのみで、蕃地領有につい ては明記されていない。しかし、リゼンドルが三月十三日付覚書で、「遠征真ノ眼目ハ土人ノ所轄タル フォルモサ(台湾)島ノ一部日本ニ併ハスニアレトモ其表向ノ眼目ハ唯僅カニプータン(牡丹)人ノ罪 ヲ問ヒ後来更ニ其悪業ヲ行フヲ防行スル為ナリト為スニ着眼ス可シ」と述べているように、条款には、. 政 治 大. 「台湾出兵後の殖民政策の実施」の意図が含まれていたものと考えられる。8. 立. ‧ 國. 學. しかも一八七一(明治 4)年調印された「日清修好条規」には、日中両国の 内政、領土及び政令の違いに関することを明記しているのに対し(第一、三条) 、その三年後に敢えて台湾に派兵したのにはさすがに興味深い。もちろん両. ‧. 9. 国がこの条規を締結する時の狙いは各々であって、中国側は「正可聯為中國外. y. Nat. sit. 援,勿使西人倚為外府」10と主張し、日本側はもっともの用意は、 (1)東アジ. er. io. アにおける中華秩序の外交原理の否定、(2)国際法の基で日中の地位の平等. al. を明確化すること、 (3)最恵国条款の要求の三つであった。11その目的の違い. n. v i n で、両国が条規への解釈ももちろん違ってくる。特に前述したように日本では Ch U i e h n c g この時から積極的に自己の国際地位を向上させるため、隣国との平等の国交が 求められていた。そして、韓国との国交樹立難航の状態をも打開させようと企 んでいた。同時に、当時中国における実質的な最高為政者であった李鴻章は「連 日」の論調を唱え、 「中日提携」を望んでいた。12したがって、明治政府の台湾 出兵を巡る一連の対応の中で、李鴻章は明治政府と交渉を行っていた。そこで、 台湾を議論の中心に据えて清朝と明治政府の関係を考察したい。両者の関係は、. 7. 『名古屋大学文学部研究論集. 8. 後藤新. 9. 史学』16、1968 年 3 月、p8. 『法学政治学論究』(慶應義塾大学大学院法学研究科 2004 年)p329. 「中日修好条規」第一条。中央研究院近代史研究所藏。日本換約檔、同治元年至十二年。. 10. 李文忠公全集. 11 12. 藤村道生「明治初年におけるアジア政策の修正と中国」 (名古屋大学文学部研究論集44史学15). 留申寧. 「李鴻章的對日觀與晚清海防戰略」. 6.

(7) 当時の国際関係という大きなスキームの中で論じられる必要があるが、台湾を 巡る議論のみに留まるものではないが、1)牡丹社事件から台湾出兵への一連 の対応、2)日清戦争、3)下関条約での台湾割譲という大きな三段階になっ ている。だが日清戦争に関しては直接的に台湾が登場しない。牡丹社事件後の 対日政策のなかで、台湾は中心的な扱いを受けてきたが、日清戦争は主に朝鮮 の主権に係わる係争であり、台湾が主役を演じることはなかった。つまり、1) から3)への流れの中では2)の大きな事件の中で台湾が欠落しているのであ る。にもかかわらず、下関条約では台湾と遼東半島が割譲されることとなった。 本論では、当時の列強の国際関係における中日関係を基本的な立ち位置とし、 その上で台湾出兵から台湾占領が完成に至るまで「台湾」を巡って両者の間に どのような認識がなされたか、という点についても考察したい。. 立. 政 治 大. 第二節. 研究方法. ‧ 國. 學 ‧. 台湾出兵というテーマについては、すでに数多く優れた研究がなされてきた。 だが、今までの研究には、事件の流れ、そして明治政府内の政策、琉球処分と. sit. y. Nat. のかかわりなどに重みを置き、外交史的(中日、そしてアメリカやイギリスと の関係も含めて)な研究は比較的に少ない。鑑みて筆者は、より全面的な視野. io. n. al. er. から事件の真相と国際関係の中にの位置づけを探求していきたいと思う。. i n U. v. 研究範囲には、ただ台湾出兵自体に留まらず、前後に関連する事件も入れて. Ch. engchi. より全体像を把握したい。日清関係の中の台湾事件においては、前述したよう に日清修好条規の締結とも深くかかわっている。条規の成り立ち、そして日中 両国の条規に対する解釈とお互いへの理解についても論及しないとなるまい。 続いて、国際法における認識の異同と、更に日清戦争に台湾が主役ではないが 結果としては台湾が割譲されたという事実から、台湾事件とどう関係している かを研究するつもりである。もちろん外交関係と言う以上、列強との関係も重 要であるから、台湾事件と最も直接的にかかわっていたイギリスとアメリカを あげ、資料の入手に困難を伴うものではあるが、少し触れておくことにする。 まず、台湾出兵の経緯を単純に理解するのには、事件に直・間接的に関わっ た人物が書いたものは欠けしてはならないと思う。藤崎済之助が書いた『台湾 史と樺山大将』は、藤崎が蘇澳郡守任内(一九二三年)に調査の下見し、離職 後もあらゆるの史料を収集して、樺山の日記と初任台湾民政局局長-水野遵の 7.

(8) 『征藩日記』を参照し、四年もかけて事件の成り行きを詳細に還元した重要な 資料である。そして、N.Y.ヘラルドの記者と日本征討軍の顧問リゼンドルの秘 書とし、一八七四年五月第一日本遠征軍と共に南台湾に到着したアメリカ人- Edward H.House が第一手で観察し、当時の日清、イギリスとアメリカの相互 関係と牡丹社への理解にもかなり深い著作―<The Japanese Expedition to. Formosa>である。この本は筆者が身を持って実際に事件に参加し、日清両国 の外交資料を参照して忠実的に記述したものである。 そして、筆者の資料収集による結果、今までの研究には、当時の新聞や世論 を使った論文はほとんど見当たらない。にもかかわらず、新聞はこの研究に当 たっていずれ清朝側、日本側についても重要な資料になるはずに違いない。東 京日日新聞の従軍記者として台湾に赴き、「台湾事件」の連載に活躍していた. 政 治 大 に編纂されていたので、それらの記事に参照しながら、当時明治政府の政策 立 と意向も読み取れるであろう。一方、清朝の新聞や論説に関するは、幸いに琉. 岸田吟春の記事と当時の出兵に関する社論が中山泰昌編『新聞集成明治編年史』 13. ‧ 國. 學. 球大学の西里善行氏が整理した「台湾事件(1871-1874)と清国ジャーナリズ ム」(資料篇 I、II、III、IX)があり、「申報」、「循環日報」、「万国公. ‧. 報」と「中西聞見録」四つの報道紙に掲載した台湾事件の関連記事の集成であ る。この資料を通じ、「清朝が日本の台湾出兵にどう受け止めているか、そし. y. Nat. sit. てどんな対応をなさったか」にもいっそう理解出来ようではなかろう。. er. io. 呉密察氏の『台湾近代史研究』に台湾出兵に関する士族の建白書と願書につ. al. いての研究があり14、筆者にとってもかなりの参考になると思う。それゆえ、. n. v i n Ch 『明治建白書集成』 に掲載した「台湾出兵」の件、そして台湾出兵の政策に engchi U も及んだ「征韓論」に関する件も含めて検証し、いったいこの両者はどう関連 15. していたか、を自分が提出した疑問に回答を与えてみたい。 近年、台湾出兵に関する論文はそれほど出ていないが、中にも幾つかいい参 考になる論文があると思う。たとえば、甘懷真氏の「台灣出兵與東亞近代國家 的再編」と一瀬啓恵氏の「明治初期における台湾出兵の政策と国際法の適用」 は国際法の運用と台湾出兵との関係であり、後藤新氏の「明治 7 年台湾出兵の 一考察-台湾蕃地事務局を中心として-」は大隈が台湾蕃地事務局の事務総督 として決着したいろんな政策(特に財政と軍隊の派遣など)を論じたものであ. 13 14 15. 中山泰昌『新聞集成明治編年史』 (明治編年史編纂会. 1936). 呉密察、 「建白書」所見的「征台之役(一八七四) 」、 『台湾近代史研究』 、(稲香出版 1991) 色川大吉、我部政男編『明治建白書集成』第2、3、4巻(筑摩書房 1986) 8.

(9) る。そして、最も興味深いのは、家近良樹氏の「台湾出兵方針の転換と長州派 の反対運動」である。家近氏は、今まで大久保利通が台湾への領有意図という 通説を一変し、大久保が佐賀の乱の時九州に行っている間に、もともと明治七 年二月六日に決定された単に台湾原住民への問罪行動-「台湾蕃地処分要略」 が西郷と大隈らによって「永住領有」となった、と指摘している。でも、出兵 がなされた理由はやはり今までの通説に踏襲している。(不平士族の再反乱を 防止のため)にもかかわらず、筆者は前諸氏の研究結果を踏まえ、関連する部 分を再検討して本論に寄与できればと思う。 上述の資料に留まらず、第一資料としての国史舘台湾文献館編訳『處蕃提要』、 『甲戌公犢鈔存』、台湾史料集成編輯委員会編『明清台灣檔案彙編』(第七十 三、四冊)、そして中日関係に深くかかわっていた人物の関係資料など(李文. 政 治 大 央研究院近代史研究所編『中美関係史料』と、外務省編『大日本外交文書』(第 立 六、七巻)にも大変貴重な記録が残っており、そういった史料を詳しく読んで 忠公全集、大久保利通関係文書、大隈重信関係文書、岩倉具視関係文書)と中. ‧ 國. 學. いきながら、今まで研究された関係論文を検証するとともに、より厳密かつ論 理的な結果に導くことを期している。. sit. 先行研究. n. er. io. al. y. ‧. Nat. 第三節. Ch. i n U. v. 明治は近代日本の歴史上、決定的に重要な時期である。ゆえに、明治に関す. engchi. る内政、外交関係などといった研究は多くなされている。その中に、「台湾事 件」に関する研究も少なくない。ただし、戦前の研究には、日本政府の外交資 料の公開とアジア侵略的なテーマが加えられた制限などのため、日本領台にい たるまでの「幕開け」として記念的な意味と帝国拡張政策への賛意も含めてい るであろう。例えば、前節にも触れたの藤崎済之助の『台湾史と樺山大将』と、 昭和十(1935 年)年当時総督府は始政四十周年の祝いとし、総督府機関誌『台 湾時報』に連載された山本運一「明治七年征台の役に就いて」、あと総督府図 書館館長「明治七年征藩の役」など、いずれも日本の権力者の立場から事件を 視、文明国たる日本が野蛮な藩人を征討して彼らに近代化をもたらすという不 公平な視野で事件を看過する傾向があるので、戦後以後「征討」と言わず、 「台. 9.

(10) 湾出兵」あるいは「台湾事件」と言い換えるのが一般的である。16 本論に合わせ、台湾出兵の前に調印された中日修好条規(明治四年、1871 年)についての研究もきわめて重要な関連素材である。註 15 の藤井氏は自らの 著書の第一章に日本側がなぜ条約の締結を求めてきたかという点と李鴻章が 「以夷制夷」と「聯日同盟」を企図していた事実を明らかに述べている。藤井 氏のこの論調は王璽の『李鴻章與中日訂約(一八七一)』から継承していると思 われるが、王氏は日本が清との同盟疑惑に対する欧米からの反発を受けたのに ついて大幅に述べたが、藤井氏は単刀直入に、副島が岩倉使節団らの帰国も待 たず、自ら中国にてすでに調印された条約を改正しようとする姿勢は、実に「征 台」の準備である。17張啟雄の「新中華世界秩序構想の展開と破綻―李鴻章の 再評価に絡めてー」では更に、「日本政府にとって、日中修好条規は無意味な. 政 治 大 日本が中国と和親するという名義で条約を締結しようとしたことを手段に 立 して、そこに韓国へ侵略の野心を託したことは多くの研究者が認めている。に ものとして実現したのである」と指摘している。18. ‧ 國. 學. もかかわらず、結果として、成立した条規は日本の期待に反した平等条約であ った。そして外圧によって、調印した条規を改正しようとしたものの、それで. ‧. も中国に拒否された。日本政府(特に大久保新政府)はどうしてこの条規の効 力を無視し、中国の反発を買う危険も恐れず台湾に出兵したのについて、まだ. y. Nat. sit. 議論する余地があると思う。. er. io. 戦後六七十年代、明治維新及び外交史の権威である石井孝氏の著作―『明治. al. 初期の日本と東アジア』が多く引用された。本書は著者が大量の日中両国の史. n. v i n 料のほか欧米史料を通じて、明治六年政変後の大久保政権のアジア政策を基軸 Ch U i e h n c g として展開された当時の国際的な条件の下で書かれたものである。その第一章 「日本軍台湾侵攻をめぐる国際情勢」も本論にとって、大変参考になると思う。 特に、米国公使デロングが積極的に日本の台湾問題処理に関与した意図は、 「日 本政府に対する彼自身の影響力を著しく強め、結果として、米国政府の利益を 高めることにおいた」 (10 頁)と称し、更に「リゼンドルはデロングとともに、 日本の台湾占領を支持することにより、日本を米国の友邦に仕立て、この日本 を核として極東における市場の拡大を目指したものと思われる」というのが著 者の結論である。 (24 頁)しかし、その後デーロング公使は間もなくアメリカ 政府に撤却し、後任したビンガムの台湾問題に対する態度は直ちに一転した。 16. 藤井志津枝. 『近代中日關係史起源』(金禾出版社. 1992)まえがき. 17. 同上。P.41. 18. 張啟雄「新中華世界秩序構想の展開と破綻―李鴻章の再評価に絡めてー」(沖繩文化研究 Vol.16) P.242. 10.

(11) この前後二人の米公使がこうした計画の急転換に迫られた理由はまだ詳しく 論じられていない。そして、多くの論文にもよく触れられた問題点としては、 いったい征韓論と台湾出兵はどう関連しているのか、ここにもただ反対された 士族の士気を外へ反らすためであったとする従来の研究から一貫した論調で 書かれてきが、しかし大久保政権及び周りの大臣らは必ずしも賛成したわけで はなかった。さらに、「表面的」な結果としては士族軍隊の暴走でこの征討劇 が開始されたと言うが、大久保と大隈らは本当に彼ら(西郷従道と士族軍隊) と留守政府の副島から計画された「台湾出兵」を止めたかったのか、実に疑問 が残っている。 毛利敏彦氏の『台湾出兵―大日本帝国の開国劇』(同註 2)では、従来の論 に新たな見解を提起している。毛利氏は通説を批判するとともに、なぜ大久保. 政 治 大 自己の政治生命を守るためにも、台湾政策を含む対外政策を忠実に継承すると 立 明言した。その時、反政府エネルギーなるものはまださして表面化していなか 政権が台湾出兵を実行したのかへの回答を与えている。「政変直後、大久保は. ‧ 國. 學. ったから、こういう仮説もまた成立困難である」 (141 頁)と述べ、 「台湾出兵 とは、明治六年政変の誤算に危機感を抱いた大久保が、西郷従道や大隈重信ら. ‧. と組んで、台湾先住民地域を獲得しようと強引に推進した暴挙だったというべ きであろう」と結論している。彼も清沢洌の名著-『外政家としての大久保利. y. Nat. sit. 通』19に描かれるような、全責任を負って柔軟な外交能力を持った大久保像へ. al. er. io. の批判を強くしたといえよう。毛利氏が提起する様々の論調は斬新であるが、. n. 果たして彼が今までの論説を翻す見方は正しいかについてもまたいっそう検. Ch. 討する必要があると筆者は考えている。. engchi. i n U. v. ほかの論文においては、「琉球処分」をその本位と位置づけ、台湾出兵を研 究するケースも少なくない。例えば、金城正篤氏の「台湾事件(一八七一―七 四年)についての一考察―琉球処分の起点としてー」20と栗原純氏(註 3)の 論文では台湾事件が直接的に琉球民を日本国民たるものにしたとしている。し かしそういった研究は日本側が琉球の附属の探求に偏る傾向があり、琉球側自 身が台湾事件の中にどういう役割を演じたか、琉球処分と台湾出兵もしくは台 湾を領有しようとした意図との関係の研究はまだ欠けている。 概観的にみると、日本の近代史、明治外交史を眼目とし、そして琉球処分に 踏まえる研究が各々であるが、中国側の対応は始終消極的とされており、台湾. 19. 清沢洌. 『外政家としての大久保利通』 (中公新書. 1969). 20. 金城正篤 「台湾事件(一八七一―七四年)についての一考察―琉球処分の起点としてー」 『沖縄歴史研究』 (1965). 11.

(12) 事件に関する清の対日対応及び政策の変遷は近年まであまり重視されなかっ た。また、殖民地史として、台湾領有の意図と二十年後に下関条約によって実 現された「本質の占領」との関連性も実に興味深い。この「空白」の二十年、 むしろ台湾出兵以前から日本はどう台湾を見ていたか、あるいはすでに「企ん でいたか」というべきであろう。最後に、一八七0年代に、中日とも列強のア ジア進出に悩まされていたという状況の中で、東アジアの国際関係史としての 台湾出兵はいったいどう視るべきか、を本論にでは詳しく論及したいと思う。. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. 12. i n U. v.

(13) 第二章. 日本の「台湾出兵論」形成の背景. 第一節. 当時の国際関係の中の日本. 200 年以上に渡って続けられた鎖国体制が幕末の異国船の来航により揺れ 動き始めた。日本が外来の衝撃を受け、幕末から外国の事情を頻りに重んじる 人々があらわれる。それは、江戸幕府を倒した後、政府の中心となった薩摩藩 と長州藩である。明治 2 年(1869 年)、明治政府が改めて開国を決定して、以 後は不平等条約の撤廃を目指していくことになる(条約改正)。日本は開国に. 政 治 大 における隣国との関係はどうであったのだろう。 立. より帝国時代の欧米列強と関係を持つこととなったのである。そして、アジア 日本が外国に開国を余儀なくさせられた後、積極的に隣国との国交を求めて. ‧ 國. 學. いた。特に、江戸時代から、ほとんど唯一の国交相手である朝鮮との関係を明 治天皇の名義で再開しようとしている。明治元年十一月(1868 年)、朝鮮との. ‧. 窓口だった対馬の宗氏を通し、朝鮮に国書を送り、両国の修好したいと伝えた. y. Nat. が、朝鮮はそれを拒否した。その理由は、日本が朝鮮に提出した国書の中に天. sit. 皇が清の皇帝と対等であることを示す「皇」 「勅」 「朝廷」という文字があった. n. al. er. io. ためとされる。これらの文字は中国の王朝だけが使うもので、中国の属国であ. v. る朝鮮にとってはそういった文字を小国の日本が使うのは許せないとうこと だった21。. Ch. engchi. i n U. 朝鮮側が日本の国書を受け取りを拒否した影響で、日本の国内に次第に「征 韓論」の声が高まり、遂にその後中日外交上の大問題となっていくのである。 と同時に、中国との国交樹立も進めている。その実現は、明治四年(1871 年) 日本と清朝の間で初めて締結された平等条約であり、これを「日清修好条規」 と言う。この条約の締結の背後には、日本の野心が託されている。それは、中 国が古くから東アジアでの「中華秩序」のリーダーとしてあり続けた地位への 挑戦である。中国と対等の関係を結べば、自分も中華秩序ネットの頂点の一員 という考えだった。 では、日本がそんなに朝鮮との国交樹立と朝鮮の独立に熱心だったのかひと. 21. 外務省調査部 『大日本外交文書』第二巻第一冊、P259-260。 13.

(14) つの理由としては、ロシアの影を挙げることができる22。幕末以来、ロシアの 南下に伴って、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の間の紛争が頻繁となった。 樺太領有ないし南北半島を分け、ロシアと日本住民を住み分けさせてやるとい う意見を持っていた外務卿-副島重臣が征韓論で下野し、代りに黒田清隆開拓 次官の「樺太放棄・北海道開拓」論が政府内部の主流となった。一八七五年(明 治八年)に調印された「樺太・千島交換条約」もこの論調に基づいたものであ る。日露間の国境が決着したのにもかかわらず、強大なロシア帝国が韓国にも 勢力を振るおうとしている。朝鮮がロシアに取られてしまうと、北海道から九 州までほぼ日本の半分以上の地域がロシア軍の侵攻に脅かされる危険が高ま るので、それは開国してまもない弱小日本にとって決して軽視できない問題と なっている。北の防衛線を築くため、明治政府は韓国を国際法上の独立国とし. 政 治 大 開国させられたのと違って、当時まだ経済的には資本主義の段階に達していな 立 い日本によって強行されたものである。朝鮮問題の権威であった榎本武揚は、 て開国させたかったのだ。中国と日本が資本主義列強により貿易利益目当てで. ‧ 國. 學. 朝鮮は日本にとって「経済上の実益は微小だが、ポリチカル及スタフラジカル において重要であること」23を説いている。これは、駐露公使としてロシアの. ‧. 極東と南進政策に危機感を持つ国際的視野から、日本の朝鮮政策を体系化した ものというべきであろう。. y. Nat. sit. そして、一八七一年(明治四年)十一月、右大臣・岩倉具視を全権大使とし. er. io. た、一年十ヶ月及んだ明治政府初の海外巡廻(岩倉使節団)もこの時期に重要. al. な出来事一つである。そのもっともの目的とは、明治維新前の諸外国と結ばれ. n. v i n ていた不平等条約の改正に各国の意向を打診するための表敬訪問であったが、 Ch U i e h n c g 結果として失敗したのである。だが、世界一の工業先進国イギリスの実状、フ ランスの官制、プロシア鉄血宰相-ビスマルクとの面会などが、まだ近代国家 を目指す道を歩んでいる日本に強い衝撃を与えていたに違いない。この付加的 な側面で、日本のあらゆる国家建設に手本を見せてくれたのである。そこに、 岩倉をはじめとする外遊政府と西郷を筆頭とする留守政府が分裂していたよ うに見える。通説では、大久保らが外遊の際に西洋の進歩に痛感し、日本の近 代化を最優先とするため、「征韓論」に盛んな留守政府を押し切って日本の富 国強兵を旗揚げしている。では、なぜ帰国して半年も待たずに、台湾出兵の正 式な公文が出されたのか。どう考えても矛盾にしていると思われる。この疑問 22 23. 明治維新史学会編『明治維新とアジア』(吉川弘文館 2001)P139. 金正明編『日韓外交資料集成』第一巻(厳南堂、1996)P.162. 14.

(15) を探求するため、筆者はあえて岩倉使節団の派遣による残された留守政府と、 一八七三年(明治 6 年)十月に大久保を筆頭として成立した新政権を分けて比 較することにする。 時間順で分析するので、本章の次の節らは、主に岩倉使節団が発送される前 の明治政府とその後の留守政府による決議された内容と「台湾出兵論」を助成 させたの関連を述べたい。彼らは、その後に実際に台湾出兵行動に参加してい ないと言っても、台湾出兵への仕向けとアメリカ人―リゼンドルとの計画作り はだいたい留守政府の時から立てられたものである。大久保らが台湾出兵を実 行する際、単にこれらのを継承したとは言えないが、新政権が成立してまもな く明治史上初の対外出兵が派遣されたのには、現地に残され、アジア情勢の変 化を見守っていた留守政府の仕立てはなくしてはありえないものだ。. 立. 日清修好条規の締結における日清関係の変化. 學. 2-2-1. 日清修好条規締結. Nat. y. ‧. ‧ 國. 第二節. 政 治 大. sit. 前述したように、明治初年日本は朝鮮との関係は断絶したため、朝鮮の宗主. al. er. io. 国である中国と「比肩同等」の条約を結び、そのうえで「一等を下し礼典」24に よって扱おうという、中国と朝鮮との宗属関係を利用した迂回策をとった。そ. n. v i n の実現のため、一八七0年(明治 C h 3 年、同治 9 年)八月、外務大丞柳原前光が U i e h n c g 事情の説明するために上海に派遣された。. 柳原一行は上海での交渉後、天津にいたって三口通商大臣成林や新旧の直隷 総督である曾国藩、李鴻章と面談し、日中間の条約締結を訴えた25。北京にあ る総理衙門は、柳原の入京をさんざん阻止しようとしたが、柳原は西洋列強の 仲介の可能性を示して総理衙門を脅迫しながら、日中の関係を唇歯の関係に例 え、その重要性を次のように強調した。. 「或曰、今時入清、非由西人介紹 、事恐不諳。 卿大臣乃与諍論、以為我國与清國、唇齒鄰 邦、至厚友誼 、何必自棄夙好、 專倚外人為耶。 須以一片誠之心、 修涵直達彼國、當途諒. 24. 『日本外交文書』巻3、89「対朝鮮政策三箇条伺ノ件」P145。 『李文忠公全集』訳署函稿卷 1「論天津教案」同治九年九月初九日。 15. 25.

(16) 必更加親厚也。26」. それに対して総理衙門は、もし今日本の要求に応じなければ、後日日本が欧 米と連合し、中国に侵攻して更なる不平等条約を要求してくる形勢は不可避だ と判断し、日本の締結要求に対する強硬な態度はついに軟化した。. 「此次、日本徑自派員前來 、未必不視中國之允否、以定將來之向背…(中略)…此時、堅拒 所請、異日該國復俛英法為介紹、彼時、不允則饒舌不休、允之則反為示弱。在彼転声勢相聯、 在我反牢籠失策、与其將來必允、不如此時即明示允意。27」. 「天津教案」の影響で、新任となった元江蘇巡撫李鴻章も「日本來中國通商. 政 治 大 そして三口通商大臣成林も総理衙門に柳原の絶え間なく執拗な要求を報告し 立 た上で、十月八日に総理衙門はようやく柳原に面会し、締約一件を承諾した。 乃意中之事 中國已開關納客 無拒阻之理 且未始不為西洋多樹一敵28」と言い、. ‧ 國. 學. 総理衙門は日本の条約締結申し入れに始終消極的だったが、清国内には賛否両 論が対立していた。代表するものは、英翰「倭寇」反対論と李鴻章と曾国藩の. ‧. 「聯日」賛成派である。英翰は、日本が旧来中国に臣服していた倭寇であった にもかかわらず、今清国がフランスとの間で天津教案に苦しんでいる時に便乗. y. Nat. sit. して条約締結を要求してきた動機は不正だと、厳しく指摘していた。. al. er. io. それに反し、李鴻章は、 「元世祖以後中國不與通朝貢」、 「該國向非中土屬國、 本與朝鮮琉球安南臣服者不同」29という意見をあげ、日本を隣邦として厚く持. n. v i n て成すべきだとした。李は日本の明治開国以来の努力を見てきたので、 「以東 Ch U i e h n gc 制西」 の考えが日々強まっていた。今中国と同様に西洋列強に苦しめられて 30. いる日本が「同心協力」と称して日清提携を望んでいるのは、まさに意中と符 合するものだった。李鴻章とともに洋務派のリーダーの位置にあった曾国藩も 日本を敵に回すのではなく、むしろ同盟国として利用するのが適当だという31。 しかし、曾は柳原が申し入れてきた条約の内容に対して警戒は怠らなかった。 一見李と同じく「連日本」の外交を構想しているように見えるが、曾は日本を 欧米列強と対等に扱い条約を締結すべしと提案したのに加えて、 「一体均霑」= 26 27 28 29 30 31. 『日本外交文書』巻3、141 号文書、付属書4・註 2。 『籌辦夷務始末』同治朝卷七七、P37。 『李文忠公全集』訳署函稿卷6、P41。 『籌辦夷務始末』同治朝卷七九、P47。 『李文忠公全集』訳署函稿卷 11、P6。 『籌辦夷務始末』同治朝卷八十、P10。 16.

(17) 「最恵国待遇」を絶対に条約の中に入れないことを強調している。李鴻章のひ たすらの連日の思いと比べ、曾国藩は条約締結に賛成してはいるが、早くから 日本の真の目的に疑惑を示してたのではなかろうか。 朝廷に強い影響力を持つ二人の賛成派を背景に、清朝廟堂は条約締結の方針 を確定し、一八七一年(明治四年)九月十三日に中国の全権大臣李鴻章と日本 側の伊達宗城が天津山西会館において日清修好条規および通商章程に調印し た32。日清修好条規は、近代の日中関係が新しい時代に突破したことを意味し ている。藤村氏が言うように、「日本および中国がその時まで結んだ条約の全 てと異なり、列強に強制されたものでなく自主的に結んだ最初の近代的条約で あった。締約国の双方が列国の領事裁判権下にあり、まだ協定関税率を強制さ れていたが、その条件の下で両国の対等性を貫徹しているという特色をもって. 政 治 大 反したものであった。条約締結における交渉は、すでに中国側ペースで進めら 立 れたあげく、日本が一番望んでいた最恵国条項が排除されたばかりではなく、 いた。33」と強調している。だが、調印した条約は結局日本側の最初の意図に. ‧ 國. 學. 中国側の強い要求によって、「両国好ミヲ通セシ上ハ、必ス相関接ス。若シ他 国ヨリ不公及ヒ軽蔑スル事アル時、其知ラセヲ為サバ、何レモ互二相助ケ、或. ‧. ハ中二入リ、程克ク取扱ヒ、友誼ヲ敦クスベシ」34という、注目すべき一条が 加えられた。それは条文の第二条であり、明治建国以来「脱亜」と旗揚げしつ. y. Nat. sit. つ日本が無理矢理中国によって「日清同盟」に組みこまれてしまった。この対. al. er. io. 等・同盟というべき日清修好条規は、清国側にとっては、李鴻章をはじめとす る清朝の対日外交の方針の実現であったので、石井孝は、「欧米諸国に対抗し. n. v i n て日本を外援たらしめようとする、 C h 李らの指導する中国外交の成功というべき U i e h n c g だ」 と肯定している。 35. 「果たして中国側が主導したこの条約の締結は成功なのか」という点では疑問 が残るか、日本側は、この第二条がこの先の列強との関係には差支えとなると 自覚していた。特に列強と「条約改正」をする期限(明治五年)と岩倉使節団 の派遣を控えていた当時、日清修好条規の締結は妨げになる可能性は高い。よ って、外務省はしばらく条規の内容を公開しなかった。36その後、一八七二年 (明治五年)三月十日また第二条の「攻守同盟」を改訂するため柳原前光を清. 32 33 34 35 36. 藤村道生『明治初年におけるアジア政策の修正ーと中国―日清修好条規の検討―』P.18。 同上 P36。 『大日本外交文書』第四巻、153・154 号文書。 石井孝『明治初期の日本とアジア』P.4。 『大日本外交文書』第四巻、P.251。 17.

(18) 国に派遣した37。だが、中国側は条約を改定するのを拒絶した。やむなく日本 側は欧米列強に第二条は同盟を意味しているのではなく、一八五八年(咸豐八 年)に調印した「中米天津条約」を倣って、 「日清両国友好和親」38という意味 するのもであるので、特に改訂する必要はないとした。. 2-2-2. 条約に対する解釈の異同. こうして日清修好条規の最大の問題点(第二条について)は解決したようだ が、第一条の「両国所属邦土、亦各以礼相待、不可稍有侵越、俾獲永久安全」. 政 治 大 謀干預、強請開弁、其禁令亦応互相為助、不准誘惑土人 稍有違犯 」がその後 立 の日本台湾出兵と韓国開国、そして琉球併合とは法理上的に強く齟齬している と、第三条の「両国政令禁令、各有異同。其政治応聴己国自主、彼此均不得代 39. ‧ 國. 學. ように思える。先ず第一条の「所属邦土」の規定から見てみよう。これは、李 鴻章が新興なる日本が欧米列強の模倣をし、中国の「所属邦土」を侵害しない. ‧. ように規定したものである。もちろんこの時、李は日本の野心を見抜でいたわ けではなく、ただ日本を自分が考えた「日中相互援助連盟」に組み込むため、. y. Nat. sit. この第一条で日本を牽制しようとしていたのである。それでは、李が提起した. er. al. n. い。. io. 「所属邦土」とは何であったのか。「森李対談」における李の言葉を引用した. Ch. engchi. i n U. v. 「條約明言所屬邦土 、若不指高麗、尚指那國。… (中略)…將來修約時 所屬邦土句下可添寫 十八省及高麗 琉球字樣。…(中略)…和約上所說「所屬邦土」 土字指中國各直省 此是內地 為 內屬 徵錢糧管政事 邦字指高麗諸國 此是外籓 為外屬 錢糧政事 向帰本國經理。40」. つまり、「所属邦土」とは、中国本土の十八省(台湾は福建省に属する)と、 属邦である朝鮮、琉球など諸属藩であり、換言すれば中華世界である41。李が. 37 38 39 40 41. 同上、第五巻、P239-240。 同上、P.298。 王璽『李鴻章与中日訂約』中央研究院近代史研究所、台北、1981 年。 『清季中日韓關係史料』第二卷、二二九号文書附件一。 張啓雄「新中華秩序構想の展開と破綻」、P347。 18.

(19) 古くから東アジアをリードしてきた中国をはじめとする「中華秩序」を改めて 再現させようという意図をもっていたことが看取できる。だが、日本が新興国 の姿で中華帝国と肩を並べようなどということは、中国人にとっては、一方で は当然受け入れにくいものであはるが、日本が中国よりいち早く西洋の技術を 身に着ければ、中国がリードする「中華秩序」を破壊するリスクが存在するこ とを自覚していたものだと思う。 そして、第三条は「お互いの内政は干渉しない」という規定である。この考 えは、すでに中国邦属内に流通している東アジア秩序原理の運用である。中華 帝国は、古くから属邦を擁していて、其の国々の国情と政令の異同を認識しつ つし、同一化を要求せず、逆にいえば、中国に臣服すれば、この中国の国政と 違う国の国王として認められるということである。日清修好条規は、日中の条. 政 治 大 あったが、ただ日本は中国帝国の属邦ではなく、同盟している国なので、第一 立 条と同じく日本が中国に対する侵害予防の意味が強かった。当時の中国はもち 約の締結によって、この「伝統」をそのまま日本に適用させるという狙いでも. ‧ 國. 學. ろん日本が台湾に軍隊派遣、琉球併合、そして朝鮮の開国を望むことを予想し たわけがないが、前もってこの条約を通して中国側の立場を明確させたのであ. ‧. る。それが、その後の台湾事件の北京交渉において、中国側が始終「中華秩序」 における「政令の異同」で日本側が持ち出した「世界秩序原理」の「政令の有. y. Nat. sit. 無論」を反駁したゆえんである。一見、中国側は一貫して「中華秩序」原理を. al. er. io. 基づいた概念で日本と接触してきたが、日本はなぜそれを受け入れなかったの. n. か。それは、やはり日中両国の条約に対する解釈と条約締結の目的が違うから に他ならないのである。. Ch. engchi. i n U. v. 中国は新中華秩序構想の第一人者李鴻章により、一方的に「連日抗欧米」42と 企んでいるが、同時の日本はむしろいち早く「脱亜」43路線に進みたかった。 だから、中国にごり押しに「日中連携」的な条約を調印させられた日本は、絶 対に条約通りに動きたくないはず。よってある意味で、日本にとってのこの条 約は事実上に無意味なものとして実現したのである。ただし、日本は形式的に は中国と条約関係を練り上げたことを利用している。その日本が隣国と自主的 に条約で結んだ関係は文明国たる証拠になるのである。この理由で、中国が願 った日中連携による新中華秩序の成立しえない。お互いに利用しあった結果、 日本は表面的に阻まれたようだが、事実上大成功とはいえないが、中国と比較. 42. 『籌辦夷務始末』同治朝卷七九、P7~8。 石井孝『明治初期の日本とアジア』P.5。. 43. 19.

(20) したとき、一定の成果を収めたのが日本だったということができる。中国にと っては念願の日中連盟が出来ないばかりではなく、柳原が条約締結の申し入れ てきた時語ったことが逆方向になっていた。それは、条約の締結とは、日本が 列強との関係が強まるためのものとなった。 こんな曖昧な日中関係の中、たまたま起きた琉球民遭難事件(牡丹社事件) が両国の政治的な的となった。だから、日本は条約を締結して僅か 3 年後敢え て台湾に軍隊を派遣したのは、わざと条約の規定を破って中華秩序と対抗しよ うとの目的が潜められている。この日本が主導した台湾事件は、むしろ 3 年前 に中国に押し付けられた日清修好条規の「日中連盟の規定」(第一~第三条) への報復行為だのように思える。台湾出兵とこの条約の規定が齟齬している部 分は、また詳しくは本論の第四章に述べたい。. 政 治 大. 立琉球藩の設置と中日琉関係の変容. 第三節. Nat. sit. y. 琉球と中日との関係. ‧. ‧ 國. 學. 2-3-1. al. er. io. 十八世紀の半ば以前、琉球は独立国であった。十四世紀、琉球列島では日本 本島とは個別の政治史が展開し、本島で足利尊氏が室町幕府を開いた頃、沖縄. n. v i n 本島では山北、中山、山南の三国が権力を争っていた。このころ、中国で元朝 Ch U i e h n c g を倒して明朝を開いたた太祖洪武帝は、周辺諸王に使者を送って入貢を促した。 一四二二年(永楽廿年)、中山王が山北と山南両国を統一し、尚氏王朝を創っ て引き続き中国に年貢を納めていた。こうして貢物を捧げて明皇帝に臣服を誓 うことに応じて、中華帝国の国王から琉球国中山王としての正統性が認めても らえること(冊封)が前節に触れた「中華秩序」あるいは「華夷秩序」のひと つの表現である。同時に、琉球は、明皇帝に進貢行為と結合した貿易活動で繁 栄した。清になってもこの関係は依然として続いていた。一方、一六0九年(慶 長十四年)、九州南端の薩摩藩(現鹿児島県)の島津氏が琉球列島に侵入し、 尚寧王を征服した後、徳川幕府は直ちに琉球を島津氏の管轄下にして、表面的 に中琉関係を認めつつ、中国との莫大の貿易収支を吸収していた44。こうして、 44. 真境名安興 島倉龍治編、 『沖縄―一千年史』 、沖縄、琉球史料研究会、1923 年。 20.

(21) 一八七九年(明治十二年)に琉球が正式に沖縄県として日本の版図に組み込ま れるまで、中日琉三者の間にこういったあいまいな関係が約260年も続いた のである。. 2-3-2. 琉球藩の設置. まだ若い明治政府にとって「国家」としての領土の確保は、緊急事項の一つ である。「抑琉球島ハ古昔沖縄島ト唱ヘ南海十二島の属島ノ内ニシテ本朝ノ属 島タリ45」と認識してきた明治政府は、早く中琉の冊封関係を断絶させたかっ. 政 治 大 して琉球は鹿児島県の管轄下に置かれることになる。一八七二年(明治五年) 立 一月、鹿児島県庁は、伊地知貞馨と奈良原繁を琉球現地に派遣して善後措置に た。一八七一年(明治四年)七月十四日、政府は「廃藩置県」を実施し、果た. ‧ 國. 學. あたらせた46。同年の六月、また琉球国王尚泰に天皇親政慶賀ための使節派遣 を促した。一方、東京では、まず同年の五月三十日に大蔵省の井上馨の建議に. Nat. sit. y. ‧. よって琉球処置が初めて政府内部で検討された。. al. er. io. 「彼従前ノ支那ノ正朔ヲ奉シ封冊ヲ受候由相聞我ヨリモ又其携式ノ罪ヲ匡正セス上下相蒙曖. v i n ト然モ彼ニ於テハ人臣ノ節ヲ守リ聊惇戻ノ行不可有義勿論ニ候況ヤ百度維新ノ今日ニ至リテ Ch U i e h n c g ハ到底御打捨被置候筋ニモ無之ニ付従前曖昧ノ陋轍ヲ一掃シ改テ皇国ノ規模御拡張ノ御措置 n. 昧ヲ以数百年打過行トモ不都合ノ至ニ候ヘトモ君臣ノ大体上ヨリ論シ候へ仮令我ヨリ函養ス. 有之度去迚威力ヲ挟侵奪ノ所為ニ出候テハ不可然。47」. と、井上は琉球が中国の冊封を受けていたことを認識しつつも、日本への帰 属を明らかにすることを求めた。つまり、琉球を完全併合せよと正院に建議し た(急進説)のである。他方、外務省の副島重臣外務卿は、尚泰を琉球藩王に 封じて華族に列するのと引き換えに外交権を停止せよと建議した(漸進説)48。 45. 松田道之「琉球処分」、 『明治文化資料叢書』 、第四巻、P.5。 『大日本外交文書』第五巻、P.374-375、『沖縄志』第五巻、P.34。 47 松田道之「琉球処分」、 『明治文化資料叢書』、第四巻、P.8。 48 『台湾始末』 、第一巻、P19-21。 21 46.

(22) 六月二日、左院は性急な日清両属の解消は清と争端を開く恐れがあるから、慎 重に扱うべしと正院に念を押した上で、結局、外務省案が採用され、副島も琉 球藩設置及びそれ以後の琉球問題の主導者となった。 同年の五月、日清修好条規改定のため、清朝に滞在していた外務大丞兼少弁 -柳原前光がたまたま中国の官報-五月十一日付の「申報」から「琉球難民遭 難事件」を知った。そして、五月二十日、柳原から副島宛の書簡に、「琉球人 「琉球人」 が清国領土台湾テノ殺害」一件が報告された49。ここで注意すべきは、 と「清国領土台湾」との語が明記されたことである。琉球人と書くことは、日 本人ではないこと意味をしているし、そして台湾の帰属にもまだ疑問はないよ うだった。なので、柳原は清朝との条約改定の報告をするほか、たまたま知っ たこの事件を一応政府に報告したのに過ぎなかった。それを知った副島は、直. 政 治 大 台」する体制を整うとはあまり思えない。琉球藩設置方針は、いわば日本国家 立 の統一、つまり近代国家として主権が及ぶ範囲である国家領域確定の関係から ちに琉球の「処分」に取り組んだ可能性は否めないが、敢えてこの時から「征. ‧ 國. 學. 策定されたのである。日本が明治に入ってから、徳川時代の万国分立関係を清 算し、天皇を頂点とする集権国家を選択した上で、「廃藩置県」を断行したの. ‧. である。そこで、琉球遭難事件があろうがなかろうが、琉球と天皇との関係は 整理して再編成しなくてはならない。こうした線にそって、実は柳原から伝わ. y. Nat. sit. ってきたこの事件は、琉球藩設置とは直接に関係しているとは思えないではな. al. er. io. かろう。況してやただの新聞の報告を受けただけで、台湾に征討せよというの が事実であれば、日本政府にしては、あまりにも無謀すぎるだろう。なので、. n. v i n 藤井志津枝が『近代中日史源起』に、 C h 「…日本は元々琉球処分の方針があった U i e h n c g が、今偶然に台湾事件があって、日本政府はこれを利用して『琉球併合』と『台 湾占領』にはいい口実になれる」と、「…この時副島はもう柳原が天津からの. 報告を受け、琉球処分にあたる措置は十分に準備ができたし、更に台湾征討の 計画も進んでいる50」と、そして琉球学者-金城正篤が自分の著書『琉球処分 論』に、台湾事件は琉球処分の原点だ51という意見について、筆者は事実と多 少齟齬していると思う。. 49 50 51. 『大日本外交文書』第五巻、P.258-260。 『近代中日史源起-1871-74 年台湾事件』 、P49‐50。 『琉球処分論』、沖縄、1978 年。 22.

(23) 第四節. アメリカの建言による副島の台湾出兵論の形成 2-4-1. 台湾遠征計画の発端. 一八七一年(明治四年)に那覇を出帆した六十九人乗り組みの宮古島船が航 海中に遭難し、台湾南端に漂着したところ、うち五十四人が原住民、いわゆる 「生蕃」に略奪、殺害された事件が起きた。うちの生存者十二人が清国官民に 保護され、翌年六月七日に那覇に帰還した。この出来事が当時在琉中の鹿児島 県官伊地知貞馨を通じて同県参事大山綱良にもたらされる52。この通報に接し た大山は、七月二十八日、 「皇威ニ仗リ問罪ノ師ヲ興シ彼ヲ征セント欲ス53」と の建言を政府に対して行っていた。同時に、熊本鎮台鹿児島分営長陸軍少佐樺. 政 治 大 郷隆盛、従道兄弟、と副島らに台湾征服の勧誘に頻りに働いていた 。これ以 立 後、薩摩士族の動きと相まって、台湾事件に政府内の関心が寄せられ、事件の 山資紀は、大山県参事の通知から台湾事件を知った後、直ちに東京に赴き、西 54. ‧ 國. 學. 解決も政府にとって重要な一大課題となっている。これが台湾出兵論の始まり である。. ‧. ただし、欧米に派遣する使節団の出発が間近になっているので、敢えてこの ような時に海外に出兵するなど、通常であれば考えられないことである。そし. y. Nat. sit. て、当時の明治政府内のリーダーの位置にあった副島外務卿は、「征台」より. al. er. io. 琉球の「処分」のほうが先の急務だと思っているはずである。同年の九月十四 日、明治天皇は、琉球国王尚泰を琉球蕃王に封じ、華族に列する詔書を頒布し. n. v i n た 。その四日後(十八日)、アメリカ公使デ-ロングは、副島に宛てて書簡を Ch U i e h n c g 送り、「日本外務省から琉球蕃が設置された旨を通知されたので、琉球は日本 55. 帝国の一部だと理解するが、それでは一八五四年締結の琉米条約は日本政府が 引き継ぐのか」と問い合わせた56。副島は、十月五日のアメリカ公使への照会 に、日本は琉球の母国たる地位で琉米条約を引き受けると答えた57。この副島 による琉球に対する「処分」は列強のアメリカに認められたことで、従来日中 両属の形をとっていた琉球が日本の版図に属することを既成事実化したわけ である。通説では、副島は鹿児島県参事大山の建言に共鳴し、海外出兵を唱え 52 53 54 55 56 57. 『大日本外交文書』第五巻、P.373‐6。 『明治文化資料叢書』第四巻外交篇、P.10。 『西郷都督と樺山総督』 、P139-143。 宮内庁『明治天皇紀』第二、P755。 『大日本外交文書』第五巻、P.385。 同上、P393-394。 23.

(24) 始めたというのだが、こういう説は、彼が琉球に対する行った「処分」をあま り考えず、ただ軽率に薩摩藩士族らの台湾対策を持ち出したものであると考え る。. 2-4-2. アメリカ人の煽動. 江戸時代の歴史の伝説-国性爺合戦、台本などの流行によって、 「台湾領有」 また「日本属の台湾」という考えを醸したのである。たとえば、一六四四年、 中国明朝の遺臣で日本で生まれた鄭成功が「反清復明」のため、徳川幕府の援. 政 治 大 ん「台湾は中国ではない」、 「日本人である鄭成功が台湾を占領した」などの先 立 入観を持ってしまった。だから江戸の台湾に関する記載文献には、台湾を中国 助を願っていたことが小説と演劇化されて流行し、そして日本人の中にだんだ. ‧ 國. 學. とは別にしたものがある(西川如見-『增補華夷通商考』、新井白石-『外国 通信事略』、古屋野意春-『万国一覧図説』など)。そして、幕末に入ってから. ‧. 西洋の外圧の脅威下で、日本は「開国進出」の観念が生み始めた。佐渡信淵、. sit. Nat. 湾領有」の考えも同時に盛んになっている58。. y. 吉田松陰、島津斉彬などが、朝鮮、満州、中国本土に進取するのを提唱し、 「台. al. er. io. 一八七二年(明治五年)九月、副島外務卿によって琉球に対する「処分」が 下され、一方的に琉球を日本の一部だと主張し、そしてアメリカの支持を得た. n. v i n ことで、事実に琉球における日中談判においては、 日本側は優位に立っている。 Ch U i e h n gc ただし、副島はもし更に台湾を望んでいれば、必ず主権国中国の反対と列強の 干渉を受けざるを得ない。だからいくら幕末以来台湾占領の思想が残ってても、 当時の明治政府にとっては、無理があることは十分知っていたはずである。な のに、副島がその後「台湾出兵」に積極的な意向を示したのはなぜでしょう。 前述したように、駐日米国公使デーロングは、一八五四年の米琉条約の条 項を日本政府が遵守するかどうかを訊ねるため副島に書簡を送ったが、デーロ ングはちょうど琉球民の殺害されたとの情報に接したので、副島に日本政府の 対策を打診した59。副島は、やがて日本政府が台湾原住民懲罪の処置をとるで あろうことを知らせ、また台湾についての詳報と地図の写しを彼に聞き求めた 58. 松永正義「台湾領有論の系譜-1874 年台湾出兵を中心に-」 、『台湾近代史研究』創刊号、 1878 年 P.15-17。 59 『大日本外交文書』第五巻、P.385。 24.

(25) 60. 。こう見ると、日本は台湾の事情をよく把握してあらず、台湾出兵に向けて. の準備が整っていないことが分かる。そこで、日本のリクエストに応じるため、 デーロングはワシントンに帰る途中だった元アモイ駐在米国領事リゼンドル を招いて、日本政府に対する台湾情報の提供に当たらせた。リゼンドルは、一 八六七年に起きた米国船ローバー号が台湾で遭難事件を処理のため、同年の九 月に台湾に上陸して調査を行っていた。そして、原住民の頭目と難破した欧米 の船員の安全を保証するための条約を協議し、台湾南部琅橋の辺りの地図も入 手した61。その後、リゼンドルはまた藩地に入り、遊歴し見聞したことを 「Reports on Amoy and the Island of Formosa」と題する報告に書いた62。こ のように台湾藩地に経験豊富で同じく漂着民事件を取り扱った彼にとっては、 琉球人の遭難事件には当然強い関心を持ったに違いない。. 政 治 大 那にて管轄といへとも其の命令も行はれされは即浮き物にて取るものの所有 立 物と相成可申候 」という見解を示していた。この浮き物とは、国際上はどこ. 一八七二年(明治五年)九月二十三日、デーロングは副島を訪問し、彼は「支 63. ‧ 國. 學. の国にも所属していない無主の地を意味し、日本が先占国として台湾を占領し たら、「我有睦の国にて他国の地を所有し広殖する儀は好む所にこれ有り候64」. ‧. とデーロングが仄めかしている。翌日(24 日)と 26 日の二回にわたって、副 島とリゼンドルとの会談が行われた。リゼンドルは台湾島南部の重要性を唱え、. y. Nat. sit. そこに砲台を建設すべきだと建言した65。. al. er. io. 副島はデーロングとリゼンドルと会談する一方で、台湾対策を同時に進行さ せていた。十月一日、外務省は台湾問題に関する意見書を太政官に提出した。. n. v i n これは後に第一覚書と呼ばれる C h。この覚書は、軍事的志向を残しながらも、 U i e h n c g 交渉路線が優先されたものである。その要点は、琉球藩王は「日本順従の良民」 66. であり、宮古島民が遭難したことを中国に問罪するという内容である。更に、 「清国政府台湾島の生蕃に開化を導くを怠り土蕃は現実未開の地の如く空嚝」 であり、 「西人の我が近北に在て殖民するを好まざる」から、 「もし支那政府に て此地を有するを好まずば、西人の手に落とさんよりは、もしろ我国より此地. 60. 同上、p.402。 『中日韓關係史料(同治朝)』、中央研究院、P525。 62 『台湾藩地事物産与商務』、台湾文献叢書第四十六種、1960。 63 『大日本外交文書』第七巻、P5-8。 64 『大日本外交文書』第七巻、P10。 65 『大日本外交文書』第七巻、P11。 66 『台湾記事』第一稿、P20。 25 61.

(26) を領すべし」67との清国政府に対する先住民対策の無能さへの批判と日本政府 の領台希望を表すものである。しかし、この外務省の意見書は、元はリゼンド ルが副島外務卿に提出した意見書を基にしたものである。デーロングの琉球遭 難事件への関心とリゼンドルの出現、両者による副島への台湾領有への教唆な どを総合的にを考え合わせると、アメリカの政府要人が日本の「台湾出兵論」 の形成に与えた影響力は看過できないものである。むしろ、「琉球処分」に精 一杯で「台湾出兵」の実行性すら考えてなかった副島が、強国たるアメリカの 意見に次第に乗りかかっていたと言えよう。. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. 67. i n U. v. 早稲田大学社会科学研究所編、「生蕃処分ニ関スル日本政府意見書覚書」 、『大隈文書』第一 巻 26.

(27) 第三章. 台湾出兵の具体化と日本の国内情勢. 第一節 3-1-1. 副島が主導する対清外交 リゼンドル覚書の提出. 「第一覚書」の提出後まもなく、リゼンドルは「第二覚書」を外務卿のもとに 提出した。前述したように、「第一覚書」は外交手段によって台湾問題を解決 しようとするのにたいして、「第二覚書」は中国との談判が決裂することを前 提にして立案された軍事作戦計画である。そして、仮に実際に日中戦争が起き た際に、必要な兵員数、戦術、また糧食と兵力補給までもが詳しく記されてい た。この「第二覚書」で特に注意すべきなのが、「虚嚇声勢ヲ与ヘノタメ甲鉄 艦ヲ清国ノ南岸及ヒ台湾ノ近辺二往来巡視セシメ」、 「澎湖島ヲ占領」すること 68 である 。 「台湾出兵」の二十年後(一八九五年)-下関条約交渉の際、日本側. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. が軍隊を澎湖に派遣しながら、中国の全権代表者-李鴻章に台湾の割譲を求め たのが、この「第二覚書」の運用と言えよう69。 「第三覚書」は、生蕃居住地(台 湾東部)における植民地論の具体策である。中に「トキトク及イーソツクノ両. n. al. er. io. sit. y. Nat. 人へ土地ノ政務ヲ取扱ハシメ、台湾南部ノ地ニモ及ホシナハ、尚ホ他ノ生蕃モ 親ク交リ結フニ至ラン。元ヨリ日本ノ士官ヘ相談ノ上政務ヲ行フヘキナリ」70と、 台湾生蕃に対する具体的な管理方法についても述べるなど、リゼンドルが自ら の台湾経験を応用したものである。 続く、「第四覚書」は「第三覚書」を踏襲しながらも、突如一転して朝鮮問 題と国際的視野から日本のアジア政策を論じたものである。「朝鮮台湾澎湖ノ 如キハ、日本帝国ノ内地ナル事明ラカナリ、日本ハ半島ナル朝鮮ニ拠有スルヲ 得ハ、之レ黄海マテ勢ヲ逞フスルを得ルナリ」と、いきなり朝鮮の拠有を促す。 さらに、「日本ハ朝鮮・澎湖・台湾の諸島ヲ併セテ、彼ノ老極倒レントスルノ 支那ヲ抱キ留タルノ勢ヲナセリ」と日本のアジア制覇を実現するのに不可欠な 戦略路線を提起した。 「皇国ノ声誉盛ニ振ルトキハ、貿易通商之道大ニ起ラン。 之、独リ皇国ノミナラス、其益偏ク外国ニモ及フハ云フヲ待サル儀ナリ。是故 ニ海外諸国モ、各平和満足ノ心ヲ以テ傍観シ、日本ヨリ前条ノ諸策ヲ充分成遂 ン事ヲ、頸ヲ跂テ希望スルヘシ」と、ここは、リゼンドルが日本を台湾出兵に 煽てる意図が伺える。彼は、文明開化した日本が朝鮮・台湾を占領することに よって、アジアにおける市場を拡大することを期待しているのがわかった。そ 68 69 70. Ch. engchi. i n U. v. 早稲田大学社会科学研究所『大隈文書』第一巻、P26。 藤井志津枝『近代中日関係史源起-1871~74 年台湾事件』、P61。 同注 1、P31-33。 27.

(28) こで、デーロングとリゼンドルは、自らが日本を極東の新興帝国に仕立てる助 力者と、アメリカ政府の代わり、勝手に日米友邦を促進させた第一人者だと思 い上がった。 大量のアメリカ国家資料を引用して書き上げた『美国與台湾』の作者-黄嘉 謨氏は、この『美国與台湾』の中で、デーロングとリゼンドルの本意を赤裸々 に暴露している。デーロングがフィッシュ国務卿へのある照会から彼の心配が 分かった。彼は、日本がごり押しの西洋列強からの圧迫を耐えかねて、再び鎖 国状態に戻り、そして中国と朝鮮と連携することで極東における閉鎖主義の蔓 延をもたらし、西洋列強にとってアジアの問題が更に解決しにくくなることを 心配していた。そして彼はこう提案している。欧米各国の駐日代表は、日本政 府をしっかり「鎖国」と「攘夷」の観念を捨てさせて、更に既に腐敗している 中国と韓国を遠ざからせるか、または敵対させて、極東に唯一の西洋同盟国に するのが得策だとしている71。リゼンドルは、日本が地理上にアメリカに相対 的に近い国だし、明治維新を経て何年も経ったので、アメリカ政府は同情の上 で日本と共存共栄し、お互いの利益を守るべきだと72。ただし、黄嘉謨氏は、. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. それはリゼンドル個人の私利による架空な理論であるとする。彼は、デーロン グのようにアメリカの利益を着目しているほか、彼が、中国が再三に起きた遭 難事件への処理が怠けているのに対して、なんらかの決断をつけたかった。そ して、中国への報復行為とも言える73。. n. al. er. io. sit. y. Nat. 今までの研究では、上述の黄氏以外あまり台湾出兵に関する米国の動向を注 目しないままできたため、リゼンドルとデーロングの動機についてまだ今後の 研究にあたって重要な素材になるが、ただいずれにせよ、リゼンドルの出現と 彼の建言により、当時の外務省に「琉球民遭難事件で中国を翻弄していいんだ」、 「台湾は取るべきだ」といったメッセージが寄せられた。. Ch. engchi. 3-1-2. i n U. v. 副島の渡清. デーロングとリゼンドルの動機がどうのようなものであったにせよ、彼らの 建言は、副島の歓心を買った。彼がリゼンドルと会見し意見を交わした後、 「共 74 ニ語ル半日ニシテ相見之晩キヲ恨ミ遂ニ伐蕃ノ策ヲ画定セシメ 」と、語った。 同年の十二月、リゼンドルは、アメリカ国務省を退職し、外務省顧問として採. 71. C.E. De Long to Hamilton Fish, Japan, November 6,1872; USNA:MID, Japan, M-133, R-21 Charles William Le Gendre: Progressive Japan, A Study of the Political and Social Needs of the Empire, (NY and Yokohama: C. Levy,1878) pp.I-V, 95-97. 73 黄嘉謨、『美国與台湾』、中央研究院近代史研究、1966、P265。 74 『明治文化資料叢書』第四巻、P35。 28 72.

參考文獻

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