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徳一と最澄との

「三 一権実論争」

南華大學外文系助理教授 郭瓊瑤

摘要

日本平安時代(794—1192)初期,天台宗的最澄(767-822)

與法相宗的德一(760 年? -835 年?)之間所展開的三一権実 論争,可說是日本佛教史上最初的教義之諍。

論爭的焦點可以歸納為兩方面,第一:為一乘與三乘之爭,

主要有兩點爭議:①是關於「無性有情」的存在性問題、 ②是 聲聞、緣覺的「回小向大」的問題,本文重點在探討「無性有 情」所衍生的「「草木有否佛性」」的問題。第二:為教學相關 的論爭,包括:教判、《法華經》註解以及「止觀」相關 的論 爭等,本文重點放在「止觀」相關的論爭,特別是德一針對智顗 (538-597 年)所說「圓頓止觀」的批評。 簡單來說,第一項 論爭為一乘思想與三乘思想的真理性;也就是說,「一乘與三 乘」到底何者是釋迦的方便說法(權),何者才是真實說法

(實);第二項為天台教學與法相教學的真實性問題;換言之,

雙方的爭議重點為:誰的教學才是釋迦的本意。以上諸多論點的 爭執,後代學者常以「三一權實論爭」來做歸納、稱說。

那麼論爭是如何開啟的?首先,德一在其《佛性抄》中提出

「三乘真實」之說,最澄讀閱之後,寫下《照權實鏡》,提出

2015/5/15 收稿,2015/9/22 通過審稿。

「三乘方便,一乗真實」的反駁。爾後,論辯就在往復之間進 行,乃至最澄死後,兩人的弟子之間仍持續著。有趣的是,德一 的著作事實上只有『真言宗未決文』流傳在世,這是寫給空海,

提出他對真言宗教學的疑問。至於與最澄爭論的所有文獻,卻全 都散佚,但幸虧最澄在其著作中,反駁德一的看法時,會先重覆 德一的說法,然後再逐次反駁,後來的學者就以此資料來研究這 場論事。兩人論辯的結果很難說誰勝誰負,但從後來的宗教版圖 來看,天台宗的勢力是凌駕於法相宗之上的。

在台灣、甚至華人文化圈,由於日本佛教的研究較為零星,

佛教學者之間鮮少言及此等論爭,更遑論研究。這個論爭已歷近 一千兩百年,由於這個爭辯關涉到中國佛教在日本的發展與變 化,故本文以一個華人佛教徒的視點來介紹此一論爭及其研究,

希望重新檢視論爭的意趣並省思此一課題在今日的意義。

關鍵詞:三一權實論爭、 天台宗、最澄、德一、圓頓止觀、無 性有情、草木成佛

(2)

目次

一、 はじめに

二、 最澄と徳一の生涯

(一)最澄について

(二)徳一について

三、「三一権実論争」の内容

(一)一乗と三乗をめぐる論争

1 一乗と三乗、どちらか真実の教説か 2 草木も仏性を有する

(二)教学をめぐる論争——主に止観に関する問題 1 止観の定義をめぐる争論

1-1 徳一の批判 1-2 最澄の反論

2 止観の事と理をめぐる争論 2-1 徳一の批判

2-2 最澄の反論 四、おわりに

一、はじめに

1

仏教が日本に伝えられたのは飛鳥期的欽明天皇の時代(538 年或いは552 年)と言われる。奈良時代(710- 784 or 794 年)

までに「南都六宗」(華厳、法相、三論、律、倶舎、成実)と いわれる仏教の宗派が整った。平安時代(794 年-1185 年/1192 年頃)の初期に伝教大師の最澄(767-822)は唐の国に渡り、

一年が経過し、日本に帰国した後、天台宗をつくり上げてい た。しかし、当時の「南都六宗」にとって、まさに「新興宗 教」と視されたので、互いによくもめていたのである。

本稿は最澄と法相宗の徳一との論争について論考したいと思 う。二人の論争はまず徳一は著作の中で「三乗真実」という法 相宗の観点を提出した。最澄はそれを読み、反論した。なぜな ら、最澄は天台宗の「三乗方便、一乗真実」の教説を受け継い でいたため、徳一に論争を起こしたわけである。この論争は 817 年からはじまり、最澄が死ぬ 822 年まで経ても終わらなか ったため、最澄の死後は、最澄の弟子が続いて論戦していた。

ここで「一乗と三乗」について、少し説明しておこう。まず、

「乗」とは「運載の義」といった意味であるが、「悟りの世界 に乗せて運ぶ」と理解によいであろう。その上に、「一乗」と は「一つの乗りもの」という。この一つの乗り物には、いかな る衆生も乗せられて、究極的な悟りの仏果に至ることができる

1 審査していただいた先生方には多くのご意見と丁寧な修正をいただき、大 変感謝しております。

(3)

と説く教えである。とにかく、「一切の衆生が皆成仏すること が可能である」の教説である。

一方、「三乗」とは「声聞・縁覚・菩薩という三つの乗り 物」であり、それぞれに乗る衆生が違い、行き着く先も違うと いう教えである。声聞・縁覚・の二乗は阿羅漢果の境地に至り、

菩薩は究極的仏果に達することができるという。その他、これ ら三つの乗り物にさえ乗ることのできない衆生もいると言われ てある。これを無性有情と呼ばれ、無種性、一闡提

(icchantika)とも言われる。すると、一切の衆生には五種類の 根性があり、すなわち、 声聞定性、縁覚定性、菩薩定性、不 定性、無種性である。これが法相宗の言う「五姓(=性)各別 説」であり、ようするに、衆生にはそもそも成仏可能と成仏不 可能な根性とを分けているのである。

三乗か一乗かの真実性をめぐる論争の由来は実に古く、イン ドにおいてすでに瑜伽派と中観派の間で論じられていたが、そ れも中国に伝えられた。瑜伽唯識学を法相教学として大系づけ た玄奘‧窺基やその弟子などは、霊潤‧法宝などの一乗家との 間で、主に『涅槃経』をめぐって仏性についての論争をされた。

しかもいずれもその決着がついていない。2日本の平安時期に、

これらの流れをうけて、最澄と徳一が対戦し、後世になって、

2 「田村 1988:173」、〔浅田 1995:247〕を参照。また、〔釋恆清 1997:231- 252〕によれば、本書の第五章「『法華秀句』中的佛性論諍—-以霊潤的「十 四門論」和神泰的「一巻章」為主」では、中国の仏性論争について詳細に検 討された。

「三一権実論争」(あるいは「三一諍論」、「権実論争」等)

と名付けられたのである。(本稿は以下「三一権実論争」と呼 ぶ)

ちなみに、二人の論争の激しさは相互に相手の蔑称からも見 られる。徳一は最澄に「凡人[臆説]」、「顛狂人」、「愚夫」

などと呼んだ。一方、最澄は徳一のことを「麁食者」、「謗法 者」、「北轅者」、「短翮者」等と罵倒した。最澄のこうした 態度は強い危機感の現れと考えられる。3

台湾では、日本仏教についての研究に盛んでいると言えな く、「三一権実争論」という議論もあまりされていない現状で ある。しかし、この論争の課題は中国仏教にも関連されるので、

中国仏教を日本人がいかに受け取り、そして変化していったの か、実に興味深いことであろう。

二、 最澄と徳一の生涯

(一)最澄について

最澄は平安時代の近江国(現在の滋賀県)の人で、中国後漢 の子孫であり、いわゆる中国系帰化人と伝われている。778 年 13 歳で国分寺の行表を師として出家した。785 年に東大寺戒壇 で具足戒を受け国家公認の僧となったが、その後、比叡山に入 り、修行した。

3 〔末木 1993:226-227〕参照

(4)

802 年に京都高雄山寺において法華三大部の講義を行った。

804 年7月には唐に渡り、9月に明州に着き、10 月に行満を訪 れた。805 年 4 月には順暁に密教を学び、同年 6 月に 帰国した。

806 年、桓武天皇の支持を受けて天台宗を創設した。その年、

最澄は40 歳であった。

812 年に空海から金剛界潅頂を受けたが、弟子の紛争のため 816 年に空海と絶交してしまったので、死ぬまでもっぱら二つ の激しい論争に晩年の精力を使い果たす。一つは大乗戒壇設立 を求める運動と論争であり、もう一つは会津の徳一を相手とす る教理上の論争である4

817 年から、徳一への反論として『照権実鏡』(一巻)を著 し、818 年に『守護国界章』(上中下三巻)をあらわした。

820 年に『顕戒論』(上中下三巻、 821 年に『法華秀句』(上 中下三巻)などの著作をした。 智顗の『法華文句』を意識し ての命名と思われるが、『法華経』が、他の経典より勝れてい ると主張しょうとしている。この著作が徳一との論争の最後と なった。

こうして 817 年から 822 年6月に亡くなるまで、徳一との論 争を続けていた。没後の7日後に、念願の大乗戒壇の設立が許 可されることになった。

最澄は天台大師の法門を受け継ぎ、法華一実の教えを説いて 南都諸宗を打ち破り、大乗仏教を発展させ、日本仏教界に大き な功績を残したと評価される。

4〔末木 1996:93-94〕参照。

(二)徳一について

徳一は徳溢、得一とも書く。生没年代については諸説があり 一定ではない。現在徳一についての基本的な史料は、最澄の著 作や空海の書簡などに見られる記載のみである。徳一について、

最澄と空海の記述中に共通するところから、徳一が都から東国 へ移ったことや会津に住んでいたことが明らかとなっている。

5

また徳一とは、若い時に都に法相教学を習んだこと、長じ ては東国に移住して教化に精進し「徳一菩薩」と尊称されてい たこと、そして、法相教義を固守して最澄と大論争したという ことが事実として伝わっている。

徳一の著作として現存するのは空海の教学への疑問を呈示し た『真言宗未決文』のみである。そのほかはすべて目録に載せ られた書名、あるいは他師によって部分的引用せられたことに よって分かった書名である。他にも『仏性抄』、『中辺義鏡』、

『慧日羽足』等が著してとされる。

現在、慧日寺跡(福島県耶麻郡磐梯町)には徳一の墓と伝え られる五輪塔が残されている。

5 最澄は徳一のことを「奥州会津県溢和上、麁食者弱冠去都、久居一隅」と 記述している。一方、空海の徳一宛書簡(『高野雑筆集』)の中には、「聞道 德一菩薩戒珠冰玉,智海泓澄。斗藪離京,振錫東往。(斗藪は頭陀とも訳さ れ、dhūṭa の音訳である。)始建法幢,開示眾生之耳目。大吹法螺,發揮萬 類之佛種。世尊慈月,有水影現,菩薩同事,無趣不屆。珍重珍重。」とある

〔田村 1988:158-159〕参照。

(5)

三、「三一権実論争」の内容

論争の内容は大きく分けると、一乗思想と三乗思想の真実性 をめぐる論争と天台教学と法相教学の真実性をめぐる論争と、

という二種類である。

(一)一乗と三乗をめぐる論争

1 一乗と三乗、どちらか真実の教説か

徳一と最澄との論争はいかに始まったのか。それは徳一の著 した『仏性抄』(現存せず)とされている。ここで徳一は『法 華経』が方便の教えであると提出した。最澄が東国の旅に『照 権実鏡』一巻を著し、それによって徳一へ反論した。6『照権 実鏡』は、実はわずか 12 ページで、この書名の意味は、権

6 『照権実鏡』の後書きに以下のようにと記されている。(伝教大師全集 巻二p.11-12)

「弘仁八年歳次丁酉二月日。依陸奥『仏性抄』。判『法華経』為権。

且作此鏡。伏願同法。早息謗法。同入一乗海。」

「陸奥」は徳一の所在で、徳一のことを指す。徳一が著わされた『仏性 抄』には、『法華経』を判定し、方便(権)の教説と決めつけているため に、この『照権実鏡』を作ると指摘されている。『照権実鏡』は、実はわず 12 ページで、この書名の意味は、権(=方便)の教えと真実の教えとを 照らし出し、区別するための鏡、ということである。

(=方便)の教えと真実の教えとを照らし出し、区別するため の鏡、ということである。7

『照権実鏡』を書かれたその後、翌の818 年には最澄は続 けて『守護国界章』を撰述した。『守護国界章』の冒頭には、

「中辺義鏡三巻、盛破天台法華義」と記され、徳一の『中辺義 鏡』が天台法華思想に対する反論書であことが分かる。 しか し、最澄の『守護国界章』はまた徳一の『中辺義鏡』に対する 反論である。『中辺義鏡』は現存していないが、幸いに『守護 国界章』の中には徳一側の資料を一文一文あげて最澄が反論し ているので、その紛失した徳一側の『中辺義鏡』の本文が、ほ ぼ保留されている。8

7 『照権実鏡』には十項目の理由で『涅槃経』、『摂大乗論』、『大薩遮尼 乾子経』、『楞伽経』、『法華経』、『法華論』など、十点の経文を引用し ながら、その解説を加えて、一乗こそが真実の説であり、三乗は方便である に過ぎず、従って一乗を説く法華経は真実の経典であることを主張するの で、一乗は方便であるとする徳一の『仏性抄』を真向から否定するものであ った。

8 田村晃祐編『徳一論叢』第七資料が『中辺義鏡』の本文を復元した。しか し、〔田村 1988:168-169〕によれば、徳一の『中辺義鏡』は最澄の『照権 実鏡』を批判するわけではなく、道忠教団によって書かれたと思われる『天 台法華義』とでも称すべき書であった。そこで、浅田正博氏は『中辺義鏡』

の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではない かと異議を提出した。〔浅田 1995:249〕、〔浅田 2011 報告紀要〕を参照。

(6)

『守護国界章』は計 9 巻となっている。9一乗と三乗をめぐ る論争がその巻下の箇所で現れている。最澄は徳一のことを

「麁食者」と呼び、「麁食者曰」(麁食者は曰く)以下は徳一 の論述であり、最澄の反論を「弾曰」(弾じて曰く)と記して いる。10その論争に関しては、主に法宝11の一乗教学と、華厳 の一乗思想を二つの軸として、論戦往復がなされていることが 知られている。12

『中辺義鏡』を書いた後、徳一は『遮異見章』と『恵日羽 足』とを著して、最澄の『守護国界章』を反論しつづけた。13

9 『守護国界章』は上、中、下三巻に分かれ、それぞれの巻がまた上、中、

下三巻に分かれ、計九巻となっている。『伝教大師全集 巻二』に収まれ、

530 ページに及んでいる。

10 麁食者は粗食を食べる者を指し、物事をよく吟味していない徳一のこと を軽蔑する用語である。「弾曰」の「弾」は「弾じること」で、反論、論駁 することを意味している。

11 〔師 2004 :77〕によれば、法宝(六二七~七〇五?)もまた、玄奘の帰 国直後、慈恩大師基や淄州大師慧沼ら法相宗の諸師との論争によって名を知 られており、 また幸いなことに比較的テキストが多く現存している。 しか し、時に「涅槃宗」という肩書きで呼ばれる法宝が執筆した北本涅槃経の注 釈書については、 残念ながら巻九・十が韓国において発見されているにと どまり、その全容をうかがうことが困難なのは誠に遺憾である。

12 〔浅田 1995:255〕を参照。

13 〔浅田 1995:253〕によれば、『遮異見章』は鎌倉時代に笠置の貞慶が『法 華開示抄』にて、わずかながら引用していることが判明している(日本名僧 論集『最澄』田村晃祐)。その引文の態度から本書は全面的な『守護国界 章』への反論書であったろうと推測できる。

論争の後期に最澄が『法華秀句』を撰述する。『法華秀句』は 智顗の『法華文句』を意識しての命名と思われるが、『法華 経』が、他の経典より勝れていると主張しょうとしている。こ の書が「上の本、上の末、中の本、中の末、下」の各巻という 変則的五巻本構成となっている。しかも「中の本、中の末」の 二巻が他の三巻と内容的に異なっているので、後世に他著が混 入した可能性があると推測されるなど、問題の多い書物である。

14ともあれ、『法華秀句』の上の本•末の二巻は明らかに論争 書としての内容を有している。この著作が徳一との論争の最後 となった。最澄は翌年の 822 年に亡くなった。まさに生涯の情 熱を徳一への論争を燃やし尽くしたといえよう。

以上、一乗か三乗かいずれ真実であることを双方は論議しあ った。なぜそんな論議が起こったのか、それは仏教の経典は、

すべてお釈迦様が「金口所説」と昔の人はそう思い込んだので あろう。したがって、経典の相異ないし矛盾するところに対し てはかなり困惑したのである。今日にわれわれはすでに仏教経 典が実は異なる時期に、異なる人たちに書かれ、異なる思想を 伝達するものということを分かっている。この議題に関する論

また『恵日羽足』にかんしては、〔田村 1988:174〕によって、源信の

『一乗要決』の中に、『恵日羽足』からの引用文があるが、それによると、

小乗と大乗では、悟りに至る方法が異なることを述べ、十二の文章を多くの 経論から引用しながら、定性の声聞•縁覚と無性有情の成仏しないことを証 明している。これらの内容は一乗•三乗論争の具体的な内容をなすものであ る。

14〔田村 1988:171-172〕、〔浅田 1995:254〕を参照。

(7)

争が今から考えれば、あまり無意味なことかもしれないが、二 人の学問僧は往復に論議しあった過程で、自分の思想を段々つ くりあげた。しかもその真理に対する熱情を抱く強さを見せて くれたと思う。

2 草木も仏性を有する

一乗と三乗の論議の中で、もう一つの問題が浮上しており、

それは仏性のことである。

前にも述べたように、すべての衆生が成仏できるか否かの問 題は、法相教学の「五性各別説」から導き出された問題でも言 える。「五性各別説」とは、人間に悟りの可能性について五種 類の相違があることを主張する法相宗の考え方である。前にも 述べたように、五性とは声聞定性、縁覚定性、菩薩定性、不定 性、無種性の五種類である。第五の無種性はまた無性(成仏の 可能性が無し)、一闡提15とも称され、成仏の種を全くもって いない人々である。16しかし、天台教学を承けた最澄が第五の 無種性すなわち無性有情(仏性を持ってない有情)の存在その ものを認めない。有情の衆生なら、全て成仏するはずである。

にもかかわらず、草木という無情さえ仏性を有すると主張した。

15一闡提はサンスクリットのicchantika の音写であり、略して闡提と称され る。断善根、信不具足と漢訳されるが、「下田 1997:357」によれば、望月 の言う「一闡提とは利養貪著者を指す」との理解を支持することになる。

16 「田村 1988:p.186」を参照。

「草木も仏性を有する」という主張はすでに中国にあったの である。台湾の仏教学者〔釈恆清 1997:254-258〕によれば、三 論宗の祖師である吉蔵(549-623)が著作の『大乗玄論』に明 確に「草木でも仏性を有する」と言ったが、これが「一切は真 如である」という前提に言及したわけであり、「草木は自主的 に成仏する」とまでは言っていない。17天台宗の中興の祖とさ れる湛然(711 年-782 年)がもっと積極的言い方で「草木は仏 性を有する」と述べたが、同様に、「草木成仏」とは言ってい ない。18

最澄もやはり「草木のような非情も仏性を有する」という考 えを持っていた。〔木内 堯大 2008:190-191〕によれば、最 澄の非情仏性義を具体的に示す箇所は、『守護国界章』下巻の みと言える。19そこに、法宝『一乗仏性究竟論』をめぐって、

非情仏性義への言及が見られる。法宝は、『涅槃経』の「非佛 性者,所謂牆壁瓦礫,非情之物故」という文を採用し、非情に は仏性が認められない立場を取る。この法宝の文に対して、徳 一は以下のような批判を述べている。

17 〔釋恆清 1997: 258〕を参照。

18 〔釋恆清 1997: 260、269〕を参照。

19 〔木内 2008:190〕によれば、最澄の非情仏性義の根拠として示されるの は、『註金剛錍論』、『払惑袖中策』、『守護国界章』下巻などである。このう ち、、『註金剛錍論』は最長の序文に非情仏性義への言及がみられない。また、

『払惑袖中策』は偽撰の可能性が高いとされている。したがって、最澄の非 情仏性義を具体的に示す箇所は『守護国界章』下巻のみと言える。

(8)

麁食者曰:又彼所引:「非佛性者,所謂牆壁瓦礫,非情 之物者。」此非誠證,理性遍故。通有無情,一切有 情,同名仏性。此有情邊真如,同有覚智性,故皆名仏 性。非情邊真如,無覚智性,故非名仏性。

徳一は有情の辺の真如は、覚知の性が有り、仏性があるとす る。一方、非情にも理仏性は遍在するが、行仏性が存在しない ため、非情の辺の真如には覚知の性が無く、非情は非仏性であ ると法宝を批判する。

これに対して、最澄は以下のように批判を加えるのである。

弾曰:此亦非爾,未解三非故。非如来、非涅槃、非仏 性,此三非者,非「永非」故,約「位非」故。若言牆 壁瓦礫,非情之物 ,永非仏性者, 即為心外有色等 法, 深違唯心大乘理教 。若言有情邊真如,同有覺智 性,故皆名仏性者,真如遍故。 覺智之性, 無性可遍。

其畢竟無性 ,豈非有情。20

最澄は湛然(711 - 782)『金剛錍論』の論法を用い、「非如 来」、「非涅槃」、「非仏性」という三非は、永遠に非ではな く、位によって非としているのであり、もし、牆壁瓦礫などの 非情の物には永遠に仏性がないというのであれば、心の外に色 などの法が有ることになり、深く唯心の大乗の理教に相違して いると主張する。概ね湛然『金剛錍論』に依拠していると言え

20 〔伝教大師全集 1989(1927)卷二:524-525〕

るが、約位という発想は湛然にはみられないものである。位と はおそらく段階、時期の意味であろうと筆者は思う。

また、「覚知の性」に関する最澄の見解も不明瞭である。最 澄は非情に覚知の性質を認めるという見解に立つべきであろう が、徳一の論理の矛盾を攻めるのみで、自らが覚知の性質を認 めるとまでは断言していない。覚知の性とは、自ら主体的にか く覚る性質と理解すべきであろう。最澄以降は、このことが問 題とされ、草木に自ら発心し、修行して覚る性質があるかとい うことが論点となる。従って、最澄には草木発心修行という発 想が未だ不十分であったと言えるであろう。

日本の学者たちは最澄の考えはおそらく日本古代からのアニ ミスディックな生命観(精霊崇拝)であったと言っている。21 天台思想はこのような日本人の要請によく合ったのである。天 台宗は後世、この種の方向の頂点として本覚思想を生んだ。本 覚思想は、山や川、草や木すべてが仏性を有する、つまり、仏 となることができると容易に至る。22

(二)教学をめぐる論争——主に止観に関する問 題

21 〔立川 1998:153〕を参照。又、〔梅原 2005:94〕によれば、日本人は…す べてのものは神であり、神性をもっています〔と、考えています〕。

22 〔立川 1998:57-58〕を参照。

(9)

教学をめぐる論争は教判と止観と 『法華經』の解釈に関す る三種類の論争が含まれると浅田氏は指摘した23が、本稿では、

主に止観についての論争にしぼってみようと思う。

何故かというと、教判とは教相判釈の略語で、中国をはじめ とする漢訳仏典圏において、仏教の経典を、その教相(内容)

によって、高低、浅深を判定し、解釈したものである。法相宗 は三時教判を主張し、24 それに対して、天台宗は五時八教判 を主張した。25 最澄の時代には、すべての仏教経典は仏陀に より、四十五年間に述べられたと一般には信じられていた。天 台教学が重視する『法華經』は最後の時期に説かれ、釈迦のも っとも重要な教えであるとしていると言う。最澄はその説を引 き継いだが、相手の徳一は仏教経典のあるものは仏陀の滅後、

数百年を経て成立したと主張する。26

しかし、現在の研究によれば、仏教経典は著者や時代によっ て作られたものと判明しているが、最澄と徳一の論争には教判

23 〔浅田 1995:255〕参照

24三時教判とは、釈迦の説法を①有教(小乗)、②空教(般若経)、③中道教

(解深密経および他の大乗教)の三時期に分けることをいう。

25 釈迦の説法を五時期(=五時)に分けたものとされる。五時とは①華厳 時;華厳経を説き、②阿含時、③方等時、④般若時、⑤法華涅槃時;法華経 と涅槃経を説いたとする。

八教とは「化法の四教」と「化儀の四教」とに分けられる。このうち「化 法の四教」とは、釈尊の教えの内容を深浅から分類したもので、蔵教・通 教・別教・円教の四つをいう。「化儀の四教」とは、衆生を教え導く方法を 分類したもので、頓教・漸教・秘密教・不定教の四つをいう。

26 〔立川 1998:19〕

や、『法華經』の解釈に関する論争は、現在からみて、もうあ まり意味がないであろう。

では、何故止観についての論争を検討しようかというと、そ れは徳一が天台大師智顗(538 年 - 597 年)の所作の『摩訶止 観』への批判をしたからである。中国系仏教徒の筆者にとって、

智者大師と称された智顗を批判したことにこころが引かれた。

そして最澄はどう答えたかに関心があったためである。

では、まず『守護国界章』の卷上の下で見られる「止」と

「観」をめぐる二人の論争を見てみよう。27

1 止観の定義をめぐる争論

「止」と「観」は「寂止」(シャマタ,śamatha,奢摩他)

と「余観」(ヴイパシュヤナー,vipaśyanā ,毘鉢舎那)とも 呼ばれる。止とは精神を集中し、心が寂静となった状態であり、

観とは対象をありのままに観ることを意味する。一般には、止 に観が続くと考えられており、この二つをまとめて「止観」と 呼んできた。

〔立川 1998:140-141〕によれば、「シャマタ」(止)と

「ヴイパシュヤナー」(観)という一組の呼び方は仏教以外の 文献には見られない。しかし、ヨーガの行法は仏教、ジャイナ 教、ヒンドゥー教において共通した点が多く、ほぼ止と観にあ

27『大正蔵』続諸宗部 (五) 第 74 巻 - No.2362 を参照。

(10)

たる段階はジャイナ教やヒンドゥー教のプロセスにも見出され る。28

1-1 徳一の批判

『守護国界章』には、最澄と徳一の止観に関する論争が記録 されている。ここでは、徳一が天台大師智顗(538 年 - 597 年)の『摩訶止観』などに見られる説を批判するのを紹介した 後、それに対して最澄が答えるという形式がとられている。

徳一は、智顗が止および観を個人の精神生理学的な様相とは とらえずに、個人の経験を超えた根源的なものとして考えてい ることを批判している。徳一は次のような智顗の説を引用する。

邊主(=智顗)釋「止觀」名,云:「法性寂然名止,

寂而常照名觀」。 雖言初後,無二無別,是名圓頓止觀。

漸與不定,置而不論。29

「辺主」とは、徳一が天台大師智顗を貶した呼び方であり、

徳一の批判の中心は『摩訶止観』に見られるこの智顗の説であ る。止観とは伝統的な解釈で「心に約す」もの、すなわち修行 者の精神.生理学的側面を指すものである。しかし、智顗は

「法性寂然なる」を「止」と呼び、法性の「寂にして常に照ら す」を「観」と呼んでいる。これは「境に約す」、すなわち、

28 〔立川 1998:140-141〕

29 〔最澄 1989(1927)巻二:302〕

個々の修行者の心の客観的対象(境)として観を把握する仕方 であり、誤りである、と徳一は主張している。

法相宗の徳一は典拠としては4世紀頃の仏教ヨーガの修正で ある『瑜伽論』から取意引用して言う。

『 瑜 伽 論 』 云 : 「 止 名 靜 慮 、 等 持 、 等 至 、 心 一 境 性。」(中略)「觀名思擇、智慧、通達、觀照」如是諸 名 。 又 , 約 心 名 , 非 約 境 名 。 ( 『 大 正 藏 』74, p 167- 中。)

つまり、止と観は智慧を得るための修行の手段と過程であり、

究極的存在としての法性とは切り離されて考えられるべきもの である。 しかし、そのことを智顗が知らなかったわけではな い。智顗は止観を「円頓止観」(絶対的なもの)と「漸次止観 と不定止観」(相対的なもの)に分けた。相対的な「漸次止観 と不定止観」にあっては、徳一が『瑜伽論』から引用したよう な、「心に約した」瞑想のプロセスが問題となっている。智顗 は当然そのことを知っていたと思われる。

1-2 最澄の反論

徳一の批判は実に中国の智顗をも批判した。それを受けて最 澄の反論は次のようである。

愍喻曰:汝釋名失,此亦不爾。所以者何?未了法名同 異故。法門名義,新舊不同。(中略)汝但得知止觀八名,

(11)

未了餘名。(中略)止觀異名,寧違聖教乎?汝造違失,還 害汝智也。30

最澄は、徳一が止観の八つの異名のみを知り、ほかの異名が 知らないと言っている。つまり、円頓止観や漸次止観などの名 称を知らないと最澄は徳一を嘲諷した。しかし、円頓止観や漸 次止観はあくまで智顗の作った言葉‧概念であるので、最澄の 批判はむしろ強引だと思われる。

止や観を「境に約し」という存在論的に考えることは、チベ ット仏教の一部にはあったとしてもインド仏教にはなかった。

世界は心そのものである。あるいは心より作られている、とい った唯心論的な考え方はあったが、ヨーガもしくは精神集中で いたる境地が実践者の精神生理学的状態を超えた実体である、

という考え方は少なくともインド仏教の顕教にはない。31

2 止観の事と理をめぐる争論 2-1 徳一の批判

徳一のもう一つの批判は円頓止観についてのことであり、こ れは『守護国界章』の巻上、第十一においてみられる。徳一は まず、智顗の円頓止観に関する説を『摩訶止観』から引用する。

30 〔最澄 1989(1927)巻二:302-33〕

31 〔立川 1998:146〕

麁食者曰:「邊主曰:『今言絕待止觀者,絕橫竪諸待,絕 諸思議,絕諸煩惱諸業諸果,絕諸教觀證等,悉皆不生,故 名為止。止亦不可得,觀冥如境,境既寂滅清淨,尚無清 淨,何得有觀。止觀尚無,何得待不止觀,說於止觀;待於 止觀,說不止觀。待「止不止」,說「非止非不止」,故知

「止不止」皆不可得,「非止非不止」亦不可得。待對既 絕,即非有為。不可以四句思,故非言說道,非心識境。既 無名相,結惑不生,則無生死,則不可破壞。滅絕絕滅故,

名絕待止。顛倒想斷故,名絕待觀。亦是絕有為止觀,乃至 絕生死止觀。』」

この箇所で「邊主」は智顗のことを指す。智顗は円頓止観

(即ち絶待止観)は、もろもろの思惟、煩悩、業、果などを超 絶しており、止も観もこれとして示すことのできるようなもの は存在しないという。32さらに智顗は止を四句分別(止、不止、

止不止、非止非不止)の観点からしても説くことができないと いう。

このような智顗の見解を紹介したうえで、智顗の考えるよう な円頓止観はそもそも存在しない、と徳一はいう。

今問:絶待止觀者,爲理爲事? 若言理者,如前破已。若言 是事者,現有施設,亦有安立,云何非言説道? 非心識境?

32「所言絶待止觀者:絶横竪諸待、絶諸思議、絶諸煩惱。」この箇所は『大 蔵経』第 46 冊 22-a 頁を引用する。

(12)

又若言理者,違諸經論。即經論説止觀,唯約能觀智,非約 所觀境。若言通事理者,則違自宗,不可以四句思故。若言 非事非理者,即成戲論。離理事外,都無一法故。

もしも円頓止観が存するならば、それは理と事の四句分別に よって考察できるはずだと徳一は考える。つまり、円頓止観は 理(A)であるか、事(B)であるか、理であり事である(A かつ B)か、理でもなく事でもない(非 A かつ非 B)かのいず れかであるべきである。しかし、そのいずれでもない、と徳一 はそれぞれのケースの理由を述べながらいう。その四つのケー スのいずれでもないということは、そもそも円頓止観なるもの が存在しないからである、と徳一は主張するつもりであった。

智顗は、円頓止観を四句分別の観点から考察した場合、その 四つのケースのいずれによっても表現できないゆえに、円頓止 観は言葉を超えて存在する、と主張した。それを逆手にとって、

徳一は円頓止観は理と事の四句分別のいずれのケースによって も表現できないゆえに、円頓止観なるものはそもそも存しない という。

智顗に対する徳一の批判を紹介した後、最澄は次のよう に反論する。

2-2 最澄の反論

愍喩曰:汝難不爾,未了絶待意故。汝云若言: 理者如前 破 已 者 , 此 亦 不 爾 。 先 破 不 成 , 何 得 破 已 。 若 言 是 事

者,現有施設,亦有安立。云何非言説道,非心識境者?

此亦不爾,事理有別故。汝所立事理,都不相即;山家 所立理事,圓融相即。

最澄は徳一の考える「理」と「事」は別個のものであって、

相即していない、それに対して、山家(即ち天台宗の主流派)

の考える「理」と「事」こそは圓融‧相即しているといった。

しかし、もし最澄のような考えなら、四句分別という論法が無 意味になってしまう。「理」と「事」とがそれぞれ一定不変の 論議領域を保持するからこそ、「理」と「事」の四句分別は意 味を有するのである。「理」と「事」が圓融することによって、

互いに論議領域が融和‧混同してしまったならば、四句分別な どは意味がなくなる。

続いて、最澄が「法性」(法の本質)という語によって、

「理」と「事」を限定して論じた。

法性之事,故非言説道,非心識境。法性之理,故止 觀倶理,不礙能觀。法性之事,法性之理,理事圓融,

故四句不可思。唯事唯理,常非事理。而事而理,縁起 不壞。理外無事,事外無理,何有戲論也。

「法性」はそもそも「理」の領域の言葉であるが、ここで、

最澄は「法性」を「法性の事」と「法性の理」を二つに分けて 論じた。「法性の事」は言葉でなく、心識の対象でもない。「法 性の理」は成立こそ、止と觀はともに「理」であり、観ること

(13)

できる。こうして、「法性の事」と「法性の理」とは互いに圓 融‧相即することになる。最澄の論議は〔立川 1998:149〕で 指摘したように、無理があったといえるであろう。

五、 おわりに

最澄と徳一との論争は新興宗教であった天台宗と、法相宗 をはじめとする伝統仏教との対決だと言える。その論争の焦点 は教学をめぐる論争と、一乗と三乗をめぐる論争との二つの課 題である。教学をめぐる論争について、本稿では、主に止観を めぐる論争を取り上げた。徳一は止観が実践者個人的精神生理 学的な様相であるという考に対して、中国の智顗の思想を承け た最澄は止観が個人的様相を超えた実在であると考えた。

そして、一乗と三乗をめぐる論争は結局、その両者の違いは やはり『法華経』を如何に見るかの問題に関係する。つまり、

『法華経』を真実の経典と見れば、当然そこに説かれる一乗思 想も真実(実)の教えであり、その反対側に説かれる三乗思想は 方便、手段(権)の教えであると考えられる。最澄は徹底的に 一乗を提唱し、一切の衆生が全て成仏になる上に、草木でも仏 性を有すると主張したが、草木発心修行という発想が未だ不十 分であろと思われる。しかし、最澄の考えは日本古代からのア ニミスディックな生命観(精霊崇拝)によく合っていたのであ る。天台宗は後世、この種の方向の頂点として本覚思想を生ん

だ。本覚思想には、山川、草木すべてが仏性を有する、成仏す るという説に容易に至る。

この三一権実論争の勝敗は最後まで決まらなかった。仏教は 時代の流れの中でどんどん変わっていく。今日の日本仏教の情 況から見れば、天台宗の勢力はやはり法相宗を凌駕している。

それは日本仏教のみではなく、台湾‧中国の仏教でも相似し、

法相宗は没落しているのである。

台湾‧中国の仏教研究者にとって、智顗によって創立された 天台宗が「正統派的仏教」であると思われるので、日本天台宗 が「新興宗教」であったことを驚異的だと思う。天台宗の教学 において、もちろん『法華経』が最高の経典とされるが、日本 天台宗のように、『法華経』のみを崇拝し、また日蓮宗のよう に、「南無妙法蓮華経」という経題を唱えることが中国仏教に は無かった。これはまさに日本仏教の特徴の一つともいえる。

こうした論争に反映されている日本人の本覚思想ないし草木成 仏の思想傾向は、現代の人権意識や環境生態学に対しても、な お多くの示唆が与えられると思う。

(14)

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The Controversies of Ekayāna and Triyāna between Dokuitsu and Saicho

Kuo, Cyung-Yao

Assistant Professor, Department of Foreign Languages and Literature, Nan-hua University.

Abstract

During the Early Hean period in Japan, between Saicho ( 最澄 767-822), who belonged to Tendai school, and Dokuitsu ( 德一 760 年?-835年?), who belonged to Hoso school, a series of controversies were unfolded, which are considered as the first debate in the history of Buddhism in Japan.

The Controversies can be summarized in two major aspects. The first aspect is related to the truth whether Sakyamuni’s doctrine was Ekayāna (一乘 'one vehicle') or Triyāna (三乘 'three vehicle')? In this article, I focused on the issue of "non-buddha-nature beings" (無性 有情), which will be discussed through whether vegetation (草木) bears buddha-nature or not. The second aspect is related to the teaching of Tiantai school. I emphasized the controversy of śamatha- vipaśyanā (止觀, 'meditation'). Specifically, Dokuitsu criticised the statement of Yen Dun Zi Guang (圓頓止觀) proposed by Zi Yi(智顗, 538-597年),who was the founder of Tiantai school in China.

(16)

In Taiwan, the study of Japanese Buddhism was rarely explored;

even Buddhist scholars know little about this controversy. But the controversy is concerned with the development and change of Buddhism from China to Japan. Thus, from a Chinese Buddhist's viewpoint, I attempt to re-examine this controversy in order to further reflect the sense of this issue today.

Key Words:Saicho, Tokuitsu,Tendai school, buddha-nature, śamatha, vipaśyanā

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