1 党中央の権力構造の安定度
これまでの分析を通じて、中国共産党中央において、重要な政策、
人事に関する決定権は、政治局常務委員によって共有されている、
重要ではない政策、人事に関する決定権は、それぞれの担当領域機 関のトップを務める常務委員らに分有されていることを確認した。
第一章で指摘した、常務委員会という機関への権力の帰属は、党中 央の業務部門、地方の党委員会、国務院、全人代などの政府機関に 対する「領導の集中」効果を生むが、同時に1989 年 4 月から 6 月、
北京の天安門広場での学生、市民による抗議活動への対応での政治 局常務委員の意見の不一致などの事例、いわゆる、天安門事件から 理解できるとおり、生来の不安定性を抱えている。こうした問題へ の対応として、天安門事件以後、鄧小平を始めとする指導幹部が採 った措置は、領導グループの中で最高決定権を持つ「核心」(江沢 民)をつくる、「核心」に対して、軍事力の領導機関である中央軍 事委員会の主席を始めとする、多くの担当領域を与え、日常的な権 限を集中させるとともに、国家主席を兼職させ、その権威を高める などの措置を講じた。また、常務委員の数を増やす次代の総書記後 継者を常務委員会入りさせるなどの措置を講じて、総書記が相対的 に高い権威を得ることを実現した。
また、総書記後継者である胡錦濤は、1992 年から 2002 年までの 10 年間、中央書記処常務書記として日常の党務活動の責任者となる とともに、組織人事の主管者として高層幹部人事関連業務の最高責
任者となった。そして、総書記就任前に 5 年間、国家副主席を務め るとともに、1999 年、中央軍事委員会の副主席に任命された。この ように、総書記就任前に実務上の権力と権威を付与された。なお、
こうした措置は、2012 年に開催される第 18 期 1 中全会で総書記に就 任すると思料される習近平にも講じられているようである。
胡錦濤は、総書記就任時に「核心」とは称されなかったが、江沢 民が総書記に就任した際に得ることのなかった上述のような経歴に よる、高い権威を得ていた。16、17 の両期の常務委員の中で、この ような経歴を経たのは胡錦濤ただ一人であった。17 期の常務委員の 中では、胡錦濤を頂点にした権威の階層がつくられている。こうし た権威の階層によって、高い権威を有する上層の常務委員が常務委 員会の議事決定という過程で、決定権という権力行使の主導的役割 を果たすことが多く、全体として常務委員会の運営を、つまり、党 中央の権力構造を平常継続的に安定させる効果をもたらしていると 思料される。
もちろん、この権威の階層は今後、5 年ごとの常務委員会の人事改 編によって多少の変化が生じる。18 期の常務委員会においては、習 近平、李克強の両現常務委員が権威の上層を、現在、政治局の中で 副総理、中央書記処書記を務める人物が、中下層を形成するものと 推察される61。次期常務委員会については、その形成過程で、大きな
61 習近平と李克強については、習が総書記を、李が国務院総理を担当するとみられる。
両者は、常務委員会及び政治局入りが同期(17 期)であるが、経歴上の権威の高低 については、16 期では、習近平、李克強ともに中央委員であったが、2007 年 4 月か ら10 月までの半年間、習近平は、通常、政治局委員が兼ねる上海市党委員会書記を 担当しており、李克強より経歴が若干上であるとみることができる。他方、15 期に おいては李克強は中央委員であったが、習近平は中央候補委員であり、この時点で は李克強の経歴が上であった。
政策方針、中央領導機関の人事などの決定をめぐり、常務委員の間 で、意見の不一致が生じ、この不一致が深刻化、常務委員の間の政 治的対立につながる可能性もある。しかし、現在の中国共産党の政 治過程では、こうした大きな政策方針は党大会で採択される「政治 報告」という形で、政治局などの高層人事については毎期の 1 中全 会で、それぞれ決められる。「政治報告」については、党内で広範な 意見聴取、十分に時間をかけて、複数回議論をする方法が採られて いる62。また、中央領導機関の人事については、2007 年 6 月、中央 委員、中央候補委員など約400 名に対する 17 期の中央領導機関の構 成員についてのアンケート(「民主推薦」と呼称)を初めて実施、ア ンケートの結果、得票の多かった人物への廉潔自律の調査、そして、
17 期 1 中全会での選挙という「民主的な決定」という措置が講じら れている63。こうした過程を経ることにより、また、第二章で紹介し
62 「発展中国特色社会主義的政治宣言和行動綱領―党的十七大報告誕生記」、『人民日 報』、2007 年 10 月 28 日。同報道による「政治報告」の作成過程の要旨は以下のとお り。2006 年 12 月に、政治報告起草組が設立され、胡錦濤が組長に、劉雲山と曾培炎 が副組長にそれぞれ就任し、起草組は、約10 か月の間に全体会議を 10 回、工作グ ループ会議を40 数回など、各種会議を 100 回以上開催し、50 回に及ぶ原稿の修正を 行った。同月、起草組の7つの小組が13 の省区市に派遣され、実地の調査研究を行 い、計51 回の座談会を開催し、幹部大衆と専門家学者の意見を聴取した。07 年 7 月 には、政治局の決定で、各省区市、中央各部・委員会、中央国家機関各部・委員会、
軍事委員会総政治部、各人民団体、各民主党派中央、全国工商聯、無党派人士、党 内老同志の合計5,560 人に、報告に対する意見が求められている。
63 「為了党和国家興旺発達長治久安―党的新一届中央領導機構産生紀実」、『人民日 報』、2007 年 10 月 24 日。政治局常務委員の選挙については、過去は、候補者数と当 選者数(定員)が同数の選挙(中国語で「同額選挙」)が行われていた。1969 年 4 月 28 日の第 9 期 1 中全会では、政治局常務委員の候補者指名名簿には 18 人の名前があ り、予備選挙が行われ、上位5 名(毛沢東、林彪、周恩来、康生、陳伯達)が正式 候補者となり、同額選挙が行われたようである。『毛沢東伝』下巻、(中央文献出版 社、2003 年)、1552-1553 ページ。なお、「毛沢東伝」では、73 年の第 10 期1中全会
た党規約の「集団領導、民主集中、個別協議、会議決定の原則にし たがって集団によって討論し、決定」という規定が遵守され、つま り、「制度」の手続きに従う方法でその結果の正当性(legitimacy)
が党内では担保され64、上述したような政治報告や高層人事の案につ いては、政治局常務委員など、幹部の間で不一致の深刻化、政治的 対立が生じる可能性は低くなっているものと推察される。これは、
党大会以外のより「日常的な決定」、例えば、中央委員会全体会議や 中央経済工作会議での決定や幹部の講話内容の策定についても同様 と考えられる。
また、共産党内部は、規定で、派閥、グループの存在は禁じられ ており、同一の政治的主張による派閥、グループが基本的には形成 されないという特徴がある65。組織の決定が行われた後も、引き続き 反対意見を擁しその実現をはかっていく上で、通常、主な必要策で
での政治局常務委員会などの選出過程と結果についても簡単に説明しており、選挙 の結果は、同会議前の下相談と協商の結果と同一であったとしている。前掲書、
1665-1666 ページ。ロバート・クーンの著書では、「15 期 1 中全会では、政治局委員 を選ぶ際、候補者名簿上の名前のほか、6~7 人の名前を提出することができた。そ の後、選ばれた21 人の政治局委員が常務委員を選んだ」とされている。クーンは、
「高層官員の選挙は、彼(江沢民)あるいはその他の人がコントロールしきれるも のではない」と指摘している。羅伯特・労倫斯・庫恩、『他改変了中国、江沢民伝』、
(世紀出版集団、2005 年)、250 ページ。
64 李鵬は、1998 年 12 月の中央経済工作会議での江沢民が読み上げた報告について、「こ れはよい報告であった。事前にみんなの意見を求めていた」と日記に書いており、
事前の意見徴集の過程を評価している。李鵬、『市場与調控、李鵬経済日記』下、(新 華出版社、2007 年)、1486 ページ。
65 92 年の夏、14 回党大会を前に、楊伯冰・中央軍事委員会秘書長らが、秘密裏に会議 を開くなどグループ活動をしたかどで、14 回党大会以後、楊は軍のポストから解任 され、その関係者は「左遷」されたとされている。杜林『江沢民伝』、(明鏡出版社、
1999 年)、274-278 ページ。楊中美『江沢民伝』、(時報出版社、1996 年)、268-277 ペ ージ。
あ る 決 定 過 程 の 関 与 す る 人 々 の 間 で 多 数 派 を 形 成 す る 可 能 性 は 低 い。こうした制度的措置が有効である限り、政治的対立が生じる可 能性は低いと思料される66。なお、一部西側の報道で、派閥の存在や
あ る 決 定 過 程 の 関 与 す る 人 々 の 間 で 多 数 派 を 形 成 す る 可 能 性 は 低 い。こうした制度的措置が有効である限り、政治的対立が生じる可 能性は低いと思料される66。なお、一部西側の報道で、派閥の存在や