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第四章 中世文芸作品の幽霊

第二節 軍記物語の武家の幽霊

軍記物語はその名の通り、作者の体験や見聞、伝承などを素材として、武士 集団の戦闘を中心にした叙述文学である。十世紀半ば東国で起こった平将門の 乱の顛末を描いた『将門記』、及び前九年の役の顛末を描いた『陸奥話記』は、

軍記物語の先駆的作品とされる。その他、保元・平治・治承・寿永の戦乱を中 心とした『保元物語』『平治物語』『平家物語』、後醍醐天皇即位(1318)から後 光厳天皇の貞治六年(1367)までの戦乱を中心とした『太平記』、源義経・曽我 兄弟という特定の個人の生涯を中心とした『義経記』『曽我物語』などがある。

1 苅部直・片岡龍(2009)『日本思想史ハンドブック』新書館、p.46

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戦争をめぐる軍記物語には、幽霊が登場する話は少なくない。例えば、『保元物 語』『平家物語』などの作品における崇徳天皇の怨霊にまつわる話、『太平記』

に登場する楠正成の怨霊、『義経記』における平家一門の怨霊の退治の話、ある いは『曽我物語』の曽我兄弟の怨霊など。続いては、『太平記』『義経記』『曽我 物語』を中心に軍記物語の武家の幽霊を明らかにし、さらに軍記物語に登場す る怨霊たちの役割を検討してみる。

(一) 『太平記』の考察

『太平記』は、鎌倉中期末から南北朝にかけての全国的規模の動乱を中心に 描いた軍記物語であり、具体的には後醍醐天皇即位(1318)から鎌倉幕府の滅 亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、二代将軍足利義詮の死去と細川頼 之の管領頃までの約五十年の期間を描くものである。全書は三部・四十巻から なり、その作者とその成立は今にでも不明なところが多い。本論では、「北国探 題淡河殿自害の事」(巻十一)、「伊予国より霊剣註進の事」(巻二十三)「新田義 興自害の事」(巻三十三)を取り上げて、『太平記』に登場する武家の幽霊を明 らかにする。

1. 「北国探題淡河殿自害の事」(巻十一)

淡河右京亮時治あいかはうきやうのすけときはる

は北条時盛の子である。淡河右京亮時治は元弘の乱で北国鎮 撫のために越前国の牛ヶ原というところに出陣するが、まもなく六波羅の滅亡 を聞くと、味方の軍勢が瞬く間に離反する。そうした中、平泉寺の僧兵らが北 条の所領を恩賞として越前国や他国の軍勢を誘って牛ヶ原へ押し寄せる。援軍 もなく多勢に無勢の時治は、いよいよ覚悟を決めて、二十人ほど残って敵を防 がせて、近くにいた僧を招いて女房や子どもたちに受戒させ極楽往生を祈った。

時治は妻に逃れようと諭したが、妻は愛する人と共に生を終え、埋められた苔 の下までも、一緒にいたいと答えた。結局、時治の妻と二人の子どもたちは入 水し、時治もただちに自害する。一方、越中守護名越遠江守時有、弟の修理亮 有公、甥兵庫助貞持の三人も、時治と同様の状況に直面する。そして、時治夫 婦と同じ、男は自害し、女や子どもは入水する。「その幽魂亡霊、、、、

ども、なほもこ の地に止まつて、夫婦執着の妄執、、、、、、、

を遣しけるにや」と死んだ彼らは幽霊となっ

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て、この地に留まっている。その後、越後から京都へ上る商人船がそこの浦を 通り過ぎる時に、不思議なことにあった。はるか彼方の沖合に女泣き悲しむ声 がし、渚の方で男の声がして「その舟よせて給び候へ。便船せん」と口々に呼 ぶのであった。船頭は恐ろしいと思いながら舟を着けたところ、顔白く、さわ やかな感じの三人の男が「おの奥まで便船せん」と舟の屋形の中に乗り移った。

こうして沖の潮合まで行ったところ、彼らは船頭に舟を止めさせ、三人とも漫々 と広がる波の上におり立った。そのうち、年のほど十六、七から二十歳くらい の女性が三人波の中から浮び出した。男女とも睦まじい様子でぴったりと近づ くと、急に猛火がぱっと燃え上がって、男女の間を隔てた。そして、女は思い 焦れる様子で波の底に消え入るように沈んでしまい、男は泣く泣く波の上を泳 ぎ帰っる。最後、三人の男は船頭に「屍を苔の下に埋められながら往生できな い名越遠江守、修理亮、兵庫助」と名乗って、かき消すように見えなくなった という。

時治の自害する場面において、「隔生即忘とは謂ひながら、一念五百生、懸念 無量劫なれば、奈利八方の底までも、同じ思ひの炎にぞ咽び給ふらん」と、わ ずか一度執着心をもっただけでも、五百生の長い生死にわたって永遠の報いを うけることを語る。名越遠江守、修理亮、兵庫助とその妻らは男女の妄執を抱 いて死んだので、死後にも成仏できず思いの炎に責められて続ける。

2. 「伊予国より霊剣註進の事」(巻二十三)

大森彦七は、湊川の合戦で楠木正成の腹を切らせた功績を得たことを祝って、

猿楽を興行した。その当日、舞台へ行くため山際の細道を通ると、一人の美女 にあった。彦七は行き悩んでいた女を背負っていこうとすると、鬼になった女 に襲われてくる。彦七は怯むことなく格闘に及ぶ。下人が加勢に駆けよせたと きに、鬼は跡形なく姿を消していた。この日の猿楽は中止となったが、再び開 催が計画されている。当日、猿楽が演じられていた最中、はるか海上に光り物 が二、三百も現れる。よくみると黒雲の中に、玉の輿の周りに恐ろしそうな鬼 の姿をした者たちが守り、その行列の後ろに鎧武者が百騎ほど伴をしている。

見物に集まった人々は驚き恐れるところに、その雲の中から大声で「大森彦七 に申すべき事あって、楠正成参つて候ふなり」と叫んだ。彦七は少しも臆する

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ことなく、「人死して再び帰る事なし。定めてその魂の霊鬼、、、、、、

となつたるにてぞあ るならん。それはよし、何にてもあれ、楠殿は何事の用あつて、今これに現じ て、盛長をば呼ばはり玉すぞ」と問い返し、真っ向から反論する。楠正成の怨 霊は激怒して稲妻を走らせるが、ついに退散する。しかし、なおも翌日の夜に は、楠正成をはじめとする怨霊たちは山蜘蛛、髑髏、女の首などに次々と姿を 変えて襲ってくる。なかなか怨霊が退散できず悩んでいたところに、仏僧が来 て「今現ずるところの悪霊ども

、、、、

は、皆修羅の眷属たり」と化物の正体が修羅道 に堕ちる死者の霊を語って、般若経で鬼を退治すると勧める。般若経講読の功 力によって、やがて修羅は退散し、楠正成の怨霊は二度と現れることはなくな ったという。

この話で語られた楠正成の怨霊も、後に能や浄瑠璃などの素材として扱われ ている。怨霊はしばしば生前の関わる者の前に現れている。元の敵、かつ自分 を殺した者の前に現れる楠正成の怨霊も例外ではない。この話でもっとも興味 深いのは、楠正成の怨霊が持った力である。楠正成の怨霊は稲妻を走らせたり 雷鳴を轟かせたりする力を持っているというところから、菅原道真の御霊を想 起する。また、楠正成の怨霊は自分が湊川合戦の時の姿、そして保元・平治の 乱などの戦争ですでに死んだ武者の姿を彦七に見せる。つまり、戦争と関わる 人は死後修羅道に堕ちて、阿修羅王の眷属となる。『太平記』巻十六「楠正成兄 弟以下湊川にて自害の事」において、正成兄弟は自害する際に七回人間に生れ、

朝敵を滅ぼすと誓った。

(正成は)舎弟正季に申しけるは、「そもそも最後の一念によって、善悪生を 曵くといへり。九界の中には、何れのところか、御辺の願ひなる。直にその 所到るべし」と問へば、正季からからと打ち笑ひて、「ただ七生までも同じ人 間に生れて、朝敵を亡ぼさばやとこそ存じ候へ」と申しければ、正成よにも 心よげなる気色にて、「罪業深き悪念なれども、我も左様に思ふなり。いざさ らば、同じく生を替へて、この本懐を遂げん」と契って…

(巻十六「楠正成兄弟以下湊川にて自害の事」)

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臨終の際に抱く他人への恨みなどの妄念で楠正成は修羅道に堕ちて、「最後の悪 念に引かれて、罪障深かりしかば、今千頭王鬼と云ふ鬼となつて、七頭の牛に 乗れり」(巻二十三「伊予国より霊剣註進の事」)とあったように、地獄に堕ち た楠正成は千の頭を持つ鬼となった。修羅道は六道の一つで、帝釈天とよく戦 う神である阿修羅が支配し、自尊心・我執・疑いの強い者が行く、常に争いの 絶えない世界である。『往生要集』には、修羅道に堕ちた者の住所は、「根本」

の優れた者は「巨海の底」、劣った者は「山巌」の中に住んでいると書かれる。

「雲雷が為ると天の鼓ではないかとあわてかつ畏まれ、心は常におののいてお り、諸天のたまに傷つけられて怪我をしたり、命を失ったりする。そして一日

「雲雷が為ると天の鼓ではないかとあわてかつ畏まれ、心は常におののいてお り、諸天のたまに傷つけられて怪我をしたり、命を失ったりする。そして一日

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