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中国での西洋音楽の始まり

第三章 中国について

3.1 中国での西洋音楽の始まり

清朝の教育は基本的に明朝の「科挙制度」を受け継いだ。各地の 私塾は子供の学習のための主な場所となった。授業内容は「三字経」、

「千字文」、「四書」などの中国経典文学ばかりであり科学知識はお ろか西洋音楽に触れることすらなかった59

16 世紀中期にかけてヨーロッパで大航海時代を迎え、ポルトガル 宣教師は海を渡り宣教のため次々と中国に来た。1740 年ローマ教皇 は中国のカトリック教徒に孔子や先祖の崇拝を禁止し、それが中国 の儒教思想と衝突した。そのため、清皇帝康熙は宣教活動を禁止し、

のちの雍正、乾隆皇帝も相次いでキリスト教禁止政策を公布した60。 後にアヘン戦争(1840)時に結ばれた不平等条約を利用して宣教師 達は中国各地で教会活動を再び始め、歌唱教学の「楽歌」を始めた。

西洋式学校を開いたことにより中国現代音楽教育の発展が始まった

61

教会が与えた影響

イギリス籍のスコットランド宣教師杜嘉德(Carstairs Douglas、

1830-1877)は 1855 年中国福建省廈門に宣教に来た。杜嘉德の一般 的に知られている著作には『廈英大辞典』(

English Dictionary of the Vernacular or Spoken Language of Amoy

, 1873)のほか、1862 年に 廈門で出版された『彰泉神詩』がある。その後も『養心詩調』(1868)、

『樂法啟蒙』(1869)、『樂理頗析』(1870)と『西國樂法』(1870 )が 出版された。1871 年、編集出版した 59 首の『養心神詩』(

The UnionHymn Book

)は、廈門教会に提供され使用された。1877 年杜嘉 德の兄は彼の遺品を整理していて発見したことを次のように説明し        

59 顧(1981:225)

60 顧(1981:12-13)

61 郭(2011:67)

31 

た:

「彼(杜嘉德)は中国式楽儀の研究が非常に気になっていた。

彼は漢文、聖诗の創作にも協力していたが、これは当時、人々 の信仰に影響を与える大事な役割であった。彼もそのため

Solfa

と言う音楽の本を整理した。いくつかの曲に当地の音楽

を組み合わせて編曲した。彼はこの本で書院の生徒を教えた だけでなく、またそれを使って學堂の子供にも教えており、

結果は大成功だった62」。

馮長春(2005)によると、西洋音楽には主に 2 つの伝播ルートが ある。一つ目はキリスト教の伝播及び教会学校の設立である。二つ 目は西洋式軍楽団とオーケストラの導入である。馮文慈(1998)著 書の『中外音楽交流史』の中には、以下のようにある:「1899 年、全 国の教会学校は約 2000 ヵ所、生徒は 40000 人以上、そのうち中学校 は約 10%を占めている。このような教会学校はほかの学校に比べて 音楽課程と音楽活動を比較的重視していたため西洋音楽が中国に系 統立てて伝播される良いきっかけとなった63。」

3.2 学校音楽教育の歴史

3.2.1 清朝における学校音楽教育

清末民初(つまり清朝末期、中華民国初期)における当時の政治 改革論者は日本の明治維新を見習うことや、科挙など旧教育制度の 廃止を主張して新型の学校と欧米型の学校を設立していった。当時、

そういう学校は「学堂」と呼ばれ、学校が開設した音楽の授業は「楽 歌」と呼ばれた。20 世紀初頭、新型の学校の設立に伴って歌唱文化 が生まれ、広がっていった。後に「学堂」で歌われる歌は「学堂楽 歌」と呼ばれた。

張靜蔚(2013)による 1898 康有為「請開學校折」の中に以下のよう        

62 江(2006:1-20)

63 馮(1998:257)

32 

に記載されてある。

遠法德國,近采日本,以定學制,創國民學校、令鄉皆立小學,限 舉國之民自七歲以上必入之,教以文史、美術、物理、歌樂64

日本語訳:遠くはドイツから近くは日本から学校制度を採用 し、国民学校を創立し、各郷鎮にも小学校を設立するよう命 令し、全国の七歳以上の児童は皆入学する必要があり、国語、

歴史、美術、物理、歌唱音楽を教育した。

馮長春(2005)によると 1902 年 8 月「欽定学堂章程」(壬寅学制 と呼ばれる)と 1903 年に『奏定学堂章程』(癸卯学制と呼ばれる)

の公布により西洋式学校の成立が促進された。一方、清政府も積極 的に留学を励ました。1903 年张之洞達が「学堂章程」を提案してか ら、中国から日本への留学生や観光目的の高官や紳士の数は一時的 ではあるが急激に増え、1905 年「科挙制度」が廃止されるまで続い た65

1905 年「科挙制度」の廃止に伴い学堂(学校)が作られた際、学 堂の課程の中に「楽歌」という音楽の授業が含まれていた。1922 年 から「楽歌」授業は「音楽」授業に名前を変えて小中学校の正式な 必修科目とされた66

初期の学堂楽歌は日本のそれを見習った。張靜蔚(2013)によると

「學堂樂歌的主要創作方式是將歐美日本的歌謡曲換成中文歌詞演唱」

つまり「学堂楽歌の主な創作方法は欧米や日本の音楽授業の歌われ る歌のメロディーを用いつつ歌詞を中国語に換えるというものであ る」とある。そこからも初期の学堂楽歌は日本のそれを見習ってい たことがわかる67

       

64 張(2013:12-15)

65 馮(2005:15)

66 陳(198:190)

67 張(2013:1-2)

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日本政府は 1872 年(明治 5 年)から小中学校に歌唱、音楽課程を 設置することを規定し、当時シリーズからなる音楽の教科書が編纂 されて、音楽学校で専門的に訓練を受けた人材が近代作曲方法を用 いて大量の新しい歌を作曲した。1900 年から沈心工、李叔同、辛漢、

華振、蕭友梅など一団の中国人留学生が日本で新しい音楽教育訓練 を受け、その中の多くが後に楽歌運動、中国近代音楽教育の先駆者 となったのである。

学堂楽歌に与えた影響

後に戦争が始まったため、愛国主義のブームが巻き起こり、大量 の愛国歌謡が作られた。このように「楽歌」すなわち中国語で言う 歌謡曲が大流行していったのである。抗日戦争時期の部隊には文芸 隊が設立された。例えば「抗日軍政大学文芸工作団」、「延安部隊芸 術学校烽火劇団」などである。戦争が終わり中華人民共和国成立後、

文芸工作団の専門化が強化された。そのために 1951 年に各軍区の文 芸工作団を一つにまとめ、中国人民解放軍総政治部の文芸工作団を 設立した68

3.2.2 中華人民共和国における学校音楽教育

郭聲健(2011)によると中国小中学校音楽教材程発展過程69は六段        

68 中国人民解放軍総政治部の文芸工作団:中国人民解放軍の文芸工作団の主な目 的は、政治的な思想を宣伝し政治的な考え方を人々に植え付けることである。革命 戦争当時、各文芸工作団(隊)によって中国共産党の各時期の任務、方針や政策、

人民大衆と部隊の中の英雄の業績などを、芸能番組、芝居、音楽、ダンス、曲芸、

雑技などの創作を通して、愛国主義、国際主義、革命の英雄、共産主義精神を称揚 し、士気を鼓舞した。

HP:http://baike.baidu.com/link?url=6PXPJy7jiyLkOz077CQ4GDiThGITK5Y3edTYNFC2Gc3 KrR-YW684DMpWhPNGj52N2m_NjU-P7yTXlqlUwQnEqq

69 郭(2011:68-84)

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階に渡る:

第一段階は学堂楽歌時代(1902-1919)である:この段階で初めて音 楽教科書が出版された。教材の主な内容は歌唱であり、日本と欧米 の民謡に中国語の歌詞がつけられて学校音楽教育において広く歌わ れた。西洋音楽教育が学校音楽教育の主流になった。

第二段階は音楽教材の初創期(1911-1949)である:この段階では 1912 年 9 月国民政府は小学校令と中学校令を頒布する。小学校令と 中学校令に基づいて新しい教材が作られた。日本、ドイツに留学し 帰ってきた音楽家は留学先で学んできた器楽、作曲の概念、五線譜 を学校音楽教育に用いた。それらに加え小学音楽標準課程を制定し、

革命歌曲を音楽授業の際に教えた。当時学校の音楽授業は「歌唱課」

と呼ばれていたがそれを「音楽課」と言う呼び名に変えた。童謡、

愛国歌謡、フォークソングなどが大量に作られ、いろいろな教材が 出版された。

第三段階は音楽教材の転形期(1950-1966)である:戦争が終わって 1949 年中華人民共和国が成立し、教育は全面的にロシアのそれを見 習った。標準課程もロシアのそれを参考にして制定した。音楽教科 書はロシアの音楽本を翻訳し五線譜が用いられた。この時期多くの ロシア音楽家が中国に来た。また小学校の音楽教科書に多くの革命 歌謡曲、共産党を称える曲、政治思想的な曲などが載っており、広 いジャンルの曲が音楽授業に取り入れられた。今日まで小学生によ って歌われている『我們不要戰爭─中國少先隊員之歌』と『中蘇兒 童友誼之歌』曲はロシアの作曲家が作ったものである。

第四段階は音楽教材の非常期(1966-1976)である:中国は 1966 年 に十年にわたるプロレタリア文化大革命で、当時多くの知識人が迫 害を受け、学校が休校になり、文化活動が荒廃し、多くの研究機関 が閉鎖され、一時期のあいだ「文化断層」、「科技断層」、「人材 断層」がもたらされた。以前各地で編纂された教材の使用が禁止さ れ、小学校音楽課という名称は革命文芸課という名称に変えられ、

小学校音楽課の内容は『毛主席語録歌』と革命歌謡曲を教えるよう

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強いられた。

第五段階は音楽教材の回復期(1976-1985)である:文化大革命が終 わり、中国全土の基礎教育の復興時期である。1979 年『全日制学校 中小学音楽教学課綱』が公布され、小学音楽教学の内容は歌唱、音

第五段階は音楽教材の回復期(1976-1985)である:文化大革命が終 わり、中国全土の基礎教育の復興時期である。1979 年『全日制学校 中小学音楽教学課綱』が公布され、小学音楽教学の内容は歌唱、音

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