第二章 台湾について
2.1 台湾での西洋音楽の始まり
西洋音楽が台湾に伝播されてきた過程を述べる前にまずいろいろ な文化の影響を受けてきた複雑な歴史的経緯を述べる必要がある。
15 世紀から 16 世紀にかけてヨーロッパで大航海時代を迎え、インド への新航路開拓が進み、ヨーロッパとアジアの距離は大幅に短縮さ れた。台湾もその影響を受けた地域の一つである。台湾は 1624~1945 年の間にオランダ、スペイン、明朝、清朝、日本という異なる政権 に統治された。
以 下 は 台 湾 統 治 の 経 緯 で あ る
1624~1662 年 オランダによる台湾南部の 38 年間統治。
1626~1642 年 スペインによる台湾北部の 16 年間統治。
1662~1683 年 明朝鄭成功による 22 年間統治。
1683~1895 年 清朝による 212 年間統治。
1895~1945 年 下関条約で日本に割譲されて 50 年間統治される。
1945 年~ 蒋介石による中華民国統治が開始され現在に至る。
2.1.1 オランダ統治時代(1624 年-1662 年)
オランダ統治時代は、オランダの東インド会社が台湾の南部を占 領した 1624 年から、鄭成功の攻撃によってオランダ東インド会社が 台湾から完全撤退した 1662 年までの 37 年間を指す。1622 年、オラ ンダ東インド会社(The Dutch East India Company)はまず明朝の支 配下にあった澎湖を占拠し、明朝はオランダ人が台湾に移ることを 認めた。このようにして台湾を占拠することとなったオランダ人は、
一鯤鯓(現在の台南市安平区)に熱蘭遮城(Zeelandia)を築城し、台 湾統治の中心とした。なお、同時期の 1626 年には、スペイン勢力が 台湾島北部の基隆付近に進出し、要塞を築いて島の開発を始めてい
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たが、東インド会社は 1642 年にスペイン勢力を台湾から追放するこ とに成功している1。
圖 1 十七世紀の台湾地図 出典:HP: Wikipedia
オランダ統治時代が音楽に与えた影響
呂鈺秀(2013)によると、オランダとスペインによる統治時期に ヨーロッパ宗教音楽が台湾に伝えられ始めた。その根拠として二つ の著作を例に挙げている。一つ目は、イギリスの牧師甘為霖
(Willianm Campbell、1841~1912)が著書した Formosa under the Dutch(オランダ統治下の台湾)の中にある 17 世紀オランダ統治下 の台湾で西洋宗教音楽が歌われていたことを示す記録である。二つ 目は、胡娄特が(J.A.Grothe)1886~1887 年 Utrecht でオランダ語 で出版した計 6 冊からなる Archief voor de Geschiedenis der Oude Hollandsche Zending(古オランダ宣教史)であり、その第三冊と第 四冊の台湾に関する部分で甘為霖の著作が掲載され、そこから当時 の教会音楽の伝播状況がよく分かる2。
頼永祥(1970)による「台灣史研究-初集」の中の統計によると、
カトリックを主体とするスペインが台湾を統治した 16 年間に、台湾 に駐留する神父は 40 人、洗礼を受けた人数は 4 千人超に達した。当
1 歐陽(2007:162)
2 呂(2013:4-5)
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時カトリック教に接した人数が多いことがわかる。1642 年スペイン は台湾から撤退し、カトリックによる台湾での宣教もこの原因によ り中止されたのである。オランダのキリスト教宣教師も 1662 年に明 朝鄭成功に追い込まれて台湾から出ることになり、結局台湾での西 洋音楽の伝播はここで終わる3。
2.1.2 鄭氏政権(1662 年-1683 年)
中国大陸では明朝が滅亡し、清朝が成立した。鄭成功の軍勢は大 陸での「反清復明」の拠点を失い、清朝への反攻の拠点を確保する 為に台湾への進出を計画した。1662 年オランダ東インド会社を台湾 から駆逐する事に成功し、台湾で鄭氏政権を成立した。このように 初めて台湾は漢民族政権により統治されることとなった。同 1662 年 中に鄭成功が病死したため、彼の息子である鄭経たちが事業を継承 したが、反清勢力の撲滅を目指す清朝の攻撃を受けて 1683 年に降伏 したことにより鄭氏政権が終わる。
鄭氏政権が音楽に与えた影響
1662 年鄭成功はオランダ駆逐に成功した後、台湾での宣教活動を 禁止し、キリスト教の台湾での伝播は中断された。代わりに中国沿 岸部の音楽歌舞戯曲、例えば南管、北管、梨園戯曲などが台湾に持 ち込まれた。新移民は異なる民族からなり、それぞれの民族ならで はの祭りの習慣があり、それらの祭りを通して各民族音楽歌舞戯曲 が発展してきた4。
2.1.3 清朝統治時代(1683 年-1895 年)
1683 年に当時の中国である清朝が鄭氏政権を倒して中国大陸に台 湾を編入した時から、日清戦争の敗戦に伴って清朝が大日本帝国に
3 賴(1970:112)
4 呂(2013:6-7)
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台湾を割譲した 1895 年 4 月 17 日までの時代である。
清朝統治時代が音楽に与えた影響
1858 年「天津条約」で清朝は台湾を開港させられ外来宗教は再び 台湾に入ってきた。キリスト教会で広く使用する賛美歌(聖詩)も 次々と台湾に広がった。教会での礼拝で音楽が重視されたため、教 会は台湾での西洋音楽伝播の主な場所になった5。
林旻喧(2009)によると聖歌を歌うことはキリスト礼拝の中でこ れまで重要な地位を占めてきた。宣教師も往々にして聖歌によりキ リスト教を広めてきた。甘為霖の『臺灣佈教之成功』(
An Account of Missionary Success in the Island of Formosa
)の中で、信者が聖 歌を歌って伝道活動する様子が幾度となく記述されている。馬偕は 自身の宣教回想録の中で彼らが当時いくつかの先住民部落で行った 聖歌を教える過程が記録されている6。2.1.4 日本植民地時代(1895 年-1945 年)
日清戦争の結果、下関条約によって台湾が清朝から日本に割譲さ れた 1895 年 4 月 17 日から、第二次世界大戦の結果ポツダム宣言に よって台湾が日本から中華民国に編入された 1945 年 10 月 25 日まで の時代を日本植民地時代と呼ぶ。台湾は大日本帝国の外地として、
台湾総督府の統治下に置かれていた。日本の台湾に対する植民統治 は 1945 年終戦までの半世紀もの長い期間に及んだ。林旻諠(2009)に よると日本植民時代は歴代総督の政策方針の転換などにより三つの 時期に分けられる:安撫時期(1895-1919)、同化時期(1919-1936)、 皇民化時期(1936-1945)。
A. 安撫時期(1895-1919)
日本は下関条約(馬關條約)に基づいて台湾を領有したが抗日運 動は治まらず、日本軍の任務は決して順調ではなかった。植民時代
5 陳(1997:146)
6 林(2009:28)
7
初期には、不安定な治安、不便な交通、異なる言語文化風土といっ た負の要素があり、飴と鞭を用いて、すなわち民衆の歓心を買うこ とと脅迫という方法で反日勢力を抑制しようとした7。
B. 同化期(1919-1936)
1919 年日本の植民地である朝鮮で日本統治から逃れるための「三 一独立運動」が起こったが日本軍と警察の強い弾圧により失敗に終 わった。日本は台湾の植民地支配対策を再検討し、内地(本土)延 長主義政策を施行し徐々に台湾を植民地から日本本土の一部に同化 させる政策に転換した。まずは台湾人の教育機会を向上させ、「日台 共学」を主張したが、その目的は台湾人に自身は日本臣民であると すっかり思い込ませることであった。次に地方制度改革、議会の設 置、日台婚などを通して台湾人を日本人に同化させようとしたので ある8。
C. 皇民化時期(1936-1945)
総督府は積極的に「皇民化運動」を展開し、台湾人の思想意識を 徹底的に日本化し、日本人と運命を共にしたいと思い込ませること により戦争中に彼らを参加させようとした。また運動競技、ラジオ 体操、軍歌を歌うなどの活動を通して士気を高めた。それだけでな く、総督府も新聞の漢文欄を廃止し、日本語常用運動を行い、寺や 廟の神像を撤廃し、神社の参拝を強制し、台湾の習わしに基づく儀 式を禁止することなども行った9。
日本植民時代が音楽に与えた影響
植民地時代の当初、台湾の教会は常に日本政府の迫害を受けたが、
日本の教会が何度も日本政府に進言し台湾の教会を支援したため、
日本政府は台湾の教会活動に対して寛容な政策をとるようになった。
そのようなわけで、駐台の外国人(イギリス、カナダ)の宣教師が
7 林(2009:33-35)
8 林(2009:36)
9 林(2009:36-38)
8
10 台灣音樂史 HP:http://uensemble.org/writings-details.php
11 梁(2007:66)
12 王(2004:5)
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範囲に展開した。1931 年に正式にコロムビアレコード商標に改め 1945 年終戦まで 35 年間営業した13。
1937 年頃まで絶頂期であったレコード業界も「皇民化運動」の影 響を受けて、レコード生産量が大幅に減っていった。また、台湾語 流行曲も、軍国主義総督府の漢文禁止政策により日本語の歌詞に取 り換えられ、ゆったりとした曲風から士気を奮い立たせる軍隊調の 曲に変えられた。例えば、『望春風』は『大地は招く』、『月夜愁』は
『軍夫の妻』、『雨夜花』は『譽ねの軍夫』などに変えられた14。 まとめてみると、台湾は日本の植民地化の影響で西洋音楽を受け た。教育方面では台湾の初期の音楽家の多くが日本に留学し西洋音 楽教育を受けてから戻った者たちばかりであり、日本語推進政策も 原因となって台湾本土の音楽の発展は阻害された。現在台湾の学校 の音楽教育が西洋音楽を主流としているのにはこのような背景が考 えられる。民間方面ではレコード会社の設立がされ、日本と同様の
『軍夫の妻』、『雨夜花』は『譽ねの軍夫』などに変えられた14。 まとめてみると、台湾は日本の植民地化の影響で西洋音楽を受け た。教育方面では台湾の初期の音楽家の多くが日本に留学し西洋音 楽教育を受けてから戻った者たちばかりであり、日本語推進政策も 原因となって台湾本土の音楽の発展は阻害された。現在台湾の学校 の音楽教育が西洋音楽を主流としているのにはこのような背景が考 えられる。民間方面ではレコード会社の設立がされ、日本と同様の