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越境する仏教

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Academic year: 2022

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(1)

Otani Yuka 大谷由香

Associate Professor

Department of Buddhist Studies, Ryukoku University

O

tani Yuka, Ph.D is an Associate Professor at Ryukoku University. Her primary research interest is in Buddhist studies, with an emphasis on Japanese Buddhist thought and culture around precepts. Her publications include A Study of Sennyuji Temple in the Later Medieval Period (2017), and a forthcoming book about Buddhist communication between Japan and China in the Kamakura Period.

越境する仏教

—13世紀日本中国間における戒律思想の

共有を通して

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Symposium on Humanistic Buddhism

はじめに

日本中世における日本.中国間の交流は、海商の発展によって 遣唐使派遣の廃止後いよいよ盛んになった1。頻繁な日宋交流に よって、日本に「禅宗」が伝えられ、日中両国間で協力しながら 教学研鑽が行われたことは、すでによく知られているところであ るが、戒律教義についても禅学同様に、日宋交流によって、日中 両国が同一の問題意識をもって、研究が進められていたことは、

これまでほとんど語られることがなかった。

私はここ数年、日本.中国両国が体験した戒律思想の共同発 展の具体的な内容について明らかにするための研究を遂行してい る。

特 に 最 近 私 が 注 目 し て い る の は 、 日 本 僧 俊 芿 (Shunjô)

(1166∼1227、入宋:1199∼1221)の中国留学が、両国の戒律研 究に大いに影響を与えた点である。以下簡単に紹介したい。

1.俊芿について

俊芿の伝記『不可棄法師伝』(1244年成立)によれば、彼は 肥後国飽田郡(Higonokuni Akutagun現熊本県上益城郡)出身で、

10歳で吾平山(Mt. Ahiranoyama)学頭(Gakutô学問統括者)の 荘厳房禅坊(Shôgonin Zenbô)(生没年不明)に預けられて法華

1 榎本渉[2010]

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13世紀日本中国間における戒律思想の共有を通して

経を学んだ後、14歳の時に禅坊の師で飯田山(Mt. Iidasan)学頭の 真俊(Shinshun)(生没年不明)に師事した。真俊は、延暦寺西塔

(Enryakuji Saitô)の東陽座主忠尋(Tôyô Zasu Chûjin)から天台教 学を相承し、谷阿闍梨皇慶(Tani Ajari Kôgei)(977∼1049)から 台密(Taimitsu日本天台宗に伝わる密教)を、高野山の心蓮大徳

(Shinren Daitoku(生没年不明)から東密(Tômitsu真言宗に伝わる 密教)南院流(Nanin-ryû)を、高野山俊覚検校(Shunkaku Kengyô)

(生没年不明)から中院流(Chûin-ryû)をそれぞれ伝授された人物 であったとされる。すなわち俊芿の学問素地は天台教学と密教の実 践を中心としたものであった。18歳の時に太宰府観世音寺(Dazaifu Kanzeonji-temple)で受戒した俊芿は、27歳頃から戒律に基づく修 行を決意し、当時日本仏教の二大中心地であった南都と比叡山を 往復して老若を問わず多くの僧のもとに参じ、「大小之戒律」に ついて問い続けたという。しかし当時の名僧と呼ばれる者であっ ても彼の問いに答えを示すことはできず、このため俊芿は入宋を 思い立ち、34歳の時、「荘次郎商船」(Shôjirô Shôsen 荘次郎が 所有する貿易船)に便乗して南宋を目指したとされる。

入宋した俊芿は、浙江省の名所や天台山など一通り観光した 後、四明景福寺の如庵了宏(?∼1200か1211頃2)の下で3年間

2 『不可棄法師伝』によれば、俊芿は1211年の帰国にあたって、仏舎 利三粒、普賢舎利一粒とともに「如庵舎利三粒」を持ち帰っている

(『仏全』115、527頁上)ことから、如庵の没年は1211年以前と推定 できる。

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Symposium on Humanistic Buddhism

戒律を学び、38歳頃からは華亭県超果教院の北峰宗印(1148∼

12133)に師事し、以後の8年間は天台学と止観の研究に勤しん だ。すなわち入宋後の俊芿の興味もまた、天台教学と戒律との問 題にあり続けたと考えられる。結果として俊芿は43歳で下天竺寺 に移った頃、南山宗についての53個の質問状を作成し、これを回 覧した。この時回覧された五三条の質問状は、何人かの宋僧の解 答を付し、『律宗問答』と名づけられて、現在に伝わっている。

俊芿は帰国後、寄進を受けて京都東山に泉涌寺を建立し、自ら の留学の成果を人々に知らしめた。

2.日本独自の戒律思想をめぐる問題

留学前の俊芿が南都と比叡山の名僧たちに問うて解決しようと した「大小之戒律」とは、両所における戒律観の相違に起因する ものと考えられる。

天平勝宝6年(755)に来朝した鑑真(688∼763)によって、日 本に初めて具足戒によって比丘となり、その上に菩薩戒を増受し て菩薩となる受戒方軌が伝えられた。この受戒方軌は、大和国東 大寺(Yamatonokuni Tôdaiji-temple)、下野国薬師寺(Shimotsuke- nokuni Yakushiji-temple)、筑紫国(Chikushinokuni)太宰府観世

3 『釈門正統』「宗印」の項に、「嘉定六年。以観室縁行化松江。十二 月初八示寂。於弟子行一菴。寿六十六。臘五十一」(『新纂続蔵』巻 75、345頁上)とある。

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13世紀日本中国間における戒律思想の共有を通して

音寺にて執行され、この三戒壇で受戒した者だけが日本では正式 な僧侶として認められた。ところが最澄(767∼822)は弘仁9年

(818)に「山家学生式」(Sange gakushô shiki)を定めて南都に 伝わった戒を小乗戒(Shôjôkai)として退け、梵網経による菩薩 戒単受によって菩薩であり比丘でもある存在になれるという「大 乗戒」(Daijôkai)を提唱した。両者の戒律観の相違はその後も 平行線をたどり、南都と比叡山は互いに牽制しあう関係が長く続 くこととなる。

幼い頃から天台教学を学んで最澄主張の大乗戒についての理解 を深め、しかし一方では太宰府観世音寺で具足戒を受けた俊芿に とって、一体どちらの主張が正しく、どちらに基づいた持律生活 を送るべきかということは、切実な問題であったのだろう。

俊芿が留学の総まとめとして宋僧に回覧したという53箇の質問 状は、まさに日本天台宗独自の「大乗戒」の立場から、日本律宗 のルーツである南山宗の立場を問うものであったため、これによ って、これまで日本の南都北嶺間のみに共有されていた戒律上の 問題点が、日宋両国間に共有されることとなった。

3.俊芿の問いとその影響

(1)俊芿の質問とその回答

俊芿の問いは、宋代に編纂された中国天台の歴史書である『釈 門正統』巻八の中、南山宗祖道宣(596∼667)の伝記と、彼の立

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Symposium on Humanistic Buddhism

てた南山宗の歴史について書かれる部分で、以下の下線部のよう に触れられている。

鎧菴曰、南山一宗、始優波離結集毗尼蔵。自曹魏時、僧祇.

四分等律文、送来此土。自是戒律、稍備。李唐初葉、澄照律 師、屢感天神降現、啇搉律相等事、遂参諸異部。以四分為 宗、撰述疏鈔、破斥諸家、大弘厥旨。但拠古来弘成論、論師 之義、謂空宗五義分通大乗、遂立円宗戒体。〈令被日本法師 立問。終莫能答〉(後略)(宗鑑撰『釈門正統』巻八(1237 年刊)、『新纂続蔵』75、361頁中~下)

すなわち、ここでは道宣が南山宗義として立てた「円宗戒体」に ついて、日本の法師、すなわち俊芿が問いを立てたのであるけ れども、中国側からは、終に答えられる者が出なかった、とい う註が付されていることがわかる。実際『律宗問答』(Risshû- mondô)に残されている俊芿の問いに対する宋僧側からの回答者 は会稽郡極楽院の智瑞のみで、いずれの回答も俊芿の問いに正面 から答えたものとは言いがたい。

俊芿の質問は、日本天台宗独自の「大乗戒」の立場から、菩薩 戒の授受によってこそ「円宗戒体」を得るのであって、南山宗の ように受具足戒によってこれを得ることができるはずがない、と いう挑戦的な態度に貫かれ、当時の南山宗の教義の根本を疑うも のであったといえる。実際俊芿は自ら問う時には「問曰」ではな く「難曰」と言っており、批判の色合いが濃い議論を展開しよう

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13世紀日本中国間における戒律思想の共有を通して

としている。

例えば、以下のような問題が提示されている。

難曰。受戒作法、大小不同受。依大受大、依小受小。豈可妄 用乎。設小中尚有異、不妄通用。如彼加衣、捨僧祇取十誦等 也。何況大乘受戒、不用三聚羯磨、而用小乘法發圓體。則如 彼下官、勳望大臣位。寧可得乎。(俊芿『律宗問答』「五作 法相違難」、『新纂続蔵』巻59、715 頁上)

すなわちここでは、受菩薩戒によって菩薩の性を受け、受具 足戒によって比丘性を受けるのが当然であるのに、どうして南 山宗では、受具足戒によって菩薩の性を受けるというのか、とい う議論が展開されている。大乗の受戒は、「三聚羯磨」と呼ばれ る作法によって行われるべきで、受具足戒の作法によって「円宗 戒体」と呼ばれる比丘と菩薩の性を兼ねるような戒体を得るとい うのは、下官が大臣の位を功績として望むようなもので、全く話 にならない、とまで言っており、強い批判精神を感じる問いであ る。

この問いに対して、智瑞は、以下のような回答を行っている が、正面から俊芿の問いに答えた内容にはなっていない。

答。今白四而發圓體者、正猶下官而望大位。既知、此意尚可 疑耶。(智瑞 「五作法相 違難」への 違難」への 返答、 返 答、 『新纂続蔵』巻59、715頁上)

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Symposium on Humanistic Buddhism

そもそも日本天台宗の中で培われた問題は、当然ながらこれま で四分律研究を中心とする南山宗において扱われることがなかっ たのだから、日本天台義を念頭においた議論を仕掛けられても、

智瑞には答えようがなかったものと考えられる。

以前に見た『釈門正統』などに残される「円宗戒体。〈令被 日本法師立問。終莫能答〉」の文は、俊芿が南山宗の教義の 奥義を知り得た上で、中国の師匠が舌を巻くような質問をし た、というよりも、中国僧が考えてもみなかった日本天台の 円戒理解に初めて触れて、中国の師匠たちが戸惑ったために 答えられなかった、という状況を記したものだったものと理 解できる。

(2)俊芿の質問が中国に与えた影響

俊芿の問いによって日本天台の円戒思想は、南山宗への批判と して中国側へ紹介されることになったが、この問題はその後の南 山宗の教義展開に大きな影響を与えている。

景福寺如庵了宏の弟子であり、入宋後すぐに了宏に師事した俊 芿と知り合いだった鉄翁守一(1182∼1254頃)は、俊芿の帰国後 に俊芿の問いに対して回答した。これは彼の著作である『終南家 業』内に「答日本芿法師教観諸問」として現在に遺されている。

この記事は「庚寅中制日山述」(『新纂続蔵』巻59、727頁中)

とされ、俊芿死後の庚寅=紹定3年(1230)に制作されたもので

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13世紀日本中国間における戒律思想の共有を通して

ある。

これによれば守一は、俊芿の主張する日本天台の「大乗戒」

の特色である、菩薩戒単受の思想をそのままに認めており、これ を前提として、どのような受戒方軌であっても、関係なく一度の 受戒で「円宗戒体」を得ると主張していたことを知ることができ る。守一は、これまで四分律の受戒の上に菩薩戒を増受すること で、比丘性と菩薩

性を兼ね備えると してきた南山宗義 に、真っ向から反 対する非常に破天 荒 な 主 張 を 行 っ た。

この守一の行き 過ぎた主張に対し て、守一と俊芿の 師、如菴了宏と同 門の妙蓮(1182∼

12624)は、守一 への反論書を提出

4 凝然述『律宗綱要』巻下に「弘長二年壬戌正月三日、卒于極楽庵。春 秋八十有一」(『大正』74、17頁中)とある。

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Symposium on Humanistic Buddhism

し、論争を繰り返すことになる(【図1】参照)。

両者の論争の経緯は、続々と中国にやってくる日本僧に見守ら れながら継続していった。守一の元へは後に日本で戒光寺を開山 する曇照(Donshô)が参じており5、また妙蓮の元へは、東大寺 戒壇院(Kaidanin)の円照(Enshô)の弟子で、その後戒壇院を継 ぐ凝然(Gyônen)と同門の真照(Shinshô)が参じている6。その 他にも妙蓮は「嘉定から淳祐に至る」まで(1208∼1253)に「学 律の者」がやってきたと語っており、長く自分の側にいたものと して「忍Nin.敬Keiの二法師」を挙げている7

極東の小さな国の中で繰り広げられていた戒律論争は、こうし て本場中国の南山宗も巻き込み、東アジア全体で活発に論じられ るようになった。

(3)俊芿が日本に与えた影響

前に述べた通り、俊芿が帰国目前で回覧した質問状に対し、

宋僧が批判的な意見を述べることはなかった。結果として俊芿の 披露した日本天台の「大乗戒」の思想は、全く否定されることな く、俊芿は帰国したものと考えられる。

このことは、南都の律宗にとっては不都合なことであった。前

5 守一『終南家業』巻中本「重受戒父」1233年成立、『新纂続蔵』59、

736頁上

6 凝然『円照上人行状』1302年成立、『続々群』3、492頁上~下 7 妙蓮『蓬折箴』、1255年成立、『新纂続蔵』60、91頁下

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13世紀日本中国間における戒律思想の共有を通して

に述べたとおり、南都の律宗では、鑑真によって伝えられた、具 足戒によって比丘となり、その上に菩薩戒を増受して菩薩となる 受戒方軌を採用していた。菩薩戒単受を訴える日本天台宗との間 には、長らく論争を繰り返していた歴史がある。それにも関わら ず、俊芿が日本天台宗の「大乗戒」思想を律宗のルーツである中 国の南山宗の僧侶に対して披露した結果、これが否定されること なく、俊芿は帰国してきてしまったのである。当時の日本にとっ て、中国仏教はよりインドに近い「正統な仏教」と受け取られて いたので、南都の律宗においても、日本天台の「大乗戒」思想を 無視することができなくなった。

このため、南都の律宗でも、菩薩戒単受による比丘性と菩薩性 の獲得について、その経証が収集され、律宗独自の菩薩戒単受方 規である「通受」(Tûju)が検討されるにいたった。

また前にも述べたように、中国では俊芿の同門である守一が画 期的な南山宗義を開陳したために、中国内でも論争が起こってお り、その経緯を留学した日本僧が見届けて、日本に伝えている。

これによって日本国内の戒律思想もまた何度もアップデートを繰 り返すこととなる。

まとめ

俊芿の入宋は、海商の発展によって日中間の往来が容易にな り、僧侶もこれらの商船に便乗して自由に留学することができ

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Symposium on Humanistic Buddhism

るようになった最初期にあたる。榎本渉氏によれば、遣唐使が廃 止されて外国使が入京しなくなって以後、外国語の需要も減り、

読書の手法も音読から訓読に変わったことで、入宋僧であっても スムーズな中国語会話ができず、多くは筆談によってコミュニケ ーションをはかったとされる8。俊芿も入宋当初こそ中国語会話 ができなかったが、12年間にわたる留学生活の中で中国僧と対等 に議論ができるまでに会話能力を磨いた。結果として日本天台円 戒の斬新な発想も、信頼をもって受け入れられたものと考えられ る。日本僧が自由に日中間を往来でき、中国語で中国人と対等に 学問できる当時だったからこそ、それまで日本国内にのみ留まっ ていた日本天台の「大乗戒」の思想は国を超えて広がることにな ったといえよう。

13世紀時点においても、現代においても、僧侶が世俗を超えた 存在であることに変わりはない。僧侶が国家間のしがらみから離 れ、国を超えて問題を共通し、解決策を模索することは、結果的 に世俗世界にも影響を与える。例えば俊芿の帰国後、多くの日本 僧が宋に渡り、また宋からも中国僧が日本に来日したが、こうし た交流が続く中で日本には戒律復興運動が起こり、鎌倉では為政 者が仏教にもとづく禁酒政策を打ち出している。

日本僧俊芿と、彼と出会った中国僧が、国や文化を超えて戒

7 榎本渉[2003]

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13世紀日本中国間における戒律思想の共有を通して

律という仏教の生活面における意識共有を行ったように、現代 においても、それぞれの国で活躍する僧侶が、国家を超えて世 界全体の問題を共有し、その解決を意識すべきではないだろう か。

仏教は出家と世俗、男女、人種、国といった、あらゆる境界を 越えていく。仏教の視点を共有する僧侶が協働して世間に訴える 力のもつ影響力は、未来を変える力を持つと私は考える。

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Symposium on Humanistic Buddhism

《使用テキストの略号》

1. 『新纂続蔵』…『卍新纂大日本続蔵経』、国書刊行会、1985 年 2. 『仏全』…『大日本仏教全書』、名著普及会、1980年覆刻 3. 『大正』…『大正新修大蔵経』、大正新修大蔵経刊行会、1988-

1991年普及版

4. 『続々群』…『続々群書類従』、続群書類従完成会、1969-1978年

《参考文献》

1. 榎本渉﹝2003﹞「中世の日本僧と中国語」(『歴史と地理』567 2. 榎本渉﹝2010﹞『僧侶と海商たちの東シナ海』、講談社

3. 大谷由香﹝2016﹞「入宋僧俊芿を発端とした日宋間「円宗戒 体」論争」『日本仏教綜合研究』14

4. 大谷由香﹝2017﹞「入宋僧俊芿と南都戒律復興運動」『印度学 仏教学研究』65-2

5. 大谷由香﹝2018﹞「日宋交流と鎌倉期律宗義の形成」『智山学 報』67

6. OTANI Yuka﹝2018﹞「The Controversy over the Principal Doctrine of the Nanshan Vinaya School in the Southern Song and Japan」『印 度学仏教学研究』66-2

7. 大谷由香﹝2019﹞「南宋代南山宗義論争の経緯と論点」『仏教 の心と文化:坂本廣博博士喜寿記念論文集』山喜房仏書林 8. 西谷功﹝2018﹞『南宋.鎌倉仏教文化史論』勉誠出版

參考文獻

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