• 沒有找到結果。

三、眠れる美女――気配として感じる性

ここまで見てきたように、女らしさをなくしている子供の「わたし」にセン セイは絶えず女らしさを求めつつ注意を促している。ところが、センセイは見 る視覚運動の上でツキコの女らしさを求めていながらも、身体の触覚運動の上 では、子供扱いするように「撫でる」仕草で終始していたことが大きな特徴と なる。無論、女らしさを演じることを拒否する私の身体表象からポスト少女の 恋愛の困難が読み取ることができるし、ポスト少女の自己愛には常に客体には ならない、或いはなり切れないゆえに、自ら透明な存在になってしまう浮遊感 覚で満ち溢れていたことも見逃すことができるまい。視線としての私は見られ ることなく、ただ見るだけの存在となり、そして萌える、というところが同じ くポスト男性の新たな困難をも意味する。或いは、仮に性的不能者のセンセイ が女らしさの媚態を十分演じこなしている女性を相手にしたところへ、両者と もにどういう意味の、どれほどの性的結合や性的快楽が享受できるか、という ような疑問も浮上してくる。無論、こういうような仮題をつけてみたところで、

まんざら無意味な設問とはならないだろう。ここには老年と若年の関係構築に

146

纏わる老人のセクシュアリティの困難が自ずから開陳されるようになる。見ら れることを拒否して、相互にジェンダー性を帯びさせた視線で見つめ合う間に は、どうも「わたし」の女らしさの不在は直ちに性的欲望の不在とは繋がらな いようである。両者のセクシュアリティの構築には「見る性」と代替する――

老いの厚み、暖かみ、凛とした老いの気配である「曖昧模糊」とした「感じる 性」がテキストの随所に散在している。女を眠らせた上で自足する「老年の生 を支える性の意味」と、音声的かつ掴み切れない朦朧とした「触れ合い」の気 配として感じる性で自足する「若年を支える生の記号性の意味」が、両者の対 置し合う、或いは交換し合う「ふわふわした」空間は、ポスト恋愛の奇妙な癒 しの構造を形作っていくのであった。

〈センセイの声だけは、最初のころから耳に残った。こころもち高めの、

しかし低音のじゅうぶんに混じった、よく響く声である。その声が、カ ウンターの隣茫洋とした存在から、流れ出してきた。

いつの間にやら、センセイの傍によると、わたしはセンセイの体から放 射されるあたたかみを感じるようになっていた。糊のきいたシャツ越し に、センセイの気配がやってくる。慕わしい気配。センセイの気配は、

センセイのかたちをしている。凛とした、しかし柔らかな、センセイの かたち。わたしはその気配をしっかりと捕らえることがいまだにできな い。掴もうとすると、逃げる。逃げたかと思うと、また寄りそってくる。

たとえばセンセイと肌を重ねることがあったならば、センセイの気配は わたしにとって確固としたものになるのだろうか。けれど気配などとい うもとと曖昧模糊としたものは、どんなにしてもするりと逃げ去ってし まうものなのかもしれない。〉(第十三回「島へその2」P196-P197)

センセイの気配というのは感じる性というよりも、老いの気配であるからこ そ、若年の「わたし」には到底掴みきれないものである。そうした凛とした老 いの気配からセンセイの生の重みと不可変性が保障され、ある程度安心感をも たらしてくれる一方、老年の年輪からくる存在の不動性以上に、いつもその傍 らに死を匂わせる不確かなものでもあった。その反面、老人の無欲、無性の状 態からくる安堵感、つまり汎性であっても結構だという性的認識も端然と自得 されているのである。

〈「このひよこが、雄でも雌でも、どちらでもよろしい」

「はあ」「一羽だと可哀相だからです」……

動物を飼うのはお好きなんですか、と聞くと、センセイは首を横に振

147

った。

「得手ではないですね」

「だいじょうぶですか」

「ひよこならね、そんなに可愛くないでしょう」

「可愛くないのがいいんですか」

「可愛いと、つい夢中になる」〉(第二回「ひよこ」P35-P37)

センセイの老いにはなるほど性的な性差に頓着することもなく、モノや人間 への執着をなるべく振り捨てることに尽きるものであった。センセイはむろん 不能者である。しかし、ひたすら女を眠らせるセンセイの身体性からにしては、

彼の性不能がそのまま無欲・無性と結びつくかどうかという問題を改めて吟味 する必要がある。老いたからと言ってもそれでえ未性者或いは、老いて凛たる 禁欲者という存在として把握されてよいだろうか。

〈センセイはそれをそうと知り尽くしていたゆえに、おのれのたしなみに注 意深い人だった。もしそうであるなら、『センセイの鞄』はセンセイの成 長物語となるだろう。禁欲者たることの矜持は、じつは未性者であること のひがみの裏返しにすぎないと気付いたセンセイが、未性者の境位を脱し て、自身の性愛的性の発現を見届けるにいたる物語なのだ。成長を促した のは、むろん「わたし」ツキコさんである。〉11

「わたし」がセンセイと付き合っている内に、〈ひとつ、案じていることが あった。センセイと、まだ、体をかさねていなかった〉。〈案じているが、不満 を感じているわけではなかった。かさねていないならば、いないまでのことだ。

しかしセンセイのほうはどうかといえば、わたしとは違った感じ方をしている らしかった〉。〈長年、ご婦人と実際にはいたしませんでしたので〉、〈できるか どうか、ワタクシには自信がない。自信がないときにおこなってみて、もしで きなければ、ワタクシはますます自信を失うことでしょう。それが恐ろしくて、

こころみることもできない」平家物語〉は口にするのである。〈お手伝いしま すから。こころみてみましょう、近いうちに。そう言いたかったが、センセ イの厳肅さに気圧されて、言えなかった。センセイそんなこと気にすることな いです、とも言えなかった〉。(第十七回「センセイの鞄」P260-263)

確かにセンセイが言う「体のふれあい」は、両者の間で意味がズレている。

〈センセイはもちろん「一線」を越えられる性的能力を不安に感じているのだ

11 千石英世「甘噛みのユートピア—川上弘美論」『文学界』57-10、2003.10.1、P142~P186

148

が、「わたし」にとって重要なのは字義通り「キスしたりぎゅうっとするだけ でいい」「ふれあい」なのであり、センセイの囚われている性愛観は「平家物 語」のように遠いのである〉。12

いくら子供扱いされる三十七歳のツキコであろうとも、性的体験の全くな い処女でも未性者でもなかった。それで「お手伝いしますから」などと自発 的に「大人」的な感情を示したりする。実際の性的結合を試みる自信のない センセイの「厳粛さに気圧されて言えなかった」からこそ、明らかに性的場 面においては老年と若年の関係構築は相変わらず男性側に言葉による能動的 な発言権や主導権が寄与されていた様相を呈している。しかも、そうした男 性側の性的機能と結びついた「男らしさ」が消去される危うさと気まずさを、

どうにかうまく繕おうと苦心し、自信喪失した老年の「平家物語」の優位性 と体面を如何にして保とうかと、若年の女性が受身的に従属的な立場に立た され、語る言葉まで奪われてしまったような事態がここで浮き彫りされる。

〈「ツキコさん、いらっしゃい」センセイはふとんの端をめくりながら、

柔らかく言った。

はい、と小さく言いながら、ふとんにもぐった。センセイの気配がわた しの方へとおしよせてきた。センセイ、と言いながら、センセイの胸に 顔をうずめた。センセイはわたしの髪に何回か接吻をした。わたしの胸 を浴衣越しにさわり、そののちに浴衣越しでなくさわった。

「いい胸ですね」センセイは言った。芭蕉の句のことを説明するのと同 じような調子である。くすりとわたしが笑うと、センセイもくすりと笑 った。

「いい胸です。いい子だ、ツキコさんは」

そう言って、センセイはわたしの頭を撫でた。何回でも、撫でた。撫で られて、眠くなった。眠っちゃいますセンセイ、とわたしが言うと、眠 りましょうツキコさん、とセンセイは答えた。

眠りたくないのに。わたしはつぶやいたが、まぶたをもう開けていられ ない。センセイのてのひらからは、催眠物質でも出ているんじゃないだ ろうか。眠りたくないの。センセイに抱きしめてほしいの。そうわたし

眠りたくないのに。わたしはつぶやいたが、まぶたをもう開けていられ ない。センセイのてのひらからは、催眠物質でも出ているんじゃないだ ろうか。眠りたくないの。センセイに抱きしめてほしいの。そうわたし