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台湾 政治大学日本語文学系 黄錦容

1. ポスト文化の脱構築

――再文脈化・重層化されるジェンダと共同体のパフォーマンス

ジェイムズ・クリフォードらによる『文化を書く』の中で、ヴィンセント・クラパ ンザーノは、「パリの闘鶏」についてのギアーツのよく知られた民族誌が、記述する 者と記述される者との不均等な関係を隠蔽し、「パリ人」を修辞的に一般化している と批判した。文化的上演としての闘鶏に参加することで、人々は「文化の中心的特質 と個人的感性が、社会的テキストに綴られたとき、いったいどのようなものか」とい うことを学んでいく(ギアーツ、一九八七)。

ポストコロニアル批評や新しい文化史、カルチュラル・スタディーズといった八〇 年代以降に台頭してくるアプローチが、確かに先行する言語論的ないし解釈学的パラ ダイズを引き続き、植民地時代とポスト植民地時代を通じ、近代は世界システムレベ ルで意味と権力を不均衡に配置し、さまざまな他者と自己の境界線を引き、文化を変 形し、創出してきた。各地のローカルな文化には、その自律性そのもののなかで殖民 地主義、ジェンダー、階級や諸々の差別の力線が重層的に走る。

いまや歴史学や社会学でも、語りの重心は、「社会構造」や「階級」から「言語」

「テクスト」「象徴」といった概念に移行しつつある。近年の合理的選択理論では、

文化は撹乱要因にすぎないものとして周縁化されている。国家間の文化的差異があま りに大きく文化的変数が導入される場合でも、しばしばこの変数は時間性や差異を消 去されたまま「国民性」の概念に押し込められてしまう。しかし、文化的な構築が問 われているのは国家だけではない。文化は決して何らかの一貫した原理で構成される 統一体ではない。むしろそれは戦場であり、教養的なものや大衆的なもの、ナショナ

ルなものやグローバルなもの、エッセンシャルなものや相対的なものが、折衝する 様々な社会戦略の重なり合いのなかで構築されていく。文化は至るところで重層的な ずれを含み、二元論的な図式ではどうにも捉えることができない両義性を抱え込んで いる。諸々の矛盾を孕んで重層する境界

/主体の政治が、テクストをめぐる異なる解

釈やハビトゥス、日常的なやりとりのなかで織り成されているのである。1

2. 多文化主義とオリエンタリズムのアジア文化的現在――他者・身体・ジェンダー

今日の文化現象への批判的な介入に際して、常にエドワード・W・サイードによる「 オ リ エ ン タ ル 」 と い う 人 種 的 他 者 の 概 念 が 参 照 さ れ る 。2 (サイード 1993) サイ ードの指摘された「オリエンタル」説には明らかに文化表象の政治性(カリュチュラ ル・ポリティックス)が内在させていながらも、実際は矛盾した両義性をも抱え込ん でいる。「社会における非対称の権力構造を前提にした,名付ける側と名付けられる 側(人種的他者)との相互関係」において、「身体というテキストを分析する」以上、

「人種」をめぐる社会・文化現象を分析するにあたり、「ジェンダー」がひとつの要 点となるのは当然であるはずだが、そのような分析の必要は、人文社会科学の内部で あれ、「大衆文化」においてであれ、依然として広範に認知されているとは言いがた いように思われる。3

3. 大きな物語の終焉――八十年代のサブカルチャー文学と日本の視覚文化

文化翻訳のグロバルー化VS ローカル化。どこまで文化的抵抗や借用が可能となる ものか。かなり複雑な問題となる。例えば、テクストから映像へ、それとも絶えず再 生産するネット小説などの複数的な借用の問題は専ら大衆文学の問題ではない。そう いう問題はたとえ純文学の面まで波及を及んでいる。例えば大江健三郎は村上春樹ら の「文学」が高度資本主義と結びついた世界の均一化と関わりのある現象として解釈 し、受け止めている。(大江健三郎『あいまいな日本の私』岩波書店、1995)(大塚2009、

P10)4

冷戦構造が終わり、ベルリンの壁が崩壊し、この国の中でもまるでタイミングを合

1 吉見俊哉『カルチュラル・タン、文化の政治学へ』「序章 カルチュラル・タン、文化の政治 学へ一『言語論的=解釈学的転回』以降」、人文書院、2003.5、P7-P28

2 エドワード・W・サイード『オリエンタリズム〔上・下〕』今沢紀子 訳、平凡社ライブラリー、

1993 年(原著 1979)。P202,P329

3 ロバート・G. リー 『オリエンタルズ― 大衆文化のなかのアジア系アメリカ人』貴堂嘉之訳、

岩波書店、2007 年

4 大塚英志氏の見解(『物語論で読む村上春樹と宮崎駿――構造しかない日本』、角川書店、2009.7)

わせたかのように昭和天皇が崩御した。リオタール5のいうところの「大きな物語の 終焉」をそれらの歴史的現実は具現化したように見えたし、ボードリヤールが『消費 社会の神話と構造』6で主張したように誰もが「断片化」した記号と記号が生み出す 差異と戯れることで、もう、「大きな物語」つまり「歴史」も「近代的個人」も不要 の時代がやってきた、と思い込むのには十分だった。(大塚2009、P20)

断片化した情報群――その頃は「データーベース」という呼び名も普遍していなか った――から、任意に情報のパーツを抜き出し、それを「物語構造」に従って再構成 していくことで自前の物語を用意する、つまり、擬似的な意味での「大きな物語」の 中で個人個々が自前で用意しうる事態を僕は「物語消費」と読んだのである。(大塚 2009、P22)

村上の物語構造と主体を分離し、後者を成長させずにおくという手法が成立する一 方、まるで男の主体の物語の不成立を自ら贖うように、女性の自己実現の物語は力強 く語られていく。そのような「少女」に自己回復のストーリーを代入していく近代文 学者たちの心性を僕は「少女フェミニズム」と呼び、それは主体の物語を「少女」と いう装置に委ねる成熟忌避の形ではないかと『サブカリュチャ-文学論』の中で結論 した。

すなわち、グロバールスタンダード化した物語にこの国の作り手が代入している のは「母胎回帰」を志向する成熟できない男の物語だということになる。宮崎駿も前 後の違いはあるにしても同じような「物語の復興」から「母胎回帰」のプロセスをた どる。(大塚2009、P223-225)

4. サブカルチャーの言説と表象空間

4-1. データーベース社会と消費する物語――恐れているのは日本だけか?

大塚英志氏は「サブカルチャーである、ということ」において、日本のサブカルチ ャー的表現を村上春樹の『アンダーグランド』の一節を引用しながら、かつてオウム から目を背けた小説家の自己像の醜悪なパロディーにしか見えなかった告白として 意味づけ、規定している。7

大塚英志氏は麻原彰晃の「ジャンクであることを恐れない」自己言及に触れること

5 リオタール『ポストモダンの条件―知・社会・言語ゲーム』(1984)(叢書言語の政治 (1)) [単 行本] 水声社 (1989/06) 。ジャン ボードリヤール (著), Jean Baudrillard (原著), 今村仁司 (翻訳), 塚原 史 (翻訳)『消費社会の神話と構造』普及版 [単行本] 紀伊國屋書店 (1995/02)

6 ジャン ボードリヤール (著), Jean Baudrillard (原著), 今村仁司 (翻訳), 塚原 史 (翻訳)『消費社 会の神話と構造』普及版 [単行本] 紀伊國屋書店 (1995/02)

7 大塚英志「サブカルチャーである、ということ」『村上春樹論―サブカルチャーと倫理』若草書 房、2000.7、P210、212、215。初出:原題「サブカルチャーが死んでいく」Voice 2000/3『戦後 民主主義のリハビリテーション』

によって、村上春樹は「サリン事件の被害者の屈託に満ちたインタビューを膨大に引 用した」ことによって、「ジャンクであることを恐れる村上春樹という小説家の所在 をあえて顕にしている」と見立てている。他者の言葉を引用する作家や漫画家のどち らも同じように「引用の集積をもって語るという技術は共通している」というところ は、正に語り手(書き手)の引用する主体の特権化である。なお、「高度資本主義下 の語り手である私たちは『ジャンクの集積』としてしか物語ることができない」こと は、例えば手塚治虫の漫画表現が映画やアニメ、宝塚や落語、あるいは文学といった ジャンルからの徹底した借用の集積であったこと」を実証することになると見ている。