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二、歴史記憶が如何にして再現し得るものか

――ジェンダー性と格闘するセンセイと「わたし」

一方、『センセイの鞄』においては母娘間に流れるナイーブな感情、近いが ゆえに届かない齟齬感も描かれている。お正月に生家に戻り、母親が作る好物 の湯豆腐を共に食べながら、突然、会話が途切れ、〈それからどうにもうまく しゃべることができなかった〉ツキコ。滞在中もその感情によって生じた埋め られない何かを抱えたまま自宅に帰ったツキコは、蒲団の上で漫然と過ごし、

誤って割った蛍光灯の破片で足を怪我をしたことがひきがねとなって泣き出 す。〈リンゴが食べなくなって、かごから一つ取り出した。母と同じ剥き方を

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してみた。途中で皮は切れた。突然涙が出てきて驚いた。〉哀愁に襲われ散歩 に出た後も〈座り込んでしくしく泣きたくなった〉ツキコは、〈センセイ、帰 り道がわかりません〉とセンセイに心の中で話しかけている。その後、以心伝 心の如く偶然にもセンセイと通りで出会い、〈サトルの店の並びにある赤ちょ うちん〉に入る。店でツキコは湯豆腐を頼んでいる。(第六回「お正月」P87-P97)

センセイと「わたし」が〈恋愛を前提としたお付き合い〉に至るまでの手続 きとして重要な場面にセンセイは鞄を携えてくるのである。センセイの死後、

遺言によりツキコはセンセイの鞄をもらう。〈湯豆腐には、センセイの影響を 受けて、鱈と春菊を入れるようになりました〉(第十七回「センセイの鞄」P270)

とある。〈ツキコは母との同化という呪縛から解放されていることが示唆され ている。鞄は空であった。センセイも元妻の呪縛から解き放たれたのであろう〉。

5だが、本論は更に対人関係で疎外され、言葉を失われてから久しい「わたし」

(他ならぬ語り手かつ書き手のツキ子)が少しずつ言葉(語り、書く行為とし ての意味)が回復されていく徴候を検証してみながら、センセイの長年掻き集 めた汽車土瓶、電池などの一方ならぬセンセイ自身の生きた歴史の証であるモ ノにまつわる歴史的な記憶を例にして、進んで二人の交際中、共に出かけてい ったディズニーランド、小島といった空間、或いは携帯電話などの歴史化され た身体記憶の共有の意味を検討してみる。又は、「湯豆腐」と「空っぽの鞄」

の記号と重なり合わせて、「わたし」とセンセイの「セクシュアリティーを越 えたポスト恋愛の身体性」を分析しつつ、両者の織り交ぜた歴史化された身体 記憶の移転・再構築の関係性を追究していきたいのである。

このテクストにはセンセイの所有物である鞄の表象以外に、センセイの長年 掻き集めた汽車土瓶、電池など、一方ならぬセンセイ自身の生きた歴史の証が 記号化されているのが窺われる。センセイの語りにはこうした外界のモノにま つわる歴史的な記憶が力強くいま・ここへ呼び戻されているところが特に強く 印象付けられる。

〈「これはね」と言いながら結んだビニール袋の口をほどいた。中から取 り出す。取り出されるのは、たくさんの電池だった。おのおのの電池の 腹に、『ヒゲソリ』『掛時計』『ラヂオ』『懐中デントウ』などと黒マジッ クで書いてある。単二の電池を手に取り、

「これは伊勢湾台風のあった年の電池ですね。東京にもあんがい大きな

5 山崎真紀子「母と妻と恋愛をめぐる三つの鞄――『センセイの鞄』」『現代女性作家読本①川 上弘美』原善編著、鼎書房、P92-P93、2005.11

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台風が来て、ひと夏で懐中電灯の電池を使いきった」》(第一回「月と電 池」P16-17)

センセイが語ろうとしているのは、「もの」が生きているという感覚である。

ここでその「もの」である電池にはそれぞれ「ヒゲソリ」「掛時計」「ラヂオ」

「懐中デントウ」といった固有の名前がつけられており、その固有の名前をも つ電池は、たとえば「懐中デントウ」という名前の電池であれば、背後に「伊 勢湾台風の年に使い切られたものである」という物語がある。そしてその物語 は、センセイの歴史と記憶によるものであるが、わたしたちはふつう、始まり と終わりのある物語を自分の歴史や記憶として所有する存在を「生きている」

と言う。少なくともセンセイにとって、これらの電池は生きている。

〈ここで語られているのは、「存在」というものがためには、どんな条件 が満たされなければならないか、といったようなことだ。「名前」があ り、「物語」をもっていること。そしてその「物語」は、他の「存在」

の歴史と記憶からあたえられるということ。だとすれば、センセイとい う「名前」をもつ「存在」もまた「懐中デントウ」という「名前」をも つ電池という「存在」から「東京にもあんがい大きな台風が来て、ひと 夏で懐中電灯の電池を使いきった」という歴史と記憶をあたえられてい るのであり、ここでセンセイと「懐中デントウ」は互いに互いを生かし あっている。「生きている」という感触は、この「存在」同士の関係に よって生み出されている。〉6

しかし、われわれの身体を包み込む空間というのは、外界の自然やモノや家 族以外の人間であり、それらはわれわれの身体にとっては外部でありながら、

あくまでも家族という内部を作り出す空間と密接に関わっているものであろ う。つまり、現実の存在としての出来事は、それが生起した空間に記憶として 孕み込まれることによって、空間的な同時性を獲得し、相互の位相を脱時間的 に現象化している。センセイが自らの生きてきた歴史そのものの物語として、

自らの所有するモノの電池らは取りも直さず「生きている」。しかし、こうし た外部の自然空間をかなり強固な歴史記憶を共有しているにも関わらず、その 代わり、センセイはなぜか逃げてしまった「妻」の存在を、いま・ここへ「あ なた」を呼びかける手段となる道具立てや言葉を持ち得ないところが興味深い 問題である。無論、ここで言う言葉はセンセイの語りから取った意味ではなく、

6 田中和生「孤独な異界の『私』——川上弘美論」『文学界56-12』、2002.12、P264~P280

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文字化される書き言葉というものである。『センセイの鞄』は既に亡き人のセ ンセイと織り交ぜた過去の記憶を書き手のツキ子の語りによって再現されて いるということを、読者のわれわれはまず確認すべき読みの基本姿勢ではなか ろうか。そうすると、多重構造を持ったセンセイの過去の記憶の語りは間接的 な他者の記憶によって語り直されることを意味する。他者の言葉を媒介にした ゆえにその間に発生する、「あなた」といった内部身体の欠如やズレ(差異)

を孕み込み続けていくのも避けがたいことになる。他者と外部の自然やモノに まつわる歴史的記憶を共有することは無論不可能なことであるが、さすがにモ ノは死んだりはしない。しかし、かつて生きていた過去における、内部に親密 的関係を構築してきた「妻」の記憶を如何にして呼び起こせるものだろうか。

第三者のツキ子の書き言葉によって自己主張の強い妻で苦労してきたセンセ イのトラウマ記憶はなぜかより具体的かつ明晰な「妻」という人物像を再現・

再生させることができなかった。

「妻」の五十歳からの出奔はさぞ並ならぬ大きな衝撃を与えてしまったこと も察しがつくが、どうもセンセイの語りには「計り知れない女のジェンダー性」

に懲りた彼の気後れの一面ばかりが強調され、妻がどれだけ家族に面倒を引き 起こし、迷惑をかけたか、肝心な非日常的な事件らしい事件、非日常的な裏切 りらしい裏切りなどは、それほど明晰な形で説明されていない。センセイの記 憶には妻が〈服装を崩すことがなかった。頑固な人でした〉。センセイの理解 している結婚生活とは、〈微妙に怒りは蓄積され、伝わっていった波が離れた 場所で大きな波を起こすことがあるのと同様、日常の思いがけないところに怒 りが波及するかも〉しれないようなものであった。よって、レモンのはちみつ 漬けを口にするのが苦手であるセンセイと息子らは押し付けられた食べ物を 断れなかったし、好んでもいない山のハイキングをさせられることが多かった。

〈なぜ妻という人間は、いつもこういった面倒を引き起こすのか。だいたい毎 週のようにハイキングに来ることだって、ワタクシは実のところ余り好んでい なかった。息子だってそうです。家の中でじっくりとプラモデルを組み立てた り、近くの小川で釣りかなにかしているほうが、息子にとってはどのくらい幸

〈なぜ妻という人間は、いつもこういった面倒を引き起こすのか。だいたい毎 週のようにハイキングに来ることだって、ワタクシは実のところ余り好んでい なかった。息子だってそうです。家の中でじっくりとプラモデルを組み立てた り、近くの小川で釣りかなにかしているほうが、息子にとってはどのくらい幸