第二章 越境と変身―ファンタジーとしての日常空間に
2.3 主人公と異種における日常と非日常
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立 政 治 大 學
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以上の物語をまとめてみると、異種が人間化に変身すると、人と恋をしたり セックスをしたり、子供をつくることもできる。それにひきかえ、変身せずに 異種のままであることはただ人間の友達、隣人や守護神のような存在であると いえよう。
2.3 主人公と異種における日常と非日常
ここでは、『神様』、『物語が、始まる』、『蛇を踏む』における主人公の元々 日常の生活での周りの人との関係性の様態を探究したい。さらに、非日常の空 間で異種と主人公の間に信頼関係が構築できるのか、主人公の元生活での人間 関係に何か変化をもたらすことがあるのかなどの問題について考察してみた いと思う。
まず、『神様』で最初の段落は「くまにさそわれて散歩に出る」と始まってい るため、全篇では主に私とくまとの散歩を紹介されている。先行研究で高根沢 紀子は『神様』の中の<わたし>とは異種との交流をする巫女的な女主人公の存 在であると述べている。そして、<巫女>としての<わたし>と<神様>としての
<くま>の共通点は<名前>を持ったないということを指摘する。ここから、わた しとくまとの話や行為の遣り取りから二人の関係性を分析したい。わたしとく まが川辺にピックニックしているとき、昼寝をしようとするわたしにくまがタ オルを準備していた。
(前略)くまは袋から大きいタオルを取り出し、わたしに手渡した。
「昼寝をするときにお使いください。僕はそのへんをちょっと歩いて きます。もしよかったらその前に子守歌を歌ってさしあげまようか」
真面目に訊く。子守歌なしでも眠れそうだとわたしが答えると、
くまはがっかりした表情になったが、すぐに上流の方へ歩み去った。
(『神様』、P.15~16)
岸睦子はくまが自ら子守歌を歌うと提議することで、くまが知らないうちに 親のような愛をわたしに再現しようという勘違いになってしまうと指摘する。
例えば、昼寝をするときに「子守歌を歌ってさしあげましょうか」と
<くま>は真面目にきく。親が幼子を優しく包むように、<くま>は
<わたし>を保護すべきと考え、女性である<わたし>を守るのが男性 としての礼儀だと思いこむ。しかしながら<くま>が歌う子守歌で安
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心して昼寝をするには、<わたし>と<くま>の間に、もっと深い信頼 関係が必要だろう。だが、ダンディな男としての、愛する者への慈 しみの表現に、自らの母に愛された幼い日々を再現しようとする。
この一方的な“愛して欲しい願望”を、<わたし>が断ると、<くま>
は<がっかり>する。<くま>には女性への憧れと、母なる女性への幻 想が混在しているが、<わたし>と同一ではない。この勘違いに気が つかない。42
以下では、岸睦子が「子守歌で安心に寝る」ことには深い信頼関係が必要だと 言っている。くまは最近引っ越しばかりで、わたしとの関係は深くはないので、
散歩の誘いは受けられたが、子守歌を歌うことは断わられた。しかしながら、
なぜわたしは子守歌を聞くことを断ったにもかかわらず、反対にくまと抱擁す ることを受け入れたのか。
「抱擁を交わしていただけますか」くまは言った。
「親しいと別れるときの故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろん いいのですが」わたしは承知した。くまは一歩前に出ると、両腕を大 きく広げ、その腕をわたしの肩に まわし、頰をわたしの頬にこすり つけた。くまの匂いがする。反対の頬も同じようにこすりつけると、
もう一度腕に力を入れてわたしの肩を抱いた。思ったよりもくまの体 は冷たかった。(『神様』、P.17)
日本に「郷に入れば郷に従う」という諺がある。そこで、くまは引っ越しした のなら、その場所の規則を従うべきではないだろうか。でも、わたしにとって はくまの「抱擁は故郷の習慣」であるからわたしがその習慣を従うことになっ た。
小谷野敦はこの別れ際に「抱擁」を交わすことから川上文学にペニスなき雄 という願望が見なされるとまとめている。
川上弘美の場合には、ペニスなきオスを願望している。「くま」と「抱 擁」するという『神様』の結末には、川上のそういう原型的な願望が、
あらわれている。43
42岸睦子、「神様」と「草上の昼食」そして「海馬」へ―<くま>と<わたし>の勘違い―、『現代女性 作家読本①川上弘美』、原善編、鼎書房、2005.11、P.46
43小谷野敦<ペニスなき身体との交歓『神様』>、『総特集 川上弘美読本』、ユリイカ 9 月臨時 増刊号、青土社、2003.9、P.146
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松元和也は人間と異種の間に存在する危険性や緊張感を排除するから、「抱 擁」する行動を行なうと見なされる。
ともすると「くま」と「わたし」のメルヘンとみまがいがちな「神様」は、
実は、両者がお互いに類を異にするもので、それに伴う距離や生命 の危険性、他者への緊張感までが書きこまれたスリリングな小説な のである。その集約点こそ、「神様」結末部に配された抱擁の場面で ある。44
さらに、松元は帰宅後のわたしがくまとの散歩を振り返ったことで、逆に くまの異種性と他者性を強調することになった。
つまり、ほのぼのとした「散歩」の余韻を漂わせもする「神様」の結末 には、その実、困難と不可分な“異なるもの”とのコミュニケーシ ョンを回避する「わたし」の選択が書かれているのだ。「くま」の他者 性はいっそう濃くなっていく。45
『神様』の中にくまは動物的様態を変えないままで人間の生活を馴染もうと していることである。そこで、くまは散歩することによって、わたしとくまの 関係性も変えている。元々わたしはくまが子守歌を歌ってくれることさえ拒否 したが、最後くまと抱擁することができるようになった。なぜわたしはくまへ の危険性や緊張感を排除され、くまと一緒に抱擁することになったのか。その ようなわたしとくまとの関係性の変容について、川上が「抱擁した一瞬がすば らしいわけで、(中略)一瞬愛し合えればいいよねというのと一緒」46と解説し ている。それに、ジャクソンは「徹底的な「事実」および「現実」の写生が不可能 であることを強調する幻想文学は、言葉によって構成されたそれ自身の虚構 性に注目する」47と指摘する。
要するに、幻想文学とフィクション文学は虚構性を持つ世界を作り出すこと である。しかも、「変身譚は、現実社会に対立するもう一つの虚構として描か れる。」48と述べている。
つまり、『神様』での人間社会に馴染むという「変身」したくまを通じて、現 実社会と対立する虚構世界を作り上げてきた。そのため、その虚構の世界で たとえわたしはくまが異種だと知っていても、何も恐怖感や緊張感を持たず、
平然にくまと対応することができる。
44松本和也『川上弘美を読む』、水声社、2013.3、P. 29~30
45松本和也『川上弘美を読む』、水声社、2013.3、P. 32
46川上弘美・穂村弘「恋人に期待なんてしない」対談、『総特集 川上弘美読本』、ユリイカ 9 月 臨時増刊号、青土社、2003.9、P.64
47カトリン・アマン『歪む身体 現代女性作家の変身譚』、専修大学出版局、2000.4、P.8~9
48カトリン・アマン『歪む身体 現代女性作家の変身譚』、専修大学出版局、2000.4、P.9
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次に、『蛇を踏む』は、主人公のヒワ子は出勤途中の公園に蛇に踏んでしま い、その蛇が何と不思議にも話をすることができて、人間の様子に変身してヒ ワ子の家に住むようになってしまった物語である。
『蛇を踏む』のはじめでは、ヒワ子の平凡な日常生活と仕事を紹介している。
ミドリ公園を突っきって丘を一つ越え横町をいくつか過ぎたところ に私の勤める数珠屋「カナカナ堂」がある。カナカナ堂に勤める以前 は女学校で理科の教師をしていた。教師が身につかずに四年で辞め て、それから失業保険で食いつないだ後カナカナ堂に雇われたので ある。カナカナ堂では、店番をする。仕入れやお寺さんの相手は店 主であるコスガさんが行い、念珠づくりはコスガさんの奥さんが行 う。雇われた、というほどのことはなく、つまりはただの店番であ る。(『蛇を踏む』、P.9)
以上の段落みると、この小説はかなり「フツウ」であることだと考えられる。
しかし、その後に変身した「蛇」が登場することでこの小説をかなり変えている。
清水良典は川上文学の特徴は「フツウ」と凡庸を描くことである。
川上弘美の特質は、いわばその凡庸化の時代にあって、息絶えかけ た個性やプライドを慰撫するのではなく、「フツウ」の凡庸と無名性 を全面的に引き受けてしまった上で、そっくりそれをラジカルな条 件に変換して物語を書いているところにある。49
川上弘美の特質は、いわばその凡庸化の時代にあって、息絶えかけ た個性やプライドを慰撫するのではなく、「フツウ」の凡庸と無名性 を全面的に引き受けてしまった上で、そっくりそれをラジカルな条 件に変換して物語を書いているところにある。49