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第二章 越境と変身―ファンタジーとしての日常空間に

2.2 変身した「異種」

立 政 治 大 學

N a tio na

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2.2 変身した「異種」

川上文学に<変身>した異種を持つ作品の中に、必ず主人公と異種の間に何か の関係性があり、何かの役割を果たしている。親子関係、恋人関係、友達関係 などである。それぞれ異種の役割はちょうど主人公が欠如している関係性の表 れだと考えられている。まず、「変身」はどのような意味から出現したのかを考 察しよう。先行研究で吉田文憲は、川上文学における変身とは異界に渡る時の 人間の精霊化なるものとして見なされる。

そして、カトリン・アマンの見解によると、変身譚には「異類」と「異界」とい う二つの概念が重要だと指摘している。

日本文学における多くの変身譚においては、「異類」と「異界」という 二つの概念がとりわけ重要である。「異類」とは、禽獣、変化25などの 人間でないものを指し、特に異類婚姻譚、つまり人間と動物の性関 係および結婚を巡る物語に関連する。「異界」は日常的世界から離れ た別世界、化物、妖怪と慿者および異類、幽霊、鬼などの世界を言 い、特に怪談と関連する。26

しかし、小松和彦は「異界」と「他界」という言葉の違いについて以下のように 解釈している。

しかし、「他界」と「異界」には微妙な違いがある。「他界」が「死後の世 界」、「あの世」という性格を強く帯びているのに対して、「異界」の方 はもっと空間的でかつ身近な世界というニュアンスが含まれている。

「異界」や「他界」に対立する語として通常想起されるのは「この世」で あり「現世」あるいは「人間の世界」「生者の世界」などである。27

以上の論点から、「変身」、「異類」、「異界」、「他界」という四つの言葉が論じ られている。それらをまとめると、「変身」とは次元を超えることによって精霊 や妖怪などと見なされている。「異類」とは、禽獣、変化などの人間でないもの を指す。「異界」や「他界」に対立するのは「人間の世界」である。「他界」とは「死 後の世界」にひきかえ、「異界」の解釈は二つに分けられている。一つは日常的 世界から離れた別世界、化物、妖怪と慿者および異類、幽霊、鬼などの世界を

25「変化(へんげ)」:霊魂や動物などが姿を変えて現れること。化けて出ること。また、その現 れたもの。(『大辞林』第二版、三省堂)

26カトリン・アマン『《歪む身体》現代女性作家の変身譚』、専修大学出版局、2000.4、P.11

27小松和彦『異界と日本人―絵物語の想像力』、角川書店、2003.9、P.10

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言う。もう一つは空間的でかつ身近な世界と言われている。

さらに、小松和彦は「異界」の解釈について次のように説明している。

たとえば、空間的にいえば、つき合いの少ない人々の住居や見知ら ぬ人々が住む異郷、未知の部分が多い山や森、水界などが「異界」な いし「異界」の入り口とされる。個人の歴史でいえば、誕生以前の世 界や死後の世界が「異界」とされ、また人類の歴史でいえば、宇宙や 人類の誕生以前の世界と人類や宇宙の滅亡後の世界が「異界」とされ ることになる。それだけではない。「異界」は人間の内部にも存在し ている。秩序づけられた社会的な意識や欲望と、反社会的な、しか し通常は抑圧され封じ込められている意識や欲望である。28 要するに、「異界」に含まれる範囲はかなり広いと見なされる。たとえば、異 郷や未知の所、人類が誕生以前の世界や宇宙の滅亡後の世界、人間の内部にお ける意識や欲望なども「異界」のカデコリ―に属している。

そこで、川上の作品の中に「変身」というイメージを含むを『蛇を踏む』、『物 語が、始まる』、『神様』、『パレード』、『龍宮』という五つの作品を取り上げて

「異種」と人類の関係性、「異界」と「人間界」の境界性について探究したいと思う。

『蛇を踏む』で蛇から五十歳女に変身した異種がヒワ子に自分がヒワ子の母 親ということを説得した。

「あなた何ですか」つづけて、聞いた。するりと聞くことができた。

「ああ。わたし、ヒワ子ちゃんのお母さんよ」(『蛇を踏む』、P.17)

そこで、蛇は 50 歳くらいの女と変身し、ヒワ子のお母さんと自称した。し かし、夜になるとその女はまた蛇に戻っている。なぜヒワ子はこのことに対し てちっとも驚きも怖いも感じていないのか。しかも、なぜヒワ子は簡単に蛇が 自由に自分の家に入住してしまい、蛇を外に追い出すことさえなかったのか。

それはこの物語の中に蛇が母親の役割としてヒワ子を世話する原因だろうか。

難儀な体を動かして卓に向かう。こんなになっても食欲はじゅうぶ んにあり、私は女の用意した食事を口にする。ほうれんそうのごま よごし。昆布と細切り人参のあえもの。さわらの西京漬け。えびい も。白胡麻のかかるしらす飯。食っている間も口の粘膜は蛇になっ

28小松和彦『異界と日本人―絵物語の想像力』、角川書店、2003.9、P.10~11

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たり元に戻ったり、忙しいことこの上ない。蛇になどなるまいと念 じながら、蛇の用意したものを余さず丹念に噛んでのみこむ。

(『蛇を踏む』、P.50)

その五十歳女に変身した蛇は毎日ヒワ子に食事を作ってあげた。ヒワ子はそ のうちに、蛇の存在に慣れているだけでなく、蛇の作ったご飯にも慣れてしま った。なぜヒワ子は本当の母が静岡にいると知っていても、蛇と偽の母娘の状 態として過ごしているのか。また、なぜ蛇はヒワ子に「蛇の世界」に入るように 誘惑するたびに、ヒワ子は明確な態度を取らずに、蛇の要求を拒否しなかった のか。元々不明な態度を取っていたヒワ子はなぜ最後に蛇の世界などい存在し ていないとはっきり意思表示したのか。ここで様々な疑問が浮き上がってくる。

伊原美好によると、ヒワ子は蛇から変身した女と血縁関係がなくても、一緒 に生活できる「家族」のような団体として暮らしていると述べている。

大家族から核家族へ、共働世帯や単身世帯へと変遷した現代のジェ ンダー社会においてもなお、考え方も価値観も趣味も異質で、共に 語り合うものを何も持たない人たちが、血のつながりだけを理由と して共存することを「家族」と定義すると、ヒワ子の奇妙な「蛇」

との日々は正に「家族」との生活そのものの表現である。つまり、

ヒワ子につく蛇は、「お母さん」の姿で、夕食を用意し、仕事から帰 ったヒワ子とビールを飲みながらその日の団欒を一緒にをとる。し かし、その時の会話には、共有する話題が一つもないのだ。(中略) 盲目の母の愛そのものである。「家族」とは議論の場でもなく、一緒 に生活する人々の価値観の擦り合わせも必要もない集団である。共 同生活者の受容でのみ成立する生活空間であるからである。29 現代のシェンダー社会からみれば、「家族」とはたとえ血縁関係がなくても 成立できることである。そこで、ヒワ子はただ蛇とルームメートのように「同 居」するだけだろうか。しかし、なぜヒワ子はその蛇のことを受け入れたのか というのが主な問題ではないだろうか。それに、蛇はヒワ子を世話し、盲目の 母愛を与え、その原因はすべてがヒワ子を「蛇の世界」に誘うためだったのか。

29伊原美好<川上弘美の「蛇を踏む」「センセイの鞄」から―ポスト・ジェンダー社会の中で

「他者」との共存をさぐる―>、(Rim)アジア・太平洋女性学研究会会誌、第 11 巻第 3 号、城西 大学ジェンダー・女性学研究所、2009.12、P.33

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心理学者の河合隼雄は母性の原理は「包含する」機能を持ち、母は子供との一 体性を保つや子供を保護するために、子供を吞み込む可能性もあると指摘する。

母性の原理は「包含する」機能によって示される。それはすべてのも のを良きにつけ悪しきにつけ包みこんでしまい、そこではすべての ものが絶対的な平等性をもつ。(中略)しかしながら、母親は子ども が勝手に母の膝下を離れることを許さない。それは子どもの危険を 守るためでもあるし、母―子一体という根本原理の破壊を許さぬた めといってもよい。このようなとき、時に動物の母親が実際にする ことがあるが、母は子どもを呑みこんでしまうのである。30

そこで、河合は動物界で母が子供を呑む込むことがあると提起している。

『蛇を踏む』でその五十歳の女は蛇から変身したが、動物の生まれつきである

「野生」も含まれている。そのため、その蛇が少しずつヒワ子の生活に浸透され、

それは彼女を蛇の世界に連れてゆくためだろう。

次の段落は何匹の蛇が液体になり、主人公であるヒワ子の体に入り、彼女の 全身を巻き込むように浸透されたシーンである。

引出しを開けるとノートやペンの間から小さな蛇が何匹も這いだ した。這いだして私の腕から首をのぼり耳の中に入ってくる。入 られて、飛び上がった。痛くはないのだが、外耳道に入り込んだ

引出しを開けるとノートやペンの間から小さな蛇が何匹も這いだ した。這いだして私の腕から首をのぼり耳の中に入ってくる。入 られて、飛び上がった。痛くはないのだが、外耳道に入り込んだ

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