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無条件に甘えられ、自分を肯定してくれるもっとも近しい養育者を 仮に《母》的な存在とするならば、ここでのセンセイは、ツキコに とっての代理母的な存在である。(湯豆腐を頼んだということも暗示 的だ)。9
しかし、尾形大は『センセイの鞄』におけるポスト恋愛について、死者の空 気が濃厚に漂わせる空間性に触れながらも、他界する死者の世界に近づきつつ、
死者の不在が同時に懐旧されるノスタルジー10的な恋愛関係などを評価して いる。
「恋愛を前提としたおつきあい」を申し込む七〇歳過ぎのセンセイと、
驚き喜び少し泣く四〇歳近いツキコさん。この物語はセンセイが没 した後、ツキコさんによって語られているのだが、二人の「おつきあ い」はセンセイの死を遠くない未来に見据えながら了承されている。
ツキコさんにとってセンセイは愛情の対象であると同時に居心地の いい故郷のような存在だったのだろう。11
本研究は従来の研究によって指摘される川上作品に表現されている日常的 世界と異界の問題に著眼し、さらに両方の越境性とポスト少女のセクシュアリ ティ及びポスト恋愛の不可能性を取り挙げ、川上文学における退行的な少女の 自律的に完結される身体性を研究課題として探求したいと思う。
1.2 先行研究
以下は『センセイの鞄』に関する先行研究の諸説である。
岩淵宏子はセンセイとツキコの恋愛は日本の恋愛イデオロギーからはずれ ていることを指摘した。
近代以降の日本における恋愛イデオロギーの中心は、異性愛中心主 義と、いわゆるロマンティック・ラブ・イデオロギー―恋愛・結婚・
性愛の三位一体であったが、七〇代の「センセイ」は明らかにはずれ ているし、単なる性愛のパートナーとしても、「できるかどうか、ワ タクシには自信がない」と「センセイ」自分が「厳粛」に口にする通り
9山崎真紀子「母と妻と恋愛をめぐる三つの鞄」―『センセイの鞄』、『現代女性作家読本① 川上弘美』、鼎書房、2005.11、P.93
10ノスタルジア:(nostalgia )《ノスタルジー》 遠く離れた異郷にいて、故郷を懐かしく 思う気持。また、幼年時代など、遠い過去の時を懐かしんであこがれる気持。郷愁。(日本国 語大辞典)
11尾形大「愛・性」、『老いの愉楽―「老人文学」の魅力』、東京堂、2008.9、P.293
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だる。だがそのような「センセイ」との関係性においてこそ、「わたし」
は安寧を見出すことができるのだ。12
又、尾形大は老人の「愛・性」をテーマにし、以下のような論点を述べてい る。
川上弘美『センセイの鞄』は元高校教師のセンセイとその教え子だ った大町ツキコの出会いから始まる。二人が会う場所はたいてい何 の色気もない居酒屋だった。約束しなくても二人は出会い、憎まれ 口をたたきあいながら、不思議と居心地のいい時間を共有する。「恋 愛を前提としたおつきあい」を申し込む七〇歳過ぎのセンセイと、驚 き喜び少し泣く四〇歳近いツキコさん。この物語はセンセイが没し た後、ツキコさんによって語られているのだが、二人の「おつきあい」
はセンセイの死を遠くない未来に見据えながら了承されている。ツ キコさんにとってセンセイは愛情であると同時に居心地のいい故郷 のようなぞんざいだったのだろう。13
以下は『蛇を踏む』に関する先行研究の諸説である。
日野啓三によると、『蛇を踏む』とは、現代日本の若い女性の深層意識の見 えない戦いを含んだ人間と蛇との神話的な戦いの物語である。
「つまり、この作品は《蛇》と《人間》との神話的な戦いの物語であ ると同時に、自足的な《存在》と自覚的な《意識》との言語表現上 の戦いの記録でもあって、この戦いも作者に永遠である。」14
又、黒井千次は『蛇を踏む』における蛇が人間に代わって蛇の世界に人間を 誘うことで反変身的変身譚と考えられている。
「話としては一種の変身譚だが、人間が蛇に変わるのではなく、蛇が 人間に変わって自分の世界に人間を誘いこもうとする。それに惹か れつつも主人公の若い女性が抵抗し、蛇の世界を否定しようとする 姿勢が面白い。その意味では、これはただの変身譚というより、変
12岩淵宏子 (編集)・ 長谷川啓 (編集)『ジェンダーで読む 愛・性・家族』、東京堂出版、2006.10、
P.93
13尾形大「愛・性」、『老いの愉楽―「老人文学」の魅力』、編者:尾形明子・長谷川啓、東京堂出版、
2008、P.292
14日野啓三「戦いの物語」、『文藝春秋』1996 年 9 月号、P.431
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身への誘惑に対する闘いを足場にして生み出された、反変身的変身 譚といえるだろう。」15
そして、押山美知子はこの物語の中に蛇の変貌は女性性なるものの権化と述 べている。
作中に登場する<私>、<ニシコさん>、<住職>に取り憑く<蛇>が、
<お母さん>、<叔母>、<女房>とそれぞれ女の姿に変わることは偶然 ではないはずだ。女の姿になり変わる<蛇>たちは、個々の立場に応 じて母性なり、良妻の資質なりを発揮し、模範的な女性役割の担い 手となって甲斐甲斐しく振る舞う。女性性なるものの権化とも言う べき<蛇>と<私>の、のっぴきならない駆け引きを描いた「蛇を踏む」
は、これもまた、「いまだ覚めず」や「どうにもこうにも」と同様に、
女と女の関係性を描いた作品なのだということに気付いた私は、目 から鱗が落ちるような思いだった。16
又、星野久美子は『蛇を踏む』の主人公ヒワ子は一人暮らしで自立した己の 世界で力を尽くすことで人生の枢要と考える日本社会における典型の女性で ある。その上、蛇の出現は近代日本社会を脱出してきた家族性の表徴と家族関 係の変化に関係があると述べている。
ヒワ子は静岡の親元を離れて一人暮らしと思しく、前述のように<求 められていないこと>を誰か他人さまから強制的に与えられるのを 拒否するような価値観を持っている。自立した己れの世界で力を尽 くすことをこそ人生の枢要と考えるような、ある意味現代日本社会 に典型的な若い女性である。(中略)蛇が何なのかといえば、ヒワ子が 切り捨ててきた自己の価値観になじまないもの、異界の住人である といえよう。自立した己の価値観とは別個にある世間、《お母さん》
と言うからには血のつながりを基準に取るようななにものかである。
この作品は発表当時から《家族》をめぐる物語であると正確にとら えられており、近代日本社会が大家族から核家族へ、ディンクスや 単身世帯へと《脱出》してきた家族性の表徴としての《蛇》という 読みは広く受け容れられている。17
15黒井千次「反変身的変身譚」、『文藝春秋』1996 年 9 月号、P.434
16押山美知子「『蛇を踏む』―女たちの果てしない戦い―」、『現代女性作家読本①川上弘美』、
原善、鼎書房、2005.11、P.27~28
17星野久美子『蛇を踏む』『現代女性作家読本①川上弘美』、原善、鼎書房、2005.11、P.30~31
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1.3 研究範囲と研究方法
本研究の目的は、川上弘美における「異界」空間のファンタジーの幻想性、「変 身」に移動性及び日常性・非日常の変換とはどういう隠喩的な意味が暗示され ているのか、という問題を提起していきたい。
まず、「変身」とは、「身のさまをかえること。からだを他のものにかえるこ と。姿をかえること」と定義される。
「変身」および「変形」と訳されるこのギリシャ起源の言葉では、
「メタ」(meta)が「変化」、「間」および「後」を表し、「モルフェー」
(morphe)が「形」を表す。ところで「変」という部分も共に、A から B へ 移行における過程、すなわち、ある時間軸上での展開を示している。
この時間軸で行われる変化という特質は、変身譚における重要な点 である。18
変身譚における重要な点としては、差異化された空間的な身体の移行と越境 性にあるものである。なお、そういった移動性に伴われる現象としては、名前 の変化という言語表現にもあるという特徴が取り挙げられる。
越境とは、人間の動物界および植物界への移行(動物への変身、離人 化)とその逆、女性/男性および自分/他者という区別を超えたり裏返 したりする越境、同類への変身(分身、自我分裂)、冥界および異界 への移行(幽霊への変身)、無機物、液体および気体(声など)への移 行とその逆などとなる。(中略)だが文学における変身譚での他の重 要な要素としては、名前の変化がある。つまり、文学で変身を表す 唯一の方法は、言語表現の仕方に基づいているからである。19
また、竹村和子は『愛について』における欲望は欠如の別名と指摘している。
そうした異界に伴われる無名化あるいはその言語表現には一種の幼児的要求 のように聞こえるものだと理解していいだろう。
欲望が何かを「求める」ものであるかぎり、欲望は欠如の別名である。
そして人間にとって、欠如を埋めるものは、欠如したもの自体では
そして人間にとって、欠如を埋めるものは、欠如したもの自体では