第三章 近代市民を養成する方法
第二節 実践
近代市民を養成するために、兆民は教育のほか、生活において実際に政治活 動に参加することも強調した。「懇親会」(1888 年)では、兆民は自分が自由民 権派の集会たる「懇親会」をはじめとする政治的イベントに参加したことの感 想を述べていた。その文章では、人間の生活は「家族的生活」と「社会的生活」
に分けられ、前者は私的領域における生活を、後者は公的領域における生活を 指している。我々人間は「社会的動物」だから、「家族的生活」だけに浸ってい るだけでは十分ではない。兆民は「社会的生活」の必要性を以下のように説明 した。
彼の懇親会は種々の効用有るも第一に各人の思想に新鮮な財料を供へて其 脳中鬱積せる思想的炭酸瓦斯を一掃するの益有るものなり
父母は誠に敬愛す可し妻子は誠に慈愛す可し朋友は誠に信愛す可し然ども 常々其同形同色の鼻目口耳に対し其同調の言語を聴きて十年一日なるとき は其愛情は結晶して一種の固形体と成るなり況して家族的生活の如きは動 もすれば吾人の心を収縮せしめて極て多愛多感の性も其上層にいつと無く 自然に利己的の黴を生ずるに至るものなり頑陋なる老爺老媼が銭と孫との 外一切愛情を施すこと無く半以上斯世を去りたる朽軀を以て此二者に未鍊 を留めて只管死を畏るゝが如きは取も直さず家族的生活中の化石体とも謂 ふ可し
家族的生活は利己の生活なり社会的生活は公平の生活なり彼の懇親会は社 会的生活の情念を養ふに於て最も適当なる者なり14
兆民は「懇親会」を中心に「社会的生活」のいいところを説いたが、懇親会 以外の社会的・政治的活動も懇親会と同じように「社会的生活の情念を養ふ」
ことができるに違いない。人間は本来感情豊かで他人と共感できる動物である
14 「懇親会」『中江兆民全集』十一、236-237 頁。
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が、狭隘な「家族的生活」に長く居続けていると、その社会的な感情能力を失 っていってしまう。なぜなら、家族や友人しか見えないからである。そうなる と、人は自然に家族や友人以外の人に無関心になってしまう。それだからこそ、
兆民は「家族的生活は利己の生活」だというのである。
懇親会などの社会活動や政治活動に参加することによって、人は異なる思想 の刺激を受け、固定した思想を調整することができるのである。また、それら の活動への参加によって、人は社会とつながるようになり、自然に他人に関心 を持つようになる。政治活動や社会参加は人間の社会的感情能力を鍛えるため には、大いには必要なことであると彼は考える。
兆民は道徳能力の培養における実践をも強調した。早期の兆民は「リベルテ ーモラル」を唱えたが、晩年の兆民は『続一年有半』で「意思の自由」を否定 し「自省の能」を強調するようになった。「自省の能」とは、「己れが今ま何を 為しつゝ有る、何を言ひつゝ有る、何を考へつゝ有るかを自省するの能」15で ある。
吾人は唯此の自省の能が有るので、凡そ己れが為したる事の正か不正かを 皆自知するので有る、故に正ならば自ら誇りて心に愉快を感じ、不正なら ば自ら悔恨するので有る、此点から云へば、道徳と云はず、法律と云はず、
凡そ吾人の行為は、未だ他人に知られざる前に、吾人自ら之れが判断を下 して、是れは道徳に反する、是れは法律に背くと判断するので有る、故に 道徳は、正不正の意象と此自知の能とを基址として建立されたるもので有 る、啻に主観的のみならず、客観的に於ても、即ち吾人の独り極めで無く、
世人の目にも正不正の別が有て、而して又此自省の一能が有る為めに、正 不正の判断が公論と成ることを得て、茲に以て道徳の根底が樹立するので
15 『続一年有半』『中江兆民全集』十、287-288 頁。
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有る16
兆民のいう「自省の能」とは、自分のすることは正か不正かについて自分で判 断できる能力であり、それこそが道徳心の根基である。それで、兆民は早年か ら晩年にいたるまで道徳を重要視しつづけてきたことがわかるが、しかしなぜ 晩年になって「意思の自由」を否定するようになったのか。それについて、ま ず兆民が「意思の自由」を否定する理由を見る。
兆民は「断行」、ある行為を行うか行わないかについての判断には「行為の理 由」と「意思の自由」があると述べている。「行為の理由」とは、「吾人が何か 為さんとするの場合には、必ず一定の目的が有る」17。行為の理由は二個以上 ある場合、人間に「意思の自由」があると主張する者は、「我精神は果て自身に 撰択して其一を取り、少も目的から制せらるゝことは無い」18とし、「意思の自 由」がないと主張する者は、「吾人が自ら択んだのではなくて、目的の誘動力が 吾人をして択ばしめた」19と考えている。
「意思の自由」があることを主張するのは「宗旨家、及び宗旨に魅せられた る哲学家」20である。もし人は意思の自由がなければ、何のことをしても磁石 と鉄のように目的即ち行為の理由に誘われているだけで、善を賞し悪を罰する こともないだろう、そのようにいうのは宗教家の考え方である。しかし、兆民 は「意思の自由といふものは極て薄弱なるもので有る」21と考えている。
兆民は上戸が酒樽を取り下戸が牡丹餅を選ぶことを例に出して、人に意思の 自由がないことを解釈した。もし上戸が意表に出てわざと牡丹餅を取るとすれ ば、それもまたほかの目的があるからである。人間は行為の目的に駆使されて、
ある行為をするかしないかを判断するのである。「行為の目的」は善をするかし
16 『続一年有半』『中江兆民全集』十、288 頁。
17 『続一年有半』『中江兆民全集』十、283 頁。
18 『続一年有半』『中江兆民全集』十、284 頁。
19 『続一年有半』『中江兆民全集』十、284 頁。
20 『続一年有半』『中江兆民全集』十、284 頁。
21 『続一年有半』『中江兆民全集』十、285 頁。
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ないか、悪をするかしないかにも通用する。
道徳に渉る目的が二箇有つて、前に臨み来つたとせよ、即ち其一は明に正 で、其一は明に不正で、其中の一に決すれば法律若くは道徳の罪人に成る と云ふが如き場合では、ソクラットや孔丘は直ちに其正なる者に決するで 有らう、盗蹠や五右衛門は直ちに其不正なる者に決するで有らう、啻に此 れのみでない、ソクラットや孔丘は、仮令ひ洒落に物数奇に、一たび故ら に其不正なる者を取らうとしても、必ず自ら忍ぶことが出来ないで、必ず 竟に其正なる者を取るに相違無い、是れは即ちソクラット、孔丘、盗蹠、
五右衛門の意思に自由は無い証拠である。22
まるで磁石と鉄がくっつくように、ソクラテスや孔子のような聖人は必ず正な るものを選び、盗蹠や五右衛門のような悪人は必ず不正なるものを選ぶ。たと えソクラテスや孔子は不正なるものを取ろうとしたとしても、それにはどうし ても我慢できないこととなり、結局正なるものを取るに違いない。
しかし、宗教的考えにおいて、人に意思の自由がないことは、善をしても称 賛することはなく悪をしても罰することもないことを意味している。それに対 し、兆民は「慎独の工夫」を強調し、賞すべきと罰すべきとの別があると主張 する。
ソクラット孔丘は、平生身を修め行を礪くの功で、竟に善に非れば為さん と欲するも為すに忍びざる迄に、良習慣を作り来つて居る処が、是れ正に 貴尚すべきで有る、之に反して盗蹠五右衛門は、悪事を好むこと食色の如 き平生の悪習慣が、正に憎む可きで有る、故に吾人の目的を択ぶに於て、
果て意思の自由有りとすれば、そは何事を為すにも自由なりと言ふのでは 無く、平生習ひ来つたものに決するの自由が有ると云ふに過ぎないので有
22 『続一年有半』『中江兆民全集』十、285-286 頁。
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る。23
ソクラテスや孔子は普段から身を修め、ついに善でないことをしようとして も自ずからできなくなる。だから賞されるに値する。それに対し、盗蹠や五右 衛門は普段から悪事をしているので、罰すべきである。兆民は意思の自由を否 定したが、人は善のことを為すべきで、悪いことをすべきでないとし、善を為 し悪を為さないという日常の努力が重要だと強調した。
生知安行の大聖人と、移らず済度す可らざる下愚との外は、平時の修養如 何に由りて、善にも赴き、悪にも赴むくことと成るので有る、我れに意思 の自由が有ると云つて、叨りに自ら恃みて事に臨めば、其邪路に落ちない
生知安行の大聖人と、移らず済度す可らざる下愚との外は、平時の修養如 何に由りて、善にも赴き、悪にも赴むくことと成るので有る、我れに意思 の自由が有ると云つて、叨りに自ら恃みて事に臨めば、其邪路に落ちない