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長州藩と薩摩藩における廃藩置県の構想―木戸孝允と大久保利通を中心に― - 政大學術集成

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Academic year: 2021

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(1)國立政治大學日本語文學系研究所 碩士論文 指導教授:于乃明博士. 立. 政 治 大. ‧ 國. 學. 長州藩と薩摩藩における廃藩置県の構想. ‧. n. al. er. io. sit. y. Nat. ―木戸孝允と大久保利通を中心に―. Ch. engchi. i n U. v. 研究生:黃虹甄 撰 中華民國一〇三年七月.

(2) 要. 旨. 廃藩置県は、日本の近代にとって画期的な意義を有するもの で、近代国家構築のためのきわめて重要な前提である。また、こ の時期迫り来る欧米列強の圧力のなかで独立を維持するために は、中央集権国家の樹立が必要となった。廃藩置県を考えるうえ で最大の問題となるのが、維新政権と藩との関係なのである。特 に、当時政権の主導権を握る薩長両藩の出身者である。 明治初期、大久保利通と木戸孝允の基本構想は、集権的な統一 国家の形成にあたり、藩に依拠する幕藩体制は脱ぎ捨てられ、権 力の集中が図られることになった。しかし、諸藩に依拠しなけれ ばならない維新政権にとって、藩体制を一挙に解体することは至 難のわざであった。そこで、藩体制を維持しながら中央集権化を 進めるという、矛盾した困難な途を模索することになる。この 時、木戸と大久保が廃藩置県に賛成した理由と背景、さらに彼ら の立場の解明は、廃藩置県の政治過程を正確に把握するうえで重 要な問題と考えられる。 第二章では、廃藩置県の背景を明らかにしておきたい。第三章 では、版籍奉還の構想は、諸藩的な割拠体制を打破して、廃藩を. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. n. al. er. io. sit. y. Nat. 目指す第一着手である。当時、木戸が憂慮しているのは、諸藩が 朝廷の権力を左右するという「尾大の弊」について詳しい論じる ものである。そして、第四章では、維新政府リーダーたちの中央 集権化の意図と様々な改革が進行する過程について論じていく。 第五章では、薩長連合と廃藩置県の断行を明らかにするものであ る。また、廃藩置県断行の直後、木戸と大久保の心理の変化も探 求してみたい。 本研究では、廃藩置県断行の過程を木戸孝允と大久保利通の意 図に探ることが主な目的である。木戸と大久保といったトップリ ーダーの政治行動とそれを支える政治意識を、廃藩置県の構想を. Ch. engchi. i n U. v. 対象として確実に分析してみたい。. キーワード:廃藩置県、明治維新、木戸孝允、大久保利通、中央集権化.

(3) 目 第一章. 次. 序 論 ............................................ ....................................... 1. 第一節. 研 究 動 機 と 目 的 ............ ...................... ........................... 1. 第二節. 先 行 研 究 ................................................................ ........ 3. 第三節. 研 究 内 容 と 方 法 ................................ ............................ .4. 第二章. 維 新 政 権 の 確 立 ............................................ ..................... 7. 第一節. 王 政 復 古 の 大 号 令 ..................... ............................... ......7. 第二節. 戊 辰 戦 争 の 影 響 ........................... ............................... ....9. 第三章. 政 治 大. 版 籍 奉 還 ............................................ ............................ ...16. 立. 木 戸 孝 允 ―「 尾 大 の 弊 を 防 ぐ 」.....................................16. 第二節. 大 久 保 利 通 ―「 土 地 人 民 返 上 」.....................................22. 第三節. 四 藩 主 の 上 表 ............................................................. ...24. 第四節. 木 戸 孝 允 ― 知 藩 事 世 襲 制 の 反 対 ............................ .......27. ‧ 國. ‧. Nat. y. 中 央 集 権 化 へ の 模 索 .........................................................31. sit. 第四章. 學. 第一節. 1. 長 州 藩 の 脱 隊 騒 動 ................................ ...................... 31. 2. 薩 摩 藩 の 反 発 ―大 久 保 利 通 と 島 津 久 光 の 対 立 ............ .35. 第二節. 西 郷 隆 盛 の 親 兵 創 設 構 想 ................................ ............40. 第三節. 木 戸 孝 允 の 急 進 主 義 か ら 漸 進 主 義 へ ..........................46. 第四節. 政 府 の 改 革 ............................................................... .54. 1. 大 久 保 利 通 ― 政 府 強 化 構 想 ....................................... .54. 2. 木 戸 孝 允 ― 政 府 改 革 案 ............................................ ...56. 3. 木 戸 ‧西 郷 の 参 議 就 任 ............................................ .....58. 第一節. n. 第五章. al. er. 反 政 府 運 動 ....................................................................31. io. 第一節. Ch. engchi. i n U. v. 廃 藩 置 県 の 断 行 ...................................................... ..........64 諸 藩 財 政 の 窮 迫 ............................... ............................. 64.

(4) 第二節. 長 州 藩 に お け る 廃 藩 論 の 台 頭 ................................ .68. 第三節. 薩 長 両 藩 の 秘 密 会 談 ................................ ...............71. 第四節. 廃 藩 置 県 の 構 想 ........................................... ...........73. 1. 木 戸 孝 允 ―「 万 国 対 峙 」. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 73. 2. 大 久 保 利 通 ― 「 大 事 の 成 る 」 .................................. 79. 第五節. 廃 藩 置 県 の 衝 撃 ................................ ......................82. 第六章. 結 論 ................................................................ ............86. 附 録 ........................................... .......................................... .....90. 政 治 大. 参 考 文 献 ................................................. .............................. ....98. 立. ‧. ‧ 國. 學. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. i n U. v.

(5) 第一章 第一節. 序論 研究動機と目的. 二百六十年以上つづいてきた江戸時代の体制は幕藩体制と呼 ばれている。それは幕府(将軍)と藩(大名)に基づいた政治 社会体制である。幕府にかわってできた新政府は、欧米列強が 虎視眈々と見守る中で、独立を維持するため、早急に日本を近 代的な中央集権国家に生まれ変わらせるという課題に直面して いた。そして、日本を近代国家になるため、様々な改革を進め た。. 政 治 大. 日本の新王権の定着は、明治天皇を中心に、実質的に日本の 全国的統一政権を確立させることであって、この第一歩が王政. 立. 復古の大号令であり、その第二歩が版籍奉還の推進である。版. ‧ 國. 學. 籍奉還は、薩長土肥が、率先して、徳川幕府から与えられ、支 配をまかされていた版籍を一旦天皇に返したことによって指導 権を掌握し、これをきっかけに明治政府における四藩専制体制. ‧. の基礎が定められた。. Nat. sit. y. こうして、幕藩的封建制は解体させられ、中央集権的近代国 家の形式が整えられた。しかし、集権化政策が進められてきた. io. n. al. er. ものの、諸藩の財政はますます悪化の一途をたどった。特に、. i n U. v. 戊辰戦争の軍事費が諸藩の財政を苦しめることになった。また. Ch. engchi. その時期には維新政府の軍事力はほとんど有力藩である長州藩 と薩摩藩の藩力に依存した。. 長 州 藩 の 中 心 人 物 は 木 戸 孝 允 ( 1 8 3 3 ~ 1 8 77 ) で あ り 、 薩 摩 藩 の ほ う は 大 久 保 利 通 ( 1830~ 1878) で あ る 。 彼 ら は つ ね に 明 治 維新史の中心的集団のリーダーとして活動した政治家であった だけではなく、政治思想家としてもきわめて豊かな思想的営為 をおこない、明治国家体制の構想者として大きな歴史的影響を 残し、近代国家への路線を提起していることである。木戸と大 久保は廃藩置県と中央集権体制構築にあたって中心的役割を果 し た 。当 初 、 政 府 改 革 に つ い て 木 戸 と 大 久 保 が 対 立 し 、 改 革 の 行 方は、混乱していたが、廃藩断行という急進的な中央集権徹底 の目標を立てることで、両者は協力するようになった。 1.

(6) 廃藩置県は、日本の近代にとって画期的な意義を有するもの であったが、同時に、そこには私たちにとって不思議な深い謎 も残されている。その最たるものは、幕府が倒れた後に成立し た維新政権が、表面的には天皇親政を掲げたものの、実質的に は諸藩に支えられた政権であったにもかかわらず、何故、自ら の基盤でもあった藩体制の解体という一大飛躍を明治四年七月 の時点で決断したのか。また、廃藩置県を考えるうえで最大の 問題となるのが、維新政権と藩との関係なのである。特に、当 時政権の主導権を握る長州藩と薩摩藩である。 したがって、少数の薩長出身の政府実力者たちを中心にひそ かに計画され、政府から諸藩へ一方的に通告する形で断行され. 政 治 大. た。しかし、数百年つづいて以来日本の封建体制は一瞬に否認 されることができるのか。廃藩置県の発令に新政府のリーダー. 立. たちを踏み切らせた原因は、何だろうか。廃藩置県はどうして. ‧ 國. 學. 必要なのか。. 原 口 清 が 指 摘 し た よ う に 、「 西 郷 隆 盛 の 親 兵 創 設 構 想 に よ っ て. ‧. 大久保も廃藩断行に踏み切ることができた」という論説がある。 また、廃藩置県を構想し推進した第一人者は木戸であったと述. Nat. sit. y. べている。こうみてくると、この時、木戸と大久保が廃藩置県 に賛成した理由と背景、さらに彼らの立場の解明は、廃藩置県. io. al. er. の政治過程を正確に把握するうえで重要な問題と考えられる。. n. v i n そ れ に は 、 1869 年 樹 立 Cさh れ る 太 政 官 政U府 の 特 質 と 維 新 変 革 の e n県g 、 c h四i藩 連 合 が 創 出 し よ う と し 課題の展開から帰結する廃藩置 た統一国家政権、結局矛盾になって爆発した征韓論と大久保政 権の成立など、明治初年は維新史ではもっとも未開拓時期の国 家について構想を解明する必要があると思っている。 明治新政権の確立過程は豊かな研究蓄積がある。また、廃藩 置県実施の政治過程についての研究があるが、トップリーダー である政治家の政治行動と政治意識を問題とした研究は、数が 多くない現状である。 本研究では、廃藩置県断行の過程を木戸孝允と大久保利通の 意図に探ることが主な目的である。木戸と大久保といったトッ プリーダーの政治行動とそれを支える政治意識を、廃藩置県の 2.

(7) 構想を対象として確実に分析してみたい。 この研究を通じて、木戸孝允と大久保利通における廃藩置県 の構想を究明することによって、明治維新史の研究に、もう一 つの視点を提供することが出来れば幸いである。. 第二節. 先行研究. 廃 藩 置 県 に 関 し て は 、 1980 年 か ら 、 主 と し て 廃 藩 置 県 に 至 る 政治過程を中心に研究成果がある。松尾正人、原口清、高橋秀 直、宮地正人、勝田政治などの論稿や著作である。. 政 治 大. 松尾正人氏の研究については、明治初年の政治過程の中に廃 藩 置 県 を 位 置 づ け 、考 察 を 試 み た 。彼 の 著 書『 廃 藩 置 県 の 研 究 』. 立. によって、廃藩置県問題を考えるうえでの基礎的な材料と論点. ‧ 國. 學. はほぼ出尽くしたとみてよかろう。版籍奉還の論述に始まって、 これに起因する官制、藩政の改革ならび政治、社会の推移への 検討があり、その過程での廃藩論の形成とその諸相と廃藩置県. ‧. に至るまでの政治過程が分析されている。その中には、松尾氏. y. Nat. が主張したように、政府内部に廃藩に導こうとする有力な政治. sit. 勢力が存在したことは充分に認められる。しかし、それは政府. n. al. er. io. 首脳たちの意図で決めたものかという疑問を持っている。. i n U. v. ま た 、 廃 藩 置 県 は 何 故 1871( 明 治 四 ) 年 七 月 に 突 然 実 施 さ れ. Ch. engchi. たのかという問題が存在している。この点に関する従来の研究 は、次の二点に集中している。①維新政権は成立当初から藩体 制の解体の意図を持っていたのか。何時ごろになって、藩体制 の解体を具体的な課題として想定し出したのか。②維新政権が 廃藩を決断した理由と背景はどこにあるのか。 ①については、こうした研究状況に風穴をあけたのが原口清 氏 の 論 文(「 廃 藩 置 県 政 治 過 程 の 一 考 察 」 『 名 城 商 学 』二 九 別 冊 、 1 98 0 年 ) で あ っ た 。 こ の 論 文 に お い て 、 1 8 7 0 ( 明 治 三 ) 年 秋 ご ろの政府首脳の間に全般的廃藩構想はなく、このことは廃藩置 県断行の直前まで変わらなかったと主張した。同時の維新政権 とリーダーは、国際的圧力と国内諸矛盾のなかで、藩体制の存 在の矛盾を強く認識しながら、その解決の道を府藩県三治制の 3.

(8) 徹底化に求めていたと見なした。基本的に、藩体制を維持した ままで中央集権化と領有制の解体をうながす方針であり、薩長 を支柱の中心とする政府を樹立するという考えであった、と述 べている。 ②については、対外事情と国内事情のそれぞれ両方に要因を 求める見解がある。前者の代表的なものとしては、対外的には 唯一の主権者でありながら、国内的には旧幕府領という限られ た地域の土地、人民支配にとどま った維新政権の抱えた矛盾が、 廃藩置県の実施を急がせたとする見解がある。また、後者のそ れとしては、とくに戊辰戦争後顕著となる藩財政の窮迫や農民 一揆の発生、それに士族層を中心とする反政府運動や対外(朝. 政 治 大. 鮮)強硬論の激化、台頭などが維新政権を追い詰め、廃藩置県 の断行を余儀なくさせたとする見解があげられる。. 立. また、宮地正人氏の説によると、幕末期に登場してくる諸々. ‧ 國. 學. の政治勢力や個人によって起こされた新しい国家体制の樹立を 求める動きが大きな意味で廃藩置県に結び付けたいとする声が、 終的に廃藩置県につながったとみている。. Nat. y. ‧. 諸藩のうえに超越的に存在する維新政権を生み出し、それが最. sit. 以上が、維新政府首脳が廃藩置県の断行を想定した時期なら. al. er. io. びにその理由、背景に関わる主要な見解であったが、藩財政の. v i n あ っ て も 、 主 導 的 な 要 因Cで は な い と す る も の で あ る 。 つ ま り 、 hengchi U 廃藩置県をもたらした主導的な要因は、維新政府首脳による藩 n. 窮迫や反政府運動などは、廃藩置県をもたらした重要な背景で. 体制解体を目指した一連の自主的な動きにあった。とするなら、 廃藩置県問題に関する、維新政府内の首脳のそれぞれの構想を 深く研究することこそが、最も重要な問題となるのではなかろ うか。. 第三節. 研究内容と方法. 本稿は第一章で研究動機と目的、先行研究、および研究方法 について述べる。 第二章では、廃藩置県の背景を明らかにしておきたい。戊辰 4.

(9) 戦争の終結は、ある意味で明治政権の最初の転換期となった。 戦争の発生によって政府の財政状況は更に窮迫する。これがの ちの版籍奉還と廃藩置県の前提になっていくと思われる。 そして、第三章では、版籍奉還の構想は、諸藩的な割拠体制 を打破して、廃藩を目指す第一着手である。当時、木戸が憂慮 し て い る の は 、諸 藩 が 朝 廷 の 権 力 を 左 右 す る と い う「 尾 大 の 弊 」 である。また、大久保は「土地人民返上」建白書を出て、王土 王民思想に基づいて、自らの土地と人民は天皇の所有と述べて いた。一方、日本の新王権の定着は実質的に日本の全国的統一 政権を確立させることで、この一治化への第一歩推進がほかな らない「版籍奉還」の推進であった。. 政 治 大 挙に解体することは至難のわざであった。また、不平士族の反 立 政府運動は、絶えず発生していた。そこで、藩体制を維持しな. 第四章では、諸藩に依拠する維新政権にとって、藩体制を一. ‧ 國. 學. がらなおかつ中央集権化を進めるという、矛盾した困難な途を 模索することになる。そこから、集権化を一層推進した西郷隆. ‧. 盛の親兵創設構想が出てくる。そして、他方木戸の基本的な政 策態度は、常にリスクを伴う急進主義から漸進主義へと大きく. Nat. sit. y. 転換した。この時期、薩長両勢力のリーダーである大久保と木 戸が新政権の主流派を構成していた。中央集権国家の形成とい. io. n. al. er. う大目標が実現する。本章は、維新政府リーダーたちの中央集. i n U. v. 権化の意図と様々な改革が進行する過程について論じていく。. Ch. engchi. そして第五章では、まず薩長連合と廃藩置県の断行を明らか にするものである。廃藩置県断行の直後、木戸と大久保の心理 の変化も探求してみたい。次には、廃藩に引きつづく必然的な 措置として、すなわち藩体制の打破、統一国家建設の政策が行 われた。木戸の建案により、正院が太政大臣、納言、参議など で構成され、天皇が親臨して万機を裁決する所とされたように、 立法、行政、司法三権の最高決定権を持つ官庁である。大久保 は、最大の中央官庁である大蔵省の長官となることにより、内 政の実権を握ったのである。統一国家の建設が重要な課題であ るのと同じように、これからその実現のため不可欠の施策とし て、特に政府の人事変動について探ってみたい。 本稿では、歴史学の分野でよく使われる政治家たちを書いた 5.

(10) 書簡や日記分析法を駆使しながら、研究を進めていくこととす る。 明治期、政治家の間では面会し意見を交換し合うというより、 よく書簡で文通していた。当時の政治家たちは一日に何通もの 書簡を書いて、お互いに送ったり、受け取ったりしていたわけ である。 そして、この書簡と並ぶ重要な史料が日記である。日記は他 者に見せないことを前提に書かれることが多いが、日記によっ て日記作成者の本音がよくうかがえるものであって、本論文で 多用する所以である。. 政 治 大. 木戸と大久保の動向を調べる場合に不可欠な文献としては、 日 本 史 籍 協 会 叢 書 が 出 版 さ れ た 『 木 戸 孝 允 日 記 』、『 木 戸 孝 允 文. 立. 書 』、 『 大 久 保 利 通 日 記 』お よ び『 大 久 保 利 通 文 書 』な ど が あ る 。. ‧ 國. 學. それは、日本近代史におけるもっとも重要な史料となっており、 本研究でも主な資料として多用している。本研究は廃藩置県問 題に関する時代背景とその前後の木戸と大久保の思想をこれら. ‧. 基本資料に依拠して、研究するものである。. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. i n U. v. 6.

(11) 第二章 第一節. 維新政権の確立 王政復古の大号令. 維新政権は、王政復古の政変と戊辰戦争を通じて形成され、 廃藩置県による統一国家成立以前の過渡期の政権である。また、 幕末から明治初年の朝廷において、その時に討幕派と公議政体 派 に 分 か れ 、 討 幕 派 は 薩 摩 藩 、 長 州 藩 、芸 州 藩 (安 芸 藩 、 広 島 藩 ) で、公議政体派は土佐藩、越前藩、尾張藩である。 1 86 6( 慶 応 2 ) 年 1 月 の 薩 長 同 盟 の 成 立 後 、 討 幕 派 は 第 二 次 征 長戦争で長州藩を支援し、倒幕を目的とした軍事的、政治的な. 政 治 大. 提携を強化している。そして、幕府と倒幕派勢力は、いずれも 天皇の政治的役割を重視し、朝廷の掌握とその上で政治指導権. 立. を確保することに全力をあげたのであった。. ‧ 國. 學. 1 86 7( 慶 応 3 )年 の 前 半 期 の 政 局 で 、幕 府 と 倒 幕 派 と の 間 の 最 大 の 争 点 は 、 兵 庫 開 港 1を め ぐ る 問 題 で あ っ た 。 一 方 で は 、 薩 摩. ‧. 藩は、兵庫開港問題で敗退した結果、平和的な政権奪取が不可 能なことを悟り、しだいに武力倒幕路線を鮮明にかわって行っ. Nat. sit. y. た。王政復古を主張する岩倉具視との提携を強め、倒幕の密勅. io. 画 策 し た の で あ る 2。. al. er. の獲得に全力をあげている。そして長州藩と合わせて、出兵を. n. v i n な お 、 討 幕 派 に よ っ てC画 策 さ れ 、 武 家 政 治 と 共 和 制 な ど を 廃 hengchi U し、元の天皇を中心に復した政体転換を目指す。統治権が江戸 幕府から朝廷に移ったことである。それは徳川を打倒し、天皇 を頂点に据えた新政権を樹立するための画策である。 民衆はまだ自分自身の革命的指導部をもち全国的に結集する ことはできなかった。そして、封建的秩序は、いたるところで 解体しはじめた。したがって、その革命的力量は、倒幕派志士 に握られるほかなかった。. 兵庫開港要求事件とは、慶応元年 9 月(1865 年 11 月)、イギリス・フランス・オラン ダの連合艦隊が兵庫沖に侵入し、その軍事力を背景に安政五カ国条約の勅許と兵庫の早 期開港を迫った事件。アメリカ合衆国は艦隊を派遣しなかったものの公使が同行してお り、四カ国艦隊摂海侵入事件などともよばれる。 2 田中彰『近代日本の軌跡1明治維新』吉川弘文館、1994 年、p.115~116。 7 1.

(12) そうしたら、封建体制の頂点であり、封建制の諸矛盾の焦点 である幕府の打倒が当面の歴史的課題であるこの段階において は、倒幕派はある程度に民衆をにぎることができた。この時期 には、どの藩にも、大なり小なりの倒幕派に心を寄せる勢力が できていた。豪農や商人の間にも倒幕思想はじょじょにひろま っ て い た 3。し た が っ て 、時 代 の 要 請 に 応 じ 、1 8 6 7 年 1 0 月 1 4 日 、 第十五代将軍徳川慶喜は政権を天皇に返上した。つまり大政奉 還の上表を朝廷に提出した。 そ の う え 、 翌 日 に 朝 廷 は そ れ を 許 し た 。「 大 政 奉 還 」 が 成 立 す れば幕府を討つ口実はなくなるが、西郷隆盛、木戸孝允、大久 保利通らは、あくまで武力で幕府を倒さなければ、安定した新. 政 治 大. 政権はつくれないと確信していたので、とりあえず徳川慶喜の 大 政 奉 還 願 い と 同 じ 1 4 日 早 朝 、「 討 幕 の 密 勅 」 な る 文 書 を 、 天. 立. 皇 の 意 志 と は 無 関 係 に 、 自 派 の 公 卿 か ら 出 さ せ て お き 、 15 日 以. ‧ 國. 學. 後にも、あらためて挙兵のきっかけをつくろうと、京阪地方で も江戸でも、あらゆる方法で幕府を挑発し、また王政に復古す れ ば 、年 貢 は 半 減 す る と の う わ さ を 流 し 、民 心 を 獲 得 に 勤 め た 4。. ‧. こうして王政復古の大号令は、大政奉還後の状況を打破する. Nat. sit. y. ものであった。そこで、幕府だけではなく、二条摂政主導の、 さらには五摂家主導の朝廷の体制も廃止する必要があった。そ. io. n. al. er. のためには鎌倉幕府の前にできた摂関政治の復活しかならず、. i n U. v. より昔の体制が望まれた。すなわち、天皇は王政を復古し、国. Ch. engchi. の威信を回復するという基礎を立てようとした。 1 86 7 年 1 2 月 9 日 に 王 政 復 古 ク ー デ タ ー が 断 行 さ れ 、新 政 府 が 発足した。王政復古の大号令では、徳川慶喜の大政返上と将軍 辞退を許可し、王政復古と国威の挽回を目的とすることが宣言 された。それは「神武創業の始」に基づくこと、身分に関係な く至当の公議を集めて決定していくことを表明している。また、 この大号令では、摂政、関白などの廃止が宣言され、それに代 わ る 機 構 と し て 、 総 裁 、 議 定 、 参 与 の 三 職 が 設 置 さ れ た 5。 三 職 の設置は、王政復古を標榜して、総裁には有栖川宮熾仁親王、. 3 4 5. 井上清『日本の歴史(中)』岩波書店、1988 年、p.110。 井上清『日本の歴史(中)』岩波書店、1988 年、p.111。 鳥海靖‧松尾正人‧小風秀雅『日本近現代史研究事典』東京堂 、1995 年、p.31。 8.

(13) 議定には皇族や討幕派公卿および御所警備にあった五藩主、参 与には岩倉具視、西郷隆盛、太久保利通ら討幕派の公卿および 五藩から推挙された藩士がそれぞれ任命された。 すると、旧幕府勢力を一掃していたが、政変に際して朝廷勢 力や公議政体派諸侯との提携を必要とした結果、討幕派と公議 政体派との合体を余儀なくされ、王政復古政府とも称される構 成となっている。こうして成立した王政復古政府は、民族統一 の象徴である皇室の親政をイデオロギーとし、のちの明治新政 府へと発展する。 王政復古の宣言は、天皇統治の一点をのぞいて過去の一切を 否 定 し 、百 事 一 新 の 先 行 条 件 を 提 供 し た 、そ の よ う な 意 味 で の 、. 政 治 大. 近 代 日 本 の 出 生 証 で あ っ た 6。. 立. それがゆえ、王政復古の大号令は、徳川慶喜の政権返上と将. ‧ 國. 學. 軍 職 辞 退 を 承 認 し 、約 7 0 0 年 続 い た 摂 関 制 と 江 戸 幕 府 を 廃 絶 し 、 武 士 の 政 治 も 終 わ り を つ げ た 。三 職 の 参 与 に は 、五 藩( 薩 摩 藩 、 土佐藩、越前藩、芸州藩、尾張藩)から三名ずつの藩士が任命. ‧. され、岩倉、西郷、大久保、後藤象二郎らが実権をにぎった。. y. Nat. 同時に新政府が討幕派の指導権の確保を企図したものと言える。. sit. 王政復古以後の政府が、概して討幕派である有力藩との連合を. al. n. 央集権への第一歩が着手された。. 第二節. Ch. engchi. er. io. 通じて維持していた。それで、討幕派が旧体制による全国的中. i n U. v. 戊辰戦争の影響. 1 86 8 年 を 通 じ て の 大 き な 事 件 は 、戊 辰 戦 争 と い う 内 乱 で あ る 。 こ の 内 乱 は 、1 8 6 8 年 1 月 2 7 日 ( 明 治 元 年 一 月 三 日 ) 、鳥 羽 伏 見 の 夕やみにとどろく砲声とともにはじまった。しかも内乱はこの 年 の う ち に は 終 わ ら な い で 、 翌 1869 年 6 月 27 日 (明 治 二 年 五 月 十 八 日 )の 五 稜 郭 陥 落 ま で つ づ い て い る 。 ま さ に 一 年 五 ヶ 月 に わ たるのである。 江戸時代の日本は徳川幕府と諸大名による封建国家であった が、戊辰戦争を経て権力を確立した明治新政府によって行われ 6. 井上勲『王政復古』中央公論社、1994 年、p.340。 9.

(14) た 諸 改 革 (明 治 維 新 )に よ り 、 近 代 的 な 国 民 国 家 の 建 設 が 進 ん だ 。 1 8 6 8 年 2 月 1 2 日 付 で 、伊 藤 博 文 に 送 っ た 手 紙 に 木 戸 は こ う 述 べている。. 。. 爰 元 之 光 景 十 分 気 に は 入 不 申 候 。一 昨 年 、御 国 之 戦 争 ( 四 彊 戦 争 )容 易 に 相 済 候 故 、後 之 一 新 十 分 に 参 り 不 申 様 之 気 味 に 而 、此 度 之 戦 争( 戊 辰 戦 争 )も い づ れ も 存 外 に 容 易 に 相 片 付 候 に 付 、上 下 と も 骨 に 入 ら さ る 気 味 不 少 、 諸事下流にのみ随ひ目前之処にばかり力を用ひ永遠之 大策とては更に不被相窺、甚以不平至極に御座候得共、 傍 観 出 来 不 申 に 付 、乍 不 及 、陰 と な り 日 向 と な り 相 尽 し. 政 治 大. 申 候 得 共 、兎 角 徹 上 仕 り か ね 申 候 。永 遠 之 策 は 常 人 之 目 に も 不 見 事 ば か り に て 花 々 敷 事 と て は 更 に 無 之 、当 季 之. 立. 事 は 形 而 已 を 見 で 相 馳 せ 、其 実 を 推 し 候 人 は 、甚 だ 少 な. ‧ 國. 學. く 、政 務 第 一 之 会 計・内 国 両 事 務 等 も 纔 一 両 人 之 人 有 之 候 而 已 に 而 、実 行 之 處 容 易 に 相 挙 り 兼 、付 而 は 肝 要 軍 防 等も自ら目途不相立、多くは只々人数調べ位之処にお. ‧. と ヾ ま り 、宇 内 之 大 勢 を 察 し 、我 力 を 顧 み 候 而 、前 途 不. y. Nat. 朽 之 規 則 等 に 心 を 用 ひ 候 人 柄 は 尤 少 く 、段 々 建 言 仕 見 得. sit. 共 、思 ふ よ ふ に も 至 り 兼 、慨 嘆 罷 居 中 候 。何 歟 よ き 御 工. al. er. io. 夫 ど も 御 座 候 は ゞ 御 教 示 偏 に 奉 願 候 。根 本 確 乎 不 仕 と き. v i n Cひh候 人 、多 く は U 今日朝廷之御為と思 枝葉へ而已尽力仕も i e h n c 相 成 候 道 理 に 而 、此 勢 に gく の 相 勝 ち 候 に 付 、益 根 本 は 危 n. は、決而枝葉不盛道理に付、只是而已に心をもみ申候。. て 相 流 れ 候 と き は 、日 本 中 に は 、当 分 相 反 し 侯 も の 無 之 と も 、終 に 一 統 之 民 心 不 平 を 抱 き 、随 而 海 外 四 方 へ 信 を 失 い 、不 可 恃 も の と 見 透 れ 候 様 相 成 候 と き は 、い か 様 の 大患害出来候歟も難被図と苦心に苦心を重ね申候…7 木戸は「下流」にたいする「永遠之大策」の必要を主張する。 「永遠之大策」とは、後半に「宇内(世界)之大勢を察し我力 を顧み候て前途不朽之規則等に」と説明されるように主権国家 の構築である。そして、この「永遠之大策」を進める手段は、 非 妥 結 的 な「 戦 争 」、つ ま り 戊 辰 戦 争 で あ る「 内 乱 」だ と 述 べ る 。 7. 日本史籍協会『木戸孝允文書』三、東京大学出版会、1971 年、p.12~15。 10.

(15) これが日本の内乱に展開できないことはいけないでしょう。内 乱を手段とする中枢権力の肥大化、そして旧体制の解体である。 戊辰戦争が維新政府側にとって思いの外有利に展開している ために、国際政治の趨勢を見極めて、必死になって十年、百年 先を見透して、厳しい国際環境に対応出来る新しい国家構想を 立てようとする人物が維新政府の中には見当たらない。枝葉末 節 の 問 題 に 気 を と ら れ 、新 国 家 の 根 本 法 規(「 前 途 不 朽 之 規 則 」) 等を構想しようとするような人物はいないと慨嘆しているので ある。8 それから、戦争と維新改革との関係を考えていくと、まず第 一に、それまでかなり苦しい財政状況に加えて、戦争参加は窮. 政 治 大 収入ではとうていまかなえず、三都の大商人や領内の豪農商な 立 どからの借金や専売による収入、さらには藩札の発行などによ. 迫を一層に増した。各藩とも幕末からすでに年貢を中心とする. ‧ 國. 學. り、かろうじて財政を維持していた。そこに戊辰戦争の軍事費 の支出が重くのしかかることにより、諸藩の財政運営はますま. ‧. す 苦 し く な っ て い た 9。 こ れ が の ち の 版 籍 奉 還 と 廃 藩 置 県 の 前 提 になっていると思われる。. y. Nat. sit. 二番目には、武士社会の解体にともなう社会福祉政策として. al. er. io. の地禄処分がある。要するに、失業手当が新政府財政の三十四. v. n. パ ー セ ン ト を 占 め る と い う 巨 大 な 額 に の ぼ っ た こ と で あ る 10。. Ch. engchi. i n U. そ れ に 、 1869 年 四 月 ご ろ の 大 久 保 の 意 見 書 は 、 当 時 の 政 治 危 機について「近来容易ならざる形態に推移り、外外国の軽蔑を 受、内草莽の凌辱を蒙り、下人心に於ては物議騒然、日々紛乱 に及ばんとす。堂々たる政府の大権何れの地に在るを知らず、 真に旧幕府の悪政に劣ること幾許ぞや」と感嘆した。かくて下 民蜂起との対決、草莽浮浪の士の整理を決意した封建支配者た ちが、外国の侵略にたいする危機感と相まって、権力の早急な 統 一 を 求 め た の は 、当 然 で あ っ た 。加 る に 戊 辰 戦 争 へ の 出 兵 は 、 すでに枯渴していた諸藩の財政をどん底に落とし入れた。 福地惇『明治政府と木戸孝允』高知大学学術研究報告人文科学編第 44 巻、1995 年、p. 89~109。 9 長野暹『西南諸藩と廃藩置県』九州大学出版会、1997 年、p.261。 10 小島慶三『戊辰戦争から西南戦争へ/明治維新を考える』中公新書 、1996 年、p.122 ~123。 11 8.

(16) 各 藩 の 借 金 の 状 況 を み て み よ う 。 藩 全 体 の 数 は 277 で 、 1843 ( 天 保 14) 年 以 前 の 古 債 総 額 は 1202 万 円 、 1844- 67( 慶 応 3) 年 の 二 十 四 年 間 の 負 債 が 1122 万 両 、 こ れ に 対 し 1868- 71(明 治 4)年 廃 藩 ま で の 四 年 間 の 負 債 が 1282 万 両 ( ほ か に 政 府 か ら の 借 金 643 万 両 ) で あ っ た 。 年 が く だ る に し た が っ て 、 物 価 が 上 が っていることを考慮にいれたとしても、戊辰戦争時にたまった 負債がいかに大きいか知ることができよう。また武器購入など に よ る 外 国 か ら の 借 金 が 400 万 両 あ り 、 そ の ほ と ん ど は 1868 年 以 後 の も ち 134 藩 に の ぼ り 、 金 沢 、 紀 州 、 熊 本 、 肥 前 、 土 佐 、 岡山などの大藩が名をつらねていた。領主の立場からしても廃 藩 は 不 可 避 で あ っ た 11。. 政 治 大. 1 86 9 年 1 2 月 に は 、 狭 山 藩 と 吉 井 藩 ( と も に 一 万 石 の 最 小 藩 ) が廃止されたのをはじめ、盛岡、長岡、福本、高須、丸亀、竜. 立. 岡、徳山、大溝、津和野の諸藩が廃止された。その多くは、藩. ‧ 國. 學. 制改革の失敗や財政窮乏のため、藩の存続が不可能となって、 藩知事(藩主)と藩士の家禄を中央政府の負担に肩替わりさせ たのである。. ‧. 三番目には、明治二年五月、その論功行賞があり、新政府に. Nat. sit. y. たてついた旧幕府側に対しては苛酷な処分が行われた。. er. al. n. う 12。. io. 諸藩への戦功賞典及び処分のうち主なものを附録1に挙げよ. Ch. engchi. i n U. v. 一番ひどかったのは会津藩で、二十八万石から斗南藩三万石 へ極減され、移り住んだ藩士らは苛酷な風土に悲惨を強いられ ることになった。斗南は元々南部藩時代より米農家以外は金・ 銭での納税が認められている土地で、実際に年貢として納めら れ た 米 は 7310 石 で あ っ た 。 収 容 能 力 を 超 え て 移 住 し た 旧 藩 士 と 家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や海外に散る者 もいた。これによって、維新政権が軍事力を直接使って廃藩に 追い込んだ。 処分については寛厳の二論が新政府内にあったが、おおむね 木戸の意見に基づいて決定された。木戸は新政府への反抗は重 11 12. 後藤靖『士族反乱の研究』青木書店、歴史学研究叢書、1967 年、p.98。 佐々木克『戊辰戦争』中公新書、1977 年、p.210~212。 12.

(17) 罪 と 述 べ て い た が 、「 御 親 断 」 に よ っ て 寛 大 な 処 置 と す る 必 要 を 唱えた。それが天皇の慈悲の強調である。これは、処分の詔書 に 会 津 藩 主 松 平 容 保 ら の 罪 は 、「 逆 科 に あ り 宜 し く 厳 刑 に 処 す べ き 」 で あ る が 、「 朕 不 徳 に し て 教 化 の 道 」 が ま だ 立 っ て い な い 現 状 か ら 「 非 常 の 寛 典 」 に 処 し た 、 と あ る こ と に 現 わ れ て い る 13。 また、木戸は領地没収を厳格に行えば多くの浪人が発生し、治 安の上で憂慮すべき事態となると予想し、これは是非とも避け な け れ ば な ら な い と も 主 張 し て い た 14。 ま た 、 木 戸 は 軍 務 官 副 知 事 の 大 村 永 敏 へ あ て た 明 治 元 年 10 月 4 日の書翰で、 「 … …( 前 略 )當 時 に ふ は 直 に 盡 我 臣 下 と い た す と 申. 政 治 大 國內之事に付其內に浪人澤山有之候ふは始終政事之為 立 には甚邪魔ものなり依ふ可成は且々に食われ候樣にし. 次第に至り兼候故不得止浪人もの澤山出來申候必竟 皇. ‧ 國. 學. て御所至相立候が可然歟と奉存候佛前之說法申上るに 不能候得ども任筆申上候南部庄內會仙之間にはいり候. ‧. 歟 何 も 御 高 按 奉 仰 候 … … ( 後 略 )」 15. y. Nat. 浪人が数多く出るようでは「政事」の「邪魔」になるとし、. sit. なるべくは「且々に食われ候樣にして御所至相立候が可然」と. al. n. 地の管理を諸藩に命じていたのである。. Ch. engchi. er. io. も書き送っていた。つまり、浪人を出さない範囲で新たな没収. i n U. v. 戊辰戦争についても、内乱が長期化することを危惧する一方 で 、「 今 日 の 戦 事 は 大 政 御 一 新 に 付 候 て は 、 御 基 本 の 相 立 候 為 に 如此良法は無御座」と述べていた。鋭敏な木戸は御一新を達成 しようとする観点から、戦争に完全な勝利をえることが、諸藩 の力を弱めて政府の基盤を強固にするために好機と見て把握し ている。 それに、木戸が薩藩重役の小松帯刀に送った書簡には、曰く 「 於 愚 存 は 、今 日 余 賊 再 沸 之 折 柄 に 付 候 而 は 屹 度 官 軍. 13 14 15. 宮内省臨時帝室編修局『明治天皇紀』二、吉川弘文館、1969 年、p.120。 勝田政治『廃藩置県』講談社、2000 年、p.41。 前掲「大村益次郎書翰」『木戸孝允文書』三、p.157~158。 13.

(18) 之 気 を 起 し 一 掃 に 及 び 候 而 、然 る 後 、被 仰 出 候 而 、不 晩 事 歟 と 奉 存 候 。御 一 新 に 付 確 乎 御 基 礎 之 相 据 り 候 事 、戦 争 よ り 良 法 は 御 座 無 候 。太 平 は 誓 て 血 を 以 て の 外 、買 求 不 相 成 も の と 愚 考 仕 候 。乍 去 、今 日 之 姿 に 而 彌 久 候 而 は 天 下 大 疲 弊 は 、眼 前 に 迫 り 、必 外 夷 之 軽 侮 を 受 け 候 而 已 な ら ず 、髄 而 大 瓦 解 と 奉 存 候 。目 前 之 安 き を 求 め 候 得 は 、 自 ら 皮 表 之 治 療 に 馳 せ 、筋 骨 よ り 復 す る の 手 段 に 候 得 ば 、 頑 毒 を 発 表 し て 、か り 尽 し 候 之 両 手 段 外 有 之 間 敷 歟 。付 而 は 、今 日 徳 川 氏 之 一 時 気 安 め を 計 り 候 様 に 相 嚮 き 候 御 処 置 、自 然 も 被 為 在 候 而 は 、却 而 前 途 之 為 め い か ゞ 哉 と 奉 存 候 。」 16と. 政 治 大 目標を明確にするために「戦争より良法は御座無候」と言って 立 いるのである。 徳川を厳しく追い詰めるべきであるとの主張が趣旨だが、大. ‧ 國. 學. 戊辰戦争の終結は、いわゆる意味で明治政権の最初の転換期 であった。藩財政の窮乏を進ませ、藩主の威信を失墜させて天. ‧. 皇の権威を上昇させた。戦後の論功行賞では、昨日までの一介. y. Nat. の藩士として、藩主の威光を楯にすることによって活躍するこ. sit. とができた新政府の指導分子(西郷、木戸、大久保)は主君と. al. n. 従 三 位 に な る 17。. er. io. 同じ地位になる。西郷隆盛は正三位、木戸孝允と大久保利通は. Ch. engchi. i n U. v. 戦後の問題はまだある。戦後出兵していた諸藩の兵が藩地に 凱旋すると、軍事力が膨張した諸藩では、木戸の言葉を用いる と「 増 長 し て 仕 方 が な い 」と い う 状 況 が 現 れ て き た 。明 治 2 年 2 月で、岩倉宛木戸書翰に次の如く諸藩割拠の傾向の増大を指摘 している。 「今日皇國御國是と相定り候處を以宇內之條理を被 為推候儀是に相戻り候ときは直に以干戈御征伐被為遊 候ふ至當至極之事と奉存候元來大政御一新之御一新た 前掲「小松帯刀宛書翰」『木戸孝允文書』三、p.62。 薩摩藩主島津忠義、長州藩世子毛利元德は、この時やはり従三位に敍せられた。西郷 は「藩士の者に高位を被授、知事公より高位を被命候ても、御受難出来は、臣子の 當然 に御座候」と述べて辞位した。(「明治三年 3 月 23 日附大久保宛書翰」『大西郷全集第二 巻』大西郷全集刊行会、1925 年) 14 16 17.

(19) る所以は. 皇國を御維持被為遊ふこそ御名實相立譯に. 御座候處可慨嘆は宇內之大勢に對し後時は. 皇國之急. は昨年よりも今年に相迫り居申候處上下只目前之平定 に而已安堵仕前途大興起之目的は更に被相窺不申去春 來德川氏之頭面を擊挫いたし候は御一新において不得 已之一條理にふ只々是而已にふ御一心相濟候ものと相 成候ふは實に政府は天下億萬蒼生之大罪人と相成申候 前途之目的不相立と申上候も世間多くは賞論而已被相 行 諸藩も舊幕の時より驕氣は大に増長し名義と歟名分 と歟申すも多くは聲而已に成果藩力を以相應に我儘に. 政 治 大 持仕候などと申所作ぶりは甚少く多くは只己れに利を 立 引 候 事 而 已 に て 此 儘 に て 、四 方 小 幕 府 の 相 集 り 候 樣 の 姿 朝廷に申立御一新の御主意を奉體皇國をして萬世に維. ‧ 國. 學. と 相 成 決 て 興 起 の 基 は 相 立 不 申 … … ( 後 略 )」 18. ‧. それは、諸藩連合政権の当然辿るべき運命であった。しかも 「四方に小幕府ができたのと同じである」と木戸が大久保に出. Nat. sit. y. し た 手 紙 も 書 い て い る 。事 実 に は 、薩 長 に 対 抗 す る 勢 力 と し て 、 四国を中心とした十三藩は土佐藩の板垣退助の下に連盟を結ん. io. n. al. er. だ。これが新政府にとって危機を招きかねないとさえ想起され、. i n U. v. 再び割拠の時代になる恐れがあった。そして、明治二年から三. Ch. engchi. 年の間に岩倉、木戸、大久保の間でとり交わされた手紙を読む と 、「 人 心 が 非 常 に 不 安 で 、 士 農 工 商 い ず れ も 朝 廷 を 批 判 し て い る」ということが書かれている。朝廷の味方がほどんどない。 このままでは外国の軽侮を招く、という彼らの憂慮は高まって いった。そこで新政府は、権力の統一、朝権の確立をとにかく 急ぐ必要であった。. 18. 前掲「岩倉具視宛書翰」『木戸孝允文書』三、p.240。 15.

(20) 第三章. 版籍奉還. 維新運動を進めてきた薩長土肥の志士たちにとって、尊王は いわば革命的イデオロギーであった。しかし、徳川幕府三百年 を通じて、天皇は民衆にとって遠い存在であった。そこで、維 新政府は、全国の神社の格付けを行い、宮中の神道礼儀を再興 し、新設するとともに、民衆に対する天皇についての教化を行 った。簡単に言えば、天皇は天照皇太神宮の子孫である、とい う宣伝教育をしたのである。 そのように、維新政府は日本各地で天皇とは何ものかを教え ることを通じて、これまで幕藩体制のもとに三百諸侯によって. 政 治 大 る。そのためには、各藩がその預かっている国土(領地)と人 立 民(領民)を天皇のもとに返してゆく儀式が必要であった 。 分断されていた日本を統一国家へと導いていこうとしたのであ 19. ‧ 國. 學. 一方、日本の新王権の定着は実質的に日本の全国的統一政権 を確立させることで、それにはすみやかに多様な府藩県三治の. ‧. 一治化をはからなければならなかった。この一治化への第一歩. sit. y. Nat. 推 進 が ほ か な ら な い 「 版 籍 奉 還 」 の 推 進 で あ っ た 20。 明 治 四 年( 1871)1 月 よ り 、地 方 改 革 制 度 と と も に 、中 央 政 府. io. n. al. er. 改革も新政府の難題となっていた。この時期の新政府は、薩長. i n U. v. 両勢力のリーダーである大久保と木戸が新政権の主流派を構成. Ch. engchi. していた。中央集権国家の形成という共有の大目標が実現する わけである。. 第一節. 木戸孝允―「尾大の弊を防ぐ」. 当時、木戸の視点は、尊攘派志士の時代からの彼の経験によ って育成されてきたが、それは支配に際して一般庶民の占める 比重を重視し、とりわけ一般庶民の生活上の要求に細かい配慮 を忘れない点が特徴的であった。とくに、幕末、維新の変革期 における政治的エネルギーの噴出は、木戸にとってまったく予 19 20. 松本建一『日本の近代(1)開国、維新』中央公論社、1998 年、p.329~330。 大久保利謙『岩倉具視』中公新書、1973 年、p.196~199。 16.

(21) 測ではなかったことである。木戸はそこに政治主体が身分階層 の下方にむかって拡大しつつある時代の状況を深刻に受け止め たのである。 「 御 一 新 と 申 候 も の も 、只 千 や 二 千 之 人 而 已 之 尽 力 に て こ こ に 至 り 侯 と 申 訳 に て も 無 之 候 間 、大 に 衆 議 を 取 り 候 規 則 は 相 立 不 申 て は 相 間 敷 歟 と 奉 存 候 。」 21 木戸が五か条誓文の第一条の冒頭「列侯会議ヲ興シ」を「広 ク会議ヲ興シ」を修正し「万機公論ニ決ス可シ」とつづけたの も、このように拡大しつつある政治主体をもって諸藩の権力を 否定し、結果的に中央政府の主権を確立せしめるという積極的. 政 治 大. な 役 割 を 期 待 す る も の で あ っ た 。 22. 立. そしてそこから、やがて次のように大胆な構想も打ち出され. ‧ 國. 學. てきた。. 「 如 則 今 、優 柔 自 重 之 外 無 之 、優 柔 自 重 と 雖 も 亦 後 日. ‧. 之 目 途 無 之 而 は 、彌 天 下 乱 雑 に 可 至 、十 年 十 五 年 廿 年 を. y. Nat. 計 り 一 定 之 略 被 為 定 度 、愚 意 を 以 奉 存 候 に 、此 策 に 被 為. sit. 出 候 得 は 、先 朝 廷 八 百 萬 石 を 以 御 独 立 被 為 遊 、暫 諸 藩 之. er. io. 處 は 此 儘 に 被 成 置 、大 に 府 縣 に 御 着 手 相 成 、然 し て 天 下. al. v i n Cきhは 、 終 に 諸 藩Uも 旧 習 を 守 る 不 能 、 政自然と独出仕候と eng chi 随而朝廷へ附和仕候様可仕 。」 n. 一 般 人 民 従 来 之 束 縛 を 解 き 各 自 由 の 権 を と ら せ 、朝 廷 之 23. ここでは、国民に政治的エネルギーを解放し、その力によっ て旧体制の最終的な破壊を行うことが具体的に構想されている。 このような木戸の認識は彼の思想を基本的に特色づけるものと なっていた。 木戸の判断によれば、固有の軍事力を保有しないと、幕府と は比較にならないほど、新政府の権力基盤は脆弱であった。そ. 日本史籍協會「野村素介宛書翰」 『木戸孝允文書』三、東京大学出版会、1968 年、p.186。 大久保利謙「五ヶ条の誓文に関する一考察」(『歴史地理』第八八卷―二、 1957 年 12 月、および『論集、日本歴史 9、明治維新』)参照。 23 前掲「三条実美宛書翰」『木戸孝允文書』四、p.103~104。 17 21 22.

(22) のために、新政府は薩長をはじめ諸藩、ことにその軍隊に依存 せ ざ る を え な か っ た 。 そ の 結 果 、「 朝 廷 は 自 ら 薩 長 に 傾 き 、 薩 長 は 又 兵 隊 に 傾 き 、諸 藩 亦 概 如 此 類 、真 に 尾 大 の 弊 を 不 能 免 し て 、 真 權 の 所 歸 着 、 決 て 末 可 認 」。 版 籍 奉 還 建 白 と し て は 、 最 初 の も のといわれる、明治元年 2 月の木戸の建白書に曰く、 「 慎 み て 建 言 奉 り 候 。倩 今 日 の 形 勢 を 惟 る に 、去 歳 徳 川 慶 喜 政 権 返 上 を 請 願 奉 り 、朝 廷 こ れ を 許 可 し た ま へ り 。 続 い て そ の 土 地 人 民 を 還 納 せ し む 。然 し て 彼 速 や か に 奉 命 せ ざ る の み な ら ず 、終 に 政 権 返 上 の 請 願 に 戻 り 、剰 兵 を 携 え 押 而 上 京 を 企 て 、一 敗 地 に 塗 れ 、以 而 今 日 の 争 乱 を 生 ず 。固 よ り 迅 速 に そ の 巣 窟 を 衝 き 、天 下 の 大 典 を 糺. 政 治 大 内 は 普 く 才 能 を 登 庸 し 、専 ら 億 兆 を 安 撫 し 、外 は 世 界 各 立 国と併立し、以って邦家を富嶽の安きに置くに在。. ざ る 有 べ か ら ず 。然 り 而 し て 抑 一 新 の 政 た る 、無 偏 無 私 、. ‧ 國. 學. 就 い て は 至 正 至 公 の 心 を も っ て 、七 百 年 来 の 積 弊 を 一. ‧. 変 し 、三 百 諸 侯 を し て 、挙 げ て そ の 土 地 人 民 を 還 納 せ し むべし。然らずんば一新の名義いづくに在るを知らず。. Nat. io. sit. y. 実に天下の大勢元亀天正の時に在らず。. n. al. er. 竊 に 朝 廷 及 諸 藩 の 情 勢 を 察 す る に 、只 纏 に 兵 力 の 強 弱. i n U. v. 而 已 を 各 自 相 競 ひ 、朝 廷 は 自 ら 薩 長 に 傾 き 、薩 長 は 又 兵. Ch. engchi. 隊 に 傾 き 、諸 藩 亦 概 如 此 類 、真 に 尾 大 の 弊 を 不 能 免 し て 、 真 權 の 所 歸 着 、決 て 末 可 認 。況 や 大 い に 前 途 の 大 勢 を 顧 みるに億兆の安憮哉。 思 ふ に 東 国 の 争 乱 も そ の 兵 卒 を 収 む る 久 し く 在 ず 。各 藩 の 兵 隊 各 藩 に 就 い て 、区 々 基 本 を 固 め 、区 々 政 刑 を 施 す と き は 、そ の 害 再 び 決 し て 抜 く べ か ら ず 。朝 廷 勉 め て 一 新 の 名 儀 を も っ て 、そ の 実 を 協 さ ざ る 不 可 有 。然 ら ず ん ば 国 家 億 兆 の 大 不 幸 、前 日 の 比 に あ ら ず 。も し 大 令 一 発 、諸 藩 怱 に 紛 擾 を 生 じ 、大 条 理 乱 る る 如 く に 於 い て は 、 実 に 天 運 の 真 に 回 ら ざ る も の に し て 、人 事 の 能 う 所 に 在 らず。誓って至正至公の心をもって、糺さざるときは、 何 れ の 日 に か 貫 通 せ ざ る を 得 ん 。速 や か に 御 英 断 在 ら せ 18.

(23) ら れ た く 、満 願 の 至 り に 堪 え ず 。. 誠恐誠惶。. 頓首敬. 白 。」 24 そもそも新政府は、この時期では幕藩体制の構造そのものに は決定的な変更を加えることなく、いわば幕府とその権力の座 を交代したにすぎなかった。薩長の軍事力に依存せざるをえな い 「 半 身 大 不 随 25」 の 新 政 府 は 、 そ れ ゆ え に ま た 、 つ ね に 薩 長 の 軍隊の意向によって振り回される「尾大の弊」をまぬがれなか ったのである。 木戸は明治 2 年の情勢を察知していたであろう。王政復古の 精 神 は 、 鎌 倉 時 代 以 来 700 年 間 の 封 建 割 拠 と い う 積 弊 を 一 掃 し. 政 治 大. てはじめて実現するものである。そして、そのためにはすべて の藩主に対し、土地と人民を朝廷に返上させるようにしなけれ. 立. ばならない。木戸が憂慮しているのは、諸藩が朝廷の権力を左. ‧ 國. 學. 右 す る と い う 「 尾 大 の 弊 」( 下 の 勢 力 が 強 く 、 上 の 方 が 制 御 し に くいこと)である。この「尾大の弊」を未然に防ぎ、朝廷の権 力 を 確 立 す る た め に も そ れ は 必 要 で あ る と 26。. ‧. だ が 、「 尾 大 の 弊 」 を 生 み 出 し 、 ま た 諸 問 題 の 処 理 に 対 し 、 新. Nat. sit. y. 政 府 を 「 下 よ り 圧 倒 」 す る 潜 在 的 か つ 最 大 の 脅 威 は 、「 割 拠 」 を 続ける諸藩、とくに倒幕の推進力であった雄藩の存在にほかな. io. n. al. er. らなかった。このような権力基盤の不統合が、政治状況および. i n U. v. 政府の支配をつねに不安定なものにしていたのである。それゆ. Ch. engchi. え、新政府の指導者がいかに確固たる決断をもってしても、そ の結果の予測はつねに壁に突き当らざるをえない。木戸が新た な中央集権体制として近代国家を模索しはじめた。 したがって、歴史の方向を新政府みずからの手で切り開くた めには、最大の危険を冒すものであれ、諸藩の「割拠」を止め て 、 権 力 基 盤 を 統 合 す る ほ か な い 。「 若 、 大 令 一 発 、 諸 藩 忽 生 紛 擾、於如乱大條理、実に天運之真に未回ものにして、人事之不 在 所 能 」 27と は 、 体 制 変 革 の 一 刻 も 早 い 実 現 は 木 戸 の 構 想 の 基 本 日本史籍協会「版籍奉還に関する建言書案」 『木戸孝允日記』八、東京大学出版会、1968 年 p.25。 25 前掲「岩倉具視宛書翰」『木戸孝允文書』三、p.323 。 26 前掲「版籍奉還に関する建言書案」『木戸孝允日記』、八、p.25。 27 前掲「版籍奉還に関する建言書案」『木戸孝允日記』、八、p.25。 19 24.

(24) を為していたのである。 また、このような状況では、木戸によれば、維新国家の基礎 を直接つき崩すことにほかならなかった。なぜならば、維新ま での封建体制にあっては、武家が権力を掌握していたかわりに、 「天下の恨み帰する所ありて、而して天子は徳を全す」ること が で き た 。し か し 、 「 今 や 則 ち 然 ら す 。聖 慈 親 臨 萬 姓 懿 澤 を 仰 く 。 若し一旦弊を受る者あらは、天下の恨み其れ誰に帰せんや。今 の臣子たるもの、思慮誠に此に及はゝ。豈に其れ私を省みるの 暇 あ ら ん や 28」 失 政 の 政 治 責 任 は 直 接 天 皇 に 集 中 し 、 新 政 府 の 権 威失墜はそのまま維新国家の権威喪失につながり、革命もつい に は 「 下 よ り 圧 倒 さ れ 29」 終 わ る で あ ろ う 。「 自 然 も 政 府 の 不 決. 政 治 大. 断より尾大の弊を生し、遂に不可束之次第と相成候而は、所詮 中 興 之 御 成 業 如 何 有 之 哉 と 甚 懸 念 仕 候 30」。. 立. このように根底的な危機を乗り切るだめに木戸のとった方針. ‧ 國. 學. は、とりあえず目前の諸懸案を、一貫した論理と断固たる決意 を示して処理し、主権者としての権威を生み出すことであった。. ‧. す な わ ち 、「 誓 而 上 に 其 権 を 握 し 、 平 均 之 勢 を 作 成 し 、 妨 る も の は 忽 ち 一 刀 両 断 と 申 處 は ど こ ま で も 不 可 失 31」 を 目 標 に 、「 一 先. Nat. sit. io. al. er. ある。. y. は 威 力 を 以 御 威 稜 32」 を 立 て る こ と に 活 路 を 見 出 そ う と し た の で. v i n 歩 で あ る 版 籍 奉 還 を 一 挙Cに 実 現 し よ う と し て い る 。 版 籍 奉 還 の hengchi U 構 想 は 、朝 藩 的 な 割 拠 体 制 を 打 破 し て「 皇 国 の 一 致 一 定 」=「 朝 n. 当時木戸が、重大な決定を下すにあたり、その目標への第一. 廷政府への権力帰一」=廃藩を目指す第一着手である。あきら かに薩摩藩の大久保より、はるかに急進的であった。これは木 戸がのちの廃藩置県の構想の來源であると考えられる。 木戸の「版籍奉還の自序」は以下のでる。 「 戊 辰 の 歳 、伏 水 戦 争 以 来 、諸 藩 京 都 に 輻 湊 し 、議 論 百 出 、或 い は 攘 夷 と 云 い 、或 い は 開 国 と 云 い 、或 い は 鎖 28 29 30 31 32. 前掲「政令一途に関する意見書」『木戸孝允日記』、八、p.102。 前掲「槙村正直宛書翰」『木戸孝允文書』三、p.343。 前掲「大木喬任宛書翰」『木戸孝允文書』三、p.277。 前掲「大村益次郎宛書翰」『木戸孝允文書』三、p.393。 前掲「大村益次郎宛書翰」『木戸孝允文書』三、p.349。 20.

(25) 国 と 云 う 。而 し て 三 論 中 、ま た 種 々 波 党 を 立 て 、各 々 国 論 と 呼 び 、藩 論 と 唱 え 、天 下 囂 々 、自 ら 紛 乱 の 勢 い あ り 。 東 北 の 戦 争 を 終 え 、諸 藩 そ の 国 に 就 き 、互 い に 我 流 を 主 張し、兵力を養い、長は薩と肩を比し、土は肥と争い、 各 一 隅 に 割 拠 し 、眼 目 を た だ 内 治 に 注 し 、す で に 大 患 の 外に来るを知らず。 こ の 時 に 當 り 、朝 廷 上 条 理 を 推 す も の 有 り と い え ど も 、 ま た 是 を 如 何 と も す べ か ら ざ る 知 る べ し 。こ こ に 於 い て 皇国の大不幸、則億兆の大不幸、未曾有と云うべき也。 今 日 の 急 を 論 じ 、前 途 の 大 略 を 定 め ん と 欲 せ ば 、惟 七 百 年 来 の 旧 弊 を 一 洗 し 、皇 国 を し て 統 一 す る に あ ら ず ん ば 、. 政 治 大. 皇国を維持し、億兆を安んずるあたわずと。. 立. 是 よ り 苦 按 、焦 思 、一 日 も 安 ん ず る べ か ら ず 。依 っ て. ‧ 國. 學. 密 か に 版 籍 奉 還 の 議 を 起 こ し 、益 大 義 を 明 ら か に し 、名 分 を 正 し 、天 下 を し て 大 い に 誘 導 し 、わ が 長 藩 を し て 首. ‧. 尾 あ ら し め ん と す 。而 し て 藩 内 の 物 情 、甚 だ 易 か ら ざ る も の あ り 。況 や ま た 天 下 に 於 い て を や 。い や し く も 、口. Nat. sit. y. 外 す べ か ら ず 。然 り と い え ど も 千 載 の 一 時 、今 日 の 機 を. io. n. al. er. 誤るときは、天下の事また見るべからず。. i n U. v. 依って奮然意志を決し、ひそかに我が忠正公に謁し、. Ch. engchi. 具 に 天 下 の 大 勢 を 論 じ 、将 来 の 大 患 を 陳 せ り 。公 聞 き て 是 を 善 し と す 。允 を し て 密 か に 薩 藩 に 説 を 許 す 。こ こ に 於 い て 漸 そ の 始 を 立 つ る も の あ り 。こ の 間 の 紛 紜 百 苦 千 辛 又 容 易 に 語 る に 堪 え ず 。忠 正 公 な く ん ば 、実 に も っ て 難 し と す 。」 33 木 戸 は こ の 間 の 経 緯 を 、「 此 の 間 の 紛 紜 百 苦 千 辛 可 又 容 易 に 語 に堪えず」と記している。木戸が明治四年 7 月 7 日(廃藩置県 の合意が成立するころ)の日記に書き残していることも、土地 人民返上の建白書が妥協の産物であることを示していよう。. 33. 前掲「版籍奉還に関する建言書案」『木戸孝允日記』八、p.24。 21.

(26) 「晴九字前江藤中辨を訪ふ十一時歸家今夕與杉猿等 有約故に二字頃神田邸に至り杉を訪ふ于時井上世外今 日余を訪ふ西鄉斷然同意之返答を聽大に為國家に賀し 且前途の進步も亦於于此一層するを樂めり余三年前大 勢を察し七百年封建之體を一破し郡縣の名與へ往々天 下之力を一にし天下の人材を養育せんと欲し百方苦心 同志中數名に談し快諾するもの不過一人不得止用術施 策種々說破先舊幕の朱印の列を廢し 朝廷へ封土を返上許は不許只. 朝命に隨ひ大に名分. を可正と依て漸薩大久保等應之終に版籍返上の舉に至 る然して世間粗余より出つるを察し議論紛紜可殺之說. 政 治 大 今日先年非するものも亦是となる敵たるものも為援時 立 勢の進遷不可期ものあり余此間の苦憂自ら筆頭に盡す 不少同藩中も多くは又誹余同志中も亦議論不少不圖至. ‧ 國. 學. 能 わ ず 今 日 聊 快 然 の 思 ひ を 為 す 三 字 頃 … … ( 後 略 )」 34. ‧. 版籍奉還を快諾するものが少ないので、木戸は、薩摩藩との 妥協を得るために仕方なく「用術施策」を用いて説得した。そ. Nat. sit. y. れは、まず旧幕府の朱印状の例を廃止して朝廷に封地を返上し、 その許可、不許可は朝命に従うようにすることであると。これ. io. al. n. に 至 る 」。. er. により、ようやく薩摩の大久保らが応じて「終に版籍返上の挙. Ch. engchi. i n U. v. 長州藩と薩摩藩は決して一枚岩ではなかったのである。版籍 奉還をめぐって、木戸と大久保は必ずしも一致していたわけで はない。木戸の急進論に対して大久保の漸進論と、一般的に評 さ れ て い る が 、二 人 は 今 後 も 対 立 、妥 協 を 繰 り 返 す こ と に な る 。. 第二節. 大久保利通―「土地人民返上」. 大久保が版籍奉還を意識したのは、王政復古クーデターをめ ざして、薩摩藩主島津忠義が藩兵を率いてしようとしていた 1 86 7 ( 慶 応 3 年 ) 1 1 月 2 日 、 幕 末 に 二 度 西 欧 を 体 験 し て 、 ヨ ー. 34. 前掲『木戸孝允日記』二、p.65。 22.

(27) ロ ッ パ の 近 代 国 家 に つ い て の 知 見 が あ る 寺 島 宗 則 35が 、島 津 忠 義 に意見書を呈出した。 「 此 節 、將 軍 家 よ り 奏 聞 之 儀 有 之 候 に 付 、御 沙 汰 を 以 、 諸侯被為召候に就而者、大守樣被遊御上京筈奉承知候、 右 に 付 、微 臣 宗 則 兩 度 西 洋 に 罷 越 、聞 見 仕 候 每 に. 皇國. に 干 涉 仕 候 事 共 、 漫 錄 仕 置 候 … … (中 略 )… … 當今. 皇 國 振 起 之 為 、政 權 奉 歸. 朝 廷 候 事 に 於 て 、御. 議 論 被 仰 上 候 に 就 而 者 、天 下 之 人 皆 存 外 に 感 服 仕 候 樣 に 無 之 後 而 者 、乍 恐 行 は れ 不 申 候 、必 竟 政 權 武 鬥 に 移 候 樣 に 成 來 候 者 、封 建 之 故 に 御 座 候 に 付 、總 而 封 建 之 諸 侯 を. 王を唱 政 治 大 へ 候 に 、此 上 も な き 忠 節 を 盡 さ ん に は 、其 封 地 と 其 國 人 立 と を 朝 廷 に 奉 還 候 而 、自 ら 庶 人 と 相 成 、後 之 撰 舉 之 有 被 廢 候 は ゞ 、真 に 王 道 相 立 候 義 と 奉 存 候 、抑 勤. ‧ 國. 學. 無 を 期 し … … ( 後 略 )」 36. ‧. 「 封 建 の 諸 侯 を 」廃 止 し て「( 諸 侯 の )封 地 と そ の 国 人( 人 民 ) と を 朝 廷 に 奉 還 」 し て こ そ 、「 真 に 王 道 相 立 」 を 立 て る こ と と 建. Nat. sit. y. 言したのを、大久保は知っていた。旧態依然の諸侯のままで、 政 権 を 朝 廷 が 握 っ て も 「 名 」 が 異 な る の み で 、「 実 」 は ま っ た く. io. n. al. er. 同じである。これが明確なる版籍奉還論である。当時、大久保. i n U. v. は版籍奉還の意味を、はじめて十分に認識できていたのであっ た。. Ch. engchi. た だ 寺 島 も 、「 人 情 」 が そ の ま ま 現 状 で は 、 す ぐ に こ れ が 実 現 できる考えていなかった。そこで、具体的には薩摩藩が先だっ て領地の何分の一かを返上し、ほかの藩主もこれにならって返 上するように働きかけることを提案している。 薩 摩 藩 と し て の 版 籍 奉 還 論 は 、 慶 応 4 年 2 月 11 日 に 島 津 忠 義 が朝廷に提出した「願書」にあらわれている。願書は、新政府 の 軍 資 金 と し て 、 薩 摩 藩 の 領 地 10 万 石 を 返 献 す る こ と に し た 。. 寺島宗則(1832 年 6 月 21 日- 1893 年 6 月 6 日)は、薩摩藩出身の江戸時代後期の幕 臣、明治時代の政治家である。幕府の遣欧使節、薩摩藩遣英使節の随員として、すでに 2度ヨーロッパに渡っている。 36 勝田孫弥『大久保利通伝』中、同文館、1911 年、p.606~607。 23 35.

(28) そ れ か ら 、 1869 (明 治 2) 年 1 月 14 日 、 薩 長 土 三 藩 の 代 表 で ある大久保、広沢真臣、板垣退助が京都の料亭で「土地人民返 上一条合議」の会議を開き、全国諸藩から天皇へ土地人民を返 上させる版籍奉還を進めることで合意した。 ところが、前年 1 月には既に大久保と木戸も版籍奉還につい ての建白を政府に対して建議しており、藩主の世襲制や藩その ものの廃止まではこの時点では考えていなかった大久保と、そ れらも視野に入れた木戸との間で対立点があったものの、成立 したばかりで脆弱な政府の基盤を確立し、日本を名実ともに統 一国家にするための措置として避けて通れない道という点では 一致していた。. 立. 四藩主の上表. 學. ‧ 國. 第三節. 政 治 大. 1 86 9 ( 明 治 2 ) 年 1 月 2 0 日 、 薩 摩 、 長 州 、 土 佐 の 他 、 大 久 保 が大隈重信、副島種臣を説得して引き込んだ肥前藩を含めた四. ‧. 藩の藩主による連署で、政府に対し版籍奉還の建白が実施され た。薩長土肥の四藩主、すなわち「毛利宰相中将・島津少将・. Nat. io. sit. y. 鍋 島 少 将 ・ 山 内 少 将 」 は 連 名 で 、「 版 籍 奉 還 」 を 上 表 し た 。. n. al. er. 「 臣 某 等 頓 首 再 拝 、謹 案 ず る に 朝 廷 一 日 も 失 ふ 可 か ら. i n U. v. さる者は大体なり、一日も仮す可らさる者は大権なり。. Ch. engchi. 天 祖 肇 て 国 を 開 き 、基 を 建 玉 ひ し よ り 、皇 統 一 系 万 世 無 窮普天卒士其有に非さるはなく、其臣に非さるはなし。 是 大 体 と す 。且 与 へ 且 奪 ひ 、爵 禄 以 て 下 を 維 持 し 、尺 士 も 私 に 有 す る こ と 能 は す 、- 民 も 擬 む こ と 能 わ す 、是 大 権 と す 。… … 抑 も 臣 等 居 る 所 は 即 ち 天 子 の 士 、臣 等 牧 す る 所 は 天 子 の 民 な り 。安 ん ぞ 私 に 有 す へ け ん や 。今 謹 て 其 版 籍 を 収 め て 之 を 上 る 。願 く は 朝 廷 其 の 宜 に 処 し 、そ の 与 ふ 可 き は 之 を 与 え 、其 奪 ふ 可 き は 之 を 奪 ひ 、凡 列 藩 の 封 土 、更 に 宜 し く 詔 命 を 下 し 、之 を 改 め 定 む へ し 。而 し て 制 度・典 型・軍 旅 の 政 よ り 戎 服・機 械 の 制 に 至 る ま て 悉 く 朝 廷 よ り 出 て 、天 下 の 事 大 小 と な く 皆 一 に 帰 せ し む 可 し 。然 後 に 名 実 相 得 、始 め て 海 外 各 国 と 並 立 つ 可 し 。 24.

(29) 是 朝 廷 今 日 の 急 務 に し て 又 臣 子 の 責 な り 」 37 このように、版籍奉還の建白は版は版図のことであり、領地 を意味し、籍が戸籍、つまりは人民の意味である。王土王民思 想に基づいて、すべての土地や人民は天子の土地や人民であり、 私 有 す べ き で は な い と し て い た 38。 す な わ ち 日 本 全 体 の 版 = 土 地 と籍=人民は本来天皇のものという思想に基づいて、各自の領 主権を天皇に返還するという申し出であった。 そ し て 最 後 に 、「 凡 列 藩 の 封 土 、 更 に 宜 し く 詔 命 を 下 し 、 之 を 改め定むへし」と述べるように、そこには、徳川幕府が倒れて 将軍から給付された領主権の法的根拠が薄弱化していくなかで、. 政 治 大. あらためて天皇の名でその再保障を受け、権威の再確立をはか りたいという諸侯の期待も込められていた。すなわち、建白書. 立. は、王土王民の理念と領主権の再交付という、原理的に突き詰. ‧ 國. 學. めれば相矛盾するような二つの部分から成り立っていたのであ る。. ‧. ところで、この版籍奉還建白に向けて四藩の連携がなる具体 的経緯については多くの関連書があるので、建白に至る版籍奉. Nat. sit. y. 還論の形成では、前述したように、長州藩の木戸孝允らととも に、大久保利通らの薩摩藩の動きが重要な役割を果たしていた。. io. n. al. er. その大久保とともに、薩摩藩で建白に向けて動いていたのが小. i n U. v. 松帯刀、伊地知貞馨、吉井友実らであった。建白書の起草は薩. Ch. engchi. 摩藩が担当したが、その中で直接起草を行なったのは伊地知で 39. あ っ た 。こ の 伊 地 知 貞 馨 ( 壮 之 丞 ) こ そ 、 後 に 鹿 児 島 県 官 と し て琉球の担当責任者となり、その後も琉球管轄の異動に合わせ て、同県から外務省、さらには内務省官吏に籍を移して担当を 続 け る こ と に な る 当 の 人 物 で あ る 。 40 これは、薩長土肥の四藩が徳川幕府から与えられ、支配をま かされていた版籍を一度天皇に返すのである。そのことによっ 前掲『大久保利通伝』中、p.615~617。 中村哲『明治維新』集英社、1997 年、p.74。 39 小松帯刀より大久保利通宛書簡(明治 2 年 1 月 11 日付)に「土地人民御返上云々御建 白」の起草の件について、「右二就而は兼而御承知通伊地知専曳受二相成居」とある。 立教大学文学部史学科日本史研究室編、『大久保利通関係文書』三、吉川弘文館、1968 年、p.254。 40 『鹿児島県史料』忠義公史料第7巻、1979 年、p.237。 25 37 38.

(30) て日本が天皇のものであることを唱えて上表したものであった。 維新政府がこの四藩を中心とするものであってみれば、他の藩 主たちもこれに追随しないわけにはいかない。これをきっかけ に明治政府における薩長土肥の四藩専制体制の基礎が決められ た。 かくて、他の藩もぞくぞくと版籍奉還の願いを出した。藩に よっては、藩主の意向を聞くこともなく、在京の重役のみの独 断でそうしたものも少なくない。四藩の建白書のように、天皇 による領主権の再交付を匂わせる一文が挟まれていたこともあ って、その他の諸藩・諸侯もまた勤王を競い合い、自己保全と 権威再確立を計ろうとして次々に追随してなったと考えられる。. 政 治 大 福井藩・熊本藩・大垣藩などがこぞって自主的に版籍奉還を上 立 表 し は じ め 、6 月 ま で に は 2 0 0 藩 以 上 の 藩 が 版 籍 奉 還 の 自 主 的 な. 1 月 2 4 日 、政 府 が こ の 建 白 を 受 理 す る と 、鳥 取 藩・ 佐 土 原 藩 ・. ‧ 國. 學. 上表を実施した。. なぜなら各藩主が進んで自らの領地と人民を天皇に返上する. ‧. という現象が起こったのであろうか。それは、前述したように. y. Nat. 戊辰戦争によって藩主の威信が低下し、藩の財政窮乏により、. sit. 藩主を中心とする結合が動揺してきたことは、すでにみた通り. al. er. io. である。このまま何もしなければ、藩主の威信はますます低下. v i n 来 の 地 位 を 維 持 し よ う とC思 え ば 、 版 籍 奉 還 は 藩 主 に と っ て ま こ hengchi U とに魅力ある方法のであろう。藩主は、版籍奉還に天皇権威に n. するという危機意識が広まっていた。こうした状況で藩主が従. よ る 身 分 保 証 を 賭 け た の で あ っ た 41。 6 月 17 日 か ら 各 藩 の 版 籍 奉 還 上 表 に 許 可 が 下 り 、 翌 1870(明 治 三 ) 年 8 月 ま で に 274 藩 の 藩 主 が 知 藩 事 に 任 命 さ れ た 。 天 皇 政 府 は 、 同 年 6 月 17 日 以 降 、 提 出 さ れ た 版 籍 奉 還 の 上 表 を聴許し、諸侯=各藩主をそのまま「知藩事」に任命するとと も に 、 未 申 請 の 藩 に は 奉 還 を 命 じ 、 全 国 274 藩 の 版 籍 を 回 収 し て知藩事の任命を行なった。奉還の代償として、天皇による領 主権の再確認を期待した諸侯の願いは結局叶えられなかったが、 しかし彼等は自ら奉還を申し出たことで、王土王民思想を公式 41. 勝田政治『廃藩置県』講談社、2000 年、p.62。 26.

參考文獻

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