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『天台靈應圖本傳集』所收之李善註「遊天台山賦」 A study of the Tendai Reio Hondenshu

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全文

(1)

『天台靈應圖本傳集』所收之李善註「遊天台山賦」

A study of the Tendai Reio Hondenshu

池麗梅(釋孝順)

Chyr Li Mei(Shyh Shiau Shuenn)

摘 要

在相傳由日本留華高僧最澄所編的『天台靈應圖本傳集』中、收錄了 一篇名為「遊天台山賦」的文章。其內容不僅包含了孫綽「遊天台山賦」

的本文、同時附有針對該文的雙行小字註解。筆者嘗試將其內容與現存的 各種『文選』李善注本作了對照和分析、結果顯示『天台靈應圖本傳集』

所收的「遊天台山賦(註)」中保存了李善注本的最古老形態、此本實屬 珍本。這一發現、將向歷史悠久的文選學研究提供又一珍貴資料。同時、

筆者希望通過這一發現、凸顯『天台靈應圖本傳集』這一文集的文獻價值、

喚起專家們對本書的關注。

關鍵詞:天台靈應圖本傳集、遊天台山賦、最澄、李善、文選

日本東京大學博士班肄業。

(2)

Abstract

In the Tendai Reio Hondenshu (天台靈應圖本傳集), a work alleged to Tenkyo Daishi Saicho (最澄, 766-822) of Japan, there is a piece titled “ You-tiantaishan-fu ( 遊 天 台 山 賦 )” , which consists of

“You-tiantaishan-fu” by Sunchuo ( 孫 綽 , 314?-371?), and two-line commentary inserted among the former. This piece, as this article is to prove, can be regarded as quotation from the oldest version of the Wenxuan annotated by Lishan (李善) . This discovery is not only to provide a precious resource for the research of Wenxuan that has a long and excellent tradition in Chinese literature studies, but also to stress the importance of the Tendai Reio Hondenshu in order to direct the attention of Buddhist researchers to the present collection.

Keywords: the Tendai Reio Hondenshu, the “ You-tiantaishan-fu,”

Saicho, Lishan, Wenxuan

(3)

はじめに

『伝教大師全集』(以下『伝全』と略す)第四巻に、『天台霊応図本 伝集』(以下『本伝集』と略す)という書が収められている。『本伝集』

はもともと十巻構成の書であったと伝えられているが、現行本はいずれ も二巻のみの残卷である。その第一巻には、孫興公「遊天台山賦」と章 安灌頂撰「天台山国清寺智者大師別伝」とが載せてあり、第二巻には、

顔真卿「智者大師伝」、道澄「智者大師述讃序」、「天台大師略伝」、曇羿

「国清寺智者大師影堂記」といった四種の文献が収録されている。その 中で、本論文で取り上げるのは、『本伝集』の文頭を飾る「遊天台山賦」

である。論述は概ね、考察対象となる文献について解説した上で、それ らの考察対象となる文献の内容を、関連文献、本論では『文選』と照ら し合わせながら比較・分析していく、という基礎作業より構築される。

この考察の目的は、『本伝集』本「遊天台山賦」という文献の性質・文 献的価値に対する精確な認識を得ることであり、さらには貴重な文献を 保存している『本伝集』への注意を喚起することにある。なお、本論中

( )内のアラビア数字は胡刻本の頁数である。

一、「天台霊応伝図」と『天台霊応図本伝集』

紀元 804 年、伝教大師最澄(766-822)は入唐し、国清寺所蔵の天台 霊応図と呼ばれる絵画の模本を入手、それを日本に齎したと伝えられる。

その伝来記録は、最澄の『伝教大師將來台州録』(T55、No.2159)「進官 録上表」1、特にその目録本文に「天台山智者大師霊應圖一張」(1056a18)

と明記されている。けれども、この絵画に関する情報は、885 年成立の 安然『諸阿闍梨真言密教部類總録』(T55、No.2176)の記載2を最後にし

1「天台智者大師靈應図一張」(1055b3)とある。

2「天台大師感得聖僧影一鋪(三副綵色仁澄)」(1132b10);「天台山智者大師霊應図一 張(有感神僧影六副九尺澄)」(1132b11)。

(4)

て、完全に絶たれてしまうこととなる。現在でも唯一、絵の内容を髣髴 とさせてくれるものは、最澄編と伝えられる『本伝集』という文集であ る。

『本伝集』は元々、題目の通り、天台霊応図に附された、いわば解 説書の役割を果たす文集であったようであり、その絵の内容に関して、

本書の序文は以下のように記している。

今図像者、天台智者霊応之図也。模国清蔵本、写貞元仲冬。城則 隋都・陳京、寺則国清・玉泉。加以山称天台・青溪、江乃揚子・

臨海。其峰石橋・瀑布、造化所造。其槌金地 ・銀地、兩師所居。

墜松門松、大風不韻。渓水江水、大雨不漲。奇哉!馬馬不洗、其 毛尚潔。人人不食、其身猶肥。梵僧唐僧、或行或坐。漢男秦女、

臥室立門。不出庭戸、普知天下、其謂斯也。

これによれば、天台霊応図とは、天台智者、即ち智顗(538-597)にま つわる物語を具現化した絵画のように思われる。そして、智顗の生涯、

または師の滅後における国清寺の建立などを概括するために、時代的に は陳隋の両朝、空間的には南の金陵(陳京)より北の長安(隋都)に亘 る場面、特に天台山などを中心とした一連の場面が描かれている様子が 伺える。

これだけの豊富な内容を収めるためには、大師の生涯を象徴する典 型的な出来事だけを、そしてかなり抽象的な手法で描写する必要があっ たであろうと想定される。したがって、後世の人に個々の絵を理解させ るためには、文章による解説を附する必要性が生じたのであろう。前文 に引き続いて、

然図像略畫、不伝難解。所以略集本勒成十卷、號曰「霊應本伝集」、 以副應図、流布來緣。伏願令一覽者、萌三德性、令兩看者昇一乘

(5)

車。但此伝數本、廣略不同。孟子多疑、悉存眾本。冀莫厭繁重、

讚佛讚人、人讚功重。是以聚我師德、敬繫來緣。云爾。

とある。このように、霊応図は、解説しなければ、図像だけでは理解し にくいであろうという配慮から生まれたのが『本伝集』であった。編集 者が智者大師の伝記資料を、おそらく可能な限り集めて十巻の書物にま とめあげ、それを「霊應本伝集」と名づけたことがわかる。そして、こ れらの資料には、分量の大きいものもあれば、短篇のものもあり、互い の内容が重複する部分も少なくない。しかしながら、霊応図そのものが 失われた現在では、『本伝集』編集者の「聚我師德、敬繫來緣」という 敬虔な願いは、文字で絵の内容を伝えると共に、貴重な唐代の文献を伝 承させた、という意味では実ったと言えよう。

本書の日本における流伝に関しては、914 年に成立した玄日編『天 台宗章疏』(T55、No.2178)にみえる「天台霊應伝一卷(伝教述)」(1137a22)

という記載が最も古い。その後、1094 年成立の永超『東域伝燈目録』(T55、

No.2183)には、「天台霊應伝十卷(最澄集)」(1162c2)と「霊應図集伝 十卷」(1164b24)と前後二箇所に記載されている。『天台宗章疏』には 一巻、『東域伝燈目録』では十巻と異なる調卷が記されているが、この 卷數の相違が、同一の内容を持つ文献の調卷上の違いなのか、それとも 年月が経つにつれて文献の内容が増補されたことによって生じたのか は定かではない。ただ、現行本が二巻構成のものであり、そしてその序 文には「略集本勒成十巻」と明記されているため、現行本の内容は元々 十巻本の一部を為していた、という可能性のほうが高い。

(6)

『本伝集』には七つの写本の存在が知られている。

所 蔵 現存巻数 識 語

1 山梨県身延山図書館蔵 第二巻のみ3 不詳 2 叡山文庫真如蔵書 全二巻(2 冊) 無4

3 比叡山実蔵坊 全二巻 不詳

4 京都妙法院 全二巻 不詳

5 叡山文庫横川別当代蔵書 全二巻(1 冊) 享保癸卯(1723)秋九月 行 光沖寂天写之

6 叡山文庫無動寺蔵書 全二巻(1 冊) 享 保 癸 卯 秋 九 月 行 光 沖 寂天写之

此 霊 應 伝 集 一 二 合 卷 者 予 能 化 山 門 西 谷 行 光 坊 第 二 十 六 世 以 淵 沖 法 印 写 本 写 之也

延享改元甲子(1744)冬十 一 月 下 旬 西 山 善 峰 寺 谷坊圓徴

文化十二年乙亥(1815)八 月 以 善 峰 寺 谷 之 坊 之 本 令 書写之

台嶽法曼院大僧都真超 7 魚山勝林院 全二巻 文化十四丁巳年(1817)十二

月豪雄師写本

このうち、6は『伝全』本が校定する際に用いた底本であり、1、3、

7はその対校本であるが、4は再刊時に使われた対校本である5

3『伝全』では「全二巻」と する。ところで、清田寂雲[1980]32 頁によれば、身延 山本『本伝集』は現在では、「全二巻でなく巻二の一巻のみであり、つまりロ本( 筆者 注:身延山本を指す)には章安撰の別伝は含まれず、顔真卿撰の傳一巻と、貝山道澄 述の智者大師述讃序第二との二篇のみ」であると明らかにした。よって、ここでは「第 二巻」と改めた。

4叡山文庫では、この写本の蔵書カードに「江戸初期」と注記されている。

5『 伝 全 』 第 四 巻 、225 頁。筆者が実際に接触できたのは叡山文庫所蔵の 2、

5と6の三種の写本だけである。

(7)

二、「遊天台山賦」と『文選』

「遊天台山賦」は東晋代の文人孫綽(314-371)6の傑作の一つであ る。著者孫綽は、字は興公、太原郡中都県(現在の山西省平遥)の出身 で、伝記は『晋書』巻 56 の「孫楚伝」に附されている。孫綽は、「博學、

善屬文」、少い頃より、高志と文才の故に名を馳せており、玄学に精通 し、許詢や習鑿齒らの名士と交遊していたと伝えられる。彼は、會稽に おいて十餘年ほど隠遁の生活を送った後、出世を果たし、參軍補章安令、

太學博士、尚書郎や、永嘉太守などの官職を経て、廷尉卿に至った。伝 記に「于時文士、綽為其冠」と讃えられるほど文名を高くしていた孫綽 には、『孫尉卿集』があったと言われるが散逸し、現在では『全晋文』

巻 61-62、『全晋詩』巻 5、『晋詩』巻 13 に収録されたもののみが伝わっ ている。また、昭明『文選』に収められた「遊天台山賦」がある。

「遊天台山賦」は、孫綽が永嘉太守の職を解かれる直前に書かれた ものであり、しかも、それは実際に天台山を遊覧して生まれた作品では なく、人に天台山を画かせ、その絵を吟味しながらできた「遊記」であ る、と伝えられる7。しかしながら、こうして完成した賦が孫綽の自信 作になったことは、伝記に見える、

嘗作天台山賦、辭致甚工、初成、以示友人范榮期、云:「卿試擲 地、當作金石聲也。」榮期曰:「恐此金石、非中宮商。」然每至 佳句、輒云:「應是我輩語。」

6孫綽の生存年代は明確ではない。ここでは、一応、戸川芳郎・高橋忠彦[1989]549 頁の説を採ったが、このほか、小尾郊一[1977]65 頁、また、長谷川滋成[2000]2 頁「詳解0」には「(310?-367?)」という説もある。

7六臣注『文選』では、李周 瀚が「孫興公」條を注する 際に、『晋書』を引用して「[孫 綽]為永嘉太守、意将解印、以向幽寂、聞此山神秀、可以長往、因使図其状、為之賦」

とある。しかし、長谷川滋成[2000]3 頁「詳解 4」でも指摘されているように、李 周瀚が引用した文は現行本『晋書』では見られない佚文である。

(8)

という逸話によって知られる8。またそれが後に孫綽の作品として唯一

『文選』に選ばれたという事実も、その傑出さの動かぬ証拠と言えるだ ろう。

『文選』はもともと三十巻の構成で、凡そ八百の詩文を三十七種の 文体ごとに分類して編まれた現存最古の文集である。その編集者は、伝 統的には南朝梁武帝(502-549 年在位)の太子蕭統(501-531)と見られ ていたが、近年、斯波六郎氏や清水凱夫氏らの研究によって劉孝綽主導 説が提唱されるに至った9。研究者によれば、本集の「収録作品の時代 範囲は、古くは周・漢より近くは南朝の斉・梁に至るまでの約一千年間、

つまり長い中国の文学史上、おおむねその第一次黄金時代の全般を包摂 している」。そして、その収録作品の採択基準は、作品の「内容は作者 の深い思索から生まれ、その本質は修辞を凝らし美麗な文学的表現を心 掛けた、いわば純文学の名作だけに限定した」、とされている10

しかしながら、三十巻本『文選』の完全な写本・刊本は残っておら ず、現在、最もよく用いられているのは、注釈付きの六十巻本『文選』

である。これには版本が多く伝わり、注釈の内容構成によって、大まか に李善単注本、李善・五臣注本、五臣・李善注本という三種類に分かれ る。これらの六十巻本『文選』の中に、「遊天台山賦」は賦作として、

いずれも第十一巻に収められている。

三、『天台霊応図本伝集』における「遊天台山賦」

『本伝集』に収められた「遊天台山賦」も本文だけではなく、注釈 付きのものである。その特徴的な形態によって、それが「文選李善注六 0 巻本の巻十一所載からの抄写と認められる」11、とする説がある。し

8 この逸話は『世説新語』文学篇にも載せてある。

9斯波六郎[1948]58-63 頁;清水凱夫[1995]。

10この二段の引用文は、岡村繁[1999]4 頁に拠る。

11清田寂天[2001]49 頁。

(9)

かしながら、『本伝集』本の「遊天台山賦」が、現行本と同系統の六十 巻本『文選』から摘出したものでは決してないことは明確にしておくべ きだと思われる。というのは、『本伝集』本を、現行の五種類の版本12に 見られる相当箇所と照らし合わせたところ、前者の注釈内容の殆どが版 本の李善注に求められるものの、かなりの省略と相異も認められたから である。以下、正文と注釈文に見られる相異点をそれぞれに指摘してい きたい。ここでは、注釈の増減・相違を判別しやすくするために、『本 伝集』本(以下「伝本」と略す)と胡刻本13の内容を左右に対照し、両 者に異同のある箇所はそれぞれに下線を附する。ただし、書写字体に関 して、俗字・略字と正字との違いは考察の外におく。

第一に、正文に見られる語句の相違について考察することにする。

『文選』の各版本と比べて、明らかに「伝本」の誤写(No.1-12)・

脱落(No.13-14)と判断できる箇所をあらかじめ摘出して以下に示しておく。

No. 伝本 胡刻本

1 然 図 像 之 興 、 豈 虛 也 哉 。 非 天 遺 世 翫 道 、 絶 粒 茄 芝 者 、 焉 能 輕 舉 而 宅 之。

然図像之興、豈虛也哉。非夫遺世翫 道、絶粒茹芝者、烏能輕舉而宅之。

(163b15-16)

2 非 失 遠 寄 冥 搜 、 篤 信 通 神 者 、 何 肯 遙想而存之。

非夫遠寄冥搜、篤信通神者、何肯遙 想而存之。(163b18-19)

3 大虛遼廓而無閡、運自然之妙有。 太 虛 遼 廓 而 無 閡 、 運 自 然 之 妙 有 。

(164a4)

4 嗟台嶽之所奇挺、寔神妙之所扶持。 嗟台嶽之所奇挺、寔神明之所扶持。

(164a9-10)

5 理無陰而不彰、啟二奇以示兆。 理 無 隱 而 不 彰 、 啟 二 奇 以 示 兆 。

(164a19-20)

12本論文では、『文選』のテキストを略称で呼ぶ。各略称の対応するテキストに関し ては、文末に附した〈略号および使用テキスト〉を参照されたい。

13胡刻本は後に言及する尤本の覆刻本であり、両者は共に『文選』の李善単注本であ るが、胡刻本が附録の『胡氏考異』(十巻)と共に研究のために広く使用されている 。 ゆえに、ここでも、主として胡刻本と対校する形で「伝本」の内容を解説していく。

(10)

6 披荒榛之蒙蘢、涉峭崿之崢嶸。 披 荒 榛 之 蒙 蘢 、 陟 峭 崿 之 崢 嶸 。

(164b10-11)

7 雖一昌於垂堂、乃永存乎長生。 雖 一 冒 於 垂 堂 、 乃 永 存 乎 長 生 。

(165a1-2)

8 必契誠於幽昧、履重嶮而愈平。 必 契 誠 於 幽 昧 、 履 重 嶮 而 逾 平 。

(165a3)

9 恣心目之寥朗、任緩步之縱容。 恣 心 目 之 寥 登 、 任 緩 步 之 從 容 。

(165a5-6)

10 雙 闕 雲 竦 以 夾 路 、 瓊 臺 中 天 而 懸 居 。 朱 門 玲 瓏 於 林 間 、 玉 堂 陰 映 于 高隅。

雙闕雲竦以夾路、瓊臺中天而懸居。

朱闕玲瓏於林間、玉堂陰映于高隅。

(165a19-20)

11 彫雲斐亹以翼櫺、曒日炯晃於綺疏。 彤雲斐亹〈亡匪〉以翼櫺、曒〈公鳥〉

日炯晃於綺踵(165b2-3)

12 睹 霊 驗 而 遂 徂 、 忽 乎 吾 將 行 。 仍 羽 人於丹丘、尋不死之福庭。

睹霊驗而遂徂、忽乎吾之將行。仍羽 人於丹丘、尋不死之福庭。(164b4-5)

13 □□□□□□、卒踐無人之境。 始 經 魑 魅 之 塗 、 卒 踐 無 人 之 境 。

(163a9-10)

『本伝集』という書物はその成立以後、宗祖所集の書として珍重さ れて、天台宗の後継者によって代々抄写されていったことは想像に難く ない。事実、かれらの努力によって、この書物が我々の目に触れること になったのである。しかしながら、抄写が長い年月の中で繰り返されて いくうちに、次第に字句の誤認・誤字・脱落が増えてしまうことは、一 般に避けられないことでもある。特に、抄写する本に対校本がない場合 は、新写される写本は、底本の誤字と脱文をそのまま踏襲するしかない。

上にあげた「伝本」に認められた 13 点にわたる現行本との相異はそう した事情から生じたものであろう。

しかし、これらの誤字と欠文は、同時に、「伝本」に留められた文 献内容が可能な限り古いバージョンに近似する形で保存・伝写されてき たことを伺わせる。前述したように、「伝本」「遊天台山賦」は、その内 容のほとんどが李善注『文選』に求められる。「伝本」の抄写者が『文 選』注本によって対校することは不可能ではなかったであろう。だが、

上の 13 点にものぼる本文内容の誤字などから見て、そうした対校の形

(11)

跡は決して認められないのである。この事実は、角度をかえれば、この

「伝本」に見える「遊天台山賦」の内容は、『文選』現行本や、それら が基にした宋代刊本 などから摘出されたものではないことを示唆する ものである。更に言うと、「伝本」「遊天台山賦」は、『文選』の本文、

及びそれに対する李善注の、現在では最早見ることのできない古い形態 を留めている、という可能性も浮上してくる。もし、そうだとすれば、

「伝本」のこの部分は、今まで報告された『文選』の敦煌写本と較べて、

写本の古さや『文選』そのものの写本断片ではない、という点では価値 的に劣るが、しかし内容としては、それらに次いで重要なものと見られ るべきであろう。

「伝本」には皆無であるが、『文選』各版本における賦作本文だ けに見える音義の混入。

No. 伝 本 胡 刻 本

1 濟楢溪而直進、落五界而迅征。 濟楢〈由〉溪而直進、落五界而迅征。

(164b12)

2 跨穹隆之懸磴、臨萬丈之絶冥。 跨穹隆之懸磴〈丁鄧〉、臨萬丈之絶冥。

(164b15)

3 攬樛木之長蘿、援葛藟之飛莖。 攬樛〈居求〉木之長蘿、援葛藟〈力鬼〉

之飛莖。(164b19-20)

4 藉萋萋之纖草、蔭落落之長松。 藉〈慈夜〉萋萋之纖草、蔭落落之長松。

(165a7-8)

5 赤城霞起以建標、瀑布飛流以界道。 赤城霞起而建標〈卑遙〉、瀑布飛流以 界道。(164a20-b1)

6 彫雲斐亹以翼櫺、曒日炯晃於綺疏。 彤雲斐亹〈亡匪〉以翼櫺、曒〈公鳥〉

日炯晃於綺踵。(165b2-3)

-2、3、5、6については、本文の中に音注が見えるのは尤本・

胡刻本だけであって、『胡氏考異』でも指摘されたように、袁本、茶陵 本では、音注が本文ではなく、注釈文中に取り込まれている。例えば-2 の場合、袁本・明州本・四部本ではいずれも李善注に「磴,丁鄧切」と あるが、胡刻本などには相当する文が見られない。そして、-1、-4 に見える音注の本文への混入は、現行各本に共通して見られる。また、

(12)

尤本・胡刻本にはないが、ほかの諸本では、音注が本文に書き込まれて いる場合もある。たとえば、「太虛遼廓而無閡魚代、運自然之妙有」と

「蔭牛宿秀以曜峯、託霊越以正基」とであるが、この二箇所と-1、-4 の場合は、本文中にある音注に対応する注釈文が李善注にないため、こ れ ら は 五 臣 注 か ら 影 響 を 受 け た も の と 考 え ら れ る 。 ま た 、 富 永 一 登 [1998.4]が、敦煌本の校勘に際して、張雲璈『選学膠言』(選学叢書所 収)の李氏注例に関する「音釈多在注末、而不在正文下。凡音之在正文 下者、皆非李氏舊也」という説を引用している(p. 21)が、本文に音注 が決して見られない点に関して、「伝本」は敦煌本と同様である。また、

音注を李善注に含む場合に、袁本・尤本・四部本では一貫して「丁鄧切」

のように「切」字が用いられているが、「伝本」では、一箇所14を除い て、すべて「反」としており、この点に関しても敦煌本と同じである15

『文選』各版本の相互に字句の出入りが見られて、「伝本」がい ずれかの『文選』版本と一致する場合。

No 伝 本 胡 刻 本

1 天台山者、蓋山岳之神秀者也。 天台山者、蓋山嶽之神秀也。(163b3)

2 非天( 夫) 遺世 翫道 、絶 粒茄

(茹)芝者、焉能輕舉而宅之。

非 夫 遺 世 翫 道 、 絶 粒 茹 芝 者 、 烏 能 輕 舉 而宅之。(163b15-16)

3 赤城霞 起以 建標 、瀑 布飛 流以 界道。

赤 城 霞 起 而 建 標 <卑 遙 >、 瀑 布 飛 流 以 界 道。(164a20-b1)

4 既克濟於九折、路威夷而脩通。 既克隮於九折、路威夷而脩通。(165a4)

-1 に関して、『胡氏考異』に「袁本、茶陵本無「者」字」という 指摘があり、また、明州本と四部本にも「者」という字は見えない。つ

14 反切に関して、「伝本」には「反」が九箇所に見られるのに対して、「切」は一箇所 にしか見られない。それは、「輕舉而宅之」注の中の「舉、居御切」であるが、この音 注は『文選』各版本には見られない。

15 富永一登[1998.4]23 頁は、敦煌本甲卷「西京賦」注を校勘する際に、反切に関 して「唐写本作〈反〉、各本皆作〈切〉、下同」としている。

(13)

まり、「伝本」と同じく「者」を有する版本は、尤本と胡刻本だけであ る。ほかに、『藝文類聚』第七卷「山部上・天台山」に引用された「遊 天台山賦序」の中では、この一句が「天台山者、蓋山岳之神秀者也」と なっており、「伝本」などと一致している。

-2 は、尤本・胡本・四部本では「烏」とあるが、「伝本」では「焉」

とされ、明州本は「伝本」と同じである。四部本には「烏」とするが、

校記に「五臣本作焉字」とある。

-3 については、尤本・胡本だけは「而」とするが、明州本・袁本・

四部本はいずれも「伝本」と同じく「以」とする。

-4 に関して、尤本・胡本・四部本では「隮」とされており、四部 本の校記に「五臣本作濟字」とある。ところが、明州本と袁本ではいず れも、「伝本」と同じく「濟」としており、それぞれの校記に「善本作 隮字」とある。

『文選』各版本とは違うものの、「伝本」の誤写とは考えられな い場合。

No 伝 本 胡 刻 本

1 所以不列於五嶽、闕載於常典 者、豈不以其所立冥奧、其路 幽迥。

所以不列於五嶽、闕載於常典者、豈不以所 立冥奧、其路幽迥。(163b8-9)

2 融而成川瀆、結而為山阜。 融而為川瀆、結而為山阜。(164a8-9)

3 結根彌於華岱、直植高於九嶷。 結根彌於華岱、直指高於九疑。(164a12)

4 近智以守見不之、之者以路絶 莫曉。

近 智 以 守 見 而 不 之 、 之 者 以 路 絶 而 莫 曉 。

(164a5-6)

5 苟台嶺之可攀、亦何羨於曾城。 苟台嶺之可攀、亦何羨於層城。(164b6-7)

-1 では、「伝本」に「豈不以其所立冥奧」とあって、現行の『文 選』諸版本には「其」が見えない。ところが、前述した『藝文類聚』「山 部上・天台山」に見える「遊天台山賦序」の引用文では、この一文はや はり「豈不以其所立冥奧、其路幽迥」となっており、「伝本」との一致 を示している。

(14)

-2 の本文については、李善は班固『終南山賦』(佚)に見える「流 澤遂而成水、停積結而為山」を引いて注釈している。この引用文を注釈 対象の本文と照らし合わせてみると、「伝本」のように、「成す」と「為 す」という同じ意味を持つ二つの動詞を使い分けたほうがその出典によ り即していることがわかる。そして何より、胡刻本のように対を為す前 後二句に全く同じ動詞が使われるのは、この賦作の中では異例なことで ある。ここは、「融而為川瀆、結而為山阜」を、「伝本」によって「融 而成川瀆、結而為山阜」と訂正すべきであろう。

-3 に見える「九嶷」、と「九疑」は、字こそ違うが、ともに同一 の山の名前としてしばしば古典文献に登場している。『山海經』巻第十 八「海內經」に見える「南方蒼梧之丘、蒼梧之淵、其中有九嶷山、舜之 所葬、在長沙零陵界中」16の一文に対して、郭璞はまず、嶷の音注を「音 疑」と施して、さらにその場所について「山今在零陵營道縣南、其山九 谿皆相似、故云「九疑」;古者總名其地為蒼梧也」と解釈している。ま た、清代の郝懿行が、九嶷について、

説文(九)云:『九嶷山、舜所葬、在零陵營道。』『楚詞・離騷』

『史記・五帝本紀』並作「九疑」、『初學記』八卷及『文選』「上 林賦」注引此經、亦作「九疑」、「琴賦注」又作九嶷、蓋古字通也。

と釈して、「疑」と「嶷」とは相通ずる古い字だと説明している。だと すれば、-3 の場合も、「伝本」にある「九嶷」と胡刻本の「九嶷」は いずれも間違いではないことがわかる。

-4 については、既に『胡氏考異』では「近智以守見而不之:袁本、

茶陵本「智」下有「者」字。案:二本不載校語、無可考也」と指摘され ている。しかし、より厳密に言うと、袁本・明州本・四部本を見ればわ

16『山海経校注』「海経」卷十三、「蒼梧丘(舜葬所)」。

(15)

かるように、それぞれの本文には「者」があるかわりに、「而」の字が ないことにも言及しなければならないであろう。以下、「伝本」と『文 選』版本の該当箇所を対比しよう。

「 伝 本 」: 近 智 以 守 見 不 之 、 之 者 以 路 絶 莫 曉 。 袁本・明州本・四部本:近智者以守見不之、之者以路絶而莫曉。

尤 本 ・ 胡刻本:近智以守見而不之、之者以路絶而莫曉。

「伝本」では、「近智以守見不之」と「之者以路絶莫曉」という二句 はそれぞれ七字より構成されており、対をなしている。ところが、版本 となると、前後の二句にそれぞれ一字が増えている。後ろの一句にある

「而」に関しては、すべての版本が一致するため、仮にこの一字が増補 だとしても、かなり早い段階に行われたものであろう。問題は、後半の 一句に一字が増えたことによって、前後の対句関係に影響が及ぶことで ある。袁本と尤本との違いは、そうした対句の均衡を取り戻そうとする ために起こったものであると考えられる。つまり、袁本などでは、後半 句の「之者」という語に着目し、それと対応させようとして「近智」を

「近智者」に直した、と思われる。ところが、この本文に対して李善が

「言近智守所見而不之、假有之者、以其路斷絶、莫之能曉也」と注釈し ており、ここでは、「近智」を近智の者という意味で捉えていることが わかる。そこで、本文に改めて「者」を加えることが不適切と判断され たか、あるいは「近智守所見而不之」という李善注に影響を受けたか、

尤本をはじめとして、「近智」に「者」を加えず、「守見」の後に「而」

を付け加えるに至ったのであろう。

-5 に関しては、本文だけではなく、注釈文と合わせて考える必要 がある。「伝本」と胡刻本の内容は以下の通りである。

「伝 本」 胡 刻 本

苟台嶺之可攀、亦何羨於曾城。

『 淮南 子 』 曰 : 掘崩 砲 虚 以 下地 、 中 有增城九重。

苟台嶺之可攀、亦何羨於層城。

(前略)『淮南子』曰:掘崑崙墟以下 地、中有層城九重是也。(164b6-8)

(16)

李善は本文の「層城」を注釈する際に、その典故を『淮南子』に求 めている。現行本『淮南子』「墬形篇」では、この一文は「掘昆侖虛以 下地、中有增城九重」となっており、「伝本」に見られる注釈内容とほ ぼ一致している。「增城」とは、崑崙山の頂上に位置する、伝説上の天 国を指しており、用語としては古くから見られるものである。最も古い 用例は『楚辭』卷第三「天問」の「增城九重、其高幾里」にまで遡るこ とができる。また、梁元帝『玄圃牛渚磯碑』にも「增城九重、仙林八樹」

17とあり、更に時代を下ると、北魏の酈道元『水經注』に「崑崙之山三 級:下曰樊桐、一名板松;二曰玄圃、一名閬風;上曰增城、一名天庭、

是謂太帝之居」とある。

ところが、この意味での「增城」は、「曾城」と書かれる場合がむ しろ多いのである。例えば、『藝文類聚』には、前述した『淮南子』の 文が数回にわたって引用されているが、いずれも「曾城九重」となって いる18。また、後漢の服虔は、『漢書』「揚雄伝」に見える「帝居之縣圃」

を、「曾城・縣圃・閬風、昆侖之山三重也、天帝神在其上」と注釈して いる19。さらに、西晉・陸機「贈潘正叔詩」に「執笏崇賢内、振纓曾城 阿」20とあり、また、『文選』李善注の別の箇所に引用される東晋王彪之

『遊仙詩』にも「遠遊絶塵霧、輕舉觀滄溟。蓬萊陰倒景、崩砲罩曾城」

21とある。以上見てきたように、「曾城」という言葉は、「增城」よりは すこし遅れるが、後漢代から既に文献に登場しており、両晋を中心に、

17『藝文類聚』第七卷「山部上・總載山」。

18たとえば、『藝文類聚』第六十三卷「居處部三・城」に「淮南子曰、崑崙山有曾城 九重」とあり、また、第六十五卷「產業部上・圃」、そ して第六十七卷「衣冠部・玦珮」

にも全く同じ内容が見える。

19『漢書』卷八十七上、「列傳」第五十七上「揚雄傳」に収められた『甘泉賦』にあ る「配帝居之縣圃兮、象泰壹之威神」に対する服虔の注である。因みに、この賦作は

『文選』(第七卷)にも採録されており、この箇所に対する李善注には「服虔曰:曾城、

縣圃、閬風、崑崙之山三重」と服虔の注をそのまま踏襲している。

20この詩句は、『藝文類聚』においては、第二十九卷「人部十三・別上」、そして第六 十七卷「衣冠部・衣冠」と、前後二箇所に引用されている。

21 『文選』第二十二卷、謝霊運「從遊京口北固應詔」の「張組眺倒景、列筵矚歸潮」

に対する李善注である。

(17)

更に南北朝時代を経て、唐代までも使われていたことがわかる。

胡刻本『文選』の本文には、「曾城」が一箇所出てくるほか、「層城」

は二箇所に見える。前者に関して、第二十八卷、陸機(士衡)の「前緩 聲歌」には「遊仙聚霊族、高會曾城阿」22とあり、後者に関しては、「遊 天台山賦」のほかに、第十五卷の張衡(平子)「思玄賦」に「登閬風之 層城兮、搆不死而為床」という一句がある。この「思玄賦」とは、『文 選』が劉宋・范曄編『後漢書』と共有する十三編の作品23の一つである。

ところが、『後漢書』卷五十九「張衡伝」に見える「思玄賦」の相当箇 所では「登閬風之曾城兮、搆不死而為床」となっている。『後漢書』の 成立は大体、宋元嘉九年から十六年まで(432-439 年)とされており、

他方、『文選』の編纂時期は、梁の普通七年(526)より以後、中大通 三年(531)ごろまでと推定されている24。したがって、両者の成立時期 にはおよそ百年の差があり、『文選』が「思玄賦」を採録するに際して

『後漢書』を参考にした可能性は十分に考えられる。だとすれば、『文 選』所収「思玄賦」の「層城」は、『後漢書』に従って「曾城」と訂正 すべきであろう。そうなると、胡刻本『文選』に見える作品の本文で「層 城」とするのは「遊天台山賦」だけになる。しかし、その箇所も「伝本」

では明確に「曾城」と書かれており、この事実と以上に見てきたことと を総合的に考えれば、『文選』所収の「遊天台山賦」もやはり「伝本」

に従って「曾城」とすべきと思われる。

「層城」という表記の出現は魏末晋初に遡ることができる25が、「曾 城」と比べれば、用例は比較的に少ない。それが『文選』本文に導入さ れたのは、おそらく注釈文からの影響によるものだと考えられる。胡刻

22ただし、『藝文類聚』第四十二卷「樂部二・樂府」に収められた「前緩聲歌」には

「遊仙聚霊族、高宴層城阿」とある。

23富永一登[1998]83-84 頁は、『文選』に、直接、范曄『後漢書』から採録した五 編を含めて、十三編の共通する作品の存在を認めている。

24岡村繁[1999]8 頁。

25たとえば、成公綏(231-273)の「正旦大會行禮歌」に「大禮既行、樂無極。登 崑崙、上層城。乘飛龍、升泰清」(『晉書』卷二十二、「志」第十二、「樂上」)とある 。

(18)

本『文選』では、問題となる三箇所の「曾城」(或いは「層城」)に対し ては、いずれも李善注が附されている。「遊天台山賦」の場合は既に示 した如くであり、「前緩聲歌」の李善注もそれとほぼ同じで、「淮南子 曰:掘崑崙墟以下地、中有層城九重」(1314)となっている。そこで、

残る「思玄賦」の李善注に関して、李賢『後漢書』注を見ながら、少し 詳しく述べよう。

李賢の『後漢書』注と李善の『文選』注に関して、富永一登[1998]

は、両者の類似性を指摘し、李賢注が先立って成立していた李善注を参 照した可能性と、後世による李善注の増補に李賢注が参考にされた可能 性を提示し立証している。それでは、当該「思玄賦」の「登閬風之曾城 兮、搆不死而為床」という一文をめぐっては、どうであろうか。以下、

この文に対する李善注と李賢注を上下に示した。

李善注(胡刻本):

「閬風、崑崙山名也。善曰、(A)淮南子曰、崑崙虛有三山:閬 風、桐版、玄圃。層城九重、禹云:崑崙有此城、高一萬一千里。

十洲記曰:崑崙北角曰閬風之顛。山海經曰:崑崙開明北有不死樹、

(B)食之長壽 。郭璞曰:言常生也 。(C)古今通論曰:不死樹 在層城西。」(670)

李賢注:

「閬風、山名、在崩砲山上。『楚詞』曰、登閬風而絏馬。『淮南 子』曰、崩砲山有曾城九重、高萬一千里」。上有不死樹在其西、

今以不死木為床也。26

両注は、ある程度類似しているものの、相異がより多く目につく。

特に、両注は共に『淮南子』を引いていながらも、内容には異同がある。

26『後漢書』卷五十九「列傳」第四十九。

(19)

しかし、引用文の相違部分、つまり李善注にしか見られない「崑崙虛有 三山:閬風、桐版、玄圃」という一文は、現行本『淮南子』には相当箇 所が見当たらないものである。その上、この内容は、李善の『甘泉賦』

(『文選』第七卷)注に引用された服虔『漢書』注(前述)、つまり「曾 城、縣圃、閬風、崑崙之山三重」というものとはかなり異なっている。

崑崙三山に関しては、このほかに、前述した酈道元『水經注』の独自の 説もあるが、これらの三説の中で、最も現行本『淮南子』27に近いのは、

李善『甘泉賦』注にも引用された服虔の説である。

さらに、この箇所を含めて、上掲引用文中の下線部分 A、B、C の 三箇所は、『胡氏考異』によれば、袁本と茶陵本には見られない文であ る、とされている28。この三箇所がいずれも後世の増補とすれば、「思 玄賦」に対する李善注にはもともと「層城」に関する注釈、そして「層 城」という言葉自体もなかったことになるだろう。

これまでに進めてきた考察に大きな間違いがなければ、李善注にお ける「層城」は、「遊天台山賦」注と「前緩聲歌」注にのみ現れる、と いうことになる。前にも述べたように、二注はともに『淮南子』からの 引用で内容もほぼ同様である。しかし、現行本『淮南子』には「增城」

としており、そして、古典文献に引用された『淮南子』では多くの場合

「曾城」とされている。すると、李善が参照した『淮南子』だけは「層 城」となっていた、という可能性も否定できないものの、それは非常に 低いと思われる。むしろ、李善注に現れる「層城」は後人の書き換えに よるものとしたほうが自然である。そして、『文選』本文の「層城」と いう表記も、李善注の書き換え以後に、その影響によって導入されたも のであると考えられるだろう。

27『淮南子』第四巻「墜形訓」に「懸圃、樊桐、凉风在昆侖阊阖之中…昆侖之丘、或 上倍之、是謂涼風之山、登之而不死。或上倍之、是謂懸圃、登之乃霊、能使風雨。或 上倍之、乃維上天、登之乃神、是謂太帝之居」とある。

28『胡氏考異』には、これらの三箇所について、以下の校語がある。(A)「淮南子曰 崑崙虛」下至「高一萬一千 里」:袁本、茶陵本無此三十三字;(B)「食之長壽」:袁本、

茶陵本無此四字;(C)「古今通論曰不死樹在層城西」:袁本、茶陵本無此十二字。

(20)

第二に、李善注部分に関わる語句の相違について考察すること にする。

胡刻本をはじめとする現行本『文選』に収められた李善注の不備が しばしば指摘されているが、その多くは李善の注釈の仕方によるもので はなく、『文選』が流伝する中で次第に行われた内容の増補と伝写上の 誤りなどが原因となったと考えられる。その実態は、敦煌写本や『文選 集注』などの校勘・研究によって判明してきている。そして、「伝本」

と『文選』各版本とを対校することによっても、この問題に関する貴重 な示唆が得られるのである。以下、特に「伝本」との対校作業を通して 浮かび上がる現行李善注の問題箇所を見ていくことにする。

まず、既に『胡氏考異』で指摘されたところから見てみよう。

「伝本」には「踐莓苔之滑石、搏壁立之翠屏。莓苔、即石橋之苔 也。翠屏、石橋上石壁之名也。『異苑』曰:天台山石有莓苔之險」とあ り、この部分は現行各本も同様である。「『異苑』曰天台山石」に関して、

『胡氏考異』は、「何校「石」下添「橋」字。各本皆脫」と指摘する。

しかし、『異苑』からの引用文は、「伝本」も各版本と同様に「天台山石 有莓苔之險」としている。また、現行本『異苑』(巻第一)でも、この 箇所は「会稽天台山、雖非遐遠、自非卒生忘形、則不能躋也。赤城阻其 径、瀑布激其衝。石有莓苔之險、淵有不測之深」となっている。このよ うに、現行本『異苑』には「橋」字はなく、前後の文脈から見ても、こ の箇所に「橋」字があったとも思えないのである。また、何氏が『文選』

を校する際に、ことさらに「橋」字を付加して「石橋」と特定する必要 性がないように思われる。

「伝本」に「既克濟於九折、路威夷而脩通。(中略)『韓詩』曰:

周道威夷29」とある。この『韓詩』からの引用文が胡刻本では「道威夷

29『十三経注疏』における『毛 詩正義』「小雅・四牡」には、「四牡騑騑、周道倭遲。〈(中 略)周道、歧周之道也。倭遲、歷遠之貌。文王率諸侯 撫叛國、而朝聘乎紂、故周公作 樂、以歌文王之道、為後世法。騑、芳非反。倭、本又作「委」、於危反。遲、『韓詩』

作「倭夷」〉」とある。

(21)

者也」となっている。『胡氏考異』は、「道威夷者也:陳云別本「道」上 有「周」字、無「者也」。案:此脫「周」字、衍「者」字。別本今未見」

としている。つまり、胡氏によれば、陳氏がかつて「別本」、即ち異本 を見たことがあり、そこでは『韓詩』からの引用文が「道威夷者也」で はなく、「周道威夷」となっていたようであるが、胡氏本人はその「別 本」を見たことがない、と言う。ところが、この陳氏の説を裏付けるか のように、「伝本」でも確かに「周道威夷」とされているのである。実 際に、『韓詩』からこの一句を引用する例は、『文選』ではもう一箇所に 見られ、その第十八卷にある嵇叔夜「琴賦并序」の「指蒼梧之迢遞、臨 迴江之威夷」(839)に対する李善注も『韓詩』より「周道威夷」という 形で引いて典拠としている。したがって、「遊天台山賦」の場合も、「伝 本」に従って訂正すべきであろう。

「伝本」に「惠風勤芳於陽林、醴泉涌溜於陰渠。邊讓章『華臺賦』

曰:惠風春施。守、猶積也。勤與守通。毛萇『詩伝』曰:山南曰陽。鄭 玄『周禮』注曰:陽木生於山南」とある。しかし、現行各本では、鄭玄

『周禮』注から「陽林生於山南」と引用されている。ところが、現行本

『周禮注疏』卷十六「山虞」にある「仲冬斬陽木」に対する鄭玄注には

「陽木生山南」と見える。では、なぜ、元々の「陽木」という表現が、

現行の李善注『文選』では「陽林」となったのであろうか。『胡氏考異』

は、「「林」當作「木」、此「地官山虞」注也。善以「陽木」注「陽林」、

不知者依正文改字、非也。」というが、その通りであろう。

「伝本」に「散以象外之説、暢以無生之篇。象外、謂道也。『周 易』曰:易者象,象者、像也。荀粲別伝、粲答兄俁云:「立象以盡意、此 非通乎象外者也。象外之意、故蘊而不出矣」とある。しかし、そこに見 える「荀粲別伝」が、現行諸本では「荀粲列伝」とされているが、『胡 氏考異』は「「列」當作「別」。各本皆誤。三國魏志荀彧伝注有其證也」

としている。確かに、胡氏が言うように、「荀粲」の名は、『三國志・

魏書』巻十所収の「荀彧」(荀粲の父)の「列伝」、それも本文に付さ

(22)

れた注の中にのみ現れる。そこでは、粲の言葉として「蓋理之微者、非 物象之所舉也。今稱立象以盡意、此非通于意外者也。繫辭焉以盡言、此 非言乎繫表者也;斯則象外之意、繫表之言、固蘊而不出矣。」とある。

ただし、同じ荀粲伝の他の注には「何劭為粲伝」と記されていることか ら、子の荀粲個人にも伝記が存在したであろうし、それを李善自身が見 て、直接引用した可能性もある。しかし、荀粲の伝記は言わば野史であ って、紀伝体史書を構成する格式を具えた「列伝」ではない。「列伝」

と称することが許されるのは、あくまでも父荀彧の伝なのである。した がって、胡氏が指摘し、また「伝本」にもあるように、ここは「荀粲別 伝」とすべきではなかろうか。

次に、胡刻本の引用文と、その典拠となった文献の現行本の内容との 間に字句の出入があるが、「伝本」ではそれがない、あるいは胡刻本よ りも典拠の内容に近似する場合がある。それらを以下の表にまとめ、出 典とその現行本に見る文献内容、「伝本」と胡刻本の引用内容と順次に 並べたが、その際に三者で共通する文に下線を引き、異同のある語句に は傍点を施した。異同そのものは一目瞭然であり、また紙数の関係から、

詳述は控える。

引用された文献・内容 「伝本」 胡刻本

(『 宋 書 』 巻第 67、「列 伝」第 27「謝霊運伝」)

謝霊運「山居賦」注:

天台、桐 柏、七縣餘 地、

南帶海。二韭、四明、五 奧 、 皆 相 連 接‧ ‧ ‧ ‧

、 奇 地 所 無、高於五嶽、便是海中 三山之流。韭以 菜為名 。 四明、方石、四面自然開 窗也。

謝霊運『 山居賦 』注 曰:

天台・四明、皆

. 相連接

...

。 四明・方石四面、自然開 窗。

謝霊運『 山居賦 』注 曰:

天 台 ・ 四 明 相 接 連

. . .

、 四 明・方石四面、自然開窗。

(163b4-5)

(23)

『名山略記』(佚)30 『 名 山 略 記 』 曰 : 天 台 山、即是定光等‧諸佛所降 葛仙公山也。

『 名 山 略 記 』 曰 : 天 台 山、即是定光寺‧諸佛所降 葛仙公山也。(163b6)

『爾雅』「釋山」

泰‧

山 為 東 嶽 、 華‧

山 為 西 嶽、霍‧山為南嶽、恆‧山為 北嶽、嵩高‧‧

為中嶽。

『爾雅』曰:

泰‧

山 為 東 嶽 、 華 山 為 西 嶽、霍‧山為南嶽、恆‧山為 北嶽、嵩山‧‧

為中嶽。

『爾雅』曰:

太‧

山 為 東 嶽 、 華 山 為 西 嶽、衡‧山*為南嶽、常‧山 為 北 嶽 、 嵩 山‧ ‧

為 中 嶽 。

(163b9)

*袁本・明州本・四部本 は「霍山」とする。

『列仙伝』(校正本 )巻 下「赤須子」:

「 赤 須 子 … 好 食 松 實 … 服霞絶穀。」

『列仙伝』曰:

赤須‧

子好食松實、絶穀 。

『列仙伝』曰:

赤松‧

子好食松實、絶穀 。

(163b16-17)

王 考 「 魯 霊 光 殿 賦 序 」

(『文選』卷第 11)旋‧ 室 洪娟以窈窕、洞房叫窱而 幽邃。

『魯霊光殿賦』曰:

旋‧

室洪娟以窈窕、洞房叫 窱而幽邃。

『魯霊光殿賦』曰:

琁‧

室洪娟以窈窕、洞房叫 窱而幽邃。(164a5)

『淮南子』「原道訓 」巻 第一

a.「本處榛巢」、高 誘注 :

「聚‧木曰榛」

b.「 隠 于 榛 薄 之 中 」、 高 誘注:「藂‧木曰榛」

高誘『淮南子』注曰:

聚‧

木曰榛。

高誘『淮南子』注曰:

叢‧

木曰榛。(164b10-11)

『漢書』卷四十九「列伝」

第十九

「爰盎・晁錯伝」

上從霸陵上、欲西馳下峻 阪、盎 轡 。上曰 :「將 軍怯邪?」 盎言曰 :「臣 聞千金之子不垂堂、百金 之 子 不 騎 衡 、 聖 主 不 乘 危、不徼幸。」

『漢書‧』盎‧諫上曰:臣聞 千金子不垂堂。

漢爰盎‧‧諫上曰:臣聞千金 之 子 坐 不 垂 堂 。

(165a1-2)

30 『文選李善注引書攷證』101 頁に、「(名山略記)佚 案此疑是謝霊運名山記」とあ る。佚文のため、確かめることができないが、胡刻本に「定光寺」という寺院名が出 現することにはいささか不審を覚える。というのは、孫綽の時代ですら登ることが極 めて困難であった天台山には、それ以前の時代に寺が建てられていたとは到底考えら れないからである。一方、「伝本」のように「定光等諸佛」とすれば理解しやすくなる。

定光仏というのは、燃灯仏とも翻訳され、過去世に出現し、釈尊に授記した代表的な 古仏の一人であって、『佛本行経』(T4、No.193)第二十四「歎定光佛品」をはじめと する多くの経典に出ている。ただ、ここでの『名山略記』の記述に「葛仙公山」とあ るのは、おそらく道家の文献を参照したものと推測されるが、定光らの過去仏が登場 する葛仙公山伝説の出典はいまだ不明である。

(24)

『淮南子』巻第四「墜形 篇」曰:

「建木在都廣‧‧

、眾帝所自 上下。」

『淮南子』曰:

建 木 在 都 廣‧ ‧,眾 帝 所 自 上 下。

『淮南子』曰:

建木在廣都‧‧、眾帝所自上 下。(165b10)

『周易』卷八「繫辭」下

「 是 故 易 者 象 也 象 也 者 像也」

『周易』曰:

易者象‧‧‧,象者、像也。

『周易』曰:

象者、像也。(166a8)

『方言』:

「間」、郭璞注「言間隟 也。」

郭璞『方言』注曰:

間、隙也。

『小雅』曰:

間、隙也。31(166a11)

『維摩詰所説經』(T14、

No.475)

「入不二法門品第九」

喜見菩薩曰:色・色空為 二、色即是空、非色滅空、

色性自空 。如是 受・想・

行・識

、識 空

. .

為二 、 識 即是空、非識滅空

....

、識性

..

自空

..

。於其中而 通達者 、 是 為 入 不 二 法 門 。

(551a19-22)

『維摩經』

喜見菩薩曰:色・色空為 二、色即是空、非色滅空、

色性自空 。如是 受・想・

行・識

、識

・識空

..

為二、

識即是空、非識滅空

....

、識

. 性 自 空

. . .

。 於 其 中 通 而 達 者、為入不二法門。

『維摩經』

喜見菩薩曰:色・色空為 二、色即是空、非色滅空、

色性自空 。如是 受・想・

行・識

、識空

..

為二、識即 是空、非識性自空

.....

、於其 中通而達者、為入不二法 門。(166a13-14)

郗‧

敬 輿 與 慶 謝 緒 ( 謝 慶 緒)書論三幡義曰:近論 三幡、諸人猶多欲、既觀 色空、別更觀識、同在一 有、而重假二觀、於理為 長。然敬 輿之意 、以 色

・ 色

空及觀為三釋 幡、識

・ 識空

..

及觀亦為三幡也。

郤‧

敬輿與謝慶緒書32論三 幡義曰:近論三幡、諸人 猶多欲、既觀色空、別更 觀識、同在一有、而重假 二觀、於理為長。然敬輿 之 意 、 以 色 空

. .

及 觀 為 三 幡、識

・空

及觀亦為三幡。

(166a20-b1)

最後に、李善注の引用文献に関して、今まで不明だったところにつ いて述べよう。

『法華経』からの引用。

李善注「遊天台山賦」には、「法華経曰」とするところが二箇所あ る。一つ目の「瀑布飛流以界道」の「界道」に対する李善注は、「『法

31『文選李善注引書攷證』103 頁に、「(小雅)廣詁佚」とある。

32富永一登[1996]375 頁に、「郗超與謝慶緒書佚 案郤當作郗 晋書六十七郗超傳 云超字景興一字嘉賓 呉士 鑑斠注云 案景與敬音近 興與輿形近 疑本作景興也 」と ある。

(25)

華經』曰:黃金為繩、以界八道」(胡刻本 164b4、「伝本」も同文)とし ている。この一句が鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』(T9、No.262)「見寶塔品 第十一」からの引用文であることは既に判明しており33、これについて は異議がない。

問題は後の一箇所にある。そこでは、「法鼓琅以振響、眾香馥以揚 煙」に対して、李善注は「『法華經』曰:撃大法鼓。又曰:燒衆名香」

(胡刻本 166a4、「伝本」も同文)とする。これについて、『文選李善注 引書攷證』(103 頁)は、「撃大法鼓」の出典は『妙法蓮華経』の「序品」

に求め得たが、「燒衆名香」の出典は「未詳」としている。確かに「燒 衆名香」という表現を『妙法蓮華経』において見出すことはできない。

これは李善注の誤りでもなければ、経典の佚文でもないのである。なぜ ならば、李善がここで引用した『法華経』は『妙法蓮華経』ではなく、

その異訳本である『正法華経』(竺法護訳、T09、No.263)だったと考え られるからであり、事実、『正法華経』の「七寶塔品第十一」には「遍 布諸華、燒衆名香」(103c8)という表現を見つけることができるのであ る。また、『正法華経』「光瑞品第一」にも「散大法雨、撃大法鼓」(65c12)

とある。因みに、『妙法蓮華経』「見寶塔品第十一」の相当箇所は「燒大 寶香」(33b1)となっている。

『本草経』からの引用。

胡刻本の李善注に「『神農本草經』34曰:桂葉冬夏常青不枯。又曰:

赤芝一名丹芝、黃芝一名金芝、白芝一名玉芝、黑芝一名玄芝、紫芝一名 木芝」(165b6)とあり、『文選李善注引書攷證』(103 頁)は「神農本 草經佚」とする。確かに、前半の引用文は現行の『本草経』には見出せ ないが、郭璞『山海經』注に類似する文がある。それは、『山海經』35

33『文選李善注引書攷證』102 頁。

34「伝本」では「本草経」とする。引用文は同様である。

35郭璞注『山海経』、『子書百家』28 所収光緒紀元夏月湖北崇文書局刊本。

(26)

第一「南山経」の「招搖之山、臨于西海之上、多桂」に対する郭璞注で あり、そこには「桂葉似枇杷、長二尺餘、廣數寸、味辛、白花、叢生山 峰、冬夏常青、間無雜木」とある。なお、引用文の後半部分は、現行本

『神農本草經』(巻第二)36に見える「赤芝一名丹芝…黃芝一名金芝…白 芝一名玉芝…黑芝一名玄芝…紫芝一名木芝」という文とほぼ一致する。

『百論』からの引用

胡刻本の李善注に「『百(法)論』曰:并及八輩應真僧。然應真、

謂羅漢也」(165b14-15)とあるが、『文選李善注引書攷證』(103 頁)

は、この『百法論』を『大正蔵』第 31 巻にある『大乘百法明門論』と 推測しているが、そこには引用文と類似する内容を見つけ出すことはで きない。胡刻本の相当箇所を「伝本」で確かめてみると、この部分は「『百 論』曰:并及[八]輩應真僧、羅漢也」となっていることがわかった。そ こで『百論』(T30、No.1569)を調べたところ、「捨罪福品第一」冒頭 の偈頌にある「諸佛世尊之所説、并及八輩應真僧」(168a26)という一 句に辿りついたのである。

『梵網経』からと思われる引用

このいわゆる『百(法)論』からの引用文の後、胡刻本李善注には、

「『大智度論』曰:菩薩常應二時頭陀、常用錫杖、經伝、佛像」(165b15)

という一文が続く。しかし、『文選李善注引書攷證』(103 頁)は同内 容の文を『大智度論』には見出せず、「未詳」とした。ところが、『梵網 経』(T24、No.1484)には、「若佛子、常應二時頭陀。冬夏坐禪、結夏安 居。常用楊枝・澡豆・三衣・瓶鉢・坐具・錫杖・香爐・漉水囊・手巾・

刀子・火燧・鑷子・繩床・經律・佛像・菩薩形像」37(1008a13-16)と見

36『神農本草経』、1980 年、東京有明書房影印嘉永七年版本。

37 『梵網経』二卷は、上卷に菩薩の階位の内容、下巻は十重四十八軽戒の戒相が説か れており、そのために「菩薩戒経」とも呼ばれる。ここでの引用文は、四十八軽戒の 一つに当たる頭陀遊行の作法に関する規定の一部である。同経典によれば、佛子菩薩

(27)

える。ただ、この経文が李善注の典拠であるとすれば、なぜ『梵網経』

としてではなく、『大智度論』の文として引用されたのかは、依然とし て不明のままである。

おわりに

以上、『本伝集』本「遊天台山賦」の文献内容を現存各種の『文選』

李善注と対校し分析する作業を進めてきた。その結果、『本伝集』本「遊 天台山賦」が、李善注「遊天台山賦」に他ならず、しかもそれが現行李 善注本よりも古い形態を保存していることも判明した。このような認識 は、長い研究史を持つ文選学のための一つの資料提供ともなるだろうし、

『本伝集』が最澄作ではないという偽作説(清田寂天[2001])すら出て いる今、文献内容に即した詳細な検証を行い、その資料的価値を見直す 契機にもなるのではなかろうか。

一方、そうしたことを目指したばかりに、「伝本」の内容と較べて 明らかとなる現行本李善注の増補38に関する指摘や、さらには、その増 補の傾向と特徴などの分析や考察はおろそかにされた。実際、このよう な問題の解決 は文選学の門外漢である筆者の手には到底おえないもの である。筆者はただ、小論を通して、『本伝集』という書物に専門諸氏 の注意を引くことができれば、と願うばかりである。

が年間二回(正月十五日から三月十五日まで、八月十五日から十月十五日まで)にわ たって、頭陀行を行うべく、また、その間には常に上に挙げた十八種類の法具を身の 回りに備え用いなければならない、と定められている(1008a16-20)。『梵網経』は、

伝統的には鳩摩羅什訳とされていたが、実際は中国で成立した、いわゆる偽経である。

にもかかわらず、それが「菩薩戒経」として東アジア仏教世界においては量り知れな い影響を及ぼしてきていることには変わりがない。

38そのような増補と考えられるところは、典拠の示された注釈が35 箇所、典拠のな い注釈が13 箇所に数えられる。これらの注釈はほとんど釈義の注である。このほか、

特に『老子』注の増加がみられ、それが思想的変化すらもたらす一面をもつことに注 意を要する。

(28)

〈略号および使用テキスト〉

本伝集 最澄集『天台霊応図本伝集』(叡山文庫無動寺蔵書、文化十二 年写本、及び叡山文庫横川別当代蔵書、享保八年写本)

尤 本 李善注『文選』六十卷 宋淳熙八年(1181)尤氏刊本 (1974 年、

中華書局影印北京図書館藏本)

胡刻本 李善注『文選』六十卷、附「胡氏考異」十卷、嘉慶十四年(1809) 胡克家據宋淳熙尤袤刊本(1977 年、中華書局影印本)

袁 本 『六家文選』六十巻、嘉靖十三年至二十八年(1534-1549)、袁 褧嘉趣堂覆宋廣都裴宅刊本(東京大学総合図書館蔵本)

明州本 五臣李善注『文選』六十巻、足利学校遺蹟図書館蔵宋紹興中明 州刊本(1974 年汲古書院影印本)

四部本 『六臣注文選』六十卷、上海涵芬樓藏宋刊本(上海商務印書館 影印、四部叢刊初編縮本・集部)

伝 全 『伝教大師全集』(1975 年、世界聖典刊行協会覆刻比叡山図書 刊行版)

『大正蔵』(T) 『大正新脩大蔵経』。

参考文献

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研文出版。

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參考文獻

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