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タイプ B

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第 4 章 副詞「けだし」の意義

4.1 辞書における記述

4.2.2 タイプ B

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の結論を見ていないことが表現されるのである。副詞「けだし」は、その ような環境において現れるわけである。このことを、他の例を引いて確認 しておこう。

(35) 馬の音のとどともすれば松陰に出でてそ見つるけだし(若)君かと

(十一・2653)

(35)の詠み手は、「君」の訪れを期待し、馬の声を聞いて「君」が来たの かと考える。「けだし」が現れる「君かと」という句は、その「君が来た」

ということに関する疑問である。つまり、ここでも詠み手は「君が来た」

ということの真偽が明らかになっていない旨を表明していることになる。

このように、(35)も、先掲(33)、(34)と同様の環境に現れる例と考えら れるのである。

4.2.2 タイプ B

タイプB について考えるに当たり、まず、次に示す(36)の確認を行う。

(36) 明日の日の布勢の浦廻の藤波にけだし(気太之)来鳴かず散らして むかも

(十八・4043)

この(36)は、次に引く(37)を受けたものである。

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(37) 藤波の咲き行く見ればほととぎす鳴くべき時に近付きにけり

(十八・4042)

(37)では、田辺史福麻呂が「咲きはじめた藤波を見るとホトトギスが鳴 く時期が近づいてきたことに気づく」と詠み、それを受けた(36)の大伴 家持は「ホトトギスは藤波を訪れず、みすみす花を散らすことになるので はないか」と返す。つまり、(36)の歌は、相手からの「ホトトギスが鳴く 季節が近づいてきた」という判断に対し、本当にそうなるかどうかわから ないと述べるものである。「ホトトギスが来て鳴く」ということの真偽が明 らかでない旨を強調し、相手に同意できないことを伝えているのである。

そして、タイプB の「けだし」とは、この(36)のような環境に現れる例 である。このことを具体的に確認していく。まず(38)を見る。

(38) 我妹子がやどのまがきを見に行かばけだし(盖)門より帰してむか も

(四・777)

(38)は、大伴家持が紀女郎との贈答において詠んだ歌だが、その(38)

に至る経緯を見ておこう。次に示す(39)が家持、(40)が紀女郎の詠で、

(38)は(40)への返歌ということになる。

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(39) 鶉鳴く故りにし郷ゆ思へどもなにぞも妹に逢ふよしもなき

(四・775)

(40) 言出しは誰が言なるか小山田の苗代水の中淀にして

(四・776)

(39)では、家持が紀女郎に会う方法のないことを歎く。それに対して(40)

の紀女郎は、訪れを途絶えさせているのは家持だと咎める様子を見せてい る。(38)は、そうした「家持が訪れを途絶えさせている」という紀女郎の 判断に対して、「自分が訪れても紀女郎は追い返そうとするかもしれない」

と反撃してみせたものである。即ち(38)の歌は、「訪ねてきた家持を紀女 郎が追い返す」ことの真偽が明らかではない(つまり、真となる可能性が ある)と述べている。そのことによって、相手への異論が表明されている のであり、こうした環境に「けだし」が現れる点で、この(38)は、先の

(36)と共通するのである。タイプ B の例をさらに追加しておく。

(41) 山守はけだし(盖)ありとも我妹子が結ひけむ標を人解かめやも

(三・402)

(41)は大伴駿河麻呂の詠で、次に引く(42)の返歌に当たる。その(42)

は大伴坂上郎女によるものである。

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(42) 山守がありける知らにその山に標結ひ立てて結ひの恥しつ

(三・401)

(42)では「既に山守がいることを知らずに、その山に標を張って恥をか いた」ということが詠まれている。その含意としては、自分の娘と駿河麻 呂の縁組を考えていた大伴坂上郎女が、駿河麻呂には既に特定の女性がい たことを知り、駿河麻呂に皮肉を述べるものである。対する駿河麻呂は、

(42)において「山守がいたとしても、大伴坂上郎女の標を解く者などい ない」と返し、その「山守はけだしありとも」という仮定条件句に「けだ し」が現れている。つまり、ここで駿河麻呂は、大伴坂上郎女の「山守が いた」という判断を仮定条件化して、ということは真偽が不明の状態にし て述べているのである。そのような歌を返すことを通して、詠み手の駿河 麻呂は、相手(大伴坂上郎女)の判断に同意していないことを表明するわ けであった。

4.2.3 「けだし」の意義

ここまで「けだし」のタイプ A、B が、どのような環境に現れているの かを観察した。その結果を本節で総合する。

まず、「けだし」を含む歌の詠み手は、その歌が言語化される以前に、あ る判断に直面している。タイプA では、詠み手自身の期待 / 危惧という判 断であり、タイプB の場合は、相手から詠み手に対して示された判断であ る。そして、「けだし」を含む句には、その事前の判断との関連のもとに事

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態が構成され、詠み手によって、その事態の真偽が不明である旨、表明さ れることとなる。

タイプ A の場合は、自身が期待 / 危惧する事態の真偽は不明であると 表明されるために、その期待 / 危惧が、期待 / 危惧のまま真偽の決着を見 ずに続いていることの表現となる。一方、タイプB の詠み手は、相手から 示された判断に関連して、事態の真偽が不明であると表明しているのであ り、それゆえ相手に対する異論の伝達へと通じるわけである。

以上のように、萬葉集の「けだし」を持つ歌では、みな詠み手が、「けだ し」を含む句に言語化された事態の真偽が明らかになっていないことを表 明していた。これらの歌は「けだし」を持つという一点において収集され たわけだから、「けだし」は、これらに共通する「事態の真偽が不明である ことの表明」という性格に関連した意義を持つはずである。この点につい て考えるために、タイプA、B から改めて 1 例ずつ引いてみよう。

(34) 我が背子しけだし(気太之)罷らば白たへの袖を振らさね見つつ偲 はむ

(十五・3725)

(36) 明日の日の布勢の浦廻の藤波にけだし(気太之)来鳴かず散らして むかも

(十八・4043)

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確認されるように、「けだし」が現れる句は、タイプ A の(34)であれば仮 定、タイプB の(36)なら推量という性格を持つ。先述のとおり、これら 仮定・推量は「事態の真偽が不明であることの表明」という一般化を可能 とするが、仮定や推量の述語が意味するところは、あくまで仮定や推量で ある。つまり「事態の真偽が不明であることの言明」とは、仮定・推量と いうことの中に潜在する側面である。そして、このような述語部分だけで は明確にならないものを前景化するのが、副詞という修飾語の機能であろ う。即ち、副詞「けだし」は、これらの仮定・推量等の述語を修飾するこ とによって、述語それ自体では前景化されない「事態の真偽が不明である ことの表明」という性格を顕示するのである10

では、そのような意義を持つ「けだし」は、当該歌において、いかなる 機能を果たすのか。それを次節で考える。

4.3 まとめ - 当該歌との関わり -

まず、当該歌には、詠み手である額田王が、事前に何らかの期待 / 危惧 をしていると考えるべき要因は見当たらない。また、当該歌は、弓削皇子 への返歌として詠まれている。これをふまえると、当該歌はタイプ A では なく、タイプ B に属するものと見るのが適当であろう。では当該歌は、タ イプB の例としてどのように説明されるのか。

当該歌の「けだし」が出現する句を、標準的な語順に即して記せば「け

10 本研究で分析した萬葉集「けだし」の性格と、平安時代の訓点資料に見られる「けだ し」との間にどのような関係があるかについては、機会を改めて考えることとしたい。

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だしや我が思へるごと鳴きし」となる。「(鳥は)私と同じ思いで鳴いたの か」という疑問文が形成されているわけである。タイプ B の構造に基づけ ば、額田王は「(鳥が)私と同じ思いで鳴いたこと」の真偽は明らかでない と表明し、その結果として、弓削皇子の判断に対して異論が提示されるこ とになる。

111 番歌の弓削皇子は、鳥が鳴きながら飛ぶ様子を見て、「鳥は【古(≒

古人)】を恋うているのか」と詠み、その歌を額田王に贈った。額田王は、

弓削皇子が「鳥が額田王と同じように【古(≒古人)】を恋しく思って鳴い ている」と考えて、その判断を自身に投げかけてきたのだと理解している。

その上で額田王は、「けだし」を含む句を言語化することによって「鳥が額 田王と同じように【古(≒古人)】を恋しく思って鳴いている」という事態 は真偽不明であると返す。そのことを通して額田王は、自身が弓削皇子の 判断に同意していない旨を伝えているのである。

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結論

1 111 番歌と当該歌の贈答

本章では、ここまでの考察に基づいて当該歌への解釈をまとめ、本研究 の結論とする。まず当該歌の贈答を再掲する。

吉野宮に幸せる時に、弓削皇子、額田王に贈り与ふる歌一首 古に恋ふる鳥かもゆづるはの御井の上より鳴き渡り行く

吉野宮に幸せる時に、弓削皇子、額田王に贈り与ふる歌一首 古に恋ふる鳥かもゆづるはの御井の上より鳴き渡り行く

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