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名詞修飾のラムに共通する性格

在文檔中 立 政 治 大 學 (頁 56-63)

第 3 章 名詞修飾のラム

3.4 用例分析

3.4.3 名詞修飾のラムに共通する性格

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って対照的な関係にあるわけではない。続く(31)の詠み手は、「君」と共 に「春の花」を手折って頭にかざしたいと述べており、ここでも詠み手と

「春の花」との間に、対照的な関係は見出されないのである。

3.4.3 名詞修飾のラムに共通する性格

では、名詞修飾のラムにおいて、対照的な関係を持つ例と持たない例と は、どのような関係にあるのだろうか。そこで、前節で見た、対照的な関 係が見出されないタイプである(28)、(30)、(31)を改めて検討すること にしよう。

まず(28)の詠み手は、ラムが修飾する対象である「年月が経過したこ との区別」をなしえないほどの苦境に置かれていた。これを「詠み手とラ ムが修飾する対象との関係性」に沿って記述すれば、(28)の詠み手は「年 月が経過したことの区別」から切り離されているということになる。つま り、ラムが修飾する対象は、詠み手にとって一線を画された存在なのであ る。そして、この一線を画された存在という性格は、残る(30)と(31)

の場合も変わるところがない。

(30)の場合、詠み手は、その希望に反して「児ら」と離ればなれにな っている。即ち、両者は空間・感情の両面で隔絶されてしまっており、そ の点で、ラムが修飾する対象の「児ら」は、詠み手にとって一線を画され た存在ということになる。また(31)の詠み手は、まだ「春の花」を手折 ることはできておらず、いつか手折りたいと考えている。そうした、詠み 手の感情の中に存在する距離感ゆえに、ラムが修飾する対象の「春の花」

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は、詠み手と一線を画された存在に当たるのである。

このように考えてみると、3.4.1 節で見た、対照的な関係を持つタイプに おいても、ラムが修飾する対象は、詠み手にとって一線を画された存在で あることがわかる。即ち、詠み手とラムが修飾する対象とが対照的な関係 にあるということは、両者の間には彼我の差があるということである。こ れは、ラムが修飾する対象が、詠み手にとって一線を画された存在である ということに他ならない。対照的な関係とは、一線を画されていることの 現象上の姿の一つだということである。結局のところ、対照的な関係の有 無にかかわらず、名詞修飾のラムは、ラムが修飾する対象が詠み手にとっ て一線を画された存在であることを意味するのである。

3.5 「わがこと・ひとごと」の観点

3.2 節で述べたとおり、これまでの研究では、管見のかぎり、具体的な用 例分析に基づく名詞修飾のラムの規定はなされていない。したがって、本 研究の主張が、研究の流れの中にどう位置づけられるのかということは、

なかなか計りがたい。ただし、本研究の主張が、この名詞修飾のラムとい う問題のほかに、どのような論点と関わりうるのかということについて、

一つ言及しておきたい。

渡辺(1991)は、助動詞や授受表現、ノダ文、指示詞など、多くの文法 現象の理解に、「わがこと・ひとごと」という観点の採用が有効であること を論じている。「わがこと」とは、文内容を話し手自身のことと把握する表 現であり、「ひとごと」とは、文内容が話し手とは関わりのないこととして

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把握される表現である。その中で「らしい・だろう・う」等のいわゆる「モ ダリティ形式」は「ひとごと」系の言語形式とされている。次に渡辺(1991)

の記述を引用する。

推定や推測という判断態度それ自体は主体的であっても、やはりこれ らは判断にかかわる助動詞であって、判断内容という対象的素材を必 要とし、上接する表現を「ひとごと」化するのであろう。

たとえば「これから、私は駅に向かうだろう」という文は不自然であるが、

それは、ダロウを用いて文が構成される際、その素材は「ひとごと」とし ての性格を持つ必要があるにもかかわらず、この文では話し手自身の行動、

つまりは「わがこと」が述べられているためであるということになる9。し かしながら、ここで一つの疑問が生まれるであろう。ダロウは推量に関わ る形式であり、普通、自分自身の行動が推量されるということはない。つ まり、ダロウ等は推量を意味することの結果として、「ひとごと」系の言語 形式と言えば言えるようになっているのであって、それを、あえて「ひと ごと」系の言語形式と把握する必然性があるのかという疑問が残されるの である。

9 神尾(1990)には「話し手のなわ張りに属し、開き手のなわ張りには属さない情報は直 接形で述べられなければならず、間接形で述べられてはならない」との記述が見られる。

単純化して述べれば、直接形とは断定の系列、間接形とは推量の系列の言語形式を指 し、

「モダリティ形式」を「ひとごと」系の形式と見る渡辺(1991)に通ずる発想だと言えよ う。

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そして、本研究で扱ったラムも、特に終止法の例は推量を意味している と考えられ、その点でダロウ等と共通している。即ち、渡辺(1991)の枠 組では、ラムも「ひとごと」系の言語形式に相当する。そして、ダロウと 同じように、その「ひとごと」という性格は、推量ということの結果論的 なものではないのかという疑問を生じさせることになる。しかし、本研究 の観察するところ、名詞修飾のラムとは、ラムの修飾する対象が、話し手 から一線を画された存在であることを表示するものであった。そして、こ の性格は、渡辺(1991)の言う「ひとごと」性に当てはまるのである。つ まり、推量を意味する形式を、そのまま「ひとごと」性に結びつけると、

結果的にそのようにも見えるだけだ、という疑念も生まれてくるが、その 形式の非推量用法は、まさしく「ひとごと」的であったということなので ある。

以上をふまえると、推量等の「モダリティ」形式に「ひとごと」性を指 摘するためには、終止の用法だけではなく、名詞修飾等の非終止の用法を も含んだ総合的な分析を要すると言えよう。助動詞は、終止の用法が目に 立つため、基本的に、形式の理解の中核には、終止における性格が据えら れている。しかし、非終止の例の振る舞いに着目することによって、終止 中心の観点では扱いきれなかった問題が解決されるという可能性もあるの である。本研究の名詞修飾のラムに対する規定を、そうした今後のより幅 広い考察に向けた手がかりとしたく思う。

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3.6 まとめ - 当該歌との関わり -

ここまでの考察により、名詞修飾のラムは、ラムが修飾する対象が、詠 み手とは一線を画された存在である旨、表示する機能を持つことが明らか になった。

それに基づけば、当該歌が、111 番歌で「古に恋ふる鳥」とされていたも のを、「古に恋ふらむ鳥」と詠んでいるのは、額田王がその「鳥」を自身と は一線を画された存在と捉えているからだと考えられる。この時、注意さ れるのは、額田王がどのような意味で、「鳥」を自分にとって一線を画され た存在だと考えているのかということであろう。

題詞に見られるとおり、111 番歌は吉野宮、当該歌は倭京(飛鳥のことと されている)で詠まれたもので、額田王と、ラムが修飾する対象の「鳥」

とは空間的に隔たれている。つまり、一線を画されているということの内 実は、そうした空間的な距離感のことである可能性がある。しかし、萬葉 集の名詞修飾のラムにおいて、詠み手と、ラムが修飾する対象との空間的 な距離感だけが焦点化されている例は見出されない。たとえば、先の(26)

と(30)を再び引く。

(26)あさもよし紀人ともしも真土山行き来と見らむ(良武)紀人ともし も

(一・55)

(30)しきたへの衣手離れて我を待つとあるらむ(濫)児らは面影に見ゆ

(十一・2607)

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どちらの例も、詠み手と、ラムが修飾する対象である「紀人」「児ら」は、

空間的に離れた所に存在している。しかし、(26)の「紀人」は、詠み手と 空間的に離れているということだけではなくて、そのように空間的な距離 があることの結果、詠み手には望んでもできない「真土山を見る」ことが 可能となっている。こうした相違点によって、詠み手から一線を画された 存在として位置づけられているのである。また(30)の「児ら」も、単に 詠み手と離れた所にいるだけではない。離ればなれであることにより詠み 手の愛着が募っているからこそ、「児ら」は、この歌において、詠み手と一 線を画された存在として措定されているのである。

以上をふまえると、当該歌の名詞修飾のラムが、吉野宮 / 倭京という空 間的な距離感のみを意味しているのだとすれば、それは、萬葉集の名詞修

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