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立 政 治 大 學

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第二章、『ヴィヨンの妻』における悪女の幸福

本章は女主人公が夫の泥棒事件の後始末のために家から社会へ進出するこ とによって、女主人公の変貌や生への意志と、男主人公の矛盾した論理とのぶ つかり合いについて探求したい。社会に出た「私」も次第に夫との付き合いの 機会も増えてきた。しかし、二人が交流せずに、小説はそのまま終わった。夫 は相変わらず得体の知れない「神様」を恐れたり嘘をついたりしていて、妻と の交流が断絶されたままである。一方、社会の暗い面に向った「私」も、自ら 自分の気持ちを打ち明けようともせずに、「人非人でもいいじゃないの。私た ちは、生きていさえすればいいのよ」(P.47)という自分の決意を表明した。

思想などもない「私」は働く力を持っていても、依然として頼れる人は一人も ない。そればかりか、「私」は自分の夫による保護ことさえ断念している。「生 きていさえすればいい」(P.47)という結末において妻の表明した生き方の開 示が、最後まで夫の「恐怖」の心理と大きくな断絶構造を開示してしまうので ある。妻の変貌ぶりへの描写がリアリティをもって表現されたとしても、つい にそれを夫の身の上にも意識の上にもなんらの働きかけも合意の接点も持ち 得なかった点について探求しようと思う。

2-1.異化される母性と娼婦性

物語は「玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましました」(P.15)

という一句で始まった。妻としての「私」はじつにあわれのイメージで、「夫 は殆ど家に落ちついてゐる事」(P.16)は無いせいで、「私」は熱の出た子供の ことが心配だが、金も無くて「坊やの頭を黙つて撫でてやつているより他は無 い」(P.16)のである。「私」は内縁の妻で、「籍も何もはひつて」(P.31)いな いばかりか、夫が家を出ると、「ひとつきも帰らぬ事」(P.31)もあるから、生 活費まで夫の知り合いの出版の方にととげてもらった。「私」は妻として実に 無力の存在で悲しい妻である。しかし、今夜の夫は珍しく子供のことに就いて 尋ねてくれた。「私」は夫の普通と違った優しさに恐ろしい予感をした。

「はじめてお目にかかります。主人がこれまで、たいへんなご迷惑ばか りおかけしてまいりましたようで、また、今夜は何をどう致しました事や ら、あのようなおそろしい真似などして、おわびの申し上げ様もございま せぬ。何せ、あのような、変った気象の人なので」

と言いかけて、言葉がつまり、落涙しました。」(P.21)

「私」の予感が的中した。見知らぬ二人の男女が深夜に家へ来て、夫と言

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い争った。夫はナイフさえ出して外に飛び出した。仕方がなくて私は事件の経 緯を尋ねて、夫の代わりに後始末をさせられざるを得ない始末となった。これ までの語りはすべて「私」の口によるものであり、妻の憐れみのイメージが明 らかに読み取れる。夫がそういうような変わり者のせいで、妻は何もできなく、

ただわびを申するしかできない。そして、内縁の妻でありながら、夫の代わり にあえて責任を取ってみせた。こういう点から見れば、「私」はいわば良妻賢 母の役割を果たしているのである。それから、椿屋のご亭主の語りによって、

「私」は事件の経緯を知ってしまうのと同時に、家庭外の夫の行動様式や仕業 も知らされるようになる。

またもや、わけのわからぬ可笑しさがこみ上げて来まして、私は声を 挙げて笑ってしまいました。おかみさんも、顔を赤くして少し笑いまし た。私は笑いがなかなかとまらず、ご亭主に悪いと思いましたが、なん だか奇妙に可笑しくて、いつまでも笑いつづけて涙が出て、夫の詩の中 にある「文明の果の大笑い」というのは、こんな気持の事を言っている のかしらと、ふと考えました。(P.30)

ご亭主の話によると、夫はいつも椿屋で金を払わずに酒を飲んでいるばかり か、外で他の女と交渉さえする。しかし、「私」はご亭主の言葉に「わけのわ からぬ可笑しさ」(P.30)を感じた。「私」はこれらのことが笑いで済ませる事 ではないと知っていながら、「わけのわからない可笑しさ」(P.30)で笑いを止 められない。しかし、そういう厄介な問題を解決するための見当もついていな い。しかし、内縁の妻としての「私」は夫の悪行に責任を取る必要も無いのに、

夫を警察沙汰にされないように、自分は後始末をしようとする。夫は家庭に対 して無責任のような態度をとっているが、「私」は夫を庇ったり家を守ったり して、保護者として、庇護の場所としての「家庭」という場を強い意志をもっ て確保しようとした。

何の思慮も計画も無く、謂わばおそろしい魔の淵にするすると吸い寄せ られるように、電車に乗って中野で降りて、きのう教えられたとおりの道 筋を歩いて行って、あの人たちの小料理屋の前にたどりつきました

(P.33)

金の無い「私」はふらふらと歩き回っていたが、まだ理由もわからず何も考 えずに椿屋に辿りついた。「私」は別に解決策などがないが、椿屋のおかみさ んに「思いがけなかった」(P.33)ことで嘘をついた。それは「私」の最初の 変貌なのではないだろうか。これまでの「私」はひたすら家庭内でいつ帰るか わからない夫を待つしか出来ない無言無為の妻であった。「私」は自分ひとり

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で子供の面倒を見ているが、金も何もないから、破れて綿のはみまで出ている 座蒲団の荒涼たる部屋に閉じ込めるばかりである。しかし、今度の事件のゆえ に、「私」は余儀なく家から出ることをされる。自分がどうすればよいのかわ からないが、あえておかみさんに「お金は私が綺麗におかえし出来そう」(P.33)

だと、嘘をついた。「人質」(P.33)として椿屋にいると要請した「私」はエプ ロンをして椿屋で客あしらいをし始めた。つまり、「私」は今度の事件のきっ かけで、家に閉じ込める妻の閉鎖性から社会に脱出していく女に変貌した。

「金も出来たし」と客のひとりが、からかいますと、ご亭主はまじめに、

「いろも出来、借金も出来」と呟き、それから、ふいと語調をかえて、「何 にしますか? よせ鍋でも作りましょうか?」と客にたずねます。私には、

その時、或る事が一つ、わかりました。やはりそうか、と自分でひとり首 肯き、うわべは何気なく、お客にお銚子を運びました。(P.35)

私には何も一つも見当が附いていないのでした。ただ笑って、お客のみ だらな冗談にこちらも調子を合せて、更にもっと下品な冗談を言いかえし、

客から客へ滑り歩いてお酌して廻って、そうしてそのうちに、自分のこの からだがアイスクリームのように溶けて流れてしまえばいい、などと考え るだけでございました。(P.36)

客に「美人」(P.35)などとからかわれた「さつちゃん」は一つの「或る事」

(P.36)を発見した。それは亭主の呟くことのように、自分が実に社会で働く 力を持っていることなのである。自分の働きによって、「その日のお店は異様 に活気づいていた」(P.36)というところはつまり「私」の美貌への周りの視 線で固められた何よりも強い証拠である。

社会という現実世界の場でかつては亭主の言った言葉が、「私」に一種の暗 示を与えた。それは「私」は自身の美貌で夫の借金を返すことができるという ことなのである。自分はただ「アイスクリーム」(P.36)が溶けていくように、

その状況に入った。これまで家庭の中にいた「私」が変貌して、「椿屋の、さ つちゃん」という店での名前を獲得した。椿屋で働くことは金をもうけること 以外、もう一人の「私」すなわち「椿屋の、さつちゃん」(P.41)という新し い身分を生み出した。「私」は社会の中で働くことを通じて自分の美貌と能力 を確認し得た。

その夜は、雨が降っていました。夫は、あらわれませんでしたが、夫の 昔からの知合いの出版のほうの方で、時たま私のところへ生活費をとどけ て下さった矢島さんが、その同業のお方らしい、やはり矢島さんくらいの 四十年配のお方と二人でお見えになり、お酒を飲みながら、お二人で声高

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く、大谷の女房がこんなところで働いているのは、よろしくないとか、よ ろしいとか、半分は冗談みたいに言い合い、私は笑いながら、

「その奥さんは、どこにいらっしゃるの?」とたずねますと、矢島さんは、

「どこにいるのか知りませんがね、すくなくとも、椿屋のさつちゃんより は、上品で綺麗だ」と言いますので、

「やけるわね。大谷さんみたいな人となら、私は一夜でもいいから、添っ てみたいわ。私はあんな、ずるいひとが好き」

「これだからねえ」

と矢島さんは、連れのお方のほうに顔を向け、口をゆがめて見せました。

と矢島さんは、連れのお方のほうに顔を向け、口をゆがめて見せました。

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