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男人的擬態與女人的不良─太宰治後期女性敘事小說《維榮之妻》《斜陽》《阿三》中之女性表現─ - 政大學術集成

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(1)國立政治大學日本語文學系碩士班 碩士論文 指導教授:黃錦容博士. 學. 男の擬態と女の不良. ―太宰治後期の女語り小説. ‧. ‧ 國. 立. 政 治 大. n. al. er. io. sit. y. Nat. 『ヴィヨンの妻』『斜陽』『おさん』に見る女性表現―. Ch. engchi. i n U. v. 研究生:陳偉樺 撰 中華民國九十九年七月.

(2) 男人的擬態與女人的不良 ─太宰治後期女性敘事小說《維榮之妻》《斜陽》《阿三》中之女性表現─. 摘要. 本論文對於太宰治後期表達女性生命力的作品進行研究。這些作品雖是男性 作家所書寫的作品,但是敘事者是由具主體性的女性所發聲而與男性的言論進行 對抗,並且重新構築在制度內被他者化‧差別化的女體性。筆者著眼於這些問題. 治 政 大 這種相對化構造上對峙的女性表現的表象上,檢驗太宰治的性別差異的構造並進 立. 點並進行考察。對於在太宰的女性敘事小說中的「男人的擬態」與「女人的不良」. 行新的定位。. ‧. ‧ 國. 學. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. i n U. v.

(3) 男の擬態と女の不良 ―太宰治後期の女語り小説『ヴィヨンの妻』『斜陽』『おさん』に見る女性表現―. 要旨. 本論文は太宰の女の生命力を示した後期の女語りの作品を集中的に研究し ようと思う。これらの作品において、男作者の書く行為による作品であるが、 語りそのものは女性が主体性を持って発声し、男の言説に対抗し、制度内で他. 政 治 大 ような問題に注目し、考察を試みる。結論として、太宰の女語り小説における 立 者化・差異化される女体性を再構築しようとする文体表現となる。筆者はその. 「男の擬態」と「女の不良」という相対図式で対峙し合う女性表現の表象に、. ‧ 國. 學. 太宰治における性差の構造を検証し、新たな位置づけを試みようとするもので. ‧. io. sit. y. Nat. n. al. er. ある。. Ch. engchi. i n U. v.

(4) 謝辭. 本論文能順利完成全都要歸功於指導教授黃錦容教授給我的多方協助,不論 是在研究方法或是文獻收集與整理方面,都給了我很多建議和協助。而在論文進 行中所遇到的種種難題,也全靠老師的指導與鼓勵才能讓我走到最後。對於因為 私人的因素不得已而休學的我,老師更是經常關心我並勉勵我早日回來完成學 業,正因為老師從沒放棄過我,所以最後我才有勇氣與動力完成這本論文。跟著 老師學習的過程,不僅學到了研究的方法,也學到了很多待人處世的道理以及勇. 治 政 大 萬語也無法表達我對黃錦容老師的感謝。 立. 往直前的精神,我想我不僅是完成了一本論文,也完成了人生的一個歷練,千言. 論文口試時黃翠娥老師及陳美瑤老師的建議也讓我獲益良多,使我發現到一. ‧ 國. 學. 些之前沒發現到的問題點,讓我在最後修改時能夠再好好重新審思一遍本論文的. ‧. 不足之處,在此要特地謝謝兩位老師撥冗讀完我的論文並且給了我許多寶貴的意. y. Nat. 見。也要感謝從大學到研究所時期教導過我的許多位老師,讓我有用日文表達的. er. io. sit. 能力並且認識了許多研究方法和面相,這些都是奠定這本論文的重要基石。還要 感謝日文系辛苦的助教賴庭筠學姊,經常不厭其煩地替我解答學校事務上的種種. n. al. 問題。. Ch. engchi. i n U. v. 還要感謝我的女朋友陪伴我走過一路上的風風雨雨,她的陪伴一直是我心靈 上最大的支柱。也要感謝大學及碩士班的許多同學,給了我許多學生時代的美好 回憶,更在我迷惘困惑時提供我許多建議及幫助。還有搖滾樂社等許多一起玩過 音樂的朋友,陪我渡過了年輕又焦躁不安的歲月。 最後要感謝我的家人,栽培我到這麼大,讓我能受高等教育並完成學位。而 在攻讀學位時祖父及父親相繼去世,無法讓他們親眼看到我拿到學位的這一刻, 是我最大的遺憾。但是我相信他們在天之靈一定也能感受到我想與他們分享的這 份喜悅,以及感謝他們養育我長大的恩情。.

(5) 男の擬態と女の不良 ―太宰治後期の女語り小説『ヴィヨンの妻』『斜陽』『おさん』に見る女性表現―. 目次. 第一章、序論 ·············································································································1 1-1.研究動機····································································································1 1-2.研究目的····································································································2 1-3.先行研究····································································································4 1-3-1.妻という他者――母性によって男が救われるものか ·············4 1-3-2.聖母と娼婦と悪女――女装した語り手が制度を超越し得るも のか··············································································································6 1-3-3.男女の性差の表現――不幸な夫と幸福な妻·····························7 1-4.研究方法····································································································9 第二章、『ヴィヨンの妻』における悪女の幸福 ··················································10 2-1.異化される母性と娼婦性 ······································································10 2-2.軟弱な男の聖母憧憬 ··············································································16 2-3.制度からの脱出の両義性 ······································································21 第三章、『斜陽』における悪女の革命 ··································································25 3-1.書く女の戦い··························································································26 3-1-1.生きていくための不良 ······························································26 3-1-2.恋と革命――恋をして不良になり得るか·······························32 3-2.不良たるものの意味 ··············································································40 3-2-1.書く男の介入の意味――直治の遺書·······································40 3-2-2.母性の達成――道具立てとしての男·······································45 3-2-3.悪女の聖母憧憬―滅びていく母と生き延びていく娘 ···········49 第四章、日常性からの反逆――『おさん』における家庭的な女の視線 ·········54 4-1.夫の死を眺める妻の冷ややかな眼 ······················································54 4-2.革命家の夫を批判する妻の日常性 ······················································59 5-1.滅びて行く弱い男たちの観念性 ··························································65 5-2.強い生命力を持った女たちの日常性 ··················································69 5-3.他の関連作品との対照 ··········································································72 第六章、結論 ···········································································································78 参考文献(年代順)································································································80. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. I. i n U. v.

(6) 第一章、序論 1-1.研究動機 太宰治を論じる場合には、通説的になっている三期区分が一般的である。奥 野健男は大きく三つの時期1を分けられるという。前期は一九三二年(昭和七 年)の『晩年』から『虚構の彷徨』を経て、三五年の『HUMAN LOST』 までの四年間である。中期は三七年の『満願』より『東京八景』 、 『新ハムレッ ト』などを経て、四五年の『惜別』、 『御伽草子』までの九年間である。後期は 四五年の『パンドラの匣』より『ヴィヨンの妻』、 『斜陽』を経て、四八年の『人 間失格』『グッド・バイ』までの三年間である。それぞれの時期の作風につい ても、渡部芳紀は以下のように述べている2。. 政 治 大 前期は、太宰の二十歳代の時に当り、青春の情熱と感傷が表出された 立 時期であり、様式の上からも様々の試みがなされた。中期は、彼の三十 ‧. ‧ 國. 學. 代に当り、安定した生活の上に立って、明るく、健康な、落ち着いた作 品を多く書いている時期である。後期は、戦後の三年間で、その初めは、 新しい世界到来の明るい希望を語ったが、その後、戦後世界の混乱に絶 望し、世俗に対して必死の抵抗と批判を試みた時期である。. y. Nat. sit. n. al. er. io. 中期の太宰文学はまことに上昇志向のものが多く見られ、その中で特に女性 の第一人称による告白体の文体の試みが注目され、後期に至るまで太宰の文学 の表現上で最も重要な文体となっている。『燈籠』(『若草』昭和十二年)から はじまり、後期の名作『ヴィヨンの妻』 ( 『展望』昭和二十二年)から太宰文学 の集大成といえる『斜陽』 (『新潮』昭和二十二年)にいたる、太宰が最も得意 とする文体である。しかし、一人の小説家がなぜそのような語りを必要とした のか。それ自体が問題になるのだろう。もともと太宰自身が男でありながら、 あえて女に変身して、めんめんと語ろうとするという作家の創作意識及びその 策略の操作などが興味深いものだと思われる。その女語りによって、太宰の表 現意図は何であろうか。また、男性作家にあってはそのような表現方法をなぜ 必要とするか。そして、その表現効果によって作家の策略は本当に女性の主体 性を表現され、男の言説と相対化されえるものか。それとも依然として、ただ 男(作品内部の男たち、ないし書き手の太宰自身という両義的な意味)の自己 表出の一つの擬態に過ぎないのかなど、十分、再検討・再考察する研究価値の. Ch. engchi. 1. i n U. v. 奥野健男『太宰治論』、新潮文庫、1984.6、P.60 渡部芳紀「太宰治論――中期を中心として――」『太宰治Ⅱ』日本文学研究資料刊行会、有 精堂、1985.9、P.27. 2. 1.

(7) ある課題だと思われる。 1-2.研究目的 敗戦後、津軽から上京後の太宰は「道徳」を口にすることが多くなり3、彼 なりに新しい「道徳」への希求の表れとして窺える。しかし、その「道徳革命」 というのは「トランプ遊びのやうに、マイナスを全部あつめるとプラスに変る といふ事は、この世の道徳には起り得ないことでせうか」 (P.434) (『ヴィヨン の妻』)というように観念的であり、 「気の持ち方をくるりと変へるのが真の革 命で、それさへ出来たら、何のむづかしい問題もない筈です」(P.2845)(『お さん』)というように感覚的なものである。戦後の太宰は『冬の花火』 (昭和二 十一年)の継母や『斜陽』の母のように、優しい母性的な女性を書く一方で、 『ヴィヨンの妻』の妻、『斜陽』のかず子のように、既成道徳を破壊して生き ようとするアナーキーな女性を描く。女の強さや生命力のようなものを描いた 作品も目立つ。『ヴィヨンの妻』、『女神』、『斜陽』、『おさん』などにそれを見 ることが出来る。 『女神』には、今は「男性衰弱時代」6だから「女の力にすが. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. らなければ世の中が自滅する」7といって、自分の女房を女神として信仰して いる狂人細田氏が書かれている。狂気の細田氏の言葉によって、男性の精神と 肉体ともに疲労して、女性の時代が顕現し始めるということは示されている。 奥出健は『女神』について「これこそ戦後思想の一端を示すものであり、戦争 に見た男性論理の不毛の反省と今後は融合する男女の世界が必要、という理論 は作者の願う世界だったともいえるだろう」8と述べている。東郷克美氏も太 宰戦後の女語りの作品における思想について以下のように論じる。. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. i n U. v. 彼女(筆者注: 『女生徒』の女主人公)の中にはつねに、各人の「個性 みたいなもの」をはっきりと「体現」することを許さない世間や世間の モラルに対する違和感がある。そういう違和感をもつことを、母は「不 良みたいだ」といい、亡くなった父は「中心はづれの子」だといった。 本当に自己に忠実に生きられるように「早く道徳が一変するときが来れ. engchi. 3. 三好行雄『太宰治必携』 、学灯社、1988.7、P.46 敗戦直後、津軽疎開時代の太宰治は、「新現実。/まつたく新しい現実。ああ、これをもつ ともつと高く言ひたい」 」( 『十五年間』)と叫びつつ、 「サロン思想」を糾弾し「アナキズム風 の桃源」」 (『苦悩の年鑑』 )を夢想する。しかし、それが「ばかばかしい冬の花火」 」( 『冬の花 火』)に過ぎなかったという幻滅を抱いて上京してからの太宰は、急速にペシミスチックに傾 いていく。「新現実」や「ユートピア」を口にすることはなくなったかわりに「道徳」を問題 にすることが多くなる。 4 太宰治『太宰治全集 10』、筑摩書房、1999.1(以下『ヴィヨンの妻』の引用は同じ) 5 太宰治『太宰治全集 10』、筑摩書房、1999.1(以下『おさん』の引用は同じ) 6 太宰治『太宰治全集 10』、筑摩書房、1999.1、P.81 7 太宰治『太宰治全集 10』、筑摩書房、1999.1、P.81 8 神谷忠孝・安藤宏・奥出健『太宰治全作品研究事典』、勉誠社、1995.11、P.281 2.

(8) ばよいと思ふ」という彼女の願いは、太宰の中にずっと底流していって、 やがて戦後の『ヴィヨンの妻』の「人非人でもいいぢやないの、私たち は、生きてゐさへすればいいのよ」という大谷の妻のことばや、 「おさん」 における「道徳も何もありやしない、気持が楽になれば、それでいいん だ」ということば、そして『斜陽』のかず子の「道徳革命」となって噴 出するものの萌芽だとみてよい9。 それは太宰の道徳への懐疑の問題を、しばしば女の感覚を通して表現した創 作方法から来るものだろう。さらに「明日は、どうなつたつていい」 (P.18010) と言う女の虚無的な強さについての認識は、戦後の『ヴィヨンの妻』や『おさ ん』の方向へ深まっていくものである。これも、中期・後期を一貫するものが、 底流していたことを示すものである。そして、鳥居邦朗は『斜陽』における「道 徳革命」の担い手が女性であることについて「太宰には、女性の生命力という ものに対しては、一種の信仰のようなものがあったと思われる」11と述べてい る。妻の形象そのものについて、相馬正一は、『ヴィヨンの妻』、『斜陽』、『お さん』はいずれも「女主人公に力点が置かれ」た作品だとして、「楽天的で強 靭な生命力を持った母性的な女の生きざまを描いている」12と評価する。一方、. 立. 政 治 大. ‧ 國. 學. ‧. 例の作品における男主人公はどうであろうか。たとえば、『ヴィヨンの妻』の 夫大谷は「生れた時から、死ぬ事ばかり考えていた」(P.42)と言った、『お さん』の夫は自分を革命家として、「自分の死が、現代の悪魔を少しでも赤面 させ反省させる事に役立ったら、うれしい」(P.284)といって、自殺した。 さらに、『斜陽』における、いつも「黄昏」(P.24113)を口にする無頼作家上 原や、自分が「貴族」(P.261)といって自殺したかず子の弟の直治だと、い ずれも死を意識した男たちである。彼らは作中の女たちとは絶好の対比となる だろう。女たちは夫(或いは恋人)の言動と自滅への過程をあくまでも傍観者 として傍らから見つめて語る。つまり、男たちが自身の観念的な自意識におぼ れて、自滅する下降意識と相対化された形で、女たちは奔放な野性的な生の力 を持っていて、道徳を破っても生きて行こうとする上昇的な意志を表現してい る。 本研究は太宰の女の生命力を示した後期の女語りの作品を集中的に研究し ようと思う。これらの作品において、男作者の書く行為による作品であるが、 語りそのものは女性が主体性を持って発声し、男の言説に対抗し、制度内で他 者化・差異化される女体性を再構築しようとする文体表現となる。筆者はその. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. 9. i n U. v. 東郷克美「太宰治の話法 女性独白体の発見」、 『日本文学講座 6 近代小説』に収録、日本 文学協会編、大修館書店、1988.6、P.319 10 太宰治『きりぎりず』に収録(以下の『皮膚と心』の引用は同じ)、新潮社、2005.12 11 鳥居邦朗「斜陽」 、『作品論太宰治』に収録、双文社、1974.6、P.348 12 相馬正一『評伝太宰治』第三部、筑摩書房、1985.7 13 太宰治『太宰治全集 10』、筑摩書房、1999.1(以下『斜陽』の引用は同じ) 3.

(9) ような問題に注目し、考察を試みる。結論として、太宰の女語り小説における 「男の擬態」と「女の不良」という相対図式で対峙し合う女性表現の表象に、 太宰治における性差の構造を検証し、新たな位置づけを試みようとするもので ある。 1-3.先行研究 1-3-1.妻という他者――母性によって男が救われるものか 東郷克美の分類によると、後期の女語りの作品は『貨幣』(昭21.2)、『ヴ ィヨンの妻』(昭22.3)、『斜陽』(昭22.7~10)、『おさん』(昭22.10)、 『饗応夫人』(昭23.1)14 などである。『ヴィヨンの妻』『おさん』は同じく 妻の視点を通して語られている。『斜陽』は華族の娘かず子の語りが中心とな る。ただし、『貨幣』は女性に見立てた百円紙幣が自身の見聞を語る童話風の 短編である。また、『饗応夫人』は病身をも顧みずにひたすら散財し、来客を 饗応する一人の奥様を描いている。『ヴィヨンの妻』と『おさん』は妻の「私」 の自己語りであり、『斜陽』はかず子という「私」の一人称語り手となる。『ヴ ィヨンの妻』、『おさん』、『斜陽』の三篇は前節で触れたように、いずれに しても強靭な生命力を持った母性的な女の生きざまを描いている。 そして後期になると、中期のような未婚の若い女主人公の姿などがみられな い。坪井秀人は太宰の女語り作品を検討し、「『饗応夫人』以外は、実質的な 主人公と語り手とはほぼ一致しており、その意味では女性独白体というスタイ ルが女性の(概ねは独白の)声を通して女性の内面を語るという意図を負った ものと見て差し支えないだろう」15という。そして、女は男を「反照する鏡の 役割16」をもっている。さらに中期の女性は弱者のふうにみえているとし、戦 後作品にも「弱者としての女性に潜在するしぶとい生命力のようなものを書い た作品は少なくない」17 と示している。 女性としての生命力以外、戦後の女語りに属する作品も変貌した。戦後に入 ったら、その中期のいわゆる「安定と開花の時代」18の時期を経て、戦後の女. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. i n U. v. 性独白体の作品を中期の同じ女性独白体で書かれた『きりぎりす』 (『新潮』昭 14. 東郷克美「太宰治の話法 女性独白体の発見」 、『日本文学講座6 近代小説』に収録、日本. 文学協会編、大修館書店、1988.6、P.311 15. 坪井秀人「語る女たちに耳傾けて― 太宰治女性独白体の再検討」『国文学解釈と教材の研. 究』學燈社、2002.12、P.23 16. 坪井秀人「語る女たちに耳傾けて― 太宰治女性独白体の再検討」『国文学解釈と教材の研 究』學燈社、2002.12、P.24 17 東郷克美「太宰治の話法 女性独白体の発見」 、『日本文学講座 6 近代小説』に収録、日本 文学協会編、大修館書店、1988.6、P.326 18 奥野健男「太宰治再説」 、『太宰治論』に収録、新潮文庫、1984.6、P.109 4.

(10) 和十五年)に比べれば、太宰治のなかで何が変わり、何が変わらなかったが推 測できると思う。『きりぎりす』は画家としての地位と名声と金と引き換えに 俗物になり果てた夫に失望した妻の別れの手紙である。 『ヴィヨンの妻』を『き りぎりす』に比べて、曽根博義氏は以下のように述べている。 「私の心の中の俗物根性をいましめただけ」と作者はいっているが、芸 術家が家庭を持つことによって陥りやすい危険を警戒しながら、その危 険から自分を守ってくれるものを、ほかならぬ妻の反俗精神にもとめて いる。 (中略)当時の太宰治は芸術のために家庭を反俗の砦にすることが 可能だと本気に信じていたようだ。しかし戦後、その夢は瓦解する。夢 は破れたが、芸術に賭ける意志と反俗精神だけは貫かれ、家庭は一転し て恐怖と罪意識の対象になる。かつて『ヴィヨンの妻』になることを夢 見、俗物に堕した夫に愛想をつかして家を出て行った「妻」は、いま、 反俗に徹して家庭を顧みない夫「ヴィヨン」を、 「ヴィヨン」のまま生に 繫ぎ止めようとする役を担わされる19。. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. 家庭の恐怖についても饗庭孝男は、青春期での彼の内なる「他者」は(多分 に観念的で)あって、そうした「他者」は戦後に至って、二度目の妻と、二人 の間に生まれた子供によって彼の眼前に、「おのれひとりの観念や夢想によっ て決して否定しえない『現実』そのものとして、はるかに具体的にあらわれた のである」20と述べている。. sit. y. Nat. n. al. er. io. かつてのマルクス主義よりもまして、この「他者」は、キリスト教への 彼の関心の度合に応じて罪の意識を彼の内部に投影するものとなった。 『HUMAN LOST』のように「キリストの卑屈を得たく修業」するだけでは なく、 「義」のために、自分をとりまく、もっとも卑小ではあるが、動か しがたい「家庭」という現実を前にしなければならなくなったのである。 (中略)かつての「自己喪失」は、ここに、 「義」という自己超越の原理 を衝迫力に、 「家庭」という「地獄」を錘りとして現実との極度の緊張関 係をその内実として生々しいほどリアリティを帯びて働きはじめたので あった21。. Ch. engchi. i n U. v. つまり、かつての太宰の観念にあった他者は、妻子によって具体化されてい た。それは戦後の一連の家庭にかかわる作品が頻出することによって証明され る。その一連の作品には『ヴィヨンの妻』や『おさん』は妻を主人公として造. 19 20 21. 曽根博義「女性独白体の魅力」 、『近代日本文学のすすめ』に収録、岩波書店、1999.5 饗庭孝男『太宰治論』、小沢書店、1997.1、P.150 饗庭孝男『太宰治論』、小沢書店、1997.1、P.150 5.

(11) 形する一方、 『父』 (昭和二十二年)、 『家庭の幸福』 (昭和二十三年)や『桜桃』 (昭和二十三年)は夫を主人公として妻子との関係を描く。互いに補完する役 割を持つことが明らかであろう。前述のように、「弱者としての女性に潜在す るしぶとい生命力」に対して、一度社会という公の場で挫折した男が再び家庭 内部という場に帰還し、今度は真正面から前述のいった「弱者としての女性に 潜在するしぶとい生命力」と余儀なく対峙させられるようになる。男は社会進 出によって得た体験や論理が女に全く通用しないばかりか、かえって女の生命 力に圧倒された。 1-3-2.聖母と娼婦と悪女――女装した語り手が制度を超越し得るものか 文学に描かれる女性像は、作家自身の女性観をおのずから反映するに違いな いだろう。水田宗子は、母性、巫女性、娼婦性などの本質を持った女性像など、 文学に描かれ、典型となった女性像についても論じた22。氏は「子を産むとい う性の機能と、制度化された女性の社会的役割に加えて、文学上の女性像の典 型は、女性原理を証明する重要な根拠である」という。また、氏は女性像を探 求しようとするなら、新しい視点の重要性を説くのであるその視点は、一つに は「制度として女性を見る視点」であり、他は「女性の自我の表現という視点」 であるという23。. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. n. al. er. io. sit. y. Nat. 制度として女性を見る視点とは、女性は男性と同様に制度内に生き、制 度の制約の下にある生き方を選ぶ、あるいは余儀なくされるものと考え、 女性の生き方を制度との関係において見ていく視点である。女性の生き 方が、社会や歴史を超えて不変なものであるとは考えない視点である。 制度に先行する女性の本質があるのではなくて、制度が女性をつくるの である。 女性の自我の表現を視点にすえる見方とは、女性の自我――その充足と 表現への意志――を文学はなんらかの形で反映してきた、と考える視点 である。女性の生き方がある形で提出され、女性像が形づくられ、ある いは女性の(本質)が語られる背後には、女性の自己主張と、その自己 表現に対処する男性の自我および制度との葛藤があると見る見方である。. Ch. engchi. i n U. v. 『ヴィヨンの妻』や『おさん』の主人公「私」は、いずれも家庭や家父長制 度によって拘束されたり、制限されたりするが、生きようとする欲望を強く表 す。それはまさに「夫」を圧倒する力だ。そのような制限の中で、太宰はどう やって女性の生命力を表現するか。そして、『斜陽』の「かず子」は「革命」 22 23. 水田宗子『ヒロインからヒーローへ』 、田畑書店、1982.12、P.24 水田宗子『ヒロインからヒーローへ』、田畑書店、1982.12、P.25 6.

(12) を唱えたが、その成敗はどうであろうか。また、太宰自身は男性である上に、 彼が女装して語った女性像はおのずから真の女性の自我表現や主張を表す女 性像は差異があるに違いない。彼の「女語り」は所詮自分の中にあった女性を 表明したり男主人公の役割を補完したりするのだろう。ならば、テクストの中 で造形された女性像の作りは一体どこまでそのリアリティが確保され、再現し えるものかは問題になると思う。 なお、氏は文学上の典型となった女性像を以下のように三つに分類している。 第一は、「社会内、あるいは制度内における性役割期待にもとづいて、制度的 存在としての女性の理想像」である。第二の型は、「性役割期待に応えない、 人並み以上の知性と自我を持ち合わせた女性」で、制度から逃れたり道徳を破 壊したりする女性だという。第三の型は、「理想的な女性像を、特に救済者と しての女性像を、制度外に、あるいは制度を超越する存在として描き出す形」 である24。この三つの形によれば、『ヴィヨンの妻』や『おさん』の「私」、ま た革命を決意する前の『斜陽』の「かず子」はおそらく第一の型に属するだろ う。しかし、物語の流れによって、その姿も不変的なものとは限らない。たと えば、『ヴィヨンの妻』の「私」は夫の目に映るイメージは救済者としての女 神(それとも「こわい神様」として映るもの)だろう。しかし、椿屋で働いた 「さつちゃん」の自己意識は犯罪者の意識が強く働くと思われている。また、 「道徳革命」を決意したかず子は不倫や未婚妊娠そして出産、いずれも世の中 の道徳破りの行為に違いないだろう。かず子が理想的な女性像(かず子の母) への思いを心の底に隠したり、不倫相手上原の妻を聖母のように思ったりした が、「蝮」を心に住ませる悪女として生きていく。. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. n. Ch. engchi. er. io. sit. y. Nat. al. 1-3-3.男女の性差の表現――不幸な夫と幸福な妻. i n U. v. 戦後の太宰の文学のなかで、いかに多くの夫が死んでいったことか。『春の 枯葉』の野中は、妻節子の「強さ」に抗議しつつ死んでいく。夫の抗議の意味 を解し、「わたくしは、心をいれかへたのよ。これからはお酒のお相手でも何 でもしやうと思つてゐましたのに」と、世間の倫理の束縛から解き放たれた妻 のことばは、死んだ夫の耳に空しくひびく。 『おさん』の夫も、 「道徳や何もあ りやしない、気持が楽になれば、それでいいんだ」という妻おさんの心境には なれず、妻に「つくづく、だめな人だ」と思われながら、ほかの女と心中して しまった。 『斜陽』においても、上原は、 「黄昏」を口にし、かず子は「朝」を 口にする。渡部芳紀は「この生き続ける妻たち、女たちのなかに、太宰は、恐 れと憧憬を抱い」25たと論じた。. 24 25. 水田宗子『ヒロインからヒーローへ』、田畑書店、1982.12、P.26 渡部芳紀『太宰治 心の王者』、洋々社、1984.5.12、P.277 7.

(13) 夫には「不幸だけ」があり、妻の、そのような幸福は、己一個の幸福で はあれ、普遍的なものではなく「女には、幸福も不幸もない」のである。 が、普遍的な幸福ではないとしても、妻の到達した地点が、一つの救い の場であったことは間違いなかろう。一切の世俗的な桎梏から解放され た世界がそこにはあった。一つの新しい世界がそこには開けていた。 「道 徳なんてどうだつていい、ただ少しでも、しばらくでも、気持の楽な生 き方をしたい、一時間でも二時間でもたのしかつたらそれでいいのだ」 という「おさん」のことばも、その世界に通じてくるものだろう。妻に とっては、女にとっては、それが可能だった。しかし、夫にとって、男 にとっては、それは不可能なのであった26。 つまり、『ヴィヨンの妻』の「私」のいう「幸福」や『おさん』の「私」の いう「気持ちの楽な生き方」、それに『斜陽』のかず子の「くしゃみが出るく らい幸福」とは、いずれもきわめて私的な「幸福」である。しかし、男の方は どうであろう。榊原理智は以下のように論じる. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. 主人公のいう「幸福」とは、物語のこの時点に至るまでの主人公の性 的・経済的システム内での作動すべてをさす、きわめて私的な「幸福」 である。しかし、大谷の言説では「私」は「女」に言い替えられ、主人 公の私的状況は男女の性差に関する、より一般的な言説に還元されてし まっている。大谷は主人公と自分のいる状況の個別性を、性差という一 般性に吸収させてしまうことで、彼自身が置かれている個別な状況と対 決することを避けているともいえるであろう27。. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. i n U. v. こういう状況は『斜陽』や『おさん』でも同じだろう。上原は「君たち貴族 は、そんな僕たちの感傷を絶対に理解できない」と、「貴族」という一言で、 世間に向かうことから回避しようとした。 『おさん』の夫も同じで、 「革命を起 さなければいけないんだ、革命の本質というものはそんな具合いに、かなしく て、美しいものなんだ、そんな事をしたって何になると言ったって、そのかな しさと、美しさと、それから、愛」と、愛人や家庭のことをすべて紛らすので はないだろうか。つまり、男たちは状況がどう変わっても依然として観念の中 に生きていて、女たちと正面から語り合うことを避け、真の意味で他者理解を 求めようとすることなく、断絶を示しているのではないだろうか。. engchi. 26. 渡部芳紀『太宰治 心の王者』、洋々社、1984.5.12、P.276 榊原理智「太宰治『ヴィヨンの妻』試論――「妻」をめぐる言説――」 、 『日本文学研究論文 集成 41 太宰治』に収録、安藤宏編、1998.5、P.210 27. 8.

(14) 1-4.研究方法 本研究は『ヴィヨンの妻』 『斜陽』 『おさん』を中心に、太宰治の女語り小説 における女性表現について分析したいと思う。研究方法としては、まず三作に おいて視点人物に即して「女の言説」と「男の言説」の両方を対照させ、その 間のずれや食い違い、空白や矛盾を引き出して、女(語り手)の視点によって、 男の言説と男の擬態との虚偽性、あるいは男の弱さの制度性を忌憚なく曝け出 していく有様を特徴として把握してみる。そして、それぞれの作品から語り手 の視点から女の主題の構築のあり方を分析する。つまり、男に向ける女の「見 る視線」と、男への「語りの行為」の意味合いと一貫性を見合わせ、女の不良 が本当に自らの主体性を奪還し得たのか、それとも依然として家父長制的な言 説に強く束縛され、制度から脱出できないままなのか。女の性差の制度を解体 させるための主体再構築の両義性にまで及んで、論を展開させていく。それか ら、以上の分析を通じて、三作をあわせて論じて、太宰治の女語りの文体にな る理想的な妻のイメージや女性像を探究して、その母なるものの「母性原理」 の在り方を明らかにしたいと思う。さらに、太宰の他の関連作品と対照させ、 太宰が他者化されてきた女の視点と「声」をもって再現された女性表現におい て、男の弱さと女の強い生命力という二元的な男性原理と女性原理の表現効果 を再評価してみる。. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. 9. i n U. v.

(15) 第二章、『ヴィヨンの妻』における悪女の幸福 本章は女主人公が夫の泥棒事件の後始末のために家から社会へ進出するこ とによって、女主人公の変貌や生への意志と、男主人公の矛盾した論理とのぶ つかり合いについて探求したい。社会に出た「私」も次第に夫との付き合いの 機会も増えてきた。しかし、二人が交流せずに、小説はそのまま終わった。夫 は相変わらず得体の知れない「神様」を恐れたり嘘をついたりしていて、妻と の交流が断絶されたままである。一方、社会の暗い面に向った「私」も、自ら 自分の気持ちを打ち明けようともせずに、 「人非人でもいいじゃないの。私た ちは、生きていさえすればいいのよ」(P.47)という自分の決意を表明した。 思想などもない「私」は働く力を持っていても、依然として頼れる人は一人も ない。そればかりか、 「私」は自分の夫による保護ことさえ断念している。 「生 きていさえすればいい」(P.47)という結末において妻の表明した生き方の開 示が、最後まで夫の「恐怖」の心理と大きくな断絶構造を開示してしまうので ある。妻の変貌ぶりへの描写がリアリティをもって表現されたとしても、つい にそれを夫の身の上にも意識の上にもなんらの働きかけも合意の接点も持ち 得なかった点について探求しようと思う。. 政 治 大. 立. ‧. ‧ 國. 學. 2-1.異化される母性と娼婦性. y. Nat. sit. n. al. er. io. 物語は「玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましました」 (P.15) という一句で始まった。妻としての「私」はじつにあわれのイメージで、「夫 は殆ど家に落ちついてゐる事」 (P.16)は無いせいで、 「私」は熱の出た子供の ことが心配だが、金も無くて「坊やの頭を黙つて撫でてやつているより他は無 い」 (P.16)のである。 「私」は内縁の妻で、 「籍も何もはひつて」 (P.31)いな いばかりか、夫が家を出ると、 「ひとつきも帰らぬ事」 (P.31)もあるから、生 活費まで夫の知り合いの出版の方にととげてもらった。「私」は妻として実に 無力の存在で悲しい妻である。しかし、今夜の夫は珍しく子供のことに就いて 尋ねてくれた。「私」は夫の普通と違った優しさに恐ろしい予感をした。. Ch. engchi. i n U. v. 「はじめてお目にかかります。主人がこれまで、たいへんなご迷惑ばか りおかけしてまいりましたようで、また、今夜は何をどう致しました事や ら、あのようなおそろしい真似などして、おわびの申し上げ様もございま せぬ。何せ、あのような、変った気象の人なので」 と言いかけて、言葉がつまり、落涙しました。」(P.21) 「私」の予感が的中した。見知らぬ二人の男女が深夜に家へ来て、夫と言. 10.

(16) い争った。夫はナイフさえ出して外に飛び出した。仕方がなくて私は事件の経 緯を尋ねて、夫の代わりに後始末をさせられざるを得ない始末となった。これ までの語りはすべて「私」の口によるものであり、妻の憐れみのイメージが明 らかに読み取れる。夫がそういうような変わり者のせいで、妻は何もできなく、 ただわびを申するしかできない。そして、内縁の妻でありながら、夫の代わり にあえて責任を取ってみせた。こういう点から見れば、「私」はいわば良妻賢 母の役割を果たしているのである。それから、椿屋のご亭主の語りによって、 「私」は事件の経緯を知ってしまうのと同時に、家庭外の夫の行動様式や仕業 も知らされるようになる。 またもや、わけのわからぬ可笑しさがこみ上げて来まして、私は声を 挙げて笑ってしまいました。おかみさんも、顔を赤くして少し笑いまし た。私は笑いがなかなかとまらず、ご亭主に悪いと思いましたが、なん だか奇妙に可笑しくて、いつまでも笑いつづけて涙が出て、夫の詩の中 にある「文明の果の大笑い」というのは、こんな気持の事を言っている のかしらと、ふと考えました。(P.30). 立. 政 治 大. ‧ 國. 學. ‧. ご亭主の話によると、夫はいつも椿屋で金を払わずに酒を飲んでいるばかり か、外で他の女と交渉さえする。しかし、 「私」はご亭主の言葉に「わけのわ からぬ可笑しさ」 (P.30)を感じた。 「私」はこれらのことが笑いで済ませる事 ではないと知っていながら、 「わけのわからない可笑しさ」 (P.30)で笑いを止 められない。しかし、そういう厄介な問題を解決するための見当もついていな い。しかし、内縁の妻としての「私」は夫の悪行に責任を取る必要も無いのに、 夫を警察沙汰にされないように、自分は後始末をしようとする。夫は家庭に対 して無責任のような態度をとっているが、 「私」は夫を庇ったり家を守ったり して、保護者として、庇護の場所としての「家庭」という場を強い意志をもっ て確保しようとした。. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. i n U. v. 何の思慮も計画も無く、謂わばおそろしい魔の淵にするすると吸い寄せ られるように、電車に乗って中野で降りて、きのう教えられたとおりの道 筋を歩いて行って、あの人たちの小料理屋の前にたどりつきました (P.33) 金の無い「私」はふらふらと歩き回っていたが、まだ理由もわからず何も考 えずに椿屋に辿りついた。「私」は別に解決策などがないが、椿屋のおかみさ んに「思いがけなかった」(P.33)ことで嘘をついた。それは「私」の最初の 変貌なのではないだろうか。これまでの「私」はひたすら家庭内でいつ帰るか わからない夫を待つしか出来ない無言無為の妻であった。「私」は自分ひとり. 11.

(17) で子供の面倒を見ているが、金も何もないから、破れて綿のはみまで出ている 座蒲団の荒涼たる部屋に閉じ込めるばかりである。しかし、今度の事件のゆえ に、「私」は余儀なく家から出ることをされる。自分がどうすればよいのかわ からないが、あえておかみさんに「お金は私が綺麗におかえし出来そう」 (P.33) だと、嘘をついた。 「人質」 (P.33)として椿屋にいると要請した「私」はエプ ロンをして椿屋で客あしらいをし始めた。つまり、「私」は今度の事件のきっ かけで、家に閉じ込める妻の閉鎖性から社会に脱出していく女に変貌した。 「金も出来たし」と客のひとりが、からかいますと、ご亭主はまじめに、 「いろも出来、借金も出来」と呟き、それから、ふいと語調をかえて、 「何 にしますか? よせ鍋でも作りましょうか?」と客にたずねます。私には、 その時、或る事が一つ、わかりました。やはりそうか、と自分でひとり首 肯き、うわべは何気なく、お客にお銚子を運びました。(P.35). 政 治 大 私には何も一つも見当が附いていないのでした。ただ笑って、お客のみ 立 だらな冗談にこちらも調子を合せて、更にもっと下品な冗談を言いかえし、 ‧. ‧ 國. 學. 客から客へ滑り歩いてお酌して廻って、そうしてそのうちに、自分のこの からだがアイスクリームのように溶けて流れてしまえばいい、などと考え るだけでございました。(P.36). n. al. er. io. sit. y. Nat. 客に「美人」 (P.35)などとからかわれた「さつちゃん」は一つの「或る事」 (P.36)を発見した。それは亭主の呟くことのように、自分が実に社会で働く 力を持っていることなのである。自分の働きによって、「その日のお店は異様 に活気づいていた」 (P.36)というところはつまり「私」の美貌への周りの視 線で固められた何よりも強い証拠である。 社会という現実世界の場でかつては亭主の言った言葉が、「私」に一種の暗 示を与えた。それは「私」は自身の美貌で夫の借金を返すことができるという ことなのである。自分はただ「アイスクリーム」 (P.36)が溶けていくように、 その状況に入った。これまで家庭の中にいた「私」が変貌して、 「椿屋の、さ つちゃん」という店での名前を獲得した。椿屋で働くことは金をもうけること 以外、もう一人の「私」すなわち「椿屋の、さつちゃん」(P.41)という新し い身分を生み出した。「私」は社会の中で働くことを通じて自分の美貌と能力 を確認し得た。. Ch. engchi. i n U. v. その夜は、雨が降っていました。夫は、あらわれませんでしたが、夫の 昔からの知合いの出版のほうの方で、時たま私のところへ生活費をとどけ て下さった矢島さんが、その同業のお方らしい、やはり矢島さんくらいの 四十年配のお方と二人でお見えになり、お酒を飲みながら、お二人で声高. 12.

(18) く、大谷の女房がこんなところで働いているのは、よろしくないとか、よ ろしいとか、半分は冗談みたいに言い合い、私は笑いながら、 「その奥さんは、どこにいらっしゃるの?」とたずねますと、矢島さんは、 「どこにいるのか知りませんがね、すくなくとも、椿屋のさつちゃんより は、上品で綺麗だ」と言いますので、 「やけるわね。大谷さんみたいな人となら、私は一夜でもいいから、添っ てみたいわ。私はあんな、ずるいひとが好き」 「これだからねえ」 と矢島さんは、連れのお方のほうに顔を向け、口をゆがめて見せました。 (P.43~44) 前に述べたように、 「私」は椿屋という外部社会の場で「さつちゃん」とい う身分(記号)として社会に進出した。しかし、大谷の女房としての「私」は どう変わっていくだろうか。例文から見ればわかるように、店でお客さんたち と下品な冗談を交わしたり、夫の知人に大谷の女房が「椿屋のさつちゃんより は、上品で綺麗」だとからかわれたりされても一向平気そのものである。「大 谷さんみたいな人となら、私は一夜でもいいから、添ってみたい」というよう な大胆な誘惑めいた言葉を吐き出しても何の恥じらいも感じなかった。椿屋で 自分の美貌によって金を稼ぐ道具立てとなっているばかりか、大谷の妻という 身分を完全に捨てた、擬似的な娼婦の真似をしてみせる大谷の女房。語り手の 「私」の行為は明らかに下降指向におり、もう一歩で肉体を売り渡す娼婦にな りかねないものであった。それどころか、夫の知人の前で、これまでの良妻賢 母の役割を果たしてきた「私」のイメージは振り捨てられ、一気にふしだらの 女になった。. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. i n U. v. e n g c私は、お正月の末に、お店のお客に hi. 神がいるなら、出て来て下さい! けがされました。(P.43). その夜には、ひとりの客に家まで送ってもらった。もう電車がない時だから、 ただ玄関の式台にしても、「私」は一人の男を家で泊まらせた。そして、翌日 の明け方、 「私」は「あっけなくその男の手に入れられ」たという悲惨な目に あった。江種氏は椿屋での労働とこのレイプの体験を分析してみせ、大谷が椿 屋のおかみを含めた複数の女性を寝取っていたことを知りながら、それを非難 することのなかった語り手が、 「自身がレイプされてみて、夫と工員との間に、 男としての共通した性意識・行動が見えてきたのではないか」28と指摘してい る。. 28. 江種満子「ヴィヨンの妻」――妻の「私」 、『国文学』、1999.6、P.92 13.

(19) テクストは、一般に労働市場は男性の世界だから、そこに介入する女性 はその侵犯者として男性からの反撃を受ける、つまり何らかの意味で汚 されるという、ジェンダーで構築されたこの社会の歪みに、はからずも 触れてしまっている。ここで女たちの労働は、女たち自身を言葉の主題 に変えるけれども、同時にそのために男性からの無意識裡の反撃にさら され易く、女性の主体にとって両刃の剣の危険をはらむという現実があ らわにされている。29 こういう論点から見れば、「私」が社会に進出する(椿屋での勤めるための 新たな女給という記号を持った)ゆえに、男の世界と社会の暗闇の暴力性に踏 みにじまれてしまう。レイプされた日も「私」は、「うわべは、やはり同じ様 に、坊やを背負って、お店の勤め」(P.46)に出かけた。そこで出会った夫が 新聞記事に載せた自分についての批評に対して、弁解した。夫の言ったことを 聞いても、 「私」は「格別うれしくも」な(P.47)くて、ただ、 「人非人でもい いじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」(P.47)といった。. 立. ‧ 國. 學. 終わりに. 政 治 大. ‧. 要するにいえば、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえす ればいいのよ」 (P.47)という一句は、 「私」がいままで椿屋で働いてきて得た 社会的な体験の真実である。椿屋に出る前の「私」は荒涼たる家に籠もって、 自分さえ醜いと思う坊やを抱いて夫の帰りを待っていた。その夫の無責任さの せいで、今度は「私」は椿屋に働きに出かけていくことにした。最初は人質と して椿屋に行ったつもりだったが、そこで「私」は自分の働く能力を始めて意 識した。夫の盗んだお金はあるバーのマダムが立て替えてくれたが、「私」は 亭主夫婦に椿屋で働くことを依頼した。椿屋に勤めに行くことによって、 「私」 は夫の顔を見ることも可能となるし、経済的にも生活が改善される。その日か ら「私」はいままでの重苦しい思いが拭い去れたような気がして、生活さえ浮々 した楽しいものになったとう。いわば、家庭内でつまり制度内から脱出した 「私」は椿屋で働く「さつちゃん」への変貌であり、新しい「もう一人の私」 の生まれ変わりとなる。妻としての「私」に「椿屋のさつちゃんの顔を見ない とこのごろ眠れなくなってね」と大谷がいうように、また「大谷さんみたいな 人となら、私は一夜でもいいから、添ってみたいわ」という「私」の返答のよ うに、「私」は「さつちゃん」とは絶対別人になるのではないだろうか。そし て、そこで「私」が体験したのは「我が身にうしろ暗いところが一つも無くて 生きて行く事は、不可能だ」という生の真実である。社会に進出した「私」は すべての人が「何か必ずうしろ暗い罪をかくしている」(P.43)という罪の遍. n. er. io. sit. y. Nat. al. 29. Ch. engchi. i n U. v. 江種満子「ヴィヨンの妻」――妻の「私」 、『国文学』、1999.6、P.92 14.

(20) 在性・普遍性を改めて認識するようになる。 がしかし、「私」はどうやってすれば社会に進出する力を得られるものか。 それは自分が「ひとり残らず犯罪人」のお客さんたちと同化して「アイスクリ ームのように溶けて流れてしまえばいい」という自虐的な方法によるしかなか ったのである。また、「私」は依然として妻と「椿屋のさつちゃん」という二 つの身分を持ち合わせている。しかし、客に汚されたという決定的な事件によ って、「私」の身体まで汚され、「うしろ暗いところ」を背負わされるように なった。そうなった「私」は今度家から脱出して娼婦的な「さつちゃん」への 完全的な変貌を遂げていく。 「あたしも、こんどから、このお店にずっと泊めてもらう事にしようか しら」 「いいでしょう、それも」 「そうするわ。あの家をいつまでも借りてるのは、意味ないもの」(P.47). 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. 「さつちゃん」として生きる「私」の主体性は前にも述べたように、男の社 会的な基盤を共有し共生した共犯的構造をなしている。つまり、その主体性が 家父長的な社会をなくしては成立できないものである。先行研究にも指摘され ているように、「弱者としての女性に潜在するしぶとい生命力」に対して、太 宰は一種の信仰に近い関心を抱いていると見ている。宮原昭夫が『ヴィヨンの 妻』の「私」の形象性について、「忍従と恕しにいろどられた女人のやさしみ と愛」30の存在だと述べている。そして、三好行雄が「私」のことを「夫を許. sit. y. Nat. n. al. er. io. すことでめぐまれるみせかけの幸福感にすぎないのだが、それもまた『妻』の 智恵であり、優しさであろう」31という。しかし、そのような妻の優しさは男 たちに抑圧され、犯されて始めて成立し得るような、男の思惑によってつき動 かされる危うい優しさなのではないだろうか。その性差的な世界に身をおく 「さつちゃん」は家庭内でさえ主体性を強調しようとはしないだろうか。本来、 今の「私」はそのような意味のない家を捨ててもいい。家に帰ることによって 「妻」という身分をぎりぎりの一線で保った手段も今では無意味になるのでは ないだろうか。「私」が汚されたのはほかの外部の娼婦的な世界ではなく、生 の拠点となるはずの場所であるその家である。家庭内部の闇の暗部を背負わさ れることのない「私」の脆い自己がとうとう崩壊していった。残され、生かさ れていったのは椿屋の「さつちゃん」という自分の美貌で稼ぎ、誘惑的で、擬 似的な娼婦の誕生(家庭の妻の記号を持ったままの両義的な娼婦)であった。. 30 31. Ch. engchi. i n U. v. 宮原昭夫、「 『ヴィヨンの妻』考」、 『国文学』 、1976.5 三好行雄、「 『ヴィヨンの妻』 」( 『作品論太宰治』に収録) 、双文社、1974.6、P.329 15.

(21) 2-2.軟弱な男の聖母憧憬 「私」は椿屋のご主人より泥棒事件の経緯を聞いたときも、今まで知らなか った夫の一面が呆気なく知らされることになる。夫は新宿のバアで働いた秋ち ゃんという女に連れられて椿屋へ酒を飲みに行ったその夜、「静かで上品な素 振り」(P.24)をした。その夜から、夫は最初の百円しか払わずに、三年間ず っと椿屋に通ってご主人の「お酒をほとんどひとりで、飲みほして」(P.25) しまった。 あの人が私どもに今までお酒の代を払った事はありませんが、あのひと のかわりに、秋ちゃんが時々支払って行きますし、また、秋ちゃんの他に も、秋ちゃんに知られては困るらしい内緒の女のひともありまして、その ひとはどこかの奥さんのようで、そのひとも時たま大谷さんと一緒にやっ て来まして、これもまた大谷さんのかわりに、過分のお金を置いて行く事 もありまして(後略)(P.27). 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. 秋ちゃん以外に、ほかにも内緒の女がいった夫は、外で振り飾る身分はいわ ゆる「大谷男爵の次男で、有名な詩人」という身分であり、秋ちゃんの口によ ればまるで「神様みたいな人」で、尊敬される貴族階級かつ知識人である。そ れに、一度自慢することも無いし、すべては秋ちゃんが夫の偉さについて広告 した。しかし、その偉い大谷さんは金などすべて女に介抱してもらっている。 終戦になってから、今度は女連れでなく、記者とともに椿屋にやってきた。酒 の勘定もなく、記者を店に置いて、自分ひとりで店から逃げ出した。終戦後の 大谷は、「人相がけわしくなり、これまで口にした事の無かったひどく下品な 冗談などを口走り、また、連れて来た記者を矢庭に殴って、つかみ合いの喧嘩 をはじめたり、また、私どもの店で使っているまだはたち前の女の子を、いつ のまにやらだまし込んで手に入れて」しまった。とうとう、金を盗んだばかり か、ナイフまで出して、ご主人を刺そうとした。ご主人から、「私」は始めて 夫の無頼振りを聞かされた。しかし、家にいたときの夫はどうであろう。. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. i n U. v. 帰る時は、いつも泥酔していて、真蒼な顔で、はあっはあっと、くるし そうな呼吸をして、私の顔を黙って見て、ぽろぽろ涙を流す事もあり、ま たいきなり、私の寝ている蒲団にもぐり込んで来て、私のからだを固く抱 きしめて、 「ああ、いかん。こわいんだ。こわいんだよ、僕は。こわい! たすけて くれ!」 などと言いまして、がたがた震えている事もあり、眠ってからも、うわ ごとを言うやら、呻くやら、そうして翌る朝は、魂の抜けた人みたいにぼ. 16.

(22) んやりして、そのうちにふっといなくなり、それっきりまた三晩も四晩も 帰らず(後略)(P.31~32) それでは家の外では無頼振りをふり飾る大谷は一体何故に何者に怯えてい るのだろうか。大谷は「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦っ てばかりいるのです」(P.41)という言葉で女を蔑視し、排除し、差異化して きたはずの男性性としての文化的な意味合いにアイロニーを込めた言葉を吐 き出す。それは「椿屋にお酒を飲みに来ているお客さんがひとり残らず犯罪人 ばかりだという事」 (P.42)にも、 「私」が気づいたが、夫のその恐怖はおそら く社会外での犯罪人と直面しなければならぬという状況をことごとくホモセ クシャル的な男の絆と拘束性で言い表そうとするのではないだろうか。椿屋の 亭主の言ったように、 「記者というものは柄が悪い」 (P.28)と、夫は戦後の社 会で、いやでも記者や詩人というような文化人たちと付き合うことを余儀なく された。そのような恐怖は夫が回避したくても切るに切れない絆だろう。ゆえ に、外では無頼振りしたり金一銭も払わずに、椿屋の酒を飲み干したりする大 谷にとって、おそらく家が安堵感を与えられ、母性的な保護が保証される唯一 の場所かもしれない。その安堵感は家庭内部空間に束縛された社会的な犯罪人 でない女性性を具現化した「私」によって寄与されるところが大である。. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. n. al. er. io. sit. y. Nat. 「僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様が無いんです。生れ た時から、死ぬ事ばかり考えていたんだ。皆のためにも、死んだほうがい いんです。それはもう、たしかなんだ。それでいて、なかなか死ねない。 へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」 「お仕事が、おありですから」 「仕事なんてものは、なんでもないんです。傑作も駄作もありやしません。 人がいいと言えば、よくなるし、悪いと言えば、悪くなるんです。ちょう ど吐くいきと、引くいきみたいなものなんです。おそろしいのはね、この 世の中の、どこかに神がいる、という事なんです。いるんでしょうね?」 「え?」 「いるんでしょうね?」 「私には、わかりませんわ」 「そう」(P.42). Ch. engchi. i n U. v. 大谷は「生れた時から、死ぬ事ばかり考え」ていたから、おのずから生活 に希望なんか抱えていなかっただろう。いわば最初から生という希望を捨てた 大谷は、生活能力を持っていないのも無理ではないだろう。しかし、そのよう な自分がなかなか死ねないのはむしろ外部視線で定着されている「こわい神様 みたいなもの」という無垢な神聖性によって彼の死を引き止めることができた。. 17.

參考文獻

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