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第一章、序論

1-1.研究動機

太宰治を論じる場合には、通説的になっている三期区分が一般的である。奥 野健男は大きく三つの時期1を分けられるという。前期は一九三二年(昭和七 年)の『晩年』から『虚構の彷徨』を経て、三五年の『HUMAN LOST』

までの四年間である。中期は三七年の『満願』より『東京八景』、『新ハムレッ ト』などを経て、四五年の『惜別』、『御伽草子』までの九年間である。後期は 四五年の『パンドラの匣』より『ヴィヨンの妻』、『斜陽』を経て、四八年の『人 間失格』『グッド・バイ』までの三年間である。それぞれの時期の作風につい ても、渡部芳紀は以下のように述べている2

前期は、太宰の二十歳代の時に当り、青春の情熱と感傷が表出された 時期であり、様式の上からも様々の試みがなされた。中期は、彼の三十 代に当り、安定した生活の上に立って、明るく、健康な、落ち着いた作 品を多く書いている時期である。後期は、戦後の三年間で、その初めは、

新しい世界到来の明るい希望を語ったが、その後、戦後世界の混乱に絶 望し、世俗に対して必死の抵抗と批判を試みた時期である。

中期の太宰文学はまことに上昇志向のものが多く見られ、その中で特に女性 の第一人称による告白体の文体の試みが注目され、後期に至るまで太宰の文学 の表現上で最も重要な文体となっている。『燈籠』(『若草』昭和十二年)から はじまり、後期の名作『ヴィヨンの妻』(『展望』昭和二十二年)から太宰文学 の集大成といえる『斜陽』(『新潮』昭和二十二年)にいたる、太宰が最も得意 とする文体である。しかし、一人の小説家がなぜそのような語りを必要とした のか。それ自体が問題になるのだろう。もともと太宰自身が男でありながら、

あえて女に変身して、めんめんと語ろうとするという作家の創作意識及びその 策略の操作などが興味深いものだと思われる。その女語りによって、太宰の表 現意図は何であろうか。また、男性作家にあってはそのような表現方法をなぜ 必要とするか。そして、その表現効果によって作家の策略は本当に女性の主体 性を表現され、男の言説と相対化されえるものか。それとも依然として、ただ 男(作品内部の男たち、ないし書き手の太宰自身という両義的な意味)の自己 表出の一つの擬態に過ぎないのかなど、十分、再検討・再考察する研究価値の

1 奥野健男『太宰治論』、新潮文庫、1984.6、P.60

2 渡部芳紀「太宰治論――中期を中心として――」『太宰治Ⅱ』日本文学研究資料刊行会、有 精堂、1985.9、P.27

文学協会編、大修館書店、1988.6、P.319

10 太宰治『きりぎりず』に収録(以下の『皮膚と心』の引用は同じ)、新潮社、2005.12

11 鳥居邦朗「斜陽」、『作品論太宰治』に収録、双文社、1974.6、P.348

12 相馬正一『評伝太宰治』第三部、筑摩書房、1985.7

13 太宰治『太宰治全集 10』、筑摩書房、1999.1(以下『斜陽』の引用は同じ)

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ような問題に注目し、考察を試みる。結論として、太宰の女語り小説における

「男の擬態」と「女の不良」という相対図式で対峙し合う女性表現の表象に、

太宰治における性差の構造を検証し、新たな位置づけを試みようとするもので ある。

1-3.先行研究

1-3-1.妻という他者――母性によって男が救われるものか

東郷克美の分類によると、後期の女語りの作品は『貨幣』(昭21.2)、『ヴ ィヨンの妻』(昭22.3)、『斜陽』(昭22.7~10)、『おさん』(昭22.10)、

『饗応夫人』(昭23.1)14 などである。『ヴィヨンの妻』『おさん』は同じく 妻の視点を通して語られている。『斜陽』は華族の娘かず子の語りが中心とな る。ただし、『貨幣』は女性に見立てた百円紙幣が自身の見聞を語る童話風の 短編である。また、『饗応夫人』は病身をも顧みずにひたすら散財し、来客を 饗応する一人の奥様を描いている。『ヴィヨンの妻』と『おさん』は妻の「私」

の自己語りであり、『斜陽』はかず子という「私」の一人称語り手となる。『ヴ ィヨンの妻』、『おさん』、『斜陽』の三篇は前節で触れたように、いずれに しても強靭な生命力を持った母性的な女の生きざまを描いている。

そして後期になると、中期のような未婚の若い女主人公の姿などがみられな い。坪井秀人は太宰の女語り作品を検討し、「『饗応夫人』以外は、実質的な 主人公と語り手とはほぼ一致しており、その意味では女性独白体というスタイ ルが女性の(概ねは独白の)声を通して女性の内面を語るという意図を負った ものと見て差し支えないだろう」15という。そして、女は男を「反照する鏡の 役割16」をもっている。さらに中期の女性は弱者のふうにみえているとし、戦 後作品にも「弱者としての女性に潜在するしぶとい生命力のようなものを書い た作品は少なくない」17 と示している。

女性としての生命力以外、戦後の女語りに属する作品も変貌した。戦後に入 ったら、その中期のいわゆる「安定と開花の時代」18の時期を経て、戦後の女 性独白体の作品を中期の同じ女性独白体で書かれた『きりぎりす』(『新潮』昭

14東郷克美「太宰治の話法 女性独白体の発見」、『日本文学講座6 近代小説』に収録、日本 文学協会編、大修館書店、1988.6、P.311

15 坪井秀人「語る女たちに耳傾けて― 太宰治女性独白体の再検討」『国文学解釈と教材の研 究』學燈社、2002.12、P.23

16坪井秀人「語る女たちに耳傾けて― 太宰治女性独白体の再検討」『国文学解釈と教材の研 究』學燈社、2002.12、P.24

17東郷克美「太宰治の話法 女性独白体の発見」、『日本文学講座 6 近代小説』に収録、日本 文学協会編、大修館書店、1988.6、P.326

18奥野健男「太宰治再説」、『太宰治論』に収録、新潮文庫、1984.6、P.109

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和十五年)に比べれば、太宰治のなかで何が変わり、何が変わらなかったが推 測できると思う。『きりぎりす』は画家としての地位と名声と金と引き換えに 俗物になり果てた夫に失望した妻の別れの手紙である。『ヴィヨンの妻』を『き りぎりす』に比べて、曽根博義氏は以下のように述べている。

「私の心の中の俗物根性をいましめただけ」と作者はいっているが、芸 術家が家庭を持つことによって陥りやすい危険を警戒しながら、その危 険から自分を守ってくれるものを、ほかならぬ妻の反俗精神にもとめて いる。(中略)当時の太宰治は芸術のために家庭を反俗の砦にすることが 可能だと本気に信じていたようだ。しかし戦後、その夢は瓦解する。夢 は破れたが、芸術に賭ける意志と反俗精神だけは貫かれ、家庭は一転し て恐怖と罪意識の対象になる。かつて『ヴィヨンの妻』になることを夢 見、俗物に堕した夫に愛想をつかして家を出て行った「妻」は、いま、

反俗に徹して家庭を顧みない夫「ヴィヨン」を、「ヴィヨン」のまま生に 繫ぎ止めようとする役を担わされる19

家庭の恐怖についても饗庭孝男は、青春期での彼の内なる「他者」は(多分 に観念的で)あって、そうした「他者」は戦後に至って、二度目の妻と、二人 の間に生まれた子供によって彼の眼前に、「おのれひとりの観念や夢想によっ て決して否定しえない『現実』そのものとして、はるかに具体的にあらわれた のである」20と述べている。

かつてのマルクス主義よりもまして、この「他者」は、キリスト教への 彼の関心の度合に応じて罪の意識を彼の内部に投影するものとなった。

『HUMAN LOST』のように「キリストの卑屈を得たく修業」するだけでは なく、「義」のために、自分をとりまく、もっとも卑小ではあるが、動か しがたい「家庭」という現実を前にしなければならなくなったのである。

(中略)かつての「自己喪失」は、ここに、「義」という自己超越の原理 を衝迫力に、「家庭」という「地獄」を錘りとして現実との極度の緊張関 係をその内実として生々しいほどリアリティを帯びて働きはじめたので あった21

つまり、かつての太宰の観念にあった他者は、妻子によって具体化されてい た。それは戦後の一連の家庭にかかわる作品が頻出することによって証明され る。その一連の作品には『ヴィヨンの妻』や『おさん』は妻を主人公として造

19 曽根博義「女性独白体の魅力」、『近代日本文学のすすめ』に収録、岩波書店、1999.5

20 饗庭孝男『太宰治論』、小沢書店、1997.1、P.150

21 饗庭孝男『太宰治論』、小沢書店、1997.1、P.150

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形する一方、『父』(昭和二十二年)、『家庭の幸福』(昭和二十三年)や『桜桃』

(昭和二十三年)は夫を主人公として妻子との関係を描く。互いに補完する役 割を持つことが明らかであろう。前述のように、「弱者としての女性に潜在す るしぶとい生命力」に対して、一度社会という公の場で挫折した男が再び家庭 内部という場に帰還し、今度は真正面から前述のいった「弱者としての女性に 潜在するしぶとい生命力」と余儀なく対峙させられるようになる。男は社会進 出によって得た体験や論理が女に全く通用しないばかりか、かえって女の生命

(昭和二十三年)は夫を主人公として妻子との関係を描く。互いに補完する役 割を持つことが明らかであろう。前述のように、「弱者としての女性に潜在す るしぶとい生命力」に対して、一度社会という公の場で挫折した男が再び家庭 内部という場に帰還し、今度は真正面から前述のいった「弱者としての女性に 潜在するしぶとい生命力」と余儀なく対峙させられるようになる。男は社会進 出によって得た体験や論理が女に全く通用しないばかりか、かえって女の生命

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