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第六章、結論

『ヴィヨンの妻』の「私」は最後の場面で、椿屋に泊めてもらう事を夫に提 議した。その意味は、妻の「私」が妻という身分から脱出して、これから椿屋 の「さつちゃん」として生きていくことを示唆している。「私」にとって、家 庭はすでに無意味なものに過ぎない。自分の幸福は椿屋の「さつちゃん」とし て始めて獲得しえたものなのである。一方、「私」を家庭内に引き止めた夫は 今度かえって妻にこれからの行き方を開示された。夫は一度妻の幸福感を否定 したが、いま、彼の論理はもう妻には適用していない。彼のその擬態もすでに 妻に看破されたが、妻はその夫の擬態を暴きだそうとしなくて、ただ無頼の夫 をそのまま受け入れて、彼女の自身の生きて行こうとする意志を表明した。

『斜陽』では、敗戦後の混乱な世界に対して、生きて行こうとするかず子は 焦燥不安な気持を感じた。彼女は今までの世間の論理に疑いを抱いて、お母様 の犠牲によって獲得した生きていく意志と、弟から得た思想とを巧みに結びつ いて、自分のいき方を模索している。そのようなかず子の辿りついた結論は道 徳に背いても恋を求めようとするものなのである。かず子はその不良になりた がっている意志を上原に託したが、結局上原の擬態を看破して、その恋も破滅 した。にもかかわらず、その恋をし遂げる過程のなかで、美しく一生を終えた お母様、貴族性を取り除けなくて自殺した弟、そして堕落して行って自滅を迎 えた上原、いくつかの犠牲を通して、かず子は自分の生き方を確立した。

一方、『おさん』の「私」は『ヴィヨンの妻』の「私」や『斜陽』のかず子 と違って、家庭内に止まっていたが、彼女も道徳や思想などの論理を無視して 生きていく意志を表明した。『おさん』の「私」は夫がほかの愛人がいるから 苦しいが、夫が楽になれば平和な家庭を破壊してもよいと思っている。しかし、

夫はなかなか妻のその心情がわからなくて、他の女と心中してもなお革命を唱 え、自分の弱さを隠そうとしていた。そういう点から見れば、妻のほうはかえ って「気の持ち方を、軽くくるりと変へるのが真の革命」という真の革命の意 味をちゃんと理解したのではないだろうか。何よりも生きていくことが大切な のではないだろうか。だから、妻は夫が「だめな人」と批判を下した。

作家の実生活と結びついてみれば、太宰における「理想的な女性像」がそこ から浮き彫りされる。戦後に入って、太宰の実生活は中期の穏やかさが一掃さ れ、激しく展開する。昭和二十一年、一年半ぶりに東京三鷹の旧居に戻ると、

流行作家としての生活が嵐のように始まり、二年後の死まで続くことになる69。 昭和二十二年六月末ごろから不眠症がひどくなり、酒量も増え、帰宅すると床 に就くようになる。八月下旬、胸部疾患も悪化した70。奥野健男氏はこの時期

69 饗庭孝男『太宰治論』、講談社、1976.12、P.151

70 鶴谷憲三『Spirit 作家と作品』、有精堂、1994.4、P.164

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の太宰の生活に就いても「ジャーナリズムの注文に応じて書きなぐり、それで 印税を稼いでは、取り巻きに囲まれて、誰彼なく奢って、湯水のごとく金を浪 費する、全く無意志者のような、全く自己感情が喪失していた生活を送ってい ました」71と記している。そういうような太宰の実生活は『ヴィヨンの妻』の 夫大谷の形象と一致するといっても良いのだろう。夫のデカダンの生活を優し く受け入れた「私」という妻の理想像が太宰の秘めた希求の一部であるかもし れない。また、『斜陽』のモデルとなった太田静子は、太宰の作品の愛読者で あり、昭和十六年に友人と太宰を訪ねてから二人の交際が始まった。戦後、神 奈川県下曽我の山荘で母を失い一人住まいをしていた静子を太宰が訪ね、その 日記を借りて『斜陽』を書き始めた。さらに太宰は、『斜陽』執筆開始後まも なく、静子の懐妊を知らされた72。その『斜陽』の上原の無責任な態度を太宰 が自分自身の姿を託していたかもしれない。かず子の行き方も未婚妊娠の女に 送った礼賛の心情表現なのではないだろうか。また、昭和二十三年六月十三日、

太宰は山崎富栄と玉川上水に入水して死んだ。『おさん』の夫の造形から見れ ば、それも妻の逆の視線から夫への批判と反乱として見立てて妥当なのであろ う。

後期の「女語り」の作品における女主人公は強く生命力を表現する一方、女 自身に対する感覚や肉体性の描写は中期の「女語り」より薄くなるのではない のか。『女生徒』のような女性の心理に関する繊細な描写や、『皮膚と心』の ような肉体に関する苦悩などとは例の三作には比重が低くなる。また、男主人 公の弱さは女語りという手法によって相対化されるが、男自身の思想や論理は 曖昧な点がたくさん残っている。それは女装した策略の限界なのではないだろ うか。男の理解し得ない生命力を持った女たちは思想や論理をあまり持ってい ないが、生きていくために正面から世間や既成道徳に向かって進んでいく。し かし、太宰が男性作家である以上、やはり女の心理を完全的に把握できないせ いで、女は思想や論理を持っていない人間に設定して男の思想や論理で補完し か出来ないのではないだろうか。一方、男たちは世間と戦う勇気を持っていな いばかりか、革命や義などという論理でデカダンスの振りを装っているしか何 も出来ない。太宰治の世界では、それは男女が互いを理解できない運命かもし れない。

71 奥野健男『太宰治論』、新潮文庫、1984.6、P.146~147

72 細谷博『太宰治』、岩波書店、1998.5、P.146~147

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参考文献(年代順)

Ⅰ、単行本:

太宰治『ヴィヨンの妻』、新潮社、1950.12 太宰治『斜陽』、新潮社、1950.11

太宰治『走れメロス』、新潮社、1967.7

東郷克美『作品論 太宰治』、双文社、1974.6 太宰治『きりぎりず』、新潮社、1974.9

饗庭孝男『太宰治論』、講談社、1976.12

水田宗子『ヒロインからヒーローへ』、田畑書店、1982.12 渡部芳紀『太宰治 心の王者』、洋々社、1984.5

奥野健男『太宰治論』、新潮文庫、1984.6

相馬正一著、『評伝太宰治』第三部、筑摩書房、1985.7 日本文学研究資料刊行会『太宰治Ⅱ』、有精堂、1985.9

佐古純一郎『太宰治におけるデカダンスの倫理』、現代文芸社、1988.5 日本文学協会『日本文学講座 6 近代小説』に収録、大修館書店、1988.6 三好行雄『太宰治必携』、学灯社、1988.7

梅田鉄夫編『太宰治・第五号』、洋々社、1989.6

吉田和明『太宰治というフィクション――さまよえる「非在」』、パロル舎、

1993.6

神谷忠孝・安藤宏『太宰治全作品研究事典』、勉誠社、1995.11 安藤宏『日本文学研究論文集成 41 太宰治』、1998.5

野原一夫『太宰治 生涯と文学』、ちくま文庫、1998.5 細谷博『太宰治』、岩波書店、1998.5

太宰治『太宰治全集 10』、筑摩書房、1999.1

戸松泉『小説の(かたち)・(物語)の揺らぎ-日本近代小説「構造分析」の 試み』、翰林書房、2002.2

安藤宏『太宰治 弱さを演じるということ』、ちくま新書、2002.10

森田喜郎『文学にみられる「運命」の諸相―近世文学・太宰治・芹沢光治良―』、

2003.4

太宰治『きりぎりす』、新潮文庫、2005.12

近松門左衛門『曾根崎心中 冥途の飛脚 心中天の網島―現代語訳付き』、角川 書店、2007.3

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Ⅱ、雑誌:

原子朗「太宰治における(をんなの言葉)」、『国文学』、1987.1 江種満子「ヴィヨンの妻」――妻の「私」、『国文学』、1999.6

中村三春「『斜陽』のデカダンスと(革命)――属領化するレトリック、『国文 学』、1999.6

和田季絵「斜陽」、『国文学 解釈と鑑賞』、1996.6

安藤宏「太宰文学における(女性)」、『国文学 解釈と鑑賞』、1999.9

坪井秀人「語る女たちに耳傾けて――太宰治・女性独白体の再検討」、『国文学』、 2002.12

Ⅲ、論文

鳥居邦朗「斜陽」、『作品論太宰治』に収録、双文社、1974.6

三好行雄「ヴィヨンの妻」、『作品論太宰治』に収録、双文社、1974.6 奥野健男「太宰治再説」、『太宰治論』に収録、新潮文庫、1984.6

渡部芳紀「太宰治論――中期を中心として――」『太宰治Ⅱ』日本文学研究資 料刊行会、有精堂、1985.9

東郷克美「太宰治の話法 女性独白体の発見」、『日本文学講座 6 近代小説』

に収録、日本文学協会編、大修館書店、1988.6

榊原理智「太宰治『ヴィヨンの妻』試論――「妻」をめぐる言説――」、『日本 文学研究論文集成 41 太宰治』に収録、安藤宏編、1998.5

曽根博義「女性独白体の魅力」、『近代日本文学のすすめ』に収録、岩波書店、

1999.5

戸松泉「斜陽」の(かたち)覚書――かず子の「手記」としての世界――」『小 説の(かたち)・(物語)の揺らぎ-日本近代小説「構造分析」の試み』に収 録、翰林書房、2002.2

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