日米防衛協力の公式化と
NPT 批准問題
板 山 真 弓
(東京大学社会科学研究所特任研究員)
【要約】
本論文では、近年深化が著しい日米防衛協力の源を探るべく、
1978
年 の「日米防 衛協力のた めの指針」 策定をもた らした要因 、その 中
で も特に、日 本側の要因 について考 察した。特 に、新たに 開示さ れ
た 日米両国の 一次史料に より裏付け る形で、そ の背景とし て、既 存
の研究では見逃されてきた
NPT 批准問題を巡る自民党内政治が重要
な 役 割 を 果 た し た の で は な い か と の 議 論 を 行 っ た 。 す な わ ち 、
NPT
批 准は三木武 夫政権の重 要政策課題 であったが 、これに反 対する 勢
力が自民党内に存在していた(自民党右派)
。彼らは、批准に協力す
る 条件の一つ として、日 米安保体制 の充実を挙 げたが、政 権基盤 の
弱 い三木がそ れに対応す るための方 策の一つが 、従来、自 衛隊と 米
軍 との間で秘 密裏に実施 されていた 共同計画策 定を公式化 するこ と
であり、これが、最終的に「指針」策定へと結びついたのであった。
キーワード:日米関係、日米防衛協力、
NPT、同盟
一 はじめに
本論文では、近年深化が著しい日米防衛協力の源を探るべく、
1978
年の 「日米防衛 協力のため の指針」(以 下、「指針」 と略)策定 を も
たらした要因、その中でも特に、日本側の要因について考察する
1。
こ の「指針」 策定、そし てそれに伴 う共同計画 策定は、従 来、秘 密
裡 になされて いた共同計 画策定が公 式化された ことになり 、日米 安
全 保障関係史 上、画期的 な出来事だ と位置づけ られる。こ のため 、
従 来、このテ ーマに関す る多くの研 究がなされ てきた。既 存の研 究
で は、日本国 内において 「指針」策 定、すなわ ち、それま で秘密 裏
に 行 わ れ て い た 共 同 計 画 策 定
2の 公 式 化 を 行 う こ と が 可 能 に な っ た
背景として、ニクソン・ドクトリンや
1975 年春の東南アジア情勢(4
月
30 日のサイゴン陥落)を受けて、日本側が「捨てられる恐怖」を
強く感じたことがあったとの指摘がなされている
3。また、日本政府
の 中でも特に 、坂田道太 防衛庁長官 や丸山昂防 衛局長を中 心とす る
防衛庁が果たした役割に注目するものが多い
4。
ただし、こ の問題の本 質に着目す ると、既存 研究が指摘 する防 衛
1 米国側の要因も含めた「指針」策定に至る流れ全体については、板山真弓「日米同 盟における共同防衛体制の成立 1951-1978 年」東京大学総合文化研究科博士論文 (2014 年)を参照。 2 秘密裏の共同計画策定の詳細については、板山真弓「『日米防衛協力のための指針』 策定以前における日米防衛協力の実態」『国際政治』第188 号(2017 年 3 月)を参照。 3 代表的なものとして、村田晃嗣「防衛政策の展開--『ガイドライン』の策定を中心に」 『年報政治学1997』(1997 年);土山實男『安全保障の国際政治学』有斐閣(2004 年); 松村孝省・武田康裕「1978 年『日米防衛協力のための指針』の策定過程――米国の 意図と影響」『国際安全保障』第31 巻第 4 号(2004 年 3 月);吉田真吾『日米同盟の 制度化:発展と深化の歴史過程』名古屋大学出版会(2012 年);武田悠『「経済大国」 日本の対米協調』ミネルヴァ書房(2015 年)。 4 同上。
庁 の イ ニ シ ア チ ブ の み で は 説 明 で き な い 部 分 が 存 在 す る 。 す な わ
ち 、従来秘密 裏に行われ ていた共同 計画策定を 公式化する か否か と
い う問題は、 国内政治上 、激しい対 立及び緊張 を生み得る 問題で あ
り 、高度な政 治的判断を 必要とする ものである 。よって、 この問 題
に 対して、政 府の最高指 導者である 首相が前向 きかどうか 、また 、
首 相の与党内 における立 場がどのよ うなものか ということ が、公 式
化 の成否に大 きく影響す ると考えら れる。しか し、既存の 研究で は
この点に焦点を当て、詳細に議論されることはなかった。
ちなみに、公式化に向けて日本が動き出した
1975 年春に政権を担
当 していたの は、三木武 夫であった 。自民党内 でもリベラ ル色が 強
い ことで知ら れていた三 木が、何故 、坂田や丸 山ら防衛庁 が進め よ
う としていた 日米防衛協 力の進展に 前向きな姿 勢を示した のか。 本
論 文では、そ の鍵となる 要因の一つ が、三木が 政権の重要 課題と し
て取り組んでいた
NPT(核拡散防止条約)批准問題であったとの議
論を行う。すなわち、本論文では、NPT 批准問題を軸として、それ
と 日米防衛協 力の進展と いう政策課 題がどのよ うに結びつ き、共 同
計 画策定の公 式化を可能 にする国内 政治環境を 作ったのか という 点
について解明することとする。
第
2 節では、三木武夫首相の外交思想と与党内での立場について
明 らかにする 。共同計画 策定の公式 化に向けて 日本側が動 き出し た
の は三木政権 においてで あった。ハ ト派と呼ば れた三木は 、そも そ
も 安全保障に 関してどの ような思想 を持ってい たのか。ま た、与 党
内 での三木の 立場とはど のようなも のだったの か。この節 では、 そ
れを明らかにすることとする。続く第
3 節から第 5 節では、三木政
権が
NPT 批准に向けて、自民党内におけるコンセンサスをどのよう
にして形成したのかという点に注目する。そこでは、
NPT 批准への
反 対派が、批 准に協力す る条件を複 数挙げて抵 抗したこと 、その 条
件 の中には日 米安保体制 の充実があ ったことを 明らかにす る。三 木
政 権は、党内 での自らの 弱い立場を 理解した上 でそれらの 条件を 受
け 入れた。こ のような状 況の中で共 同計画策定 の公式化が 進めら れ
ることとなったが、第
6 節ではその背景要因として NPT 批准に向け
た以上の動きがあったことを示すこととする。
二 三木武夫首相の外交思想と与党内での立場
三木首相は 、思想的に リベラルな 政治家であ り、その点 で、そ れ
ま で の 首 相 と 異 な っ て い た 。 日 本 国 憲 法 に 関 し て は 、「 最 も 先 進 的
な、すばらしい憲法」だと評価しており、
「私たち日本国民は自信と
誇 りをもって この憲法を 遵守すべき である。少 なくとも私 は『憲 法
改正』には反対である」との考えを持っていた
5。これは、三木政権
時に起こった、稲葉修法相の改憲集会出席事件(
1975 年 5 月)時に
お ける対応か らも明らか である。こ の事件では 、野党から の激し い
批 判を受けた が、これに 対して、三 木首相は、 自らの内閣 では憲 法
改 正を行わな いとの方針 を明らかに しており、 稲葉法相は それを 承
知で入閣しているとの答弁を繰り返し、事態を収束させた
6。池田勇
5 大江可之編著『元総理三木武夫議員五十年史』日本国体研究院(1987 年)、356 ペー ジ、中村慶一郎『三木政権・747 日:戦後保守政治の曲がり角』行政問題研究所出版 局(1981 年)、59 ページ。このことを示す三木の国会での答弁については、例えば、 第 75 回参議院法務委員会におけるものが挙げられよう(「三木内閣というものは憲 法を改正せずということの方針を明らかにしておる、それを承知で入閣をされたわ けでございますから、三木内閣に入閣された以上は、やはり三木内閣の方針に従っ て行動をするという厳粛な責任を法務大臣は持っておるわけです。今日まで私は、 稻葉法務大臣はその私の方針に背くようなことなく、その職務の執行に当たってき たと思うわけです。」『第75 回参議院法務委員会』第 8 号、1975 年 5 月 13 日、国会 会議録検索システム、http://kokkai.ndl.go.jp/〔以下省略〕)。 6 中村慶一郎、前掲『三木政権・747 日』、57~62 ページ。
人 以降の歴代 首相は、自 民党綱領に は改憲に関 する言及が あるも の
の 、自らの政 権では改憲 を行わない との意向を 言明してき たが、 そ
れ は、当時の 政治状況が 改憲を可能 にするもの ではないと の判断 か
ら であり、三 木のように 、護憲の思 想からとい う訳ではな かった 点
が 、大きく異 なる部分で あると言え よう。また 、日本には 、自衛 隊
という実質的な軍隊が存在しているので、憲法
9 条を変えるべきで
あ るとの議論 についても 、本末転倒 だと批判し ていた。ち なみに 、
自 民 党 内 部 に 存 在 し て い た 日 本 国 憲 法 の 制 定 過 程 に 関 す る 問 題 意
識 、つまり、 日本国憲法 は、米国の 占領下で、 日本の主権 を拘束 す
る 力の存在す る状態の中 で形成され た点に問題 があるとの 問題意 識
に ついては、 これを共有 しておらず 、原案に当 たるものは 、米国 を
は じめとする 連合国の作 成したもの であるが、 吉田首相を 代表と す
る 国民の総意 に基づいた 承認を得て いるので問 題ないと考 えてい た
7。また、三木は核についても批判的な立場を取っており、生涯、核
廃絶について考えていたと言われている
8。このことより、日本の核
武装については強く反対しており、自ら書き上げたとされる
9施政方
針演説においても、
「核武装は論外です」と強い調子で核武装を否定
した
10。
このような リベラルな 思想を持っ ていたこと により、三 木は、 自
7 大江可之編著、前掲『元総理三木武夫議員五十年史』、355 ページ。 8 國弘正雄『操守ある保守政治家三木武夫』たちばな出版(2005 年)、83 ページ。 9 中村慶一郎、前掲『三木政権・747 日』、106~107 ページ。通常、首相の国会演説(施 政方針演説、所信表明演説)は、内閣官房が各省から提出させた草案原稿を一つの 文章にまとめ、それを首相に提出して了承を得る形で作成されるが、三木の場合は、 事務方が作成した草案をほとんど採用せず、自ら書き上げた。よって、他の首相の ものと比較すると、演説には、三木個人の思想がより強く反映されていると考えら れる。 10 『第 75 回衆議院本会議』第 2 号、1975 年 1 月 24 日、国会会議録検索システム。
ら の 所 属 す る 政 党 が 推 進 し よ う と す る 政 策 と 自 ら の 考 え が 合 わ ず
11、反対することもあった。例えば、岸政権が進めようとした日米安
保 の改定に関 しては、反 対の意思を 示すために 、採決を欠 席した 。
ただし、後に、このことを回想し、
「この強行採決がもたらした諸々
の ものは、長 い眼でみる ならどちら かといえば 肯定的に捉 えてよ い
ものが多いことは私も認めなくてはならないだろう」としている
12。
つ まり、採決 に加わらず 、反対の姿 勢を示した 新安保条約 ではあ っ
た が、それは 結局、日本 にとって有 益なもので あったと評 価して い
る のである。 このことは 、首相就任 後の「私は 戦争抑止と いう観 点
から、日米間の安保協力と自衛隊の存在を評価するものであります」
との施政方針演説における発言からも明らかである
13。ただし、三木
は、日米安保や自衛隊に関しては、あくまで憲法
9 条の範囲内での
行動を支持するとのことを明言していた。
このように 、三木は、 基本的にリ ベラルな思 想を持って いたと 言
え るが、政権 を取った後 には、自民 党内の支持 を得るため に現実 的
な政策を選択することもままあった
14。つまり、党内基盤の弱い三木
11 三木の妻・睦子は、三木にとって、自民党は「非常に居心地の悪いところだった」 が、「憲法を守るため、国を間違った方向に行かせないためにあえて自民党に残った」 と回想している(三木睦子・國弘正雄「非戦を訴え続けた二人の政治家--三木武夫& 宇都宮徳馬」『軍縮問題資料』313 号〔2006 年 12 月〕、29 ページ)。 12 大江可之編著、前掲『元総理三木武夫議員五十年史』、272 ページ。 13 前掲『第 75 回衆議院本会議』第 2 号、1975 年 1 月 24 日。同様の見解として、1968 年8 月 21 日、大阪商工会議所にて行った「アジアとともに繁栄」と題した講演にお ける、安保条約は、戦争のために結んでいるのではなく、戦争を防ぐための条約で あり、戦争の抑止力としての安保条約を評価する、との発言が挙げられる。また、 日本の少ない防衛力に対して、アメリカの戦争抑止力でそれを補うということは、 日本の安全保障政策としては、賢明であると信じる、とも言及している(大江可之 編著、前掲『元総理三木武夫議員五十年史』、483~484 ページ)。 14 中村慶一郎、前掲『三木政権・747 日』、82・90・95 ページ;「三木武夫論」『朝日ジ
政 権を維持す るために、 現実的な政 策、つまり 、外交・安 全保障 問
題 であれば、 タカ派が志 向する政策 (具体的に は、日米防 衛協力 、
靖 国神社の参 拝〔個人の 資格ではあ るものの、 首相として は初の 参
拝〕、韓国条項の再確認、日韓閣僚会議の再開、日台空路の再開、日
中 平和友好条 約の交渉中 断等)を推 進したので ある。三木 は、政 権
運 営のために 、自らの主 張を抑える 必要を十分 に理解して いたの で
あった。
次に、与党内での三木首相の立場について考察する。前述の通り、
三 木政権の自 民党内での 基盤は弱い ものであっ た。そもそ も、三 木
派は数で言えば、自民党内で
5 番目の勢力であり、首相指名に際し
て も、総裁選 挙という形 ではなく、 椎名悦三郎 副総裁の指 名裁定 と
い う形で行わ れたことよ り、党内で は三木首相 の就任を意 外に受 け
止 める声が多 かったと言 う。このこ とより、三 木政権は、 党内を ま
と めることが 容易ではな く、また、 国会運営の 面でも大変 苦しん だ
15。約
2 年続いた三木政権では、2 度に渡る「三木おろし」と呼ばれ
る倒閣運動が自民党内で起こった。
2 回目の 1976 年後半における動
きでは、反主流
6 派(田中派、大平派、福田派、船田派、水田派、
椎 名派)が中 心となり、 挙党体制確 立協議会( 挙党協)を 形成し 、
三木に退陣要求を突き付けた
16。三木はこれに抵抗したが、
1976 年
12 月 5 日の衆議院において、自民党は大敗し、結党以来、初めて公
認候補だけでは過半数に届かない議席数(
249 議席)しか得られない
という結果となったことを受けて辞任した
17。つまり、政権を通じて
ャーナル』16 巻 50 号(1974 年 12 月)、11 ページ。 15 中村慶一郎、前掲『三木政権・747 日』、58 ページ;北岡伸一『自民党』読売新聞社 (1995 年)、157~160 ページ。 16 北岡伸一、前掲『自民党』、167~169 ページ。 17 石川真澄・山口二郎『戦後政治史』岩波書店(2010 年)、132~134・243 ページ。
自民党内における首相の立場は弱いものであったと言えよう。
三 三木政権と NPT 批准問題
こ のよう にリ ベラル の思 想を持 って いた三 木が 、政権 担当 時に力
を 入 れ て 取 り 組 ん だ の が
NPT 批准問題であった。そもそも日本 が
NPT 条約を締結したのは、三木政権成立前の 1970 年 2 月のことであ
る 。しかし、 その後、批 准に向けて 、国内での 合意を達成 するこ と
が困難な状況が続き、批准は大幅に遅れていた
18。しかし、
1974 年 7
月に木村俊夫が外相となり、
NPT の早期批准に向けて努力するとの
言 明を行った 頃より、批 准への動き が現実のも のとなり、 その後 成
立 した三木政 権において 、その動き が本格化し た。三木は 、政権 成
立後、初の通常国会(第
75 回)に臨むに当たり、施政方針演説にて、
「 いわゆる核 拡散防止条 約について は、原子力 の平和利用 につき そ
の 査察が西欧 などと平等 に行われる ことなどの 条件が満た された 上
で、批准のための手続を進める考えであります」とし、
NPT 批准を
進めるとの言及を行なった
19。この時点で考えられていたのは、1975
年
4 月の NPT 見直し会議(NPT Review Conference)までに批准をす
18 この辺りの経緯については、黒崎輝『核兵器と日米関係: アメリカの核不拡散外交と 日本の選択1960-1976』有志舎(2006 年)、第 6 章を参照。 19 『第 75 回衆議院本会議』第 2 号、1975 年 1 月 24 日、国会会議録検索システム。同 日の宮澤喜一外相の演説においても、同様の言及が見られる(「世界における核拡散 への動きを憂慮する政府といたしましては、核拡散防止のための国際的な努力に、 積極的に協力する所存でございます。核兵器不拡散条約については、従来の方針ど おり、原子力の平和利用の分野において、他の締約国との実質的平等性を確保する ため、国際原子力機関との間の保障措置協定締結のための予備交渉を進めるべく、 ただいま所要の準備を整えております。この交渉の終結を待って、国民の支持を得 て、できるだけ速やかに、本条約の批准につき国会の承認を求めたいと考えており ます」〔同上〕)。
るということであり、
1975 年 1 月以降、それに向けた努力が具体的
に展開されるに至った
20。自民党内部に存在した
NPT 批准への反対
派 は、批准に 賛成する条 件として、 核エネルギ ーの平和利 用にお い
て 、日本が西 欧等と平等 な取り扱い を受けるこ と、核軍縮 の進展 、
(NPT 批准後の)日本の安全保障の確約、を挙げていた
21。
1975 年 2 月には、IAEA(国際原子力機関)との間でセーフガード
( 保障措置) に関する合 意を取り付 けたことで 、この批准 のため の
条 件の一つ( 核エネルギ ーの平和利 用において 、日本が西 欧等と 平
等 な取り扱い を受けるこ と)が満た されること となった。 そこで 残
る条件は、核軍縮の進展、そして(
NPT 批准後の)日本の安全保障
の確約ということになった。政府は、
NPT 批准に向けて、自民党内
の 反 対派 を説 得 する 行動 を 本格 化さ せ たが
22、 反 対 派は 特に 、(
NPT
20 “The Nuclear Non-Proliferation Treaty,” RG 59 Bureau of East Asian and Pacific Affairs,
Office of Japanese Affairs, Subject Files, 1960-75, Box 10, National Archives II, College Park, Maryland (以下、NARA).
21 すなわち反対派は、NPT を批准すれば、核エネルギーの平和利用において、日本が 西欧等と平等な取り扱いを受けることができなくなる可能性があること、NPT は一 部の国に核保有を認めるものであり核軍拡が進む可能性があること、そして、NPT を批准することにより核開発の可能性が絶たれ、米国の核の傘に完全に依存する状 況になることを危惧しており、それが故にNPT 批准に反対していたのであった。ち なみに、この3 条件は、NPT を調印した際(1970 年 2 月)、日本政府が示したもので あ った (American Embassy Tokyo to Secretary of State, “LDP Opposition to NPT Ratification: Political Dynamics,” March 5, 1975, RG 59, Central Foreign Policy Files, the National Archives Access to Archival Databases (以下、CFPF, AAD);『朝日新聞(夕刊)』 1975 年 1 月 31 日 、 朝 日 新 聞 記 事 デ ー タ ベ ー ス 聞 蔵 II ビ ジ ュ ア ル 、 http://database.asahi.com/library2/main/top.php〔以下省略〕)。 22 例えば、2 月 13 日には、外務省の東郷文彦事務次官らが自民党の中曽根康弘幹事長、 松野頼三政調会長を、また、有田圭輔外務審議官らが椎名副総裁を訪ね、説得に当 たった(『朝日新聞(朝刊)』1975 年 2 月 14 日、前掲データベース)。19 日には、三 木首相が、有田喜一安保調査会長、北沢直吉外交調査会長、坂本三十次外交部長と 協議した一方(『朝日新聞(夕刊)』1975 年 2 月 19 日)、宮澤外相は中曽根幹事長と
批 准後の)日 本の安全保 障の確約と いう条件を 重視し、次 のよう な
考えを主張した
23。NPT の期限は 20 年だが、その間に日米安保条約
が 解消され、 日本が米国 の核の傘に 頼ることが できない状 況が出 現
する可能性がない訳ではない(これは、日本が米国に「捨てられる」
可能性への憂慮だと捉えられる)。よって、日本が
NPT を批准しな
い ことこそが 、核の脅威 に対する抑 止となり、 安保条約な しで日 本
が 安全保障を 達成するた めの唯一の 手段となり 得る筈だと 考える 。
もし、三木政権が、
NPT を批准するのであれば、このような懸念、
つ まり「捨て られる恐怖 」を解消す るだけの確 約が必要だ という こ
と であった。 反対派は、 この確約の 具体的な内 容として、 米国政 府
が日米安保条約を
NPT 批准後 20 年間継続するとの確約を、日本政
府に対して行なうというものを考えていた
24。これに対して、外務省
会談し、早期批准に向けての協力を要請した(『朝日新聞(朝刊)』1975 年 2 月 20 日、 前掲データベース)。三木首相は 24 日の自民党役員会においても、できるだけ早い 時期の批准の必要性を強調し、党側の協力を要請した(『朝日新聞(朝刊)』1975 年 2 月 25 日、前掲データベース)。外務省は、反対派を説得する上での論拠を示した文 書(「国際情勢の長期展望と核拡散防止条約批准問題」)をまとめ、自民党側に提出 するという行動にも出た(『朝日新聞(朝刊)』1975 年 2 月 27 日、3 月 15 日、前掲 データベース)。 23 例えば、2 月 8 日に行なわれた自民党外交、安全保障関係の調査会・部会の合同会議 では、源田実議員を中心とする反対派が、NPT を批准することで、将来的に日本が 核兵器を持つという選択肢を放棄することに由来する安全保障上の問題点について 強く主張した(American Embassy Tokyo to Secretary of State, “NPT Ratification Prospects DIM,” February 11, 1975, RG59, CFPF, AAD;『朝日新聞(夕刊)』1975 年 2 月 8 日、前 掲データベース)。また、反対派の北沢直吉議員らは、在日米国大使との会談にて、 この(NPT 批准後の)日本の安全保障の確約という条件と比べると、それ以外の条 件は、「取るに足りないもの」だとの見方を示した(American Embassy Tokyo to Secretary of State, “LDP Opposition to NPT Ratification: Political Dynamics,”)。
24 反対派は、外務省の提案(日米安保条約が解消された場合には、NPT への方針を再
を はじめとす る政府側は 、日本の安 全は日米安 保条約によ って十 分
保 障されてお り、将来的 にも、米国 は(日本を 含む)自由 世界の 安
全 保障に対し て必要な措 置を取るは ずだとの立 場に立ち、 この時 点
で は、米国政 府との安全 保障関係の 再確認もし くはそれに 関する 米
国 政府の表向 きの言明を 求めること には反対す るとの立場 を取っ た
25。 そ の 代 わ り 、 非 核 保 有 国 の 安 全 を 保 障 す る た め の 措 置 を 取 る よ
う、
4 月の再検討会議にて提言するとの案を示した
26。この案は、核
を 保 有 し な い
NPT 批准国が、ある核保有国から攻撃を受けた場 合
に 、国連安保 理が行動を 取るという 内容の共同 声明を米英 ソに出 さ
せ るという案 であった。 これに対し て反対派は 、たとえこ のよう な
声 明を出させ ることに成 功したとし ても、核保 有国は拒否 権を持 っ
て いるために 、いざとい う時に国連 安保理が機 能しない可 能性も あ
るので、声明には意味がないとの否定的な見解を持っていた
27。
四 自民党内部におけるコンセンサス形成
1975 年 3 月に入ると、自民党内部で NPT 批准に向けたコンセンサ
ス を形成する ための会合 が開かれた 。それは、 外交部会、 科学技 術
部 会、外交調 査会、安全 保障調査会 、資源エネ ルギー対策 調査会 と
いった
5 つの関係部会・調査会が参加して開催されたものであり、3
月
14 日に行なわれた
28。この会合では、宮澤外相が「国際情勢の長
25 American Embassy Tokyo to Secretary of State, “GOJ NPT Ratification Plans,” March 12,
1975, RG 59, CFPF, AAD; American Embassy Tokyo to Secretary of State, “Japan: NPT Ratification,” March 17, 1975, RG 59, CFPF, AAD.
26 『朝日新聞(朝刊)』1975 年 2 月 28 日、前掲データベース。
27 American Embassy Tokyo to Secretary of State, “LDP Opposition to NPT Ratification:
Political Dynamics,” ;『朝日新聞(夕刊)』1975 年 2 月 8 日、前掲データベース。
28 『朝日新聞(朝刊)』1975 年 3 月 15 日、前掲データベース。3 月 4 日の時点で、1975
期 展望と核拡 散防止条約 批准問題」 と題する外 務省見解を 提出す る
等 、政府側が 早期批准の 必要性を訴 えた。これ に対して、 自民党 の
反対派は、
NPT 批准のための条件として挙げた核軍縮の進展、そし
て(
NPT 批准後の)日本の安全保障の確約、が未だに満たされてお
ら ず、批准を 行えば日本 の安全保障 上問題が発 生する、と の強硬 姿
勢 を崩さなか った。これ は自民党内 での三木の 弱い立場を 見越し て
の ものだった と考えられ る。ただし 、外務省の 数原孝憲軍 縮課長 が
ホッジソン(
James D. Hodgson)駐日米国大使に伝えたところによる
と 、核軍縮の 進展という 条件に関し ては、この 会合を通じ て問題 の
ない状態となり、残るは(
NPT 批准後の)日本の安全保障の確約と
いう条件のみとなった
29。
この日本の 安全保障の 確約という 条件に関す る自民党内 での議 論
の詳細については、
3 月 18 日に行なわれた宮澤外相とホッジソン大
使との会談記録より伺える
30。宮澤外相は、訪米前のこの時期にホッ
ジソン大使と会談し、NPT 批准の見込みやこの件に関する自民党内
部 の議論につ いて明らか にした。宮 澤によれば 、政府は、 自民党 内
部 の反対派を 説得するた めに最大限 の努力を行 っており、 あと数 週
間もすれば
NPT 批准法案を国会に提出できるとのことであった。た
だ し、自民党 内の反対派 は、三木首 相が、米国 との安全保 障上の 関
係 を維持する ことに関し て曖昧な態 度を取って きたことを 批判し て
批准問題へのコンセンサスを形成するということが考えられていた(American Embassy Tokyo to Secretary of State, “LDP Begins Study of NPT Ratification,” March 7, 1975, RG 59, CFPF, AAD)ことより、この時期(14 日)にコンセンサス形成のための 会合が開かれた。
29 “Japan: NPT Ratification,”.
30 American Embassy Tokyo to Secretary of State, “Foreign Minister on NPT,” March 22,
おり、
NPT 批准の条件として、日米安全保障関係を強化すること、
そして、米国による日本防衛への確約を得ることを挙げた。宮澤は、
日 本政府とし ては、反対 派が主張す るように米 国からの確 約を得 る
と いう方策を 取るか、も しくは、多 国間(核保 有国)で非 核保有 国
に 対する安全 保障を確約 するという 内容の声明 を出させる という 方
策を取るか、まだ決定していないとしつつも、ホッジソンに対して、
三木首相が夏にフォード(
Gerald R. Ford)米大統領と会談を行う際
に 、米国側か ら、この件 に関する何 かしらの確 約があれば 望まし い
と の見解を示 した。また 、このよう な米国側か らの確約が 可能だ と
い う こ と を 予 め 米 国 側 か ら 約 束 し て も ら え る と 助 か る と も 言 及 し
た。このことより、日本政府としては、
3 月のこの時期までに、反対
派 の主張する 日米安全保 障関係の強 化、そして 、米国によ る日本 防
衛 への確約と いった条件 を受け入れ る方向へと 動いていた ことが 分
か る。この理 由としては 、この時期 、インドシ ナ半島にて 共産勢 力
が 勝利しつつ あるという 情勢を受け たことによ り、反対派 が、米 国
の長期的な安全保障上のコミットメントを再確認するまで
NPT を批
准 すべきでは ないとの主 張を、より 強く行なう ようになっ たこと が
あると推測できる
31。さらに、自民党内の議論では、NPT 批准の問題
と絡めて、非核三原則、特に
3 つ目の持ち込ませず、という原則が
取 り上げられ 、反対派は 、核の脅威 もしくは攻 撃より日本 を効果 的
に 守るために も、米国の 核兵器を日 本に持ち込 むことがで きるよ う
31 American Embassy Tokyo to Secretary of State, “Japanese View: Denouement in
Indochina?,” March 26, 1975, RG 59, CFPF, AAD. 反対派は、南ベトナムで支持してき たサイゴン政権が崩壊寸前の状態になっているのに、米国は何の有効な手も差し伸 べずに見殺しにしているではないかとして、米国の同盟国に対するコミットメント に不安を感じるとの主張を行なった(『朝日新聞(朝刊)』1975 年 4 月 25 日、前掲デ ータベース)。
にするべきだと主張した
32。これに関して宮澤は、反対派の意見に否
定 的な見解を 示し、非核 三原則を変 更すること は不可能だ との考 え
を示した。
宮澤外相の訪米前に、自民党では、再び三度に渡る会合を開き(
3
月
28 日、4 月 7 日、9 日)、NPT 批准の問題について協議した。そこ
での論議は、
(
NPT 批准後の)日本の安全保障の確約という条件に集
中 したが、結 論は出なか った。ただ し、宮澤外 相が訪米す る際に 、
米 国側に対し て、日米安 全保障体制 の再確認を 求めるべき との意 見
が強く出されたため
33、
4 月 7 日の会合後に、北沢直吉外交調査会長、
有 田喜一安保 調査会長、 そして坂本 三十次外交 部会長が宮 澤外相 に
その旨申し入れた
34。これに対して、宮澤外相は、党内の意見を踏ま
えて米国側と協議するとの約束を行なった。また、
8 日から 9 日にか
けて行なわれた自民党幹部への根回しの結果、
9 日の会合では、NPT
に ついて、①日米安保体制の長期堅持と日本防衛義務を米国に再確
認 する、②政府は防衛、安全保障についての国内体制の確立をはか
る 、③原子力平和利用のための施設や予算措置を充実させるとの三
条 件が満たさ れれば、国 会での批准 ・承認を了 承するとの 方針が 決
定された
35。この会合後、北沢外交調査会長、有田安保調査会長が三
木 首相と会談 し、この決 定を伝える とともに、 政府が決定 された 三
条件を満たす努力をするよう要請した。この三条件のうち、
「①日米
32 非核三原則の変更に関する自民党反対派の主張については、『朝日新聞(朝刊)』1975 年3 月 17 日。
33 American Embassy Tokyo to Secretary of State, “Miyazawa Visit: Agenda,” April 2, 1975,
RG 59, CFPF, AAD; American Embassy Tokyo to Secretary of State, “Miyazawa Visit: Discussion of NPT,” April 3, 1975, RG 59, CFPF, AAD;『朝日新聞(朝刊)』1975 年 3 月 29 日・4 月 8 日、前掲データベース。
34 『朝日新聞(朝刊)』1975 年 4 月 8 日、前掲データベース。 35 『朝日新聞(朝刊)』1975 年 4 月 10 日、前掲データベース。
安 保体制の長 期堅持と日 本防衛義務 を米国に再 確認する」 につい て
は 、来たる宮 澤外相の訪 米時のみな らず、その 後に計画さ れてい た
首 相訪米の際 にも行うよ う要請した 。特に、三 木首相訪米 時には 、
過 去の共同声 明(佐藤= ニクソン間 、そして田 中=ニクソ ン間) に
あ ったものよ りもより強 い表現での 再確認を得 られるよう 求めた と
される
36。また、②の条件、「政府は防衛、安全保障についての国内
体制の確立をはかる」
、については、自民党内での議論の中で、防衛、
安 全保障分野 での国内体 制が不十分 であること が指摘され たこと を
受 けて、三木 内閣がこの 問題に真剣 に取り組む べきだとの 要請が な
された。
五 宮澤・キッシンジャー会談とその後の動き
宮澤外相とキッシンジャー(
Henry Kissinger)米国務長官との間の
会談は、
4 月 11 日に行なわれた。そこで、宮澤外相は、NPT の取り
扱 いを巡り、 自民党内で 日本の安全 保障に関す る懸念が出 ている こ
と を説明した 上で、米国 側の日本防 衛への確約 を求めた。 会談の 結
果 、両者の間 で、①日米安保条約を引き続き維持することが互いの
36 American Embassy Tokyo to Secretary of State, “Fonoff Scenario for NPT Ratification,”
April 8, 1975, RG 59, CFPF, AAD.実際にこの要請は概ね受け入れられたと考えられ る。1975 年 8 月に行われた三木訪米時の日米共同声明(1975 年 8 月 6 日)ではない ものの、その後に出された日米共同新聞発表(同日)において、米国の拡大核抑止 及び日本防衛コミットメントへの言及が明確になされた(「両者は、さらに、米国の 核抑止力は、日本の安全に対し重要な寄与を行うものであることを認識した。これ に関連して、大統領は、総理大臣に対し、核兵力であれ通常兵力であれ、日本への 武力攻撃があつた場合、米国は日本を防衛するという相互協力及び安全保障条約に 基づく誓約を引続き守る旨確言した。」〔「日米共同新聞発表(三木内閣総理大臣、 フォード大統領)」データベース『世界と日本』、http://worldjpn.grips.ac.jp/documents/ texts/JPUS/19750806.O1J.html〕)。このような言及は、それ以前の佐藤=ニクソン間、 そして田中=ニクソン間の日米共同声明にはないものであった。
長 期的利益に なること、 ②米国は日本への攻撃に対する核抑止力を
持 つというこ と、③米国は、日本に対する核兵力もしくは通常兵力
に よる武力攻 撃があった 場合、日本 を防衛する 条約上の義 務を重 視
し 、また、日 本も安保条 約に伴う義 務を引き続 き履行する という こ
と、について意見の一致をみた
37。
宮澤外相が 、日米安保 体制の長期 堅持と日本 防衛義務に ついて 、
米国の再確認を得ることができたことを受けて、
14 日に北沢外交調
査 会長、そし て有田安保 調査会長は 宮澤外相と 会談し、米 国の再 確
認を評価するという見解を伝えた
38。
18 日には、再び自民党にて、
外 交、安全保 障調査会と 関係部会の 合同会議が 開かれ、批 准に向 け
て 承認案件を 国会に提出 するとの結 論を出すこ とが試みら れた。 し
か し、依然と して、批准 への慎重論 が強硬に主 張されたた め、関 係
調 査会・部会 の正副会長 会議に、批 准問題の取 り扱いを任 せると い
うことになった
39。正副会長会議は、
22 日に行なわれ、政府に対し
て 、六項目の 要望事項( ①核拡散防止条約体制強化の推進、②日米
安 保体制の強 化、③わが国安全保障体制の強化、④非核兵器国の安
全 保障の確保 、⑤核軍縮の推進、⑥原子力平和利用の促進)を合わ
せる形で、NPT 批准のための承認案件を今国会に提出するというこ
とで一致した
40。また、
23 日の政調審議会においても同様の主旨で
了 承されたが 、その後に 行なわれた 総務会では 、六項目の 要望事 項
に ついて、政 府が実行す る保証がな いとの反対 が相次ぎ、 その取 り
37 American Embassy Tokyo to Secretary of State, “Miyazawa Meeting with Secretary,” April
16, 1975, RG 59, CFPF, AAD;『朝日新聞(夕刊)』1975 年 4 月 12 日、前掲データベー ス。
38 『朝日新聞(朝刊)』1975 年 4 月 15 日、前掲データベース。 39 『朝日新聞(朝刊)』1975 年 4 月 19 日、前掲データベース。 40 『朝日新聞(朝刊)』1975 年 4 月 23 日、前掲データベース。
扱いは党三役預かりとのことになった
41。反対派が重視したのは、六
項 目のうち、 ②日米安保体制の強化、そして③わが国安全保障体制
の 強化、であ り、具体的 措置として は、非核三 原則のうち 「持ち 込
ませず」を弾力的に運用すべきとの内容や、国防会議の運用の改善、
そ して、日米 間に安保条 約に基づく 常設の専門 家委員会を 設置す る
こ と等が挙げ られた。ち なみに、こ の専門家委 員会設置の 構想は 、
以 前より自民 党内に存在 した軍事委 員会設置構 想と同様の もので あ
り
42、その委員会において、日米共同計画を作成することが想定され
て いたと受け 取れる。つ まり、公式 化された形 で共同計画 作成を 行
なうということであり、反対派は、それを
NPT 批准の条件の一つと
して考えていたということになる。
23 日の総務会での議論を受けて
行なわれた
24 日の党三役会議では、25 日の定例総務会で議論した上
で意見を取りまとめるとの決定を行なった
43。総務会では、
6 項目の
要 望事項の実 現に政府が 努力するこ と、国会審 議の過程で 党三役 と
政 府が最終処 理について 協議するこ と等の留保 条件をつけ る形で 、
NPT 批准承認案件を国会に提出することが決定された
44。総務会に参
加していた宮澤外相は、党側が示した
6 項目の要望事項について、
実現に努力するとの確約を行なった
45。これを受けて、日本政府は、
41 『朝日新聞(朝刊)』1975 年 4 月 24 日、前掲データベース。 42 この軍事委員会設置構想とは、安保条約の規定(第 4 条)に基づき「日米防衛合同 委員会」を設置するというものである。それにより、「共同防衛計画のほか、防衛 関係情報の交換、共同防衛訓練の実施なども円滑に実施できるようになり、わが国 の戦争抑制力を飛躍的に増大することになろう」とのことであった(自民党安全保 障調査会「我が国の安全保障に関する中間報告」(1966 年 6 月 22 日);坂田道太関 係文書〔坂田家所蔵〕)。 43 『朝日新聞(夕刊)』1975 年 4 月 24 日、前掲データベース。 44 『朝日新聞(夕刊)』1975 年 4 月 25 日、前掲データベース。 45 『朝日新聞(朝刊)』1975 年 4 月 26 日、前掲データベース。
同日(
4 月 25 日)、NPT 批准承認案を国会に提出するに至ったので
あった
46。
六 日米防衛協力公式化の背景要因としての
NPT 批准
このような状況の中、日本政府は、
1975 年春頃より自衛隊と米軍
と の間で秘密 裏に実施さ れていた共 同計画策定 を公式化す るべく 動
き始めた。具体的には、
1975 年 3 月 8 日の参議院予算委員会におい
て 、社会党の 上田哲議員 がシーレー ン防衛をめ ぐる日米間 の秘密 協
定 が存在する のではない かとの質問 を行ったこ とを契機と して行 な
われた
47。坂田防衛庁長官は、約
1 ヶ月後(4 月 2 日)の同委員会に
て 、上田議員 の質問を「 逆手に取る 」形で、有 事計画策定 の必要 性
を 公の場で明 らかにした 。すなわち 、上田議員 の言う日米 軍事秘 密
協 定の存在を 否定した上 で、本来そ のような役 割分担につ いての 取
り決めが必要であり、今後、シュレシンジャー(
James R. Schlesinger)
国防長官とこの問題を話し合うと言明したのであった
48。ちなみに、
この坂田の行動は、日米
2 国間有事計画に対して公に政治的承認を
行 なうための 布石として 、三木首相 ・宮澤外相 ・坂田防衛 庁長官 と
の 間で注意深 く調整され たものであ り、首相レ ベルの承認 が既に 存
在していた
49。
46 ちなみに、この後の国会での議論は紛糾し、結局、国会での批准承認手続きが終了 したのは翌年(1976 年)の 5 月 24 日であった。その後、日本政府が 6 月 8 日に批准 手続きを完了し、日本は正式なNPT 締約国となった。 47 『第 75 回参議院予算委員会』第 5 号、1975 年 3 月 8 日、国会会議録検索システム。 48 『第 75 回参議院予算委員会』第 21 号、1975 年 4 月 2 日、国会会議録検索システム。 49 COMUS Japan to CINCPAC, “Bilateral Planning,” April 16, 1975, Japan Jan-Apr 1975 File,
Box 351, Chief of Naval Operations Immediate Office Files, 1946 to the Present, Operational Archives Branch, Naval History and Heritage Command, Washington, D.C. (以下、CNOIOF, NHHC).
こ の時期 に白 川元春 統合 幕僚会 議議 長が在 日米 軍司令 官に 伝えた
情 報によると 、以上の日 本側の動き の背景には 、この時期 に行わ れ
ていた
NPT 論議や東南アジア情勢を受けて、日本政府、特に防衛庁
が 、有事の際 の米軍来援 へのコミッ トメントを 確実にする 必要が あ
るとの認識を高めたことがあるとのことであった
50。
また、ホッジソン駐日米国大使も、
6 月 25 日付の国務長官宛文書
にてこの背景を分析している
51。それによると、この時期に、インド
シナで共産主義者が勝利したことと、三木政権が
NPT 批准に全力を
挙 げたことが 偶然一致し たことは、 坂田にチャ ンスをもた らした 。
こ れにより、 保守主義者 の一部(こ れは自民党 右派を指し ている と
考 えられる) が、米国の 核の傘の信 頼性への懸 念を公にし 始め、 日
本 への米国の 防衛コミッ トメントの 明白な確認 を求める活 発な活 動
を開始したからであった
52。また、左派勢力やメディアの批判も、以
前 と比較する と著しく少 なくなった 。坂田は、 この時宜を 捉えて 、
安 保条約下で のより確固 とした防衛 分担枠組み について議 論する こ
と 、日本の防 衛体制一般 をよりよく 検討するこ との望まし さを主 張
したとの見立てであった。
さらに、1975 年 8 月の日米首脳会談に向けて日本政府部内で作成
された文書にも
NPT 批准問題との関連を指摘する同様の内容が見ら
50 COMUS Japan to CINCPAC, “Bilateral Planning,” April 5, 1975, Japan Jan-Apr 1975 File,
Box 351, CNOIOF, NHHC.
51 American Embassy Tokyo to Secretary of State, “Background of Current Japanese Defense
Debate,” June 25, 1975, Japan May-Aug 1975 File, Box 351, CNOIOF, NHHC.
52 大使は、6 月 24 日付文書の中でも、日米防衛協力を進める坂田の重要な目的の一つ
として、日米安保条約を履行する枠組みを形成することで、NPT 批准に反対してい る自民党右派の賛成を得ること、を挙げている点も重要であるとの指摘を行なって いる(The National Security Archive, ed., Japan and the United States: Diplomatic, Security,
れ る。これは 、各省庁が 会談で取り 上げるべき 内容を内閣 調査室 に
提 出し、それ らを取りま とめた「内 閣調査室質 問希望事項 」と題 す
る 文書である が、その「 防衛」項目 に、日本の 防衛につい て「坂 田
長 官の努力も あり、国内 各方面で従 来に比し格 段と具体的 建設的 な
検 討がなされ るに至って いる」との 指摘がある 。これは、 日米防 衛
協力に関する検討を指していると考えられるが、その背景には、
「日
本 国内におい て、インド シナ以後、 危機感とい えないまで も、相 当
程度の不安感が抱かれていること」
、そして「近い将来批准を予定し
て い る 核 兵 器 不 拡 散 条 約 に も 関 連 し て 生 起 し た 」 と の こ と で あ っ
た。
「防衛」項目は、主に防衛庁の考えが反映されたものだと考えら
れ るので、こ のような考 えが防衛庁 内に存在し ていたこと を伺わ せ
るものである
53。
以上より、 共同計画策 定の公式化 に日本側が 動き出した 背景に 、
NPT 批准問題があったことが示されよう。
七 おわりに
以上の議論より分かることは、何故、ハト派の三木政権において、
共 同計画策定 の公式化の 問題が進展 したのか、 ということ である 。
すなわち、三木政権の大きな政策課題は、NPT 批准であったが、こ
れ に 反 対 す る 勢 力 が 自 民 党 内 に 存 在 し て い た ( 自 民 党 右 派 )。 彼 ら
は 、批准に協 力する条件 の一つとし て、日米安 保体制の充 実を挙 げ
た 。これに対 応するため の方策の一 つが、共同 計画策定の 公式化 だ
ったという訳である。つまり、三木政権は、
NPT 批准という目標を
達 成するため に、共同計 画策定の公 式化を進め るインセン ティブ を
持 ち、それを 実施したの であった。 その背景に は、三木政 権の自 民
53 三木武夫関係文書、2003-01-05、明治大学図書館史資料センター。
党 内での立場 の弱さがあ った。三木 は、基本的 には自らの 持つリ ベ
ラルな思想を基に、政治的な行動を取ったが、政権を取った後には、
自 民党内の支 持を得るた めに、現実 的な政策を 選択するこ ともま ま
あ った。つま り、党内基 盤の弱い三 木政権を維 持するため に、現 実
的 な政策、つ まり、外交 ・安全保障 問題であれ ば、タカ派 が志向 す
る 政策を推進 したのであ る。よって 、三木は、 当初、必ず しも共 同
防 衛の実質化 に積極的な 立場を取っ ていた訳で はないが、 政権維 持
の ために、共 同防衛の実 質化に積極 的な立場を 取るタカ派 と協力 す
る 必要を認識 し、この問 題を進めた のであった 。特に、タ カ派は 、
三木が進めようとする
NPT 批准問題に取り組む上で、日米安保体制
の 強化を求め た。これを 受け入れた ことが、共 同計画策定 の公式 化
に 結び付いた と言えるの である。そ の意味で、 日本国内に おいて 、
共 同 計 画 策 定 の 公 式 化 を 行 う こ と が 可 能 に な っ た 背 景 と し て 、
NPT
批 准問題を巡 る自民党内 政治が極め て重要な役 割を果たし たこと が
指摘できよう。
(寄 稿 :2018 年 5 月 5 日、採用:2018 年 8 月 29 日)美日防衛合作正式化與核武禁擴條約
(
NPT)批准問題
板
山 真 弓
(東京大學社會科學研究所博士後研究員)
【摘要】
本文為了探究近年來明顯深化的美日防衛合作之源由,針對
1978
年 制定「美日 防衛合作指 針」所形成 的背景因素 ,特別是日 本方面 的
因 素進行考察 。尤其,將 佐以新近公 開的美日兩 國第一手史 料加以 證
實之方式,並在此背景下針對既有研究所忽略,核武禁擴條約(NPT)
批 准相關問題 中,自民黨 黨內政治是 否扮演了重 要作用為命 題,進 行
討 論 。 換 言 之 , 批 准 核 武 禁 擴 條 約 (
NPT)為三木武夫政權任內的重
要 政策議題, 但是反對勢 力在自民黨 內存在(自 民黨右派) 他們列 舉
提 出加強美日 安保體制, 以此作為合 作配合批准 的條件之一 。而政 權
基 礎薄弱的三 木,為了因 應前述條件 的策略之一 就是,將在 此之前 日
本 自 衛 隊 與 美 軍 之 間 非 公 開 秘 密 進 行 策 定 的 共 同 計 劃 予 以 正 式 公 開
化。這也致使最終產出制定「指針」的結果。
關鍵字:美日關係、美日防衛合作、核武禁擴條約(NPT)、同盟
Development of the U.S.–Japan Defense
Cooperation and Ratification of NPT
Mayumi Itayama
Post-doctoral Fellow, Institute of Social Science, University of Tokyo
【
Abstract】
This paper explores the origins of the deepening U.S.–Japan defense
cooperation in recent years by discussing the events that led to the
formulation of the “Guidelines for the U.S.–Japan Defense Cooperation” in
1978. Newly disclosed first-hand U.S. and Japanese government materials
show the background of formulating the “Guidelines,” which has been
overlooked in existing research. These new findings revealed that the internal
LDP (Liberal Democratic Party) politics over the issue of NPT (Non-
Proliferation Treaty) ratification played an important role in the formulation
of the “Guidelines.” Although the NPT ratification was an important policy
issue for the Miki administration, the LDP right wing was against it and cited
the enhancement of the U.S.–Japan security arrangement as one of the
conditions for cooperation with ratification. Due to the foundation of Miki’s
regime being weak, he had no choice but to accept it, which led to him going
public on the combined military planning between the U.S. forces and Japan
Self Defense Forces. This event was significant because the planning had
been carried out secretly since the 1950s. All of these events culminated
together ultimately led to the formulation of the “Guidelines in 1978.”
Keywords: U.S-Japan relationship, U.S.-Japan defense cooperation, NPT,
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