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米国の観点から見た日米安保体制―脅威認識の二層構造―

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米国の観点から見た日米安保体制

―脅威認識の二層構造―

雯 婷

(台湾・輔仁大学日本語研究センター研究員)

【要約】

本 稿の目 的は 脅威の 認識 という 概念 を権力 とア イデン ティ ティ共 有(shared identity)という二つのアプローチから検討し、分析枠組 み は「脅威認 識の二層構 造」と名付 ける。この 「脅威認識 の二層 構 造」を使って 1952 年(日米安全保障条約の締結)から 1996 年(日 米 同盟の再定 義)まで米 国の対日本 安全保障政 策での脅威 認識、 及 び 米国社会に おける対日 イメージを 対照して考 察する。本 稿は四 つ の 部分から構 成される。 第一節では 、分析枠組 みの「脅威 認識の 二 層 構造」を紹 介する。第 二節では、 戦後米国の 対日安全保 障政策 を 考 察する。ま た各時期に おける米国 の政策決定 者の国際環 境や日 本 に 対する脅威 認識につい て検討する 。第三節で は、米国に おける 対 日 イメージを 振り返る。 米国社会で は日本とア イデンティ ティを 共 有 するかどう かを検討す る。第四節 では、米国 内社会の対 日観や 脅 威認識、政策決定者の脅威認識の相互関係を考察する。 キーワード:日米同盟、米国の対日イメージ、パーセプション、「瓶 の蓋」論、米国の対日政策

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一 はじめに

冷 戦の産 物で ある日 米安 保体制 は冷 戦後に 国際 システ ム構 造が転 換しても存続し、しかも1996 年の日米同盟再定義によって価値観が 一 致している 同盟として 強化された 。その後、 小泉政権期 は米国 の 反 テロ戦争に 全面的に支 持すること を宣言し、 日米両国は ミサイ ル 防 衛システム や軍事技術 における共 同研究や共 同訓練で一 層協力 を 進 めた。また 、米軍再編 により日米 同盟は米国 の東アジア 戦略で よ り重要な位置づけとなった。更に2012 年 1 月、オバマ大統領は「国 防戦略指針(Defense Strategic Guidance)」を発表し、「米国のアジア 太平洋地域に対するリバランスの必要性」を宣言したほか12012 年 6 月 に は パ ネ ッ タ 長 官 が シ ャ ン グ リ ラ 会 議 に お い て 、「 現 在 の 太 平 洋・大西洋における海軍艦船の配備を 50 対 50 の比率から 60 対 40 に転換し、その戦力態勢を整える」2と述べた。この戦略転換に基づ い て、米国は 日本との関 係を強化す ることが予 想できた。 しかし な が ら、日米同 盟の今まで の軌跡を回 顧すると、 米国は日米 同盟に 対 し 必ずしも肯 定的な態度 を取るとは 限らない。 第二次世界 大戦後 、 戦時中の敵同士が日米安全保障体制を締結し、同盟関係を構築した。 一方、90 年代に発生した日米経済摩擦により米国内の対日イメージ が 悪化し、日 米同盟が「 漂流する」 時期もあっ た。このよ うな中 で の 、米国の対 日イメージ とはいった いどのよう なものだっ たのだ ろ う か。また、 日米同盟や 日本に対す る認識はど うであった のだろ う

1 “Sustaining US Global Leadership: Priorities for 21st Century Defense,” Department of

Defense, January 2012, p. 2.

2 Secretary of Defense Leon Panetta, “Shangri-La Security Dialogue.” Speech at the

Shangri-La Hotel in Singapore, June 2, 2012, http://www.defense.gov/speeches/speech.aspx? speechid_/1681.

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か。 国際関係論における脅威認識(threat perception)の研究では、二 つ の 学 説 が 主 流 と な っ て い る 。 一 つ は 安 全 保 障 面 で の 相 対 的 権 力 (relative power)及び意図で判断される脅威認識である。これは、 政 策決定者の 個人的な脅 威認識にも 関わる。も う一つは知 識人や 大 衆 を含む国内 社会におけ るものであ る。他国に 対するイメ ージと し て 、価値観や 信念、目的 などを共有 していると 認識するこ とで親 近 感 が生じる。 すなわち、 他国ではあ るが自国に 類似する部 分があ る こ とで、ある 程度のアイ デンティテ ィを共有す ることがで きる。 ア イ デンティテ ィ共有のア プローチは 、文化・経 済・政治・ 歴史な ど 多 数の側面を 含むため、 より複雑で ある。これ まで脅威認 識につ い て は、二つの アプローチ に分けて研 究するもの が多いが、 一つの 国 に 対する脅威 認識はこの 両方が含ま れているで はないかと 筆者は 考 え る。そのた め、本稿の 目的は脅威 認識という 概念を権力 とアイ デ ンティティ共有(shared identity)という二つのアプローチから検討 す ることにあ る。また、 この分析枠 組みを「脅 威認識の二 層構造 」 と名付け、これを用いて、1952 年(日米安全保障条約の締結)から 1996 年(日米同盟の再定義)までの、米国の対日本安全保障政策で の脅 威認識及び 米国社会に おける対日 イメージを 対照して考 察する 。 本稿は 5 節から構成されている。第 1 節では、分析枠組みとして 「脅威認識の二層構造」を紹介する。第 2 節では、日米安全保障体 制の成立、冷戦期、ポスト冷戦期という 3 つの時期に分けて、戦後 米 国の対日安 全保障政策 を検証する 。加えて各 時期の「瓶 の蓋」 論 の存在を考察する。第3 節では、5 つの時期に分けて、米国における の対日イメージを振り返る。第 4 節では、政策決定者の対日脅威認 識 及び米国社 会における 対日イメー ジを対照と して両者の 相互関 係 を分析する。結びに、対日イメージが悪化した 1980 年代から 1990

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年代初期までの、米国による対日安全保障政策の影響を検討する。

二 分析枠組み

パ ーセプ ショ ンの定 義は 、ある 物事 や事件 を「 感覚で 理解 し認知 し そして分析 するプロセ ス」であり 、また「理 解、学習、 熟知の 根 拠及び行動の動機」でもある3。心理学においてはまず個人のパーセ プ ションを分 析するが、 国際関係論 への応用で は、国や社 会全体 が 共 通して持つ 理解及びコ ミュニケー ションによ ってパーセ プショ ン を 共有できる とされてい る。現実主 義者は脅威 が能力と意 図の結 び つ きであると 指摘するが 、他国の意 図に対する 判断はパー セプシ ョ ン によって構 築されてい る。つまり 、友好国や 敵対国を判 断する 根 拠 は、他国の これまでの 行動及びそ の動機を認 知してきた データ に あ る。総じて どの国にお いても、世 界や他国に 対する認識 は現実 と は 異なってい るが、パー セプション の研究によ って各々の 国がど の ように異なる認識を持つのかが理解できるようになる4 す でに述 べた ように 、脅 威の認 識に おける 研究 では、 二つ の学説 が 主流となっ ている。一 つ目のパワ ーのアプロ ーチは、パ ワーが 不 均 衡である場 合、各国が 自動的に相 手国を脅威 として認識 し、国 と 国 との間に衝 突が起きる と主張する ものである 。例えば、 パワー が 弱 い国は、攻 撃される恐 れがあるた め自分より 強い相手を 脅威と し て 認識する。 パワーが強 い国も、い つか超えら れる可能性 がある と 恐れ、常に台頭する国(rising power)を脅威として認識する。もう

3 Janice Gross Stein, “Threat Perception In International Relations,” Leonie Huddy, David O.

Sears, and Jack S. Levy, The Oxford Handbook of Political Psychology, 2nd ed, (Oxford: Oxford University Press, 2013), p. 365.

4 Robert Jervis, Perception and Misperception in International Politics, (Princeton NJ:

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一 つのアイデ ンティティ 共有のアプ ローチは、 アイデンテ ィティ を 共 有すること によって脅 威として認 識する可能 性を低減す ると主 張 するものである5。他国と自国は似ているというアイデンティティを 持 つ、すなわ ちアイデン ティティを 共有してい ると認識す ると、 他 国 に対する親 近感は強く なる。つま り、アイデ ンティティ を共有 す るレベルが高ければ、脅威として認識される可能性は低くなる。 政 策決定 者は 他国( 他者 )の意 図を 判断す ると き、す なわ ち脅威 か どうかを認 識するとき 、二つの側 面から判断 する。一つ は経済 学 に おいて人間 は皆経済人 であるとい う仮説に基 づき、国際 環境の 枠 組 みにおける 他国の能力 や意図を理 性的に分析 し、他国は 脅威か ど う かを認識す る。もう一 つは社会学 において人 間は皆社会 人であ る と いう仮説に 基づき、自 国と他国と の接触した 歴史経験や 国内社 会 の 他国に対す る脅威認識 に影響され 、他国に対 する政策も 制限さ れ る6。それゆえ、二つの側面を両方検証するのは、より一層政策決定 者の脅威認識を理解できるであろう。 政策決定者の決定判断は、単なる理性的分析によるものと見え て も 、 実 際 に は 個 人 的 信 念 シ ス テ ム に 基 づ く 主 観 的 考 え や 自 国 の 歴 史 ・文化的経 験に左右さ れる。この 分析では、 なぜ一つの 社会は あ る 種の脅威を 注目する一 方、他の脅 威をそれほ ど注目しな いのか と いうことを説明する。例えば Twomey は、軍事ドクトリンはいかに

5 この二つの学説に関して David L. Rousseau and Garcia-Retamero, “Identity, Power, and

Threat Perception: A Cross-National Experimental Study,” Journal of Conflict Resolution, Vol. 51 No. 5 (October 2007), pp. 744~771 を参照。

6 Henning Boekle, Volker Rittberger, Wolfgang Wagner, “Norms and Foreign Policy:

Constructivist Foreign Policy Theory,” Center for International Relations ,Peace and Conflict Studies, Institute for Political Science, University of Tubingen, Tubingen Working Paper No 34a, (1999), https://www.uni-tuebingen.de/ifp/taps/tap34a.htm, p. 4.

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軍 事的脅威の 認識を形成 するのかを 検証した。 これにより 米中の 軍 事的バランスを評価している7。 本 稿では 、脅 威の認 識と いう概 念を 権力と アイ デンテ ィテ ィ共有 という 2 つのアプローチから検討する。なお、この分析枠組みを本 稿では「脅威認識の二層構造」と名付ける。 脅 威認識 の二 層構造 のう ち第一 層で は、政 策決 定者の 脅威 認識は 相 対的権力に 基づくもの であると予 想する。日 米同盟は、 日米安 保 条 約締結時に 、すでに日 本の軍事力 を封印する 側面を持っ ていた 。 つ まり、日本 は脅威にな る恐れがあ ると認識さ れ、軍事力 を発展 さ せ ないという 論理である 。しかし、 同盟の存続 だけでは、 米国が 日 本 を脅威とし て見ている かどうか判 断しかねる ため、米国 の同盟 に 対 する政策内 容のほか、 国際システ ムや政策決 定者の日本 に対す る 脅威認識を考察しなければならない。本稿では、「瓶の蓋」論と日本 の 防衛政策強 化に対する 要求を検証 基準とする 。前者の「 瓶の蓋 」 論 とは、日本 の軍事大国 化を封じ込 めるために 在日米軍を 駐留さ せ て おくべきだ という論議 である。こ れを放って おけば、日 本が脅 威 に なる可能性 があると予 想する上で 、日米同盟 を存続すべ きだと い う論説である。後者に関しては、脅威を判断する基準(measure)と して 、「他国の防 衛支出が増 える時、我 が国の安全 を弱らせる 」「 他 国 が弱ければ 、世界はも っと安全な ところにな る」といっ た先行 研 究が挙げられる8。これらの基準によると、米国が日本の防衛力強化

7 Christopher P. Twomey, The Military Lens: Doctrinal Differences, Misperception, and

Deterrence Failure (Monterey CA: Naval Postgraduate School, 2008), pp. 1-48.

8 Peter Hays Gries, Qingmin Zhang, Yasuki Masuiand Yong Wook Lee, “Historical beliefs and

the perception of threat in Northeast Asia: colonialism, the tributary system, and China- Japan-Korea relations in the twenty-first century,” International Relations of the Asia-Pacific, Vol. 9, No. 2 (May 2009), p. 250.

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を歓迎する時、日本を脅威として認識していないことになる。 二 層構造 の第 二層で は当 時の米 国国 内社会 の対 日観を 考察 する。 政 策決定者の 脅威認識は 国内社会の 対日観や脅 威に対する 定義に 関 係 していると 仮定してい る。政策決 定は政策決 定者の個人 的意志 だ け でなく、そ もそも個人 的意思はそ の社会の共 同意志や共 通規範 に よ り形成され たものでも ある。特に 外交政策決 定者は、常 に二つ の 社 会システム に直面する 。一つは国 際システム あるいは国 際社会 で あ り、この国 際環境に他 国との接触 により国際 社会のルー ルや生 存 法 則を学ぶ。 もう一つは 国内社会で あり、社会 の歴史経験 や文化 に 基づく社会習俗や規範(Norms)によって本人に内面化されたもので あ る。この二 つの社会化 は定着した ものでなく 、常に社会 システ ム の 変化によっ て、変化し つつある。 政策決定者 もその社会 化プロ セ ス によって脅 威を判断す る基準を変 えたり、他 国に対する 認識を 修 正 する。つま り、他者に 対する認識 の変化は当 時の国際や 国内環 境 を反映している。 で は、国 内社 会はい かに 政策決 定者 に影響 をあ たえる のか 。いく つ のプロセス がある。第 一に、政策 決定者は社 会で成長し て教育 を 受ける政治社会化プロセスによって全国民と一致化された9。第二に、 政 治決定者は 主に選挙を 経験した政 治家であり 、国内社会 の世論 に 敏 感である。 第三に、政 策決定者は 国内社会の 期望を裏切 る場合 は 外交での自国代表という資格を失うことを危惧する10。しかし、政策 を遂行するため、世論を導く可能性も否定できない。例えば、McGraw は 公衆の政治 家に対する イメージや 印象につい て研究し、 政治家 は

9 政治社会化に関して Lucian W. Pye, “Political Modernization and Research on the Process

of Political Socialization,” Items, Vol. 13, No. 3 (September1959), pp. 25-8.を参照。

10 Henning Boekle, Volker Rittberger, Wolfgang Wagner, “Norms and Foreign Policy:

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表 に出すニュ ースや自ら の行動をコ ントロール することに よって 、 自身の公衆イメージを形成し左右できる11。としている。 本 稿では 、米 国が日 本と アイデ ンテ ィティ を共 有する とみ なした 場 合、対日イ メージは肯 定的となり 、日本を脅 威として認 識しな い と 仮定する。 対日イメー ジがどのよ うに構築さ れ、普及し 、崩壊 し て 、変化した のか、また 米国国内社 会がどうや って日本を 単なる 他 者(Other)から脅威として認識するようになったのかという過程を 考 察する。先 行研究から メディア報 道、流行文 化の扱い方 まで、 幅 広い要素が他者に対するイメージの変化に影響をもたらす。ゆえに、 国 内社会のパ ーセプショ ンは特に観 察しにくい 研究目標で ある。 し か しながら、 米国内の対 日観は、政 策決定者が 政策を作る 際の根 拠 で あり、制限 する要素で もあるため 無視するこ とはできな い。本 稿 では、学術研究やメディアにおける評論を中心に、80 年代以降の世 論 調査のデー タも含めて 考察する。 そのうえ、 脅威認識を 考察す る とき、当時国内社会が認識した脅威とは何かも考慮すべきであろう。

三 米国の対日安全保障政策

1 第1 期:敵国から同盟へ(1945 年~1952 年) 1945 年 8 月 28 日、米軍が日本に進駐し、ダグラス・マッカーサー (Douglas MacArthur)が連合国軍最高司令官(SCAP)に着任した。 この時から51 年 9 月のサンフランシスコ講和条約締結までの 7 年間、

11 Kathleen M. McGraw, “Political impressions: formation and management”, L.Huddy, and R.

Jervis, Oxford Handbook of Political Psychology, (New York: Oxford University Press, 2003). p. 430.

Kathleen M. McGraw, “Why and How Psychology Matters,” Robert E. Goodin and Charles Tilly, The Oxford Handbook of Contextual Political Analysis, (Oxford University Press, 2006), p. 131-157.

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日 本は米国に より間接統 治された。 占領初期(1945~1949 年)の対 日 戦略は、日 本を民主国 として再生 させ、非武 装中立化の 日本を 作 り上げるというものであった12。そのため、戦争の放棄を掲げた憲法 第9 条を含める新憲法制定が早急に行われた。 し かし、 冷戦 が本格 化し たこと に加 え、中 華人 民共和 国の 誕生及 び 朝鮮戦争勃 発等を境に 、米国は対 日政策を転 換する方針 を明確 化 さ せた。日本 が反共産主 義勢力に加 勢すること のないよう 、日本 の 再軍備化と経済復興という13方針へ転換した。 細 谷雄一 の研 究によ ると 、米国 は当 時、二 国間 軍事同 盟と いう概 念 は帝国主義 的な側面を 想起させる ため抵抗が あった。米 国はよ り 普 遍的な集団 防衛体制を 好み、太平 洋沿岸諸国 を包括する 「太平 洋 協 定」構想を 提出した。 だが、オー ストラリア 政府やニュ ージー ラ ン ド政府は日 本を最大の 脅威と考え ていたため 、日本を含 めた「 太 平洋協定」に反対し、米国は放棄せざるを得なかった14。結果的に日 本と安全保障条約を結ぶという選択肢を選んだ。 米 側にと って 日米安 全保 障条約 交渉 の成否 を左 右する 最大 の課題 は、日本の再軍備要求を大前提に日本の講和独立後も占領期と同様、 米軍 による「全 土基地化 」、「自 由使用 」の権利を 獲得できる か否 か

12 初期の対日方針は、トルーマン大統領(Harry S. Truman)からマッカーサー最高司令 官へ送付された「降伏後における米国の初期対日方針」(1945 年 9 月 6 日)と統合参 謀本部からマッカーサーへ送付された「連合国最高司令官に対する日本占領および 管理のための初期の基本方針」(1945 年 11 月 3 日)が示すように、日本を弱体化、 非軍事化、民主化して平和国家にしようとするものであった。 13 リチャード・L・アーミテージ、ジョセフ・S・ナイ Jr、春原剛『日米同盟 vs.中国・ 北朝鮮』(文春新書、2010 年 12 月 15 日)、161~165 ページ。 14 細谷雄一「イギリス外交と日米同盟の起源、1948~50 年ー戦後アジア太平洋の安全保 障枠組みの形成過程ー」日本国際政治学会『国際政治』第117 号(1998 年 3 月)、201 ページ。

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に あった。結 果的に、ダ レスの最大 の獲得目標 であった「 望むだ け の 軍隊を望む 場所に望む 期間だけ駐 留させる権 利」を文字 どおり 米 側に保障した条約となったのである15 1951 年 9 月 8 日、日本はサンフランシスコにおいて 48 ヵ国との間 で「日本国との平和条約」16に調印した。同日に「日米安全保障条約」 17も調印された。トルーマン大統領は1952 年 4 月 15 日両条約の批准 書 に署名した 。この両条 約により日 本は米国の 同盟国とし て国際 社 会に復帰できた。 以 上述べ たよ うに、 日米 安全保 障条 約はや むを 得ない 状況 で締結 し たものであ った。この 時期の日米 同盟は互い に全く信頼 の基礎 が なく、1950 年春以降の対日講和問題を担当したジョン・フォスター・ ダ レスが述べ るように、 西欧諸国と アメリカの 間にあるよ うな「 兄 弟愛」を日米間には見出すことはできない18。米国は極東基地を必要 と していたの に対して、 日本は早く 占領から独 立するため 米軍の 防 衛 力を必要と した。すな わち単なる 利益交換の 同盟であっ た。当 時 の 対日観も敵 や脅威から 転換されな いままで、 対日政策を 議論す る 時には「日本の防衛」と同時に「日本に対する防衛(Defense against Japan)」が提起された19。その例として、1950 年 4 月ダレスは「日本

15 豊下楢彦『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交』(岩波書店、1996 年)を参照。 16 「サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)(1951 年 9 月 8 日)」、『データ ベース「世界と日本」、東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室』、http://www.ioc.u- tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T1J.html。 17 「日米安全保障条約(旧)(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約)(1951 年9 月 8 日作成、1952 年 4 月 28 日発効)」、『データベース「世界と日本」、東京大学 東洋文化研究所 田中明彦研究室』、http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/ texts/docs/19510908.T2J.html。 18 細谷雄一、前掲論文、200 ページ。 19 同上、200 ページ。

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の 防衛」より も「日本に 対する防衛 」を強調し た。その意 味で、 米 国 は当初から 日米安保体 制を「瓶の 蓋」として 、日本の軍 事大国 化 を封じ込む構想を含めていた。 2 第2 期:安保条約の改正(1952 年~60 年代) 1953 年 1 月にドワイト・D・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhowert) が 大統領に就 任し、ダレ スは国務長 官に任命さ れた。ダレ スはト ル ーマン政権の「封じ込め政策」がまだ不足であると判断し、「巻き返 し戦略」を提唱した。さらに1954 年 1 月に「大量報復戦略」を提案 し た。その戦 略は、地上 兵力は同盟 国に任せ、 米国はいつ でも大 量 報 復を可能に する、圧倒 的に優位な 核兵器によ って戦争を 抑止す る と いうもので ある。全面 攻勢政策を 打ち出した ダレスは、 対ソ包 囲 を目的にアジア諸国と次々に相互防衛条約を締結した20。ダレスの戦 略 構想は、地 上兵力につ いて同盟諸 国が責任を 負担すると してい た た め、日本に 対しても再 軍備を催促 した。これ に対し日本 側は急 速 な防衛力増強に反対した。結果的に日本は1953 年 3 月に署名した「日 米相互防衛協定」21に基づき米国政府から援助を受け入れ、防衛力漸 増 の方針を採 った。また 、同協定に より保安隊 から現在の 自衛隊 へ と改編された22

20 米韓・米比・米台相互防衛条約の他に、バクダッド条約機構、東南アジア条約機構 を締結した。 21 「MSA 協定(日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定)(1954 年 3 月 8 日)」、『データベース「世界と日本」東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室』、 http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19540308.T1J.html。 22 朝鮮戦争時、在日米軍が朝鮮へ派遣されたため 1950 年米国の指示により警察予備隊 が設置された。その後、日米安全保障条約により1952 年 10 月に警察予備隊は保安 隊に改編、そして1954 年 6 月 9 日、防衛庁設置法と自衛隊法により同年 7 月 1 日に 自衛隊に改編された。田中明彦『安全保障―戦後 50 年の模索』(読売新聞社、1997

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1957 年 2 月に首相に就任した岸信介は、間もなく本格的に安保条 約 の改定へ動 き出した。 岸政権の最 大の目標は 日米安保条 約の改 定 で あり、従来 の条約の不 平等性を解 消し、対等 の関係に転 換させ よ う とした。こ れに対して 米国も改定 の意向を示 した。ダグ ラス・ マ ッカーサー2 世(Douglas MacArthur II)米国駐日大使は、日本国民 の 対米批判が 強まって日 本が共産化 するのを避 けるために も、日 米 安 保条約は改 定すべきだ と警告した 。また、米 国の対アジ ア戦略 に お いて日本は 不可欠であ ったため、 トルーマン 政権後期及 びアイ ゼ ンハ ワー政権に おいても一 貫して日本 をアジア戦 略の中心に 置いた 。 そ のため、対 日政策にお ける基調は 「日本の安 全はアメリ カの極 東 政策において死活的に重要」であるとして、「日本政府及び日本国民 をアメリカ及び自由世界との緊密な関係に引き寄せること」とした23 こうして、1958 年 10 月 4 日に第一回日米安保改定交渉が開催され、 改定交渉が開始。15 ヶ月の交渉を経て 1960 年 1 月 19 日にワシント ン で新安保条 約が調印さ れた。旧安 保条約が双 務性を欠く 単なる 駐 軍協定であったのに対して、新しい条約では、第 5 条に日本国の施 政 下にある領 域が武力攻 撃を受けた ときに日米 両国が共同 で対処 行 動をとると明記された24。さらに、新条約の効力期を 10 年とし、施 設 及び区域の 使用並びに 日本国にお ける合衆国 軍隊の地位 も行政 協 定 や他の法律 により規律 されると明 記された。 簡単にいえ ば、新 条

年)、100-160 ページを参照。 23 植村秀樹「安保改定と日本の防衛政策」日本国際政治学会『国際政治』第 115 号(1997 年5 月)、28~29 ページ。 24 「日米安全保障条約(新)(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障 条約)(1960 年 1 月 19 日)」、『データベース「世界と日本」東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室』、http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19600119. T1J.html。

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約 は よ り 対 等 な も の と な っ た 。 し か し 新 条 約 も ま た 、「 相 互 防 衛 条 約 」とはなら なかった。 なぜなら、 日本の法律 制限および 政治制 限 を 受け、平和 憲法である 第九条の集 団的自衛権 を禁ずると いう政 府 解 釈により、 海外に自衛 隊を派遣し 軍事行動を とることは 無理だ と 判 断されたた めである。 米国防省に とって最も 重要なのは 在日米 軍 基 地を継続的 に使用する ことである ゆえ、安保 改定は新た な同盟 関 係に入ることではなく、あくまで既得権益を保持することであった。 そのため、米国防省も安保条約改定を受け入れた25。しかしながら、 対 等性につい て、防衛力 増強や海外 派兵は困難 である立場 を示し た 日本に対して、新条約の第 2 条では「締約国は、その国際経済政策 に おける食い 違いを除く ことに努め 、また、両 国の間の経 済的協 力 を促進する」26と明記されている。つまり、軍事面では協力できない 日本のために経済条項を設置したというわけである。 1961 年 1 月にジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)が大統領に 就任した。日本国内の安保闘争27を目の当たりにし、米国内では日本 の 行方に対す る調査及び 分析が行わ れた。日本 は共産化す るか中 立 と なるかが懸 念され、さ らに日本を 自由陣営に 残すため米 国が取 る

25 植村秀樹「安保改定と日本の防衛政策」日本国際政治学会『国際政治』第 115 号(1997 年5 月)、31 ページ。 26 前掲「日米安全保障条約(新)」。 27 日米安保法制改定交渉の過程に日本国内に改定を阻止する反対運動が組織された。 1960 年 1 月、国会で与党と社会党の論戦が続いていた際、国会外では労働組合の集 会や請願デモが連日行われた。5 月 19 日に警官隊が衆議院に入り、社会党議員を排 除し、同党議員がいない状況で強行に委員会採決がなされた。この強行可決に激怒 した国民は、翌20 日に 10 万人がデモに参加し、その後も連日国会や首相官邸を包 囲した。同月4 日には全国で 560 万人が反岸の「6・4 スト」に参加。この運動は続 いたものの新安保条約は参議院の承認なしに同月19 日、成立した。岸信介は批准書 の交換を終えて23 日に辞任した。反安保闘争について、坂元一哉、『日米同盟の絆: 安保条約と相互性の模索』(有斐閣、2000 年)、208~212 ページを参照。

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べ き対日政策 とは何かが 議論された 。これに対 して、米国 会の報 告 も 日本専門家 も同じ結論 となった。 その結論と は、経済成 長によ っ て 国民の物質 的要求を満 たすことで 一方的に再 軍備を要求 しない と いうことである28。同時に、反米感情を鎮静化させるため、日本に生 ま れ、流暢な 日本語を話 せ、且つ日 本人の妻を 持つ、ハー バード 大 学の知日派学者ライシャワー(Edwin O. Reischauer)を駐日大使に任 命 した。ライ シャワーは 積極的に日 本の国民と 対話し、特 に日本 の 野 党や労働組 合など反安 保のデモに 参加した反 体制的な団 体にも 接 触 し、米国が 一方的な要 求を行う国 ではなく日 本に配慮し ている こ と をアピール した。すな わち、ケネ ディ政権は 日米関係の 修復お よ び 日本人の米 国に対する 信頼感を作 り出そうと していた。 ケネデ ィ 政 権の日米関 係を修復す る姿勢が池 田・ケネデ ィ共同声明 にも見 て 取 れる。声明 では、日米 貿易経済合 同委員会を 設置するこ とが合 意 された29。この委員会は新安保条約に新たに插入された第2 条の経済 条 項に基づき 設置された ものである 。米国はそ の合同委員 会によ っ て 政策を決定 する前に日 米間の意思 疎通を徹底 させた。こ うした 動 き を通じて、 安保闘争の ように、日 本国内で反 発の強い政 策を決 定 す る際の説明 不足等に起 因する社会 運動や政治 的な関係悪 化を避 け る狙いがあった30 戦 後初期 の米 国の対 日政 策は片 務的 傾向が 強く 、その 裏に は戦勝

28 川上高司『米国の対日政策:覇権システムと日米関係』(同文舘出版、2001 年)、58 ページ。 29 「池田勇人首相とケネディ米大統領の共同声明(1961 年 6 月 22 日)」、『データベー ス「世界と日本」、東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室』、http://www.ioc.u- tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19610622.D1J.html。 30 古城佳子「日米安保体制とドル防衛政策-防衛費分担要求の歴史的構図-」日本国 際政治学会『国際政治』第115 号(1997 年 5 月)、105 ページ。

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国 の敗戦国に 対する優越 感や不信感 が満ち溢れ ていた。旧 日米安 保 体 制は米国の 需要を満た すための産 物であり、 日本側は受 け入れ る 以外に選択肢はなかった。太平洋戦争で対立し、終戦後も 7 年にわ た って米国の 間接統治を 受け続けた 日本にとっ て、日米安 保条約 は 不 平等条約だ とみなされ た。この背 景には、日 本国民の中 に反米 感 情 が生じてい たことが予 想できる。 だがケネデ ィ政権下、 とりわ け ラ イシャワー 駐日大使は 、米国が日 本各界の声 に耳を傾け 、対等 性 を 重視する日 米関係を築 こうとする 姿勢を日本 側に見せた 。こう し て 戦後初めて 、両国は同 盟に向かっ て信頼関係 を進展させ た。し か し ながら、ケ ネディ政権 の対日政策 修正はあく までも戦略 面の配 慮 か ら出した結 論である。 換言すれば 、日本が共 産化や中立 化する 恐 れ があったた め、日本を 自由陣営に 残すための 軌道修正と いう意 味 合 いが強かっ た。日本に 対する信頼 感や親近感 によって対 等的に 同 盟関係を構成したという意図はなかったであろう。 3 第3 期:一方的な戦略転換がもたらした同盟不信(70 年代) 1970 年代の国際情勢はまさに未曾有の変動期であり、立て続けに 発 生 し た シ ョ ッ ク が 国 際 社 会 に 衝 撃 を 与 え た 。 ニ ク ソ ン (Richard Nixon)政権の政策転換は、3 つのショックとして知られている。第 1に、ニクソン・ドクトリンの発表である。ニクソン大統領は、1969 年7 月 25 日、東南アジアからルーマニアへの外国歴訪の最初の訪問 地 グアムにて 、米国が対 外的に関与 する場合の 新たな原則 を発表 し た31。その内容は、「ニクソン・ドクトリン」として、同年11 月 3 日

31 Richard Nixon, “Informal Remarks in Guam With Newsmen, (July 25, 1969)”, Gerhard

Peters and John T. Woolley, The American Presidency Project, http://www.presidency.ucsb. edu/ws/?pid=2140.

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のニクソン演説32および 1970 年 2 月の外交政策に関する大統領年次 報告33を通して結実していった。ニクソン・ドクトリンの要点は、(1) 米国 はすべての 条約上の義 務を遵守す る、(2)米国は、米国との同 盟 国あるいは 米国ないし アジア全体 の安全にと って、その 生存が 重 要 であると考 える国の自 由を核保有 国が脅かす 場合には、 保衛手 段 を提 供する、(3)核兵器によらない侵略の場合には、その国の要請 に 応じて適当 な軍事的、 経済的援助 を行う。し かし米国は 、直接 脅 威 を受ける国 が防衛のた めの第一義 的責任を負 うことを期 待する 、 という 3 点である。米国は、このドクトリンは同盟国に対するコミ ッ トメントの 撤回を意味 するもので はないと説 明したが、 同盟国 は 米国に捨てられるかもしれないという不信感をもたらした。 第 2 は米中接近である。自国の限界に直面していたニクソン政権 がとった最も重要な措置は、中国敵視政策の放棄であった。1971 年、 ヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger)大統領補佐官がパキス タ ンルートか ら北京へ極 秘に訪問、 その後ニク ソン大統領 がこの 極 秘 訪問を明ら かにし、翌 年にニクソ ン自身も訪 中すること を発表 し た。この発表は「ニクソン・ショック」として世界を震撼させた。 こ れらの 政策 転換が ショ ックと いわ れるの は、 同盟国 に対 して事 前 の相談や通 告が全くな かったから である。そ れゆえ、こ のショ ッ ク は同盟国に 不信感をも たらした。 日本は同盟 国であるア メリカ か ら 予期せぬシ ョックを何 度も受け、 アメリカを 信じること ができ る

32 Richard Nixon, “Address to the Nation on the War in Vietnam, (November 3, 1969)”,

Gerhard Peters and John T. Woolley, The American Presidency Project, http://www. presidency.ucsb.edu/ws/?pid=2303.

33 Richard Nixon, “First Annual Report to the Congress on United States Foreign Policy for the

1970’s, (February 18, 1970)”, Gerhard Peters and John T. Woolley, The American Presidency

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か について考 えなければ ならなくな った。特に 米中接近に より、 元 反 共陣営であ りアメリカ の同盟国で もあった台 湾が見捨て られる か も しれないと いう状況に 直面した。 他のアジア 諸国でもア メリカ の 同 盟国から切 り捨てられ る恐怖を感 じ、自国の 外交態様を アメリ カ からある程度引き離す必要性を感じることとなった。 1974 年、日米両国の指導者はそれぞれスキャンダルによって失脚 した。8 月にニクソン大統領がウォーターゲート事件で、11 月に田 中 角栄首相が ロッキード 事件で辞任 した。ニク ソンに代わ ってジ ェ ラルド・フォード(Gerald R. Ford)が大統領に就任し、1974 年 11 月 に現職の米 国大統領と して初めて 訪日したの は注目すべ き点で あ ろ う。その背 景には、ニ クソン・シ ョックによ り生じた米 国に対 す る 不信感によ り同盟国と の関係を改 善しようと いう動きが 見て取 れ る 。日米同盟 関係の強化 は対ソ戦略 で不可欠な 要素とされ てはい た が 、これまで アメリカ側 の訪日が皆 無であった ため「一方 通行」 の 関 係を象徴し ているので はないかと いう懸念が あった。し かしフ ォ ードの訪日によりイコール・パートナーシップを示すことになった。 米国は同盟国との関係改善策として、1975 年 12 月、ハワイで「フォ ー ド・ドクト リン」を発 表し、米国 のアジア太 平洋地域へ の継続 的 コミットメントを明言した34 フォードは訪日前、対日政策に関して1974 年 9 月 26 日付けで「国 家安全保障研究覚書 第 210 号(NSSM-210)」を作成した。この文 書は国家安全保障会議(National Security Council: NSC)の東アジア 省庁間グループが起草し、NSC 上級検討グループの審議に回された

34 Gerald R. Ford, “Address at the University of Hawaii (December 7, 1975)”, Gerhard Peters

and John T. Woolley, The American Presidency Project, http://www.presidency.ucsb.edu/ ws/?pid=5423.

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も のである。 特筆すべき ことは、こ の文書に「 日本の自衛 隊の役 割 に 関して、憲 法上、政治 上の制約が あることを 認識し、日 本にと っ て 地域的な防 衛上の責任 を想定し、 攻撃的軍事 能力を発展 させる こ とは現実的でなく望ましくないと信じている」35と、防衛協力に対し て 日本の国内 制約を認識 する態度が 示された点 にある。こ れは、 米 国 が日本との 関係を修復 するため、 改めて日本 の国内状況 を配慮 し ている姿勢と考えられる。 上述のように、ニクソン、フォード政権の対日政策を検証すると、 米 国の従来型 の対日政策 は、安保条 約により日 本の再軍備 や軍事 力 増 強がアジア 諸国に対す る軍事的脅 威となるの を防ごうと してい た こ とが見受け られる。米 国は日本に 米国と相補 性のある防 衛力を つ けさせたいが、日本が本格的に再軍備することは望まなかった36。ま た、1970 年代の対日戦略には、「瓶の蓋」論が存在していることが 2 つ の文書から 確認できた 。一つはキ ッシンジャ ーの日米安 保体制 に 対 する見解で ある。キッ シンジャー は周恩来と の極秘会談 時、日 本 の 軍 国 主 義 復 活 を 危 惧 す る 周 恩 来 に 対 し 、「 我 々 は 日 本 の 軍 国 主 義 の復活を歓迎せず、むしろ軍備拡張に反対する」と明言し、「日本の 経 済成長が軍 備拡張の可 能性を含ん でいること は否定しな いが、 日 本 の軍事力を 制御するこ とが米中の 国益に有利 だと思って いる。 米 国 が支援でき るのは、日 本の自国防 衛である。 逆説的に米 軍が日 本 に駐留することで日本の軍事力を抑制している」37とはっきり述べた。

35 “National Security Study Memorandum 210,” (September 26, 1974), Japan and the United

States, JU01878, from Database “Digital National Security Archive,” p. 71.

36 ニクソン政権期及びフォード政権期の日本再軍備に対する姿勢は、瀬川高央「日米

防衛協力の歴史的背景:ニクソン政権期の対日政策を中心に」『年報 公共政策学』

第1 号(北海道大学公共政策大学院、2007 年 3 月 31 日)を参照。

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す なわち、キ ッシンジャ ーは日米安 保体制が「 瓶の蓋」の 役割を 持 つ と認識し、 周恩来もこ の「瓶の蓋 」論に基づ き日米安保 体制を 容 認した。 もう一つは、米国務省が 1974 年 11 月に作成した報告書「日米安 全保障関係:米国の戦略的思考における位置づけ」38である。この文 書 でのアジア 政策の枠組 みにおける 日米安保の 目的の一つ は「日 本 の 将来の軍事 戦略と戦力 に対するレ バレッジを 米国に与え る」こ と だと記している。つまり、「日米安保条約が日本の軍備増強を防止す る 」とした。 そして「日 本に対する 直接的軍事 脅威がない 状況で 日 本 の防衛力を 加速させる ことは日本 国内の政治 制約や経済 中心の 政 策 と衝突する ゆえに不可 能であり、 東アジア諸 国の日本の 軍国主 義 に対する歴史的な記憶からも望まれないことである」と述べている。 つまり米国の対日安全政策は70 年代後半まで、大きな変化がなか っ たといえよ う。しかし 、表面的な 軍事協力関 係の裏にビ ンの蓋 と いう論理も潜っていた。 4 第4 期:防衛負担増加による軍事同盟へ(70 年代後半~80 年代) 70 年代後半、国際情勢は米ソデタントからソ連の攻勢へと変化し た。1979 年 12 月 27 日には、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻し、ク ーデターにより親ソ政権を樹立させた。1977 年に就任した米カータ ー大統領(James Earl “Jimmy” Carter, Jr.)は、日本の防衛力強化を要 求する政策をとるようになる。1980 年 1 月 13 日に、ブラウン国防長 官は日本に防衛力増強を求め、5 月の日米首脳会談で、カーター大統

the US., 1960-1976, from Database “Digital National Security Archive,” p. 15.

38 Department of State Briefing Paper, “US-Japan Security Relations: Their Place in US

Strategic Thinking,” (November 1974), Japan and the United States, from Database “Digital National Security Archive,” p. 4.

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領 は大平首相 に「今後も 日本が防衛 努力を強め ることを望 む」と 語 る。12 月の日米防衛首脳会談では、ブラウン国防長官が日本の防衛費 の9.7%増を迫った39 1981 年 1 月に大統領に就任したロナルド・レーガン(Ronald W. Reagan)は、就任当初からソ連に対し「強い米国」を掲げ、軍事力 強化を加速した。戦略面でも「多正面柔軟戦略構想」40へと転換を図 っ た。アフガ ニスタンや イランの情 勢に対応す るため、第 七艦隊 を イ ンド洋やペ ルシャ湾方 面にしばし ば派遣した 。そのため 、西太 平 洋 における米 国軍のプレ ゼンスの空 白を埋める ため、米国 は様々 な チ ャネルを通 じ、日本に 対して防衛 力の増強と 、アジア安 全保障 事 務の責任分担および在日米軍駐留費用の分担等を強く要求した。 1981 年 5 月 7、8 日に鈴木善幸首相とレーガンが会談し、日米首脳 共 同声明が出 された。こ の声明では 日米が「同 盟関係」で あるこ と が明記された41。しかしこの同盟という表現は後に大きな論争を引き 起こした。鈴木首相は参議院で日米首脳共同声明にある「同盟関係」 と いう言葉に 関する質問 に対して「 日米関係は 、民主主義 、自由 と い う両国が共 有する価値 の上に築か れておりま す。同盟関 係とは こ の ような関係 を一般的に 指したもの でありまし て、これを もって 日 米 軍事協力の 一歩前進と いった言い 方は全く当 を得たもの ではご ざ いません。」42と説明した。しかしその後、日本国内ではこれをめぐ

39 田中明彦『安全保障戦後50 年の模索』、(読売新聞社、1997 年)、288-289 ページ。 40 室山義正「冷戦後の日米安保体制―『冷戦安保』から『再定義安保』へ―」日本国 際政治学会『国際政治』第115 号(1997 年 5 月)、130 ページ。 41 「鈴木善幸総理大臣とロナルド・レーガン米大統領との共同声明(1981 年 5 月 8 日)」、 『データベース「世界と日本」、東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室』、 http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19810508.D1J.html。 42 「鈴木首相訪米、共同声明における『同盟関係』についての参議院での質疑」(1981 年5 月 13 日)、『データベース「世界と日本」東京大学東洋文化研究所 田中明彦研

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っ て鈴木首相 と外務省と の間で見解 の不一致が 目立ってい た。米 国 側 は日本が軍 事的に深く コミットす る意思を決 意したと思 ってい た が 、防衛につ いては消極 的な立場で あった鈴木 首相は軍事 的関係 を 含 むことを否 定、これが 米国側に不 信感や不満 をもたらし た。経 済 摩擦も含め、米国では日本の「防衛ただのり(Free rider)論」を強 めることになった。 鈴 木内閣 の消 極的な 態度 と違っ て、 次期総 理の 中曽根 首相 による 「西側の一員」としての立場はより鮮明と言える。1983 年 1 月、中 曽根は訪米の直前に防衛費増強と武器技術供与を決定し43、対米協力 の姿勢を示そうとした。このような背景の下、同月18、19 日に中曽 根 首相は訪米 した。日米 首脳会談に おいて、レ ーガン大統 領は中 曽 根 首相が防衛 予算及び対 米武器技術 供与の問題 で示した決 断を高 く 評 価した。さ らに、日米 関係につい て中曽根首 相は「日米 は運命 共 同体で、喜びも悲しみも分かち合う」44と発言し、最後に両首脳は「揺 るぎなき日米同盟関係」を再確認した45。それに加えて、ワシントン・ ポスト社主キャサリン・グラハム(Katharine Meyer Graham)との朝 食会で中曽根は、「日本はいわゆる不沈空母である」と発言し、日本 国 内の反発を もたらした が、このこ とで米国で の対日不信 は和ら い だ 。いずれに しても、こ の首相訪米 は経済摩擦 及び防衛協 力問題 に よ り悪化して いた日米関 係を修復し 、中曽根首 相とレーガ ン大統 領

究室』、http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19810513.O1J.html。 43 「対米武器技術供与について内閣官房長官談話」(1983 年 1 月 14 日)、『データベー ス「世界と日本」東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室』、http://www.ioc.u-tokyo. ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19830114.S1J.html。 44 「 米、安 保で財 政負担 要請 中曽根 元首相 83 年 訪問 時」『日 本経 済新聞 』、 http://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXLNSE2INK01_S7A1 10C1000000&uah=DF_SOKUHO_0003。 45 牧太郎『中曽根政権・1806 日(上)』(行研出版局、1988 年)、68 ページ。

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の 「ロン・ヤ ス」関係の スタートと しても深い 印象を残し た。さ ら に1983 年 5 月、ウィリアムズバーグ・サミットで中曽根は、西側の 安全保障が一体であることを力説した46 1970 年代から 1980 年代にかけて、米国内には「安保ただ乗り論」 が 表出してい た。これは 、日本が安 全保障を米 国にまかせ 、経済 活 動 にのみ専念 していると いう議論で ある。朝鮮 戦争やベト ナム戦 争 と いった地域 紛争にも関 心を寄せず 、ただひた すら戦争の 「特需 」 で自分の経済を発展させているとの批判が展開されていた。しかし、 1980 年 代 に 中 曽 根 政 権 に よ る 防 衛 重 視 の 姿 勢 が 政 策 に 反 映 さ れ 、 「 安保ただ乗 り論」は解 消されたよ うに見えた 。当時の国 防次官 補 ア ーミテージ によると、 レーガン政 権は「瓶の 蓋」論に与 さず、 む しろ日本により多くの防衛努力を求めていた47。そして前述のように、 日本の防衛力強化を要求した。 5 第5 期:同盟漂流から再定義へ(1989 年~1996 年) ソ 連崩壊 によ り冷戦 終結 が宣言 され た。冷 戦に より構 築さ れた日 米 同盟の制度 はその後ど う変化して いったのか 。冷戦終結 以降の 数 年 は、日米同 盟は漂流の 段階にあっ た。そして 経済摩擦に より対 立 が 激化したこ とで日米関 係は危機に 直面した。 この時期の 米国の 対 日 政策は、冷 戦構造の崩 壊により政 治・軍事的 な国益より 経済的 国 益 を重視し、 国内経済を 優先させる 傾向が強く 、保護主義 が全面 に 現 れ て い た 。 ブ ッ シ ュ (George・ H・ W・ Bush) 政 権 も ク リ ン ト ン (William Jefferson Clinton)政権も日本に対して様々な経済的要求や

46 中曽根康弘『天地有情―50 年の戦後政治を語る』(文芸春秋、1996 年)、430 ページ。

47 リチャード・L・アーミテージ、ジョセフ・S・ナイ Jr、春原剛、前掲書、170~171

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制 裁を持ち出 した。米国 内の対日世 論も険悪な 状況に陥り 、一方 日 本 側もナショ ナリズムの 台頭により 米国に対す る不満が高 まって い た。「日米安全保障条約」はいわゆる冷戦の産物であり、理論的には、 ソ連の崩壊後は日米安保体制が廃止されてもおかしくない。実際に、 米 国内には日 本が湾岸戦 争で直接的 軍事行動を 全く取らず 、日米 安 保 体制下の日 本は一方的 な受益者で あるなどの 批判があっ た。さ ら には日米安保解消論を提案する学者もいた48 こ うした 状況 の中で 、日 米間の 軍事 同盟を どの ように 見直 すかと い う難題が生 じた。この 問題は早急 に結論を出 すことが難 しく、 棚 上 げされる可 能性があっ たが、当時 の国際情勢 では中国の 強大化 や 東アジアにおける地域紛争が存在していた。そこで、米国は1995 年、 い わゆる「ナ イ・イニシ アチブ」を まとめ、日 米安全保障 関係を 再 定義するという方向で決定し、翌1996 年の「日米共同宣言」で同盟 関係が再定義された。また、「周辺事態法」で自衛隊の活動範囲を拡 大 したことで 、当該地域 における日 本の国際影 響力は強ま った。 こ の 1996 年の「日米共同宣言」と、翌 1997 年に実施された「ガイド ラ イン」の修 正により、 日米安全保 障関係は却 って強化さ れた。 こ の再定義に至った背景とその内容を以下で整理する。 日本側の最初の動きは『日本の安全保障と防衛力のあり方一21 世 紀に向けての展望』(通称、樋ロレポート)49の発表からである。1994

48 Chalmers Johnson and E. B. Keehn, “The Pentagon’s Ossified Strategy,” Foreign Affairs, Vol.

74, No. 4 (July/August, 1995), pp. 103-114. 49 防衛問題懇談会とは、1993 年 2 月細川護煕内閣の際、「防衛計画の大綱」見直しの指 針づくりのために、私的諮問機関として設置された樋口廣太郎を座長とする懇談会。 樋ロレポートは懇談会で作られた報告書で、村山富市内閣の94 年 8 月 12 日に完成 し首相に提出された。防衛問題懇談会(内閣官房内閣安全保障室編集)『日本の安全 保障と防衛力のあり方一21 世紀へ向けての展望』大蔵省印刷局、1994 年。

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年 8 月に公開された同報告書は、同年 2 月末に当時の細川護熙総理 の 私的諮問委 員会として 発足した防 衛問題懇談 会(座長は アサヒ ビ ー ル会長の樋 口広太郎氏 )がまとめ たものであ る。この報 告を検 討 し た米国側で は、日本が 日米同盟よ り地域的・ 多角的安全 保障へ 傾 斜 していると されて、日 本は米国か ら離れてい くのではな いかと い う論議が持ち上がった50 当時のクリントン政権は、1993 年 1 月 25 日、大統領令により国家 経済会議(National Economic Council: NEC)を設け、これにより貿 易と対外的な経済政策の調整・統合に関する責任はNEC に委譲され る こととなっ た。この当 時の対日政 策の主要担 当者を見て みると 、 従来の学者グループとは異なり、NEC 主導ともいえるビジネス経済 関連の実務経験者が多数を占め、「日本専門家」を欠く51構成となっ ていた。その中で、ジョセフ・ナイ・ジュニア(Joseph S. Nye Jr.) はクリントン政権の最初の2 年間、NEC を中心とする「対日チーム」 が 興味を持っ ているのは 経済のみで 、しかも「 また対立、 紛争的 な 視点からのみ日米関係を捉えようとしていた」52と懸念していた。エ

ズラ・ヴォーゲル(Ezra Feivel Vogel)53とナイは1994 年の春から日

50 原彬久「序説 日米安保体制一持続と変容」日本国際政治学会『国際政治』第 115 号 (1997 年)、3 ページ。田中明彦、前掲書、335 ページ。 51 水沢紀元「ジョシセフ・ナイの日米同盟への視角一イニシアティブ推進の動機にっ いて-」『明治大学社会科学研究所紀要』、第46 巻第 2 号(2008 年 3 月)、227 ペー ジ。 52 船橋洋一『同盟漂流』(岩波書店、1997 年)、290 ページ。 53 ナイは、「日本人の知己が多いエズラ・ヴォーゲルを東アジア担当の調査員として NIC に迎え入れた」。ヴォーゲルはナイの日本観に影響を与え、ナイはマイケル・グ リーン(Michael J. Green)やデビッド・アッシャー(David L. Asher)、パトリック・ クローニン(Patrick M. Cronin)など若手の日本研究者を自分のチームに招き入れた。 リチャード・L・アーミテージ、ジョセフ・S・ナイ Jr、春原剛、前掲書、246、248 ページ。

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米 関係のこと を話し合い 、ヴォーゲ ルはナイに 日本との対 話によ る 関係調整の必要性があると強調し、2 人は日米安全保障関係の強化の ために何かする必要があるということで同意した54 以 上に述 べた ように ナイ は、米 国内 の強硬 な対 日経済 政策 や高ま っ た孤立主義 、対日敵意 等により、 日米同盟が 決裂へ向か う事態 を 危 惧した。ナ イは「もし も我々が米 日同盟を失 っていたら 、非常 に 深く後悔しただろう。それがいわゆるナイ・イニシアチブの根拠だ」 55と 後 に 述 べ て い る 。 ナ イ は 次 官 ク ラ ス の 中 央 情 報 局 ( Central Intelligence Agency:CIA)直属の国家情報会議(National Intelligence Council:NIC)の議長を辞して、NEC の影響の及ばない局長級の国 防 総 省 次 官 補 に 就 任 し た 。 就 任 す る 条 件 と し て 国 務 長 官 ウ ィ リ ア ム・ぺリー(William J. Perry)に日本との安全保障関係強化を自分に 任せてもらうと提出した56。そして国防総省登庁初日からナイはレポ ートを出すことを決めた57 ナイは1995 年 2 月 28 日に「東アジア地域の安全保障戦略(United States Security Strategy for the East Asia-Pacific Region:EASR)」、いわ ゆる「ナイ・イニシアチブ」を提出した。その内容の第 1 の特徴は 今後 20 年にわたり米国がアジアにおける前方展開能力として、10 万 人規模の米 軍兵力を維 持すること を明確にし た。また、 そのよ う な 前方展開能 力の維持と 運用を支え るために、 日米間の緊 密な協 力 が 必要である という認識 が第二の特 徴である。 そして、ア ジア太 平 洋 の多角的安 全保障協力 と、そのた めの対話の 促進に積極 的な意 義

54 同上、258 ページ。 55 水沢紀元、前掲論文、230 ページ。 56 船橋洋一、前掲書、290 ページ。 57 同上、276 ページ。

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を正式に認めた点が第三の特徴である58。その結果、1996 年 4 月、 ク リントン大 統領の訪日 のハイライ トとして、 橋本龍太郎 首相と の 連名で「日米安全保障共同宣言」59が発表された。「日米安全保障共 同 宣言」では 「両国の政 策を方向づ ける深遠な 共通の価値 、すな わ ち 自由の維持 、民主主義 の追求、及 び人権の尊 重に対する コミッ ト メント」が再確認された。 こ こから は、 この時 期に おける 日米 安保体 制の 役割が 「瓶 の蓋」 を 含めていた か否かを考 察する。ま ず、日米関 係の歴史に 残る発 言 に注目したい。1990 年 3 月 27 日付ワシントン・ポスト紙に在日米海 兵隊ヘンリー・C・スタックポール司令官(少将)による発言が掲載 された。彼の発言は、「もし米軍が撤退したら、日本はすでに相当な 能 力を持つ軍 事力を、さ らに強化す るだろう。 だれも日本 の再軍 備 を 望んでいな い。だから われわれ( 米軍)は( 軍国主義化 を防ぐ ) 瓶のふたなのだ」60というものだった。だが、ナイの見方は異なって い た。ナイは 中国側に日 米安保体制 の再確認作 業を説明し た際に 、 中 国側は日本 の軍国主義 化に対する 強い懸念を 伝えた。し かしナ イ は 「日本が中 国にとって 軍事的脅威 になること はない」と 反論し 、 日本の再軍備を恐れているのは米国ではなく中国であると述べた61。

58 Joseph S. Nye Jr., United States Security Strategy for the East Asia-Pacific Region

(Washington DC: Office of International Security Affairs: Asia and Pacific Affairs, U.S. Department of Defense, February 1995).

59 “Japan-US Joint Declaration on Security, Alliance for the 21st Century,” Ministry of Foreign

Affairs of Japan, (April 17, 1996), http://www.mofa.go.jp/region/n-america/us/security/ security.html. accessed on June 30, 2012.

60 伊奈久喜「日米外交 60 年の瞬間:日米安保につきまとう『瓶のふた』論サンフラン

シスコへ(26)」『日本経済新聞』2012 年 2 月 11 日、http://www.nikkei.com/article/DGX NASFK0302S_Z00C12A2000000/。

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こ のことから 、同時期に は米国の政 策決定者の なかでは共 通的意 見 を持ち合わせていなかったことが見て取れる。 まず、前提として言うと、脅威を判断する基準(measure)からも 見 えるように 、米国にと っては日米 同盟に二面 性がある。 一方、 米 国 は日本にお ける基地が 必要とする ほか、アジ ア地域に数 少ない 政 治 的に安定的 、経済的に 成功的な盟 友としての 日本も米国 にとっ て 不 可欠である 。日本は東 アジアで政 治的に米国 を支持する ことや 、 ア ジアや世界 の国への経 済援助とい う側面で米 国の有力な 盟友と い う 役割を担っ ている。他 方、米国に とって日米 安全体制に は「日 本 の 軍事大国化 を封じ込め る」という 目的がある 。この「瓶 の蓋」 論 は 日米関係の 発展、政策 決定者の脅 威認識や対 日観によっ て変化 し て いく。次に 本節の考察 により明ら かとなった いくつかの 特徴を 整 理したい。 第 1 に、冷戦期、米国の対日安全保障政策の政策決定者は、国際 シ ステムにお ける相対権 力の変化に 基づいて、 他国に対す る脅威 認 識 を形成し、 政策を作成 した。冷戦 終結後間も なくは、日 米両国 に 共 通の敵がお らず、しか も後述した ように米国 内には日本 を脅威 と 看做す世論も盛んだったため、日米同盟は漂流の時期にあった。1996 年 の再定義の 背景には、 ナイを中心 とする政策 決定者の強 い意志 が 反 映されてい たこと以外 に、日米両 国が中国を 共通の敵と して認 識 できたことも大きかったと言えるだろう。 第 2 に、1980 年代までに米国の政策決定プロセスにおいて瓶の蓋 論 が表出した が、レーガ ン期、ソ連 の軍備拡張 による新冷 戦に直 面 し た米国は、 積極的な役 割を演じさ せるため日 本に防衛力 強化を 要 求 した。これ は、レーガ ン期の政策 決定者が日 本を安全保 障面で 脅

ページ。

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威として認識していないことを意味する。しかし、90 年代に入ると、 国 内の対日イ メージの悪 化も関連し て、政策決 定者内の対 日脅威 認 識は割れていた。第 3 に、国内世論と政策決定者の脅威認識に相違 が あるときに 、公式文書 で両国は価 値観を共有 する同盟国 を強調 す る。レーガン期の日米共同声明及び 1996 年の日米同盟の再定義で、 日 米双方は、 日米同盟に ついて価値 観を共有す る同盟であ ること を 強 調した。鈴 木・レーガ ン首脳共同 声明で日米 は「同盟関 係」で あ る ことを初め て共同声明 で明記し、 中曽根・レ ーガン首脳 会談後 、 レ ーガン大統 領は「日米 は、自由民 主主義と平 和という共 通の価 値 観によって結ばれています」と発言した62。さらに、「日米安全保障 共 同宣言」で は「両国の 政策を方向 づける深遠 な共通の価 値」に 対 するコミットメントを再確認した。

四 米国の対日イメージ

以 上に述 べた 米国の 対日 安保政 策を 対照し なが ら、本 節で は米国 内の対日イメージを振り返る。 1 第1 期:占領期(1945 年~1952 年) 米 国世論 は、 太平洋 戦争 中に敵 対関 係にあ った 日本人 に対 して、 残虐や卑劣であるというイメージを持っていた。だが、1941 年以降、 対 日戦争の遂 行と戦後処 理の必要か ら、日本語 が堪能な人 材およ び 日 本研究者の 確保が急務 となり、日 本研究の人 材を育成す るとい う 意外な道をたどることとなった。

62 「首脳会談終了時における中曽根内閣総理大臣とレーガン大統領の発表(1983 年 11 月10 日)」、『データベース「世界と日本」、東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究 室』、http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19831110.O1J.html。

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終 戦後、 連合 国の占 領に 伴い、 民主 主義や 資本 主義と いっ た西方 の 政治経済モ デルが日本 に導入され た。その後 冷戦が始ま ると、 ア ジ アのパート ナーとして 西側諸国の 対日イメー ジを改める 必要が 生 ま れた。占領 期の改革は 、このよう な対日イメ ージの変化 に合理 性 を 与えた。言 い換えれば 、この改革 によって、 日本は封建 制度や 軍 国主義から解放され、西側諸国の制度を受け入れることができた。 そのため、占領期の対日イメージは主に「後進的な日本人」「西側 に学ぶ生徒」であった。例として、1951 年マッカーサーは米国上院 で 「科学・美 術・宗教・ 文化などの 発展の上か らみて、ア ングロ ・ サクソンは45 歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人もそれとほ ぼ同年輩である。しかし日本人はまだ生徒の時代で12 歳の少年であ る」63と述べている。当時のメディアの報道や評論でも、日本人が民 主制度やアメリカの方式を学ぶといった報道が多い64 2 第2 期:経済的復興の時期(1952 年~60 年代) 1950 年代から 1960 年代までには、日本研究者の成果が続々と出版 され65、その結果、米国では日本に対する関心が高まっていった。こ の 時期の研究 内容は、日 本の伝統や 歴史に焦点 を合わせた もので あ った。そして、「審美的な日本(aesthetic Japan)」および「精神的な

63 斎藤元一「日米パートナーシップの相互イメージ『国士舘大学政経論叢』第4 号(通 号第82 号)、1992 年、141ページ。

64 Susan D. Moeller, “Pictures of the enemy: Fifty years of images of Japan in the American

press, 1941-1992,” Journal of American Culture,Vol. 19, No. 1 (Spring 1996), p. 32.

65 例えば、Donald Keene, The Japanese Discovery of Europe: Honda Toshiaki and Other

Discoverers 1720-1952 (London; Routledge and K. Paul, 1952); Donald Keene, Japanese Literature an Introduction for Western Readers (New York; Grove Press, 1955); Edward

Seidensticker, Kafu the Scribbler: The Life and Writings of Nagai Kafu, 1879-1959 (Stanford; Stanford University Press, 1965).

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日本(spiritual Japan)」という新しい対日イメージが現れた。これは 戦 前の日本研 究者によっ て植え付け られた古い 日本のイメ ージの 復 活 とも言うべ きものであ った。戦時 中の日本の イメージか ら戦前 の イ メージに揺 り戻される 傾向にあっ たと言える 。主要メデ ィアで も 日 本の伝統の 美を伝える 報道がしば しば掲載さ れた。ここ で注目 す べ きなのは、 日本の伝統 を伝えるこ とで米国と の異質性が 明らか と な ったが、こ の異質性は 西側に対し て挑戦的な ものではな かった 。 日 本は伝統的 文化を保ち つつ、西側 の現代化モ デルを受け 入れる イ メージを強調した66 60 年代には、日本の経済が復興し高度成長を達成した。1960 年代 末には日本は西ドイツを抜き GNP で世界第 2 位にまで上り詰めた。 日 米経済関係 もより緊密 になってい たため、米 国内では日 本の経 済 成長に対し肯定的な評価がなされた。米国では1958 年に、ミシガン 大学のRobert E. Ward and John W. Hall 教授が主導した学際的研究プ ロ ジ ェ ク ト 「 日 本 に お け る 近 代 化 の 問 題 (The problems of modernization in Japan)」67が発足した。この研究プロジェクトは、日 本の近代化の成功と経済成長の要因を模索するために、政治的展開、 経 済的発達、 社会的変化 、文化的変 容、思想・ 態度の継続 と発展 の 面 から総合的 に分析する ものであっ た。その目 的は、他の 発展途 上 国に対する米国政策の参考にあり68、日本が民主主義と資本主義の道

66 Susan D. Moeller, “Pictures of the enemy,” p. 33.

67 このプロジェクトについて Mark T. Berger, “Modernization theory,” The Battle for Asia:

From Decolonization to Globalization (Routledge, 2004), pp. 91-122; Ruud Janssens,

“Because of our Commercial Intercourse and Bringing about a Better Understanding Between the Two Peoples: A History of Japanese Studies in the United States,” Michael Kemper and Artemy M. Kalinovsky, Reassessing Orientalism: Interlocking Orientologies

during the Cold War (Routledge, 2015), pp. 120~152 を参照。

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を 選び急速な 経済成長を 遂げ、平和 で民主的で 経済的な国 となり 得 た と肯定的に 評価した研 究であった 。こうして 、米国では 「近代 化 する日本(modernizing Japan)」と「モデル(手本)としての日本」 というイメージが生まれた。 こ の頃、 西側 制度を 採用 してア ジア の成功 国に 躍り出 た日 本に対 す るイメージ は、かなり 好意的なも のであった 。その理由 は、日 本 の 成功が米国 の占領期に おける政策 や対日援助 政策の成功 であっ た と 証明するも のであった ためである 。加えて、 西側のモデ ルが優 れ ており、アジアでも適用するということも証明した。さらに、60 年 代 まで、米国 は自由陣営 において経 済的・軍事 的に主導的 な地位 に あ り、日本の 成功を西側 に対する挑 戦と看做す のではなく 、西側 の 先 生として、 日本を勤勉 で真面目な 生徒である とした誇り を持っ て いたと考えられる。 3 第3 期:対日イメージの分裂(1970 年代) 70 年代からは、対日イメージの評価が割れ始めた。今まで通り日 本 の成功を賞 賛する研究 や評論も引 き続いなさ れてはいた が、日 本 の成 功や日本が 独自の道を 歩き出すこ とを危惧す る言論も出 始めた 。 まず、賞賛派は引き続き日本が経済大国になる前の1960 年代初期 の 日本経済復 興期を研究 し、日本か ら教訓を得 るというブ ームが 起 こ った。この 時期、肯定 的な対日イ メージを訴 えた代表的 な学者 と して、エズラ・ヴォーゲル、ジェラルド・カーティス(Gerald Curtis)、 ハーマン・カーン(Herman Kahn)がいる。カーンは、21 世紀は日 本の世紀と予測した69。また、ヴォーゲルは 1979 年に出版した『ジ

69 Herman Kahn, Emerging Japanese Superstate: Challenge and Response (NJ: Prentice-Hall,

數據

表 1  米国の日本に対する意見の調査
図 1  米国における対日世論調査(1960 年~2014 年)  (出典) 『米国における対日世論調査』外務省(平成 26 年 11 月 7 日)、http://www.mofa

參考文獻

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