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文化大革命期(1966-76 年)における 新しい少数民族エリートの登場

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文化大革命期(

1966-76 年)における

新しい少数民族エリートの登場

倉 潤

(日本貿易振興機構〈ジェトロ〉アジア経済研究所研究員)

【要約】

文化大革命(1966-76 年)の始まりから 50 年以上が経過した。従 来 の研究は概 して、文革 期を民族工 作全般が「 破壊」され た時期 で あ ったと見な しているが 、本稿の事 例分析が明 らかにして いるよ う に、中国共産党(以下「中共」)の党組織再建に際し、少数民族自治 区 の上層部に 新しい少数 民族エリー トが出現し た面もある 。その 背 景には、1969 年の中共第九回党大会以降に唱えられた「吐故納新」 の 政策理念に より、新し い政治エリ ートが上層 部に登用さ れてい た こ とが関係し ている。文 革期に登場 した中共体 制に親和的 な新し い 少 数民族エリ ートは、文 革後長期に わたり上層 部に定着す ること に なる 。(なお、「エリート」の 定義は少数 民族自治区 党委員会常 務 委 員クラス以上の人とする)。 キ ーワ ード: 文化大革命、 少数民族エ リート、内 モンゴル、 新疆 、 毛沢東

本稿は平成28 年度日本学術振興会海外特別研究員(台湾・国立政治大学東亜研究所 客座助理研究員)としての研究成果の一部である。

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一 はじめに

文化大革命(以下「文革」とする)の始まりから、既に50 年以上 が経過した1。この半世紀の間に、文革に関する研究は飛躍的に進展 し 、文革と少 数民族政策 の関係に関 する研究も 、既に一定 の蓄積 を 見 るに至った が、過去の 研究は、概 して文革期 を民族工作 全般が 中 断 された、あ るいは「破 壊」された 時期であっ たと捉えて いる。 中 華人民共和国(以下「中国」とする)では、金炳鎬が、文革の約10 年間は、「社会主義民族関係が空前の大破壊を受け」、「民族工作が全 面的な破壊を受けた時期」2であったと総括している。もっとも、1993 年 に中国で出 版された『 当代中国的 民族工作』 は、文革期 の民族 工 作が「破壊」を受けながらも、「破壊」に対する抵抗の動きもあり、 「一部の民族自治地方の経済建設にも一定の発展が見られた」3と指 摘する書きぶりとなっていた。とはいえ、同書も民族工作の「取消」、 あるいは「民族団結」の「破壊」の面を論じる点では変わりない4 従来の日本 の研究も、 民族政策の 「破壊」の 面に力点を 置く傾 向 があった。毛里和子は、「文革期には、民族自治区域への一定の優遇 や 民族幹部の 養成、きめ の細かい言 語文化政策 などは行わ れなく な り、民族工作そのものがなくなったといってもいいすぎではない」5 としている。また国分良成と星野昌裕は、1971 年以降に見られた少 数 民族政策の 調整の存在 を指摘して いるが、こ の調整も実 際には ほ

1 文革の時期は、1966 年から 1976 年までとする。 2 金炳鎬『新中國民族政策 60 年』(北京:中央民族大學出版社、2009 年)、頁 19。 3 黃光學編『當代中國的民族工作』(北京:當代中國出版社、1993 年)、頁 146。 4 同上、頁 146~158。 5 毛里和子『周縁からの中国――民族問題と国家』(東京大学出版会、1998 年)、106 ページ。

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とんど機能せず、「民族理論と民族政策に関する問題の決着は、結局 の ところ文化 大革命にお ける急進派 が一掃され るのを待た なけれ ば ならなかったのである」6と指摘している。また、最近の研究の一例 と して、楊海 英の仕事が 挙げられる 。楊は、文 革期の内モ ンゴル 地 域で生じた暴力の実例を詳細にまとめており、「破壊」の面に関する 文革研究に裨益するところ大であろう7 このように 文革と少数 民族政策の 関連に関す る研究には 、中国 に お いても、日 本において も、共に「 破壊」の面 に関心が集 中する 傾 向 があった。 もちろん、 中国と日本 では異なる 点もあり、 日本に お け る研究は文 革の負の面 を一層暴露 してきたと いう意味で 、重要 な 価 値を有して いる。しか し、これま で知られて こなかった 「破壊 」 の事例を一層深く分析したことをもって、「真実」に到達したと考え るのであれば、それは安易ではないだろうか。なぜならば、「破壊」 の他にも別の一面があり、「破壊」とは異なる動きが今日の少数民族 問 題に影を落 としている 点をも視野 に含めなけ れば、文革 及び今 日 の 少数民族問 題に対する 理解がやや 一面的にな りかねない からで あ る8

6 国分良成・星野昌裕「中国共産党の民族政策」可児弘明他編『民族で読む中国』(朝 日選書、1998 年)、436 ページ。 7 たとえば、楊海英『墓標なき草原』(岩波書店、2009 年)。楊氏の研究には、1970 年 代についての記述が比較的少ないが、それは彼の問題関心からして自然なこととも 思われ、筆者はその点を批判するものではない。こうした優れた研究の後を受けて、 本稿が補うところがあれば幸いである。 8 この段落に述べた問題意識を形成するにあたり、塩川伸明氏の「二層認識から四層 認識へ」という提言を参考とした。要約すると以下のようになる。当局の公式宣伝 (第一層)を鵜呑みにしないことは勿論だが、その虚構を暴いたこと(第二層)を もって真実に到達したと考えることは安易である。公式宣伝は嘘であるけれども実 は案外「まし」な面があったという「第三層」を経由して、「まし」な面までもが複 雑な逆説的連関を通して否定的な結果を招いたという「第四層」に到達することが

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この別の一 面とは、具 体的には、 前述の国分 良成と星野 昌裕も 指 摘していた、1971 年以降に見られた少数民族政策の調整が挙げられ るが、しかしそれだけでなく、その前段階にあたる1969 年の第九回 党 大会におけ る人事も含 めて考察す る必要があ ろう。第九 回党大 会 以 降の時期の 中共は、特 に幹部の任 用の面で、 無名の少数 民族幹 部 を 中央候補委 員、中央委 員等に選出 し、その後 少数民族地 域に再 建 さ れた党組織 に少数民族 幹部を扶植 するという 、興味深い 展開も 見 せていた。それにもかかわらず、1970 年代の台湾における先駆的な 研 究を除いて 、この問題 が本格的に 検討された 形跡はなく 、改め て 考察する必要がある。 少数民族エ リートの問 題を考える 上で、避け て通れない 問題が 、 内 モンゴル自 治区党委員 会第一書記 ウランフ( 烏蘭夫)の 失脚に 伴 い、モンゴル族エリートが被った迫害である9。もっとも、この有名 な 出来事が文 革期の特徴 として他の 地域にも当 てはまると 言える か 否 かは、微妙 な問題であ る。確かに 、文革期に 内モンゴル のモン ゴ ル族エリートだけでなく、楊静仁(回族)、ブルハン・シャヒディ(包

重要であろう(塩川伸明『ソ連とは何だったか』(勁草書房、1994 年)、3~7 ページ)。 私見では、文革期の民族政策の研究は、塩川伸明氏のいう「第二層」に関心が比較 的集中し、「第三層」と「第四層」が充分に議論されていない傾向があると思われる。 従来、「第二層」に研究が集中した背景には、文革期の知られざる「破壊」、惨劇等 の実例を暴露するところに当面の研究目的があると考えられたからであろう。そう した「第二層」の研究は、その意味では価値があったが、しかし文革という運動の 全体を俯瞰するものではありえないだろう。たしかに「第二層」を指摘することは、 研究の発展段階の一過程において一定の意義があることは言うまでもないが、「第二 層」が既にある程度知られたのであれば、更に掘り下げることも重要であり、「第三 層」を検討した上で、より深刻な問題である「第四層」の深淵を覗き込む作業を進 めたい。 9 この問題に関しては、楊海英氏の一連の研究を参照されたい。同氏の代表的著作と して、楊海英、前掲書。

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爾漢・沙希迪)(ウイグル族)ら著名な少数民族エリートが各地で失 脚 しており、 文革期に少 数民族エリ ートが多数 打倒された という 意 味 では、一定 の普遍性が ある。しか し、建国以 来枢要な地 位にあ っ た 旧来の少数 民族エリー トが全て打 倒されたか と言えばそ うでは な い 。文革前に 新疆ウイグ ル自治区党 委第二書記 であったセ イフデ ィ ン・エズィズィ(賽福鼎・艾則孜)(ウイグル族)10、広西チワン族 自 治区党委第 一書記であ った韋国清 (チワン族 )は、文革 期にそ の 地 位を追われ るどころか 、その地位 を維持して いる。更に 言えば 、 セ イフディン に関しては 、新疆ウイ グル自治区 党委第一書 記に昇 任 し、韋国清は広東省党委第一書記に栄転している11。この点をどう解 釈 するかが重 要であるが 、本稿の着 目したい新 しい少数民 族エリ ー トの登場の面とは異なり、言うなれば旧来の少数民族エリートの「破 壊 」の面に対 する一層踏 み込んだ分 析であり、 論文を分け て検討 す る必要のある別個の課題である。 そこで本稿 では、文革 期における 新しい少数 民族エリー トの登 場 に ついて、具 体的には少 数民族エリ ートの起用 と抜擢に関 する事 実 解 明に焦点を 絞ることと する。その ため、本稿 はファクト ・ファ イ ン ディングの 論文となる が、文革期 に抜擢され た少数民族 エリー ト は その後も少 数民族自治 区ないし中 央政府の上 層部に存在 し、今 日

10 セイフディンは「サイフジン」とも言われるが(たとえば、天児慧他編『岩波現代 中国事典』〈岩波書店、1999〉、399 ページ)、本稿ではウイグル語の発音により近い 「セイフディン」とする。 11 セイフディンの昇進の問題については、さしあたり筆者の未公刊博士論文の第六章 「文化大革命期の自治区政治エリート集団(1966-1976)」(熊倉潤「民族自決と民族 団結――少数民族地域における政治エリート集団の形成過程に関する中ソ比較研 究」東京大学大学院法学政治学研究科博士論文〈2015 年〉、194~233 ページ)を参 照されたい。韋国清の栄転については、以下参照。宋永毅『文革機密檔案:廣西報 告』(美國紐約市:明鏡出版社、2014 年)。

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の 民族問題に も影を落と していると 言っても過 言ではない 。また 文 革 期の少数民 族エリート の形成変容 過程は、過 去の文革研 究が看 過 し てきた点で あり、今後 考察を行う べき問題で ある。本稿 では、 文 革 期に新しい 少数民族エ リートが登 場したこと の分析を通 じて、 中 国 の少数民族 問題におけ る「人」の 遺産、換言 すれば文革 の遺産 が 形成される過程を考察する。

1970 年代の台湾における研究

「はじめに」で述べたように、1970 年代の中共の少数民族幹部任 用 について、 当時からそ の重要性を 意識し、こ れを研究し ていた の が 台湾の研究 者である。 研究内容は 、主に雑誌 『中共研究 』に発 表 さ れた論文か ら窺い知る ことができ る。本節で は、同雑誌 に掲載 さ れた論文を中心に、1970 年代の台湾における研究を紹介したい。 1972 年 3 月に出版された『中共研究』第 6 巻第 3 期の趙洪慈の論 文「1 年来の中共の『少数民族』工作」は、1971 年の中共の少数民 族工作の政治面における要点として、「柔軟な路線をとり、少数民族 地方幹部を養成、起用した」ことを指摘した12。管見の限り、この趙 論 文が、中共 が少数民族 幹部起用を 再開したこ とに言及し た最初 期 のものである。それ以前にも、「少数民族工作」を論ずる論文は存在 し たが、少数 民族幹部の 養成、起用 については 言及されて いなか っ た13。それに対し、この趙論文は、新華社の報道等に拠りながら、各 地 で少数民族 幹部の養成 が推進され た点を明確 に指摘して いる。 た

12 趙洪慈「一年來中共的『少數民族』工作」『中共研究』第 6 巻第 3 期(1972 年 3 月)、 頁48。 13 たとえば、陳壯彭「一年來中共的『少數民族』工作」『中共研究』第 5 巻第 2 期(1971 年2 月)、頁 89~104。陳壯彭「一年來中共的『少數民族』工作」『中共研究』第 4 巻 第1 期(1970 年 1 月)、頁 88~100。

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とえば、1971 年 10 月 31 日の新華社報道に基づき、広西チワン族自 治区都安瑤族自治県において少数民族幹部が同県の各級幹部の80% を占めるに至った事例等が紹介されている14 その後、少 数民族幹部 政策の変化 を取り上げ る論文が増 加し、 分 析の度合いが深まるとともに、紹介される事例も増加した。1972 年 6 月に発表された論文「中共の少数民族幹部の養成と利用」は、1949 年 以前に遡り 、中共が少 数民族幹部 を養成、利 用してきた 歴史的 経 緯を説明した上で、文革の開始に伴い、「少数民族出身の幹部が非常 に不足する現象」が生じた結果、1971 年に中共が少数民族幹部の積 極 養成を再度 強調するよ うになり、 具体的には 中央民族学 院及び 地 方 の民族学院 が学生の募 集を再開す る等の変化 が生じたこ とを論 じ た15。続いて翌1973 年 1 月に発表された論文「1972 年の中共少数民 族 工作」は、 報道に基づ き、各地の 基層幹部に 占める少数 民族比 率 の 向上が報じ られたこと を紹介して いる。ここ で示されて いる地 域 は 、チベット 自治区、内 モンゴル自 治区、新疆 ウイグル自 治区、 寧 夏 回族自治区 、広西チワ ン族自治区 、青海省、 雲南省、貴 州省、 四 川省、広東省、湖南省にまたがる、合計19 の自治州、地区、自治県 (旗)であり、紹介される事例数が増加した16。加えて、少数民族幹 部 の 登 用 が 重 視 さ れ た 背 景 を 論 じ る に あ た り 、 漢 族 側 の 問 題 と し て、「辺境」に移民した漢族には、「反革命分子」、土地を失った農民、

14 趙洪慈「一年來中共的『少數民族』工作」『中共研究』第 6 巻第 3 期(1972 年 3 月)、 頁61。この事例については、『広西日報』の記事によっても確認できる(『廣西日報』 〈南寧〉1971 年 11 月 3 日、第 2 版)。 15 國相「中共對少數民族幹部的培養與利用」『中共研究』第 6 巻第 6 期(1972 年 6 月)、 頁77~85。 16 趙洪慈「一九七二年的中共少數民族工作」『中共研究』第 7 巻第 1 期(1973 年 1 月)、 頁70~71。

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大陸各 地の知識青 年、「問題の ある学生 」、「問題のあ る労働者 」、整 理 され解雇さ れた下級党 幹部が多く 、新しい幹 部として党 が期待 す るような人材が漢族の中にいなかった点を指摘している17 少数民族幹 部任用の必 要性を中共 側がいかに 認識してい るかに つ い て、台湾の 研究は当時 、雑誌『紅 旗』の文章 等の公開情 報を頼 り に分析していたようである。翌1974 年の『中共研究』に上、中、下 巻 に分けて連 載された趙 洪慈の論文 「中共少数 民族幹部政 策研究 」 は 、この時期 発表された 中共の少数 民族幹部政 策の変遷に 関する 論 文 の中で最大 規模のもの である。こ の論文の中 で、趙洪慈 は、当 時 最新の情報であったと思われる『紅旗』73 年 3 月に掲載された文章 「 積極培養少 数民族幹部 」を引用し 、少数民族 幹部の大量 登用の 背 景を説明している18。『紅旗』73 年 3 月の文章「積極培養少数民族幹 部」は、少数民族幹部の長所について、 「彼らはその土地で生まれ育ち、辺境民族地区の歴史と現状を了 解し、その民族の大衆と密接に連携し、その民族の生活習慣に知 悉し、その時その場所の情況に合わせて、その民族の言語を用い て、大衆に宣伝し、大衆を組織し、党の路線と方針政策を大衆の 中で貫徹させることが十分にできる19 と 指摘し、少 数民族幹部 の積極的な 養成を主張 していた。 この時 期 の 中共が少数 民族幹部を 高く評価し ていた点を 、当時の台 湾の研 究 者は見逃さなかったのである。

17 同上、頁 69。 18 たとえば、趙洪慈「中共少數民族幹部政策研究(上)」『中共研究』第 8 巻第 9 期(1974 年9 月)、頁 50。 19 中國共産黨麗江地區委員會「積極培養少数民族幹部」『紅旗』(1973 年 3 月)、頁17。

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論文「中共 少数民族幹 部政策研究 」において 、趙洪慈は 、それ 以 前 の論文より 更に具体的 かつ網羅的 に各地の幹 部の民族構 成を分 析 し、中共が第九回党大会以来、少数民族の「新幹部」(ここでは文革 開 始後に新た に幹部職に 登用された 者を指して いる)の養 成、ま た 少数民族の「老幹部」(ここでは文革以前から幹部職に就いていた者 を指している)の再任用を進めていると考察している20。当時既にこ こ まで解明さ れていたこ とは特筆に 値する。も っとも、重 点は基 層 幹 部の増加に あるとして 、本稿の言 う少数民族 自治区上層 部の少 数 民族エリートに目を向けていないきらいがある21。これは当時、台湾 の 研究が依拠 していた資 料が、主と して基層幹 部における 少数民 族 比 率の向上に 関する各種 報道であっ たため、資 料の制約か らして 致 し方ない事であろう。 この種の研究は、1970 年代後半に入ると徐々に行われなくなった ようである。一般に、1970 年代の台湾の中共研究は、反共イデオロ ギ ーの色彩が 強く、中に は結論あり きの主観論 のように見 られる も の も存在する が、少なく とも文革中 における少 数民族工作 の存在 を 肯 定している 点では、あ る程度客観 的かつ有意 義な議論も 行われ て いた22。もっとも、当然ながら限界もあり、先に指摘したように、県 レ ベル以下の 基層幹部に 研究が集中 する傾向が あったこと は否め な

20 趙洪慈「中共少數民族幹部政策研究(中)」『中共研究』第 8 巻第 10 期(1974 年 10 月)、頁94~97。趙洪慈「中共少數民族幹部政策研究(下)」『中共研究』第 8 巻第 11 期(1974 年 11 月)、頁 81~84。なお、趙洪慈はこの 2 年後、研究成果をとりまとめ た著書を出版しているが、そこでも基本的に同じ結論が述べられている。趙洪慈『中 共政權少數民族政策』(台北:中國文化學院大陸問題研究所、1976 年)、頁 317。 21 たとえば、趙洪慈「中共少數民族幹部政策研究(中)」、頁 97。 22 たとえば、以下の論文は、結論はともかくとして、内容については見るべきものが ある。楊文欽「一九七四年的中共少數民族工作」『中共研究』第9 巻第 1 期(1975 年 1 月)、頁 96~103。

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い 。基層幹部 の登用に関 しては、そ れなりに報 道があった ため、 論 じ ることも可 能であった が、少数民 族自治区上 層部に存在 する高 級 幹 部、本稿の 言う少数民 族エリート に関しては 、情報源が 乏しか っ たと考えられ、充分に研究されないまま後世に残された。

三 文革期の少数民族エリートの起用とその目的

前章で述べた1970 年代の台湾における研究の限界、すなわち少数 民 族自治区上 層部におけ る少数民族 エリートの 任用の問題 を解明 す る上で、重要な資料が1990 年代に発行された中国各地の党組織に関 する『組織史資料』と呼ばれる資料である。『組織史資料』は、省だ け でなく、少 数民族自治 区において も各自治区 の『組織史 資料』 が 編 纂されてお り、この時 期の地方上 層部の人事 を考察する 上で最 も 基本的かつ詳細な資料である。また、1990 年代以降人名事典等が出 版 され、最近 では台湾で ホームペー ジ「中共政 治菁英資料 庫」が 作 成 され、政治 エリート研 究を行う環 境が整って きている。 文革研 究 全 般における 最近の進歩 は言うまで もない。そ こで本章で は、比 較 的 最近の文献 、資料等に 基づき、各 自治区上層 部及び党中 央委員 会 の人事を考察したい。なお、ここでは「少数民族幹部」とは別に「少 数 民族エリー ト」という 表現を用い るが、その 定義を「党 組織に お い て省級(す なわち少数 民族自治区 )の党委員 会常務委員 以上の 役 職 に就いてい る現地出身 の少数民族 幹部」とし たい。この ように 定 義することで、既に前章において紹介した1970 年代の台湾の研究が 比 較的多く扱 ってきた基 層幹部とし ての少数民 族幹部と区 別する こ とができるだろう。 1 第九回党大会における人事 文革期にお いて、新し い少数民族 エリートの 登用を促し た政策 理

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念は、毛沢東の「吐故納新」の「最高指示」に遡ることができる。「吐 故 納新」とは 、古いもの を吐き出し て新しいも のを吸収す るとい う 意 味で あり、 日本 語の「 新陳 代謝」 に意 味合い が近 い。1968 年 10 月に発出された「最高指示」において、 「人間には動脈、静脈があって、心臓を通じて血液循環を行い、 さらに肺を通じて呼吸をし、炭素ガスを吐き出し、新鮮な酸素を 吸いこむ、これがつまり、古いものを吐き出し、新しいものを取 り入れること(原文は『吐故納新』)である。プロレタリア階級の 党も古いものを吐き出し、新しいものを取り入れてはじめて、生 気はつらつとしたものになる。廃物を取り除かず、新鮮な血液を 吸収しなければ、党は生気を失ってしまう23 と謳われた。「吐故納新」の政策理念は、上述の「最高指示」と同じ く 1968 年 10 月に発行された『紅旗』社論「吸収無産階級的新鮮血 液」24及び 1969 年の第九回党大会における林彪の報告の中で強調さ れ た。このと き林彪報告 は、上述の 最高指示を 引用した上 で以下 の ようにまとめている。 「毛主席はこの生きいきとした比喩を用いて、党内矛盾の弁証法 を言い表したのである。『事物の矛盾の法則、すなわち対立面の統 一の法則は、唯物弁証法の最も根本的な法則である。』党内の二

23 「最高指示」『紅旗』(北京)、1968 年第 4 期(1968 年 10 月)、頁 2。日本語訳を作成 するにあたり、以下を参考にした。東方書店出版部編『中国プロレタリア文化大革 命資料集成』第一巻(東方書店、1970 年)、32 ページ。 24 「吸収無産階級的新鮮血液――整黨工作中的一個重要問題」『紅旗』(北京)1968 年 第4 期(1968 年 10 月)、頁 7・12。

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つの路線の対立と闘争は、社会の階級矛盾および新しい事物と古 い事物との矛盾が、党内に反映したものである。もし、党内に矛 盾と、矛盾を解決するための闘争がなければ、また、古いものを 吐き出し、新しいもの取り入れなければ、党の生命も止まってし まう。毛主席の党内矛盾についての理論は、今後党を整頓し、党 を建設していく上での根本的な指導思想である25 こうして「吐故納新」の政策理念は党建設の「根本的な指導思想」 と された。も っとも、本 論文の主題 である少数 民族エリー トに関 し て言えば、「吐故納新」の指示は、当然ながら漢族を中心とするプロ レ タリア階級 全体を対象 にしたもの であり、少 数民族の任 用を特 別 に示したものではない。しかし、第九回党大会の時期に、「吐故納新」 と併せて強調された、以下の文言は、「新鮮な血液」として吸収され た 「新幹部」 の内部に少 数民族を含 む必要性を 人々に認識 させる も のであった。 「国家の統一、人民の団結および国内各民族の団結は、われわれ の事業が必ず勝利するための基本的保障である26」 これは元来、1957 年 6 月に『人民日報』上に発表された毛沢東の 講 演「人民内 部の矛盾を 正しく処理 する問題に ついて」の 中に見 ら れ た文言であ り、第九回 党大会の林 彪報告にお いて引用さ れた。 こ

25 林彪「在中國共産黨第九次全國代表大會上的報告」『紅旗』(北京)、1969 年第 5 期 (1969 年 5 月)、頁 24。日本語訳を作成するにあたり、以下を参考にした。東方書 店出版部編、前掲書、32 ページ。 26 林彪、前掲書、頁 33。日本語訳は以下に基づく。内閣調査室編『中共人民内部の矛 盾と整風運動』(大蔵省印刷局、1957 年)、276 ページ。

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こで単に「人民の団結」だけではなく、「国内各民族の団結」と明示 さ れた文言が 引用された ことにより 、少数民族 を積極的に 幹部と し て 登用する意 味、換言す れば上層部 に少数民族 エリートを 登用す る ことの意義が、文革初期の混乱を経て再確認されたと言えよう。 これらの指 示の下、第 九回党大会 の人事に、 それまで無 名であ っ た 新たな少数 民族エリー トが登場す るようにな った。その 一例と し て中央委員に選出されたパオレジタイ(宝日勒岱)(モンゴル族)が 挙げられる27。パオレジタイは女性で、1938 年生まれとされ、当時 弱冠30 代前半であった。文革開始直後の彼女は内モンゴル自治区の 一 介の人民公 社党委副書 記に過ぎな かったが、 緑化事業の 功績を 高 く 評価され、 第九回党大 会で中央委 員に選出さ れ、基層幹 部から 異 例の出世を遂げた281971 年 5 月に内モンゴル自治区革命委員会副 主任(複数の副主任の一人)、1975 年 2 月に内モンゴル自治区党委員 会書記(複数の書記の一人)に就任し、文革後も1982 年まで書記の 地 位を維持し 、その後は 内モンゴル 自治区政治 協商会議常 務委員 と なった29。その間、第十期、十一期中央委員に連続して選出された。 その下のランクの中央候補委員には、チリンワンダン(七林旺丹) (チベット族)30、ルジ・トルディ(肉孜・吐爾迪)(ウイグル族)31、

27 このとき選出されたその他の少数民族中央委員として、毛沢東、周恩来の信任が厚 く失脚を免れた韋国清、セイフディンらがいた。彼らがなぜ失脚を免れたのかにつ いては、「はじめに」で述べたように、論文を分けて検討を要する問題であり、別稿 を期したい。 28 略歴に関して、蕭淮蘇編『歴屆中共中央委員人名詞典 1921-1987』(北京:中共黨史 出版社、1992 年)、頁 261。「中共政治菁英資料庫 寶日勒岱」國立政治大學、http:// cped.nccu.edu.tw/node/1141313。 29 中國共産黨内蒙古自治區組織部他編『中國共産黨内蒙古自治區自治区組織史資料』 (呼和浩特:内蒙古人民出版社、1995 年)、頁 243・302・539。 30 略歴に関して、蕭淮蘇編、前掲書、頁 3。「中共政治菁英資料庫 七林旺丹」國立政治

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ヤンツォン(央宗)(チベット族)32らがおり、いずれもこのとき中 央 候補委 員に 初めて 選出 された 人物 である 。チ リンワ ンダ ン(1931 年生まれ)は、1950 年代末のチベット反乱において功を立て、「全国 民 兵英雄」と 評されたこ とのある雲 南省のチベ ット族で、 文革中 に 迪 慶チベット 族自治州革 命委員会副 主任、雲南 省革命委員 会委員 と な り、文革後 も長く雲南 省政協副主 席、迪慶チ ベット族自 治州政 協 副主席等の地位にあった。ルジ・トルディ(1921 年生まれ)は、文 革 前にトゥル ファン県の 人民公社の 社長、同県 党委委員で あった 。 ヤンツォン(1943 年生まれ)は、チベット自治区加査県の人民公社 の 副社長であ った。ヤン ツォンの特 徴的な点は 、女性であ り、当 時 20 代後半であったと見られ、若い女性基層幹部の登用という点では パ オレジタイ の人事と共 通する。省 級の革命委 員会委員で あった チ リ ンワンダン を別とする と、パオレ ジタイ、ル ジ・トルデ ィ、ヤ ン ツ ォンに共通 する特徴は 、基層幹部 から中央候 補委員に選 出され た 点である。また、チリンワンダンに関しても、年齢が比較的若く、「新 鮮な血液」と呼ばれる条件を備えていたと言えよう。 こうして上 層部に組み 込まれた新 しい少数民 族エリート は、第 九 回党 大会後の「 団結」、特に 少数民族に 関して言え ば、「最高指 示 」 の 「国内各民 族の団結」 を保障する 上で、重要 な存在であ った。 雑 誌 『紅旗』に 掲載された 文章からは 、中共が彼 ら・彼女ら の名で 発 表 した言説を 通して宣伝 していた内 容が見て取 れる。たと えば『 紅 旗』1969 年 6、7 期には、「内蒙古烏審召公社革委会主任」の肩書き

大學、http://cped.nccu.edu.tw/node/1141340。 31 略歴に関して、蕭淮蘇編、前掲書、頁 72。「中共政治菁英資料庫 肉孜・吐爾迪」國 立政治大學、http://cped.nccu.edu.tw/node/1143497。 32 略歴に関して、蕭淮蘇編、前掲書、頁 65。「中共政治菁英資料庫 央宗」國立政治大 學、http://cped.nccu.edu.tw/node/1141586。

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の パオレジタ イの文章が 掲載されて いる。そこ でパオレジ タイは 、 第 九回党大会 の林彪報告 でも引用さ れた「国家 の統一、人 民の団 結 お よび国内各 民族の団結 は、われわ れの事業が 必ず勝利す るため の 基本的保障である」に言及し、「革命団結」の重要性を深く理解して いると述べ、「全国各族人民」と団結する決意を表明している33。 『紅旗』に 文章を発表 したのはパ オレジタイ だけではな い。チ リ ンワンダンもまた、1960 年に自身が就任した「雲南中甸県新聯大隊 党支部書記」の肩書きで文章を発表している。文章は60 年代の生産 建 設と文革の 成果を称揚 し、当地の 旧「農奴」 が「毛主席 」に感 謝 している点を強調している34。またルジ・トルディも、「ウイグル族 貧 農」の肩書 きで発表し た文章の中 で、国内外 の敵が百計 を巡ら し て新疆の「民族関係」を挑発しているという現状認識を示した上で、 「各族人民の革命大団結」を重んじ、「祖国の統一」を守る決意を表 している35。更にヤンツォンも、『紅旗』1969 年 10 期に「西蔵加査 県 先鋒公社革 委会主任」 の肩書きで 発表した文 章の中で、 かつて の 「 農奴」の困 苦を自分の 子供時代の エピソード を交えて暗 く描き 、 「 民族団結」 の破壊を企 図する「一 握りの反革 命分子」を 批判し て いる36。中共は新たに抜擢した若い無名の少数民族に、基層幹部ない

33 寶日勒岱「把千里草原建設成祖國的鋼鉄長城」『紅旗』(北京)、1970 年第 5 期(1970 年5 月)、頁 74~76。 34 七林旺丹「毛主席的光輝千秋萬代照雪山」『紅旗』(北京)、1970 年第 1 期(1970 年 1 月)、頁37~39。 35 肉孜吐爾迪・孜牙「加強団結,粉砕帝、修、反的陰謀」『紅旗』(北京)、1969 年第 6 ・7 期(1969 年 7 月)、頁 15~17。なお、同文章は、ズヤ(孜牙)という人物(肩書 きは「カザフ族貧苦牧民」)との連名で出されている。このズヤは、新疆ウイグル自 治区革命委員会委員のズヤ(孜牙)(カザフ族)と考えられる。 36 央宗「毛沢東思想的光輝照亮了西蔵高原」『紅旗』(北京)、1969 年第 10 期(1969 年 9 月)、頁 69~72。

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し 「貧農」等 の肩書きで こうした内 容の文章を 『紅旗』に 発表さ せ ることで、「民族団結」と「祖国統一」が、漢族だけでなく少数民族、 そして少数民族の女性、「貧農」を含む「各族人民」の総意として存 在するという理解を宣伝していた。 2 党委員会再建における人事 1970 年から 1971 年にかけて、全国的に整党建党工作、すなわち党 委員会再建が進行した。少数民族地区においては、主に1971 年に入 っ てから各級 党委員会が 陸続と成立 し、それに 伴い新しい 党委員 会 委 員が選出さ れることに なる。その 過程で、新 しい少数民 族エリ ー ト の登用も継 続され、少 数民族エリ ートが各級 党委員会指 導部に 扶 植されることとなった。 このとき旧 来の少数民 族エリート の中で、文 革初期の混 乱を生 き 延 びた政治エ リートが、 党委員会委 員ないし書 記に選出さ れてい た 点も重要である。たとえば、チベット自治区においては、1971 年 8 月 のチベット 自治区党委 員会第一回 代表大会後 、天宝、楊 東生( い ずれもチベット族)がチベット自治区党委常務委員に37、寧夏回族自 治区においては、1971 年 8 月の寧夏回族自治区党委員会再建時に、 王志強が寧夏回族自治区党委員会副書記(複数人の一人)に38、内モ ンゴル自治区においては、1971 年 5 月に内モンゴル自治区党委員会 が 再建された 際、呉濤( モンゴル族 )が内モン ゴル自治区 党委員 会 書 記 ( 複 数 人 の 一 人 ) に39、 広 西 チ ワ ン 族 自 治 区 に お い て は 、1971

37 中國共産黨西蔵自治區組織部他編『中國共産黨西蔵自治區組織史資料』(拉薩:西蔵 人民出版社、1993 年)、頁 154。 38 中國共産黨寧夏回族自治區組織部他編『中國共産黨寧夏回族自治區組織史資料』(銀 川:寧夏人民出版社、1992 年)、頁 180。 39 呉濤は文革前に内モンゴル自治区党委員会常務委員を務めた人物であり、67 年 11 月

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年 2 月に広西チワン族自治区党委員会の再発足時に、第一書記の韋 国清と並んで覃應機(チワン族)が常務委員に就任した40。 新疆ウイグル自治区では、1971 年 5 月の新疆ウイグル自治区第二 期党委員会発足時に、セイフディン、サウダノフ(曹達諾夫)(ウイ グル族)が常務委員に選出され、林彪事件後、「林彪派」の第一書記 竜 書金が失脚 すると、セ イフディン が新疆ウイ グル自治区 党委員 会 第一書記代理に任命され(72 年 7 月)、第一書記に正式に就任した(73 年6 月)41。人事の背後には、私見では、セイフディンに対する毛沢 東の強い信頼があった42。セイフディンの第一書記就任に前後して、 新 疆ウイグル 自治区政府 のお膝元で あるウルム チ市では、 市党委 員 会 副書記、市 革命委員会 副主任のハ ムドゥン・ ニヤズ(阿 木冬・ 尼 牙孜)(ウイグル族)が、市党委員会書記、市革命委員会主任に昇進 した43。ハムドゥン・ニヤズは、文革後、1985 年に新疆ウイグル自 治 区 人 民 代 表 大 会 常 務 委 員 会 主 任 に 就 任 し た44。 類 似 の 例 と し て 、

の自治区革命委員会成立以来、革命委員会副主任の地位にあった。中國共産黨内蒙 古自治區組織部他編、前掲書、頁243・537~539。 40 中國共産黨廣西壯族自治區組織部他編『中國共産黨廣西壯族自治區組織史資料』(南 寧:廣西人民出版社、1995 年)、頁 521~522。 41 前年に復権した漢族の軍人・古参党員で、王震と同郷人の楊勇が同第二書記に入 り、曹思明が同第三書記に就くことが併せて決定された(中共新疆維吾爾自治區委 員會組織部他編、前掲書、頁240)。 42 文革開始後、中国全土で主立った政治エリートが多数失脚する中で、なぜセイフデ ィンが生き残ることができ、逆に昇進したのかについては、別途検討を要するテー マであり、本稿では論じ得ない。この問題については、手前味噌であるが、さしあ たり筆者の未公刊博士論文の第六章「文化大革命期の自治区政治エリート集団 (1966-1976)」(熊倉潤、前掲論文、194~233 ページ)を参照されたい。 43 中共新疆維吾爾自治區委員會組織部他編、前掲書、頁 313・716。略歴に関しては「中 共政治菁英資料庫 阿木冬・尼牙孜」國立政治大學、http://cped.nccu.edu.tw/node/ 1144683。張聲作編『當代中國少數民族名人録』(北京:華文出版社、1992 年)、頁192。 44 中共新疆維吾爾自治區委員會組織部他編、前掲書、頁 743。

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1973 年 8 月に、当時新設された新疆ウイグル自治区革命委員会農林 牧 辦公室主任に就任したティムール・ダワメティ(鉄木爾・達瓦買 提)の事例も指摘できる45。彼は文革前の 1964 年に新疆ウイグル自 治区人民委員会副主席に就任していたが46、彼も打倒されることなく 文革期を生き延び、出世した。文革後の1979 年には新疆ウイグル自 治区人民代表大会常務委員会主任、1985 年には新疆ウイグル自治区 人民政府主席の座を射止めることとなる47 こうした旧 来の少数民 族エリート が再建され た党委員会 におい て 一 定の勢力を 持ったのに 対し、新し い少数民族 エリートが 再建さ れ た 各少数民族 自治区の党 委員会常務 委員会に配 置される例 も、全 国 的に見られた。たとえば、チベット自治区においては、1971 年 8 月 のチベット自治区党委員会第一回代表大会後、パサン(巴桑)(チベ ッ ト族)がチ ベット自治 区党委員会 書記(複数 の書記の一 人)に 選 出された48。パサンは1937 年あるいは 1940 年生まれといわれ、いず れにせよ当時30 代前半であった。若い少数民族の女性の登用という 点 では、前述 のパオレジ タイと共通 するところ がある。パ サンは そ の 後長期にわ たりチベッ ト自治区党 委員会書記 、また副書 記、中 央 委員等の地位にあり、1998 年から 2003 年まで全国婦女聯合会副主席 を務めたことで知られる49 チベット自 治区上層部 において新 たに抜擢さ れた少数民 族エリ ー

45 同上、頁 251・689。略歴に関しては、張聲作編、前掲書、頁 267。蕭淮蘇編、前掲 書、頁302。 46 中共新疆維吾爾自治區委員會組織部他編、前掲書、頁 627。 47 同上、頁 743・745。 48 中國共産黨西蔵自治區組織部他編、前掲書、頁 154。 49 パサンの略歴に関しては「中共政治菁英資料庫 巴桑」國立政治大學、http://cped. nccu.edu.tw/node/1140016。張聲作編、前掲書、頁 56。生年について前者は 1937 年、 後者は1940 年としている。

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トの例として、ライディ(熱地)(チベット族)も挙げられる。ライ ディは1938 年生まれとされ50、1975 年 3 月にチベット自治区党委員 会書記(複数の書記の一人)に就いた当時、30 代後半であった51 世 代としては パサン、パ オレジタイ らとほぼ同 じで、文革 後長期 に わ たりチベッ ト自治区党 委員会書記 、また副書 記等の地位 にあっ た 点 もパサンと 共通する。 ライディは 後年、第十 二期、十三 期中央 委 員となったことでも知られ、昇進を続けた。 同時期の他 の少数民族 自治区上層 部において も、パサン 、ライ デ ィ らと同様に 新しい少数 民族エリー トが陸続と 登場した。 寧夏回 族 自治区には、1971 年 8 月の寧夏回族自治区党委員会再建時に、趙志 強という回族女性が寧夏回族自治区党委員会副書記(複数人の一人) に任命された52。その他の新しい回族エリートの例として、1971 年 8 月 に寧夏回族 自治区党委 員会常務委 員に選出さ れた馬思忠 (回族 ) が挙げられる。馬思忠は、文革後も寧夏回族自治区人民政府副主席、 寧 夏回族自治 区人民代表 大会常務委 員会主任等 として上層 部に地 位 を維持した53。広西チワン族自治区においても、梁吉泉と杜易54(い ずれもチワン族)という新しい少数民族エリートが、1973 年 8 月に 広西チワン族自治区党委員会常務委員に就任した55。梁吉泉は 1944

50 ライディの生年、略歴に関しては、以下参照。張聲作編、前掲書、頁 260。 51 中國共産黨西蔵自治區組織部他編、前掲書、頁 154。 52 中國共産黨寧夏回族自治區組織部他編、前掲書、頁 180。 53 同上、頁 181・403・412。略歴に関しては「中共政治菁英資料庫 馬思忠」國立政治 大學、http://cped.nccu.edu.tw/node/1141386。張聲作編、前掲書、頁 20。 54 杜易の生年、略歴に関しては、以下参照。張聲作編、前掲書、頁 124。 55 中國共産黨廣西壯族自治區組織部他編、前掲書、頁 524。なお、梁吉泉は 1980 年ま で広西チワン族自治区党委員会常務委員の地位にあり、杜易は1975 年 10 月に書記 に就任した後、81 年までその地位にあった(中國共産黨廣西壯族自治區組織部他編、 前掲書、頁524・633・634・637)。

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年生まれとされ、就任当時 20 代であった56。少数民族自治区ではな いが、雲南省では、前述のチリンワンダンが 1973 年 10 月に迪慶チ ベット族自治州党委第一書記に就任した57 このように 全国の少数 民族自治区 、自治州に おいて少数 民族が 党 組 織の上層部 に扶植され る傾向が見 られたが、 中でもこの 時期に 多 く の新しい少 数民族エリ ートを輩出 した少数民 族自治区は 新疆ウ イ グル自治区であろう。1971 年 5 月の新疆ウイグル自治区第二期党委 員会 発足時に、 イジャハン (依加汗 )(カザフ族 )、田淑珍(回 族 、 女性 )、イスマイ ル・エメト ゥ(司馬義 ・艾買提 )(ウイグル族 ) ら が 常務委員に 選出され、 彼ら全員と も文革期を 通じて常務 委員を 務 めた58。このうち田淑珍は、新疆ウイグル自治区党委員会常務委員会 の 歴史におい て初の女性 常務委員で あり、また 初の回族常 務委員 で もあった。しかも彼女は1942 年生まれと言われ5971 年 5 月当時、 30 歳に満たなかった。 イスマイル・エメトゥもまた1935 年生まれの比較的若い政治エリ ー トで、彼の 起用も「吐 古納新」が 重視された 当時の傾向 を反映 し た人事であったと見られる60。しかし彼は文革前の1965 年 12 月に新 疆ウイグル自治区党委員会文教政治部副主任に就任しており61、既に か なりの高位 に就いてい たことから 、文革の勃 発後に基層 幹部か ら 抜擢されたとは言い難い。とはいえ、文革期に失脚を免れ、1968 年

56 略歴に関しては「中共政治菁英資料庫 梁吉泉」國立政治大學、http://cped.nccu.edu. tw/node/1142215。 57 雲南省地方志編纂委員会他編『雲南省志 巻四十三 中共雲南省委志』(昆明:雲南人 民出版社、2000 年)、頁 329。 58 中共新疆維吾爾自治區委員會組織部他編、前掲書、頁 241~242・389。 59 同上、頁 246。 60 略歴に関しては、張聲作編、前掲書、頁 80。 61 中共新疆維吾爾自治區委員會組織部他編、前掲書、頁 119。

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9 月に新疆ウイグル自治区革命委員会常務委員621971 年 5 月に新疆 ウ イグル自治 区党委員会 常務委員と なり、前述 のセイフデ ィンの 第 一 書記就任に 前後して、 新疆ウイグ ル自治区党 委員会組織 部長に 就 任 し、かつ新 疆ウイグル 自治区革命 委員会副主 任を兼任す ること と なった63。その後 1979 年に新疆ウイグル自治区人民政府主席に就任 し、第十期から第十六期まで連続して中央委員に選出され、1986 年 から1998 年まで国家民族事務委員会主任を務め、新疆を代表する少 数民族エリートとなった。 最後に、1974 年 11 月に新疆ウイグル自治区党委員会常務委員、革 命委員会副主任(複数人の一人)に就任したジャナブル(賈那布爾) ( カ ザ フ 族 ) の 事 例 も 看 過 で き な い だ ろ う64。 ジ ャ ナ ブ ル は 、1934 年 生まれで、 基層幹部と して文革を 迎えた。ジ ャナブルの 興味深 い 点は、文革中、五七幹部学校に送られたが、復活し、1972 年 12 月に アルタイ地区党委員会副書記に任命されたという点である65。文革後 も 、新疆ウイ グル自治区 人民政府副 主席、政治 協商会議主 席等と し て、新疆ウイグル自治区上層部に存在し続けた。 これらの新 たに少数民 族自治区上 層部に組み 込まれた少 数民族 エ リ ートは、お しなべて年 齢が若く、 大多数はそ の後も長期 にわた っ て 、少数民族 自治区ない し中央に存 在し続けた 。無論、一 部には 文 革 の終焉後、 失脚あるい は死亡した 人物もいる 。しかし、 上記の 少 数 民族エリー トの大部分 は、その後 も長く上層 部に定着し 、現在 も な お存命であ る。既に老 齢となり第 一線から退 いていると は言え 、

62 同上、頁 680。 63 同上、頁 252・680。 64 同上、頁 242・680。 65 略歴に関しては「中共政治菁英資料庫 賈那布爾」國立政治大學、http://cped.nccu. edu.tw/node/1138829。張声作編、前掲書、頁 265。蕭淮蘇編、前掲書、頁 296。

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隠 然たる勢力 を有してい ると考えら れる。彼ら が文革後の 少数民 族 地 域の政治に おいて果た した役割に 関しては、 今後検討に 値する だ ろう。

四 おわりに

以上の考察から、第九回党大会以降の中央委員会及び1970 年代前 半 の少数民族 自治区上層 部に、新し い少数民族 エリートが 登場し た こ とがわかる 。彼らは文 革の過程で 淘汰された 旧来の政治 エリー ト に 比べ、まさ に文革によ って恩恵を 受けた側で あったと言 えよう 。 ま た彼らは起 用された当 時、おしな べて若かっ たため、そ の多く は 文 革後も比較 的長期にわ たり少数民 族自治区上 層部に在職 し続け る ことになった。本稿が扱った中で言えば、チベット自治区のパサン、 ラ イディ、新 疆ウイグル 自治区のイ スマイル・ エメトゥ、 ティム ー ル・ダワメティ、ジャナブル等がその好例である。 少数民族地域における文革の問題を考える上で、たしかに「破壊」 の面は重要である。筆者はこの点を否定するものではない。しかし、 「 破壊」と時 を同じくし て何らかの 変化が進行 したことも また、 文 革 の一面とし て重要であ ると考える 。一連の政 治運動の中 心に在 っ た毛沢東の「最高指示」によれば、「吐故納新」と形容された幹部の 入れ替えが、政策理念として明確に存在していた。すると、「破壊」 が 「破壊」の みを目的と するのでは なく、老廃 物と見なさ れた旧 来 の 政治エリー トの処分後 に、毛沢東 にとって利 用価値の高 い新し い 政 治エリート を「創造」 することが 真の目的で あったと見 られる 。 そ うであるな らば、たし かに文革の 「破壊」の 面が文革後 の中国 に 重 大な後遺症 を残した面 があること は否めない が、他方で 「破壊 」 の 後に続いた 「創造」の 行為が、結 果として少 数民族出身 であり 、 な おかつ共産 主義の精神 を持った少 数民族エリ ートを創出 し、文 革

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後 の中国に別 の意味で重 大な影響を 与えること となった点 も興味 深 い現象であろう。 本稿の主眼 は、以上の ような文革 期の少数民 族エリート の起用 に 関 する事実関 係の検証に あり、その 意味ではフ ァクト・フ ァイン デ ィ ングの論文 とも評され よう。しか し、この問 題は今日の 民族問 題 に も影を落と していると 言っても過 言ではない 。星野も述 べてい る ように、「確かに文革は『歴史決議』によって徹底的に否定されては い るが、文革 中に作り上 げられた制 度や慣習が 改革開放時 代にな っ て もいわば文 革の遺産と して定着し ているケー スがあるこ とに注 意 しなければならない」66。筆者もこの考えに賛成である。更に付け加 えて言うならば、「制度や慣習」だけでなく、人、すなわち新しい少 数 民族エリー トが文革期 に形成され た点も見過 ごしてはな らない 。 本 稿の考察に よれば、過 去の多くの 研究が看過 してきた文 革の一 面 と して、文革 期に少数民 族エリート が「新鮮な 血液」とし て少数 民 族 自治区ない し中央の上 層部に登用 された点が 重要である 。文革 期 に 多くの旧来 の少数民族 エリートが 打倒された が、それと 時を同 じ く して中共体 制に親和的 な新しい少 数民族エリ ートが登場 し、彼 ら が 文革後長期 にわたり上 層部に定着 したことも 、文革の遺 産とし て 捉えられよう。 (寄稿:2016 年 6 月 25 日、再審:2017 年 2 月 10 日、採用:2017 年 4 月 5 日)

66 星野昌裕「内モンゴルの文化大革命とその現代的意味」国分良成編『中国文化大革 命再論』(慶應義塾大学出版会、2003 年)、342 ページ。

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文化大革命期間的新少數民族菁英研究

倉 潤

(日本貿易振興機構〈JETRO〉亞洲經濟研究所研究員)

【摘要】

從文化大革命(1966-76 年)爆發迄今,已經超過 50 年。一般而 言 ,過去的研 究大多將文 革時期視為 是民族工作 全面被「破 壞」之 時 期 。然而,從 本文的案例 分析中,能 夠觀察到中 國共產黨( 以下稱 為 「中共」)在重建黨組織之際,少數民族自治區的高層也出現了新的少 數民族菁英。此與1969 年中共第九次黨大會以後,基於提倡「吐故納 新 」的政策理 念,進而將 新的政治菁 英拔擢至高 層之背景有 關。文 革 時 期獲得重用 、親中共體 制的新少數 民族菁英, 於文革後也 長期的 、 持續 成為高層的 政治勢力。(「菁 英」在 此的定義是 指,少數民 族自 治 區黨委員會常務委員層級以上的人。) 關鍵字:文化大革命、少數民族菁英、內蒙古、新疆、毛澤東

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The Emergence of New Ethnic-Minority

Elites During the Cultural Revolution

(1966-76)

Jun Kumakura

Institute of Developing Economies (JETRO) Research Fellow

Abstract】

2016 marked the 50th anniversary of the beginning of the Cultural

Revolution (1966-76). Many researchers regard the period as an era defined by the wholesale destruction of China’s ethnic project. However, this article argues that, with the reconstruction of the Chinese Communist Party apparatus in 1971, new ethnic-minority elites emerged at the highest levels of each ethnic-minority autonomous region. The promotion of these ethnic-minority elites is related to the policy ideal of “blow out the old air and breathe in the fresh air” (吐故納新) under which new young cadres were recruited after the 9th Party Congress of the CCP in 1969. Most of the

ethnic-minority elites appointed as high-ranking officials in this period have survived and gained a kind of vested interest until now.

Keywords: Cultural Revolution, Ethnic-Minority Elites, Inner Mongolia, Xinjiang, Mao Tse-tung

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參考文獻

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