参院選・ねじれ国会・連立政権
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1989 年以降「連立政治」の常態化について─
陳 永 峰
(東海大学教養部助教授・学際的日本地域研究センター執行長)【要約】
20 年以上の歳月を経て、ようやく 1989 年の参議院選挙の歴史的な 意義がはっきり見えてきた。 リクルート事件、消費税の導入、宇野宗祐首相の個人的なスキャ ンダルなどを背景として実施された1989 年 7 月の参議院選挙は、様 々な意味で衝撃的であった。自民党にとっては絶対的な牙城だと思 われていた一人区で社会党・連合系の候補に敗れ、26 あった一人区 のうち僅か三選挙区でしか勝てなかった。改選総議席数 126 のうち 自民党の当選者数は僅か38 名で、非改選と合わせても 111 議席にし かならなかった。 自民党は、1956 年以来、常に維持してきた参議院での過半数の議 席をついに失ったのである。そのような衆参ねじれ国会の結果、1993 年以降ほぼ常態化した連立政権のパターンは、すでにこの時点で水 面下の動きを強めており、実質的な連立政権時代へと入っていたこ とが分かる。【キーワード】
一 はじめに
2010 年 7 月 11 日に行われた日本の参議院選挙は、その結果をどう 評価すべきかがわかりにくい選挙であった。1996 年の民主党結成以 来、日本の国政選挙の勝敗の基準は、長期化した自民党政権に対す る民主党の挑戦がどこまで成功したかという、非常に明快で一貫し た基準であった。しかし、2009 年の夏、ついに政権交代が実現して 攻守与野党が入れ替わると、このわかりやすい基準は消滅してしま った。しかも、民主党は政権安定化のシナリオをうまく描けず、自 民党の側も政権奪還へ向けた展望を提示できないまま、2010 年夏の 参議院選挙を迎えた。 結果としては、民主党の獲得議席は44 に止まり、再び参議院で与 党が過半数に届かない事態になった。それにより、衆議院では与党 多数、参議院では野党多数という「衆参ねじれ現象」が再び生じる ことになった。 つまり、衆議院で過半数の議席を持つ与党第一党が参議院で過半 数を割る状態は1989 年から続いている。しかも、1989 年以降自民党 が参議院での少数派に転落した結果、自民党執行部は常に事実上の 連立工作を強いられていたのであり、また実際に擬似的な連立の体 制へと移行したことがわかる。 本稿では、1989 年以降の日本における参議院、ねじれ国会および 連立政権の関連性について考えてみたい。二 1989 年以降の参議院
1 55 年体制の崩壊の兆し 「巨大なエネルギーで“山が動いている”という熱っぽい雰囲気を 全国で感じた」1。 1989 年 7 月 23 日夜、当時の土井たか子社会党委員長は記者会見で こう述べた。この日に行われた参議院選挙で社会党は躍進し、46 議 席を獲得した。反対に、与党の自民党は36 議席しか獲得できず、参 議院での議席数は109 となり過半数を割った。自民党は、1956 年以 来、常に維持してきた参議院での過半数議席をついに失ったのであ る。この参議院選挙の結果により、参議院では野党が過半数議席を 保持するようになり、いわゆる「ねじれ国会」が生まれた。 選挙後、間もなく、参議院で野党が過半数を獲得した「ねじれ国 会」を象徴する出来事が起きる。すなわち、野党が提出した消費税 廃止関連法案が参議院で可決された件である。もっとも衆議院では 自民党が過半数を確保しており、この法案は衆議院において審議未 了で廃案となっている。確かに、野党が主張する政策が参議院で法 案として可決されたことには、一定の政治的な意味があったといえ る。しかし自民党政権を痛打するものではなかった。むしろ自民党 政権にとって問題であったのは、自らの内閣提出法案を参議院でい かに成立させるかということであった。政権党は以前にも増して与 野党間の協議を重視し、法案の修正を通じて野党の支持を獲得し、 法案を成立させていくようになった。 竹中治堅の研究によれば、法案審議過程が変化した結果、法案の 成立の仕方も変化した。1989 年参議院選挙以前と以後の予算国会に1 『日本経済新聞』(1989 年 7 月 24 日)。
おける内閣提出法案採択時の各会派の態度を比較してみるとこれが はっきりと表れている。以前には、一定の率の法案が自民党単独の 賛成によって成立していた。しかし、1989 年の参議院選挙後は自民 党単独の支持によって成立する法案は皆無となった。逆に、複数の 政党の支持を得て可決される法案の比率が高まった。表 1 によると、 具体的には各院での可決法案の90% 以上が自民、社会、公明、民社 四党の賛成により、95% 以上が自民、公明、民社三党の賛成により 可決されている2。 こうした変化のなかで、参議院・参議院議員の政策決定過程にお ける影響力は徐々に高まることになった。特に、1992 年の竹下派分 裂以降、自民党の参議院議員の役割は増大した。自民党竹下派では、 1992 年 10 月に金丸信が違法献金問題の責任を取って議員辞職し、経 世会(竹下派)会長を辞任すると、小沢グループと反小沢グループ の間で派閥継承をめぐる争いが本格化する。この抗争の帰結には参 議院議員の動向が決定的な意味を持った3。 そ の 後 、 細 川 内 閣 の と き に 政 治 改 革 関 連 法 案 が 否 決 さ れ た 際 に は、参議院議員が大きな影響力を発揮し、その発言権が高まる契機 となった。参議院からは参議院会長しか入っていなかった自民党執 行部に、参議院幹事長も参加することになったのである。このため 「党四役」とよばれていた自民党執行部は「党五役」と称されるよ うになった。
2 竹中治堅『参議院とは何か 1947-2010』(中央公論新社、2010 年)、第 4 章を参照。 3 金丸会長の後継人事を巡り、経世会に内紛が起きた。中心人物は小沢一郎と梶山静 六である。12 月 18 日、経世会は羽田派(小沢一郎、羽田孜、渡部恒三、奥田敬和ら 衆院35 人、参院 9 人)と小渕派(小渕恵三、橋本龍太郎、梶山静六ら衆院 32 人、 参院 34 人)に分裂した。(田原総一朗『今だから言える日本政治の「タブー」』(扶 桑社、2010 年)、第一章を参照されたい。)
表 1 予算国会において可決した内閣提出法案に対する賛成の会派 組み合わせ(%) 1989 年以前 1985 年 1986 年 1987 年 1988 年 1989 年 賛成会派 衆院 参院 衆院 参院 衆院 参院 衆院 参院 衆院 参院 自 20.0 21.2 9.6 9.6 9.7 9.7 6.7 6.7 13.1 13.1 自・公 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 自・民 4.7 3.5 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 自・公・民 22.4 22.4 11.0 11.0 4.2 4.2 5.3 5.3 0.0 0.0 自・公・社 0.0 0.0 1.4 1.4 0.0 0.0 1.3 1.3 0.0 0.0 自・公・民・社 28.2 28.2 31.5 31.5 30.6 30.6 41.3 41.3 29.5 31.1 自・公・民・共 3.5 3.5 1.4 2.7 1.4 1.4 1.3 6.7 3.3 3.3 自・公・民・社・共 21.2 21.2 45.2 43.8 54.2 54.2 44.0 38.7 54.1 52.5 1989 年以降 1990 年 1991 年 1992 年 1993 年 賛成会派 衆院 参院 衆院 参院 衆院 参院 衆院 参院 自 3.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 自・公 0.0 0.0 0.0 0.0 2.4 2.4 0.0 0.0 自・民 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 自・公・民 6.0 6.1 3.6 3.6 2.4 1.2 1.3 0.0 自・公・社 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 自・公・民・社 43.3 45.5 39.3 39.3 35.7 36.1 42.7 44.4 自・公・民・共 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 自・公・民・社・共 47.8 48.5 57.1 57.1 59.5 60.2 56.0 55.6 (注)自=自民、公=公明、民=民社、社=社会、共=共産。 (出所)竹中治堅『参議院とは何か 1947-2010』(中央公論新社、2010 年)、第 4 章、 表4-1 を参照。 2 参議院勢力の推移(1989-2010 年) 表 2 は1989 年以降の参議院での各党の議席数の推移をまとめたも のである。自民党は、89 年以降 2007 年の総選挙に至るまで、参議院 での過半数の獲得に一度も成功していないことがわかる。さらに、 2009 年の政権交代後に至っても、新政権党の民主党が参議院での過 半数を確保していないことがわかる。
表 2 参議院諸党派勢力推移(1989-2010 年) 89 年 92 年 95 年 98 年 01 年 04 年 07 年 10 年 自民党 109 108 110 102 110 115 83 83 公明党 20 24 11 22 23 24 20 19 社会(社民)党 66 71 38 13 8 5 5 4 共産党 14 11 14 23 20 9 7 6 民社党 8 7 日本新党(細川) 4 さきがけ 3 3 1 新進党 56 民主党 47 59 82 109 106 自由党(小沢) 12 8 保守党(扇) 5 国民新党(綿貫・亀井) 4 3 みんなの党(渡辺) 11 たちあがれ日本(与謝 野・平沼) 3 新党改革(舛添) 2 その他 35 27 20 30 13 7 14 5 計 252 252 252 252 247 242 242 242 (出所)筆者作成。国会召集日の会派ごとの人数、従って追加公認を含む。主に各回参 議院選挙後の『日本経済新聞』および『読売新聞』を参照。 そのなかで、89 年以来、「自民・公明・民社」(以下、「自・公・民」) の協力による擬似的な連立政権運営のパターンが形成され、さらに 自民党が政権から転落した93 年以降には、本格的な連立政治が開始 されたのである。 89 年以降、最初の本格的な連立政権となった細川政権は、様々な 考 え 方 の 党 派 を 寄 せ 集 め た と い う 点 で き わ め て 脆 弱 な も の で あ っ た。つぎに出来たのは、「自民・社会・さきがけ」(以下、「自・社・ さ」)村山連立政権で、総選挙が実施されないにもかかわらず、自民 党と社会党との大連立へと大転換が起こった。この「自・社・さ」 の枠組みは、議席数の点では(さきがけを含まないでも自・社両党
で過半数を持っているため)過大連合であったが、比較的長続きし た。しかし、96 年 1 月に成立した橋本政権は単独政権への復帰を目 指すようになった。96 年 10 月の総選挙で壊滅的な打撃を受けた社会 党とさきがけ党の両党が閣外協力に転ずる一方、野党新進党からの 離脱者を次々に吸収した自民党は、97 年 9 月には衆議院での単独過 半数を回復していた。そして参議院選挙が近づいた98 年 6 月には、 優勢が伝えられた自民党と社会・さきがけ両党との関係はもはや決 定的に冷却化し、ついに両党は自民党との提携関係を正式に打ち切 ったのである。93 年の宮沢政権の崩壊以降 2007 年に至るまで、この と き だ け が 唯 一 自 民 党 単 独 政 権 へ の 復 帰 を 予 想 さ せ た 時 期 で あ っ た。しかし、当初の予想に反して自民党はこの98 年参議院選挙で大 敗北を喫した4。 そして、衆参のねじれを生じ、参議院で少数与党に転落した自民 党は法案を成立させることができず、正常な形での政権維持はまっ たく不可能となった。こうして橋本政権を継いだ小渕政権は、金融 問題についての対応をめぐって野党からの要求を丸呑みして切り抜 ける他はなかったのである。その後小渕が、小沢一郎の率いる自由 党との自民・自由連立を模索し、さらには公明党を引き寄せて「自 民 ・ 自 由 ・ 公 明 」( 以 下 、「 自 ・ 自 ・ 公 」) 連 立 へ と 進 め て い っ た の は、ある意味でやむを得ない方向であった。参議院での多数確保が 不可欠だったからである5。 野中尚人によれば、こうした動きのなかで注目すべきことは、自 ・自連立では依然として参議院での過半数に達しないが、自民党は
4 これは 2009 年の政権交代後、2010 年参議院選挙で民主党が勝利を収めていれば、単 独政権が誕生したであろうことと同様の状況である。 5 主に、小野耕二『日本政治の転換点 第三版』(青木書店、2006 年)、第 12-13 講を 参照。
公明党と組みさえすれば、衆参両院を睨んでの最小勝利連合を形成 できるという事実である。そして実際にも、いったん自・自連立が 形成されたものの、自・自・公連立を経て、結局は自由党が連立か ら離脱する方向へと進んでいった6。 こうした成り行きから分かるとおり、参議院で過半数を確保する という必要性が、連立の形成と変容に大きくかかわっていたことは 明らかである。
三 「ねじれ国会」
以上に述べたように、衆議院と参議院で多数派が異なる国会のね じれ現象の下では政府の意思決定が滞ってしまい、政局を打開する ために、政党間の合縦連衡は不可避的になることがわかる。しかも、 2005 年と 2009 年の衆議院選挙では、それぞれ第一党となった自民党 と民主党が 6 割以上の議席を獲得したが、いずれもその次の参議院 選挙では改選議席が過半数を大きく下回った。結果として、参議院 の勢力分布によって政策過程が大きな影響を受け、小政党が大きな 存在感を誇示するという事態が繰り返されている。 もっとも、参議院が日本政治の鍵を握る存在になるのは、近年に 限った現象ではない。現行憲法下戦後初の単独政権を樹立した吉田 茂 は 既 に 、 参 議 院 に お け る 多 数 派 形 成 の 難 し さ に 頭 を 悩 ま せ て い た。長く政権党であった自民党も、衆参両院で過半数を占めていた 期間は結党以来55 年間の 6 割に過ぎない。その間も、参議院自民党 幹部の意向を無視した政権運営は困難であった7。6 野中尚人「政策決定過程の持続と変容」、新川敏光・大西裕編『日本・韓国』(ミネ ルヴァ書房、2008 年)。 7 竹中治堅『参議院とは何か 1947-2010』(中央公論新社、2010 年)、第 1 章を参照。
ところが、参議院が政権の構成や政治過程で大きな意味を持つこ とについては、研究者の間でも評価が分かれている。一方には、参 議院が内閣に対して抑制機能を果たすことにつながり、権力分散・ 権力分立の効果を強めるとして積極的に評価する見解が存在する。 他方には、議院内閣制の下では国会と内閣が融合(権力集中)して いるのは当然で、第一院である衆議院の多数派から構成される内閣 を、第二院である参議院が抑止するのは望ましくないという見方も ある8。 しかし、言うまでもなく、ねじれ国会は、日本の統治機構の特異 な構成によって生み出されたものであることに他ならない。これを 理解するには、統治機構の成立過程や基本的な考え方を押さえる必 要がある。 統治機構には、主に二つの類型がある。ひとつはイギリスに代表 される議院内閣制で、その理念は「権力の集中」にある。二院制だ が上院の機能は制限され、実質的には一院制である。下院の多数派 政党が内閣を構成し、立法府と行政府の権力が一体となることが想 定されている。一方、アメリカに代表される大統領制の理念は「権 力の分散」である。大統領と議会の選挙は別々で、大統領支持政党 と議会多数党が食い違う可能性も制度自体にて想定している。権力 の相互チェックが大統領制の趣旨であり、議会には大統領の牽制が 期待されている9。 では、議員内閣制をとる日本が「権力の集中」型かというと、単 純にはそうは言いきれない。日本の議員内閣制はイギリスをモデル としながら、参議院が特殊な地位におかれているからである。首相
8 同上、序章を参照。 9 樋口陽一『比較憲法 全訂第三版』(青林書院、1992 年)を参照。
の指名は衆議院の議決が優先され、首相の問責決議が憲法の規定に ないなど、参議院は実質的には首相任免の権限を持たない。逆に首 相は参議院を解散できない。つまり、衆議院と内閣は一体化して権 力の集中を図っているが、参議院と内閣では権力が分散される「二 元代表制」といえ、その意味で「大統領制」的な性格も持っている。 日本の統治機構は、権力を集中させたいのか、分散させたいのか不 明確な点が問題であるともいえる。 権力の集中を図るのなら、一院制に移行するか、参議院の機能を 制限すべきである。他方、権力を分散させるとの方向でみるならば、 今のねじれ国会も制度が想定したものと解釈することができ、異常 な事態とは言えなくなる。別々の選挙で選ばれる両議院に対等な地 位が与えられているのだから、多数派が違うことも現行憲法は想定 していると解釈すべきである。 ところが、憲法史的視点からいうと、明治憲法下の二院制は貴族 院型の対等型二院制であった。貴族制を廃止し徹底した民主主義観 に立つマッカーサー草案は一院制を採用したが、日本政府の要請で 結局二院制が取り入れられた。しかし、その二院制はもはや対等型 ではありえず、憲法改正の発議を別として、立法・予算の議決・条 約締結の承認・内閣総理大臣の指名について衆議院が優越する非対 等型の二院制となった。しかも、両議院とも全国民にて選出された 議員によって構成される代議機構であることから、第二院(参議院) の組織としての特性・個性が稀薄で、実際、第二院の政党化につれ 両議院の同質化が顕著となった10。 しかし、比較政治学的には、90 年代以降、日本の統治機構改革で 採用された新しい諸制度は、いずれも「多数決型民主政治」を志向
10 佐藤幸治『憲法(新版)』(青林書院、1990 年)、第二章「国会」を参照。
するものであった。多数決民主主義とは、イギリスをはじめとする 一部の英連邦諸国に見られる、小選挙区制に依拠した二大政党制と 議院内閣制の組み合わせを典型例とした政治制度のあり方を指す。 そこでは社会における多数派の意向を政治的な意思決定に際してで きるだけ貫徹させることが重視される。ヨーロッパ大陸諸国に多く 見られる少数派の包摂や同意を重視した「コンセンサス型民主主義」 とは大きく異なった仕組みである11。 たとえば、まず、1994 年に衆議院の選挙制度改革がなされた。小 選挙区制を中心とした選挙制度の導入は、紆余曲折を経ながらも民 主党と自民党という二大政党間の競争を導いた。90 年代後半には、 所謂「橋本行革」として内閣機能の強化と中央省庁再編がなされ、 2000 年初頭にかけて市町村合併や大幅な税源移譲を含む地方分権改 革も進められた。党首討論の導入や選挙での政権公約・マニフェス トの採用など、国会や政党の改革もなされた。法曹養成制度の抜本 的改革や裁判員制度導入を含む司法制度改革も実現した。 しかし、日本の政治制度が多数決型への傾斜を強める中で、参議 院は例外として残された。中選挙区制と小選挙区制、および比例代 表制が混合した選挙制度はほぼそのまま維持され、二大政党化は衆 議院ほどには進まなかった。その一方で、立法や国会同意人事など に関して参議院は衆議院とほぼ同等の権限を持っており、参議院多 数派の支持なくして安定した政権運営は困難である。結果として、 待鳥聡史が指摘しているように、衆議院と参議院では政党勢力分布 が大きく異なった状態となり、参議院での多数派を形成するための
11 アレンド・レイプハルト著、粕谷祐子訳『民主主義対民主主義』(勁草書房、2005 年)。
連立が常態化したのである12。
四 2010 年参院選
「おととい発表された政党支持率、産経新聞、国民新党の政党支 持率0.0%、共同通信 0.7%。つまり、支持率がない政党がこの国の制 度の大きな変更を強行し、そして民主党もおかしいのは、支持率の ゼロ% の政党に振り回されているんですよ。去年の衆議院選挙で国 民が3 百議席を与えたのは民主党ですよ。国民新党に 3 百議席を与 えた人はいませんよ。」 2010 年 4 月 6 日の朝、衆議院財務金融委員会で自民党衆議院議員 の小泉進次郎が亀井静香金融・郵政担当大臣に鋭く迫っていた13。 多くの日本国民は小泉議員の質問に共感するであろう。 2009 年 8 月の総選挙で日本の有権者は政権交代を支持し、その結 果、民主党は 308 もの議席を獲得した。これに対し、国民新党が獲 得したのは僅か 3 議席である。にもかかわらず、民主党は国民新党 や、やはり 7 議席しか獲得しなかった社民党との連立内閣を発足さ せた。 民主党はなぜ連立を組まなくてはならなかったのか。答えは簡単 明瞭で、参議院の議席状況にほかならない。2009 年の総選挙後に民 主党が参議院で確保していた議席数は 108 であり、参議院の過半数 議席となる 121 に足りなかった。一方、社民党と国民新党は参議院 でそれぞれ 5 議席と 4 議席を有していた。そのため、民主党は両党 と連立を組み、さらに、新党日本や無所属議員とも統一会派を組む ことによって、与党の議席を過半数にしたのである。総選挙・政権12 待鳥聡史「参院の位置づけ、焦点に」『日本経済新聞』(2010 年 7 月 16 日)。 13 『読売新聞』(2010 年 4 月 7 日)。
交代後に参議院で過半数の与党勢力を構築することを目的に連立内 閣が成立したことは、参議院が政権の構成に及ぼす影響力をあらた めて示した。 2010 年の参議院選挙では、本来であれば、民主党は政権基盤を強 化すべく、参議院でも単独過半数を目指すはずであった。しかし、 結果はその目標にはるかに及ばなかった。敗因として、一般には、 菅直人首相が消費税率のアップに言及したことを指摘されている。 しかし、そのような分析はあまりにも近視眼的である。民主党への 支持が大きく揺らいだのは、鳩山前政権が外交・安全保障分野で失 敗し、小沢元幹事長の「政治とカネ」の問題で致命的な打撃を受け たことが原因であった。 ただ、いずれにせよ民主党が、1 年前の衆議院選挙での圧勝に見合 う高い目標を 2010 年の参議院選挙で掲げられなかったという事実 は、否定できない。その意味で、民主党は、実は選挙戦に入る前か ら選挙に「負けていた」のである。確かに民主党が単独過半数獲得 の目標を降ろした時点で自民党はこの選挙に「勝った」と見ること もできよう。しかし、政権与党が過半数割れになった場合にとるべ き戦略を、自民党があらかじめ周到に準備していたようには見受け られなかった。自らが苦しんだ「ねじれ国会」を再現し、民主党を 真に窮地に追い込むためには、選挙後の民主党による多数派工作を 封じる策を、選挙前から練っておかなければならなかったはずであ る。政権奪取へ向けての計画性が自民党に欠けているのではないか という疑問は、2010 年参議院選挙での候補者擁立のパターンをみる と一層募る。 表 3 は規模の異なる選挙区ごとに、自民党と民主党がどのような 構図で対決していたかを、過去 3 回の参議院選挙と比較したもので ある。
表 3 参院選における選挙区ごとの自民・民主対決の実態(数字は 選挙区数) 選挙区 候補者内訳 2004 年 2007 年 2010 年 自1・民 1 21 21 27 自1 4 8 2 1 人区 民1 2 0 0 自2・民 2 1 0 0 自1・民 2 1 1 10 自2・民 1 1 0 0 自1・民 1 11 10 2 民1 0 1 0 2 人区 自2 1 0 0 自2・民 2 0 1 1 自1・民 2 3 3 4 3 人区 自1・民 1 1 1 0 自2・民 2 0 1 1 5(4)人区 自1・民 2 1 0 0 (注)自=自民、民=民主。 (出所)『日本経済新聞』(2010 年 7 月 14 日)。 表 3 をみると、自民党の 2010 年参院選の擁立パターンは、2007 年からはほとんど変化していない。一方、民主党は2 人区を中心に、 2007 年よりもはるかに積極的な候補者擁立を図ったことが明らかで ある。政権交代後の「次の一手」を準備していたのは、自民党では なく民主党だったといわなければならない。 要するに、2010 年の参議院選挙の結果は、まさしく河野勝が指摘 しているように、民主党にとって「負けたようで負けなかった」選 挙であるとすれば、自民党にとってそれは「勝ったようで勝てなか った」選挙であった14。
14 河野勝「政権安定シナリオ描けず」『日本経済新聞』(2010 年 7 月 14 日)。
五 参議員選出制度と連立政権の常態化
まず、1989 年以降連立政権の常態化を念頭において、日本の政党 制と参議員選出制度15の関係について考えておきたい。 前述のように、1994 年の衆議院選挙制度改革の結果、二大政党制 に向かっている、あるいは二大政党制となったというような見方が 広まっている。 この見方はある程度正しく、上位二党が国会に占める議席の割合15 現制度では、参議員の定数は 242 人、任期は 6 年とされ、3 年毎に半数が改選される。 解散の制度がないため、1947 年の第 1 回選挙以来、規則正しく 3 年毎に選挙が行わ れている。参議院では、47 の都道府県を単位とした地方区と、日本全体をひとつの 選挙区とする全国区とで議員を選出する選挙制度が採用されている。この地方と全 国という選挙区の基本枠組みは、2010 年現在に至るまで維持されている。当初導入 された全国区では、有権者は一人一票を持ち、これを特定の一名の候補に投票する。 こうして候補者が得た票を全国で集計し、数の多い順に50 名が当選する。ここでは 候補者間の票の委譲は行われない。つまり、衆議院の中選挙区と同様、単記非移譲 式投票(SNTV)となっている。この全国区は、さまざまな弊害が指摘され、1983 年には政党(の名簿)を投票の対象とする比例代表制が全国区に代わり導入される。 当選者の決定は、政党の得票をもとにドント式で政党に議席が配分され、名簿に掲 載されている順位にしたがって当選人が決まる、拘束名簿方式が採用されている。 2001 年の選挙からは、拘束名簿方式から非拘束名簿方式に変更されている。有権者 は、政党名だけでなく政党の名簿に登載されている候補者にも投票できるようにな り、政党の得票数は政党への投票と政党の名簿登載の候補者への投票の合計で計算 されるようになる。各党の議席数がドント式で配分される点は変わらないが、当選 者は各政党の候補者のうち得票数の多い順に決まるように変更となっている。2001 年の選挙より比例区の定数は削減され、48 となっている。地方区では、都道府県毎 に所定の数の議員が、やはり候補者に対する単記非移譲式投票で選出されている。 各回の選挙での選挙区毎の選出議員数は、1 人から 4 人(2007 年より 5 人)となっ ている。2010 年現在、47 都道府県のうち 1 人区は 29 選挙区、2 人区は 12 選挙区、3 人区は5 選挙区、5 人区は 1 選挙区となっている。当初、地方区では合計 75 の議席 が選出されており、沖縄復帰の際に1 議席増え、76 議席となっている。2001 年に定 数削減が行われ73 となっている。
は改革以前に比べると高くなっている。55 年体制後半の衆議院選挙 で自民党、社会党の合計議席率は 70% 台が通常であるが、05 年は 85% (自民、民主)、09 年総選挙では 89% に達している。この要因 は民主党という大政党が生まれたためである。しかし、選挙制度の 実際の仕組みをみれば、日本の「二大政党化」は必然とは言えない16。 表 4 に示すように、日本の選挙制度は衆参ともに選挙区制と比例 代表制の組み合わせとなっている。 表 4 衆参議員の選出制度の分類 選挙区 1 人区 2 人区 3 人区 5 人区 比例区 定数 選出数 300 180 480 衆議院 割合 63% 38% 選出数 58 48 30 10 96 242 参議院 割合 24% 20% 12% 4% 40% (出所)菅原琢「新党ブームを分析する」『世界』(2010 年 7 月号)を参照、筆者作成。 両院での比例区の存在は、中小政党にも存続の機会を与える。特 に、参議院議員の選出制度では、純粋な小選挙区(1 人区)は全体の 24%(58 人)しか占めていないので、中小政党は比例区のみならず、 組織の維持や比例区の集票活動を目指して選挙区でも候補者を擁立 しようとする。要するに、衆議院と比べると、参議院は中小政党の 候補が選挙区でも議席を獲得しやすい選挙制度となっているのであ る。また、参議院は定数 2 以上の選挙区の割合が大きく、中小政党 に進出の機会を与えている。二大政党が強く、他党との協力関係が 強固であれば問題とならないが二大政党が弱く、大政党に協力的で ない有力な政党が現れた場合、参議院では二大政党による支配が崩
16 菅原琢「新党ブームを分析する」『世界』2010 年 7 月号を参照。
れやすいといえる17。 さらに、議会制度を見ても、特に参議院は中小政党に活躍の場を 与えている。前述のように、日本の二院制は衆議院の優越が定めら れているものの、円滑な政権運営のためには参議院の過半数が必要 である。近年の「ねじれ国会」では、政権党が衆議院で圧倒的多数 を持っていたにもかかわらず、参議院の抵抗で窮地に追い込まれて いった。 55 年体制下での一党優位の状態では、参議院 1 人区で圧勝する自 民 党 が 参 議 院 で 過 半 数 の 議 席 を 得 る こ と が 常 態 化 し て い た 。 し か し、菅原琢の知見によれば、「大政党が二つある現在は、半数ずつ改 選の参議院で一つの政党が単独で継続的に過半数を得ることは難し い」18という。その意味で、現在の日本の政治状況は、議席率の二大 政 党 化 の 印 象 と は 異 な り 、 選 挙 と 議 会 で の 中 小 政 党 の 影 響 力 が 強 く、現実に連立政権が常態化しており、多党制の一種としてみた方 が理解しやすい構造となっている19。
六 結びにかえて―今後の展望
近年、常態化している日本の連立政権の構成は、参議院の政党勢 力の構図によって規定されているところが大きい以上、参院選ごと の結果しだいでは政権連合の組み直しも十分にありえよう。政権党 は交代したが、2007 年の第 21 回選挙と同様、今年(2010 年)の第 22 回参院選も衆参ねじれ国会を生み、政治的な混乱や混迷の開始を17 同上。だが、菅原氏とは異なり、竹中治堅「参議院多党化と定数是正が『ねじれ』 を克服する」(『中央公論』2010 年 6 月号)のように参議院の選挙制度も二大政党化 を促進しているとする見解もある。 18 菅原琢「新党ブームを分析する」『世界』(2010 年 7 月号)を参照。 19 同上。
告げることになった。相変わらず、日本政治は波乱含みであり、文 字どおり「一寸先は闇」である。 ここまでの議論を前提に考えるならば、「参議院にいかなる位置づ けを与えるべきか」が今後の日本政治にとっての焦点の一つになろ う。より具体的に検討すべきは、参議院が多数決型政治制度の例外 であることを認めるかどうか、認める場合にはいかなる役割を想定 するか、それを実現するためのプロセスとしてなにがあり得るか、 という点である。 恐らく、これは選挙制度の問題であり、内閣や衆議院との制度的 関係の問題に他ならないのである。本来、日本国憲法は内閣と参議 院の間に信任関係を国政の必須条件として想定していない。参議院 多数派の支持がなくとも内閣が成立するが、その代わりに内閣は参 議院を解散することができない。議院内閣制という統治機構の根幹 をなす制度の例外を認めていることから考えれば、参議院が他の政 治制度とは異なった趣旨を持つことを、憲法は意図しているとみる べきなのであろう。そこで、例外としての位置づけに見合った選挙 制度や権限を検討してみよう。 まず、選挙制度については、衆議院の選挙制度を単純小選挙区制 に改めることとセットで、参議院は比例代表制のみとして少数派の 選出を許容するか、あるいは都道府県代表制として地方利益を表出 さ せ る こ と が 考 え ら れ る 。 選 挙 制 度 を 徹 底 し て 異 な っ た も の に し て、衆議院とは全く違った形で有権者の意思を表出する方が、二院 制を採用する意味は大きくなる。 それに合わせて、内閣や衆議院との関係については、参議院が持 つ権限を縮小すべきであろう。日本政治が多数決型民主主義を選択 したにもかかわらず、その効果が例外的存在によって阻害されるの は妥当ではない。具体的には、予算関連法案や日銀総裁の国会同意
人事など、内閣と衆議院の合意が存在すれば、参議院に対する優越 を制度的に確保することが望ましい20。 とはいえ、これらの改革はいずれも憲法改正を含む大規模な制度 変更を必要とするものであり、すぐに実現するとは考えがたい。 それゆえ、現行憲法が変わらないという短期的な視野では、ねじ れ国会や連立政権をいわば所与として、政府がどのように意思決定 をしていくかをしっかりと考えることが重要である。その際、参考 になるのは、大統領制をとるアメリカの経験であろう。アメリカで は 、 大 統 領 支 持 政 党 と 両 議 会 多 数 派 が 一 致 す る と き は 「 統 一 政 府 」 (united government)、いずれかの議会多数派が大統領支持政党でな い事態を「分割政府」(divided government)と呼ぶ。アイゼンハワー から現在のオバマまでの10 代の大統領のうち、分割政府に直面しな かったのは、三人のみである21。ここ 40 年で分割政府であった期間 は実に30 年を占める。戦後アメリカにおいて、常態化した分割政府 は比較政治学・政治経済学でも重要な研究課題である。 要するに、日本政治の現状の大きな課題は、常態化した「ねじれ 国会」ないし「連立政権」の中で意思決定の技術を与野党が体得す るかどうかである。アメリカでは権力の分散を図る統治機構の理念 が理解されており、分割政府では両大政党が妥協しながら意思決定 していくというのが、恐らくすでに研究者、政治家、有権者の共通 の理解であろう。日本がアメリカの分割政府に対する理解と実践を 共有するのか、それとも意思決定の機能不全が常態化するのか。こ れからの展開は、注目に値する研究材料となるであろう。
20 以上の制度改正に関しては待鳥聡史の提案を参照されたい。待鳥聡史「参院の位置 づけ、焦点に」『日本経済新聞』(2010 年 7 月 16 日)。 21 2010 年 10 月現在、アメリカ議会上下両院ともに民主党が制しているが、11 月 2 日に 中間選挙が迎え、選挙の結果しだい、オバマ政権下においても再び「分割政府」に なる可能性が非常に高い。
〈参考文献〉 アレンド・レイプハルト著、粕谷祐子訳『民主主義対民主主義』(勁草書房、2005 年)。 小野耕二『日本政治の転換点(第三版)』(青木書店、2006 年)。 河野勝「政権安定シナリオ描けず」『日本経済新聞』(2010 年 7 月 14 日)。 佐藤幸治『憲法(新版)』(青林書院、1990 年)。 菅原琢「新党ブームを分析する」『世界』(岩波書店、2010 年 7 月号)。 竹中治堅『参議院とは何か 1947-2010』(中央公論新社、2010 年)。 竹中治堅「参議院多党化と定数是正が『ねじれ』を克服する」『中央公論』2010 年 6 月 号(中央公論新社、2010 年)。 田原総一朗『今だから言える日本政治の「タブー」』(扶桑社、2010 年)。 『日本経済新聞』関係各号。 野中尚人「政策決定過程の持続と変容」、新川敏光・大西裕編『日本・韓国』(ミネルヴ ァ書房、2008 年)。 樋口陽一『比較憲法(全訂第三版)』(青林書院、1992 年)。 待鳥聡史「参院の位置づけ、焦点に」『日本経済新聞』(2010 年 7 月 16 日)。 『読売新聞』関係各号。 (寄稿:2010 年 11 月 3 日、審査:2010 年 11 月 18 日、採用:2010 年 12 月 14 日)