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第二章 『江戸名所図会』の出版まで 第一節 知識人としての斎藤月岑
(1)草創名主斎藤家
江戸の草創名主は、川崎房五郎の「江戸の町名主」43によると、江戸の町名 主のなかでは最も地位の高い名主であるという。彼らは慶長・元和・寛永ごろ から町々の世話役をつとめていた家であって、馬込勘解由とか、高野新右衛門 のような名家が享保に二九家あった。しかし天保改革までに五家断絶して二四 家になっていたという。斎藤月岑の生まれた家は、この二四家のうちの一家で、
江戸初期から雉子町に居を占め、代々斎藤市左衛門を名主名として襲名してき た家である。
江戸町名主の役職というと、石井良助の『江戸時代漫筆』には次のように記 してある。
名主の仕事は繁多ですが、町人生活のほとんど全部にわたっています。異 変の改、火元の取締、消防、人別調、宗門改、不動産登記、訴訟の勧解お よび補助、質入れその他の証文の奥書加印、町触の伝達、公役の催促徴収 のごときが、その主要なものでした。訴訟の勧解というのは、訴訟ことに 金公事といわれた利子附無担保の借金の訴訟につき、被告支払の名主が原 告との和解を斡旋することであります。44
町名主の仕事は、町内事務は、ごく原則的なことは上述で大体尽きているが、
このほかに、西山松之助は次のように加えている。
孝子節婦を細かく調べて報告するとか、幕命によって、いろいろな調査、
たとえば町の由来だとか、祭礼のこととか、そういうことをするために寄 合ということで、連日のように出かけて行くことがある。また救民のため の該当者を報告するとか、町の明細図を作るというようなことをしたり、
さらに町々以外のことで特別な役を義務つけられるようになるが、それは 主として天保改革によるものが多かった。45
以上述べたように多様である仕事内容に応じるため、名主は一定の教養を持
43 川崎房五郎『江戸八百八町』(桃源社、1967)58-65 頁。
44 石井良助『新編 江戸時代漫筆 上』(朝日新聞社、1982)17 頁。
45 西山松之助「江戸の町名主斎藤月岑」『江戸町人の研究』(吉川弘文館、昭和 54)407 頁。
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たなければならない。したがって、町名主家の子弟は読み書きとそろばんを中 心にする寺子屋の初等教育を終えても、さらに高等の知識や技術が得られる私 塾に通う必要がある。その中でも地位が最も高い草創名主家は、子弟の教養を さらに重視していたと考えられる。
(2)斎藤月岑と先生たち
西山松之助の「江戸の町名主斎藤月岑」によると、斎藤月岑は父の市左衛門 幸孝が壮年で没した時、まだ十五歳であったが、すぐに家業を世襲して町名主 となった。今の言い方でいうと、斎藤月岑はまだ十代の少年であったが、町名 主の公的な仕事や勤務には大変忙しい生活をしているだけではなく、自身の学 業も兼ねなければならなくなったのである。
若年(十四歳)の斎藤月岑は、銀町(今の千代田区にある)にある日尾荊山 の塾(至誠堂)に入って漢学の教えを受け、かたわら上田八蔵について国学を 学び、また画家谷口月窓のもとへも通った46。
十四歳の若年が出会った先生とは、将来の人生にしばしば大きな影響を与え る。いつでも連絡を取っている先生の影響力は言うまでもないはずであろう。
斎藤月岑日記47を見ると、斎藤月岑と自分の先生たちとの付き合いは非常に頻 繁ということに気づく。次の一覧表の通りである。
斎藤月岑と先生との交際記録:
天保元年(1830)
③・04 天氣、風ふく、井戸がへ、普勝氏へ行、只同道、小石川心学家ニ行、高崎 有隣と云人也、
05・15 夜、月窓先生来る、
天保二年(1831)
10・15 夜、雉子町半九郎・新蔵・良助并ニ魚澄・荊山・飯塚茂太郎子来ル、茂 太大酔ニ□とまる、茂太郎儀乱酒ニ及ひ、市左衛門善四郎方へ参、席を さけ候事、
1832 年欠
天保四年(1833)
46 西山松之助「江戸の町名主斎藤月岑」『江戸町人の研究』(吉川弘文館、昭和 54)400 頁。
47 『斎藤月岑日記(一)~(五)』
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01・19 天氣よし、暖気也、二卯也、御成御前日、亀田綾瀬先生被参、
03・07 市左衛門出る、留主ニ亀田三蔵(綾瀬)殿被参、
16 朝、上田・普勝・亀田(綾瀬)・須原や・雪旦子へ行、雨ニ逢、書キ 物寄合ニ出る、
04・05 曇、母、久次郎連、小網丁へ行、奉公人和介出奔、亀田綾瀬先生来る 08・14 朝雨、四頃□晴ル、御普請方へ出る、近江や来る、高木万右衛門殿へ
行、西久保へ行、月窓先生へ行、
09・27 曇ル、すはらや来る、朝、亀田氏へ行、四丁目慶介、南□脇坂様へる、
10・04 天氣よし、朝、亀田氏・普勝氏へ行、
天保六年(1835)
11・03 三丁目伊兵へ店傳左衛門出、上田八蔵殿、昨日忌明之由ニ付、今日来 る、完戸郷蔵殿来る、夜雨ふる
25 上田氏こんれい、八蔵殿妻、里□本丁、
天保七年(1836)
01・06 雨、朝□片岡氏へ行、長谷川氏へ行、年中行事板下持行、山中氏へ行、
日尾荊山子来る、
08 朝曇、雨ふる、飯塚氏・国友氏来る、朝山中氏へ悔に行、朝河津氏・
日尾氏へ行、
02・11 天氣よし、亀田三蔵(綾瀬)殿来る、
04・04 天氣よし、浅草開ちゃうへ行、上田氏へ行、真土山へ参る、
16 雨ふる、日尾氏来る、
20 天氣よし、御成御延引ニ成、日尾荊山の会ニ付、両国河内やへ行、む さしやへ行、
24 日尾荊山来る
05・07 岡村氏と日尾氏へ行、一乗院宮貸付滞、
29 天氣よし、小網町祭下見、向両国三河やへ行、朝日尾氏へ奥州三つ子参候 ニ付、寫に行、
06・10 山吹ニ□文三郎・彦太郎一件立合、日尾氏弟子来る、
29 母・れん(月岑妻)・久次郎夕方名ごしへ行、日尾弟子とう平殿品生録 二部持参、
1837 年欠
天保九年(1838)
11・04 天氣よし、御役所へ出る、御拂、日尾荊山殿へ行、片岡氏へ見舞ニ行、
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天保十年(1839)
09・21 朝、亀田(綾瀬)氏・長谷川氏へよる、吉村氏被参、
10・11 天氣よし、御役所へ出る、帰岸島おとは来る、朝、林氏へ行、亀田(綾瀬)
氏へも行、金石年表かりる
11・04 夜、久保氏来る、岡村庄三郎殿来る、日尾弟子二人来る 27 天氣よし、日尾弟子来る
天保十一年(1840)
03・02 日尾荊山子被参る、酒出す
18 夜、外神田住吉やニ□佃や半蔵引越一件立合、日尾氏へよる 11・23 昼後、片岡氏へ行、日尾氏へよる、
30 天氣よし、御本丸へ出、水くわし御頼代御拂、亀田(綾瀬)
氏へよる
天保十二年(1841)
01・17 天氣よし、朝、木挽丁へ行、今日初日、二立目計見る、亀田(綾瀬)
氏発会へ行、久次郎(月岑養子)も亀田氏へ行、
弘化元年(1844)
11・13 曇ル、遠藤氏へ行、上田八蔵殿三河町四丁目家質証文返金、
弘化二年(1845)
01・17 天氣よし、風、日尾荊山子発会へ行、
03・18 朝雨、後止、四丁目上田八蔵殿方ひさ地面、四丁目長二郎へ買受る、
19 冷氣也、谷月窓殿へ行、七十一之由也
04・09 日尾荊山生被参、越後へ遊歴明日出立之由、御役所へ出る
07・23 天氣よし、今日、川崎□昼少しク過かへる、谷口月窓先生へよる、当年 七十一才之由
弘化三年(1846)
⑤・25 天氣よし、亀之丞、湯しまへ行、日尾帰宅の会に行、南一差送る、
06・04 天氣よし、御役所へ出る、三河屋来、昼後、母同道、大丸へ薄羽織買ニ行、
浅利先生・胝市十郎殿・安間氏・日尾氏へ土用見舞ニ行 11・25 天氣よし、母、小あミ丁へ行、日尾荊山先生被参 12・06 日尾荊山先生新宅発会、両人風邪故目録計り送る
07 尾荊山子へ行、金百疋並もえぎ色臺重一送る、声曲類纂序文をたのむ
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弘化四年(1847)
02・25 日尾氏へ行、湯しまへ参る
03・23 朝晴、後少曇ル、暮時、日尾荊山子被参、声曲類纂序文草藁(草稿)出来、
持参被致、
06・22 天氣よし、冷氣也、片岡氏・日尾氏へ行、すはらや□人来る、広重子(絵 師)来る
12・22 日尾荊山子へ行、声曲類さん一部、金百疋添送る、
嘉永元年(1848)
02・20 夜雨、風、日尾荊山生へ行、勧進能絵巻序へ大文字書て貰ふ、
09・21 日尾荊山子被参、当年小石川白山祭礼御神輿を出し候由、
12・02 昼頃少し雨、日尾荊山子へ行、武江春秋(武江年表外題頼む、酒一舛・角 平の肴一重送る
嘉永二年(1849)
08・06 雨、四頃□小降、日尾氏並相模やへ行、
09・08 亀田(綾瀬)氏被参 23 荊山子へ行、
26 雨、亀之丞、日尾へ行、鰹節八本送る
天保 01 年(1830) 05 月 15 日 谷口月窓48 02 年 10 月 15 日 日尾荊山 04 年 01 月 19 日 亀田綾瀬 03 月 07 日 亀田綾瀬 16 日 亀田綾瀬 04 月 05 日 亀田綾瀬 08 月 14 日 谷口月窓 09 月 27 日 亀田綾瀬 10 月 04 日 亀田綾瀬 07 年 01 月 06 日 日尾荊山 08 日 日尾荊山 02 月 11 日 亀田綾瀬 04 月 16 日 日尾荊山 20 日 日尾荊山 24 日 日尾荊山 05 月 07 日 日尾荊山
48 幕末の画家。名は世達、字は孟泉、月窓は号、別号は痴絶庵。月僊に学び、山水・人物・
花鳥を能くする。慶応元年(1865)歿、92 才。(思文閣 美術人名辞典による)
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29 日 日尾荊山 06 月 10 日 日尾荊山の弟子
29 日 日尾荊山の弟子 09 年 11 月 04 日 日尾荊山 10 年 09 月 21 日 亀田綾瀬 10 月 11 日 亀田綾瀬 11 月 04 日 日尾荊山の弟子
27 日 日尾荊山の弟子 11 年 03 月 02 日 日尾荊山
14 日 日尾荊山 11 月 23 日 日尾荊山 30 日 亀田綾瀬 12 年 01 月 17 日 亀田綾瀬 弘化 01 年(1844) 11 月 13 日 上田八蔵 02 年 01 月 17 日 日尾荊山 03 月 18 日 上田八蔵 03 月 19 日 谷口月窓 04 月 09 日 日尾荊山 07 月 23 日 谷口月窓 03 年 ⑤月 25 日 日尾荊山 06 月 04 日 日尾荊山 11 月 25 日 日尾荊山 12 月 06 日 日尾荊山 07 日 日尾荊山 04 年 02 月 25 日 日尾荊山 03 月 23 日 日尾荊山 06 月 22 日 日尾荊山 12 月 22 日 日尾荊山 嘉永 01 年(1848) 02 月 20 日 日尾荊山 09 月 21 日 日尾荊山 12 月 02 日 日尾荊山 02 年 08 月 06 日 日尾荊山 09 月 23 日 日尾荊山 26 日 日尾荊山 03 年 01 月 18 日 日尾荊山
04 月 27 日 日尾荊山の養子 05 月 02 日 日尾荊山
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09 日 日尾荊山の養子 06 月 24 日 日尾荊山
08 月 28 日 日尾荊山の擯斥の子 04 年 02 月 02 日 日尾荊山
05 月 16 日 上田八蔵 安政 01 年(1854) 06 月 26 日 日尾荊山 08 月 05 日 上田八蔵
*亀田綾瀬:亀田鵬斎の子。
私塾の先生たちとの頻繁な付き合いの中で、月岑と一番仲が親しいのは日尾 荊山であることがわかる。日尾荊山は、武蔵秩父郡日尾村出身で、幼い時から、
神童と言われた。成人して江戸に出亀田鵬斎について学び、やがて神田白銀町 に家を借りて教え始めた。その学問は、経義を考えるのに一家の説だけでなく、
色々な説を考証弁析して、至当なものを説いた。そしてただ漢学だけを考究す るのではなく、国学をも講究しなければわが国の人ではないと考えて、清水浜 臣に師事して広く国書を読んだ。49漢学者として後世に知られているが、日尾 荊山は実際に和漢兼修の学者だと言っても過言ではない。
では、日尾荊山はどんな人であろうか。「酒が好きで左手に盃を持ち、右手 に本を執って且つ飲み且つ読む。そして酔っぱらってくると『天下の至楽だ』
と言った。興至ると歌を作り詩を賦し、筆をふるって字を書いて自ら娯しんだ
50。」斎藤月岑の日記にも、先生日尾荊山と一緒にお酒を飲む記録がある51。日 尾荊山はそんな<道学的>にこり固まった学問をする文人ではなかったと考え られる。この学を治める態度からみると、日尾荊山は文人気質が江戸派国学者 である先生・清水浜臣に多少似ていると思われる。
江戸派中期の国学者は、ほとんどが加藤千蔭と村田春海の門下から出ていた。
一般に格調が正しい国学を伝えていたと思われる千蔭門に対し、清水浜臣は
「江戸遊民の間にくずれた、むしろ<戯作者肌>とも言える学風をつたえていた
52」春海門から出ていたのである。明確なかたちで最初に和歌史・歌論史の上 に登場する江戸派の学者である。その国学は、決して<古道論的・地方的・政 教的な国学>ではなく、むしろ<文芸論・都会的・遊民的な国学>である。<道学 的>な学問をするより、江戸派の人々は、「和歌や俳諧はもとより、歌舞伎や浄 瑠璃の作品から、仮名草子・浮世草子・滑稽本・洒落本・川柳・狂歌・雑俳に
49 石山洋など編『江戸文人辞典』(東京堂出版、1996)321-322 頁。
50 石山洋など編『江戸文人辞典』(東京堂出版、1996)322 頁。
51 『斎藤月岑日記(二)』216 頁:「日尾荊山子被参る、酒出す」。
52 内野吾郎、『江戸派國學論考』(創林社、1979)126 頁。
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至るまで」、色んな町人文化を基調とする芸術や文化活動に関わり、「かなり広 い範囲にわたって自由な交渉をもち、幅広い教養を身につけていた。」53
文化人として活躍していた斎藤月岑の多様な著作は、自分の故郷・江戸に強 い関心を持つ作品から(『安政乙卯武江地動之記』、『東都地震記』、『大江戸絵 馬集』、『江戸名主鑑編』、『東都歳時記編』、『武江年表編』など)、文芸に関す る著書まで(『弘化勧進能興行絵巻』、『声曲類纂』、『増補浮世絵類考』など)、
広汎な範囲が認められる。この点から見ると、斎藤月岑は江戸派のような学風 を受け継いでいたと言ってもいいだろう。
斎藤月岑の賀茂真淵や江戸派に対する親近感は、名作『江戸名所図会』にも 現れている。巻一には「賀茂真淵翁閑居の地」(浜町)が立項され、その地に 関連した歌四首も引用されているし、巻二の「東海禅寺」の条では「県居大人 墓」の挿絵が描かれてもおり、その存在は重視されてもいる。さらに、斎藤父 子と親交があるために、江戸派国学者片岡寛光は『江戸名所図会』の序文を認 めたのである。
53 内野吾郎、『江戸派國學論考』(創林社、1979)125 頁。
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第二節 斎藤家3代の『江戸名所図会』の編纂意図
もし、自分の住んでいる故郷を題材にし、長い時間をかけて、一冊の本を書 いた人が居たら、彼は、おそらく自分の故郷に対する愛情と誇りに基づいて書 いたのであろう。斎藤幸雄(1737-1799)は、名主の仕事を自分の息子に譲っ てから、本格的にある一冊の本の編纂作業を取り掛かったのである。54それは、
後で私たちに知られた『江戸名所図会』である。その年、彼は 55 歳だった。
もう仕事をする必要がなく、自分の生活を存分楽しんでもいいこの年配の人 は、楽とは言えない作業をしようとしただろう。その決定的なきっかけは、は っきりとはしないが、当時の社会環境と出版の情況に影響されたであろうこと は彼が『江戸名所図会』のために書いた序文で分かる。
このごろ世にひろうもてとゞろかし聞ゆる国つ名どころ図絵てふ書ぞ、し かもこの国つ文字して、女児等にもいとめやすう、将こよき心なぐさなり
55
斎藤幸雄は図絵のような表現方法が、女の子などの人にとっても非常に読みや すく、娯楽用としても一級であると高度に評価している。女性を比較の基準に した理由は、当時の女性は確実に男性より識字率が低いことを暗示するのであ るか、または単に中国の文人から継承してきた、女性に対する偏見だけである か、はっきりとは判断できない。
けれども、図絵の形式で一地の名所を表現するのが、よい発想だと思う人は 斎藤幸雄だけではなかった。彼は、自分の故郷の図絵を作ろうとすることが芽 生える前のことを、次のように振り返った。
そはうち日さす都あたりを初めにて、あしびきの大和路より、おしてる浪 速の浦伝ひ、河内和泉も共に、名に負へる処々えらびものして、五つの国 またく、それがあまりには、神風の伊勢の国、東路の五十まり三つのうま やうまやも、洩るゝかたなく、まさしに絵かきつ、ことのよしをもつぱら に書いあつめて、その境え知らぬ人に便りせんのいさをは、実に都人のみ やびの心よりなれるわざにて、いと雄々しくなも。56
斎藤幸雄は、『都名所図会』を初めとして畿内にある名所を紹介する図絵が一
54 『江戸名所図会事典』、19 頁。
55 『江戸名所図会 上巻』、松濤軒長秋(斎藤幸雄)自序、23 頁。
56 『江戸名所図会 上巻』、松濤軒長秋(斎藤幸雄)自序、23 頁。
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つ一つ出版されるのを見てきた。そして、畿内だけではなく、伊勢と東海道に も名所図会が出てきたのである。
これらの名所図会は、一人の著者によって書かれたのではない。けれども、
序文の中にとりわけ名を挙げられたのは、秋里籬島であろう。「都人」は、秋 里をさすと考えられる。彼だけが京都出身である。これは、斎藤幸雄が京都の こと、または京都の人と言っても良いことを意識した証拠だと言えよう。
数多く出版された名所図会に刺激を受けながら、斎藤幸雄はさらに言った。
おのれゑびす心にして、かれをまねぶとにはあらねど、その大江戸に住め る身にして、このあたりしらであらむもうたて心苦しくて、とし月いゆき めぐらひぬる処々かい集めぬれば、さすがに書かましくもなりぬるにこそ
57
江戸に住んでいる人として、大江戸のあたりを知らなければならないと思って ている彼は、大江戸の名所図会を書くことを決意し、長年苦心して完成させた。
図会の執筆の時、彼はおそらく、彼と同じように「大江戸」に住んでいる人を 将来の読者を想定していたのであろう。
心おこしつ、しぬびしぬびに此のことをしも思ひたちぬるは、武蔵鐙さす がに負けぬこの国人のさがなるべし58。
斎藤幸雄がこのように言ったのは、それが他の図会を創作する著者の「雄々し」
さに負けたくないためであろう59。最後の一つの文は、文学性に偏る風雅な書 き方で書いたのである。ここの「武蔵鐙」は単に枕詞60という修辞法で文に入 れた可能性があるが、『江戸名所図会』を編纂した時、江戸と武蔵国との間に ある程度の連結や連想を持っていたのではないだろうか。
斎藤幸雄本人の述べたことは、前述の文章が今までに発見されたほとんど全 部である。しかしこの世界を離れる時まで、彼はこの名所図会の上梓をずっと 見ることができなかった。それにもかかわらず、彼はこの著作を完成するため に、少なくとも九年の時間をかけていた。彼の実際の編纂過程は、本人の記録
57
58 『江戸名所図会 上巻』、松濤軒長秋(斎藤幸雄)自序、23 頁。
59 『江戸名所図会 上巻』、24 頁、下の注十七。「やはり負けん気の江戸っ子の気性というも のだろう」という。
60 大辞林によって、枕詞は「昔の歌文に見られる修辞法の一つ。特に和歌などで、特定の語 句に冠して、修辞しあるいは句調を整える語との間には一定のきまりがあり、個人の創造が許 されない点で、序詞と区別される。」
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からは見られないが、他の人の記録を参考にして考えることができる。
『江戸名所図会』を開けると、最初にあるのは、松平定常(1767-1833)の 序文である。彼は、知識人としてよく知られていた大名である。この全部漢文 で書かれている序文の中で、彼は斎藤幸雄に関する記憶を回想している。
聞諸酉山大久保翁。有斎藤幸雄者。有探勝之癖。方撰江戸名所図会。採択 稍遍。挿写頗尽。然独病江戸称名所者僅僅不足僂指也。余謂凡名所之称。
本出於和歌者流。蓋其設法謹厳画一。縱令有山秀水麗。足以吟咏。而其不 為古歌所取者。不得称之名所。61
彼は酉山という友達から斎藤幸雄のことを聞いたのである。斎藤幸雄が探勝す る趣味を持っているために、江戸名所図会を制作したことを述べている。そし て、取り上げた名所は範囲がやや広く、挿絵が非常に詳しいとも述べている。
もし定常が斎藤幸雄にお世辞を言おうとし、意識的にこのように言ったわけ ではなかったら、斎藤幸雄が黙々として名所図会の編纂を行っていた時、この 著作に関心を持っていた人がいたということであろう。定常は、名所図会に対 する関心の強さを表すと同時に、江戸にあって名所と呼ばれられる所は僅かし かなかったとも指摘している。
また、『江戸名所図会』の中にある第二番目の序文も、斎藤幸雄の執筆する 姿勢について、側面からいくつかの手がかりを提供している。
吾江戸名所。顕於古人和歌。而晦於當今者不少矣。(略)斎藤幸雄有勝情 矣。有勝具矣。江戸勝区名蹤。棄於榛叢荒墟之間。而不可識者。搜絶谷。
披窮林。或訪之故老。或徴之断碑。又自史伝地誌。諸家名所和歌。紀行之 書。以及稗説野乗。茍有足以資考鏡者。必博採総括。闡發於湮淪不可問之 蹟焉。其名所。則著之絵事。收山河於尺幅。駈万象於筆端。亦可以当臥遊 矣。62
この文を書いた亀田長梓(1778-1853)は、著名な儒学者亀田鵬斎(1752
-1826)の息子である。ちなみに、月岑の日記によく出た綾瀬が彼のことであ る。それが彼のもう一つの名前である。
江戸にあって和歌に詠まれた所には、現在の人には忘れられたのが多いと彼
61 『江戸名所図会 上巻』、松平定常の序、13 頁。
62 『江戸名所図会 上巻』、亀田長梓の序、15 頁。
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は言った。そして、斎藤幸雄が山水の美を楽しむ心を持っており、一見しても 名所だと思われない所に行く。隠れた所でも、彼は当地の人に尋ねたり、遺跡 をさがしたりする。または、史料、伝記、地誌、和歌、紀行などを引用して、
地元の伝聞や伝説の中で参考になりうる部分も広範に記し、簡単に行けない所 も明らかにしている。挿絵についても、できるだけ豊富にし、現地に行かなく ても想像力だけで楽しめるようにする。
斎藤幸雄は、前述のように、人生最後の九年間で、全部あるいは大部分の名 所図会を完成したと考えられる。それは、彼は亡くなる一年前に出版許可を得 て、亡くなるその年、翌年に出版予定と思いながら松濤軒長秋の名で前もって 自序を書いたのである。63
斎藤幸雄は、自分の死亡を予想しなかったようである。名所図会の出版は、
彼の計画の通りに翌年行われるようにならなかったことも、彼は予想しなかっ ただろう。
斎藤幸孝(1772-1818)は、父の手から、出版できる形になっているはずの 名所図会を継承した。その年に、彼は 27 歳であり、名主の仕事は彼が 1791 年 に継いで以来九年目に入っていた。名所図会は、彼の手ですぐ出版されたわけ ではなかった。実は、名所図会が出版されるまで、彼のそれに注いだ努力は 20 年間も続いていたことが後の史料で分かる。
なぜ父の編纂した名所図会を出版しなかったか。その原稿は、火事で燃やさ れたから、出版しようと思っても出版できなかったためであろうか。火事が頻 発していた江戸に、それはないとは言えないが、片岡寛光(180?-1838)の言 った逸話64によって、幸孝は父の残された手稿を少なくとも一巻もっていたこ とが分かる65。
それに、『江戸名所図会』の中には寛政末年の江戸の姿を描写している部分 が少なくないので、幸孝は父の原稿を相当に生かしていたはずである。66
幸孝は、父の完成した名所図会をそのまま出版しないことにしたと言える。
最初の父の『江戸名所図会』に対する期待、または編纂の目的と言っても良い ものは、幸孝の考え方とは一致しなかったと考えられるのである。父の原稿に また 20 年間の工夫をしていた理由は、幸孝は自分の父と異なる発想を出版し
63 『江戸名所図会 上巻』、松濤軒長秋(斎藤幸雄)自序、24 頁。序文の年は、寛政 12 年で すが、幸雄は、寛政 11 年歿。
64 『江戸名所図会 下巻』、片岡寛光の序、18-19 頁。
65 『江戸名所図会 下巻』、解説、862 頁。幸雄の原稿は七巻という説はある。
66 『江戸名所図会 下巻』、解説、870 頁。
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たかったためであろう。
では、この長い時間の中に、幸孝は『江戸名所図会』のために何をしていた か。彼の息子である月岑の記録から見てみよう。
この書は祖父が寛政中の編にして、父県麻呂が刪補、文化の末に至りてな り、文政の今に至りて上梓の功を終りぬ。67
とあるように、月岑は名所図会の附言で、祖父の成果への「刪補」が幸孝の主 な担当した部分だと言っている。それから 15 年後出版した『武江年表』では、
此の書は寛政中祖父長秋居士の遺稿、先考県麿の校訂にして、郊外に及ぼ せるは大かた県麿の編輯なり。半ば梓に行ひしもの有り。68
と、月岑は父の役割についてもう一歩進んで説明している。
月岑の記録から幸孝の編纂内容を見る理由は、他の人の書いた序文では、幸 雄の部分と比べると、幸孝に言及する部分はかなり少なかったからである。幸 孝自身は序文も書かなかっが、編集方針を表している「凡例」から推測してみ よう。69
しかし、幸いなことに、幸孝の『江戸名所図会』の関係著作は数多く残され ている。その関係著作との関連から、幸孝本人が言わなかった『江戸名所図会』
を編纂する意図をさらに推測することができる。このような分析については、
主に斎藤幸孝の実地調査を探求する斎藤智美の研究70が参考になるだろう。
斎藤智美は、『江戸名所図会』巻之二、巻之三、巻之四の範囲に該当する『郊 遊漫録』が幸孝の著作の中で『江戸名所図会』との関連性が一番高いものだと いうことを発見した。『郊遊漫録』に記された名所は、『江戸名所図会』とは七 割以上重なっている。しかし、『江戸名所図会』は、名所の並び方により、訪 れた順に書き記した『郊遊漫録』と違いが出てくる。同じ名所でも、『郊遊漫 録』と『江戸名所図会』の順序は必ずしも一致しない。
この点について、幸孝は凡例で、
67 『江戸名所図会 上巻』、附言、29 頁。
68 『武江年表 2』、87 頁。
69 『江戸名所図会事典』、「『江戸名所図会』を読むために」、35 頁。「凡例は幸孝の仮初に書き しものへ月岑校正し、尚又、亀田綾瀬先生の訂正を乞へり」という。
70 斎藤智美、「『江戸名所図会』の実地調査 -『郊遊漫録』を手がかりに-」
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凡そこの編の次序は、大城を以つて首とし、余は南方に回環するまで、北 斗七星の位に配当して、すべて七巻を以つて全部とす。71
と、読者に説明した。彼は名所図会の編纂段階で、『郊遊漫録』のように訪れ た順で名所を並べることにしなかった。彼は意識的にその順を崩しており、父 の取り上げた名所と彼の追加した名所を、彼が考える順序で『江戸名所図会』
に入れたと言っても良い。
斎藤幸孝は、『江戸名所図会』の編纂作業を父の手から受けて、20 年間の努 力をした後、四十七歳の時に亡くなった。彼は、その父にとっても、彼自身に とっても大作だと言える著作の上梓を見ることができなかった。仕事のストレ スがなかった時に趣味として名所を訪れた父とは違って、彼は忙しい仕事の合 間に、家族と一緒に過ごせる時間も犠牲にして、『江戸名所図会』の編纂に精 を出していた。この間に実地調査のことを助けてくれる人72がいても、名主の 仕事と名所図会の編纂との両方からの重いストレスは、やはり体に負担になっ たと考えられる。そして過労のため、未だ若い年で早死にすることになった。
これに対して片岡寛光も序文に残念な気持を表した73。しかし、私たちが見る ことのできる『江戸名所図会』とほぼ近い形のものはすでに彼の手で出来上が っていたと考えられる。
最終編纂者である斎藤月岑が家業を継承する前に、『江戸名所図会』に対す る期待は祖父と父この二代の間に変化が起こったと分かる。編纂意図と姿勢も、
時間の変遷に従い、違ってきた。『江戸名所図会』の最後に表したイメージを 別にして、江戸をそのまま再現するのは決して初代編纂者である斎藤幸雄の目 的ではなかったと考えられる。
ところが図会の最も基本的な働きには、斎藤家の二代、おそらく後の三代目 も、一つの考え方を共有していたと私は思う。それは臥遊に供することである。
臥游という旅に対する概念は、中国の明朝晩期(1550-1644)の文人の間にも 流行していた。中国との関連があるかどうか、はっきり言えないが、これは斎 藤家三代と同時代の知識人74が共有していた考え方とは分かる。おそらく、『江 戸名所図会』を通して読者に伝えようとするメッセージの中に、この名所図会 に取り上げられた名所は誰でも行ける所ということは斎藤家の三人とも考え
71 『江戸名所図会 上巻』、凡例、25 頁
72 『江戸名所図会 下巻』、解説、862 頁。実地調査のため、幸孝は人を雇ったという。
73 『江戸名所図会 上巻』、片岡寛光の序、20 頁。
74 『江戸名所図会 上巻』、14-15 頁。松平定常と亀田長梓とは、両方とも序文の中に「臥遊」
を言及した。
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ていなかったのである。
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第三節 『江戸名所図会』の出版過程
斎藤月岑は、生まれて以来、祖父に会ったことがなかった75。祖父に対する 記憶は、ほとんどなかったであろう。但し、彼の確かめられることが、一つが あった。それは、父が長年努力していた名所図会の編纂作業は、祖父の遺志を 実現するためであったことである。もちろん、すべて祖父のためではなく、自 分のためでもあっただろう。月岑は父の後ろ姿を見て、その熱心な態度を感じ たであろう。
1818 年、月岑は十四歳で父の急死に臨んだ。彼が引き継いだのは名主の仕 事だけでなく、名所図会の原稿と関連記録もあった。仕事に対し、月岑は十四 歳の少年として、家督を継承してからすぐ熟練して上手になったとは考えにく い。そのため名所図会の出版に取り掛かったのは、名主になった数年後、仕事 に余裕があってからのことだと考えられる。
『江戸名所図会』の出版は、前半と後半の二回ある。それは 1834 年と 1836 年の時である。一回目の出版は、名所図会の原稿が継承されてから、十七年間 が経ていた。しかし、月岑の十四歳から二十六歳(日記が始まった年)までの 生活は史料がないため、いつ名所図会の出版に取り掛ったかはっきりとは分ら ない。
以下は、日記から抽出した名所図会の出版と関連すると思われる記録である。
出版前後の月岑の行動の様子を見て行きたいと思う。
1830 (月岑二十六歳)
01・05 -雪堤子留子[主]来る
03・12 -浅草開帳へ行、雪旦子へよる
04・21 -すわらや(伊八)来る、但、いけの端
1831 (月岑二十七歳)
08・09 長谷川雪堤子来る
09・25 天氣よし、長谷川雪旦子来る 10・02 昼後・雪旦子へ行、留主也、-
28 -長谷川雪旦へ行、雪旦子在庵 11・02 長谷川雪旦子、名所図会校合ニ来る
06 天氣よし、雪堤子、七時頃来る
75 斎藤月岑が生まれた年は、1804 年である。その年は、祖父・斎藤幸雄が 1799 年亡くなった 後の五年目である。
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11・07 市左衛門、名所図絵調残り取調に、飯倉・西窪・高輪・芝辺へ行、
12・15 片岡周介子へ行
17 -朝、真土山へ参る、浅草市へ行、雪旦子へよる、先生疾瘡也 22 日本橋須原屋(茂兵衛)来る
1832 年欠
1833 (月岑二十九歳)
01・04 -浅草へ行、八丁堀外へ頼ム、雪旦子・根岸等へ行、-
05 -片岡周介殿・稲吉・雪堤・高木万右衛門殿来る 09 -亀田綾瀬先生・大傳馬丁処周作殿へ年始ニ行 19 -亀田綾瀬先生被参
27 -冠山様へ御年始に行、-
02・12 -雪旦子・円明院・すはらや・上田氏へ行、-
25 -久次郎誕生也、亀田氏へよる、
30 -冠山様御出、御家来衆両人付添
03・07 -市左衛門出る、留主ニ亀田三蔵殿被参、-
16 朝、上田・普勝・亀田・須原や(伊八カ)・雪旦子へ行、-
17 -浅艸祭見に行、梅國院ニて冠山様ニ御目ニ掛る、待乳山へ参詣、
04・05 -亀田綾瀬先生来る
15 -らかん寺ニて、冠山様御目ニ掛る、池田七兵衛・岡部庄太郎ニ逢ふ 17 -浅草祭見に行、梅園院ニて冠山様・やしろ太郎様ニ逢、-
19 -夜、雪旦子来る、
27 雪堤子来る、
05・01 書物寄合ニ出る、河津・安枩来る、雪旦子へ行、
04 天氣よし、小奈木川冠山様へ行、大工平次郎より到来之肴持行、
16 天氣よし、両国河内やニて雪旦会に付行、
17 天氣よし、浅草観音へ参る、梅園院へよる、冠山様御出、真土山へ参る 25 須原や来る
06・02 天氣よし、朝、小奈木川冠山様へ行、蜷川越中侯に御目ニ掛る、但、同所ニ て、おれん付木店へ行、
15 曇ル、片岡正三郎殿同道、河崎山王祭・六郷八幡祭へ行、一宿、
留主中、雪堤子来る
07・01 雨ふる、朝、上田氏并長谷川雪旦子へ行、母、普勝・遠藤へ行、
03 夕方、雪堤子来る
16 雪旦子へ行、-上田氏・すはらや(伊八カ)使遣ス、
19 天氣よし、小奈木川冠山様御下やしきへ御悔に行、冠山様、当月九日御死死 之由、御部やおさよ殿ニ逢、
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20 夕方、雪旦子へよる、須原や借用金持帰る、
26 昼前、浅草くわんおん・雪旦子・上田氏へ行、
27 松平冠山様御葬式、藤兵衛代ニ出ス、夕方、東林へ行、久次郎連、
29 今日より二夜三夜之間弘福寺ニゑ、松平冠山様御法事執行之由
30 天氣よし、時々雨、朝、牛島弘福寺松平長門守様御隠居冠山様御廟参いたす 08・10 夕方雨、上田氏・すはらやへ使遣ス、
23 待乳山へ参る、観音へ参詣、雪旦子・九重子へよる、
09・25 天氣よし、待乳山へ行、雪旦子へよる、
26 天氣よし、すはらや(伊八カ)へ行、いてう八まん(銀杏八幡宮)へ行、
27 曇ル、すはらや来る、朝、亀田氏へ行、
10・04 -朝、亀田氏・普勝氏へ行、-
07 -須原や来る、
08 -夜、すはらやより人来る、
10 天氣よし、朝、虎門へ参詣、昼後、根岸片岡氏・長谷川雪旦子・須原や(伊 八カ)へ行、-
23 天氣よし、雪旦子・すはらや(伊八カ)・橘町藤十郎殿へ行、-
24 -日本橋須原や(茂兵衛)使来る、
11・05 天氣よし、昼後、待乳山へ参詣いたす、雪旦子・すはらや(伊八カ)・銀杏 八幡宮別當抔へよる、―
18 天氣よし、朝、上田氏・すはらや(伊八カ)・長谷川へ行、
12・17 天氣よし、風、浅草市・雪旦子并根岸へ行、-
25 天氣よし、須原や伊八・日本橋須原や番頭源七、名所図会十冊出来ニ付持参、
かも一ツ・隅田川二舛添持来る、
26 曇り、雪旦子より浅草御寺参ニ行、名所図会出来ニ付参詣、-
27 -今日より名所図会看板之はり札、書林へ不残出ス、
1834 年欠
1835 (月岑三十一歳)
01・28 -両国上田并雪旦子・銀杏八幡宮別当所・村田等へ行、
02・02 天氣よし、根岸安間・片岡へ年始に行、-
13 -雪旦子宅へ発会にで行、-
04・11 -天氣よし、富山町寺へ参る、片岡氏・長谷川氏へよる、
18 雨ふる、日本橋・茅町両家すはらや振舞にて、葺や丁芝居へ行、夜四つ過帰 る、母・市左衛門・おれん・久次郎・小網丁おしげ行、長谷川雪旦子家内も 行、
20 天氣よし、雪旦子へ行、
05・10 -須原や(茂兵衛)番頭源七来る、須原屋伊八来る、-
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06・01 天氣よし、明神様・富士へ久次郎つれ行、雪旦子より使来る、-
04 -昼後、上田氏・長谷川氏へ行、
15 浅草観音祭・あつた祭・橋場天王祭へ参詣、雪旦子新宅へよる、大西氏へよ る、雪旦子宅は、和泉橋の通御かち丁石橋の南也、
⑦・02 すはらや二軒来る、
15 天氣よし、雪旦子来る、-
26 雨、長谷川雪旦子へ行、祭手拭清書頼む、-
09・22 -雪旦子へ行、-
24 -かや丁すはらや(伊八)より人来る、
10・02 -昼後、真土山へ参詣、岡村氏ニ逢、雪旦子へよる、
09 天氣よし、須原やより人来る、-
13 時々曇ル、昼前ニ出掛、深川八マン宮、海福寺五百らかん額・聯見に行、-
須原やより人来る、
14 天氣よし、牛島弘福寺へ聯・額見ニ行、かや丁須原や(伊八)より人来る、
15 -芝又開ちょう御かへり、かや丁須原屋より人来る、
16 -かや丁すはらやより人来る、
18 天氣よし、すはらやより人来る、市左衛門、亀戸へ行、霊山寺・法恩寺境内 末社見ニ行、-
30 -片岡・竹内・長谷川へ使やる、
11・03 -須原やより人来る、
06 天氣よし、市左衛門、深川へ、須原やより人来る、
22 天氣よし、市左衛門寒見舞、根岸・両国・上田へ行、浅草へ廻る、長谷川へ よる、-
12・16 名所図会出来、日本橋すはらや代源七、茅町伊三良同道、名所図会十部持来 る、并小酒樽こもつゝミ・玉子一折持参、
27 天氣よし、市左衛門、雪旦子へ行、-
28 -樽より銀壱枚、名所図会の喜ひニ被遣候、-
29 -館市右衛門殿より名所図会返礼ニ銀壱枚来る、-
1836 (月岑三十二歳)
01・01 -雪旦子夕方来る
06 -長谷川氏へ行、年中行事板下持行、-
11 -三村吉兵へ殿(北町与力)・東条八太郎殿(北町与力)へ名所図会送る、
-
17 -根岸片岡周介殿・小川丁辺へ年礼ニ行、行徳辺出火、雪旦子へよる、
22 -木村氏(町名主)へ名所図会為持遣ス、
02・02 -雪旦子、和田氏同道白金高野寺写しに行、-
11 天氣よし、亀田三蔵殿来る、-
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12 雨ふる、雪旦子へ発会ニ付行、
29 雪旦子へ行、上野へ行、-
03・09 雨、上田氏へ行、かや丁すはらやへ行、-
13 -雪旦子へ行、-
04・24 朝長谷川氏へ行、-
05・12 -雪旦子へ行、-
15 -雪旦子へ使遣す、
23 曇ル、浅草へ買物に行、雪旦子・銀杏八幡別当隠居所へよる、-
26 -須原屋へ使遣ス、-
06・17 曇、真土山へ参る、雪旦子へよる、-
20 -雪堤子来る、
07・19 天氣よし、真土山へ参詣、雪旦子へよる、-
23 -雪旦子・片岡へよる-
30 曇ル、長谷川氏へ行、-
08・03 小雨降る、真土山へ参詣、長谷川氏へよる、
07 -浅草へ参る、雪旦子へよる-、かや丁すはらやへよる、-
28 -雪旦子へよる、-
09・12 -雪旦子へよる、両国開帳へ参る、-
27 -長谷川へ行、-
12・03 天氣よし、雪旦子・大西へ行、
23 -御寺(法善寺)参、雪旦子へ行、-
1837 年欠
1838 (月岑三十四歳)
01・10 -虎門へ参る、須原屋へよる、-
24 -須原屋より歳事記出来、二十部と鰹節一箱持来る、長谷川氏へ行く、夜五 つ頃かへる、
27 天氣よし、長谷川氏へ行、写ものする、-
02・01 -長谷川氏へ使やる、-
06 天氣よし、須原屋より歳事記尚十五部貰、-
07 須原や茂兵へ病死、
09 天氣よし、名所図会・歳事記、皆出来故、雪旦子父子・すはらや(茅町須原 屋伊八)よぶ、百花園(向島)仕出し、よし丁おたミ・お市(芸者)よぶ、
むさしや(柳橋)おきく、手伝ひによぶ、
22 歳事記売出す
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名所図会の出版の時は 1834 年と 36 年であるが、月岑の日記には 1833 年と 35 年の年末にその関連記録が見られた。名所図会の前半と後半両方とも、12 月の時にできた。これは、版元・須原屋の販売策略と関係あると考えられる。
西山松之助によると、「正月が新刊本の売り始めで」あり、「十月、十一月頃に 本はできていても、正月元旦に本を売り出したので」ある。「旧年中に、今度 は面白い本が売り出されるそうだといったような評判を流したりしながら、お 正月に新本を売り始め」たと述べている76。
名所図会のため、序文を書いてくれた三人である松平定常、亀田長梓、片岡 寛光のことも、月岑の日記に記されている。松平定常は「冠山様」、亀田長梓 は「亀田」「亀田綾瀬」「亀田三蔵」、片岡寛光は「片岡」「片岡周介」の名など で日記に登場している。序文の完成は、1832 年と 33 年との間のことである。
77序文完成の前後だけではなく、月岑とこの三人との往来はしばしば日記に見 られる。亀田と片岡との場合は、本来斎藤家と個人的な交誼を持っていたので、
特異なこととは言えない。しかし、大名である松平との付き合いは興味深いこ とである。
これについて、松平の序文では、
幸成突然抵門通刺。出其全帙示之。且需序言。是蓋由余往日介人促其成也
78。
と書かれている。名所図会の序文の要請は、おそらく月岑と松平との初対面の 時である。それに、彼らの間には、他の関係者がいたことが序文で分かる。名 所図会を通し、町名主の職をしていた月岑と大名である松平は、触れ合いがあ った。松平は序文の完成以後も月岑と頻繁な往来があったが、松平の死去に従 って付き合いも終わったらしい。
作業が長年続き、斎藤家の家業といってもよい『江戸名所図会』はやっと上 梓の段階を迎えた。前後の二回に分けて名所図会ができたところ、月岑は須原 屋から十部の名所図会と食べ物とをもらった。この二回、須原屋の人はお酒も 持ってきた。それは月岑がお酒が好きだったためであろう79。そして、この大 作を世に送り出すと、著者、版元と絵師三方は、一緒に祝うのが当然だと考え
76 西山松之助、『江戸庶民の四季』、15 頁。
77 松平定常は、1832 年の閏月、即ち 11 月である。片岡寛光は、1832 年 5 月。亀田長梓は、
1833 年 3 月。
78 『江戸名所図会』、14 頁
79森銑三、『斎藤月岑日記鈔』、7 頁。 「月岑は晩年酒を好んだといふが、日記には酒のことは あまり見えてゐない」という。
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られる。だが、このお祝いの会は東都歳事記も出版されてからなされたのであ る。
小結
この章には、まず師承関係から見て、斎藤月岑の文化背景の二つの特色があ ることを明らかにした。一つは、月岑は学統上江戸派に近づく傾向が見えるこ とである。彼は公的な役職である町名主を務めてているが、江戸派の<遊民的
>・市井的な文人気質を持っている。もう一つは、月岑は和学と漢学を兼ねて いることである。従来国学者だと思われる月岑は、漢学の勉強も相当している。
彼と親しい先生も和漢兼修の学者である。当時の知識人社会中でこのような傾 向を持つのは普遍のことだと考えられる。
『江戸名所図会』はある意図に基づいて編纂された作品ということは、従来 の研究に指摘されてきた。しかし、この編纂意図は著者である斎藤家三代の間 で一貫しているわけではない。斎藤幸雄の発想によって『江戸名所図会』の編 纂が始まったが、最後に月岑が出版したのは祖父が企画したのとは違うと考え られる。だが、図会の最も基本的な働きには、程度は多少違うが、斎藤家三代 は臥遊に供するという考え方を共有していた。
さらに月岑の日記によって、『江戸名所図会』の出版は版元・須原屋の販売 策略で行われていたことが推定される。また名所図会の編纂と出版を通して社 会地位に格差がある月岑と大名である松平定常とは交流があったことが分か った。
本章では以上のことを明らかにした。