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「信玄家法」-「甲州の法度次第」と「武田信繁家訓九十九カ条」.52

第二章 甲斐武田と「武田信繁家訓九十九カ条」

第二節 「信玄家法」-「甲州の法度次第」と「武田信繁家訓九十九カ条」.52

現存する甲斐武田家の家法と家訓は「甲州の法度次第」(「信玄家法」)である。

「甲州法度之次第」は上巻の家法(「家法五十七カ条」)と下巻の家訓(「武田信 繁家訓九十九カ条」)をまとめたものであるが、通称「甲州法度之次第」とは上 巻の「家法五十七カ条」のことを指す。「甲州法度之次第」は江戸時代には「信 玄家法」と題して、江戸時代の国学者塙保己一(1746-1821)によって編纂され た『群書類従』巻四○三に収録され、「信玄家法」という名でよく知られてきた。

下巻の「武田信繁家訓九十九カ条」(以下は「信繁家訓」と略称する)は永禄元 年(1558)、信繁が長子武田信豊のために書いた教訓である。のちに甲斐武田家 の歴史、軍学を記録する『甲陽軍鑑』に収録されたが、過去にはよく「信玄家 法 下」と誤って紹介された。「信繁家訓」が「信玄家法 下」と誤解された原 因は、『甲陽軍鑑』がそれを上巻の信玄家法と合わせて収録した時に、信繁家訓 の序文を上巻の信玄家法の後においたため、両者の区別が不明瞭になってしま ったからである。

武田信繁は大永五年(1525)に生まれ、兄の武田晴信(信玄)と弟の武田信 廉とは同母兄弟である。信繁の幼名は二郎といい、元服のち左馬助(官名)と 称し、その唐名から典厩と呼ばれた。信繁は小さい頃から賢く、父信虎の寵愛 を得たので、信虎は嫡子の晴信を放逐し、その代りに信繁を嫡子として立てる と計画したが、逆に信虎は晴信と武田氏の重臣たちに先手が取られ放逐された。

信繁の一生は兄信玄の陰にあって華やかな舞台に登場はしないが、信玄との仲 がよく、信玄に忠を尽し補佐役としては完璧な存在だったと言われる。一方、

信玄に放逐された父の信虎に対しても、信繁は孝道を尽した。例えば、信虎が 放逐された後今川義元の所に身を寄ったが、この間信虎が何度も畿内へ遊んだ。

永禄元年(1558)信虎が高野山を登り、引導院に宿泊し、引導院の院主にもて なされた。信繁がこれを引導院の僧から聞いた後、以下の礼状を引導院の院主

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に送った。

遠路を御使僧、殊更御祈祷の御札ならびに油煙墨五挺、扇子五本を下され、

忝く珍重に存じ候、将た亦今度、信虎不慮に登山致さしむるの処、別して 御悃意の由承知せしめ、浅からず存じ候、乏少たりと雖も、絹五疋、進献 せしめ候、なお委曲は御使僧、演説為すべく候、恐々謹言。

(永禄元年カ)

五月十一日 信繁 高野山

引導院御同宿中

以上の礼状から、信繁が帰国できない父を偲び、父の世話になった僧侶に感 謝の意を表したことがわかる。

信繁最初の活躍は天文九年(1540)信虎の信濃佐久郡の経略と言われる。天 文十一年(1542)晴信が家督を継いだ後で初めての軍事行動であった諏訪出兵 で、信繁がこの戦争において大将として勤めた。諏訪氏が武田軍に討ち破られ、

諏訪衆は戦後の処置で信繁の配下になった。そして天文二十年(1551)の佐久 郡の出兵で信繁が先鋒となり、他の信濃国での戦争において信繁も戦後処理と 関わった。ちなみに信繁の長子の信頼は庶出したので、信濃の有力国衆の望月 信雅の養子になり、信繁が信濃においた影響力を確保した。信繁は信玄の補佐 役として、外交役として活躍し、または武田氏が攻略してきた信濃国人衆を治 め、統治にも長じたことので、彼が生きている間、信濃国人衆は大人しく、反 乱を行うことがなかった。

しかし、ここで注目したいのは、晴信の嫡子の義信が元服した翌年の天文二 十年、信繁が庶流吉田家の家督を継承した。これは「信玄の後継者はあくまで 嫡子の義信であり、信繁にはその資格がないことを示すための、政治的な措置 であったのであろう。この後信繁が吉田名字を用いた形跡がみられないことも、

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この推定を裏付ける」、と丸島が述べた。46信繁が後嫡子の信豊に家訓を書き、

武田家への忠誠を求めたのは以上のことと関わったと推測できよう。

「信繁家訓」が成立した三年後、すなわち永禄四年(1561)、第四次川中島の 合戦において副将として務めた。しかし、武田軍の戦術が上杉軍に破られ、本 陣壊滅の危機が臨んだ。その時信繁が信玄の危機を救い上杉軍の攻撃を死守し、

武田軍の危機を解決し勝利に導いたが、信繁が壮烈な討ち死を遂げたのであっ た。得年はわずか三十七歳であった。川中島の合戦は全部で五回行われ、そし て第三回川中島の合戦は弘治三年(1557)に起こった。この回は武田氏と上杉 氏両方とも大きな戦果が挙げられなかったが、信繁は将来上杉氏とは大きな決 戦が避けられないと予知し、「信繁家訓」の成立時間から見ると、「信繁家訓」

は実は長子の武田信豊への遺訓という説もある。

のちに武田家は織田家によって滅亡されたが、信繁の評価については、マイ ナスの評価はほぼ存在しなかった。武田家とは深く交流を持っていた快川禅師 は信繁が戦死した時、

抑も典厩公の戦死は、惜しみてもなお惜しむべし。蒼天、その刻、愚老出 奔について、行屢いまだ定まらざるの間、使僧をもって弔礼を述べず、多 罪枉げて憐察を賜へ

と悲しみ嘆いた。なお、武田家と親しんだ快川禅師だけでなく、『虎略品』によ り、信玄の宿敵であり、川中島の合戦で武田家と戦った上杉氏の大名上杉輝虎

(謙信)・北条氏康と織田信長も信繁の戦死に嘆いたと記載している。また信玄 が重用された部下の一人山県昌景は「古典厩信繁、内藤昌豊ハ毎事相調ヒタル、

真ノ副将即チ是ナラント評セシトナン」47と、武田信繁と内藤昌豊両人を賞賛し た。江戸時代に入ると、「武田二十四将図」が作成され、中では信玄を含めて武

46 丸島和洋「戦国大名武田氏の一門と領域支配」、『戦国史研究』第 53 号、(東京:吉川弘文館、

2007)P.4。

47 前掲『甲府市史』、P.594。

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田氏に特に功績が大きい武将二十四人を描いた。「武田二十四将図」は色々な諸 本があり、選定された二十四人も諸本により異なるが、世間で一般的に認知さ れた二十四将の中には信繁はその一人である。また、江戸時代中期の儒学者室 鳩巣(1658-1734)は、著作『駿台雑話』で、信繁を「典厩公こそは、天文、永 禄の間に賢と称すべき武将であった。兄信玄に仕えて人臣の節を失うことなく、

その忠信、誠実は人の心に通じ、加えて武威武略に長じ、知剛知柔、誠の武将 とは信繁のごとき人物をいう」と評した。室鳩氏は信繁に高い評価をあげたの は信繁が幕府の下の儒学が強調する忠の精神を完璧に実践しているからだと考 えられたが、ここから信繁は人々に評判がよく、戦国時代から江戸時代まで慕 われていたという事実を見とれる。

信繁が戦死した後、その首級は当初上杉方の手にあったが、武田方により奪 還された。首級以外の部分は川中島戦場での薬師堂で葬り、のち江戸初期で松 代藩主となった真田信幸(真田信之、1566-1658)が信繁を記念するため、薬師 堂を典厩寺に改めた。信幸の父は有名な真田昌幸(1547-1611)で、爺は真田幸 隆(1513-1574)である。真田氏は元々信濃の在地領主で、武田氏が甲斐を統一 し信濃へ進出した頃、真田幸隆が武田氏へ帰順し武田家の家臣となった。そし て幸隆の三男(長男と次男は第四回川中島の戦いで戦死していた)の真田昌幸 は次子の名前を信繁と命名し、その次子は大阪の陣で豊臣方に加勢して、夏の 陣(1615)で壮烈に戦死し、後世の説話物で幸村と呼ばれ、その壮烈な戦い方 の伝聞を聞いた島津忠恒は「五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門仕かか り候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆 は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵。古よ りの物語にもこれなき由。徳川方、半分敗北。惣別これのみ申す事に候。」と言 い、真田信繁を高く評価した。真田昌幸は幼い頃から晴信の奥近習衆に加わっ て、『甲陽軍鑑』によると昌幸の初陣は第四次川中島の戦いである。昌幸の初陣

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は本当に第四次川中島の戦いであったかについては他の史料では実証できない が、息子を信繁と命名することと信幸が典厩寺を建てたことから、真田氏は信 繁のことを慕っているのは間違いないであろう。恐らく昌幸は初陣の時、信繁 の武勇と忠義に深く感心したのではないだろうか。

次には信繁の次子、即ち「信繁家訓」の対象の武田信豊について述べる。武 田信豊は天文十八年(1549)年に生まれた。信豊は父の没後父の旗本二百騎を 継承し御親類衆の筆頭となり、父と同じく典厩と呼ばれた。彼は従兄弟の勝頼

次には信繁の次子、即ち「信繁家訓」の対象の武田信豊について述べる。武 田信豊は天文十八年(1549)年に生まれた。信豊は父の没後父の旗本二百騎を 継承し御親類衆の筆頭となり、父と同じく典厩と呼ばれた。彼は従兄弟の勝頼