國立台灣大學文學院日本語文學系 碩士論文
Department of Japanese Language and Literature Collage of Liberal Arts
National Taiwan University Master Thesis
中世日本の儒学の受容
―甲斐武田家における「武田信繁家訓九十九カ条」を 中心に―
The adoption of Confucianism in medieval Japan -focusing on The Contents of the 99 Codes of Conduct of
Takeda Nobushige
-林書沂 Shu-I Lin
指導教授:徐興慶博士
Advisor:Shing-Ching Shyu, Ph.D.
中華民國 101 年 8 月
August 2012
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謝辭
進入台大日文系所以臻八年歲月,大學生活給了我歷經諸多成長、充實的過 程。我大二開始接觸日本戰國史並產生興趣,但怎樣都不會想到,一向容易緊張,
害怕上台又不擅長發表自己意見的我,會因為自己的興趣而進入日文所,甚至順 利完成了畢業論文。
能夠順利完成這篇論文,首先要感謝指導教授徐興慶老師的指導。從大二開 始,徐老師的「日本文化」課程就讓我印象深刻,考上研究所後,因為我抱有興 趣的日本戰國時代思想方面的參考資料十分有限,一度懷疑自己的抉擇。幸好徐 老師即時建議了我的研究方向,也鼓勵我不要因為研究題目的參考資料過少而放 棄,我才能夠繼續堅持自己的目標直到論文完成。徐老師除了給我許多在研究上 的建議、課堂上的知識以及正面的鼓勵外,我有幸在碩士三年級時,前往日本上 智大學交換留學一年,讓我蒐集到許多台灣找不到的珍貴資料。2011 年 10 月起,
徐老師到京都國際日本文化研究中心擔任訪問研究員,依然在論文指導上給予最 大的協助,甚至在十分忙碌的六月初回台發表論文時,仍撥冗進行我的論文口試,
使我得以如期畢業。在論文修改的最終階段,徐老師忙碌於工作,奔波各地之餘,
也全心幫我修正論文,讓我非常感動自己可以遇到一位關心學生的好老師。
此外,我要感謝系上的曹景惠老師及師大的藤井倫明老師兩位口試委員,以 及台大日文系的全體任課老師們。曹老師及藤井老師皆在各自的專業上給了我許 多深度的指導與建議。而日文系老師對我的指導以及包容同樣讓我難忘,特別是 鼓勵我走上日本文化研究的何思慎老師,以及從大學部開始就給予我許多鼓勵,
使我成長的范淑文老師。又徐老師的兩位研究助理詩蘋、姿瑩在這一年內也給我 諸多協助及建議,藉此特別表達感謝之意。
上智大學文學部國文學系的長尾直茂老師、大島晃老師及歷史學系的青山英 夫老師在我留學期間惠賜寶貴意見,提供研究及生活上的幫助,特別是長尾老師
ii
對我論文的研究方向做的修正建議、指導以及資料收集、古文閱讀上的協助,甚 至在我回國後仍舊關心著我的論文進度。在此向三位老師表達深深的感謝。
最後要感謝我的家人以及日文所的同學及朋友們。母親一向是最能理解並體 諒我的人,且與我同樣對日本文化充滿興趣,讓我鼓起圓夢念完日文研究所的勇 氣。母親在我大三時不幸過世,但若不是她在我生涯二十一年的陪伴與鼓勵,是 無法完成這個夢想的。感謝父親願意支持我念日文所以及前往日本交換的決定,
並且在經濟上支持我。感謝日文所的同學、學長姐及學弟妹們陪伴我,在研究所 的求學期間十分充實,是我最快樂的時光。感謝台北靈糧堂的小組長、小組員們 給我的精神支持及鼓勵。最後要特別感謝替我修正本篇論文日文的日文所學弟辻 明寿先生及其朋友寺田先生,與長久以來一直鼓勵我且幫助我完成英文大綱的好 友郁芳,謝謝你們的陪伴及幫助。
在碩士階段就選擇撰寫缺乏先行研究的題目雖然相當辛苦,但我從寫作過程 中,體驗到創作是非常重要的事,對我而言是非常寶貴的經驗,亦是無可取代的 人生體驗。雖然這篇論文仍有許多不盡完善之處,但希望藉此小小成果鼓勵想要 研究日本文化領域,特別是先行研究十分缺乏的領域的學弟妹們,去堅持完成自 己的夢想。
林書沂 2012.8.13
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中文摘要
從鐮倉時代起,因著武家政權的成立,武士在日本中世社會內扮演著主導性 的地位。而新興的武士階層為了留給其子孫教訓,或是規範家臣團,而開始撰寫 家訓。進入戰國時代後社會激劇變化,因此為了使其家族適應生存於戰亂的環境 而製作家訓的武士也隨之增多。另一方面,被稱為新佛教的禪宗的其中一支派臨 濟宗於鐮倉時代時傳來日本,成為武士思想的主體並在武士間被廣為信仰,而當 時日本的禪僧在思想上其實是「儒佛合一」式。進入戰國時代後,武將們發現到 在戰亂之世生存時人格修養的實用性及其必要性,因而武將們拜禪僧為師,藉由 儒學及禪學培養其人格修養。而在戰國時代的家訓中,儒學影響最深者即為甲斐 武田家的大名武田信玄 (晴信)之弟武田信繁所撰寫的「武田信繁九十九條家 訓」。
本論文以甲斐武田家為中心,探討武田信玄的中國觀及「武田信繁九十九條 家訓」之內容,辨明信繁家訓內所引用之儒學經典之原點。另外透過篩選出家訓 內引用了『論語』的條文,比較家訓條目本文及引用文之內容,藉由條目本文及 引用文原典意義上的落差,以及以上條目中所包含的內容,考察當時甲斐武田家 所受到的儒學影響的實態。從「信繁家訓」所反映出來的武田信繁的思想,再加 上戰國時代的社會背景,可以看出戰國時代武士為了保存其家業而積極吸收儒學 的態度。
關鍵字:甲斐武田家、武士家訓、儒學、臨濟宗、實用主義
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Abstract
During the Kamakura period, due to the rise of the samurai government, samurais gained leading roles in the political rulings of medieval Japan. Samurais, as new elites, began to compose family precepts for the upbringing and ruling of their offsprings and vassals. In the Sengoku period, Japan went through severe social-political changes, causing more and more samurais to compose family precepts, hoping to guide their family through the difficult political environment. Meanwhile, the “Rinzai school”
Buddism, a branch of the Zen sect of Buddhism, was introduced to Japan as “New Buddism” during the Kamakura period. The Rinzai school soon constructed the main beliefs in medieval Bushido, and was widely embraced by samurais. At that time, the mainstream discipline followed by Japanese monks was actually a mixture of Confucianism and Buddism. In the Sengoku period, samurais began to realize the pragmatical importance of the culturing of honor and virtue. Many of them then studied under Zen monks for the teachings of Confucianism and Buddism. Among all family precepts from the Sengoku period, the one most influenced by Confucianism was "The 99 codes of conduct of Takeda Nobushige," written by Takeda Nobushige, brother of the leader of the Takeda clan in Kai Province, Takeda Shingen (Harunobu).
This thesis explores the medieval Japanese interpretation of Confucianism by discussing the thoughts and beliefs of the Kai-Takeda brothers, with focuses on Takeda Shingen’s understanding of Chinese culture and the contents of The 99 codes of conduct of Takeda Nobushige. Quotes from the Analects of Confucius in “The 99 codes” were compared with the main teachings of Takeda Nobushige. Differences between Takeda Nobushige’s interpretation of the Analects of Confucius and its original meanings, along with the contents of Takeda’s teaching, reflect the Confucian influence on the
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Kai-Takeda clan. When placed in the social-political background of the Sengoku period, the thoughts and beliefs of the Takeda brothers indicate the assertive attitute samurais of the Sengoku period hold towards adopting Confucianism.
Keywords: Kai-Takeda clan; family precepts; Confucianism; Rinzai; pragmatism
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日本語概要
鎌倉時代から、武家政権の成立により武士階層が中世の社会の主導的な地位 を握った。新興した武士階層はその子孫に教訓を残し、また家臣団の規制のた め、家訓を作り始めた。そして戦国時代の入ると、社会が激しく変化し、家の 存続のため家訓を作る武士も増えた。一方、新仏教と言われる禅宗の一つの臨 済宗は鎌倉時代から日本に伝来し、武士の思想の主体になり武士の間に広がっ たが、当時、日本の禅僧は儒仏合一の思想を持った。戦国時代に入って、武将 は人格の修養の実用性と必要性を目覚め、禅僧を師とし、儒学と禅より必要な 修養を身につけた。そして、戦国時代における儒学の思想から最も影響を受け た武士家訓は甲斐武田家の大名武田信玄(晴信)の弟の武田信繁により作成し た「武田信繁家訓九十九カ条」であった。
本論は甲斐武田家を中心に武田信玄の中国観と「武田信繁家訓九十九カ条」
について検討し、信繁家訓おいて引用した儒学経典の原文とその出典を見当た った。さらに『論語』を引用した条目を選出し、条目の本文と引用した『論語』
の内容を比較して、条文と引用文と意味ずれ・及び『論語』を引用した条目が 説いた内容から、当時の甲斐武田家の儒学の受容の実態を考察してきた。信繁 家訓から反応した信繁の思想、そして戦国時代の社会背景にあわせて、戦国時 代の武士が家を存続するため、積極的に儒学を吸収する姿勢が捉えられる。
キーワード:甲斐武田家、武士家訓、儒学、臨済宗、実用主義
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目録
謝詞 ...i
中文摘要 ...iii
Abstract ...iv
日文摘要...vi
目錄...vii
序論 ...1
第一節 研究目的 ...1
第二節 先行研究 ...3
第三節 問題意識 ...13
第一章 戦国時代における儒学と武家の家訓の成立 ...15
第一節 戦国時代をめぐる儒家思想 ...15
第二節 甲斐における臨済宗の発展 ...24
第三節 戦国時代の武士思想及び武家の家法と家訓 ...32
第二章 甲斐武田と「武田信繁家訓九十九カ条」...40
第一節 甲斐武田家の成立と興衰 ...40
第二節 「信玄家法」-「甲州の法度次第」と「武田信繁家訓九十九カ条」.52 第三節 「信繁家訓」の問題点 ...61
第三章 「武田信繁家訓九十九カ条」における儒学の受容と伝播 ...68
第一節 信玄の中国観...68
第二節「信繁家訓」の儒学の受容 ...77
第三節 「信繁家訓」の影響 ...105
第四章 「信繁家訓」と他の家訓の比較 ...109
第一節「早雲寺殿廿一箇条」...109
第二節「朝倉敏景十七箇条」...116
結論と今後の課題 ...120
参考文献 ...122
1
序論
第一節 研究目的
日本は中国と地理的な位置が近いので、古くから中国の文化、思想の影響を 受けてきた。日本自身から生まれた神道とほかの国から伝わり、日本に根をお ろした仏教、儒教を加えて、日本文化を構成する三大要素となっている。
現在台湾や海外の日本儒学の研究の現状について考えれば、その研究は江戸 時代の儒学に集中している。江戸時代の儒学研究に比べると、台湾だけでなく、
世界中で他の時代の儒学思想を専攻する研究者が比較的に少ない。また、室町 時代末期(戦国時代)と安土桃山時代の文化の研究は、この時期より輸入して いた西洋の文化の影響との関連に集中しているように思われる。しかし、この 時期の武士思想について、西洋文化や思想からもたらされた影響の他、儒学思 想がこの時期にどのような役割を果たしているのか、また当時の社会でどのよ うな効用を発揮しているのかについては、あまり論及されていない。
戦国期の武士思想の研究では、家法と家訓の研究が一番重要なことだと考え られる。なぜならば、日本ではもちろん史料の価値が高い一代史の著作がある が、中国の「二十四史」のように正統として認められた史書がほぼ存在しない。
しかも江戸時代の『山鹿語類』、『葉隠』などのような、当時の武士が認めた理 想の武士の生き方を述べて作られた本もあまり見当たらない。そのため、家風、
或いは家主の武士としての生き方、器量を反映する家法と家訓は武士の思想の 研究には、なくてはならないものとされている。そして英雄を輩出した戦国時 代において、作成された家訓の中でもっとも儒教思想の影響が深いのは甲斐武 田氏の「武田信繁家訓九十九カ条」である。
さて、「信繁家訓」の成立については、過去では「信繁家訓」偽作説が存在し ていた。その理由としては、「信繁家訓」の奥書では「永禄元年(1558)戊午卯 月吉日」と書いたが、問題になるのは、「信繁家訓」の初出は史料として信憑性
2
が疑われ、江戸時代初期に作成された『甲陽軍鑑』である。このため、丸山真 男など研究者は「信繁家訓」は江戸時代の人の偽作と見ている。
「信繁家訓」の真の作者は誰なのかについて、先行研究によって以下の三つ の考え方がある。
1.「信繁家訓」は江戸時代の人が『甲陽軍鑑』に信繁の名を仮託して作られ たものである。すなわち信繁家訓偽作説である。
2.「信繁家訓」の序文の作者竜山子が信繁のために家訓全文を書いて、信繁 の同意を得て、信繁の名によって公表したものである。
3.「信繁家訓」は序文を除いては信繁本人が作成したものである。
しかし家訓の研究が進むと共に、中沢見明氏はよく伝わっている『甲陽軍鑑』
本(流布本)と『群書類従』本のほかに、四日市の堀木忠良氏所蔵の古本を紹 介し1、のち桃裕行氏の研究によってその存在を広めた。「信繁家訓」の版本につ いては本論の部分で論及するが、とりあえずこの堀木本は流布本とは別の系統 ということで、「信繁家訓」偽作説が否定できる。本稿は小沢富雄氏の『増補改 訂武家家訓、遺訓集成』に収録されていた「信繁家訓」と他の武家家訓をテキ ストとして、この主題を考察したい。
1桃裕行「武田信繁家訓について」『武家家訓の研究 桃裕行著作集 第三巻』(京都市:思文閣、
1988 年)P.287。なお桃氏がこの一文で特に堀木本を紹介する理由は、今までは堀木本が校訂に使 用されたことは絶えて見ないと言う(P.289)。
3
第二節 先行研究
前に述べたように、この時代の儒教思想の研究は盛んでなく、先行研究の資 料も少ないことから、このテーマについての先行研究は、大体は武田氏の研究・
家訓の研究・武士思想の研究(儒教の部分を含む)三つの分野に分け、それぞ れの互いに結びつく部分が存在するが、三つの分野を互いに結びつける先行研 究の論考があまりない。以下は本稿と深く関わった先行研究を分野に分けてそ れぞれ分析したい。
(一)中世の儒教思想について
足利衍述の『鎌倉室町時代之儒教』と和島芳男の『中世の儒学』はこの分野 について、もっとも重要な研究と見られる。過去の中世の儒学研究の本はほぼ 固定的な階層について探求したが、足利の一書は初めに全面的中世において各 階層と地域の儒教思想の受容の状態を論じ、中世儒学の研究を集大成し、大変 貴重な資料とも言われる。後世の研究もよく足利の研究から継いだもの、また は指摘したものになる。しかし甲斐武田家の一節で信玄の儒教の教養の深さを 論じるが、内容はほぼ渡辺世祐の一書に被り、信繁の部分は「信繁家訓」の中 で儒教との関わりのある部分のみを羅列した。
川瀬一馬の研究は中世の禅林の儒教の受容を主として、「日本で論語がどのよ うに読まれたか」の一文に各時期日本に伝わった『論語』の版本と『論語』の 受容についてを考察し、室町後期に出版された『論語』と『孟子』はまだ古注 を使っていたが、『大学』、『中庸』は新注を使ったという結論を得た。さらに中 国の宋学と禅僧によって伝わった儒学の性格が異なった部分を指摘し、中世に おいては新注が普及していなかった理由は武士と禅僧に対しては古注だけで足 りると感じ、特に新注を普及する必要性がないと考えた。しかし本稿は以上の 論述について具体的な例を挙げない。
4
和島芳男の『中世の儒学』は足利と川瀬の研究を踏まえながら、その研究と 学界の定説の中の間違った部分を指摘し、中世宮廷・禅林・博士家の儒学の宋 注の受容の実態を明らかにした。彼の説で一番強調しているのは、博士家が漢 注しか取らない通説は大いなる誤りであった。特に最も注目すべきなのは、和 島は室町時期の博士家である清原家の活動について考察し、応仁の乱の後で家 を継いだ清原宣賢(1475-1550)は博士家の危機の乱世において、精一杯清家の 学の生存の道を開いた。彼は四書を整備し、宋代の両程子を崇敬して、その抄 物には漢代の古注と朱子・両程子新注を併用し、儒学・神道・仏教を統合して 独特な清原家の学問を形成した。しかも彼ものち越前に下り、当地の大名朝倉 家の本拠地の一乘谷に新注の儒学の書を進講した。しかし和島の一書は禅僧に より宋注の伝播については九州あたりで活動していた桂庵玄樹(1427-1508)な ど禅僧と足利学校しか言及しないのは惜しい。
のちに成立した市川本太郎の『日本儒教史(三)中世篇』の内容の排列の仕 方は、足利の一書を継承している。市川は「信繁家訓」だけでなく、「甲州法度 之次第」の中でも儒教との関わりのある部分が存在していると指摘した。具体 的な例は、「一、各恩地之事。雖有自然水旱之兩損、不可望替地。隨其分量可致 奉公、雖然於抽忠勤輩者、相當之地可宛給之。」など、市川は「この条文は水 害や旱ばつで損害を受けても替地は不可能である。然し忠勤にぬきでた者に対 しては相当の地が給せられるとのことを示す。これは亦儒教思想に基く者で忠 実に勤める者にはその恩賞が与えられる思想である。」2と説明している。しかし、
本書にも市川が「甲州法度之次第」の一部分の条目は儒教との関連性があるが、
それをあげるだけで儒教とはどんな関係があるかについては説明しない部分が ある。また他にも竜山子の序文の最初の部分を「甲州法度之次第」の第五十八 条と考えられ、「信繁家訓」の一部分の出典を間違えるという誤りがある。
2 市川本太郎『日本儒教史 (三) 中世篇』(東京:汲古書院、1992 年)P.432。
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(二)武士思想について
武士思想と儒教との関わりについての先行研究は、言及しなければならない のは和辻哲郎の『日本倫理思想史』と相良亨の著作である。時期的には和辻哲 郎の研究が一番早いが、和辻哲郎―相良亨の師承関係によって、ここでは、ま ず和辻の『日本倫理思想史』より少しだけ遅れた丸山真男の講義内容の『日本 政治思想史 1965』の中の第五節・戦国武士道の形成をあげたい。
丸山真男は戦国時代の家法によって、武士の思想はリアリズムを基調とする 一方、儒教倫理的な要素も現れている。特に戦国末期の家法・家訓はこの傾向 は前期より強くなると説く3。丸山真男も戦国時代の儒教は江戸時代の儒教と比 べて、同じく五倫五常を強調するほかに、儒教のもう一つ側面である革命的天 道思想や民本主義がより前面に出ていたと述べた4。しかし、丸山真男は「信繁 家訓」は「江戸時代に追補された部分が多い」5という角度から捉えるが、なぜ
「信繁家訓」は江戸時代の人の偽作と考えられるかについては言及しない。
和辻哲郎は『日本倫理思想史』で、「武士の獲得して身分の貴さが、武士に課 せられている当為的な要求、武士が実現すべきである道義的な優秀性に対応し ているという反省があった。(中略)そういう道義的な要求が、戦乱の間に漸次 強まって行って、ついに儒教と結びついたのであった」6と主張した。そして和 辻哲郎は『甲陽軍鑑』を一つ武士団体の内部における伝承を集成したものと考 えられる。「甲州法度之次第」と「信繁家訓」も『甲陽軍鑑』の一部として考え られるが、和辻は「信繁家訓」の作者は信繁か竜山子かとも可能性があり、そ の内容は甲州武士の体験から出たものではない。さらに「信繁家訓」は武田家
3 丸山真男『丸山真男講義録 第五冊 日本政治思想史 1965』(東京:東京大学出版会、1999 年)
P.201。
4 前掲丸山真男論文、P.203。
5 前掲丸山真男論文、P.202。
6 和辻哲郎『和辻哲郎全集 13 日本倫理思想史下』(東京:岩波文庫、1962 年)P.47。
6
中に行われるかについては明白ではないから、「信繁家訓」が必ず甲州武士に影 響を与えたとは言えない。従って、「信繁家訓」は「あくまでも「子息への異見」
として区別して取り扱う態度を取っている」と視し、「信繁家訓」だけが儒教と の結びつけを示し、それに対して『甲陽軍鑑』は戦国武士の体験談で、儒教の 思想から出たものではない、と和辻哲郎が述べている。しかし実際武田家と禅 僧の往来から見ると、「信繁家訓」の内容は必ず「甲州武士の体験から出たもの ではない」とは言えない、と筆者は考見て取れる。
相良亨は戦国時代の武士思想についての論述を彼の各著作のなかに散らして いる。彼の著作はいずれも、とくに武士の「ありのまま」の生き方を強調して いた。そして『甲陽軍鑑』は、このありのままの精神の体現と言える。また、
儒教については、相良亨は武士が国を治め天下を統一するため、儒教が説く正 心誠意修身治国平天下が必要となり、武士の指導原理となっていった。そのた め応仁の乱の後で各地で分散した五山の禅僧は武将の要求に応じて武将の師と なり、その上戦国末期の家訓は深く儒教への関心を示していると考えられた。
しかし、相良亨も「信繁家訓」を引用して7「引用句に対する理解の浅さを示す」
8と指摘し、これは逆に武士が実践の指針を儒教に求めるに急であったことを示 していると説いた。相良亨は「信繁家訓」のどこか引用句に対して理解不足の 証拠が挙げていないから、これについてはさらに考査の余地がある。
(三)「武田信繁家訓九十九カ条」の成立背景
武士思想を研究するために家訓は不可欠なものであるから、専門に家訓を研 究する論文はいくつか存在している。これらの論文は戦国時代の家訓をいくつ
7相良が引用したのは「信繁家訓」の第九十八条の前半部分:毎事不可油斷事。論語云、吾日三 省吾身。付縱雖在夫婦一所、聊不可忘刀事。
8相良亨『日本の儒教 II 相良亨著作集 2』(東京:ぺりかん社、1996 年) P.29。
7
も同時に論ずる傾向があるが、本稿は武田家の中心を研究するものなので、こ こでは「武田信繁家訓九十九カ条」の部分のみ取り上げている。
「信繁家訓」を研究する論文で、もっとも信憑性があるのは桃裕行の「武田 信繁家訓について」である。桃氏論文は「信繁家訓」の思想的な側面にあまり 触れないが、過去では「信繁家訓」の序文の作者の「竜山子」は誰のことなの かについては様々な説があるが、桃は「竜山子」の身分について細かく考察し た上、「竜山子」は妙心寺の僧春国光新という結論を得た。春国光新は伊勢安国 寺から出身し、元は五山僧であったが、のち甲斐に向かい信玄の信任を得て、
甲府長禅寺の第二代となり、関山派へ転派した。「竜山子」は身分が解明してい たのは「信繁家訓」の研究に対しては非常に大きな成果である、と筆者は思っ ている。
そして「信繁家訓」の本文については、桃裕行の「武田信繁家訓について」
の一文は元はこれを中心となったつもりが、原稿が焼失したことから代りに「竜 山子」の身分の考察が中心となり、本稿の部分は、ただ「信繁家訓」の引用文 の「語云」と「論語云」について考察するだけで、付録に「信繁家訓」の出典 考(未定稿)の形になってしまった。ここで注目すべきなのは、桃裕行の考察 によって「信繁家訓」に引用した格言に出典を一々つけたのは『甲陽軍鑑』の 作者の手によるもので、そして『甲陽軍鑑』に記録した内容(流布本)の他に 堀木忠良が所蔵する古本(堀木本)が現存する。この堀木本は流布本より比較 的善本で、堀木本の存在によって「信繁家訓」偽作説が否定できる、と桃裕行 は主張する。最近においては、小沢富雄『増補改訂武家家訓、遺訓集成』など の家訓について概説する本は「信繁家訓」についての紹介、説明などはほぼ桃 裕行の説に従っている。しかし桃裕行が本稿で言った通り、この一文は元家訓 内容の考察に作成されたが、その原稿が焼失されたのは惜しい。
8
桃裕行の他に、特に「信繁家訓」をあげて論ずるのは近藤斉の『総説・武家 家訓の研究』と佐藤和夫の『戦国武将の家訓』である。桃裕行の研究と比べ、
この二つの研究は思想的側面にも触れる。近藤斉の『総説・武家家訓の研究』
は「信繁家訓」が甲信統一の力となったような役割を捉えている。近藤斉の説 によると、信玄は二十四歳(天文十年、1541)の時、父信虎が暴政を行うため、
父を放逐し、さらに永禄十年(1567)、武田氏が内紛を起こした時に嫡子の義信 を成敗した。信虎は悪行を振る舞ったのは複数の史料に記載されていたから明 らかな事実であるが9、信玄自身は父放逐の行為に恥と思って、終身『大学』を 手にしなかったと言われる。そのため信玄は家法を作っても説得力がなくなり、
子孫に教訓を残せない立場になってしまった。そして勝頼、信豊はそのような 暇がなかった。しかし、家の精神的支柱と言われる家法がなければならないか ら、信玄は家法の部分のみを作り、その代りに信繁が武田家の家訓を書くので ある。従って、『甲陽軍鑑』が「甲州法度之次第」と「信繁家訓」を一緒に扱い、
いずれも信玄の精神によって貫かれていると考えている、と近藤斉は主張して いる10。また、近藤斉も「信繁家訓」の『論語』による出典をまとめて、初篇(学 而)に集中している傾向があると論じた。しかし近藤斉の研究は「竜山子」の 身分を間違っているなど、必ずしも完全に正しいとは言えない。
佐藤和夫の一書は「信繁家訓」の由来も桃裕行の説に継承し、その内容に主 君・両親・兄弟・朋友・下人の行動・自己の修養・戦場の行動を分類して述べ、
「家臣や僧侶・貴賤・老若を問わず、思いやり・いたわりと理解・尊敬・長幼 の序等が強調され、人間性のにじみ出る家訓である」11という結論を得た。しか し一方、本書では概論的な性格が強い上に、信玄と信豊12における不祥事を好都
9 「勝山記」『塩山向嶽禅菴小年代記』など当時の寺社の記載により、信虎は悪行を重ねるから、
甲斐の人民はみんな信虎追放のことに対して歓喜したと言われた。
10 近藤斉『総説・武家家訓の研究』(東京:風間書房、1983 年) P.118。
11佐藤和夫『戦国武将の家訓』(東京:新人物往来社、1986 年)P.133。
12天正三年(一五七五)の長篠の戦いで、信豊は早々に退却していたことについては「信豊が勝
9
合に解釈する傾向が見える。
(四)信玄の人物像
武田家についての研究の中で、本稿と関わるのは戦前の渡辺世祐の武田信玄 の文芸と修養に関する研究である。渡辺世祐の研究はしばしば後世の研究に引 用され、今日に至るまでその方面の研究における主導的な役割を果たしている。
渡辺世祐の『武田信玄の経綸と修養』の中で、本稿の研究と関わる部分は以 下である。渡辺世祐は最初に『甲陽軍鑑』の再評価を提唱した学者であり、そ の影響により、後世は『甲陽軍鑑』について再評価の動きが起こり、後の酒井 憲二・黒田日出男などの研究者も『甲陽軍鑑』の研究に力を注いだ。また渡辺 世祐の研究によると、信玄の禅宗(新仏教)に対する態度について、禅には臨 済と曹洞二派があるが、信玄は両派ともに深く帰依したとする。特に臨済派の 禅僧たちは信玄と深く交流し、信玄から深く信頼された。渡辺世祐はこの段落 で惟高、策彦、岐秀、快川など臨済派の有名な禅僧をあげ、彼らと信玄との交 流をそれぞれ説明する。その中の何名かは信玄に学問を教え、信玄も彼らのこ とを師として仰いだ。信玄の学問について紹介する章も信玄が幼いころから前 掲の禅僧たちに師事し、参禅しながら学問を修業したことを記す。しかも信玄 は自ら周易を学んで占いをし、孔子、孟子など儒教の聖人像を祭り、四書五経、
兵書にも熟達し、儒教が説いた仁義礼智信など諸徳を兼ね備える人である、と 快川など禅僧が信玄の仏事の散説に言っている。これらの内容は誇示する部分 もあるが、とにかく信玄の学問の造詣がよほど深かったということは間違いな い。従って信玄は禅に対しては信仰というより、むしろ修養、または学問とい う点から考える方が適当であると思われる、と渡辺世祐が言及している。他に も信玄が文芸を好み、詩と和歌をよく作り、十七首の漢詩を残している。しか
頼を守るため生き延びた」と解釈した。
10
し、渡辺世祐の研究はまだ足りない部分がある:まず渡辺が書信と文献など史 料を残さない部分の論証は『甲陽軍鑑』に頼りすぎる傾向がある。もちろん渡 辺も自らの観点を提出し、引用した『甲陽軍鑑』の段落の史料としての正しさ を主張したが、その一部分(特に信玄と禅僧の交流の実態)は後世の研究にお いて誤った部分を指摘された。この部分については野村長重が「武田信玄と関 山派の僧」一論にすでに指摘されおり、野村の指摘は第一章第二節の部分で論 述したい。それに渡辺の一文の焦点は全面的に信玄の人間像を考察することか ら、信玄の儒教思想についてはもちろん論及するがあまり深く触れない。
戦後の武田家の研究は、奥野高広の『武田信玄』一書は、信玄の人間像につ いて大体渡辺世祐の説に従っているが、この時期の儒教と朱子学はすでに関わ っていたという論点を提出した。本書の「信玄の民政と家法」の部分で、奥野 は南宋の禅僧は儒(朱子学)仏一致論者であるから、この二教をうけて帰朝後 は、世俗教化の方法として儒学を唱え、併せて禅僧を弘めたと言う13。そして朱 子学の政道観は人民個人意志は認めないことは戦国大名以後の武家政権の専制 政治の理念となり、信玄が禅僧に修学したのも儒学の教理にひかれた、と奥野 は主張した14。しかし、この部分も奥野の個人的な見解で、信玄が儒教の朱子学 思想に引かれた証拠を挙げていない。
なお、野村長重は「武田信玄と関山派の僧」一文で、信玄と往来した甲府五 山の禅僧について考察した。野村長重は具体的な証拠をあげ、『甲陽軍鑑』と渡 辺世祐のの研究の誤りを指摘し、信玄と関山派の僧の往来の状況を正しく論述 し、桃裕行の信繁家訓の考察も野村の説に従っている。しかしこの一文の考察 対象は『甲陽軍鑑』により信玄との往来が特に深い、または『甲陽軍鑑』には 言及しないが実際信玄と深く関わった禅僧で、「信繁家訓」の序文の作者竜山子
13 奥野高広『武田信玄』(日本歴史学会、1959 年) P.255。
14 前掲奥野高広論文、P.256
11
については考察の対象外なので言及していない。
先行研究の中では武田信玄と儒教の関連性を証明したものはいくつがあるが、
一番肝心な問題、つまり「信繁家訓」における儒教の取り方、また「信繁家訓」
は果たして兄の信玄と息子の信豊以外の武田家の武士たちに影響をもたらした のかはあまり触れられていない。「信繁家訓」の引用については必ずしも相良が 指摘した「理解の浅さ」ほどひどくはないが、その内容は経典の原義を離れて 引用することが存在した。従って、その内容についてはもっと深く考察する必 要がある。
本稿では問題点を解決するため、先行研究をふまえながら、以下の章節を展 開する。
儒教は日本に伝来後、時代背景により各時期で異なる容貌があった。日本の 中世は中国では宋から明の時期で、宋儒の新注も学問僧により日本に入ったの で、この時期の儒学は漢唐の旧注と宋元の新注が並行した傾向を示した。そし て武士は当時の儒学についてどのような考え方を持っていたか。従って第一章 は中世の儒教の状況、特に本稿の重点武田家の領地である甲府の場合と武士の 思想を反応する家法と家訓について論考したい。
第二章は本題の甲斐武田家に入り、まずは本稿の内容を論じる時、必ず理解 すべきいくつかの歴史事件について述べたい。その次に「甲州の法度次第」と
「武田信繁家訓九十九カ条」の内容、問題点について考察する。ただし儒学と の関わりの部分は本稿の中心になるものなので、儒学とのかかわりのある部分 は第三章でまとめたいと思う。
第四章は「信繁家訓」とほかの有名な戦国時代で作成した家訓を比較し、そ の共通点と相違点を考察したい。「信繁家訓」の比較対象について、室町後期・
戦国前期の後北条家の「早雲寺殿廿一箇条」・朝倉家の「朝倉敏景十七箇条」を 選ぶ。なぜならば、戦国時代における下剋上、強烈な競争の幕を開くのは北条
12
早雲(1432-1519)であった。つまり北条早雲の成功は戦国時代の幕開けとも言 えよう。早雲の家訓で一番深く見えるのは仏への尊敬であるが、「信繁家訓」と も一部分の共通点を持ち、その共通点は優れた戦国武士として必要なものであ ると考えられる。朝倉家の場合は、朝倉敏景(1428-1481)も実力者で、朝倉家 の基礎を築いた。その家訓は合理的な思想に基づいていることが一番大きな特 色で、実用性を重視した戦国時代の武士思想を如実に反映する。
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第三節 問題意識
問題点1 「信繁家訓」と儒学との関わり
「信繁家訓」の特徴の一つは、各条文が出典を明記していることである。そ の九十九条でもっとも多いのは『論語』出典の条目で、ほかにも『孟子』出典 の儒学思想に基づいた条目がある。また、経書では「書経」、「春秋左氏伝」な ど、史書では「史記」や「漢書」、兵書では「孫子」、「呉子」、仏書では「碧巌 録」「法華経」から出典した条目がある。全体的から見ると、儒学との関わりが ある条目はほぼ半数に近い。もちろんほかの大名の家訓でも儒学との関わりの ある条目がいくつか存在するが、「信繁家訓」より儒学の匂いがつよい家訓はな い。
そして周知のように、のちに成立した江戸幕府が統治の便宜性から儒教を取 り上げ、日本全土に普及させた。その時幕府が唱えた儒教は朱子学に基づいた が、もはや中国の儒教のとは異なっていた。なぜ日本の儒教の性格が中国の儒 教とは違うことになったかについては、後で論じる。日本の儒教は実用性を強 調しているという特色を持っている。宋儒は理を中心に理学を説いたが、それ に対して、江戸時代初期、儒学が官用の学として重んじた。近代儒学の祖の藤 原惺窩(1561-1619)が重んじた徳目は「誠」であり、特に上下の序をよく説く ことをしなかったが、その弟子の林羅山(1583-1657)の学説は封建的なものへ 偏向し、上下の序を強調した。言い換えれば、羅山の学説が江戸幕府に重用さ れた理由は、彼の学説が封建的階級体制を理念づけるものであった。
そうすると、一つの問題点が生じる。江戸時代より少し前の戦国時代では、
儒学を一体どのように捉えられたか。少なくとも「信繁家訓」の内容から見る と、第一条目はすでに「忠」を強調する条目で、また行儀作法による上下関係 を強める条目を多数に存在している。下剋上が盛んだ世の中に忠と行儀作法を 強調するのは、武田家の統治基盤を固くしたことは間違いない。信繁がこれら
14
のものを強調するのは武田家の権力構造との関わりがあるが、儒学経典に熟し、
それを家訓に大量に引用した信繁の儒学の捉え方は、当時の環境を応じて実用 的な捉え方で、日本の儒学と中国の儒学が異なる所である。第四章で他の家訓 との比較にも見えるように、この実用性を強調する考え方は信繁だけでなく、
変動が激しい戦国時代における優れた武士たちに共通の考え方である。
もう一つ面白い現象は、先行研究では武士が五山の禅僧が教えた朱子学に惹 かれたから、積極的に儒学を学んだと説いた。しかし、信繁家訓は『論語』の 内容を大量に引用したが、朱子学の天道思想があまり見つからない。 従って、
戦国武士は本当に朱子学に影響されたのか、もし影響を受けたならば、朱子学 はどのように影響を発揮したのかについては、もっと考察する必要がある。
問題点2 「信繁家訓」は信繁が誰のために作ったのか
この問題については、一般的には信繁の長子武田信豊(1549-1582)のために 作ったと考えられているが、信繁が晴信の息子の勝頼(1546-1582)のために作 成したという説もある。また、プライベートな性質を持った家訓をわざと漢文 で書いたことでプライベート性が弱まっていることから、「信繁家訓」は信豊を はじめ、武田氏の人々への全体的な教訓という役割を持つという説もある。ま た前述した通り、近藤斉は家訓が信玄のかわりに武田家全体のために作ったと 主張した。信繁が家訓を作成した動機は家訓の対象に関わることから、この部 分については本論で考察していく。
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第一章 戦国時代における儒学と武家の家訓の成立 第一節 戦国時代をめぐる儒家思想
中世儒学の特色の一つは、朱子学の伝来によって新注と旧注が並行し、また は神道・仏教思想を入り込み、多彩な姿を現すということである。朱子学は鎌 倉中期から学問僧によって日本に伝来したが、その時はまだ全面的普及せず、
後醍醐天皇の頃からようやく宮中で講学された。本節では博士家と禅林に分け て、それぞれ儒学の受容の状況を述べたい。
(一)博士家の儒学
従来の定説は中世の儒学について、よく近世の儒学の祖である藤原惺窩の日 本の儒学者への批判を引用し、その時期の博士家は漢代と唐代の旧注に拘って いると考えた。西村時彦も『日本宋学史』に、
家康が儒学をもつて覇業を羽翼せんとするに当りては、人材を博士の家に 求めずしてこれを草莽儒生にとり、もつて朝廷の学とその帰を同じくせざ らんことを欲せり。しかして博士家の死学よくなすあるに足らずして惺 窩・羅山の学よく明効を収むべきはまた家康の看破せしところ。
15と述べた。しかし和島芳男の清家学の研究によると、この定説は大きく間違え た。惺窩の儒学者への批判は下記のように示している。
戦国時代に生まれた儒学者藤原惺窩はかつて播磨領主赤松広通の意を承けて 四書五経に倭注を付けるため、日本に拘留された朝鮮儒者の姜沆(1567-1618)
と交流した。彼が姜沆に与える書簡には以下の内容があった。
日本諸家を言ふ者、古より今に至るまで、唯漢儒の学を伝へて、未だ宋儒 の理を知らず。四百年来其旧習の弊を改むることに能はず、却つて漢儒を 是とし、宋儒を非とす。寔に憫笑すべし云々。赤松公今新に四書五経の経
15 和島芳男『中世の儒学』(東京:吉川弘文館、1965 年) P.265。
16
文を書し、予に請うて、宋儒の意を以て倭訓を字傍に加へ、以て後学に便 せんと欲す。日本宋儒の義を唱ふる者、此冊を以て原本とす云々。16 従って古来の研究ではこの書簡より、この時期の朝廷の官学が唱えたの漢注 を取った儒学と考えられる。この書簡の内容について、惺窩が批判したのは朝 廷における大江・菅原二家の儒職17で、それに対して惺窩が儒学者として宋学の 領域を開いたのである、と辻善之助が指摘した。しかし、辻善之助は明経道の 清原家については言及しない。以下は中世の清家の儒学の展開を論究したい。
平安時代中期から官職の世襲が一般化になり、朝廷の博士家もこの時から世 襲になり、明経道は清原・中原家、紀伝道は菅原・大江家、この四家のほかは 藤原など有名な氏族ばかりが教官の職を占めた。しかし、この時から、これら 有名な氏族でも大学寮の衰退によって経典の伝授の職場が失い、貴族に恩顧を 求めるしか生存できなくなった。従って鎌倉時代に入っても博士家の学問が貴 顕の恩顧を得るものになってしまい、博士家の人々も学問の精進を求めず、た だ貴顕と幕府に学問を提供して、家学が進まなかった。
しかし室町時代では博士家の学問が沈滞した状況が変わった。その理由は、
博士家と禅林との学問交流と関わった。和島芳男の考察で博士家と禅僧が交流 した証拠を下記のようにあげた。
京都大学蔵清家文庫本『史記抄』二十冊(重要文化財)は桃源の抄十九巻 に『史記事実』一冊が加ったもので、一部は清原宣賢・同業賢父子の書写 と認められている。桃源がその抄本巻十九の末に記した文によれば、かれ も説は一条兼良や清原業忠(宣賢の祖父)から得たところのものであると いう。これは禅林と博士家との学問的交渉を物語るよき例証というべきで あろう。18
16 辻善之助『日本文化史 IV』(東京:春秋社、1960 年 )P.215。
17 前掲辻善之助論文、P.217。
18 前掲和島芳男論文、P.86。
17
上文の桃源瑞仙は相国寺出身の僧侶で、学問僧の他に一時期一条兼良
(1402-1481)・清原業忠(1409-1467)から指導を受けた。彼はよく典籍を講釈 し、講釈した典籍は仏書の『碧巌録』のほか、中国の経典の『周易』・『史記』・
『漢書』も含んだ。桃源の『周易』の講義は清原業忠から伝受した朱子の『易 学啓蒙』にもとづき、ひろく新古の諸注を参酌したものである、と和島芳男が 述べた。19彼の一部の学問は清原家から影響を受け、また『史記』の講義内容も 清原家の『史記抄』に収録されたことから、禅僧と博士家の相互影響が見えよ うである。
室町時代に入っても、博士家の状況については、朝議が衰退し、大学寮も整 備しないままで、名経・紀伝家は鎌倉時代と同じく大学寮教官として働くこと ができなかった。そのため、博士家の活動は家学の伝授になった。清原家の場 合では新注の影響が見えたのは清原業忠の時から始まった。業忠は清家中興の 祖と言われ、後花園天皇(1419-1470)に大きく信任された。彼は後花園天皇に 四書五経を進講した他、桃源・瑞渓など僧侶とは親交して学問を切磋琢磨した。
定説は博士家が『中庸』と『孟子』しか新注を取らないと言われたが、足利衍 述(1878-1930)の説によると、業忠の講義はすでに新注のいち部分を取ったと いう。
今門人天隠禅師が筆記せる、業忠の論語講義を取りて之を讀むに、恭畏の言 は吾を欺かざるなり。講義は古注を主として、朱子の集注を参取せるものな り。又臥雲日件録に、業忠が四書大全を珍重せし記事あり。建内記に、晦翁 集卅冊を業忠の許に送り、業忠讀了して返せし記事あり。桃源の百衲襖に、
業忠に朱子の易学啓蒙の講義を聴き記事あり。是に由りて、業忠が朱子の集 註及之を疏釈せる大全を精究せしこと、四書以外の朱子の著述をも讀破し、
19 前掲和島芳男論文、P.85。
18
講述せりことと知るべし。20
応仁の乱が起きた後、博士家の生存の場がもっと狭くなった。その理由は、
経典の講座は博士家が独占したものではなくなり、貴族・禅僧が宮中に講座を 開いたことが許容され、彼らはよく経典と文学作品の講座を開いた。そのため、
この時清原家の当主となった清原宣賢は家学を守るため色々な努力を試みた。
清原宣賢は吉田兼倶の子で、のち業忠の子の宗賢の養子となり、文亀三年
(1503)養父死去のため家督となった。彼は『論語集解』・『大学章句』・『毛詩 鄭籤』・『春秋経伝集解』などを抄写し、『大学』・『中庸』については新注、『論 語』・『孟子』については旧注をもととしてそれぞれ家の定本を作り、明経家の 四書を整備した、と和島芳男が指摘した21。宣賢が宋儒から受けた影響は『大学 聽塵』の奥書から窺える。
本注の大学・中庸は礼記にあれば鄭玄が注なり、漢儒は心理の学に闇くし て義理をも浅く見、本文の顛倒するを見分けずして置きしを、二程子の見 分けて注をして、文の前後することをも置きなほせり。
正しく孟子の道を伝ふる者は程子、二千歳を経て性学を知るは奇特なり。22 以上に述べたように、宣賢は大いに程子の学を薦める。彼が古注を主として とった『孟子抄』でも、
性とは人の天に受けて生きるるところの理なり云々、人の上においては性 といひ、天に在つては理といふ、これを理即性、性即理といふ、人の性は 本体善なり、世間の本性の悪き人あるは、みな気質の性のなすところにし て、性のなすところにあらず、(中略)ゆゑに性にはまったく賢愚の異なし、
気質によつて発するところの情に、はじめて賢愚は分かるるなり、ゆゑに 性といふは聖にあつて増さず、愚にあつても減せず、ただ同じ性なり、か
20 足利衍述『鎌倉室町時代之儒教』(東京 : 日本古典全集刊行会、1932 年) P.468-469。
21 前掲和島芳男論文、P.188。
22 前掲和島芳男論文、P.188-189。
19
くのごとく人の性は根本善なりといふことを孟子のいへるなり。
と朱子の集注の内容23を増補・細説した24。
享禄二年(1529)宣賢は出家し、何度も越前に向かい守護大名や僧侶のため に経典の講座を開いた。彼は天文十四年(1545)また越前に向かい、朝倉家(当 時の当主は朝倉孝景)の本拠地の一乗谷に経書を講釈し、のち帰京で『中庸章 句』の講座を開き、さらに後奈良天皇(1496-1557)に同書を進講した。ここに 注目すべきのは、彼は京で新注を講釈し、しかも天皇に進講したことになった。
彼の新注を積極に家学に取り込む学問は、息子の業賢と孫の枝賢に継いだ。こ こから博士家は新注に対しては否定的な立場ではなく、むしろ一部分を自分の 学説に取り込み、新・古注混合の学風を形成することが言えるだろう。
そして前に引用した藤原惺窩の書簡に戻ると、惺窩は自分が宋学の継承者と 自負し、当時の博士家を批判したのは決して清家の宋学への立場を知らないで はない。清原宣賢は元々は神道の吉田家から出身し、学説を説いた時も時代背 景によって禅僧に配慮され仏教の思想を加えたので、その学説は旧注と新注の 他、さらに神道と仏学の思想を融合した。それに対して、惺窩は終始排仏の立 場で、清家の神儒仏融合の学説を認めず、清家が仏学を儒学に取り込んだ態度 は宋儒の理に対して理解不足と考えられる。
(二)禅僧の儒学
周知のように、禅僧は宋代の新注の本を日本に輸入し、新注を講説したが、
これは彼らの個人的趣味によることではなく、実は儒道仏三教の交渉ないし融
23 朱子集注の原文は:「道,言也。性者,人所稟於天以生之理也,渾然至善,未嘗有惡。人與堯 舜初無少異,但眾人汨於私欲而失之,堯舜則無私欲之蔽,而能充其性爾。故孟子與世子言,
每道性善,而必稱堯舜以實之。欲其知仁義不假外求,聖人可學而至,而不懈於用力也。門人 不能悉記其辭,而撮其大旨如此。程子曰:「性即理也。天下之理,原其所自,未有不善。喜、
怒、哀、樂未發,何嘗不善。發而中節,即無往而不善;發不中節,然後為不善。故凡言善惡,
皆先善而後惡;言吉凶,皆先吉而後凶;言是非,皆先是而後非。」」
24 前掲和島芳男論文、P.190。
20
合という唐宋時代の中国思想史の大勢の一端が日本にも波及したものであった、
と和島芳男が説明した25。確かに禅僧が宋学を広めたのは宋学の儒仏二教を融合 した性格により、禅を広めるという目的性に基づいたのであった。
宋学を日本に伝来したのは俊芿(1166-1227)と円爾(1202-1280)と言われ る。俊芿は宋の禅僧の北磵、楼肪などと親交し、宋から二百三十六巻儒学の書 目を持って帰国し、徳大寺公継に経典を講じた。円爾は宋に無準師範(1177-1249)
など禅師に参禅し、のち帰国して北条時頼(1227-1263)に『大明録』26を講じ た。円爾など禅僧が儒道仏三教の合一論を日本に紹介し、儒学教養を持つ貴族 もこの説を自然に受け、禅の精神を宋学によって受容させた。
しかし残念ながら、禅僧は宋学を日本にもたらした功績があるといえども、
儒学に対する研究は儒仏一致論の境地に止まり、朱子の新注に対する研究もこ れ以上に進まなかった。その理由としては川瀬が指摘したように、中国と日本 における「禅」の実用性とその扱いが異なることである。禅に対する考え方に ついて、川瀬一馬は以下のように述べている。
唐が漢民族の古典の本質を究明しようとして努めた訓詁の学は、禅の発達 を促し、その禅が宋の士大夫に用いられた結果は、禅に指示されて、宋の 理学なる新しい哲学が生まれました。そして、新しい理学によって古典の 再解釈が行われたようになります。宋代の儒学者はそれこそが先王の道、
即ち古典の本質を解明したものと主張し、それをば新しい政治思想の典拠 ともしました。漢民族は自分が発明したものをその儘展開し発達させて行 くのですから、宋代の人々に宋学でなければ生き働きとはなりません。漢 唐の古註による解釈は既に全く歴史的な遺物に過ぎません。忽ち見捨てら れてしまうこと、前代の法律文と同様であります。
25 前掲和島芳男論文、P.69。
26 和島によると、『大明録』は南宋の居士奎堂が初心者のために儒道仏三教の類似点をあげつつ 仏教の要義を説いたもので、その儒教に関する部分には二程子の説を多く引いている。前掲 和島芳男論文、P.67。
21
また、宋の社会といたしましては、宋の理学が発明された以上は、禅なる ものは、いはば一時的な借り物であって漢民族自身の立場における人間本 性の会得の道は、宋学に拠るべきものであると考えるのは当然であります。
(下略)
我が国の場合は、僧侶なる禅僧が武家に対して指導者の立場にあった関係 から、武士の人間修行は禅でよろしかったのであります。禅から脱脚して 宋学になる必要はありませんでした。また、漢民族の古典(漢籍)を教養 を資とする場合においても、日本民族として一応人間の道を会得できさえ すれば、その本文の解釈を漢唐の古註によって理解するとこで不都合はな かったのであります。(下略)
禅僧が武家を教導する場合に、人間の本性を会得させるには禅の修行法に よりましたが、武家が人間世界で生活を整えて行く対人関係の具体的な道 徳律は、漢籍の内容を補助として用いました。そして、それらの漢籍の読 解は伝統的な漢唐の古注による訳読んで足りたのであります。禅僧がまだ 宋儒の古典注解(新注)を読みこなし得なかったということもあるかもし れませんが、鎌倉武士も禅僧も、日本民族の社会に生きるものとしては、
それでよかったのであります。もし必要性があれば新註は早くに行なわれ たと思われます。27
禅僧・武士の禅に対する扱いは、室町時代に入ってもあまり変わらない。従 って、新注は早めに鎌倉時代に日本に伝来したが、『論語』・『孟子』の新注書が 出版されたのは江戸初期の寛永三年(1626)の出来事であった。つまり室町・
戦国時代は、新注はまだ武士階層に普及しないと思われる。
応仁の乱の後、京都が戦乱に浴びたため、学僧が京都から離れ各地に行き、
27 川瀬一馬「日本で論語がどのように読まれたか」『大東急記念文庫文化講座講演録 論語』(財 団法人大東急記念文庫、1974 年) P.82-83。
22
朱子学も学僧によって地方へ広げ、地方の学問を興隆させた。そして元々は京 学五山派の一部分の僧侶が地方に向かい、別派の学問を開いた。特に有名なの は西日本の薩南学派と土佐の海南学派であった。薩南学派は桂庵玄樹が薩摩の 島津忠昌(1463-1508)に招かれて開いた学派で、その特色は古注をまったく排斥 し新注だけ講じたことであった。足利衍述はと島津忠昌は桂庵の学説を用い、
薩摩武士を陶冶し、間接的に純朱子学を薩摩の国に広がると思われる。海南学 派はまず南村梅軒(生没年不詳)が守護吉良宣経(生没年不詳、戦国時代の武 将)に仕え『中庸』の道を勧めたが、宣経が亡くなった後宣経の子の宣直が讒 言を信じたから梅軒がやむを得ず去った。後三叟と言われる忍性・如淵・天質 が長宗我部元親に招かれ儒学を講じ、海南学派を維持した。しかしここで注目 したいのは、薩南・海南学派が新注を成功に広げた理由の一つは、元々薩摩・
土佐は博士たちには興味なく、古注学も流行らなかった地域であった。従って これらの古注にあまり影響を受けなかった地域は新注を唱えた禅僧の独擅場に なったことが出来た。
次に足利学校について述べる。足利学校は学生を僧の形式として招き、学生 は禅僧の生活を送り、四書・六経・『史記』など中国の典籍を教えられる。そし て足利学校が採用した注については、『易学啓蒙通釈』・『周易伝』・『書経集注』・
『礼記集説』など新注書を収めたこと、と戦国期学校の痒主として勤めた九華 の書写したものを見つかったから、戦国時代の足利学校は古注本を採りながら 新注を一部分を取り入れる、と和島芳男が述べた28。なお足利学校と他の儒学学 派とは一番異なる所は、足利学校は特に易学を重んずるであった。その理由と しては、禅僧はよく地方大名の所へ向かい、その大名と家臣を教育したが、地 方大名にとって戦争の前に卜筮したのは大事なことであるから、禅僧は卜筮を 学校で学び、武家に仕官して出世できると思われる。川瀬一馬も『足利学校の
28 前掲和島芳男論文、P.246-247。
23
研究』に、
学校の事実上の教学目的は易筮であり、しかしてその修業者は業成って郷 に帰るや、武家のために易筮を行い、軍配を見、かつまた兵書を講じ、そ の兼才ある者は医療をも施すなど、いわば軍事顧問的役目を果たしたもの と考うべきであるから、学校の存在意義もまたさらに重要性を加えるもの といわなければならない。
29と指摘した。これは当時の禅僧が儒学の実用性を重視した証拠とも言えよう。
従って、足利学校の目的は上杉憲実が学校を振興した時と変わり、易筮ができ る軍事顧問の養成になってしまったから、経学の面においては新注を広げた学 風を創造できなかった。
以上に述べたように、禅僧は宋学を日本に伝来された功績が大きいが、一方 禅僧は漢唐の古注だけで足りるという考え方を持っていたので、宋学と新注は この時代には旧注と並行したが、江戸時代になるまではそこまで全面的な普及 ではないと思われる。確かに薩南学派の禅僧など一部の僧は新注を重んじた傾 向があるが、その影響力はただ彼らが活動した地域に限ったように見受けられ る。
29 前掲和島芳男論文で、和島が P.251 に引用した内容である。
24
第二節 中世甲斐における臨済宗の発展
鎌倉、室町時代の儒学の発展は仏教と結びついていた。甲斐武田氏の仏教信 仰については、大名であった信玄は神道の神社と往来しながら、旧仏教(天台・
真言)と新仏教(臨済・曹洞)ともに深く信仰した。野村長重の「武田信玄と 関山派の僧」の一文では、
如此何れ(仏教)の宗旨たるを問わず広く崇敬し保護したのであるが、こ れら(天台・真言・曹洞)は何れも祖先よりの歴史的関係によるものであ る。それでもこれらの信仰に依り修養を得たるものも少なくなかつたであ らうが、彼が一世の英雄として打出せられたるは、実に臨済(特に関山派)
の諸英衲の炉韛にて受けたる鉗鎚によるといふべきである。30 と言われた。桃裕行の一文も、
信玄の代になって新たにその信仰の中心となったのは、禅宗の中の臨済宗、
又その中の関山派の諸僧との関係であった。31
と述べている。さらに信玄は甲府の近くにいる妙心寺派の長禅寺・東光寺・能 成寺・三箇寺・円光院を府中五山として定めた。従って、鎌倉時代から室町時 代において盛んに発展した甲斐の臨済宗の歴史とその発展を述べたい。
臨済宗は中国唐代において臨済義玄(?-867)が始まった。宋代になると(日 本では鎌倉時代)、臨済宗は栄西(1141-1215)ら学問僧によって、中国から日 本へ伝わったと言われている。甲府における臨済宗の発展では、最初に発展す るのは恵林寺であった。甲府恵林寺は妙心寺派の寺院の一つで、鎌倉時代末期 から室町時代初期において臨済宗の禅僧夢窓疎石(1275-1351)が恵林寺を開山 した。武田氏は甲斐守護家ということから、当時の大名武田信武(1252-1359)
30 野村長重「武田信玄と関山派の僧(上)」『歴史地理』第 71 巻 2 号、P.26。
31 前掲桃裕行論文、P.291。
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が恵林寺の檀那であった。室町時代における恵林寺の実態を記載する史料は少 ないが、残された住持の任命の史料によると、室町時代では恵林寺の住持と命 じた僧は夢窓門下の僧のほか、別の法系の僧もいるので、恵林寺と夢窓派との 乖離が進行して、のち衰退していた。
続いて、武田信玄と信繁にもっとも影響を与えたのは関山派(妙心派)であ った。妙心寺は花園天皇(1297-1348)の命令により、京都で関山慧玄(1277-1360)
が開山された。しかし史料で確認された関山派と甲斐武田氏との関わりは信玄 の代から始まっていた。信玄は禅を参究するため、甲斐国内・国外の臨済の有 名な僧を招き、その中で鳳栖玄粱・岐秀元伯・快川紹喜など関山派の僧も含ま った。天文十年(1541)、信玄は荒廃していた夢窓派恵林寺を再興して、鳳栖玄 粱・月航玄津・天桂玄長を招いて恵林寺に留まり、鳳栖玄粱が恵林寺の住持と なった。このことから、恵林寺は夢窓派から関山派となった。
恵林寺の他には、長禅寺など関山派の寺院も武田氏との関わりがあった。長 禅寺は夢窓派の寺院であったが、信玄の代では甲府に移転され関山派の寺院と なった。信玄の生母は亡くなった後、長禅寺殿などの院号で呼ばれ、その仏事 は恵林寺のほか、長禅寺の住持も参加していた。現存する史料により、天文二 十三年(1554)岐秀元伯が長禅寺の住持として三回忌に参加した。岐秀元伯が亡 くなった後、春国光新(?-1575)が長禅寺の住持となった。
『甲陽軍鑑』の品第四は信玄と新仏教・有名な禅僧との関わりを記載してい る。ここでは臨済宗との関連のある部分を取り上げて考察する。
信玄の玄の字は、大唐にては臨済義玄なり。日本にては関山恵玄の玄の字 を付けまゐらせられ候。これは都妙心寺派の岐秀和尚つけ給ふ。即ちこの 和尚の下にて『碧巌』七の巻まで参禅なされ候。岐秀御異見には、「罷参は 必ず御無用たるべし。悟道発明ありて隠遁の心など出来候へばいかが」と 仰せらるる故、罷参はなされず候。(p.95)
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信玄公菩提の宗旨は、禅宗妙心寺関山派にてまします故、快川和尚・春国 和尚・説山和尚・速伝和尚、若き僧には鉄嘴・鉄山・南化・高山、この衆 よき長老なり。右のうち鉄山は駿河臨済寺に住宅なり。速伝和尚は信濃に て寺を遣はされ、鉄嘴和尚も信州諏訪にて寺を遣はされ、南化長老は恵林 寺後住なり。(p.96)
さてまた甲州にて関山派の寺多しと申せども、先づ恵林寺・長禅寺なり。
信玄公御若き時分は、都五山の惟高和尚恵林寺に御座候。この恵林寺は夢 窓国師の開山なり。山門の左右に桜を二本植ゑ、両袖と名付け、「この桜の ある間は恵林寺も長久ならん」と夢窓国師の御申し置きなり。
上条法成寺には洛外嵯峨の策諺和尚御座候。(中略)この寺(法成寺)に策 諺和尚五年の間住みなされ候。その時分は信玄公いまだ御宗旨定りなし。
ある時信玄公、惟高・策諺両和尚へ尋ね給ふは、「我が家そのかみは天台宗 ときく。この二、三代已前より禅宗曹洞宗なり。我等はまだ存ずる子細候 間、済家の参徒に罷りなるべき」と仰せられ候へば、両和尚答へて、「それ は尤もしかるべく候。しかしながら我等門派の五山は、京・鎌倉とともに 仏法破滅故、学問は門中にて仕つり、未来のために参学をば大徳寺、妙心 寺へ立入り申す」由仰せられ候。信玄公聞こし召し、「大徳寺、妙心寺、仏 法いづれ勝劣ぞ」と御尋ねあれば、両和尚御返事には、「仏法に上下はこれ なく候へども、妙心寺は道、学ともに御座候。ことさら仏法ちとけはしく 候。ただし大徳寺は不立文字をたて候。一入道がつよき故か、妙心寺の衆 も我が派中の参禅果たして後、紫野大徳寺の参禅五十則ほど仕つるげに候。
いかにも大徳寺は、参がこまかなるよし承る。ただし入室、説禅など仕つ りたる躰たらくはけはしきこと、妙心寺関山派の様子いさぎよく候間、太 守の御用ひには妙心寺派御尤もたるべき」と惟高・策諺両和尚の教へまゐ らせられ候は、甲州に長禅寺とて妙心寺派の寺あるによりこれを幸ひとあ