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第四章 「信繁家訓」と他の家訓の比較

第二節 「朝倉敏景十七箇条」

「朝倉敏景十七箇条」は「早雲寺殿廿一箇条」と共に戦国初期の代表的な家 訓とも言われる。敏景が活躍した頃は応仁の乱のあたりで、時代的にはまだ戦 国時代とは言いかねないが、その家訓から敏景の思想を見れば室町時代の武士 とはまったく違う戦国時代武士の思想の特色が見えるから、「朝倉敏景十七箇条」

は戦国時代初期の家訓と言ってもよい。今では「朝倉敏景十七箇条」の伝本が 数多く残されたが、これらの伝本は江戸時代の人による作で、偽作として考え られる人もいる。また一部分の学者は敏景と禅僧の往来から、家訓は禅僧が敏 景に頼まれて作成したと考えたが、敏景の評価から見ると彼自身は儒学と仏学 の教養とも持っているから、家訓は禅僧の代作とは言い難い。「朝倉敏景十七箇 条」の成立年代については、「早雲寺殿廿一箇条」と同じく不明であったから内 容から推測しかできない。家訓の最後には「入道一箇半身にて不思儀に国をと りより以来(下略)」一句により、敏景が出家した文明十一年(1479)後と考え られる。

元々、朝倉氏は甲斐氏と同じ越前守護斯波氏の被官で、敏景は正長元年(1428)

に生まれた。長禄二年(1458)守護である斯波氏当主斯波義敏(1435-1508)と 守護代甲斐常治(?-1459)が対立し長禄合戦を行い、敏景は甲斐常治の方に支 持した。その結果斯波義敏が破られ中国の大内氏に頼り、斯波義廉が斯波氏家 督となり、敏景も功によって地位を高めた。その期間敏景が越前の豪族と戦い、

越前の統一に着手した。応仁元年(1467)応仁の乱が起こり、敏景は最初主家 の斯波義廉(生没不詳)を協力して西軍として活躍したが、東軍の細川勝元

(1430-1473)が敏景と密約して越前守護職と約束したため、敏景が東軍に寝返 り、甲斐氏を破り、ようやく越前一国を掌握し越前守護となり、朝倉氏の基礎 を築いた。文明十三年(1481)で亡くなり、享年五十四歳であった。

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敏景が若い頃から朝倉氏の勢力を強がるため積極的に荘園の兼併を行われ、

しかも手段も強引で激しいから、当時の公家と寺社に恨まれた。当時の公家の 一人甘露寺清長の日記『親長卿記』によると、

文明十三年八月

十日(中略)近日聞、朝倉弾正左衛門於越前死去云々、為惣別珍重歟、天下 悪事等始行張本也。90

と、敏景のことを「天下悪事始行の張本」と評価していた。また、佐藤和夫 の引用によると、奈良興福寺大乗院尋尊という僧人は「荘園押領の中で最も苛 責ない強引さを示したのは、細川勝元と朝倉敏景であった。前々からこの二人 に罰があたるように神に呪詛していたが、神は今日はじめてその願いをきき届 けてくれ、細川勝元は死んだ。ありがたい神の思召である」と述べている91。し かし、以上の評価は公家と寺社など敏景の荘園兼併の行動により利益を損じた 既得利益階級の評価にすぎない。逆に、敏景の孫である宗滴は、「英林様の一生 は奇特で、臨機応変のお考えはわかりかねることが多かったが、第一に慇懃を もって国を治められたということを老臣たちがよく物語っていた。家臣たちへ は申すに及ばず、百姓町人のような者にまで、御懇切の文面や宛所など丁重す ぎる位であったので、命を惜しまず味方をするようになったそうだ」92と高く評 価していた。また『朝倉始末記』も、敏景が仁徳を備え家臣と兵卒を誠に接し、

従って兵士は敏景に忠を尽したという。また月舟寿桂(1470-1533)が敏景の三 十三年忌に、敏景について「英林居士、智名勇功、三軍服命、仁風義氣、為人 望塵云々、運籌策韜略蟠胸、問禮樂論孟遮眼云々。」93と評価し、敏景が知略を 持ちながら『論語』・『孟子』など漢籍を愛読することがわかる。

「朝倉敏景十七箇条」は漢文と仮名文が混ぜた文体で、戦国武将の家訓にお

90『增補史料大成親長卿記二』(京都:臨川書店、1965)P.122。

91 佐藤和夫が以上の内容を引用したが、原出典を表示していない。前掲佐藤和夫論文、P.36。

92 前掲佐藤和夫論文、P.38。

93 前掲足利衍述論文、P.789。

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いて、もっとも実利を重んじた現実主義と合理主義を反応する家訓である。そ の家訓の中心は、ほぼ国の治め方に集中している。家訓の第一条と第二条は以 下の通りである。

一、於朝倉之家宿老を不可定。其身の器用忠節によりて可申付之事。

二、代々持来候などとて、無器用の人に団并に奉行職被預間敷事。

この二条目は家臣の任命について、伝統的な世襲化・及び年功序列という傾 向を避け、その人の実力と忠節だけを基準とする。それにこの二条を最初に置 いたのは、敏景に対しては有能な人材の登用は国主としての第一要務と考えら れる。しかし、敏景が家臣に有能と要求すると同時に、家臣の忠節も要求し、

この時代の大名に対して配下の忠誠は重要であるという事実を示した。

また第十三条は、

可勝合戦可取城攻等の時、吉日を選び、方角を考て時日を移事甚口惜候。

如何に能日なるとて、大風に船を出し、大勢に独向はば、不可有其甲斐候。

仮令難所悪日たりとも、細かに虚実を察て、密々に奇正を整て、臨機応変 して、謀を本とせば、必可被得勝利事。

この一条は敏景が実利性を重んじ、迷信反対の態度を示した。丸山真男は、

この一条は儒教的な「道」と最も鮮明に区別される「武士道」の特色がここに 示されている、94と指摘している。この精神も孫の朝倉宗滴に継承し、『宗滴話 記』に「武者は犬ともいへ畜生ともいへ、勝事が本にて候事」という内容で、

戦争においては実利を第一として考える態度が明らかである。

なお、敏景の荘園兼併の行動寺社の僧の怨みを買ったにも関わらず、彼自身 は逆に神仏への信仰を重視した。家訓の第十六条は、「神社仏閣并町屋等を通ら れむごときは、少々馬を留めて、奇麗なるをば聊称美し、破損せるをば稍恵憐 の詞をも加てられ候はば、到らぬ者共は、御詞を懸りたるなどとて、悪きをば

94 前掲丸山真男論文、P.187。

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早く改め、能は弥可相嗜候乎。然れば造作も不入して、見事に持なす事も、専 可依主君の一心候事」であった。つまり、敏景の荘園・寺院の土地兼併の行動 は神仏不信に基づいたのではなく、ただ神仏への信仰より実利を重んじただけ であろう。足利もこの一条について、「是れ君は常に民と接触を保ち衷心より導 かば民自ら善に趨くを説けるものにして、孔子の「君子徳風、小人徳草、草尚 之風必偃」の教えに合せり。」95と評価している。

なお、家訓の最後の部分で、「たとひ賢人聖人の語を学び諸文を学したるとも、

心へんくつにては不可然。論語などに君子不重時は威なしなどとあるを見て、

ひとつに重きと計と心得てあしかるべく候。重かるべき軽かるべきも、時宜時 刻によつてふるまひ肝要也」と述べているが、決して『論語』の教えを否定す るわけではなく、逆に『論語』など典籍が説いた内容については意味を深く考 え、時宜に合える教えを従うべきという姿勢を取り、敏景の教養の深さを示し ている証拠の一つとも言えよう。敏景が儒学への真面目な態度はその後の朝倉 家の家督たちに継承され、教景の代に至っては、朝廷の博士の清原宣賢が教景 に招かれ一乗谷城に講学し、越前の儒学を興隆させた。

「信繁家訓」の中心は忠と礼に対して、「朝倉敏景十七箇条」の中心は実利と 合理主義である。しかし、こういう差を作り出すのは信繁と敏景の身分が違っ たということで、武田氏の重臣である信繁に対しては、忠を大事にして子孫に 説くのは武田氏の家族内部の団結のためであり、家臣として忠を説くのも大名 に実利をもたらしたことであった。つまり戦国時代の武士は、その身分と環境 によって自分の利益に合う理念を説き、または他の思想を取り入れるが、その 背面には実用性という共通的な背景を持っている。

95 前掲足利衍述論文、P.789。

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結論と今後の課題 一、結論

以上の論考から見ると、戦国の武士にとって一番大事なものは、やはり乱世 に生存することであり、このような実用主義の考え方に基づき、道徳を求めた のであった。そして儒学の「忠」「礼」を強調する側面は鎌倉時代から残った「御 恩」と「奉公」の武士精神とは共通性を持ち、儒学思想を借りて武士の規範と することは戦国大名の家の結束・団結には有利である。

「信繁家訓」と他の戦国武将の家訓が特色と着眼するポイントが異なってい るが、共通的な思想も見える。その共通点こそ乱世に生き残るために、必要な

「信繁家訓」と他の戦国武将の家訓が特色と着眼するポイントが異なってい るが、共通的な思想も見える。その共通点こそ乱世に生き残るために、必要な