第二節 先行研究
前に述べたように、この時代の儒教思想の研究は盛んでなく、先行研究の資 料も少ないことから、このテーマについての先行研究は、大体は武田氏の研究・
家訓の研究・武士思想の研究(儒教の部分を含む)三つの分野に分け、それぞ れの互いに結びつく部分が存在するが、三つの分野を互いに結びつける先行研 究の論考があまりない。以下は本稿と深く関わった先行研究を分野に分けてそ れぞれ分析したい。
(一)中世の儒教思想について
足利衍述の『鎌倉室町時代之儒教』と和島芳男の『中世の儒学』はこの分野 について、もっとも重要な研究と見られる。過去の中世の儒学研究の本はほぼ 固定的な階層について探求したが、足利の一書は初めに全面的中世において各 階層と地域の儒教思想の受容の状態を論じ、中世儒学の研究を集大成し、大変 貴重な資料とも言われる。後世の研究もよく足利の研究から継いだもの、また は指摘したものになる。しかし甲斐武田家の一節で信玄の儒教の教養の深さを 論じるが、内容はほぼ渡辺世祐の一書に被り、信繁の部分は「信繁家訓」の中 で儒教との関わりのある部分のみを羅列した。
川瀬一馬の研究は中世の禅林の儒教の受容を主として、「日本で論語がどのよ うに読まれたか」の一文に各時期日本に伝わった『論語』の版本と『論語』の 受容についてを考察し、室町後期に出版された『論語』と『孟子』はまだ古注 を使っていたが、『大学』、『中庸』は新注を使ったという結論を得た。さらに中 国の宋学と禅僧によって伝わった儒学の性格が異なった部分を指摘し、中世に おいては新注が普及していなかった理由は武士と禅僧に対しては古注だけで足 りると感じ、特に新注を普及する必要性がないと考えた。しかし本稿は以上の 論述について具体的な例を挙げない。
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和島芳男の『中世の儒学』は足利と川瀬の研究を踏まえながら、その研究と 学界の定説の中の間違った部分を指摘し、中世宮廷・禅林・博士家の儒学の宋 注の受容の実態を明らかにした。彼の説で一番強調しているのは、博士家が漢 注しか取らない通説は大いなる誤りであった。特に最も注目すべきなのは、和 島は室町時期の博士家である清原家の活動について考察し、応仁の乱の後で家 を継いだ清原宣賢(1475-1550)は博士家の危機の乱世において、精一杯清家の 学の生存の道を開いた。彼は四書を整備し、宋代の両程子を崇敬して、その抄 物には漢代の古注と朱子・両程子新注を併用し、儒学・神道・仏教を統合して 独特な清原家の学問を形成した。しかも彼ものち越前に下り、当地の大名朝倉 家の本拠地の一乘谷に新注の儒学の書を進講した。しかし和島の一書は禅僧に より宋注の伝播については九州あたりで活動していた桂庵玄樹(1427-1508)な ど禅僧と足利学校しか言及しないのは惜しい。
のちに成立した市川本太郎の『日本儒教史(三)中世篇』の内容の排列の仕 方は、足利の一書を継承している。市川は「信繁家訓」だけでなく、「甲州法度 之次第」の中でも儒教との関わりのある部分が存在していると指摘した。具体 的な例は、「一、各恩地之事。雖有自然水旱之兩損、不可望替地。隨其分量可致 奉公、雖然於抽忠勤輩者、相當之地可宛給之。」など、市川は「この条文は水 害や旱ばつで損害を受けても替地は不可能である。然し忠勤にぬきでた者に対 しては相当の地が給せられるとのことを示す。これは亦儒教思想に基く者で忠 実に勤める者にはその恩賞が与えられる思想である。」2と説明している。しかし、
本書にも市川が「甲州法度之次第」の一部分の条目は儒教との関連性があるが、
それをあげるだけで儒教とはどんな関係があるかについては説明しない部分が ある。また他にも竜山子の序文の最初の部分を「甲州法度之次第」の第五十八 条と考えられ、「信繁家訓」の一部分の出典を間違えるという誤りがある。
2 市川本太郎『日本儒教史 (三) 中世篇』(東京:汲古書院、1992 年)P.432。
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(二)武士思想について
武士思想と儒教との関わりについての先行研究は、言及しなければならない のは和辻哲郎の『日本倫理思想史』と相良亨の著作である。時期的には和辻哲 郎の研究が一番早いが、和辻哲郎―相良亨の師承関係によって、ここでは、ま ず和辻の『日本倫理思想史』より少しだけ遅れた丸山真男の講義内容の『日本 政治思想史 1965』の中の第五節・戦国武士道の形成をあげたい。
丸山真男は戦国時代の家法によって、武士の思想はリアリズムを基調とする 一方、儒教倫理的な要素も現れている。特に戦国末期の家法・家訓はこの傾向 は前期より強くなると説く3。丸山真男も戦国時代の儒教は江戸時代の儒教と比 べて、同じく五倫五常を強調するほかに、儒教のもう一つ側面である革命的天 道思想や民本主義がより前面に出ていたと述べた4。しかし、丸山真男は「信繁 家訓」は「江戸時代に追補された部分が多い」5という角度から捉えるが、なぜ
「信繁家訓」は江戸時代の人の偽作と考えられるかについては言及しない。
和辻哲郎は『日本倫理思想史』で、「武士の獲得して身分の貴さが、武士に課 せられている当為的な要求、武士が実現すべきである道義的な優秀性に対応し ているという反省があった。(中略)そういう道義的な要求が、戦乱の間に漸次 強まって行って、ついに儒教と結びついたのであった」6と主張した。そして和 辻哲郎は『甲陽軍鑑』を一つ武士団体の内部における伝承を集成したものと考 えられる。「甲州法度之次第」と「信繁家訓」も『甲陽軍鑑』の一部として考え られるが、和辻は「信繁家訓」の作者は信繁か竜山子かとも可能性があり、そ の内容は甲州武士の体験から出たものではない。さらに「信繁家訓」は武田家
3 丸山真男『丸山真男講義録 第五冊 日本政治思想史 1965』(東京:東京大学出版会、1999 年)
P.201。
4 前掲丸山真男論文、P.203。
5 前掲丸山真男論文、P.202。
6 和辻哲郎『和辻哲郎全集 13 日本倫理思想史下』(東京:岩波文庫、1962 年)P.47。
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中に行われるかについては明白ではないから、「信繁家訓」が必ず甲州武士に影 響を与えたとは言えない。従って、「信繁家訓」は「あくまでも「子息への異見」
として区別して取り扱う態度を取っている」と視し、「信繁家訓」だけが儒教と の結びつけを示し、それに対して『甲陽軍鑑』は戦国武士の体験談で、儒教の 思想から出たものではない、と和辻哲郎が述べている。しかし実際武田家と禅 僧の往来から見ると、「信繁家訓」の内容は必ず「甲州武士の体験から出たもの ではない」とは言えない、と筆者は考見て取れる。
相良亨は戦国時代の武士思想についての論述を彼の各著作のなかに散らして いる。彼の著作はいずれも、とくに武士の「ありのまま」の生き方を強調して いた。そして『甲陽軍鑑』は、このありのままの精神の体現と言える。また、
儒教については、相良亨は武士が国を治め天下を統一するため、儒教が説く正 心誠意修身治国平天下が必要となり、武士の指導原理となっていった。そのた め応仁の乱の後で各地で分散した五山の禅僧は武将の要求に応じて武将の師と なり、その上戦国末期の家訓は深く儒教への関心を示していると考えられた。
しかし、相良亨も「信繁家訓」を引用して7「引用句に対する理解の浅さを示す」
8と指摘し、これは逆に武士が実践の指針を儒教に求めるに急であったことを示 していると説いた。相良亨は「信繁家訓」のどこか引用句に対して理解不足の 証拠が挙げていないから、これについてはさらに考査の余地がある。
(三)「武田信繁家訓九十九カ条」の成立背景
武士思想を研究するために家訓は不可欠なものであるから、専門に家訓を研 究する論文はいくつか存在している。これらの論文は戦国時代の家訓をいくつ
7相良が引用したのは「信繁家訓」の第九十八条の前半部分:毎事不可油斷事。論語云、吾日三 省吾身。付縱雖在夫婦一所、聊不可忘刀事。
8相良亨『日本の儒教 II 相良亨著作集 2』(東京:ぺりかん社、1996 年) P.29。
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も同時に論ずる傾向があるが、本稿は武田家の中心を研究するものなので、こ こでは「武田信繁家訓九十九カ条」の部分のみ取り上げている。
「信繁家訓」を研究する論文で、もっとも信憑性があるのは桃裕行の「武田 信繁家訓について」である。桃氏論文は「信繁家訓」の思想的な側面にあまり
「信繁家訓」を研究する論文で、もっとも信憑性があるのは桃裕行の「武田 信繁家訓について」である。桃氏論文は「信繁家訓」の思想的な側面にあまり