第一章 戦国時代における儒学と武家の家訓の成立
第三節 戦国時代の武士思想及び武家の家法と家訓
(一)戦国時代における武士の考え方
戦国時代はよく「下剋上」の時代と言われたが、「下剋上」という言葉は、実 は鎌倉時代からすでに使われていた。下剋上は下が上を虐げるという意味で、
『源平盛衰記』では、「大方近来イトシモナキ者トモカ、近習者シ、下刻上シテ 折ヲ待、時ヲ伺テ種々ノ事ヲ勧メ申ナル間ニ、御軽々ノ君テオハシマス、懸ル 乱国ノ基ヲモ思召立ケリ」34という内容があり、この言葉が鎌倉時代で使われた 証拠となる。辻善之助はこの現象については、
室町時代の通用語たる下剋上の語が鎌倉時代より見えてゐるが如く、下剋 上の風潮はすでにその時代に端を発してゐるのである。鎌倉時代に於ける 文化の実質主義が一転して露骨なる現実主義・功利主義となり、それがや がて下剋上の風を起したのである。35
と「下剋上」の本質を述べた。つまり下剋上の現象は鎌倉時代ではすでに存在 し、そして鎌倉末期から皇室の内訌がもたらした政治の混乱によって、下剋上 が普遍化したのである。室町時代も鎌倉時代と同じく武家社会であるが、この 時から武家社会の秩序が段々崩れ、武士たちは実利だけを重んじ、「下剋上」が 益々盛んだ。
応仁の乱の後で幕府の権威が落ち、「下剋上」がもっと頻発し、室町時代の有 名な守護大名が次々と新興勢力によって滅ぼされた。例えば、大内氏は天文二 十年(1551)家臣陶隆房のクーデターにより滅亡し、美濃の土岐氏は天文二十 一年(1552)斎藤道三に追放され、ほかにも古河公方・斯波氏・六角氏・一色 氏・山名氏など守護大名がこの時代において没落した。
実力はこの「下剋上」の時代に生き残るため一番必要なものになったが、こ
34 前掲辻善之助論文、p2。
35 前掲辻善之助論文、p3-4。
33
こに言った実力は、単なる軍事力ではない。守護大名の兵士は普段が農民の身 分で生産活動をし、戦争が行った時彼らが兵士となるが、この時期では農民の 階級意識が台頭して、守護大名か領主が暴政を行った時農民は自分たちの権益 を守るため国一揆か宗教勢力かと結びつき、または自ら土一揆を発動し、守護 大名を反抗した。例えば、戦国時代で爆発した一番有名な一揆の加賀一向一揆 は加賀の一向宗門徒・農民が本願寺の支持を得て守護の富樫氏に反抗し爆発し て、富樫氏を滅ぼし、自ら加賀国を治めた。その影響は北陸全域に及び、約百 年続けた。
民衆の反乱の他、相良亨よりこの時期の大名と家臣は「頼まれる」と「頼む」
の関係で結びついたと指摘し36、大名が家臣を服従させる能力を持たなくて「頼 まれる」対象として失格すると、家臣が主君を下剋上する可能性もある。一方、
家臣全体が道義を無視し利害関係だけを見てひたすら有力者に追従したら、こ の家は滅ぼさざるを得なかったので、領主自身も互いに依頼する関係を守るた め、まず部下の手本として道義を守る必要があった。つまり主君は国を守り治 めて、部下を服従させるためには、能力と徳性両方を同時に持たなければなら ない。上杉定正(1443-1494)はまさに道徳の重要性を無視し、滅亡を招いた例 である。上杉定正は戦国初期の扇谷上杉氏の大名であり、彼が合理主義に基づ き、身分に拘らず能力のある家臣のみ採用し、一時的に扇谷上杉家の強盛を築 いたが、その家訓「上杉定正状」から見ると、この家訓はかなり異色な家訓で、
『論語』・『左伝』など中国の典籍を学ぶことを無用なものしか考えられない。
上杉定正がそう考えた理由は中国の典籍が説いたものは理想的な知識しかすぎ ず、日本の現状には適用しないと考えられる。「上杉定正状」は極めて合理な現 実主義に基づいたが、結局道徳の重要性と学問を無視した上杉定正は正しいこ
36 相良亨「武士の思想」『日本の思想 9 甲陽軍鑑、五輪書、葉隠集』(東京:筑摩書房、1969)
P.23-24。
34
とを判断できず、疑心に落ちて有能な家臣の太田道灌を暗殺した。道灌の暗殺 により、上杉定正の家臣らが不安して数多く家臣が離反し、扇谷上杉氏の勢力 が衰えたことになり、定正死後、扇谷上杉家が北条家に滅ばれた。なお、「上杉 定正状」は戦国時代の家訓においで唯一学問に対する否定な考え方を述べる家 訓であった。
こうして、戦国時代の武士は上杉定正のように実力のみを強調して道徳と学 問を否定したやり方は乱世に生き残れないことを気づき、古くから日本に伝来 した儒教の善政思想が復活し、領地と家臣への支配根拠となった。そのため戦 国時代の優れた武将は合理主義に基づき、自身の徳性・能力・教養など実用性 があったものを求め、善政で領地を治める傾向があり、武将たちが禅僧を師と し、禅僧の教えから徳性と教養を身に付いた。そして禅僧が教えた儒学思想も 一部の領主にとっては実用性を持つので、それを必要な修養として積極的に受 けた。しかしここで注意すべきことは、武士がこのように積極的に儒学思想を 受容した理由は道徳の理想を求めたではなく、ただ実用主義に基づき家の団結 と利益を守ったのである。
(二)家法と家訓
日本の貴族は平安時代から中国の影響を受け、家訓を作成した人がいるが、
その時の家訓はまだ発達していなかった。鎌倉時代から、新興した武士階層が 自分の家臣団を規制・団結させるため、貴族を模倣して家法と家訓を作成した。
家法と家訓については、よく混同しているから、ここでは両者の異同を説明 する。家法は戦国法、分国法など国の統制法で、それに対して、家訓はその作 者本人の人格を具現した家の精神的な指標で、当主が家を守り立て存続させて いくために、子孫の戒めとして書き残したものである。石母田正は、「家訓は“家”
の私的側面を、家法は“家”の公的側面を代表する」と家法と家訓の使い分け
35
を説明する。家法はより理性化、客観化的な性格を持つが、家訓の方が主観化 し、家主の性格、家風をその上に反応する。しかし、家法はより客観化、理性 化とはいえ、家法からも家風と制定者の思想が見える。また、強制力を持つ家 法に対して、同族や家中を対象とする家訓は法律ではないから強制力を持って いない。
なお、佐藤和夫の説によると、彼は「法と道徳がまだ未分化の場合、家訓は 広い意味で家法に入る。そして戦国時代に入ると、家法と家訓が分化されてゆ く。普通の場合は守護、守護代などの伝統的名族が家法を持ち、それに対して 家訓を作るのは新興の大名の場合が多い。」と指摘している。確かに一部分の大 名においては家法と家訓との分けが不明瞭である。しかし守護大名から戦国大 名に進んだ武田氏は家法と家訓両方とも作り、武田氏と類似した島津氏も家訓 を作ったから、家訓を作ったのは必ず新興大名であるとは言えない。
武家家訓の歴史を遡ると、鎌倉時代から、すでに武家家訓を作った武士がい た。武家最初の家訓は鎌倉初期、北条重時(1198-1261)が作った「六波羅殿御 教訓」と「極楽寺殿御消息」であった。北条重時は鎌倉幕府二代執権北条義時 の三男で、三代執権北条泰時の弟あり、のち五代執権となった北条時頼を補佐 した。彼が作成した家訓は、今が残った題は「極楽寺殿御消息」と「六波羅殿 御教訓」であったが、普段言った北条重時の家訓は前者の方を指した。その内 容は、子の長時をはじめ一族の者達に対して、世の上に立つ武士としての心が まえを説いたものである。家訓の内容はすごく長いが、大体は奉公の仕方・殿 と部下と家族などとの人間関係・日常生活への訓戒・神仏の信仰などを中心と する。特に仏教思想の影響は家訓全文に深く満ち、鎌倉時代の武士の仏教を中 心とした精神がここに見える。それに対して、「六波羅殿御教訓」は武士の生活 中の諸注意で、武家の行為規範と倫理観を反応した。
鎌倉時代で作成して現存した家訓は以上が述べた「極楽寺殿御消息」と「六
36
波羅殿御教訓」だけであったから、家訓の内容から鎌倉時代の武士思想を窺え たのはこの二つの家訓に従うしかできないのは残念なことであった。しかし後 の室町・戦国・江戸時代の武士家訓と比べると、この二つの家訓はやはり鎌倉 時期特有な特色があった。なぜならそれは、これらの家訓は主に対人関係に関 する内容が中心であり、武士自身の人格の修養などの条文はこの時期の家訓に
波羅殿御教訓」だけであったから、家訓の内容から鎌倉時代の武士思想を窺え たのはこの二つの家訓に従うしかできないのは残念なことであった。しかし後 の室町・戦国・江戸時代の武士家訓と比べると、この二つの家訓はやはり鎌倉 時期特有な特色があった。なぜならそれは、これらの家訓は主に対人関係に関 する内容が中心であり、武士自身の人格の修養などの条文はこの時期の家訓に