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第三章 「武田信繁家訓九十九カ条」における儒学の受容と伝播

第三節 「信繁家訓」の影響

信繁家訓の儒学思想はいかに武田家の親族衆を影響するかについては、武田 家の滅亡によってその実態が親族衆の行動から推測しかできない。前述したよ うに、信繁の嫡子の信豊は最期まで勝頼のため奮戦したが、信玄の嫡子の義信 は信玄とは不合になり幽閉されて死んでしまった。また信玄の他の弟の武田信 廉などは勝頼とは不仲で、長篠の戦いも早めに撤退したが最後は裏切りことが なく、勝頼と一緒に戦死した。ちなみに、穴山信君と小山田信茂は武田家と親 戚関係と結びつき一門と扱われたにも関わらず、武田家滅亡寸前の戦いで裏切 った。織田家と内通し勝頼を騙し、倒そうそして、勝頼を滅亡に追い込んだ小 山田信茂は織田信忠から不忠と叱れて処刑された。徳川家康に投降した穴山信 君は逆に信長から元々の領地をもらったが、家康と共に行動した時本能寺の変

(1582)を遭い、家康と一緒に京から逃げた時武者狩りの民によって討たれた。

しかし穴山氏と小山田氏は武田家の親族衆と同時に地方領主の身分を持ってい るから、普通の親族衆とは立場が違ったのは言うまでもない。つまり武田家の 直系は義信を除いては不忠とは言えないが、穴山・小山田氏は武田家への忠よ り自らの家族の発展を重んじた。

しかし、武田家の家臣から見ると、この家訓は武田家の人々に影響を与えな いとは言えない。まずは長篠の戦いにおいて、信玄時代の宿老の山県昌景らは 退却すべき、と主張したが、勝頼が進攻と決めた。山県らの宿老は敗戦と予知 しても、勝頼の命令に違反することがなく壮絶に戦死した。また他の証拠の一 つは、『甲陽軍鑑』の誕生に関わると考えられる。

『甲陽軍鑑』は高坂昌信が武田勝頼と勝頼の家臣の長坂長閑・跡部大炊助二 人に与えた忠告書という形式で作成した。その名前の由来は、当時の時代の好 尚による文化的センス81と『吾妻鏡』への意識と考えられる。江戸時代の『甲陽

81 酒井憲二によると、当時『聚分韻略』(漢詩を作る時の参考書)の国書の出版が始まり、各地

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『甲陽軍鑑』を入手し、破損を整理して新たに伝写本を作り、江戸時代の社会 に普及させた。

織田家は武田家討滅の戦争で、武田家の家臣による再起を防ぎ、及び信長の 武田家への敵意によって、織田家は甲州境内の旧武田家臣を数多く騙し討ち、

または残酷な手法で征圧した。しかし武田家滅亡当時上野国にいた家臣、また は徳川家康に投降した家臣は命が助かり、小幡景憲もその一人であった。

小幡景憲は元亀三年(1572)に小幡昌盛の三男として生まれ、家族は春日虎 綱の補佐として武田家に仕えた。小幡景憲の父の小幡昌盛は武田二十四将の一 人で、第四回川中島の戦いなど戦で活躍したが、武田家滅亡の年に彼は病気で 対織田家戦争を参加できなく、まもなく病死した。景憲と兄の昌忠は後徳川家 康の配下になり、家康の旗本となった。景憲は甲州流兵学者として名高く、武 士に甲州兵法を教えた他、『甲陽軍鑑』の編纂、普及に努力した。おそらく小幡 景憲は家族から影響を受け、江戸時代に入っても甲州武士の精神を後世に伝え るため、破損した『甲陽軍鑑』を整理し、それを普及したいと思われる。

そして徳川家の角度から見ると、武田家は徳川家康に対しては特別な意義が あった。その理由は、家康の生涯で一番大きな敗戦は、対信玄の三方原の戦い で、その合戦において数多くの家臣を失い、家康に大きな教訓を与えた。武田 家滅亡の直後まもなく本能寺の変が発生し、その知らせが旧武田領地に伝える と一揆が爆発し、北条氏政もこの機会を乗って織田家が取った旧武田領地を侵 攻した。結果としては、信長に旧武田領地の管理に任命された家臣は一揆に殺 され、または織田家の本領地に退却した。徳川家康は後一部の旧武田領地を平 定したが、家康は信長と違って武田遺臣を任用する政策を取った。これは信長 の家臣たちと同じ結末に辿りつけないような努力であると同時に、三方原の敗 戦から武田遺臣によってその甲州武士の経験を習いたいという考えもあると推 測する。『甲陽軍鑑』の出版は甲州武士の経験を普及される一方、唯一家康に大

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敗を食わせた信玄を高めたことによって、家康の威信を高めることもできよう。

しかも信玄のかなり禅僧から中国の思想を受け、信繁の家訓も儒家の経典を大 量に引用し、儒教によって武士社会の秩序を建てよう徳川幕府にとって『甲陽 軍鑑』の普及は良いことであろう。従って、『甲陽軍鑑』はうまく江戸時代に流 行した。

結論

「信繁家訓」の中で儒学の典籍を引用した条文は家臣の作法など家臣として の倫理を説いたのは一番多い。そして家訓の中心とも言える第一条目は「忠」

を説き、しかも刻意に引用した原典から意味外れて解釈した。信繁は家訓の中 心を館様への忠と家臣の倫理にしたのはやはり大名であった信玄の統治の正当 性を主張し、家を団結させ、または家臣の下克上を防ぐと思われる。それに対 して、中国の儒学の重心であった「仁」は「信繁家訓」の全文では仁とは関わ った条目はわずか一条で、「仁」について狭義的な意味(仁愛)に解釈し、他の 徳目とは同じ地位として扱うという現象が見える。日本と中国が儒学に対して 違う姿勢を取ったのは、戦国期の武士にとって、彼らが急に必要なのは中国の 儒学者にとって理想的な精神の仁ではなく、具体的に乱世の統治に役に立つも であった。従って、この時期の武家の儒学の応用はやはり実用主義に基づいた 特徴が見える。

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第四章 「信繁家訓」と他の家訓の比較