第二章 「台湾独立」から「台湾自治」への転換
第一節 二二八事件の後と「台湾高度自治」の提出
この後、台湾共産党は官憲の弾圧で、活動が制限され、その上台湾共産党 内部の権力闘争で、1931 年 5 月親中派の潘欽信、蘇新、王萬德らは謝と楊克 煌は党から除名された。これで中国共産党の台湾共産党への指揮権が確定し、
謝の台湾共産党への影響力は低下した。しかし、1931 年 6 月 26 日、官憲の大 規模な取り締まりで党員の大多数は逮捕された、謝もその中の一人である。謝 の釈放は 1939 年 4 月まで待たなければならない。
1941 年太平洋戦争が爆発し、植民地政府の台湾の社会運動に対する弾圧は 激しくなり、その四年後 1945 年 8 月 15 日に太平洋戦争は終わった。それによ って、台湾の社会運動はまた別の新しい局面を迎えた。
戦後から 1947 年 2 月二二八事件まで、台湾の政治、生活、民衆と国民党政 権との衝突について、『狗去豬來 二二八前夕美國情報檔案』の一書でその一 側面を記録されている。
本書の出版については、海外台湾人 Nancy Hsu Fleming がアメリカ議会図書 館で偶然で William Morgan が 1945 年から 1947 年までアメリカ合衆国国務省 への報告書を見つけたことが契機であった。その後、Nancy Hsu Fleming が William Morgan の息子から同意を得て、この報告書を台湾で翻訳して出版する ことになった。1945 年から 1947 年の当時、William Morgan はアメリカの戦略
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諜報機関(Office of Strategic Services)で働いていて、彼の任務は日本の戦争命 令の情報、失踪したパイロットの行方の捜査、日本戦犯の逮捕などであり、そ の報告書としての電報はほぼ毎日送っていた。一人のアメリカ軍人から見れば、
当時の台湾はどう映っていたのか、本書に詳しく記されている34。
1945 年 10 月 5 日国民党政権による「台湾省行政長官公署前進指揮所」が成 立し、1945 年 10 月 15 日に国民党軍が基隆に上陸した。大多数の台湾人はや っと被植民者の立場から解放されると、期待と喜びの気持ちで国民党政権を迎 えた。ところが、一ヶ月も経たないうちに、台湾人は国民党軍の暴行を知るこ とになった。
William Morgan の 1945 年 10 月 26 日の電報では、中国軍隊による強盗事件 が多数報告されたと記している。中国軍隊は武器の摘発を口実にし、民家に侵 入して金銭、腕時計、アクセサリーなどを強盗した。特に台湾の北地域の被害 はかなり深刻であった。さらに、病院、日本軍倉庫、商店などまで被害を被り、
金銭、ブランケット、医薬品、腕時計、日本警察の日本刀、ジュアリー、衣服、
貨物など、中国軍隊による大規模な強盗犯罪が発生した。しかも、中国軍隊は これらを暴行の事実をアメリカ軍に着せようとした。そして 11 月 5 日までに、
合計 1000 件以上の攻撃事件と強盗事件が報告された35。
1945 年 11 月 23 日の電報では、当時台湾の政治、民生の総合情報が記録さ
34 Nancy Hsu Fleming 著、蔡丁貴訳『狗去豬來 二二八前夕美國情報檔案』、台北:前衛出版社、
2009 年 2 月、P5-13。
35 Nancy Hsu Fleming 著、蔡丁貴訳『狗去豬來 二二八前夕美國情報檔案』、台北:前衛出版社、
2009 年 2 月、P91-92、。
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れている。台湾の各団体と各階層の男性の発言によると、台湾の一般民衆の中 国行政公署への不信感は募る一方であった。中国人の不用意は台湾の大衆から 見ても明らかなことである。新しい行政公署は台湾の漢人を組織から排除し、
植民時代の「戦時特別税」を取り消す意向もない、さらに、自分の親戚を有力 ポストにつけ、日本人を政策顧問と技術者として雇用することなど中国人の動 きについて、台湾人は不平を感じていた。食糧問題、インフレ、強盗犯罪の拡 大など、中国人は解決する意欲が無いだけでなく、軍隊でこれらの組織のある 強盗集団を守っている。
しかも、新政権の協力者は悪名高い人ばかりで、彼らが市政府や省政府の 上層部で働いている。また、官僚と一部分の台湾人との間では、多額の金銭が 動いている様子があり、日本人が残していった事業の利益を狙って企んでいる。
台湾人は中国人に被植民者として扱われていて、しかも、台湾人が自分を 管理することは不適切だと、中国人は思っている。36
以上の問題は解決する痕跡もなく、さらに各種の汚職、賄賂、失業率、イ ンフレ、食糧問題などの問題がひどくなる一方であることなどが、報告書の随 所に記されている。台湾民衆の中国軍、国民党政権への不満は募る一方であっ た。このような状況において、二二八事件37が爆発した。謝と楊克培も民兵に
36 Nancy Hsu Fleming 著、蔡丁貴訳『狗去豬來 二二八前夕美國情報檔案』、台北:前衛出版 社、2009 年 2 月、P108-111、。
37 1947 年 2 月 27 日、台北市で闇煙草を販売していた台湾人女性に対して、取締の役人がその 頭部を殴り、女性は血を流して倒れた。目撃者たちは役人の暴行に不満に思って集まった。今 度役人は民衆に発砲、無関係な台湾人を射殺し、逃亡した。28 日民衆のデモ隊は行政長官公 署を包囲したが、公署の屋上に隠されていた機関銃に掃射されて、死者多数。台湾民衆は憤慨
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参加したが、やはり国民党軍に敵わず失敗し、二人とも指名手配犯とされた。
1947 年 4 月、謝と楊たちは国民党軍の軍艦船員に賄賂をおくり、密航によっ て上海へ渡り38、その後、6 月に香港に辿り着いた39。
香港時期の謝の思想状態を確認する前に、先の台湾共産党の「台湾独立」
の主張に触れる必要がある。林木順が起草した台湾共産党政治大綱では、台湾 民族は台湾独自の歴史を経て、特別の經濟発展の過程の中に生まれたものであ ると明記された40。外来政権への反発として、革命を起こす。その目的は台湾 民衆の解放と台湾民族の独立にあった41。
台湾共産党の成立目的について、林が起草した「政治大綱」には次のよう に明記されている。
政治的自由を獲得する為の一切の運動は我黨に於て大衆運動に大衆を 動員することに依らなければならぬ。
台湾共産黨當面の口號は次の通りである。
一、總督専制政治の打倒――日本帝国主義の打倒 二、臺灣民衆獨立萬歳
三、臺灣共和國の建設
し、民兵隊も作ったが、国民党軍の鎮圧や一般市民まで無差別虐殺する暴行に敵わず、台湾は 国民党政権による白色テロと戒厳の時代に入った。
38 古瑞雲『臺中的風雷』、台北市:人間、1990 年、P162。
39 古瑞雲『臺中的風雷』、台北市:人間、1990 年、P178。
40 台湾総督府警務局編、吳密察解題『台湾総督府警察沿革誌』、台北市:南天、1933-1942、
P601-602。
41 台湾総督府警務局編、吳密察解題『台湾総督府警察沿革誌』、台北市:南天、1933-1942、
P605-611。
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四、工農壓制の悪法撤廢
五、七時間勞働――勞働せざる者は食を得ず 六、罷工、集會、結社、言論、出版の自由 七、土地を貧農に歸與す
八、封建殘餘勢力の打倒 九、失業保護法の制定
一〇、日鮮無産階級暴壓悪法に反対 一一、ソヴェート聯合の擁護
一二、中国革命の擁護
一三、新帝国主義戦争に反対42
台湾共産党は 20 世紀の台湾で最初に「台湾革命」の概念を提起した政治組 織であり、台湾史上初めて「台湾独立」を提出した政治団体でもあると陳芳明 は『日據時代台灣共產黨史』の一書で明記し、台湾共産党が「台湾独立」を提 起した意義を示した43。台湾共産党の創設党員の一人で、台湾時期の謝も党員 として「台湾独立」の擁護者だと考えられる。
二二八事件の直後の謝の立場について、「台灣事變女英雄謝雪紅告同胞書」
の一文が詳しく書いてある。『台中的風雷』の記述によれば、「告同胞書」も楊 克煌の手を借りて完成したものである。謝個人の立場以外に、香港に逃げて中 国共産党の援助と指導を受けていた台湾共産党党員たちの声明の意味もある。
42 台湾総督府警務局編、吳密察解題『台湾総督府警察沿革誌』、台北市:南天、1933-1942 年、
P611。
43 盧修一、『日據時代台灣共產黨史』、台北市:前衛、1989 年、陳序 P10。
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また二二八事件の直後なので、わざと執筆時間を 7 月、場所を上海にした44。
「告同胞書」は 1947 年 8 月 25 日の『南僑日報』において刊行された。それは 二二八事件の後、中国共産党の助けを求めていた謝の政治主張の転換を表して いた。
この文章の中で、謝は台湾の二二八事件における民衆の行動を「世界と全 中国の反独裁・民主自治をかち取る路線に完全一致していた」という理由で両 者を連結し、さらに国民党政権の横暴を指摘した45。
まず第一に、今回の蜂起は独裁者によって蹂躙され鎮圧されたために、
表面的には失敗に終わってしまいました。しかし、今回獲得した成果は 決して少なくありません。実質的には中国本土の人民の民主をかち取り 飢餓に反対する闘争に呼応して、蔣介石の二個師団の軍隊を台湾に派遣 させることによって、国内人民に対する進攻に動員できなくさせました。
そればかりではなく、ファシスト独裁者と国民党・三民主義青年団の無
そればかりではなく、ファシスト独裁者と国民党・三民主義青年団の無