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第三章 蔡培火と蘇新――謝雪紅から見る男性知識人

第二節 謝雪紅と蘇新の衝突

第二節 謝雪紅と蘇新の衝突

1929 年 4 月、蘇新は東京から台湾へ帰り、まず力を入れたのは、台湾各地 の鉱山労働者やきこりの労働運動である。労働者に組合概念の宣伝と組合創設 の手伝いなどは、蘇当時の任務で、1929 年 4 月から合計約 2 年間、蘇は宜蘭 の太平山と基隆の二箇所で労働運動の宣伝と指導をした。

1930 年 10 月、謝が主催した松山会議では、謝と後日「改革同盟」と呼ばれ る台湾共産党内の男性知識人集団(主に中国留学と日本留学の二つのグループ)

の衝突が表面化した。蘇新もその中の一人である。

両方の衝突について、表面的には共産運動の戦略や方針の違いにより生じ たものである。1929 年 11 月、謝の主導によって、新台湾文化協会(左翼化し た台湾文化協会)の指導者連温卿は新文協から除名され、新文協の指導権も台 湾共産党にある。そして新文協の存続問題について、謝は引き続き新文協を台

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湾共産党の所属組織として働かせて、農民組合と同じように、台湾共産党の拡 張のため働かせるべきであると主張した。その理由として、第一章の第三節に も言及したが、謝の考えでは植民地台湾の各階級はそれぞれ違うレベルの圧迫 を受けているため、連合戦線の策略を取った方が勝算が高い。しかし、王萬得 らの「上大派」(上海大学留学生系統)の考えでは、今こそ労働運動を全面的 に左翼化する時期で、新文協の存在はそれを妨害するため、新文協は解散しな ければならない。そして上大派がこのように主張する理由は、中国の情勢を直 接に台湾に投影したため、台湾の労働運動に対して、過度の楽観を抱いていた

97。そしてこのような相異によって、王萬得と潘欽信の上大派と蘇新が改革同 盟の協力関係を結んだ。

しかし、果たして改革同盟の謝に対する敵意は、ただ戦略上の違いによっ て生じものだろうか。1930 年の 6 月、謝は林日高を連絡員として上海に派遣 するのと同時に、上海にいた翁澤生はまた連絡員を派遣して謝と連絡をとらせ、

二人の優秀な労働者を派遣してウラジヴォストークで開催されるプロフィン テルン(赤色労働組合インターナショナル、コミンテルンがモスクワで創設さ れた労働組合の世界組織)第五回大会に参加させるよう、謝に指示した。そこ で謝は陳徳興と林朝宗を選出して会議に出席させることにしたが、林は途中か ら台湾に引き返し、陳は 7 月に上海に到着した。つまり、この時期に、台湾共 産党は林日高と陳徳興の二人をそれぞれ別々に代表として中国に派遣したこ とになる98

       

97  陳芳明『謝雪紅評傳』、台北市:麥田出版、2009 年、P118-119。 

98  陳芳明著、森幹夫訳『謝雪紅・野の花は枯れず』、東京:社会評論社、1998 年、P113。 

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しかし、翁澤生は明らかに林日高に対してそっけなく、極めて冷たいそぶ りをみせた。そしてまた、翁澤生は林日高に「近いうちに連絡員を台湾に派遣 し、その際指示も持たせることになっているので、あなたは一足先に帰るよう」

と、一言だけで、林日高を帰らせた99。ちなみに、当時の林日高は謝とは同じ く台湾共産党の指導者の立場に立っていたが、今回の連絡は失敗したため、台 湾に帰った後また謝に皮肉な言葉を言われて、挫折の中で林日高は脱党した100

では、翁澤生が言ったその連絡員は誰なのか。この人はおそらく親改革同 盟派の陳徳興である。蘇新の自伝に、この事の記録がある。

要するに、1930 年陳徳興が上海から台湾に帰ったあと、蘇新に、台湾党は 右傾化日和見主義と関門主義の誤りを正さなければならない、群衆による日常 生活の闘争から大衆を糾合し、党の基礎はこうした方法でしか確立できないと 伝えた。また、自分は謝を説得しようとしたが、謝は受け入れられなかった。

そのため、もし謝は過去の誤りを認めないならば、王萬得、趙港、蘇新に相談 し、党内で党の改造を行うと蘇は陳の伝言から翁の指示を知った。そして 1931 年 1 月に、改革同盟が結成、王萬得、趙港、蘇新ら 5 人が委員となった101

2 月、潘欽信が代表として『告台湾共産主義者書』などの書物を持って台湾 へ帰り、王萬得、蘇新ら改革同盟のメンバーを集め、上海の指示を伝えた。し かし潘欽信も、翁澤生の指示は党の内部に別のグループを作ることではなく、

       

99  陳芳明著、森幹夫訳『謝雪紅・野の花は枯れず』、東京:社会評論社、1998 年、P114。 

100  陳芳明『謝雪紅評傳』、台北市:麥田出版、2009 年、P121。 

101  蘇新『未歸的台共鬥魂 蘇新自傳與文集』、台北市:時報文化、1993 年、P46-47。 

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大衆の組織と闘争を展開し、一般党員のレベルを高めて、大会で下から上に向 かって批判して党を改造すると、改革同盟の誤りを指摘し、同盟を解散させた

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そして大会の準備が進んで、次は、大会のメンバーリストが問題になった。

蘇の記録によると、謝たちは絶対的な少数派なので、彼らも大会を参加する必 要があると蘇は述べたが、謝たちは絶対自分の誤りを認めないので、彼らが参 加しても何の問題も解決できない、それだけではなく、今後の党の方針を彼ら に知らされたら、きっと仕事の妨害になると、王萬得と潘欽信が答えた。

つまり、改革同盟派、主に王萬得と潘欽信は党内でグループを作ってはル ール違反だと知っていながら、謝たちを大会から外した。そして、1931 年 5 月「台湾共産党第二次大会」で謝雪紅、楊克培、楊克煌は党籍を剥奪された。

代わりに、王萬得、潘欽信、蘇新が常務委員となり、三人で「書記局」を構成 し、王萬得は書記、潘欽信は組織部長、蘇新は宣伝部長という、台湾共産党の 新しい中央が確立した103

つまり、すくなくとも蘇新の記録では、潘欽信が上海から帰った後、一連 の動きでは、謝と楊は完全に排除された。謝派と改革同盟は戦略上で衝突があ ることは確かだが、謝から党中央の立場と権力を奪ったのも確かである104。し かし、その理由は何だろうか。

       

102  蘇新『未歸的台共鬥魂 蘇新自傳與文集』、台北市:時報文化、1993 年、P47-48。 

103  蘇新『未歸的台共鬥魂 蘇新自傳與文集』、台北市:時報文化、1993 年、P48。 

104  陳芳明『謝雪紅評傳』、台北市:麥田出版、2009 年、P116-131。 

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大会で可決した議案について、陳芳明は一つの問題を提出した。「謝たちの 除名」以外に、「改革同盟の解散」、「党の機関誌の発行」、「新しい政治テーゼ の作成」などがあり、その中に「中国共産党の友情的なアドバイスを受け入れ、

挨拶状を送る」という項目がある105。台湾共産党の正式名称は「日本共産党台 湾民族支部」であって、つまり台湾共産党の正式の指導権は日本共産党にあっ て、中国共産党はあくまで補佐である。政治大綱の中も「台湾民族」の存在を 前提としている106。なのに改革同盟派は何故、中国共産党の「友情」を受け入 れて、「同民族」の内部党員を除名したのか。台湾共産党内部の民族問題と階 級問題の矛盾と衝突についてはまだ更なる分析が必要である107

以上の記録と上海読書会事件の後、蔡孝乾、洪朝宗、潘欽信、謝玉葉(翁 澤生の妻)は逃亡、任務放棄のため、謝に党から除名された事実、さらに、蔡 孝乾、潘欽信、王萬得は元々中国共産党党員という、以上の事実を合わせて見 れば、これは単なる策略の違いによる内紛ではない。個人の恨みも含まれてい て、特に、第二章のまとめも書いた通り、王萬得は文化大革命まで謝に対して 深い恨みを抱えている。それでは、改革同盟派の男性知識人は謝に対してどう 思っていたのか、また、両者はどこが違うのか、これらの問題について、蘇新 の視点は欠かせない。蘇新の視点を通じて、謝と台湾共産党内部の男性知識人 の衝突の一側面が捉えられるはずである。

       

105  陳芳明『殖民地台灣 左翼政治運動史論』、台北市:麥田出版、2006 年、P154。

106  台湾総督府警務局編、吳密察解題『台湾総督府警察沿革誌』、台北市:南天、1933-1942 年、

P593-602。 

107  陳芳明『殖民地台灣 左翼政治運動史論』、台北市:麥田出版、2006 年、P155。 

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以上で、蘇新を取り上げる理由と蘇新視点の重要性、及び蘇新の代表性を 説明する。本稿が引用した文章もほぼ戦後に書かれたものなので、戦前の蘇新 について、戦後の蘇新はこう解釈していると、自己弁護の可能性も考えなけれ ばならない、という前提としての考察である。

前述の通り、少年時代の蘇新は台南師範学校を退学させられたことがある。

学校の中に、日本人学生と台湾学生の対立がひどくてよく喧嘩していたが、日 本人教師は大体日本人学生を庇う。日本人教師は台湾人学生を差別していて、

このような行動は台湾人学生の反感を買い、台湾人学生はよく不服を唱え、反 抗的姿勢を取った。蘇新は級長なので、このような揉め事があれば、大体蘇新

このような行動は台湾人学生の反感を買い、台湾人学生はよく不服を唱え、反 抗的姿勢を取った。蘇新は級長なので、このような揉め事があれば、大体蘇新