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大正デモクラシーと蔡培火の自治論

第三章 蔡培火と蘇新――謝雪紅から見る男性知識人

第一節 大正デモクラシーと蔡培火の自治論

松尾尊兊は、大正デモクラシーを三つの段階を分けてとらえた。第一段階 は 1905 年―1913 年、第二段階は 1914 年―1918 年、第三段階は 1919 年―1925 年である。第一段階の主流思想は立憲主義、憲政主義(代表人物島田三郎、尾 崎行雄)で、第二段階は民本主義、自由主義(代表人物吉野作造)、第三段階 は社会主義、共産主義、国家主義(代表人物山川均、吉野作造)などの主張が 同時に存在していた。それぞれの共通点は、明治維新以降、日本帝国主義と民 主主義の矛盾への批判である76

1919 年朝鮮の三一独立運動に刺激され、各植民地の問題も次第に取り上げ られたが、朝鮮、満州、中国と比べたら、台湾に関する論争は圧倒的に少ない。

とは言え、植民地の問題が言論界で注目されるに連れて、植民地台湾に対して 関心をよせた人も確かにいる。例えば、序章で説明した通り、泉哲、植村正久、

田川大吉郎、神田正雄らがそうである。

泉哲は「台湾は總督府の台湾ではなく、台湾島民の台湾である」と主張し た。台湾の統治方針は植民地本位にするべきで、經濟と教育の改善は必要であ る。そうすれば社会地位と政治権利において、台湾人と内地人の差別もなくな る。日本は文明植民国として、植民地の人民の幸福を求めなければならない、

これは世界文明の潮流であるため、国の未来にも深く関わっている。即ち、泉 は植民に反対するのではなく、日本の利益のためにこそ、文明植民策を取るべ        

76  陳翠蓮、「大正民主與台灣留日學生」、『師大台灣史學報』、第 6 期、台北市:國立臺灣師範 大學臺史所、2013 年 12 月、P61-62。 

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きだと考えていた。

植村正久はキリスト教の人類平等の精神を前提にし、台湾人の苦境に同情 を寄せていた。植村は同化政策に反対することではなく、台湾人と内地人の協 調、融合が最善の結果で、ただ、同化は自然の方法で行うべきであると考えて いた。

田川大吉郎の主張も平等とキリスト教の神の人に対する愛を掲げ、内地人 は内地人の台湾差別に直面して自省するべきだと呼びかけている。人は誰でも 自由と平等を求めているので、台湾人は圧迫されているから反抗している。そ のため、請願運動は理解、同情されるべきで、また、台湾人も内地人も同じ大 日本帝国の臣民として、共に内地と台湾の融合のため努力していくべきだと田 川は主張していた。

神田正雄は大アジア主義の提唱者である。神田は五年間のヨーロッパ、ア メリカでの生活経験で欧米による東洋人差別を感じ、東洋人の団結を主張して いた。特に日本と中国の共同提携を重視し、台湾統治が順調に進んでいけば、

中国の排日も緩和でき、そうすれば日華親善の実現も可能になる。神田も大日 本主義者であり、植民地の拡張こそが日本の国力を向上する方法であると、彼 は主張していた。しかし、植民地と内地の差別は確かに存在していて、これら の問題を解決するには、植民地人民の参政権は必要である。そうすれば植民地 と内地の完全なる融合は実現し、日本民族の生存と繁栄も実現できる77。        

77  陳翠蓮「抵抗與屈從之外:以日治時期自治主義路線為主的探討」、『政治科學論叢』、Vol.18、

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以上の彼らの主張は当時日本で勉強していた台湾青年たちに借用され、台 湾議会設置請願運動をはじめ、一連の自治運動の理論の裏付けとなった。

まず、蔡培火は「我島と我等」で「我島は帝国南方の鎖鑰で、軍事上の重 要地点である。我島の政治が多年の間武人によつて掌握されたのは、この點が 剩り重く認められすぎた結果の禍ではないかと疑ふ。此の意味から考へて、我 等は決して悠々閑々に、何時まで無能力者として立つていく理にはいかぬ。臺 灣は帝國の臺灣であると同時に、我等臺灣人の臺灣である。」78と宣言した。こ れは明らかに泉哲の主張の借用である。

そして「吾人の同化觀」の一文で、蔡培火は「同化」を自然の同化と人為 の同化を分け、自然の同化はすでに世界の各文化の中に進んでいて、人類の生 活も真善美の方向に向かって進歩し続けている。人為の同化は難しいが、幾つ かの条件を備えれば出来ないでもない。「第一の條件としては自然的にその新 領土が小さくて且つその舊母國から懸け離れてゐることである」、「第二の條件 としては個性を尊重し善良なる文化を保障してやる擧に出ることである」、「第 三の條件は異心同體的精神と態度を取ること」、「第四の條件は此の政策を政策 として取らぬことである。平く言へば、新附民等に對して同化云々を云ひ振ら さぬことである」。また、日本が台湾を統治してからすでに 20 年も経て、同化 はスローガンのまま、例えば教育、人材採用、言葉、婚姻など各方面では実際 の有効的な同化政策がない。「同化は決して征服の結果でない。征服のされた        

台北市:國立臺灣大學政治學系、2003 年 6 月、P152-155。

78  蔡培火「我島と我等」、『臺灣青年』、Vol-2、東京、1920 年 10 月 15 日、P19。 

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との意識を持つところには、同化の美果が結ばれぬ筈のものであることを、

我々は如何なる代償を拂うとも、大聲疾呼して、無謀者流の猛省を促す決心で ある。」79

また、「日本々國民に與ふ」の一文で、割譲の最初、台湾人は「亡国とか、

屈辱とか、はたまた被征服とかの感じは、我々多数の台湾島民には毛頭もない」

が、日本の 30 年統治の後、台湾本島人が反抗するのは、実は植民政府当局の 同化政策と圧迫によって生じたものだと、蔡は書いた80

そして「中日親善の要諦」と「東亜の子はかく思ふ」で日中親善の重要性 を説き、また日中関係の悪化の要因を分析し、また具体的な解決策をも提出し た。その一つは、「鮮臺統治策の根本的革新」である。

内地、朝鮮、臺灣は一家族の三人兄弟であつて、各々個性あり別個の立 場がある。そしてその内地と云ふ兄貴が親の命を奉じて朝鮮臺灣と云ふ 弟分をその一存で世話し使用してゐるやうな次第、そこで問題は、この 兄弟間の関係と隣佑のこれに對する注目にある。幾年來此の内地たる兄 貴は二人の弟分に個性を捨てろ、別個の立場あるも忘れて終へ、唯一つ の残骸となつて、そして我が霊を受けれてその發動のまヽに立働けと云 抱負で指導命令に務めた。(略)隣佑の傍觀は傍觀だけで濟めば幸、そ れを若し各自のことに結附けて考へられるやうでしたら如何でせう81。        

79  蔡培火「吾人の同化觀」、『臺灣青年』、Vol-2、東京、1920 年 8 月 15 日、P67-82。 

80  蔡培火『日本々國民に與ふ』、東京:香柏社書店、1928 年 4 月、P33-37。 

81  蔡培火「中日親善の要諦」、『臺灣青年』、Vol3-2、東京、1921 年 8 月 15 日、P55。 

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つまり、日中親善という前提で、植民地台湾の政策の改善は必要である。

以上で、蔡培火は如何に大正デモクラシーの日本言論界の台湾政策改善提 唱者たちの理論を取り入れたのかを説明する。

しかし、台湾議会設置運動と大正デモクラシーからの理論の借用にも限界 がある。詳しく言うと、台湾右翼の知識人(例えば蔡培火)が日本言論界の論 述を借用すると同時に、自治運動も彼ら植民者の世界文明階層觀を取り入れた。

そのため、植民統治の構造を壊すことができない82

以下は、蔡培火を例として、彼が提出した世界文明階層觀を取り上げる。

東西之文明,各有所長,然西洋文明,則出我東洋文明之上者遠矣。夫我 東方文明,僅區在精神範圍之內,物界之研究,寥然代無可觀也。西方之 文明,則不然,精神之上,還家有物質之穿鑿,且其考究之方法,不向我 東方之雜然無序,別備一種論理的者,即所謂科學的方法是也。(略)蓋 東亞之文明,蓋以主觀而集成者(略)若歐米文明,以主觀之察,又兼客 觀之證,是心理作用之外,又重感觀之觀察(略)其文明之境,跨於心物 之上,是精神物質兩全之精華也83。(筆者訳:東西の文明、其々の長所が あるが、西洋の文明は実に遥かに私達の東洋の文明より優れている。私 達の東方文明はただ精神の領域だけにあり、物質の研究において、価値        

82  陳翠蓮『台灣人的抵抗與認同 1920-1950』、台北市:遠流出版公司、2008 年 8 月、P73。

83  蔡培火「對內根本問題之一端」、『台灣青年』、Vol1-1、漢文之部、東京、P50-51。 

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のあるものはほとんどない。西洋の文明はそうではない。精神以上に、

物質もある。その研究方法は私達東方のように乱雑ではなく、論理的で、

いわゆる科学方法である。(略)東アジアの文明は主観の集まりである。

だが欧米文明は主観の観察がありながら、客観の実証もある。心理的作 用以外に、感官の観察もある。その文明の境界は、心物に上回って、精 神と物質の両者を兼ねる精華である。)

蔡培火の視線では、西洋文明は東洋文明より遥かに優れていて、また、東

蔡培火の視線では、西洋文明は東洋文明より遥かに優れていて、また、東