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底辺社会経験と共産主義思想の結合

ロシアのモスクワの東方勤労者共産大学で留学した 2 年間は、謝と林は同 じく日本クラス(正式の名前はビュロー)で共産党の幹部育成の訓練を受けて

       

22  五・三〇事件。「五卅運動」、もしくは「五卅事件」ともいう。1925 年 2 月上海の日本工場 で年少労働者が日本人の管理者に殴り殺されたとことが起因で、そのあと、上海、青島の日本 工場の労働者がストライキを起こした。5 月、工場側代表と労働者代表との交渉中、工場側代 表が労働者代表を射殺し、ストライキとデモ活動がさらに激しくなり、やがり上海全域の反帝 国主義運動になった。しかし、30 日、大量の中国学生がイギリス巡捕と衝突し、デモ参加者 合計 13 人が射殺され、40 数人が負傷、逮捕された。

23  謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P181-191。 

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いた。そのため、二人共中国共産党の党員より、日本共産党の党員とよく交流 していた。

ロシア留学の意義は、謝が共産主義の理論を学び、自分の武器にしたこと にあると考えられる。その具体的な例として、『我的半生記』では、謝と日本 クラスのクラスメートとの衝突を記録している。

日本班同學大都是出身「好」的,大部分是現代產業工人或產業工人的子 弟,只有幾個人是資產階級知識份子(Bourgeois Intelligentsia――ブ ルジョアインテリゲンチャ)。因此在日本班產生了一種傳統思想氣氛,

即:他們認為日本是東方工業最發達的國家,他們認為現代產業工人,是 真正的無產階級、是最先進的;他們無形中產生了驕傲的心理,看不起、

不重視落後民族,歧視殖民地人民,以致於發展到對民族問題、殖民地問 題和農民問題的不正確看法。他們自認為只有先進的現代產業工人才能決 定世界革命的大局。當時,我竟被他們認為是一個殖民地資產階級小姐,

要不然怎能出國留學24。(筆者訳:日本クラスのクラスメートは大体「良 い」出身である。殆どは現代産業の工人もしくは産業工人の子弟で、数 人だけが資産階級の知識人(Bourgeois Intelligentsia――ブルジョア インテリゲンチャ)。これが原因で日本クラスには一種の伝統的な思想 の雰囲気がある。即ち、日本は東方において工業の最も発達している国 なので、現代産業の工人こそが本当の無産階級で、最も先進的である。

彼らは無意識に傲慢になり、後進民族を見下ろし、植民地の人民を差別        

24  謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P210。 

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する。そのため民族問題、植民地問題と農民問題に対して正しくない考 え方を持っていて、先進的な現代産業の工人こそが世界革命の大局を決 められる。あの時、私は植民地資産階級のお嬢様出身だと間違われてい た、でなければ留学ができないはずであるのだから。)

我感覺到日本班有這樣情況後,即同日本班支部的負責人秋田討論這個問 題。我用列寧的教導──即資本主義國家的先進的無產階級要幫助殖民地 人民即落後民族起來革命,不應該歧視、疏遠或拋棄他們。──來批評日 本班對待殖民地等人民的態度。但是,連做為一個支部負責人的秋田都同 樣有那種錯誤觀念和心態,以致於不能完全接受列寧的有關教導25。(筆者 訳:このような状況を気づいた後、私は日本クラスの責任者の秋田とこ の問題について議論した。私はレーニンの教え――資本主義国家の先進 的な無産階級は植民地の人民と後進民族を助け、革命をする。差別、疎 遠、見捨てるわけにはいかない。――で日本クラスの植民地などの人民 に対する態度を批判した。ただし、支部の責任者の秋田さえもあのよう な間違った考え方と態度を持っていて、レーニンの教えを全く受け入れ られなかった。)

その後、この差別問題と日本クラスの他の問題が指導員に知らされ、検討 会で取り上げられた。謝は検討会で、日本クラスに於ける差別問題を提出し、

指導員の了解を得た。指導員も謝の意見に賛同し、日本クラスのクラスメート たちも自分の間違いを認めた。

       

25  謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P219。 

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1927 年 11 月、謝と林はロシアの留学を終えて上海に戻り、1928 年 4 月 15 日、台湾共産党こと、「日本共産党台湾民族支部」が成立した。書記長は林木 順である。

しかし、4 月 25 日の上海読書会事件26で、林は逃亡し、謝と他の 4 人は逮捕 された。1928 年 6 月、証拠不足のため、謝は台湾で釈放された。書記長の林 の不在と他多数の党員が逃亡したという窮地の中でも、謝は諦めず、一人で党 の再建を目指した。この情勢の中に、謝はまず工会、産業別組織などとの連合 同盟の糾合に力を入れた。

そのために、謝は「社会科学研究部」を作った。この読書会と謝の活躍で、

農民組合の重要幹部は多数台湾共産党員になった。そのうちには簡吉、趙港、

簡娥、楊克培らも含まれている27。幹部が共産党に参加したため、農民組合も 急速に左翼寄りの組織になった。また、後に連温卿は謝の主導によって新台湾 文化協会から除名され、新文協も実質的に台湾共産党の配下となった。その結 果として、農民組合も新文協も、謝の手によって台湾共産党が指揮する「統一 戦線」の一部となり、台湾共産党も当時の左翼運動の一大勢力となった。

謝は「台湾農民組合青年部組織提綱」「台湾農民組合婦女部組織提綱」「台 湾農民組合救済部組織提綱」の 3 つの文書を起草し、1928 年 8 月 29 日の農民        

26  上海台湾読書会は台湾共産党の関係組織で、そのメンバーは殆ど台共の党員である。この 読書会は 1928 年 3 月から 4 まで合計 3 回も日本警察によって検挙された。謝は逮捕され、林 木順は逃亡した。 

27 陳芳明『殖民地台灣 左翼政治運動史論』、台北市:麥田出版、2006 年、P73-74。

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組合中央委員会に提出した。審議の結果は採択されることに決定し、この方針 に基づき青年部、婦女部、、救済部の確立と拡大を行うべきことを決議した。

「台湾農民組合青年部組織提綱」の内容について、謝はこう述べていた。

無産青年運動発展の直接原因は彼らが資本主義制度下に於ける工場、農 場、鉱山其の他各種生産機関及び事務所等に於て労働し、極度の搾取を 受け、彼ら自身の地位及び使命を認識し、斯くて自己の階級的利益擁護 の途を知り、起つて団体を組織して搾取に抗争し依つて自己の階級隊伍 を防衛せんとしたるに起因す。28

ロシア留学前の謝は確かに書き読みが殆どできないと言えるが、謝の署名 が付いている文章、もしくは書き読みの仕事の多くは、謝の口述と林木順の代 筆によって完成したものである。ロシア留学を終えた後、謝の文章力も確かに 向上したが、やはり自力で文章一つを仕上げることも難しく、大体謝がまず草 稿や大要を書き、また謝の口述と林の代筆で文章を完成したということが、『我 的半生記』では何度も言及されている29。台湾農民組合のこの三つの提綱もこ のような方法で完成したと推測できる。この時点で謝はすでに楊克煌と知り合 いになり、『我的半生記』も楊の筆録で完成した。この事実から見れば、この 三つの提綱も楊の助けによって出来たと考えられる。

       

28 台湾総督府警務局編、吳密察解題『台湾総督府警察沿革誌』、台北市:南天、1933-1942 年、

P1072。 

29 謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P177、223、

247-249。

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また、「台湾農民組合婦女部組織提綱」について、以下の内容は注目すべき である。

我等台湾婦女が現在生存する資本主義社会は經濟上、社会上或いは特殊 の総督政治等、数層の圧迫により饑寒、威嚇、輕侮を受け生活不安は已 に日一日深刻を加へて更に封建殘餘勢力の圧迫――宗教道徳、家族制度 等などの束縛を加へ――女子をして深き非人間生活の惨境に陥らしめ たり。

故に台湾婦女は自らを開放するが為に無産階級運動に参加し、其の指導 下に団結せざるべからず。換言すれば婦女運動は即ち無産階級運動の一 部隊たるべし。

我等は現制度下に在りては啻に男子と同等の待遇に到り得ざるのみず らず、婦女を一個の人とさへ認めず、有する権利は総べて剥奪し去られ ん。我等知る、日本帝国主義の治安警察法第五条――婦女は絶対に政治 結社に加入するを許さず――此れ彼等の立憲国たるの真義に違反せり。

我等農工階級の恩人レーニンは我等に告げて曰く「政治闘争は婦女の為 に其の圧迫を脱する第一歩なり」と、我等台湾婦女は徹底的解放を要求 し、法律、其の他一切の障害物を排除すべし30

このようにみてくれば青年部、婦女部、救済部の三つの綱領は、謝のロシ

このようにみてくれば青年部、婦女部、救済部の三つの綱領は、謝のロシ