國立台灣大學文學院日本語文學研究所 碩士論文
Department of Japanese Language and Literature College of Liberal Arts
National Taiwan University Master Thesis
台湾民衆運動家・謝雪紅の抵抗
──知識人との比較を通して──
The Resistance of a Taiwan Activist, Hsieh Hsueh-hung -Comparison with The Intellectual-
賀子芸 Tzu-Yun Ho
指導教授:辻本雅史 博士 Advisot: Masashi Tujimoto, Ph.D.
中華民國 104 年 6 月
June 2015
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謝辞
三年間、終始丁寧なご指導を頂きました辻本雅史教授に心より厚くお礼を 申し上げます。論文のことで悩んでいた私に、辻本教授はいつも心温かい言葉 で励ましてくださり、おかげさまで私は諦めず最後まで頑張ってきました。
また、本稿をご精読いただき、熱心かつ的確なコメントを頂きました本学 の徐興慶教授と国立台北教育大学台湾文化研究所の何義麟教授に深謝いたし ます。京都大学で一年間にお世話になった小山静子先生にも感謝を申し上げま す。ゼミで学んだ論文の作り方を私はいつも覚えていて、大事にしています。
そして、四年間ずっと応援してくれた両親にも感謝いたします。
最後になりますが、学友であり、親友でもある鄒評、劉品宜、殷婕、吳勤 文、曾婧芳、徐廷瑋、王薇婷、侯紀安にも感謝いたします。大変お世話になり ました。ありがとうございます。
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要旨
本稿の目的は、台湾植民地時期の社会運動の参与において、知識人と非知 識人の出発点や立場の違いを探求することである。まず非知識人の代表こと謝 雪紅の生涯を軸にし、謝が終始強権に対して抵抗を諦めなかった事実を整理す る。次に同時代の知識人、蔡培火、蘇新との比較で、謝こそが本当に「台湾ア イデンティティー」を持つ革命者であることを証明する。本稿はまず『我的半 生記』を引用して謝の幼年期から青年期までの底辺社会経験をまとめる。そし てモスクワでの留学で、謝は共産主義の方法を学び、台湾共産党の活動で共産 主義の方法を日本植民政府に抵抗する武器にした。日本敗戦後、国民党政権の 再植民と二二八事件を経験した謝雪紅と台湾民主自治同盟のメンバーたちは
「中国正統」の観念こそが台湾の民主と自由の最大の敵だと気付き、「台湾独 立」から「台湾自治」に立場を転換した。この転換は逆に謝雪紅の「台湾アイ デンティティー」を証明したと本稿で説明する。知識人の代表として蔡培火と 蘇新を取り上げ、二人とも晩年に強権に妥協し、「中国正統」の観念を認めた。
蔡と蘇は二人共底辺社会に生きる人達と台湾民衆の苦しみに対して、切実な共 感を欠けていて、本当の弱者の苦しみをわかっていない。謝雪紅が非知識人と して強権に対して終始抵抗の姿勢を取った革命者の特質が蔡、蘇との比較の中 で、さらに強調された。
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摘要
本文旨在探究日治時期非知識份子與知識份子在社會運動的參與上,其出發 點與立場的不同。非知識份子以謝雪紅為代表,先以其生涯為主軸,梳理謝雪紅 自始至終對強權政治的抵抗態度與台灣本位的立場,並在與同時代的知識分子的 比較中,凸顯謝雪紅作為一位真正的具有台灣認同的革命家的獨特性。本文先從 謝雪紅口述的『我的半生記』著手,整理謝雪紅童年至青年時期的底層經驗,而 這些經驗成為日後支持謝雪紅選擇共產主義的基石。在莫斯科的留學經驗與台灣 共產黨的活動中,謝雪紅透過實務的社會運動經驗,習得以共產主義抵抗日本殖 民主義的方法。在體驗了國民黨政權的再殖民與二二八事件之後,謝雪紅從支持
「台灣獨立」轉而主張「台灣自治」,此一轉變意味著謝雪紅與台灣民主自治同 盟成員意識到「中國正統」觀念對台灣的威脅性,同時也證明了謝雪紅台灣認同 的立場。知識份子以蔡培火與蘇新為代表,兩者雖在社會運動上的路線有所不同,
但其共通點便是在其晚年皆與強權政治妥協,接受了「中國正統」的概念,成為 強權政治的代言人。而本文將此差異性歸因於知識份子對於底層社會所承受的痛 苦缺乏切身的體會,且對強權政治妥協的知識份子對掌權者來說在政治上具有可 利用性。在此對照下,更確立了謝雪紅身為一位非知識份子,自始至終堅持抵抗 強權政治,永不妥協的革命者特性。
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Abstract
This thesis is about comparing the difference of participating of social movement between the intelligentsia and the non-intelligentsia in Japanese Colony Period. This thesis starts from the childhood and youth of Hsieh Hsueh-hung, as the representative of non-intelligentsia. The experience of lower class became the motive which made her choose to be a communist. During Hsieh Hsueh-hung studying in Communist University of the Toilers of the East, she learned how to use communism as the weapon and put it in use to fight against Japanese colonial government and colonialism after she became the leader of Communist Party of Taiwan. After 228 Incident, Hsieh Hsueh-hung turned her point from “Taiwan independence” to
“ Taiwan Autonomy”. The change meant that Hsieh Hsueh-hung and the other members of Taiwan Democratic Self-Government League understood that “China legitimism” has been threating the freedom of Taiwan. The change also prooved that Hsieh Hsueh-hung did have “Taiwanese Identity”.
In comparison with the intelligentsia, Tshua Pue-Hue and Su Hsin for example, obviously, Hsieh Hsueh-hung had her own “Taiwanese Identity” as a revolutionary.
This thesis considers that it’s because that intelligentsia lack the experience of lower class and they can’t really understand the pain of lower class.
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目次
謝辞
_______________________________1要旨
_______________________________2摘要
_______________________________3Abstract
_____________________________4目次
_______________________________4序章
第一節 研究目的__________________________7 第二節 先行研究_________________________11 第三節 問題意識_________________________15
第一章 謝雪紅の共産主義への目覚め
第一節 謝雪紅の底辺社会経験___________________17 第二節 底辺社会経験と共産主義の連結_______________28 第三節 まとめ__________________________34
第二章 「台湾独立」から「台湾自治」への転換
第一節 二二八事件の後と「台湾高度自治」の提出__________37 第二節 『新臺灣叢刊』と「台湾民主自治同盟」の成立________44 第三節 中国共産党の弾圧と「台湾人無漢奸論」___________51 第四節 まとめ__________________________55
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第三章 蔡培火と自治運動――謝雪紅から見る右翼運動
第一節 蔡培火の自治論と戦後の蔡培火_______________68 第二節 謝雪紅と蘇新の衝突____________________82 第三節 まとめ__________________________102
結章__________________________106
年表__________________________112
資料と文献
___________________________1147
序章
第一節 研究目的
2014 年の 318 事件1が爆発した後、そのデモに参加した各団体は、ネットや テレビで大衆の注目を集めたその時に、これらのメデイアルートを通じて自ら の主張を宣伝するようになった。これらの主張に刺激され、また多くの団体が 成立した。
この一連の流れの中で、筆者はいくつかの事象を指摘したい。その一つは、
各団体は「台湾独立」に対して、それぞれ違う展望を持っており、その達成す るための方法にも相異がある。こうした相異点が各団体の間の衝突点となった。
2 つ目は、各団体は社会運動の理想の形態について、それぞれ違う期待を持っ ている。318 事件の当時、行動を共にした各団体は、多団体の連合会議で全行 動の方向を決めることを拒絶した。その結果、ある単一団体が他の団体の意見 を二の次にし、全行動を率いることになった。3 つ目は、言葉による意見表明 を武器にすることの出来ない人は、団体やデモ活動から排除され、参加しよう と思っても出来ず、その発言権が次第に奪われるようになっていた。
この三つの問題はそれぞれ違うように見えるが、その内面は実は繋がって いると考えられる。それは、社会運動において、知識人と非知識人がお互いに ついて理解が欠けていて、相手の立場や観点に対する理解不足によて生じた対
1 318 事件。2014 年 3 月に起きた台湾民衆により、台湾と中国の「サービス貿易協定」を阻止 するため国会を占拠し、座り込みを行った事件。日本語ではひまわり学生運動と言うが、学生 以外の市民も多数積極的に参加したので、「学生運動」と名付けることは不適切だと思う。今 は「ひまわり運動」の代わりに「318 事件」と名称を正そうとする声がある。
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立だと思う。特に知識人は、論述や論争において、非知識人より遥かに長じて いて、そのため知識人たちも理論の争いに集中し、非知識人の意見を疎かにす る傾向があった。318 事件の後期から、これらのことが問題にされ、検討しよ うとする声もあった。しかし、1 年後の今でも、知識人と非知識人の間にはま だその対応的に調整されていない。
学術では、知識人の論述はよく研究されるが、非知識人の社会に対する関 心はあまり学術研究の対象にされていない。こうした問題を解決するには、ま ず両者の差異を認め、それから非知識人の社会に対する関心の出発点や立場を 分析し、知識人の主張と比較する。また、非知識人が知識人の立場をどう見て いるのかを検討することによって、両者の相異点を明らかにすることが必要で あろう。
以上のような問題を考えるためには、謝雪紅は適切な研究対象であると、
筆者は判断した。
1895 年から 1945 年まで、日本の植民統治下、台湾人は差別され、搾取され、
文化が破壊され、自由も奪われた。これらの弾圧政治に対して、台湾人は終始 抵抗を諦めなかった。
謝雪紅は台湾の底辺層に生まれ、母親の葬儀費用のため兄弟たちに「童養 媳」2として売られた。しかし、その養母の虐待に耐え切れず、生家に逃亡し
2 童養媳とは、貧しい家から小学生ぐらいの歳の女児を買い、働かせてお金儲けになり、女児
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たが、その後また資産家の妾として売られた。商人の夫の張樹敏に連れられ、
謝も日本と中国へと同行し、何ヶ月か神戸と青島に住んだことがある。そこで 謝が見たのは、米騒動と五四運動であった。この二つの経験を経て、さらに林 木順と知り合った。こうした経緯を経て、謝は共産主義活動の道を選んだ。
謝が問い続けた社会的差別や諸矛盾は、次のようなものであった。まず、
日本帝国主義の被植民地として受ける不条理な民族的差別、台湾の資本家階級 の労働者に対する搾取の問題、伝統的な男子優越社会における女性差別とその もとでの婚姻制度の不条理などである。彼女はこうした社会の多様な不条理に、
正面から向き合い、それに異議申し立てを行い、抵抗して戦う生涯を送った。
つまり何重もの差別と支配を受けた側からの、懸命の抵抗活動であった。
謝の思想と運動を解明することは、台湾社会および台湾の底辺社会層の人 たちが直面する複雑な矛盾と葛藤の諸相を浮かび上がらせるはずである。つま り、謝の思想と行動を見ることを通して、近代の台湾社会が抱えざるを得なか った諸問題を、女性の、しかも非知識人の立場からたどり直すことになると考 える。
一方、謝と同時代の社会運動に参加していた知識人と言えば、1910 年代か ら 1920 年代まで東京に留学していた台湾青年たちが代表的であろう。彼らの 大部分は体制内の改革を擁護し、六三法撤廃運動から台湾議会設置請願運動ま で、新民会や台湾文化協会の成立、また雑誌『台湾青年』、『台湾』、新聞『台
が大人になったらまた自分の息子と結婚させ、子どもを産ませると言う、植民地時代まで行わ れた台湾の養女制度、実際には一種の奴隷制度である。。
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湾民報』、『台湾新民報』の成立など、社会運動に力を注ぎ込んだ。
彼らは林獻堂や蔡惠如など台湾の資産家と共に、台湾自治のために植民地 台湾と内地日本で活動した。その中でとりわけ蔡培火、林呈祿、羅萬俥らは、
代表的な知識人活動家であると言えよう。
また 1927 年、台湾文化協会は右翼と左翼の対立によって分裂し、林獻堂、
蔡培火、蔣渭水らは退会して、台湾民衆党を結成した。その後、林と蔡はまた 蔣の左翼傾向を理由にし、台湾民衆党から脱退し、台湾地方自治連盟を作った。
ここで見られるのは、林と蔡の一貫した右翼的傾向であるが、戦後台湾の 社会運動は 228 事件を始め一連の挫折ののち、林は日本へ渡った。一方蔡は、
中国国民党に参加し、権力中枢の一人となった。蔡の行動は、植民地時代から 彼の社会運動の仲間たちの反感を買い、白色テロを無視することと国民党によ る弾圧政治の賛美者となったことで非難されていた。
蘇新の出身は蔡とは類似性がある。蘇新は公学校を卒業後師範学校に入っ たが、日本人教師と学生の差別に対して不満を抱き、ストライキに参加したた め退学処分を受けた。その後、日本留学中にマルクス思想に触れ、共産主義の 革命路線を選んだ。蘇新も台湾共産党の党員だが、謝雪紅と楊克煌らの「国際 書店系統」ではなく、蔡孝乾、王萬得など上海大学、中国共産党党員の背景を 持つ「改革同盟系統」に属していた。蘇新は生涯、雑誌や新聞の文筆、宣伝活 動をしていた。しかし、蘇新と謝は仲が悪かった、その原因は政治理念の違い
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なのか、その外にまた何があるのか、本稿で分析を試みる。
以上のような事実をもとに、一体何故、もともと社会的不条理に対する抵 抗運動から出発しながら、謝と蔡、蘇は全く違う生き方の選択をしたのか、筆 者は考えずにいられない。本稿では謝と蔡、蘇を比較することで、謝の活動の 意味を考えたい。
第二節 先行研究
謝はその政治の主張と共産党党員の立場のため、台湾と中国において謝に 関する公式記録にも個人の記録にも、捏造、矛盾、根拠のない中傷が多い。陳 芳明は『謝雪紅評傳』の一書で、謝に関する公式記録と個人の記録を極めて細 かく整理し、捏造と誤りの記録を排除、さらに台湾左翼史の背景のもとに、謝 の生涯についての著作を発表した。たとえば、『台灣總督府警察沿革誌』に収 録された謝が台湾農民組合のために書いた三つの「綱領」、また謝自身が口述 し、楊克煌が筆録した『我的半生記』、そして楊自身の回想録の『我的回憶』
とその他の文書など、いずれも本稿には大変重要な資料である。その上、謝が 書いた文章も引用し、完全とは言えないが、ある程度は謝の思想状況をも確認 できる。
陳の研究は、謝の周りにいた左翼派の人たちとの比較と謝とこれらの人た ちとの政治上の比較を主にしていて、これによって謝の政治生命を描き出し、
台湾左翼史において謝の重要性と代表性を証明している。
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陳によれば、謝は現代台湾の政治家の中では、「圧迫」された少数者の本当 の意味を知っている人である。また、男性優越主義、帝国主義、資本主義、中 華優越主義の圧迫を受けているから、謝は植民地の抵抗運動は改革ではなく、
革命でなければならないと考えていたと陳は主張している。
また、謝の「台湾独立」、「台湾自治」、「台人治台」の主張の転換も問題に された。228 事件の後、謝が香港へ陣地を転じ、台湾時期に主張していた「台 湾独立」も「台湾自治」に転換した。また、1949 年以降中国共産党の指導を 受けた後、謝は台湾民主自治同盟主席の立場で、第一次中国人民政治協商会議 の中で新政協会の共同綱領を受け、「台湾自治」から「台人治台」へと転じた。
これ以後、謝は中国共産党の政策の擁護者となり、この動きによって謝も台湾 自治を主張する立場を失い、若年の謝の革命精神はここに至って完全に失われ たと、陳は述べている。
しかし、陳の研究について、林瓊華は、「流亡、自治與民主:試論陳芳明著 作『謝雪紅評傳』之貢獻及爭議」の一文で幾つかの論点について、その問題点 を指摘した。その一つは、陳は自分自身の台湾民族主義という立場を反映して、
意図的に謝と中国共産党との歴史関係を否定したこと3、もう一つは、謝の台 湾独立主張者のイメージである4。そのため、林は「女革命者謝雪紅的『真理 之旅』(1901-1970)」の一文によって、『我的半生記』を元にし、謝の人生と立 場に関して陳とは異なる意見を提出した。
3 林瓊華「流亡、自治與民主:試論陳芳明著作『謝雪紅評傳』之貢獻及爭議」、『台灣風物』、
60:2、台北県:臺灣風物雜誌社、2010 年 6 月、P158。
4 林瓊華「流亡、自治與民主:試論陳芳明著作『謝雪紅評傳』之貢獻及爭議」、『台灣風物』、
60:2、台北県:臺灣風物雜誌社、2010 年 6 月、P164。
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一方、植民地台湾の右翼社会運動について、陳翠蓮は「大正民主與台灣留 學生」の一文で、植民地時期 1920 年代の台湾右翼知識人は大正デモクラシー の影響を受け、当時日本の言論界の主張を借りて植民政治に抵抗する武器にし、
活動していたと主張した。大正デモクラシー期の主流の言論は、憲法主義、ア ジア主義、温和自由主義、キリスト教人道主義などがあって、それぞれの立場 から植民地問題に関心を寄せ、同化主義や弾圧植民政治を批判した。故に、植 民地青年たちが植民地母国の協力を求める時は、自然に右翼派は左翼派より友 好的だと思い、右翼の勢力を頼ることになる。研究の結果を示した通り、台湾 留学生が請願運動で提出した主張も、大体憲法主義、人道主義、文明植民説の 枠組みの中で文章を書いた5。蔡培火はまさにこういう植民地青年の一人であ る。
蔡は植村正久によってキリスト教徒として洗礼を受けただけではなく、蔡 の働きによって植村は人道主義の立場から植民地台湾に対して同情を寄せて いた。また、植村の紹介によって、蔡は田川大吉郎、江原素六と知り合いとな り、また田川の助けによって尾崎行雄、島田三郎らの応援を得た。彼らは『台 灣青年』に寄稿したり、若しくは帝国議会の中で台湾議会設置請願運動に協力 していた6。
以上を見れば、蔡培火の重要性を充分に説明していると思う。しかし、蔡
5 陳翠蓮、「大正民主與台灣留日學生」、『師大台灣史學報』、第 6 期、台北市:國立臺灣師範大 學臺史所、2013 年 12 月、P84-86。
6 葉榮鐘、『日據下台灣政治社會運動史(上)』、台中市:晨星、2000 年、P218。
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の評価に関して、様々な不一致が見られる。蔡の称賛者は大抵植民地時期の蔡 の抗日活動を書き、台湾自治と言論自由の要求の主張に立脚し、その貢献を肯 定する。しかし、これらの研究は戦後の蔡の行動と文章を取り上げていない。
戦後の蔡には、植民地時期の弾圧政治への抵抗意識が見られなかっただけでは なく、国民党政権による白色テロにも目を向けることなく、蔡は独裁政治の賛 美者となった。戒厳時期に蔡に対する圧倒的な賛美、好評に対して批判的な論 者たちは、次のように主張した。
林冠瑜は「論述的彼端──蔡培火話語中的性格與心理」で蔡の日記によっ て蔡の個性と心理を分析した。蔡は自分の行動を高い道徳観に合わせて解釈す る傾向があって、自分は如何に台湾の為に努力しているかと強調し、自分の弱 さを合理化していると、林は主張した7。
洪可均は「日本與中國──蔡培火的『母國』與『祖國』」の中で、植民地時 期の蔡が提唱していたのは、植民政府による台湾人への差別待遇を改善するこ とで、「母国」日本の植民政治の正当性への反抗ではないと指摘した。しかし、
戦後の「母国」は「敵国」となり、戦前に何度も否定した「祖国」は攻撃して はいけない対象となって、最後に、「党」の存在はまた「祖国」に凌駕する存 在となった。故に、蔡の本当の意図にしても、台湾議会のための働きにしても、
蔡を評価することは、単一の角度で行うべきではないと、洪は書いた8。
7 林冠瑜、「論述的彼端──蔡培火話語中的性格與心理」、『臺灣史料研究』、vol.32、台北市:
吳三連台灣史料基金會、2008 年 12 月、P157-158。
8 洪可均、「日本與中國──蔡培火的『母國』與『祖國』」、『政大史粹』、vol.23、台北市:國立 政治大學歷史學系、2012 年 12 月、P100。
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蘇新について、陳芳明は『植民地台湾 左翼政治運動史論』で蘇新生涯の 政治活動をまとめた。「第五章 蘇新的生平與思想初論」で、蘇が所属してい た「改革同盟」と謝の対立を細かく説明し、両者の対立において、蘇の立場と 行動は台湾共産党に如何なる影響を与えたかを解説している。謝と「改革同盟」
との対立は、表では「赤色総工会」の成立か否かの問題で、謝は「総工会」は 各職種の「工会」(組合)を確立してから作る方が妥当だと主張したが、改革 同盟派はコミンテルン東方局によって出来るだけ早く「総工会」を作らなけれ ばならないというのである。しかし、その裏には改革同盟派と謝の権力闘争の 問題がある、陳はそのように述べている9。
第三節 問題意識
本稿は、謝が始終共産主義に固執してきた理由から検討したい。謝は自分 の人生を通して何を見てきたのか、それを確認するとともに、これらの経験の 謝の人生に対する意味を分析し、謝の行動と思想の根本を確かめる。
これらの部分を整理することによって、謝の中にある男性優越主義、帝国 主義、資本主義、中華優越主義の関係も明らかになり、謝の抵抗姿勢も浮かび 上がってくる。これらの内容で、陳芳明の研究で挙げた謝の主張の転換に対し、
謝の政治理想の内実や中心思想を確認する。
次に、当時の主流であった、右翼知識人運動者の社会運動の視点を考察す る。まず、右翼知識人と大正デモクラシーとの関係、とそこから受けた影響を
9 陳芳明『殖民地台灣 左翼政治運動史論』、台北市:麥田出版、2006 年、P211。
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まとめる。これを前提として、右翼知識人運動者、台湾議会設置請願運動の代 表人物と言える蔡培火を取り上げ、蔡の姿勢、思想、アイデンティティーに注 目する。また、台湾共産党内部の「改革同盟」に所属していた蘇新を取り上げ、
台湾共産党内の男性知識人と謝雪紅との衝突を明らかにする。以上によって、
謝の独自性が浮かび上がってくるはずである。また、謝の視点から蔡、蘇の主 張を分析し、謝が二人とは異なる路線を選び、結局彼女が生涯、共産主義を堅 守していった理由も明らかになると思われる。
謝と二人の比較によって、謝と蔡、蘇とのアイデンティティーも一つの違 いも明らかになってくるはずである。これによって謝の抵抗姿勢と政治理想が 繋がって理解されていく。謝の抵抗と理想について、現代に生きる私たちは何 を学ぶことができるのか考えたい。また、植民地時代から戦後まで、左翼運動 者と右翼運動者の衝突の一つの側面を見ることによって、政治的衝突が絶える ことがない現代の台湾の政治状況を考える視点も探りたい。
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第一章 謝雪紅の共産主義への目覚め
第一節 謝雪紅の底辺社会経験
本稿はまず、謝雪紅の『我的半生記』を軸として、謝雪紅が革命者、共産 主義者として生きていた礎――謝の前半生の経験から述べる。
『我的半生記』一書の成立については、以下の通りである。
謝雪紅が『我的半生記』に書き留められた内容を口述するのは、楊克煌の 註によれば、おそらく 1970 年の始めだと推測できる。「可憐的謝啊!想不到寫 到這裡的八個月後,你就離開人間了!再也不能聽你講你的故事了!10(筆者訳:
可哀想な謝よ!まかさこの部分を書いた 8 ヶ月後、君は亡くなるとは!もう君 の話を聞くことはできないんだ!)」と楊克煌は書いている。謝が亡くなった 期日は 1970 年 11 月 5 日で、つまりその 8 ヶ月前は 1970 年 3 月くらいである。
1928 年の 8-9 月の頃、謝と楊は已に知り合いになり、楊は書き読みの苦手 な謝に代わって文書の仕事をしていた。その後、二人は恋人同志となり、また 社会運動の同志の間柄になった。しかし、1931 年 6 月 26 日、謝と楊は日本植 民政府に逮捕されたが、楊は 1935 年に先に釈放されて出獄した。当時の楊は、
謝は多分釈放されないと思い、その上、暮らしを立てる方法もなく、仕方なく 持参金のある女性と結婚し、三人の娘をもうけた11。『我的半生記』の出版者及
10 謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P83。
11 陳芳明『謝雪紅評傳』、台北市:麥田出版、2009、P182-183。
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び編集者楊翠華は、その三人の娘の一人である。
しかし、謝は 1939 年 4 月 7 日に釈放され、二人はまた昔通りの関係に戻っ た。そして 1947 年 5 月、二人は一緒に中国に逃亡し、1970 年 11 月謝が亡く なるまで、謝と楊は事実上の夫婦として生きていた。1992 年、謝雪紅が口述 し、楊克煌が筆録した謝の前半生を記録したこの資料は、楊翠華が中国から持 ち帰り、2004 年に『我的半生記』という一冊の本として出版された12。
以上が『我的半生記』の成立の経緯である。
1901 年 10 月 17 日、台湾が日本の植民地になってから六年目、謝は台湾中 部の彰化の貧しい家で生まれた。
父親はかつぎ人夫で、母親は日本人家庭の洗濯、養豚など色々の仕事を持 っていたが、それでも食べ物にも困る日々を送っていた。富裕層や日本人家庭 の残飯を拾い、洗った後食べることもしばしばあり、謝自身も 7、8 歳の時か ら日本人の子どもの世話をする仕事を始めた。
謝の両親は二人とも過労で病気にかかって早死にした。葬式をあげる金も なく、父親謝匏が病気で倒れた時に、次女謝絁は地主の後妻として売られ、母 親陳銀が亡くなった時に三女謝阿女(後に謝雪紅に改名)も地主の養女として 売られた。貧困の故に、八人兄弟のうちに四人が売られた。人身売買、特に無
12 謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P7。
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産階級の子どもと女性の売買は、当時では珍しいことではなかった。
1913 年旧暦 10 月、謝が売られた年、彼女はまだ 12 歳にすぎなかった。
当時台湾の「養女」にはおおむね 3 つの種類がある。一つは、本当の自分 の娘のように養育し、学校も行かせ、大人になったら嫁に送り出す。もう一つ は「查某嫺(嫻)仔」、これは労働力や金儲けを前提として他人の娘を買った ので、大人になったら嫁ぎ先から金をもらって嫁に出す場合もあるが、娼家な どに売り出すことも珍しくない。3 つ目は主に自分の息子の妻、もしくは妾と して他人の娘を買う。もちろん労働力として働かせる。こういう場合は「童養 媳」と呼ぶ。
謝の養父の洪仔喜は元々農民だったが、地主出身の妻と結婚した後、妻の 要求で乾物屋を経営していた。謝はこの洪家の長男の「童養媳」として買われ た。養母に過重な労働を課せられただけではなく、理由もなく罵られ、殴られ た。当時のことについて、謝はこう述べている。
洪家處境漸漸地惡化,也漸漸地把贍養他家和他小老婆家的生活重擔大部 分第壓在我的雙肩上了。當時,我還不曾聽過任何革命思想,何況我的腦 海裡還充滿著許多封建觀念,例如女人的三從四德呵、我是被賣的呵、命 運呵等等。自己還未能覺悟,只是聽任命運的擺佈的,又自認被賣給洪家 當童養媳,唯有忍受那舊社會殘酷的壓迫和剝削了。13(訳:洪家の経済
13 謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P79。
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状況も段々悪化し、養父家とその妾の生活費の重圧の大部分が私の負担 となった。当時、私は何の革命思想も知らず、頭の中に封建的な思考し かなく、例えば、婦人の三従四徳や、私は売られた身、運命など、まだ 目覚めていない、ただ運命に流されただけ。また、自分も洪家の童養媳 として買われたので、旧社会の残酷な圧迫と搾取を我慢するしかないと 思っていた。)
当時では、同じ仕事をしても女性の給料は男性よりより少なく、さらに、
謝の給料と労働の成果はすべて養父母に取りあげられた。自分が受けた封建制 と資本主義の二重の圧迫について、謝はこう理解していた。
這個時候,最多只是如列寧所說的:不意識到自己的奴隸地位,而過著默 默無言、渾渾噩噩的奴隸生活的奴隸,是十足的奴隸狀態而已。14(訳:
この時は、レーニンが言った通り、「自分の奴隷地位に意識もせずに、
ただ無言で、混沌とした奴隷生活を送っている奴隷は、充分な意味での 奴隷状態である。」)
この引用文は、謝雪紅の生涯を示しているように、とても重要な一段落で ある。原文はレーニンの「紀念葛伊甸伯爵」(初出:1907 年 6 月)である。
意識到自己的奴隸地位而與之作鬥爭的奴隸,是革命者。沒有意識到自己 的奴隸地位而過著默默無言、渾渾噩噩、忍氣吞聲的奴隸生活的奴隸,是
14 謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P101。
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十足的奴隸。對奴隸生活的種種好處津津樂道並對和善的好主人讚賞不已 以至垂涎欲滴的奴隸是奴才,是無恥之徒15。(筆者訳:自分の奴隷地位に 意識して闘争を行う奴隷は、革命者である。自分の奴隷的地位に意識を せずに、ただ無言で、混沌で、泣き寝入りをする奴隷生活を送っている 奴隷は、充分な意味での奴隷である。奴隷生活の種々利益を賛美し、優 しくていい主人をも賛美し、よだれを垂らして欲しがっている奴隷は奴 僕、恥を知らない輩である。)
この時期の謝は間違いなく奴隷であった。しかし、謝は生涯をかけて強権 と差別に対抗し、やがて自分は間違いなく「革命者」であることを証明した。
この点について、また第二章で言及する。
養母に過重な労働を課せられた。養母の家庭と養父の妾の家庭、合計 6-8 人の生活費の殆どが 12 歳の謝の責任となり、その上、養母の虐待がひどくな る一方あったので、謝は耐え切れず、自殺を決心した。この謝の飛び込み自殺 を止め、絶望から謝を救い出したのは近所の女性たちであった。
1918 年 12 月のある日、謝は養家から逃げ出し、生家に帰った。しかし、謝 を身請けするお金は勿論ない。その時に、資産家の張樹敏からの縁談がきた。
言うまでもなく、この縁談の本質もただの人身売買である。その当時の自分の 境遇について、謝はこう理解していた。
15 列寧著、中共中央馬克思、恩格斯、列寧、斯大林著作編譯局編譯「紀念葛伊甸伯爵」、『列 寧全集 第十六卷』、北京:人民出版社、1988 年 10 月、P37。
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在當時萬惡的舊社會,人身買賣是合法的;窮苦人家被迫賣兒鬻女的事是 家常便飯,不足為奇的。日帝的法律公然承認人身買賣是合法的,例如,
窮人把女兒賣給富人當奴僕(查某嫻仔),日帝美其名為養女;但這種養 女常常是不被當人看待的,而且隨時可以在被轉賣。當時的婚姻也大都是 買賣式或變相的買賣式;所謂聘禮(聘金)就是這種買賣式婚姻的賣身錢。
(略)…童養媳則是露骨的買賣式婚姻,且兼有女奴僕及養女的性質。
(略)…而我自己只像一隻兔子、一頭豬一般,當人家買賣議價的對象。
16(筆者訳:当時の罪悪な旧社会において、人身売買は合法である。貧 しい人が自分の子どもを売ることは珍しくなかった。日帝の法律は人身 売買は合法であると認めている。例えば、貧しい人が娘を金持ちに下女 として売ったことを、日帝はこれを養女とみなした。しかし、こういう 養女は人間扱いされていない、しかもいつでもまたどこかへ売られるこ ともある。当時の婚姻も大体売買である。いわゆる聘金もこういう売買 婚姻の身売りの代金である。…童養媳は露骨な売買婚姻で、しかも同時 に下女と養女の性質を持っている。…私はただうさぎや豚のように、売 買され、値付けされた商品だった。)
今度は、謝は資産家の妾として売られた。
張樹敏という人物は、一体謝雪紅にとって、どのような存在であるのだろ うか、また、二人の関係は謝にどのような影響を与えたのか、これらの問題を 考察するために、まず、謝は張樹敏のことをどう思っていたのかから述べて行
16 謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P121-123。
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かなければならない。
謝、張、と後に登場する謝の社会運動の同志、林木順の三角関係の中で、
謝は張に非常に嫌悪感を感じるが、『我的半生記』の記述を見れば、張は確か に謝に恋愛感情を持っていたと推測される。張の女性関係はかなり複雑である が、謝だけには執着心を持ち、神戸、青島、上海も謝一人だけを連れて行った。
さらに、1931 年から 1939 年までの謝が投獄された時期も面会に来て、謝が釈 放された時も自分のところへ帰ってくれないかと彼女に懇願をした。もちろん、
謝は二度とも強く張を拒絶し、張は諦めるしかないということになった。
前述の通り、謝は自分のことを「買われた妾」だと理解し、張という存在 もただ封建制度の象徴で、自分と張の関係も封建制度を前提とした男性が女性 に、資産家が貧困者に対する支配でしかない。謝は自分の出身と学校教育を受 けていないことに生涯コンプレックスを持っていてた。頑固で気の強い謝が、
このような関係に納得するはずがない。特に、封建制度や貧困者の立場を理解 していない資産家などは、共産主義の影響を受けた謝にとっては対抗すべき相 手であり、謝が張に反抗的な姿勢を取るのはやむを得なかったことであったろ う。
このような婚姻関係及び社会制度は、資産家出身で、封建制度の既得権益 者としての張には当たり前のことである。つまり、張は謝の苦しみやコンプレ ックスを理解できない立場にあったと言えよう。
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また、上海の五・三〇事件の前後、謝とと共に社会運動に参加している人 たちやモスクワ留学を終えて上海での台湾共産党の創設期の同僚、もしくは台 湾共産党員の中に、やはり男性の知識人が多く、謝を「逃げ出した妾」や「小 学生程度の書き読みすらできない女」と差別する人もいた17。さらに、謝は一 人の女性として、台湾共産党の活動を指揮していた。そのため、謝のに対して 内心で不満を唱える党員もいた。彼女は生涯このことに悩まされていた18。
1919 年の 1 月、張樹敏は謝を連れて、日本の神戸とへ出発した。そこで謝 が見たのは、米騒動であった。この事について、謝はこう述懐している。
我在神戶的兩三個月間,第一次接觸到日本革命運動,因當時正是日本「米 騷動」發生後不久,神戶又是米騷動最激烈的地方之一。米騷動是第一次 世界大戰後,因米價高漲,糧食被資本家壟斷、囤積居奇,窮人買不到米 吃,於是,廣大勞動人民自動組織起來,去打開壟斷糧商的糧倉,把糧食 搬出來分給大家。當時,林姓商人一家人都把他們親眼目睹的情況講給我 聽,他還說窮人起來搶大糧商的糧食是合理的。這種窮人和富人鬥爭的事 實,第一次在我思想上留下了深刻的印象19。(筆者訳:私が神戸にいた二 三ヶ月間のあいだ、私は初めて日本の革命運動に接触した。それは丁度 日本の「米騒動」が始まったたばかりで、さらに神戸は一番激しいとこ ろの一つであった。米騒動というのは、第一次世界大戦後、米価高騰の 中に、食糧は資本家に壟断され、貧困者は米を買うことが出来なかった。
17 陳芳明『謝雪紅評傳』、台北市:麥田出版、2009、P42。
18 謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P247。
19 謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P128。
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労働者たちは自ら組織し、米商の米倉を開け、みんなに分けた。あの時、
林という商人の一家は自分の目で見たことを私に教え、また、貧困者が 米商の食糧を奪うことは正当であると言った。このような貧困者が資産 家に抗う事は私の思想において、強く印象に残った。)
次いで同年 1919 年 4 月、謝は張に連れられ、商売のために青島へ転じた。
5 月、五四運動は中国各地を席巻し、青島も例外ではなかった。当時の青島 は日本軍に占領されている状態なので、日本帝国主義への反発は極度に高まっ ていた。天津大学の学生たちはよく非公開の演説を行い、謝も友人の紹介で演 説会を参加した。演説会ではよくロシアの「10 月革命」の話をし、写真や絵 などをも紹介した。
その時の気持ちについて、謝はこう述べた。
其中有一張照片,他們說這是工人、農民和士兵去攻打臨時政府機關(冬 宮)的情景:遍地覆蓋著皚皚的白雪,遠景的冬宮已被砲彈打中了許多處,
一批批革命鬥士正在向它衝上去;近景則躺著許多已犧牲的革命戰士,鮮 血灑滿片地,真是個前仆後繼、勇往直前的悲壯場面。革命的慘烈情景活 現在我眼前,令人熱血沸騰、心情激動久久不能平靜下來,我覺得自己好 像在夢中醒過來一般,對革命開始抱著無限嚮往的情感。(略)革命就必 定要流血,要革命就會有人犧牲20。(筆者訳:その中に一枚の写真があっ
20 謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P130-131。
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た。彼らの話によると、これは職工、農民、兵士が臨時政府機関(冬宮 殿)を攻める場面である。地面は白い雪に覆われている。遠景の冬宮殿 はすでに大砲に撃たれ、革命の闘士たちは次々と冬宮殿へ向かって突進 している。近景には、多くの犠牲になった革命戦士たちである。熱い血 が地面で広がっていく、なんという勇敢で悲壮な場面であろう。惨烈な 革命の場面を目の前にして、私の胸が熱くなっていき、動揺のあまりに 平静でいられなくなった。私は夢から覚めように、革命に対して限りな い憧れを抱き始めた。(略)革命には血を流さなければならない、革命 をすればきっと誰かが犠牲になる。)
生涯この気持を忘れないために、謝は自分に「雪紅」と名づけた。青島で 過ごした 1919 年の夏、謝は階級闘争思想の存在を知った。それは今までの人 生の転換点になったとも言えようと、彼女は述べている。
しかし、この段階の謝は、共産主義について、理論的な理解はまだ乏しい。
当時の日本軍の弾圧も激しかったので、革命運動も非公開的な活動が多く、謝 は直接に参加したわけではなかった。
1923 年の 4、5 月の間、謝はまた張に上海へと連れられていった。台湾基隆 から日本下関への汽船で、謝は留学を目指している林木順と出会い、謝、張、
林と林の二人の友人と共に上海に到着した。
上海に辿り着いたら、不平等条約、治外法権、租界地など、帝国主義の跋
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扈を知り、謝と林は憤慨し、勉強の目的は少しずつ革命をするための学習に傾 き、謝自身も社会活動に積極的に参加するようになった。
1923 年 6 月 17 日、上海の台湾留学生たちは反日集会を開き、謝と林も参加 した。特に謝はその集会の唯一の女性であっため、他の留学生たちにすすめら れ、自分の意見を述べてみた。
台灣婦女也應該出來做事,參加社會活動。要台灣人得到幸福,台灣婦女 也要參加──好比大石也要小石墊靠一般。21(筆者訳:台湾の婦人たち も立ち上がって、社会活動に参加するべきである。若し台湾人が幸せを 手に入れたいならば、台湾の婦人も参加するべきである――――大きな 石も小さな石の支えが必要である。)
ここで見られるのは、台湾人の現実を変えるために、社会運動は必要であ り、また台湾人であるという自己意識が現状改変と社会運動に繋がり、その運 動の中に、自分の居場所があると、謝は認識するようになった。しかし、実際 にはどうすればいいのか、またわかっていない。彼女の実践の試みは五・三〇 事件まで待たなければならなかった。
今回の旅は、1923 年 8 月に終わりを告げ、謝は張と共に台湾へ帰ったが、
まもなく謝は張と別居し、前の職場――ミシンの販売員――に戻った。この時 から、謝は中国へ留学することを強く望み、一生懸命働いてお金を貯め、1925
21 謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P156。
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年の 4 月に再び中国へ向かい、杭州で、杭州一中に入学した林木順と合流した。
この後すぐ、1925 年 5 月 30 日、いわゆる五・三〇事件22が勃発した。
元々帝国主義への反発としての民衆運動はすでに非常に盛んになっていた が、五・三〇事件に刺激され、さらに活発になった。革命運動に対して憧れを 抱いていた謝は、こういう社会の雰囲気の中ではもう勉強してはいられないと 判断し、思う存分民衆運動に身を投じた。
台湾出身の女性として、謝の活躍はすぐ大衆に注目された。同年 6 月、謝 と林は中国共産党の紹介で「共産主義青年団」に参加し、後に中国共産党党校 の影響が極めて強い上海大学への進学を薦められた。しかし、謝は書き読みが ほとんどできないので、教科書の内容はなかなか理解できない。とは言え、上 海大学への入学は意味がないではない。そうしたなか、1925 年 10 月、謝と林 は中国共産党員黄中美から、ロシア留学の中国共産党の指示をもらった。その 目的は、台湾で共産党を創設するための幹部育成でにあった23。
第二節 底辺社会経験と共産主義思想の結合
ロシアのモスクワの東方勤労者共産大学で留学した 2 年間は、謝と林は同 じく日本クラス(正式の名前はビュロー)で共産党の幹部育成の訓練を受けて
22 五・三〇事件。「五卅運動」、もしくは「五卅事件」ともいう。1925 年 2 月上海の日本工場 で年少労働者が日本人の管理者に殴り殺されたとことが起因で、そのあと、上海、青島の日本 工場の労働者がストライキを起こした。5 月、工場側代表と労働者代表との交渉中、工場側代 表が労働者代表を射殺し、ストライキとデモ活動がさらに激しくなり、やがり上海全域の反帝 国主義運動になった。しかし、30 日、大量の中国学生がイギリス巡捕と衝突し、デモ参加者 合計 13 人が射殺され、40 数人が負傷、逮捕された。
23 謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P181-191。
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いた。そのため、二人共中国共産党の党員より、日本共産党の党員とよく交流 していた。
ロシア留学の意義は、謝が共産主義の理論を学び、自分の武器にしたこと にあると考えられる。その具体的な例として、『我的半生記』では、謝と日本 クラスのクラスメートとの衝突を記録している。
日本班同學大都是出身「好」的,大部分是現代產業工人或產業工人的子 弟,只有幾個人是資產階級知識份子(Bourgeois Intelligentsia――ブ ルジョアインテリゲンチャ)。因此在日本班產生了一種傳統思想氣氛,
即:他們認為日本是東方工業最發達的國家,他們認為現代產業工人,是 真正的無產階級、是最先進的;他們無形中產生了驕傲的心理,看不起、
不重視落後民族,歧視殖民地人民,以致於發展到對民族問題、殖民地問 題和農民問題的不正確看法。他們自認為只有先進的現代產業工人才能決 定世界革命的大局。當時,我竟被他們認為是一個殖民地資產階級小姐,
要不然怎能出國留學24。(筆者訳:日本クラスのクラスメートは大体「良 い」出身である。殆どは現代産業の工人もしくは産業工人の子弟で、数 人だけが資産階級の知識人(Bourgeois Intelligentsia――ブルジョア インテリゲンチャ)。これが原因で日本クラスには一種の伝統的な思想 の雰囲気がある。即ち、日本は東方において工業の最も発達している国 なので、現代産業の工人こそが本当の無産階級で、最も先進的である。
彼らは無意識に傲慢になり、後進民族を見下ろし、植民地の人民を差別
24 謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P210。
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する。そのため民族問題、植民地問題と農民問題に対して正しくない考 え方を持っていて、先進的な現代産業の工人こそが世界革命の大局を決 められる。あの時、私は植民地資産階級のお嬢様出身だと間違われてい た、でなければ留学ができないはずであるのだから。)
我感覺到日本班有這樣情況後,即同日本班支部的負責人秋田討論這個問 題。我用列寧的教導──即資本主義國家的先進的無產階級要幫助殖民地 人民即落後民族起來革命,不應該歧視、疏遠或拋棄他們。──來批評日 本班對待殖民地等人民的態度。但是,連做為一個支部負責人的秋田都同 樣有那種錯誤觀念和心態,以致於不能完全接受列寧的有關教導25。(筆者 訳:このような状況を気づいた後、私は日本クラスの責任者の秋田とこ の問題について議論した。私はレーニンの教え――資本主義国家の先進 的な無産階級は植民地の人民と後進民族を助け、革命をする。差別、疎 遠、見捨てるわけにはいかない。――で日本クラスの植民地などの人民 に対する態度を批判した。ただし、支部の責任者の秋田さえもあのよう な間違った考え方と態度を持っていて、レーニンの教えを全く受け入れ られなかった。)
その後、この差別問題と日本クラスの他の問題が指導員に知らされ、検討 会で取り上げられた。謝は検討会で、日本クラスに於ける差別問題を提出し、
指導員の了解を得た。指導員も謝の意見に賛同し、日本クラスのクラスメート たちも自分の間違いを認めた。
25 謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P219。
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1927 年 11 月、謝と林はロシアの留学を終えて上海に戻り、1928 年 4 月 15 日、台湾共産党こと、「日本共産党台湾民族支部」が成立した。書記長は林木 順である。
しかし、4 月 25 日の上海読書会事件26で、林は逃亡し、謝と他の 4 人は逮捕 された。1928 年 6 月、証拠不足のため、謝は台湾で釈放された。書記長の林 の不在と他多数の党員が逃亡したという窮地の中でも、謝は諦めず、一人で党 の再建を目指した。この情勢の中に、謝はまず工会、産業別組織などとの連合 同盟の糾合に力を入れた。
そのために、謝は「社会科学研究部」を作った。この読書会と謝の活躍で、
農民組合の重要幹部は多数台湾共産党員になった。そのうちには簡吉、趙港、
簡娥、楊克培らも含まれている27。幹部が共産党に参加したため、農民組合も 急速に左翼寄りの組織になった。また、後に連温卿は謝の主導によって新台湾 文化協会から除名され、新文協も実質的に台湾共産党の配下となった。その結 果として、農民組合も新文協も、謝の手によって台湾共産党が指揮する「統一 戦線」の一部となり、台湾共産党も当時の左翼運動の一大勢力となった。
謝は「台湾農民組合青年部組織提綱」「台湾農民組合婦女部組織提綱」「台 湾農民組合救済部組織提綱」の 3 つの文書を起草し、1928 年 8 月 29 日の農民
26 上海台湾読書会は台湾共産党の関係組織で、そのメンバーは殆ど台共の党員である。この 読書会は 1928 年 3 月から 4 まで合計 3 回も日本警察によって検挙された。謝は逮捕され、林 木順は逃亡した。
27 陳芳明『殖民地台灣 左翼政治運動史論』、台北市:麥田出版、2006 年、P73-74。
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組合中央委員会に提出した。審議の結果は採択されることに決定し、この方針 に基づき青年部、婦女部、、救済部の確立と拡大を行うべきことを決議した。
「台湾農民組合青年部組織提綱」の内容について、謝はこう述べていた。
無産青年運動発展の直接原因は彼らが資本主義制度下に於ける工場、農 場、鉱山其の他各種生産機関及び事務所等に於て労働し、極度の搾取を 受け、彼ら自身の地位及び使命を認識し、斯くて自己の階級的利益擁護 の途を知り、起つて団体を組織して搾取に抗争し依つて自己の階級隊伍 を防衛せんとしたるに起因す。28
ロシア留学前の謝は確かに書き読みが殆どできないと言えるが、謝の署名 が付いている文章、もしくは書き読みの仕事の多くは、謝の口述と林木順の代 筆によって完成したものである。ロシア留学を終えた後、謝の文章力も確かに 向上したが、やはり自力で文章一つを仕上げることも難しく、大体謝がまず草 稿や大要を書き、また謝の口述と林の代筆で文章を完成したということが、『我 的半生記』では何度も言及されている29。台湾農民組合のこの三つの提綱もこ のような方法で完成したと推測できる。この時点で謝はすでに楊克煌と知り合 いになり、『我的半生記』も楊の筆録で完成した。この事実から見れば、この 三つの提綱も楊の助けによって出来たと考えられる。
28 台湾総督府警務局編、吳密察解題『台湾総督府警察沿革誌』、台北市:南天、1933-1942 年、
P1072。
29 謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P177、223、
247-249。
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また、「台湾農民組合婦女部組織提綱」について、以下の内容は注目すべき である。
我等台湾婦女が現在生存する資本主義社会は經濟上、社会上或いは特殊 の総督政治等、数層の圧迫により饑寒、威嚇、輕侮を受け生活不安は已 に日一日深刻を加へて更に封建殘餘勢力の圧迫――宗教道徳、家族制度 等などの束縛を加へ――女子をして深き非人間生活の惨境に陥らしめ たり。
故に台湾婦女は自らを開放するが為に無産階級運動に参加し、其の指導 下に団結せざるべからず。換言すれば婦女運動は即ち無産階級運動の一 部隊たるべし。
我等は現制度下に在りては啻に男子と同等の待遇に到り得ざるのみず らず、婦女を一個の人とさへ認めず、有する権利は総べて剥奪し去られ ん。我等知る、日本帝国主義の治安警察法第五条――婦女は絶対に政治 結社に加入するを許さず――此れ彼等の立憲国たるの真義に違反せり。
我等農工階級の恩人レーニンは我等に告げて曰く「政治闘争は婦女の為 に其の圧迫を脱する第一歩なり」と、我等台湾婦女は徹底的解放を要求 し、法律、其の他一切の障害物を排除すべし30。
このようにみてくれば青年部、婦女部、救済部の三つの綱領は、謝のロシ
30 台湾総督府警務局編、吳密察解題『台湾総督府警察沿革誌』、台北市:南天、1933-1942 年、
P1073-1075。
34
ア留学の成果と言えよう。
第三節 まとめ
謝雪紅は自分自身の底辺社会経験、婚姻経験から、台湾人が向き合ってい た封建制度、男性優越主義、帝国主義、資本主義の諸問題を気づいた。そして、
問題を解決するために、謝は深く考え、そうした中で共産主義に触れたことに よって、苦境の突破口を見つけたのである。
「米騒動」の事件を通して、「貧困者」と「資産家」の二つの階級の存在が 認識され、謝の自意識も受動的な封建的な奴隷から能動性のある無産階級へと 次第に変わり、自分と自分の所有者、例えば養母や張樹敏、との対立も、階級 によるものだと意識できるようになった。「貧困者の資産家への闘争」はただ 可能性があるだけではなく、もし社会の不平等が資産家の私利私欲によって生 じたものだとすれば、生活に行き詰まった貧困者の闘争は正当であると、謝は 捉えるようになった。
米騒動から五四運動まで、この時期の啓蒙について考察してみると、やは り一番の意義は、この二つの事件を通じて、謝は帝国主義と行き過ぎた資本主 義の二重の圧迫の下に民衆の反抗の力を知った。今までとは違い、より良い生 活と社会があって、それを手に入れる方法もある。しかも、このような力は、
自分の中にもあるかもれない、自分も努力すれば出来るかもしれない、そのよ うに彼女はと悟ったのである。
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換言すれば、今まで自分の身に降り掛かった不幸は「運命」などの不可抗 力がもたらしたものではなく、社会制度の問題だと気付き、自分の人生の主導 権を取り戻すことも可能であると、謝は薄々と気づいたのである。
そしてロシアで謝は共産主義という方法を学び、日本クラスのクラスメー トとの衝突で、差別問題を解決するためにその方法を実行した。
台湾共産党が成立して、台湾へ帰った後も、謝も同じような行動を取った。
台湾農民組合の三つの提綱が示した通り、謝自身も勿論その「無産青年」と「婦 女」の一人である。謝は共産主義の思想で自分の境遇を理解して分析をし、自 身の経験から、武器としての共産主義によって解決の方法を提出し、搾取、圧 迫された無産階級の困難を解決しようとした。この解決法を自分だけではなく、
自分と同じ「階級」の人たちにも適用する。女性、特に無産階級の女性は立ち 上がるべきで、無産階級運動の一部隊として戦う必要があると、謝は考えたの である。
女性の問題に関心を寄せていた女性共産主義者と女性社会主義者の中で、
女性の問題をただ性別の問題として扱う人は少ない。女性が圧迫された本当の 理由は「男女の対立」や「男性の女性に対する支配」などではなく、むしろ封 建制度に植民政治と資本制度が加わった末に、さらに女性を追い詰めたと、彼 女は理解した。「性別の問題をただ性別の方法で扱わない」という点において、
謝以外では、日本の、同時代の山川菊栄31もそう考えていた。
31 山川菊栄。旧姓青山、母側の曽祖父は儒学者・史学者の青山延寿。夫は山川均。働く女性
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謝がこの点に気づいたのも、彼女の底辺社会経験によるものだと考えられ る。謝は養母から異常な虐待を受けたことについて、謝はこれは養母の資産家 としての本質だと理解する32以外に、養母自身も封建制度の被害者だと捉えて いる。養母は養父が妾を持ってから冷遇され、元々性格の強い人だから極度の 怒りを抱えても、養父の行動はどうにもできない。それ故、この点においても、
資産家としての養母もまた、封建制度の被害者である。そのように、謝は確か に理解したのである33。
謝は自分自身の経験を通じて、封建制度における女性の複雑な立場を認識 したので、女性の問題はただ性別の問題ではなく、台湾人全体の問題であり、
また封建制度と帝国主義こそ台湾人を苦しめてきた原因であると主張した。
換言すれば、謝の中には常に多重の圧迫を受けている台湾人の影があり、
これらの苦痛と謝の独自の抵抗の精神は謝が革命者として生き続けた原動力 であると考えられる。
と子育てについて繰り広げられた所謂「母性保護論争」(1918‐1919 年)において、山川は、
資本主義がもたらした生活苦の問題は、ただ女性の問題だけではないと述べた。故に資本主義 そのものに注目すべきだと主張した。
32 謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P73。
33 謝雪紅口述、楊克煌筆錄、楊翠華編『我的半生記』、台北市:楊翠華、2004 年、P73。
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第二章 「台湾独立」から「台湾自治」への転換
第一節 二二八事件の後と「台湾高度自治」の提出
この後、台湾共産党は官憲の弾圧で、活動が制限され、その上台湾共産党 内部の権力闘争で、1931 年 5 月親中派の潘欽信、蘇新、王萬德らは謝と楊克 煌は党から除名された。これで中国共産党の台湾共産党への指揮権が確定し、
謝の台湾共産党への影響力は低下した。しかし、1931 年 6 月 26 日、官憲の大 規模な取り締まりで党員の大多数は逮捕された、謝もその中の一人である。謝 の釈放は 1939 年 4 月まで待たなければならない。
1941 年太平洋戦争が爆発し、植民地政府の台湾の社会運動に対する弾圧は 激しくなり、その四年後 1945 年 8 月 15 日に太平洋戦争は終わった。それによ って、台湾の社会運動はまた別の新しい局面を迎えた。
戦後から 1947 年 2 月二二八事件まで、台湾の政治、生活、民衆と国民党政 権との衝突について、『狗去豬來 二二八前夕美國情報檔案』の一書でその一 側面を記録されている。
本書の出版については、海外台湾人 Nancy Hsu Fleming がアメリカ議会図書 館で偶然で William Morgan が 1945 年から 1947 年までアメリカ合衆国国務省 への報告書を見つけたことが契機であった。その後、Nancy Hsu Fleming が William Morgan の息子から同意を得て、この報告書を台湾で翻訳して出版する ことになった。1945 年から 1947 年の当時、William Morgan はアメリカの戦略
38
諜報機関(Office of Strategic Services)で働いていて、彼の任務は日本の戦争命 令の情報、失踪したパイロットの行方の捜査、日本戦犯の逮捕などであり、そ の報告書としての電報はほぼ毎日送っていた。一人のアメリカ軍人から見れば、
当時の台湾はどう映っていたのか、本書に詳しく記されている34。
1945 年 10 月 5 日国民党政権による「台湾省行政長官公署前進指揮所」が成 立し、1945 年 10 月 15 日に国民党軍が基隆に上陸した。大多数の台湾人はや っと被植民者の立場から解放されると、期待と喜びの気持ちで国民党政権を迎 えた。ところが、一ヶ月も経たないうちに、台湾人は国民党軍の暴行を知るこ とになった。
William Morgan の 1945 年 10 月 26 日の電報では、中国軍隊による強盗事件 が多数報告されたと記している。中国軍隊は武器の摘発を口実にし、民家に侵 入して金銭、腕時計、アクセサリーなどを強盗した。特に台湾の北地域の被害 はかなり深刻であった。さらに、病院、日本軍倉庫、商店などまで被害を被り、
金銭、ブランケット、医薬品、腕時計、日本警察の日本刀、ジュアリー、衣服、
貨物など、中国軍隊による大規模な強盗犯罪が発生した。しかも、中国軍隊は これらを暴行の事実をアメリカ軍に着せようとした。そして 11 月 5 日までに、
合計 1000 件以上の攻撃事件と強盗事件が報告された35。
1945 年 11 月 23 日の電報では、当時台湾の政治、民生の総合情報が記録さ
34 Nancy Hsu Fleming 著、蔡丁貴訳『狗去豬來 二二八前夕美國情報檔案』、台北:前衛出版社、
2009 年 2 月、P5-13。
35 Nancy Hsu Fleming 著、蔡丁貴訳『狗去豬來 二二八前夕美國情報檔案』、台北:前衛出版社、
2009 年 2 月、P91-92、。