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薩摩藩の侵入過程

第三章   薩摩藩の侵寇との中日両属関係の発生

第二節   薩摩藩の侵入過程

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三は日明が相互に使者・国書を持って通じ、礼を勤めあうこと、です。⑥ この三者のうち、いずれか一つに従えば、和交によって両国の万民は恩恵 をこうむり、社稷(国家)の保全を長久のものにすることができるでしょ う。それを拒み、大将軍の輝くような徳に服さなければ、入寇を命じて戦 船を連ねしめ、明国の沿岸を平討し、城邑を陥し、人民を殺生することに なって、明の君臣に憂いをもたらすことになるでしょう。これすなわち、

通商と入寇との利害は白黒のようにはっきりしています。明国にすみやか に通告して下さい)。 52

書状の内容によれば、尚寧王は家久の恩を忘れない官人を明に遣わし、商船 の通交往来を許してもらうことを願い出して、自分の過ちを正すこと、また、

関東に行ったとき、大将軍家康が九州の武士に命令を発し、明国を寇そうとし たとき、家久が仁義の言説でこれをやめさせ、琉球に通商の議を計った上で、

兵を出すか出さないかを決めても遅くないことを認めてもらったことは聞い た通りであるから、そちらから「従日本三事」を明国に伝えてほしいといって いる。三つの事とは、第一、偏島で通商をすること、第二、毎年琉球で日中の 商船が貿易をすること、第三、使者の往来を行い文書を交換して正式な交流を 行うことである。53この三つ事の一つでも実現できるなら両国の万民が恩を受 け、国家も安泰であると、もし実現しなければ大将軍は戦船で沿海を討伐し殺 傷を行うというのである。

第二節 薩摩藩の侵入過程

十六世紀になると、倭賊が力を伸ばしていたので日本と中国の関係が悪くな った。それが原因で中国との貿易は途耐えがちになった。貿易のことで薩摩は 琉球しか頼りにならなかった。当時の日本は戦国時代で、諸大名は自分の経済 を安定できるために、外の国と貿易する機会を探していた。1588年に豊臣秀吉 は琉球を幕府に入貢させることを希望したので、島津家の家来は琉球へ行って、

豊臣秀吉の希望を伝えたが、琉球は国王が重病であることを理由に入貢すると いう返事をしなかった。1589年に細川幽斎と石田三成は島津義久に書を送って、

琉球がなお入貢を遅延する場合は琉球に出兵すると命じている。翌年尚寧王は 天竜寺桃庵長老・安仁屋親雲上宗春を薩摩経由で大坂に赴かしめた。秀吉は聚 楽第で引見した。使節の上洛で秀吉の不満を氷解した。さらに秀吉の関東統一 のことを告げ、遠国端島まで祝儀言上を命ぜられたにより、琉球は綾船・管絃 を催うし、速かに上洛にすべきことを伝えている54。これに対して、尚寧は十      

52上原兼善『島津氏の琉球侵略―もう一つの慶長の役―』榕樹書林(2009 、P231)より引用。  

53梅木哲人「薩摩藩侵入直後の琉球・中国関係」琉球中国関係国際学術会議(2001)。  

54宮城栄昌『沖縄の歴史』吉川弘文館(1984)。  

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九年使者を遣わし、楽人及び焼酒・太平布・綾羅を進上した。

1591年豊臣秀吉は朝鮮に出兵することを決意し、秀吉は琉球王尚寧に以下の ように書簡を送った。

吾卑賤より運に膺りて興る。威武を以て日本を定め六十余州已に掌握の 中に入る。是に於て殊域遐方朝貢せざるなし、而して爾に告ぐ。我傷將に 明年春を以て先ず朝鮮を伐たんとす。爾宜しく兵に將として之に会すべし。

若し命を用ひずんば我先ず乃が国を屠り、玉石倶に焚かんとす55。 島津氏を介して秀吉の書簡を穏やかにまとめていて、島津義久は尚寧に書簡 を送った。書状の内容には、「両国合わせて一万五千の出兵を命ぜられたが、

それは薩摩が肩代わりする。そのかわり七千人の兵粮十二ヵ月分を、来年二月 前に坊ノ津に送り、そこから高麗・唐土まで送るようにせよ。また肥前名護屋 で築城が行われているが、琉球は金銀米穀で夫役を扶けるように」56独立の国 家である琉球はその要求について非常に苦慮した。幕府の報復措置を恐れたか ら、一部の費用を負担した。しかし、残りの半分は負担しなかった。十二月義 久は琉球の兵糧米輸送を続けることを尚寧に命じた。文禄三年(1594)の六月 に尚寧は使僧に書を委託した。書の内容は「国窮島疲、民無計償出」故、「只 願憫察以加恩優、隣好益修永奉聘貢」と訴えてきた。57これが原因で、残り半 分の兵糧は薩摩が払った。

天正十九年(1591)年秀吉は亀井茲矩の請により、別使によって琉球を討伐 しようとしたが、義久と義弘が細川幽斎と石田三成を通じ、薩琉が昔から特殊 な関係にあることを陳弁するために、亀井茲矩が琉球を征伐することを中止と なった。

慶長七年(1602)年徳川家康が奥州に漂着した琉球船を琉球に送りかえした と薩摩に命じた。これに対して薩摩は徳川家康に謝恩使を派遣することを要求 した。しかし琉球からは何の答えもなかったので、慶長九年(1604)島津義久 は琉球に軍を起こそうとしたが、そのとき義久の弟が書状を尚寧に送り、無礼 を責めるだけであった。

しかしその間、薩摩が琉球に出兵することを真剣に進められ、慶長十年(1605)

年七月には、本田親貞が駿府に出兵の許可を願い出した。慶長十一年(1606)

四月のころから、鹿児島で義久と義弘以下の重臣間に出兵について相談があっ た。

その上、秀吉が朝鮮を侵略する前から明朝との関係は海賊の活動で不活発に なったが、文禄と慶長の役以後、明は日本の商船との往来を禁止する態度を強      

55新里金福『琉球王朝史』朝文社(1993 P128)より引用。  

56   御書院『琉球薩摩往復文書案』。  

57宮城栄昌『沖縄の歴史』吉川弘文館(1984)。  

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めていた。そのため、そのときから明朝との貿易関係がなくなった。徳川家康 の時代となって、中国との関係を修復するために、琉球を斡旋者として求めた。

しかし琉球はなかなか従わなかった。

慶長十一年(1606)年六月、島津家久は山口直友を以て琉球近年の無礼を理 由に征討を請い、出兵の許可を得た。征討を請う理由は『島津家覚書』58に書 いてある。内容は「琉球国者、家久十代之祖陸奥守忠国代に、普広院殿より致 拝領、永享年中より薩摩相従ひ候処に、近年致怠懈候、殊更権現様に御礼可申 上之旨、使札を以付候へ共不致領賞候間、人衆を差越可致退治之旨、山口駿江 守直友を以致言上候処に蒙御免候」である。それに、南浦文之の『討琉球詩序』

にも以下のように記述している。

為朝の創世以来、琉球はその子孫の世々君臨するところであった。そし て、数十世の先、琉球は島津の附庸となり、年々薩摩に貢物を納めた。し かるに、近年島津の命令に従わず、あまつさえ家久の使いに謝名なる者が 無礼を働いた。その不遜黙視するにしのびず、ここに起ちて琉球を討つも のである59

琉球出兵の許可を取った後、薩摩は直接琉球を出兵することはなかった。当 時の琉球は中国からの冊封使がいたから、薩摩側は明朝の返事を待ちながら、

侵入機会を待っている。慶長十四年(1609)年二月二十六日義久、義弘、家久 は「琉球渡海之軍衆法度之条々」を連署し、十三条を定めた。十三条の内容は 以下のようである。

琉球渡海之軍衆法度之条々

一、物主相定候間、彼衆以談合可申出儀不可違背事、

一、喧嘩口論之儀、不新雖為法度、今度者別而各可相嗜事、可為肝要候、

縦不図喧嘩出来候共、兼而如法度、私にて不相果、重而可遂披露、若此旨 を相背、於事破者、いかやうの理雖有之、不及理非之沙汰、一組可処罪科 事、

一、鉄砲もちたる衆、或はしし鳥をねらひ、或はたて物を射、いたづらに 玉薬をつくすまじき事、

一、船之出入おもひ/\に無之様に、惣別同前に可有之事、

一、其組を離、他の手に付まじき事

一、手に入たる島々の於百姓者、少も狼籍いたすまじき事、

付、従大島此方泊々、右可為同前事、

     

58上原兼善『島津氏の琉球侵略―もう一つの慶長の役―』榕樹書林(2009)。  

59   新里金福『琉球王朝史』朝文社(1993、P117)より引用。  

25(19+17)

158(106+52)

国分衆 武頭 記載なし

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に着いたところは永良部であった。永良部を鎮圧したあと、奄美大島へ出発す るつもりだったが、悪天気で出航できなくなった。三月六日の朝に出航し、七 日申の刻に奄美大島に到着した。樺山大軍が笠利の津代港、伊集院久元と肝属 兼篤らの大軍が深江ヶ浦、副将の平田らの大軍が西縣に船をつけた。各大軍は 着船地を拠点として、村々への鎮撫が始まった。当時笠利にいる軍隊は多くの 住民が集結している情報が入ったため、諸軍は同地で住民を制圧した。これに 対して、「南聘紀考」62は「島民遁逃して山林に縮匿す。前此、琉球那覇人を

に着いたところは永良部であった。永良部を鎮圧したあと、奄美大島へ出発す るつもりだったが、悪天気で出航できなくなった。三月六日の朝に出航し、七 日申の刻に奄美大島に到着した。樺山大軍が笠利の津代港、伊集院久元と肝属 兼篤らの大軍が深江ヶ浦、副将の平田らの大軍が西縣に船をつけた。各大軍は 着船地を拠点として、村々への鎮撫が始まった。当時笠利にいる軍隊は多くの 住民が集結している情報が入ったため、諸軍は同地で住民を制圧した。これに 対して、「南聘紀考」62は「島民遁逃して山林に縮匿す。前此、琉球那覇人を

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