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琉球兩屬關係形成過程 - 政大學術集成

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國立政治大學日本語文學系

碩士論文

指導教授:于乃明 博士  

琉球の両属関係の形成過程

 

研究生:邱思嘉

中華民國一百年六月

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1   第一章   序章 ...1   第一節   研究動機 ...1   第二節   研究目的 ...2   第三節   先行研究 ...2   第四節   研究方法 ...2   第二章   琉球王国の成立と対明冊封関係の成立 ...4   第一節   琉球王国の成立 ...4   第二節   明朝との冊封関係の開始 ...11   第一節   明朝への朝貢貿易 ...13   第三章   薩摩藩の侵寇との中日両属関係の発生 ...21   第一節   薩摩と琉球の関係 ...21   第二節   薩摩藩の侵入過程 ...30   第三節   中国と琉球の関係変化 ...38   第四章   日本の対応、中国と琉球の宗藩関係 ...44   第一節   薩摩藩の対応 ...44   第二節   幕府の対応 ...56   第三節   清朝と琉球の宗藩関係 ...64   第五章   終章 ...73   一   追録...78   二   参考文献(年代順) ...84  

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I   琉球兩屬關係的形成過程   中文摘要   琉球,是位於環東支那海東方的小島。初期王權,由三個國家各自獨立割據, 且相互爭權,因此琉球境內十分混亂,是為三山分立時代。 1372年,中國明太祖派遣使者至琉球,向琉球宣達向其朝貢的旨意。該年, 因中山國察度認為若與世界大國明朝建交,則可創造有利於對抗山南王及山北王 的局勢,故決定與中國明朝締結關係。因此造就了往後從十四世紀後半至十七世 紀初,期約大約兩百年向明朝貢的關係。 物資貧乏的琉球並未僅與中國進行貿易,與東南亞的貿易也十分頻繁。並且, 與日本的貿易是從應仁10年(1403),琉球船隻漂流至六埔時開始有了接觸。起 初的貿易對象為幕府。但,永享十年(1438)時朝鮮藉由對馬宗氏控制貿易理由, 停止了與薩摩的直接貿易。從此之後,薩摩幾乎停止了與朝鮮的貿易,故島津氏 將對外貿易對象轉向了南方的琉球。琉球對於薩摩來說佔了十分重要的地位,也 打算透過琉球來與明朝進行間接貿易。因此有了侵略琉球的計畫,並且在1609 年正式出兵琉球。 明朝時期,中國方面知道琉球受薩摩侵略佔領,但並未派遣軍隊進行救援。 朝代交換之後,清朝也並未察覺有異,繼續的與琉球建立朝貢關係。在本文中針 對中國以及日本與琉球關係為中心,來了解中日琉之間複雜的關係。    

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II  

琉球の両属関係の形成過程

日本語要旨   琉球、環東シナ海世界の東に位置する小さな諸島である。初期の王権成立は 三山分立時代で、三つの王国はそれぞれ独立し互いに勢力を争ったので、琉球 の国内は混乱の状況であった。 1372年に明太祖が使者を遣わして、琉球という国家へ行って、中国に朝貢 するこように琉球へ伝えた。当年、中山王察度は世界大国の明と関係を結び、 山南王と山北王に対しては有利な立場を得ようとする考えから、明との朝貢関 係を結ぶことを決めた。そのために、十四世紀後半から十七世紀始めまでのお よそ二百年間にわたって琉球と明朝の朝貢は非常に順調で進んでいた。 物資貧乏の琉球は中国と貿易を行うだけではなく、東南アジアとの貿易もも のすごく頻繁である。さらに、日本との貿易は応仁十年(1403)六浦に漂流船 が日本に来てから、始まった。最初の貿易相手は幕府であった。しかし、永享 十年、朝鮮は対馬の宗氏に貿易を統制させるという口実のもとに薩摩との直接 の貿易をとめることに至った。これ以後、薩摩と朝鮮との貿易はほとんど断絶 状態で、このため島津氏の対外貿易の目は南方の琉球へ向けられることになっ た。薩摩にとって琉球は非常に重要な位地を占めるようになった。琉球を通じ て明朝と間接貿易するつもりであった。そのために琉球を侵略する計画が出て きた。1609年、正式に琉球に出兵した。 明朝の時期に琉球が薩摩に侵略され、占領されたことが知っているが、特に 軍隊を派遣して、琉球を救援する行動がない。朝代交換後、清朝も異常なく、 琉球との朝貢関係を結んだ。本論文では中国、日本と琉球の関係を中心し、中 日琉の複雑関係を理解できるように。

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1   第一章 序章 第一節 研究動機 琉球は環東シナ海世界の東に位置する小さな諸島である。いつからこの島々 に人類が住んだか、詳しいことはわからない。しかし初期の王権成立は三山分 立1時代の頃といわれる。三つの王国はそれぞれ独立し互いに勢力を争ったの で、琉球の国内は混乱の状況であった。その混乱の状況は1429年に終わった。 尚巴志による琉球統一で、琉球王国と呼べる一つの国家が成立した。 1372年に東シナ海の向こうに横たわる巨大な中国を統一した洪武帝(明太祖) の使者を乗せた大きな船が琉球に来た。その時の使節団の団長は楊載という人 物であった。当時の琉球はまだ三山分立の時代であった。『明実録』2によると 明朝が琉球に使節を遣わした目的は琉球に中国に入貢させることであったと いう。入貢という言葉の意味は、中国の皇帝の威厳を認めて、皇帝の臣下とな ることである。入貢した国は服属国あるいは藩属国という。服属国は中国に対 して定められた期間(これを貢期という)に定められた方物――朝貢品ともい う――が、その方物を持参し、定められたルートを経由して朝貢した。宗主国 である中国は、この方物に対して、はるかに価値の高い賞賜品を返礼として与 えた3 しかし、冊封の目的は臣下を増やすためではなく、貿易のためであった4 その原因は洪武四年(1371年)に海禁令を公布して、自由貿易を禁止したこと による。そのため、貿易はただ朝貢という形式でしか行われなかった。十四世 紀後半から十七世紀始めまでのおよそ二百年間にわたって琉球と明朝の朝貢 は非常に順調で進んでいたが、1609年に薩摩が琉球に出兵し、琉球を占領した ことで大きく変わる。同年5月15日尚寧王は鹿児島に拉致され、二年半の間、 日本中を引き回され5、薩摩に服属するために法外な年貢を納める誓約書に調 印させられた。この時以降、琉球は薩摩に支配されたが、一方で中国への入貢 も続けていた。しかし、明朝は琉球に回復期間を与えるという理由で、朝貢年 限を従来の一年一貢から十年一貢に改めてしまった。 明清交代期に琉球は積極的に中国と朝貢関係を続けることを望んだ。この時 琉球はすでに薩摩藩の支配下におかれていたが、中国との関係を維持しようと 試みた。薩摩藩も明朝のときには大胆に明朝と琉球との朝貢関係に干渉したが、 清朝との関係には大胆な行動をとらなかった。明朝期に薩摩藩は琉球の朝貢船       1 琉球は中山・南山・北山という三つの領国に分かれて相争うようになった。 2 『明実録』:『大明実録』、俗に『皇明実録』また、略して『明実録』という。明太祖洪武帝 から熹宗天啓帝に至る十三帝の実録である。通行二九九九巻、内閣大庫紅格本系統の抄本は三 〇五八巻であり、巻数は一定していない。 3原田禹雄(2000)『冊封使録からみた琉球』榕樹書林P212‐P213。 4 『明実録』の引用。 5 1609に鹿児島に抑留されること二年、1611年に帰国した。

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2   に似せて、中国へ行ったことがあった。だが、中国側に気づかれて、朝貢使の 上京を拒絶されてしまった経緯があり、この時薩摩藩はさまざまな手段を尽く して琉球がすでに自分の領土であることを中国に対して表明しようとした。こ のように明朝期には自らの立場を主張した薩摩藩であったが、清朝期において はこのような行為は見られない。なぜそうなったのだろうか。清朝が薩摩の琉 球支配を知らなかったからなのだろうか。この点に関して私には大きな疑問が ある。 第二節 研究目的 琉球と中国の交流は明朝から始まった。その間、ずっと良好な関係を維持し ていた。中国との交流は琉球の人も非常に重視した。琉球は朝鮮と同様に中国 の藩属国に属した。朝鮮が豊臣秀吉の侵略されたとき、明朝は朝鮮へ軍隊を派 遣した。しかし、琉球が朝鮮と同じ状況に直面したとき、明朝は何の対応もせ ず、ただ入貢の間隔を引き伸ばしただけだった。なぜそうなったのか。この点 について明らかにしたい。さらに、先に述べた疑問である、清朝が薩摩藩の琉 球支配をどの程度知っていたのかについても検討したい。本研究では、琉球の 両属関係の形成過程をトレースしながら、上記の問題について私見を述べるこ とにする。 第三節 先行研究 琉球・日本・清朝の関係を論述する研究には赤嶺守の「光緖初年琉球與中日 兩國之關係」6と蘇志誠の「日併琉球與中日硫案交渉」7がある。これらは中国 と日本、中国と琉球との関係について扱っている。今までの研究は琉球処分8 日中間の交渉史に注目したものが多く、主に琉球の主権問題について分析して いる。薩摩藩が琉球を出兵した過程や日本文化が琉球人の生活の中に浸透して いった過程についてはあまり注意を払っていない。 琉球と日本の関係を論述する研究には候永利の「日本合併琉球王国之研究」 9がある。この論文では日本が琉球を併合する過程について研究されている。 清朝側がこれをどう認識していたかについては論及がない。 第四節 研究方法 研究方法として、先ずは琉球王国の歴史から琉球王国の誕生まで、統一国家 形成までの歴史を俯瞰する。次に、明朝の冊封体制に組み込まれるまでの歴史 をトレースする。       6赤嶺守(1983)「光緖初年琉球與中日兩國之關係」国立台湾大学歴史研究所。   7蘇志誠(1983)「日併琉球與中日硫案交渉」国立台湾師範大学歴史研究所。 8明治政府が琉球に対し、清への冊封関係の廃止を求め、武力を背景に強制的に日本へ統合し た過程をいう。明治12年(1879)琉球藩を廃し、沖縄県が置かれることとなった。   9候永利(1976)「日本合併琉球王国之研究」中国文化学院日本研究所。

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3   明朝から清朝まで多くの冊封使が存在したが、各冊封使には琉球に関する日 記と著書がある。本稿ではこれらを用いたい。各冊封使は琉球について詳しく 説明している。日記の内容から中国側が琉球をどのように認識していたかを明 らかにできよう。 さらに『明実録』や『清実録』10から明朝、清朝と琉球の往来関係、宗藩関 係の変化を明らかにする。『明実録』や『清実録』の中で歴代皇帝について詳 しい記載があり、朝貢関係に関する史料も少なくない。       10清朝では太祖より徳宗まで11代の皇帝に実録がある。各帝の実録は漢文、満文、蒙古文の 三体文字で書かれ、装丁によって大紅綾本、小紅綾本、小黄綾本の種類がある。  

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4   第二章 琉球王国の成立と対明冊封関係の成立   第一節 琉球王国の成立     十四世紀に最初の琉球王国が誕生した。その時の琉球王国は三つの小さなグ ループに分けて混雑な国で、統一国ではなく、中山と南山と北山に分けた按司 政権であった。今帰仁按司は本島の北部地域を擁して山北(北山ともいう)を 形成し、今帰仁グラスを拠点とした。浦添按司は中部地域に君臨し、中山を樹 立した。南部地域を擁した大里按司は島尻大里グスクに拠り山南の覇者となっ た。この三人の按司はそれぞれ「王」を名乗る存在であり、三勢力の鼎立する この時代を三山時代と呼ぶ11。三山国王の時代で彼らはいつも対戦と和解を繰 り返し、対戦な状態で人民はいろいろな苦労をして、辛い生活をしていた。し かし、三山国王の時代で言っても、中山、南山、北山のいずれの王でもなかっ た。ただ各地でグスクを構えて勢力を張る複数の按司たちを服属させたゆるや かな支配形態にすぎず、「王」そのものも「按司連合体」の盟主というほどの 地位でしかなかった12。誰でも王になる機会がある状態で、多くの人がいろい ろな方法を使って王になる。   三山分立の時代から第一尚氏王朝になることについて高良倉吉の『琉球王国』 13 は以下のように論説がある。     山南の配下にあった佐敷按司思紹は、佐敷上グスクを拠点とする小さな 首長にすぎなかったが、その息子尚巴志はたぐいまれな英傑であったらし い。父子協力して勢力をたくわえた後、一四〇六年に浦添グスクを攻め、 察度亡き後に中山王となっていた武寧を滅ぼして思紹が中山王となった。 『明実録』によると、思紹は琉球国中山武寧の「世子」(世嗣)の名で使 者を送り、「父」武寧の死去を告げ冊封を要請している。武力簒奪ではぐ あいが悪いから、「世子」として「父」のあとを継いだかのような体裁を とったのだ。これにこたえて明の永楽帝は翌年冊封使を遣わして、思紹を 正式に中山王に封じた。この権力劇の直後に、尚巴志は中山の拠点を浦添 グスクから首里城(首里グスク)に移し、それ以前から存在したと思われ る首里城に整備の手をくわえ、新しい中山王の居城にふさわしい城とした らしい。のちに琉球王国の樹立者となる第一尚氏王朝は、こうして誕生し たのであった。     以上の論説からみると、三山王国時代の情勢は非常に混雑し、みなは王にな       11高良倉吉『琉球王国』岩波新書(1993)P43∼44   12   高良倉吉『琉球王国』岩波新書(1993)   13   同上  

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5   るために多くの戦争を起こした。尚氏政権の成立は単純な略奪ではなくて、略 奪したあとで元の中山王の身分に頼って、明朝に冊封をされた。だが、これの みで統一が終わったのではなくて、南山の勢力はまだ残っていた。二つの王が いる状態は1429年にようやく終わった。中山軍は1429年に山南の攻撃 を行い、山南王他魯毎とともに島尻大里グスクも滅んだ。山南も滅亡したので、 琉球王国の統一は三分の二の部分を完成した。残り少しまだ反抗している按司 も中山王の武力で統一された。それで第一代の尚氏王朝が成立した。   三山王国時代の明朝への入貢は表1のとおり。   表114   中山   山北   山南   1372察度入貢   1383帕尼芝入貢   1380承察度入貢   1404武寧冊封   1395珉進貢   1405汪応祖進貢   1406王位交替   1396攀安知進貢   1414他魯毎即位   1407思紹冊封     1415他魯毎冊封   1416山北併合   中山に併合された     1422尚巴志即位       1425尚巴志冊封       1429山南併合(統一王朝 樹立)     中山王に併合された   多くの苦労をして成立した琉球王国は漸く安定な生活がくるはずだ。だが、 安定な生活はあまり長くなかった。尚氏王国を成立した第一代国王尚巴志がな くなった後、琉球王国は順調に運営したのではなかった。表二で見られるよう に第一尚氏王朝の歴代国王の在位時間である。それに、各代の国王の任期は非 常に短かくて、一番短かったのは第五代の尚金福であった。継承の問題につい ても大きな騒ぎが出た。王位を争うために戦争が起こった。第五代の国王が死 去した後、世子は継承の問題について大きな騒ぎをした。その戦争で尚巴志が 築いた首里城も巻き込まれて、火事で全焼していた。そのような継承に関して 戦争は何回もあった。その不安定な状態は第七代の国王がなくなったあとで、 第一代の尚氏王朝は滅びた。七代の尚徳が死去した直後、王位を継承する世子 が殺されて、王族の人々も追放された。多くの状況で尚巴志が建てた王国は四 十年の寿命しかなかった。   表215。   代   王名   在位年間   1   思紹   1406∼1421   2   尚巴志   1422∼1439         14   高良倉吉『琉球王国』岩波新書(1993)   15原田禹雄『蔡鐸本 中山世譜』榕樹書林(1998)

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6   3   尚忠   1440∼1444   4   尚思達   1445∼1449   5   尚金福   1450∼1453   6   尚泰久   1454∼1460   7   尚徳   1461∼1469   思紹、尚巴志父子が武寧を滅ぼしてその正統な後継者のごとくふるまったよ うに、尚円もまた尚徳の後継者の顔をしたのである。同じく「尚」の姓を名乗 るものの、系統はべつであるため、琉球史では尚円を初代とする王朝を第二尚 氏王朝とよび前者と区別する16。   第一尚氏王朝が終わったあと、1470年に尚円が第一王朝に代わって第二尚氏 王朝を建てた。尚円王の本名は金丸であり、元々は第一尚氏王朝の外交長官で あった。元の国王が死去した後、世子が王位を継承するのは当然なことだが、 王位を継承することについて朝廷の老臣はほかの意見があった。その老臣は金 丸のことを推薦した。これは王朝にとっては非常に大きな変化だ、誰も非常に 緊張した。だが、この件について王朝内の官員たちの反対意見がなかったので、 金丸は尚を名乗って、第二尚氏王朝の国王になった。第二尚氏王朝は第一尚氏 王朝と同じ轍を踏まないために、以前の尚氏王朝を第一尚氏王朝を名付け、第 二尚氏王朝   このような王朝交代には一定の理由があった。第一尚氏王朝時代は政治が不 安定な状態が続いて、経済力もよくなかった。王位の争いために、大金をかけ、 人民の生活もかえりみなかった。これが王朝内の官員たちが反感を招いたと思 われる。   第二王朝には全部で19名の国王がおり、一代目の尚円以後社会は安定の方向 へ進んで、黄金時代は尚真王の時代であった。尚真王は尚円の子だが、尚円が 死去したとき、尚真はわずかに十一歳であり、国王になるには少し幼すぎたの で、尚円の弟尚宣威が位につくこととなった。尚宣威が即位したとき、即位儀 礼としてキミテズリという神事があった。その時代は神の力の時代であったの で、神が神女にのりうつって、国王の即位を祝うのは非常に重要であった。だ が、神女は王に背を向けて、幼い尚真に神歌を歌った。そこで、尚宣威は神の 旨意を悟り、即位わずか六ヵ月にして、隠退した。   尚真王が即位したあと、中央集権の政治方法を採用した。尚真は以下のよう な改革を行った。①仏教に帰依し、寺院を建立した。②人民をいたわるために 租税を減らした。③按司を首里の城下に集居させることにした。④中国への入 貢を三年一貢に改め、中国から文物の移入を積極的に行い、また南の国々に貿 易をつとめる。⑤身分を帕17、簪18の差で分別したこと。⑥神女組織を確立し       16高良倉吉『琉球王国』岩波新書(1993)   17帕の色は青、緑、赤、黄色、紫に位が高い。   18簪は金が上位、銀がこれに次いだ。  

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7   て、政治機構の下に組み入れたこと。⑦地方統治を強化するために、八重山の 叛乱を鎮圧して、先島の統治を強化したこと。⑧造営事業をして、王陵を構築 したこと。   尚真王が多くの建設と制度を整えたから、琉球王国が黄金時代に入った。人 民の生活も安定して、政治と経済も非常に繁栄した。第二尚氏王朝は尚真王が 死去しても、第一尚氏王朝と同じ混乱が起こることはなかった。第二尚氏王朝 は安定した国家になった。   第二尚氏王朝の推移と十九名の国王は表3である。   表3。   代   王名   在位年間   備     尚禝     尚円の父。王の父 たるを持って、王 号を追贈された。   1   尚円(金丸)   1470∼1476   1470年尚円を名 乗った   2   尚宣威   1477     3   尚真   1478∼1526     4   尚清   1527∼1555     5   尚元   1556∼1572     6   尚永   1573∼1588       尚懿     尚寧の父。王の父 たるを持って、王 号を追贈された。   7   尚寧   1589∼1620       尚久     尚豊の父。王の父 たるを持って、王 号を追贈された。   8   尚豊   1621∼1640     9   尚賢   1641∼1647     10   尚質   1648∼1668     11   尚貞   1669∼1709       尚純     尚益の父。王の父 たるを持って、王 号を追贈された。   12   尚益   1710∼1712     13   尚敬   1713∼1751     14   尚穆   1752∼1794       尚哲     尚温の父。王の父

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8   たるを持って、王 号を追贈された。   15   尚温   1795∼1802     16   尚成   1803     17   尚灝   1804∼1834     18   尚育   1835∼1847     19   尚泰   1848∼1879     琉球国中山王官制19 『琉球国中山王府官制』 人員 王府(御城) 親方部大親 1 座敷大親 3 与力 3 右筆 1 阿司多部(法司) 御礼儀方 1 与力 3 御検地方 1 与力 3 御物座方 1 与力 3 申口衆(謁者) 鎖側 1 鎖大屋子 1 御双紙庫理 1 平等側 1 泊筆者 1 吟味役 5 評定所筆者主取 1 評定所筆者 6 評定所相付筆者 3 御物奉行(度支官) 親方奉行 1 本役 2 吟味 3 帳当主取 1 簡略座役人 2 残物座大屋子 2 帳当筆者 10 百浦添下庫理(王法官) 番之親方部 定員無       19児玉幸多、小西四郎、竹内理三『日本史総覧Ⅳ』新人物往来社(1984)

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9   番之御座敷 定員無 前之当 12 前之里之子 12 前之花当 12 小赤頭 12 (丸引官) 勢頭衆 9 筑登之多 9 聞得大君御殿(内治官) 総大親 1 親方部大親 3 座敷大親 3 (近習) 御近習 3 御内原代台所 御内原庖丁 1 御書院(国書院) 親方 3 当 3 相付当 2 御右筆主取 1 御右筆 3 御右筆相付 3 御茶道 3 御茶道相付 3 御物当 2 御路地当 3 里之子 12 花当 6 小赤頭 6 御料理座(典膳所) 御庖丁 3 御庖丁小盤 3 大屋子 2 大筆者 1 脇筆者 1 大台所(調禄所) 大屋子 2 大筆者 1 脇筆者 1 庖丁 3 御道具庫理(宴器局) 大屋子 1 筆者 1 (良医所) 御医者 6

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10   御医者相付 2 納殿(財薬局) 大筆者 2 脇筆者 2 御糸図座(宗正府) 総奉行 1 副奉行 1 副奉行 1 中取 3 筆者 3 高所(賦税司) 親方奉行 1 座敷奉行 3 大屋子 3 筆者 6 算用座(覈実司) 親方奉行 1 座敷奉行 2 大屋子 6 筆者 9 螺赤頭奉行(典楽所) 奉行 1 筆者 1 金奉行(造金局) 奉行 1 筆者 1 金御蔵(承運左庫) 大屋子 2 筆者 2 金見 1 銭御蔵(承運右庫) 大屋子 2 筆者 1 米御蔵 大屋子 2 筆者 2 (中略) 小横目(各郷設立巡査官 分巡地方) (真和志平等) 大与按司部 1 同親方 1 小与座敷 4 (南風平等) 大与按司部 1 同親方 1 小与座敷 4 (西之平等) 1

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11   大与按司部 同親方 1 小与座敷 4   第二節 明朝との冊封関係の開始     1368年、中国を統治している元が滅亡して、明という漢族国家が成立した。 南京応天府で皇帝に即位した朱元璋は、国号を大明、年号を洪武と定めた。明 が成立し二年後、明太祖は行人楊載を遣わして、琉球という国家へ行って、中 国に朝貢するこように琉球へ伝えた。明太祖が積極に近隣の小国を招諭するの は一定の理由がある。「太祖実録」20によると招諭の理由は以下のように書いて ある。 洪武四年九月辛未の日 奉天門で省、府、台の臣を諭して、海外の蛮夷 の国は中国に患になる者があれば討伐しなければいけない。中国の患にな らない者には出兵してはいけない。古人が言うことには、国土が広いのは 国が長く安泰することにならない、人民が疲労させるのは乱の源になる。 隋の煬帝は軍隊を興して琉球を征討して、夷人を殺害した。琉球の宮殿を 焼失させ、数千名の男女を捕まえた。その土地を得ても供給に足らない、 その民を得ても使令するに足らなかった。ただ虚名を慕い、自ら中土を疲 れさせる。諸々史冊に記載して、後世に笑いものになる。朕が諸夷蛮の小 国は山を隔て海を越え、辺鄙な一隅にいるので、国々が中国の患にならな いだろうと思うから、決して伐たない。ただ、西北の胡戎は代々中国の患 となり、謹んでこれに備えなければならない。君らは朕の言葉を肝に銘じ、 朕の気持ちを知るべきである。(筆者訳 以下同) 以上の内容から明太祖が積極的に諸小国と朝貢関係を立てる理由が分かる。 朝貢の関係を立てたら、叛乱することも心配しなくて、領土も保全できる。中 国側は琉球の馬と硫黄がほしかったので、琉球と朝貢関係を建立したあと、中 国を必要な硫黄が手に入れることができる。これが理由で明太祖は朝貢につ いて非常に積極である。       20洪武四年九月辛未 上御奉天門,論省府臺臣曰,海外蠻夷之國,有為患於中國者,不可不討。 不為中國患者,不可輒自興兵。古人有言,地廣非久安之計,民勞乃易亂之源。如隋煬帝,妄興 師旅,征討琉球,殺害夷人,焚其宮室,俘虜男女數千人。得其地不足以供給,得其民不足以使 令。徒慕 名,自弊中土,載諸史冊,為後世譏。朕以諸蠻夷小國,阻山越海,僻在一隅,彼不 為中國患者,朕決不伐之。惟西北胡戎,世為中國患,不可不謹備之耳。卿等,當記所言,知朕 此意。

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12   楊載が琉球に着いたとき、当地で琉球語が話せるの中国人を通訳として、 明太祖の詔諭を読んで、中山王に朝貢のことを伝えた。 その詔諭の内容は『明実録』21によると以下のようである。 洪武五年正月甲子の日、琉球国を入貢させるため、詔書を楊載に持たせ、 琉球に派遣した。詔書には次のように述べられていた。昔の帝王が天下を 治めるには、およそ日と月が照らす所、遠い近いを問わず、一視同仁であ った。だから中国を安定させ、四夷にそれぞれに地図所を与えたので、信 服させようとしたのではない。元朝の政治が乱れてから、天下兵争が十七 年にも及んだ。朕は平民の身分より立ち、南京に王朝開いた、四夷で朝貢 ものをうつことを命じた。西は漢主の陳友諒をひらげ、東に呉王の張士誠 をとらえ、南に閩越を平らげ、巴蜀を平定し、北に幽燕を平定し、華夏を 安定させ、我中国の元の領土を回復した。朕は臣民に推戴され、皇帝の位 に即き、天下の号を定めて、大明と称し、洪武と年号を定めた。外夷に使 者を遣わし朕の意を知らせる。使者が至る所の蛮夷の酋長は臣を称し、入 貢するようになった。唯、琉球は中国の東南にあり、遠く海外にあるので、 いまだ報知できなかった。そこで特に使者を遣わし詔諭を伝える。爾、こ ういう状況を知れ、早く朝貢せよ。 以上の内容から琉球に入貢の詔書内容が分かる。中国の王朝が交替したこと も琉球に伝え、琉球に入貢を求めた。 中山王察度は世界大国の明と関係を結び、山南王と山北王に対しては有利な 立場を得ようと考えから、明との朝貢関係結ぶことを決めた。察度は冊封体制 の一員になることを表明するため、楊載の帰国の船に弟の泰期を団長とする使 節団を同乗させた。泰期は公務を帯びて東シナ海を越えた最初の琉球人となっ た。 この年以後、中山王の派遣する船舶が毎年のように中国に渡航するようにな る22。山南や山北は中山王の行動を見過ごしたわけではない。中山王入貢から 八年後の1308年に山南王も中国に使者を派遣し、冊封体制に入った。山南王が 中国と冊封関係を建立した三年後、山北王も中国と冊封関係を結んだ。この錯 綜した冊封関係の状態は第一尚氏王朝が成立したのち解消した。尚巴志は中国       21洪武五年正月甲子,遣楊載持詔諭琉球國。詔曰,昔帝王之治天下,凡日月所照,無所遠邇, 一視同仁。故中國奠安,四夷得所,非有意於臣服之也。自元政不綱,天下兵爭者十有七年。朕 起布衣,開基江左,命將四征不庭。西平漢主陳友諒,東縛吳王張士誠,南平閩越,戡定巴蜀, 北清幽燕,奠安華夏,復我中國之舊疆。朕為臣民推戴,即皇帝位,定有天下之號,曰大明,建 元洪武。是用遣使外夷,播告朕意。使者所至,蠻夷酋長稱臣入貢。惟爾琉球在中國東南,遠處 海外,未及報知。茲特遣使往諭。爾其知之。 22高良倉吉『琉球王国』岩波新書(1993)  

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13   に琉球王国が統一したことを伝えるために、使者を遣わし明の宣徳帝にこう伝 えた。以下のように伝えた。 わが琉球国では、三王が立って百有余年、争いが止むことはなく、人民 は塗炭の苦しみにあえいできた。そう状況をみるにしのびず、この私めが 兵を挙げ、北に攀安知をこらしめ、南に他魯毎を取伐した。今、太平の世 となり、万民の生活も落ち着いた。このことを陛下にご報告すると23 宣徳帝は琉球が統一したことを知り、以下のように述べた「私のこころにか なう事業である。おごることなく、初心を大切にして、その国を安定させるよ うに。子孫もまたその安定を保つように」非常に喜んだ。 第一節 明朝への朝貢貿易 歴史上、中国へ朝貢したのは中山王がはじめてであった。洪武五年、中山王 は自らの弟泰期を使者として中国へ入貢させに行った。馬と硫黄を献上物とし て明朝に朝貢した。泰期が貢物を献上した後、明太祖は察度に大統暦と織金文 綺、紗、羅各五匹を下賜し、泰期等に文綺、紗、羅、襲衣を下賜した。初めて の入貢は順調に終わった。中山王が朝貢関係を結んだ後、山南王と山北王も中 国と朝貢関係を建立した。 『明実録』24によると、琉球国の入貢状況と入貢品は以下のようである。 洪武初年に中山王察度、山南王承査度、山北王帕尼芝が明に使者を遣わ し、表箋25を奉じて、馬や方物を献上した。十六年に明朝はそれぞれの王 に鍍金の銀印を下賜した。二十五年には中山王は子弟を遣わして、国子監 に入学させて、往来朝貢に当てた。明朝は琉球に船の操作が熟している三 十六姓の福建人を下賜した。永楽年間以来、国王の即位の時は必ず明に冊 封を受けたいと申しでた。後中山王だけになってから、中山王は代々尚氏 と称した。明朝は二年一貢で毎船は百人、多くても百五十人を超えてはな       23高良倉吉『琉球王国』岩波新書(1993)   24 洪武初中山王察度山南王承查度山北王帕尼芝皆遣使奉表箋貢馬及方物。十六年各賜鍍金銀印。 二十五年中山王遣子姪入國學。以其國徃來朝貢。賜閩人三十六姓善操舟者。永樂以來國王嗣立 皆請命冊封。後惟中山王至。中山王世稱尚氏。諭令兩年一貢。 船百人。多不過百五十人。貢 道由福建閩縣。貢物 馬,刀,金銀酒海,金銀粉匣,瑪瑙,象牙,螺殼,海巴,擢子扇,泥金 扇,生紅銅,錫,生熟夏布,牛皮,降香,木香,速香,丁香,檀香, 熟香,蘇木,烏木,胡 椒,琉 ,磨刀石。右象牙等物進收。琉 蘇木胡椒運送南京該庫。馬就於福建發缺馬驛站走遞。 磨刀石發福建官庫收貯。 25表箋とは中国皇帝の冊封を受けた周辺諸国の王が、中国皇帝に上げる文書  

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14   らないと命じた。入貢のルートは福建の閩県経由と定めた。貢物は馬、刀、 金銀の酒盃(壼)、金銀粉の箱、瑪脳、象牙、螺殻、海巴(宝貝、小安貝)、 擢子扇、泥金扇、生紅銅、錫、生熟夏布(芭蕉布)、牛皮、降香、木香、 速香、丁香、檀香、黄熟香、蘇木、烏木(降香から烏木まですべて香木で ある)、胡椒、琉黄、磨刀石(砥石)であった。象牙などの貢物を収め、 硫黄、蘇木、胡椒は南京の降香倉庫に運送し、馬は福建の驛場にし、磨刀 石(砥石)は福建の兵庫に収めた。 大部分の品物は献上品ではなく、附搭貨の可能性が高かった。高価な商品 と馬と硫黄は入貢品かもしれないが、他の品物は官員に売るために持っていた。 琉球より明へ進貢する時、船に載せていった貨物は用途の違いに分類すると、 国王進貢物、国王の附搭貨、陪臣の附搭貨、使臣の附搭貨があった。国王進貢 物には皇帝より、国王と王妃に対する回賜として、各類の高価な織物があった。 附搭貨には、給賞という名目で、官より買い上げ、商売は主に銅銭や鈔で支払 われた。明朝の朝貢制度には正貢と正貢外の区別があった。明朝は正貢に回賜 するときにも、正貢外に附来する貨物を買い上げて貨を給するときにもともに 「給賜」と言った。それゆえ明朝の朝貢制度の場合には、正貢と正貢外附来貨 がその取り扱いにおいて、ともに進貢物と見なされる傾向があった26 以上の内容から見ると、中国へ行って、入貢品は一部分であった。一番重要 なのは入貢の名義を利用して、中国側と商売することであった。だが、入貢の 名義であっても税金の部分は払わなければならない。『正徳大明会典』27巻一 〇一、給賜一、諸番四夷土官人等一、琉球国の項に、「正貢には例として価を 給せず。附来する貨物は、官に五分を抽し、五分を買ふ」とある28。五分を税 金として払うのではあまり大きな利益が得られないが、他の国の人と貿易でき ることから、入貢は琉球の人にとっては不可欠であった。中国から得たものも 薩摩藩と貿易できる。そのうえ、中国と冊封関係を建立したあと、琉球は他の 国に侵略される可能性が低くなった。これも冊封関係の利点である。   琉球が入貢すると、明朝も琉球の国王と官員へ給賜した。給賜した内容は『正 徳大明会典』29巻一〇一 礼部六十に記録されている。   琉球国 洪武十六年に琉球国王に鍍金銀印及び文綺などを下賜した。山 南王にも同様のものを下賜した。後、中山王、山南王、山北王に紵絲紗羅       26邊土名朝有『琉球の朝貢貿易』校倉書房(1998)   27   山根幸夫『正徳大明会典』汲古書院(1989)   28邊土名朝有『琉球の朝貢貿易』校倉書房(1998)   29琉球國 洪武十六年。賜國王鍍金銀印并文綺等物。山南王亦如之。後賜中山王山南王山北王 苧絲紗羅冠服。王妃絲羅。王姪王相寨官絹公服。賞賜差來正議大夫長史史者通事從人衣服絲布 絹即拆來王弟王男衣服冠帶絲有差。

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15   の冠服を賜った。王妃に糸、羅を賜った。王姪、王相、寨官には絹、公服 を下賜した。進貢にきた正議大夫、長史、使者の翻訳及び従人に服糸布絹 を賞賜した。及び進貢にきた王弟、王男に服冠帯糸を賞賜した。 以上の内容から見ると給賜した人は国王だけではなく、進貢に関する人でも 給賜品があった。だが、進貢の返礼は給賜品を配るだけではなくで、附塔品に ついても一定の価額で琉球から買った。貢品の価値は『正徳大明会典』30巻一 〇二に記載されている。     凡て番貨の価値は、弘治間の定めに、回回并に番使人等の宝石等の項 を進貢するに、内府、估験して価を定めたる例は、赤金は毎両鈔五十貫に 直つ。足色銀は毎両十五貫。錫は毎斤五百文(琉球は八貫)。鉄は毎斤三 百文。腰刀は毎把三貫。番弓は毎張二貫。番箭毎枝一百文。鶴頂は毎箇一 貫。玳瑁盒は毎箇一貫。玳瑁盂は毎箇一貫。珊瑚枝は毎斤三十貫。珊瑚珠 は毎両二貫。大ガラス瓶椀は毎箇三貫。小ガラス瓶椀は毎箇二貫。ガラス 燈甌は毎箇二貫。栗米珠は毎両五貫。象牙は毎斤五百文。(省略)浮香は 毎斤五貫。沈香は毎斤三貫。速香は毎斤二貫。丁香は毎斤一貫。木香は毎 斤三貫。金銀香は毎斤五百文。降真香は毎斤五百文。黄熟香は毎斤一貫。 安息香は毎斤五百文。梔子花は毎斤一貫。丁皮は毎斤五百文。蘇木は毎斤 五百文。烏木は毎斤五百文。紫檀木は毎斤五百文。胡椒は毎斤三貫。     以上から見ると琉球の貢物の価値は以下の通りである。錫は毎斤八貫、象牙   は毎斤五百文、速香は毎斤二貫、丁香は毎斤一貫、木香は毎斤三貫、降真香は   毎斤五百文、黄熟香は毎斤一貫、蘇木は毎斤五百文、烏木は毎斤五百文、胡椒   は毎斤三貫。   中国に朝貢品の数量と貿易品の数量31は以下のようである。     品名   数量   備     貢品           洪武九年   馬 硫黄   四十匹 五千斤   中山王     洪武十年   馬 硫黄   十六匹 千斤   中山王     洪武十三   馬     中山王     洪武十五年 馬   硫黄   二十匹 二千斤   中山王     洪武十六 馬     中山王       30邊土名朝有『琉球の朝貢貿易』校倉書房(1998)より引用   31宮城栄昌『琉球の歴史』吉川弘文(1977)  

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16   洪武十九 馬   硫黄   百二十匹 一万二千斤   中山王 洪武二十 馬   馬   三十七匹 三十匹   中山王 中山王 洪武二十三 馬   硫黄   馬   硫黄   馬   硫黄   二十匹 四千斤 五匹 二千斤 十匹 二千斤   中山王 中山王子 山北王 洪武二十四 馬     洪武二十五 馬     中山王・山南 王 洪武二十六 馬   硫黄     洪武二十七 馬   硫黄   九十匹余   洪武二十八 馬   硫黄   馬   硫黄   三十六匹 四千斤 三十六匹 四千斤   中山王 山南王 洪武二十九 馬   馬   馬   硫黄   馬   二十七匹 二十一匹 五十二匹 七千斤 三十七匹 中山王 山南王 山南王 中山王 貿易       単位   金額   洪武二十三 年 蘇木 胡椒 蘇木 胡椒 三百斤 五百斤 三百斤 二百斤   斤・十貫 斤・三十貫 斤・十貫 斤・三十貫 (尚未確定) 三千貫 千五百貫 三千貫 六千貫 洪武二十七 年 蘇木 胡椒   数量未明   斤・十貫 斤・三十貫 洪武二十九 蘇木   千三百斤   斤・十貫 一万三千貫 成化五年   蘇木 胡椒 錫   五千斤 千五百斤 五百斤   斤・十貫 斤・三十貫 斤・八貫   五万貫 四万五千貫 四千貫

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17   成化六年   蘇木   胡椒   錫   六千斤 千斤 五百斤   斤・十貫 斤・三十貫 斤・八貫   六万貫 三万貫 四千貫   成化八年 蘇木   胡椒   錫   八千斤 千斤 千斤   斤・十貫 斤・三十貫 斤・八貫   八万貫 三万貫 八千貫   成化九年 蘇木   胡椒   一万斤 千斤   斤・十貫 斤・三十貫 十万貫 三万貫   成化十年 蘇木   胡椒   二万斤 二千斤   斤・十貫 斤・三十貫 二十万貫 六万貫   成化十一年 蘇木   胡椒   錫   八千斤 千五百斤 五百斤   斤・十貫 斤・三十貫 斤・八貫   八万貫 四万五千貫 四千貫   成化十二年 蘇木   胡椒   二万斤 三千斤   斤・十貫 斤・三十貫 二十万貫 九万貫   成化十三年 蘇木   胡椒   一万五千斤 四千五百斤   斤・十貫 斤・三十貫 十五万貫 十三万五千巻 成化十五年 蘇木   胡椒   錫   一万斤 三千斤 二千斤   斤・十貫 斤・三十貫 斤・八貫   十万貫   九万貫   一万六千貫   成化十七年 蘇木   胡椒   錫   七千斤 三千斤 千斤   斤・十貫 斤・三十貫 斤・八貫 七万貫 九万貫 八千貫   成化十九年 蘇木   胡椒   錫   一万五千斤 四千五百斤 千五百斤   斤・十貫 斤・三十貫 斤・八貫 十万五千貫 十三万五千貫 一万二千貫   十年期単位の琉球朝貢品数目32。     馬(疋)   硫黄(斤)   期間   年平均   年平均   1420   64.0   22,700.0   1430   57.0   35,570.0   1440   23.3   46,666.7   1450   ―   ―   1460   25.7   34,285.7   1470   29.3   40,000.0         32岡本弘道「明朝における朝貢國琉球の位置附けとその変化―十四・十五世紀を中心に―」東 洋史研究(1999)P7

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18   1480   25.9   32,400.0   1490   24.6   33.000.0   1500   16.2   21,200.0   1510   13.5   20,000.0   1520   4.9   7,000.0   1530   5.8   9,500.0   1540   5.5   9,500.0   1550   5.4   9,500.0   1560   3.0   6,000.0   1570   2.4   6,000.0   1580   2.2   5,600.0   1590   1.8   4,800.0   1600   2.2   7,500.0       蘇木(斤)   胡椒(斤)   番錫(斤) 合計 期間   年平均   年平均   年平均     1460   10,000.0   3,000.0   1,000.0   198000   1470   15,200.0   2,600.0   800.0   236400   1480   7,450.0   2,200.0   960.0   148180   1490   4,900.0   2,000.0   1,960.0   124680   1500   4,600.0   1,200.0   930.0   89440   1510   4,300.0   600.0   1,100.0   69800   1520   400.0   300.0   100.0   13800   1530   600.0   ―   ―   6000   1540   700.0   500.0   ―   22000   1550   1,150.0   200.0   ―   17500   1560   1,200.0   ―   ―   12000   1570   1,000.0   ―   ―   10000     以上の貿易量から見ると、明朝と朝貢関係を建立するのは大きな利益が得ら   れることが分かった。   前の資料から貢期は二年一貢のことが分かるが、しかし中国に朝貢関係を   建立するときに明確な貢期が決めていなかった。『大明会典』巻一百五の中で   このように記載されている。     大琉球国の朝貢は不時なり。王子及び陪臣の子は、皆太学に入れて書を 読ましむ。礼待すること甚だ厚し、小琉球国は往来を通ぜず、曾て朝貢せ

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19   ず33。     洪武六年、太祖朱元樟は大琉球国の朝貢を不時と定めた。その原因で中山王 が自分の勢力をもっと広くなるために、初めての貢期から一年内に再貢、三貢 の時もあった。琉球からの朝貢使臣が福建に到着した後、また上京する必要が あるので、暫く中国で滞留することになった。滞留期間中、明国は歓迎を表す ために、琉球からの朝貢使の明国で滞留期間の全費用は明国が払った。だが、 使臣の人数は少なくないし、入貢も年一回だけではなく、時には年三回のこと もあった。それに、滞留期間中の生活費や食材費や新しい船を作る費用は非常 に膨大であった。この状況は明朝の財政にとって重荷になった。 琉球の使者が滞留時間中に犯罪を犯すこともある。一番大きな事件は1474 年、琉球使臣が福建省懐安県県民陳二官夫妻を殺害し、その家屋を焼き、財物 を奪ったとされる事件であった。第八代成化帝はその検断を琉球国王にまかせ、 国王は無罪と奏した。成化十一年四月戊子の条に、成化帝は、陳二官夫妻殺害 事件の不締まりを理由として、琉球の不時の貢期を二年一貢に制限することを 命じた34 『歴代宝案35』の中に祖訓を破って新しい貢期を決めることについて以下の ように記されている。 皇帝、琉球国中山王尚円に勅諭す。先該王の差はし来たらせる使者沈満 志并に通事蔡璋等、京に赴きて進貢せり。已に例に照らして賞賜し、人を 差はして伴送せしめ、福建地方に至らしめて打発せしむ。船に登せて去か しめ訖るところ、期せずして、船の外海に到るや風に阻まる。成化十年 六月初八日に於て、本船に姓名の知られざる番人有りて、潜行して登岸し、 福州府懐安県四都の居民陳二官夫婦を将て殺死し、房屋を焼毀し、有する 所の家財、猪鶏等の物は尽く劫掠せらる。其の鎮守等の官を前去しめて拠 を審らかにせしめたるところ、被害の家の隣右人等の供報明白なりと、実 を具して奏聞せり。今、王の国の差はし来たらせる正議大夫程鵬等回還す すに因り、特に勅を降して省諭す。勅の至らば、王宜しく蔡璋等の鈐束を 行はざるの罪を責問氏、并二殺人・放火の行凶の番人を追究し、法に依り て懲治すべし。今後は、二年に一貢し、毎船止だ一百人を許し、多くとも 一百五十人を過ぎざれ。国王の正貢を除く外、例に照らして胡椒等の物を 附搭するを許す。其の余の正副の使人等には、私貨を夾帯して前み来て買 売すること、及び途に在りて事を生じ、平民を擾害し、官府を打攪して国 王の忠順の意を累らはすこと有るを許さず。王よ其れ之を省みよ之を省み       33邊土名朝有『琉球の朝貢貿易』校倉書房(1998 P23)より引用   34邊土名朝有『琉球の朝貢貿易』校倉書房(1998)   35邊土名朝有『琉球の朝貢貿易』校倉書房(1998 P66)より引用

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20   よ。故に諭す。 成化十一年四月二十日 全体の内容から見ると、中国側は琉球との朝貢関係についてあまり大きな制   限を加えなかった。他の国と比べると非常に優遇していた。    

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21   第三章 薩摩藩の侵寇との中日両属関係の発生 第一節 薩摩と琉球の関係 琉球船が日本へ来たのは応永十年(1403)六浦に漂流船が来たのが始めであ った。室町幕府と琉球国の交流は応永二十一年(1414)から始まった。位置か ら見ると琉球の船は受難して日本に漂着したのではなく、琉球は計画的に日本 へ行った。 琉球がよく貿易する相手は殆ど東南アジアの国であり、日本との方向は反対側 だから、日本に漂流する可能性は殆どないといえる。 東アジアの地図。 (紙屋敦之『琉球と日本・中国』山川出版社(2003)による) 日本に漂流してから日本との交流が続いていた。室町時代から琉球と日本の 関係は良好と言われていた。琉球の船は南海の産物を載せて、日本と貿易をし ていた。 次表は応仁の乱以前における琉球使節が日本へ来た年度である。

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22   回 年 西元年 1 應永二十一年 1414 2 永享三年 1431 3 永享五年 1433 4 永享八年 1436 5 永享十一年 1439 6 宝徳元年 1449 7 宝徳三年 1451 8 長禄二年 1458 9 文正元年 1466 (曾煥棋「明清に朝貢する琉球国に対する薩摩藩の姿勢と態度」交流協会(2005) による) 以上の表から見ると、室町幕府時代から琉球と日本の交流は非常に頻繁であ った。この点から日本と琉球の関係は非常に良好であったとと言われている。 この間、琉球と頻繁に貿易する相手は幕府であった。永享十年、朝鮮は対馬の 宗氏に貿易を統制させるという口実のもとに薩摩との直接の貿易をとめるこ とに至った。これ以後、薩摩と朝鮮との貿易はほとんど断絶状態で、このため 島津氏の対外貿易の目は南方の琉球へ向けられることになった。とくに島津義 久の時代の天正年間では琉球渡海の朱印状の数が最も多数で、薩琉の通交貿易 が頻繁になった36。 しかし、享徳年間には、薩摩と琉球の関係は少し変化があったようである。 『李朝実録』の『端宗実録』「魯山君日記」巻六に以下のように記述している。 琉球国中山王尚金福使道安、来献方物、其来咨曰、拠ト麻寧等告称、朝 鮮国人民、近年、因為遍海行船、遇遭大風、漂流海面、到於日本薩摩州七 島嶼、船破、人浮登岸、彼本嶼人、獲為奴用去、遇本囯巡海官船見憐将字 奴四人、換買前來、為此参照、係干遠人、給恤衣糧外、窃念卑囯、自先祖 王、契通貴國、至今多年、本欲遣使、備船遞送、奈缺諳曉海道之人、順有 日本花島住州送礼來船、其船頭到安等回還、就變転付、将卜麻寧・田皆二 名前來、煩與口糧・腳力、給親完聚37 それに、同書にも以下のように記述している。 琉球国與薩摩和好、故博多人経薩摩往琉球者、未有阻碍、近年以来、不       36曾煥棋「明清に朝貢する琉球国に対する薩摩藩の姿勢と態度」交流協会(2005)。   37曾煥棋「明清に朝貢する琉球国に対する薩摩藩の姿勢と態度」交流協会(2005 P2)より引 用。

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23   相和睦、尽行擄掠、故却従大洋、迤邐而行、甚為艱苦、今我等出来時、商 船二艘、亦被搶擄、因示博多・薩摩・琉球相距地図38(琉球国と薩摩が仲 間が良いので、博多人が薩摩から琉球へ行くのは障害が無かった。しかし、 近年から両国のギクシャクするようになってしかも、商船が薩摩に略奪さ れて、商売のことが困難になった。今回まだ二艘の商船が略奪されたの で)。 以上の内容から見ると、薩摩の原因で琉球の船はいつも劫掠され、琉球と薩 摩との関係は睦まじい状態ではなかった。しかし、その時の薩摩はまだ琉球に 商売を独占する予定がなかった。しかし、『旧記雑録前編』巻四十二には以下 のように記述している。 抑我国以貴国為善隣焉、実非他国之可比量者。(中略)専願自今以後、不 帯我印判往来商人等、一々令点検之、無其支証輩者、船財悉可為貴国公用、 伏希此一件無相違、永々修隣好39。 以上の内容から見ると、薩摩藩は琉球国王に書状を出した。その内容には琉 球と薩摩との良好な関係を強調し、これから島津の印判を持たない商人等は、 一々点検し、その支証がないものは船や財物等が琉球国の公用に為すべくと、 薩摩藩は琉球にそのような要求をしている。ここから薩摩藩は琉球貿易を独占 する意図が見られた。また逆に琉球国が島津の印判を持たない船を入港させた ことがあったことがわかる40。明国と琉球との関係が微妙になったことは秀吉 の朝鮮侵略事件であった。秀吉が朝鮮に侵略している間に、琉球と島津氏の間 の交渉はあまり進まなかった。明国との交流も少なくなった。秀吉がなくなっ た後、徳川の時代に入った。徳川幕府は朝鮮にいる兵隊を全部撤回した。その 後、薩摩藩の島津義久が琉球国王に書簡を送った。『鹿児島県史料旧記雑録後 編』巻六十三の中に以下のように述べている。 且復貴国之地隣於中華、中華與日本不通商舶者三十餘年于今矣、我将軍憂 之之餘、欲使家久與貴国相談、而年々来商舶於貴国、而大明與日本商賈通 貨財之有無、若然則匪翅富於吾邦、貴国亦人々其富潤屋、而民亦歌於市、 抃於野豈復非太平之象哉、我将軍之志在茲矣41。       38曾煥棋「明清に朝貢する琉球国に対する薩摩藩の姿勢と態度」交流協会(2005、P3)より引 用。   39曾煥棋「明清に朝貢する琉球国に対する薩摩藩の姿勢と態度」交流協会(2005、P3)より引 用。   40曾煥棋「明清に朝貢する琉球国に対する薩摩藩の姿勢と態度」交流協会(2005)。   41曾煥棋「明清に朝貢する琉球国に対する薩摩藩の姿勢と態度」交流協会(2005、P9)より 引用。  

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24   以上の内容から薩摩は琉球に依頼し明と通商したかっていることが分かる。 その後、琉球は斡旋者として日本と朝貢貿易を明朝に斡旋したが、日本の要求 とおりに順調ではなかった。島津は幕府に払う年貢が非常に重かったが、薩摩 の年収は年貢の半分しかなかった。そのため、島津氏にとって明朝との貿易は 非常に重要なことであった。年貢に足りない部分は貿易に於ける年貢を貯まっ た。薩摩と明朝の貿易量と給価状況は以下の表である。 日本と明朝の刀の貿易量と値段は以下のようである42。 年次 出発の年 刀剣の数 一把の価 総額 1 1432 3000把 10000文 30000貫文 2 1434 3000 10000 30000 3 1451 9968 5000 49840 4 1465 30000余 3000 90000 5 1476 7000余 3000 21000 6 1483 37000余 3000 111000 7 1493 7000 1800 12600 8 1509 7000 1800 12600 10 1539 24152 1000 24152 (虎頭民雄「日明勘合貿易に於ける輸出品としての刀劔について」P13による) 宣徳八年(1433)と景泰四年(1453)の量は以下のようである。 宣徳八年(1433) 景泰四年(1453) 硫黄 22000斤 364400斤 蘇木 10600斤 106000斤 生赤銅 4300斤 152000斤 長刀 2把 417把 腰刀 3050把 9483把 (虎頭民雄「日明勘合貿易に於ける輸出品としての刀劔について」による) 宣徳八年(1433)の給価状況 品名 単位 価額 蘇木 毎斤 1,000文 硫黄 毎斤 1,000 赤銅 毎斤 300 刀剣 毎把 10,000 槍 毎條 3,000       42虎頭民雄「日明勘合貿易に於ける輸出品としての刀劔について」『鹿児島縣立大學短期大學 部紀要』鹿児島県立短期大学(1951、P13)。  

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25   扇 毎把 300 火筋 毎双 300 扶金銅銚 毎個 60,000 花硯 毎個 500 小帯刀 毎把 500 印花鹿皮 毎張 500 器皿 毎個 800 硯匣等 毎副 2,000 折麦絹布 毎疋 100,000 折麦布 毎疋 50,000 (虎頭民雄「日明勘合貿易に於ける輸出品としての刀劔について」による) 景泰四年(1453)の給価状況 品名 単位 価額 生赤銅 毎斤 銀6分→銀6分 蘇木(大) 毎斤 銀8分 蘇木(小) 毎斤 銀5分 銀7分 硫黄(熟) 毎斤 銀5分 硫黄(生) 毎斤 銀3分 銀5分 刀剣 毎把 6,000文 槍 毎條 2,000 扶金銅銚 毎個 4,000 漆器皿 毎個 600 硯匣 毎副 1,500 支給額 絹 布 銅銭 229疋 459疋 50118貫文 (虎頭民雄「日明勘合貿易に於ける輸出品としての刀劔について」による) 商品の貫高である。 絹 布 銅鉄 計 数 二二九疋 四五九疋 一疋の価 一〇〇貫文 五〇貫文 貫高 二二九〇〇貫 文 二二九五〇貫 文 五〇一一八貫 文 九五九六八貫 文 (虎頭民雄「日明勘合貿易に於ける輸出品としての刀劔について」P16による) 硫黄・銅・蘇木 三四七九〇貫文

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26   刀・槍 五九五〇二貫文 硯匣等 一六七六貫文 計 九五九六八貫文 (虎頭民雄「日明勘合貿易に於ける輸出品としての刀劔について」による) 以上の表から見ると、日本と明朝の貿易量は非常に大量であった。そのため に、朝貢貿易の収入がなかったら島津氏にとって損失は非常に多かった。刀の 輸出の損失だけではなく、糸の輸入の相手もなくなった。糸の価額について 佐々木銀弥の『日本中世の流通と対外関係』は以下のように述べている。 (イ)唐糸一斤(二五〇目)の日本における販売価格は五貫文であった。 (ロ)日本で一駄=一〇貫文の産銅を中国に持ってゆき、それで明州・ 雲州糸と交換し、日本に持ち帰って販売する元手の四、五倍に当る四〇 ∼五〇貫文(唐糸八∼一〇斤相当)で売却できる。 (ハ)日本から金を持参した場合でも、金一〇両=三〇貫文の元手で、 その四∼五倍に当る一二〇∼一五〇貫文相当の唐糸を仕入れることが できる。43 薩摩で糸の販売は非常に儲かるので、琉球を通じて糸を買い、日本で販売す るのは非常に大きな利益が得られる。そのために、薩摩にとって琉球は非常に 重要な位地を占めるようになった。琉球を通じて明朝と間接貿易するつもりで あった。そのために琉球を侵略する計画が出てきた。元々朝鮮を侵略するとき に琉球も出兵の計画内だったが、兵力が足りない理由で出兵計画が遅延になっ てしまった。1609年、正式に琉球を出兵した。 尚寧王は投降したのち、薩摩の人に伴われ日本へ行った。慶長十五年(1610)、 島津家久とともに駿府で徳川家康に謁見した。謁見したあと、一行は江戸へ向 った。江戸で将軍秀忠に謁見した。謁見の内容を『琉球属和録』には以下のよ うに記述している。 秀忠公大に憐み給ひ、薩摩候附庸の国といひながら諸大名なみにして、 列は御老中の次に座し、十万石以上の格と定められける。44 『徳川実紀』45は九月三日の条に以下のように記述している。 三日島津陸奥守家久をよび中山王を江城にて響せらる。尚寧世々琉球に王 たれば。今よりいそぎその国にかへり。先祀を奉じて本朝の威徳を仰ぎ。       43佐々木銀弥『日本中世の流通と対外関係』吉川弘文館(1994、P74)より引用。   44紙屋敦之『琉球と日本・中国』山川出版社(2003)   45   黒板勝美、国史大系編修会『新訂増補国史大系徳川実紀』吉川弘文(1967)  

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27   永くその国を子孫に伝ふべし。家久はその賦税を取め。その国を鎮撫し。 その俘囚ははやくかへしをくるべしとの面命を蒙る。家久謹で命辱さを拝 し。尚寧は再生の恩を感じ。手のまひ足のふむ所を覚えず。拝謝し奉る46 以上の内容から見ると、将軍秀忠は尚寧を謁見した後、尚寧が早めに琉球へ 帰り、日本の冊封を受け、琉球の支配を継続することを望んだ。 しかし、尚寧はすぐ琉球へ帰ることはできなかった。尚寧は鹿児島に二年間 滞留させられた。1611年に明朝へ朝貢するために薩摩側に帰国したいという要 求を出し、薩摩側も琉球の要求を受け入れた。二年間滞留させられたのち、よ うやく釈放された。釈放するに際して、琉球は薩摩に以下の条件を呑まされた。 十五か条 一、薩摩御下知之外、唐え誂物可被停止事、 一、従往古由緒有之人たりといふ共、当時不立御用人に知行被遣間敷之 事、 一、女房衆え知行被遣間敷之事、 一、私之主不可頼之事、 一、諸寺家多数被立置間敷之事、 一、従薩州御判形無之商人不可有許容事、 一、琉球人買取日本人え渡間敷事、 一、年貢其外之公物、此中日本之奉行如置目、可被致取納之事、 一、閣三司官就別人可為停止之事、 一、押売押買可為停止之事、 一、喧嘩口論可令停止事、 一、町百姓等に被定置諸役之外、無理非道之儀懸る人あらば、到薩州鹿児 島可被致披露事、 一、従琉球他国え商船一切被遣間敷之事、 一、日本之京判升之外不可用之事、 一、博奕僻事有間敷之事、 右条々違反之輩有之者。速可処厳科之者也、仍下知如件、 慶長十六年辛亥九月十九日47 この十五条は九月十九日に樺山久高ら四人の家老によって連署された。以上 の内容から多くのことをまとめることができる。第一は薩摩が琉球側の通商権 と貿易権を統制する意図が見られる。島津の渡航許可証を持たない者を許容で       46上原兼善『島津氏の琉球侵略―もう一つの慶長の役―』榕樹書林(2009、P202)より引用。   47宮城栄昌『琉球の歴史』吉川弘文(1977、P106)より引用。  

參考文獻

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